はてなキーワード: ブルセラとは
ジュリアナ東京でトキオー!とか叫んでイケイケギャルがお立ち台の上を目指して行くのを見た辺りとブルセラショップがうんたらの辺りは結構混同してるな。ありがとうおっさん。
この頃は女子高生がブルセラショップなる店で自分のパンツとか売っていた気がする。この辺から確か援助交際とかに続いていっているのかもしれない。とにかく老若男女ブランド物しか目に入らない、ブランド物が手に入らないことは恥、春を売ってでも手に入れるべき、みたいな価値観は蔓延していた。
事実誤認。
ブルセラショップなるものの隆盛はバブル後。バブル期は性の対象にされるのは主に女子大生までで、女子高生はまだ子供時代を過ごすことが許されていた。
バブル崩壊後、90年代半ばになって社会が貧しくなり、親がリストラされる子供たちが続出し、援助交際とか言って売春に手を染める女子高生が増えた。これがその時代に東京で過ごしていた自分が目撃した世界。
今の40台位の人々は、バブル絶頂機を小学校高学年から中学生くらいの間に経験し、大学を出た辺りで超絶的な氷河期に入った、という経験をしている。俺もその中の一人だが、日本社会で印象的だったことをなんとなく懐古してみる。そして、今の時代の伏線は30年前にすでにはられていたのだな、というふうに感じた、ということも書いておきたい。
最近パソナの某がどうしたとかそういう企業による国民の搾取が問題になっていると思うんだが、「こうなるための準備は30年かけて着々とされてきた」ということだ。我々の親の代にはすべて始まっていた、と言ってもいいかもしれない。
まず、自分にとって最も印象的だったのは以下の2つだ。
1. 職業選択の自由アハハン
2. バイト探しが週二回
この2つを覚えている人は多いだろう。つまり、「なにか特定の仕事をやるんじゃなくていろんなこと片っ端から好きなようにやっていこうぜ」という社会的な機運づくりだ。たしかどちらもリクルートがやっていたと思う。リクルートは賄賂かなんかで大変なことになったという印象が強いのはこの辺のせいだと思う。
これまでは、一つの会社に新卒から定年まで勤め上げていく、ということが美徳であり、給料も年功序列、会社はアットホームだった。今でいうとどれも警戒されてしまう単語になっているのだが、この頃の会社は本当に一種の共同体として機能していた。バブルでお金に余裕があったからというのもあったとは思うが、この点は本当で、誰一人ここに疑問を持っていた人はいなかったと思う。
会社で運動会をやり、社員旅行があり、ゴルフ大会なんかもあったりと今では信じられないような状況だった。だが、同時に過労死であるとか、24時間働けますかとかの過剰労働が問題視され始めた時期でもある。
まだ、軍国主義の発想も強かった時代で、過労死した社員は2階級特進で部長待遇で退職したことにするみたいな、会社がそれに報いるとか、なんかそんなこともしていた気がする。この頃は俺は小学生だから、テレビで見た印象、ドラマで見たネタなんかも多分に混ざり込んでいるかもしれない。
タクシーなんかも無礼で、乗車拒否の嵐だったとか、彼女がほしかったらなんとかいうアクセサリーのゴールドを渡さないとだめとか、とにかく金、金、金、の社会だった。なんたら言うアクセサリーのシルバーだと女に「だっせ!どっかいけよ!」とか罵倒されていた。
この頃になると、あまりお金を持っていない男性たちはアッシー、メッシーとか言われて単なる移動手段や金づるにされていた。この辺りフェミニストの女性陣はどう思ってるんだろうか。とにかくひどいのだ。ある女性が彼氏とデートするので自分のことを好きらしい別の男性に長時間列に並ばせてチケットを買わせるとかそんなのをドラマでやれて問題視されない程度にはこのへん行き届いていた。
この頃は女子高生がブルセラショップなる店で自分のパンツとか売っていた気がする。この辺から確か援助交際とかに続いていっているのかもしれない。とにかく老若男女ブランド物しか目に入らない、ブランド物が手に入らないことは恥、春を売ってでも手に入れるべき、みたいな価値観は蔓延していた。この辺は今もづついているかもしれない。
新築マンションも棟の単位で10億円とかで売っていたし、ゴルフ会員権とかも何百万円で取引されていた。とにかく金が余って仕方ない、金を使わなくては、という時代だ。
今若者たちが努めている会社にいる50代60代はこういう社会で生きてきた人たちだということは肝に銘じたほうがいいかもしれない。
さて、バブル崩壊だ。バブル崩壊、という言葉自体は自分にはなんの印象もない。当時の経済状況をバブルと言っていた人はテレビには出ていなかったと思う。そもそもガキ過ぎてニュースを見ていなかったというのもあるだろうが。なんにしてもバブルが崩壊した直後に起きたのは「リストラ」だ。
この辺りで自分たちは家族だと言っていた企業が突然社員に牙を向き始めた。
いきなりやってきて「君クビね、さよなら」くらいカジュアルに社員をクビにし始めた。バブルで家を買ってローンもかなり高いものを組んでいた家庭の大黒柱がいきなり収入を断たれる、という状況だったのだが、社会としてそもそもリストラをきちんとルールにしていないので、とにかくやったもんがちだと言わんばかりにどの会社も社員をクビにし始めた。そして代わりに台頭したのが「職業選択の自由を謳歌していた人々」だ。
彼らはとにかく働いた。アルバイトを何個も掛け持ちして月収100万円なんていう人もいた。いつねてるのかはわからないが、バイトがとにかく儲かっていた。彼らは企業に雇われてしまうと自由がない、自由に職業を選べて好きなときに好きなだけ働けて、休みたければ休めばいい、こんな人生最高じゃないですか、というように言っていたが、彼らが今も息しているかはわからない。
バブル崩壊を契機に正規雇用から非正規雇用に企業は主軸を移し始めた。正規雇用はクビにしようとすると大変だが、非正規雇用は単に契約を打ち切れば終わる。正社員への登用をちらつかせることで企業は優位に立つこともできる。多分この辺は今も残っている。制度だけ残して給料は極限まで減らしているということでもありそうだが、移行期間というのは企業もお金を出すので、この頃はバイトは結構儲かった印象が強い。当時の経済状況でも時給800円くらいだったのだから、結構出していたと思う。考えてほしいんだが、携帯電話、インターネッとと言ったものは無いのだ。生活にかかるコストなんかそんなに高くなかったのだ。
同時に問題になったのは銀行の不良債権だ。バブルのときには土地の値段はとにかく上がっていくので、銀行も土地にどんどん融資をした。この辺金融機関としてリスク管理できていなさすぎだと思うんだが、とにかく金を貸した。例えば土地を買うので1億円貸したとする。この1億円はもはや回収できなくなった。なぜなら土地を売っても数千万円にしかならない。日本の不良債権問題は銀行がこの状況を受け入れてしまうとどの銀行も債権が取り返せなくなるのでどんどん倒産してしまう、というところにある。この頃になると俺もある程度ニュースを見たりするようになるので、なんとなくだが覚えている。
返してもらうこともできない、精算してしまった時点で大損確定する債権が大量にある、という状況だ。この辺りはよくわからないんだが、よくある含み益、含み損、と言うやつのことを言っていた。そして、債務者もお金を返せない。債務者は破産していき、債権者はどうしようもない債権ばかりが溜まっていく。そこで何が起きたか、国による救済だ。この不良債権に対して国は税金を注入して銀行を救ってしまった。資本主義の世界であれば、この辺は銀行の自己責任で倒産するのが正解だが、もしそうしたら、日本に銀行は一行も残らなくなってしまう可能性が高い。
銀行は金融庁による介入を受け入れて国は銀行を救済した。とはいえ、いくつかの銀行や証券会社は倒産してしまった。
このときに銀行は「もうこれで銀行は倒産しないことになった」という認識を得たかもしれない。国による救済というのは、ある意味で半分銀行を国営化するようなものだからだ。今後銀行が倒産すれば、国が損を被ることになる。そして熾烈な不良債権処理が開始された。
とにかく債務者から引っ剥がす。貸し剥がしというのが確かそれだ。銀行は自分たちが損したくないのでとにかく徹底的に国民から搾り取った。国民がどうなろうがお構いなしだ。少なくとも日本において債権者と債務者は全く公平ではないということがここに現れる。
ところでなんでこんなにひどいことになったのか、というはなしだ。どの国でもバブルが崩壊することはあるだろうが日本のそれはとにかく深刻だった。国が支配力を強めるためのシナリオでもあったのかと思うくらいにひどい。
おそらく当時の人々は何も考えないで借金して先物取引していたんだろう。借金と先物取引の組み合わせの極悪さは想像すればわかるだろうが、当時の人々はとにかく酔っていた。国はちっとも諌めなかった。
この辺は都市伝説だが、あるときにユダヤ系資本が急に日本から引いてしまったらしい。日本がアメリカの重要なものまで買い取り始めたからかもしれないとかいろいろ言われているが、俺の中にある投資に対する不信感はこの辺にあると思う。「ある時更に力を持つものが食い荒らすだけ食い荒らしていなくなってしまう」ということだ。
さて、このリストラが吹き荒れたことで企業は正規雇用を徹底的にダンシャリして非正規雇用に走った。就職氷河期というが、これは正規雇用を企業がひどく渋ったことによる。使い捨てのバイトがたくさんいたほうが企業としては助かる。だが、国民のメンタリティは社員になってなんぼ、というのが強かった。
更にこの頃になるとITも一般的になり、これまで10人でやった仕事が1人でできるくらいに合理化されていった。もはや人間はそれほど必要ない、という時代に突入したと言ってもいい。コンピュータならぶっ壊れるまで酷使しても違法じゃない。この大きく時代が変わるときにプログラミングが少しでもできた人は大いに特をした。20年後の今は結構苦しんでいるが。周囲が仕事のなさにあえいでいるときに適当な会社で仕事を手に入れることができた。多重請負地獄があるとも知らずに。
時代が変わるときは、大きく得する人と大きく損する人が出てくる。就職氷河期に仕事を見つけられなかった人々の現状はさんさんたる物だ。変な話だが、WORDとEXCELができれば仕事があったのだが、それを受け入れられなかった人(ここには仕事はEXCELカタカタやるもんじゃないという反発する人もいたかもしれない)との間で命運が別れたと言ってもいいかもしれない。
この頃になると、旦那の小遣いなんか0でもいいがそれだと死んでしまうから一日500円くらいは渋々許す(収入の殆どは旦那なのに!)という変な歪みが出てきたように記憶している。お金は子供の習い事や塾、そして、日々家事に忙しい奥様のたまの贅沢に主に使われるようになった。旦那は家に収入の100%を吸い取られるようになった。お金がない旦那似合わせて飲食店も値下げを始めた。ワンコインランチというのを出すようになった。
この辺は鶏と卵の話かもしれないんだが、男性が社会に還元するお金を持てなくなったこととデフレの開始は無関係ではないかもしれない。もうちょっと言うならば、お金の行き先が特定の業務に行くようになってしまい、ほかは旦那の少ない小遣いの獲得合戦になっていったように思える。
そして値下げ合戦が始まる。マクドナルドなんかは何でもかんでも100円とかで出すようになった。アルバイトたちが激務になることはお構いなしだ。値段を下げる、商品もしょぼくなる、デフレスパイラルの開始だ。
デフレスパイラルに入り、企業はお金が手に入らなくなった。手に入らないのだから給料も支払えない。年功序列型の給料をもらっていた中年層が今度は槍玉に挙げられた。日本ではリストラは絶対にできないと言われているが、実はできる。
こうしてみると、今の状況は変な話だがバブル崩壊から始まっていると思う。もっと言うなら明治時代から始まっているかもしれない。パソナの竹中平蔵に対するバッシングが最近すごいが彼の経済学者としての歩みを見ると、1990年くらいから始まっている。彼はおそらくバブル崩壊経済とそれが崩壊することの意味をわかっていたのかもしれない。
小泉内閣から急に出てきたように見えるが、実は小渕内閣の頃にはすでにいろいろやっている
びっくりするくらいブクマされてんのね。
よく調べてかけとか言う人々、嫌だよめんどくせえ。
はっきりいうと自分の記憶と印象だけで書いている文章だから、間違いや事実誤認、正確性の欠如、だらけだろうね。気になるならこの辺の正確な経緯でも書いてみてくれ。
90年代前半は「女子高生ブランド」が最高潮になった時代で、女子高生たちは自分自身の「価値」を知り、世のオヤジたちに提供する存在だった。オヤジたちはその女子高生たちに相応の対価で応え、ギブアンドテイクの関係性が出来上がっていた。
と、オヤジたちは思っていた。
ブルセラ、援助交際、ウリ、テレクラ。これらが週刊誌、ドラマ、マンガで繰り返し描かれることによって、「女子高生はそのように消費してもいい存在」「それによって金を稼ぐことを女子高生も望んでいる」「汚れた女たち」とオヤジたちは本気で思った。だからいきなり女子高生に声をかけて「3万でどう?」と言えたのだ。しかもそれで、けっこう成功した。追加で金がかかることは多かったろうが。
もちろん、そのような「価値の提供」をする女子高生はそんなに多くはなかった。当たり前だ。しかし、爆発的に「そういうイメージ」が浸透した。女子高生は清純かビッチか、どちらかしかいないような錯覚が生まれた。
そして、ウリやエンコーに応えるビッチな女子高生はそのまま性的対象になった。説教しながらセックスする対象になった。
一方、「今時珍しい」清純な女子高生もまた、そのまま性的対象になった。汚れた女どもの中で、この子は違う。そうして癒しのセックスの対象になった。
大分アバウトだが、このようにして「女子高生」というブランドが性の匂いと不可分になっていった。もちろん、それ以前から性的対象のカテゴリではあったが、一般にも決定的に浸透したのはこの時代だろう。
もはや「そういう子もいる」ではなく、「今時の女子高生はみんなやってる」と思われるほどに浸透した。痴漢やオヤジたちだけではなく、世の中の一般的な人々に、そういうイメージが知れ渡ったのだ。
なので、今更かつての女子高生に「あれは本当に嫌だった」と言われても、「持ちつ持たれつだったじゃないか」「お前たちも汚れた女だったじゃないか」という意識はどこかに残っている。だから本気で「すまなかった」という声はオヤジたちからは出てこない。釈然としない気持ちが残るからだ。
「だってお前ら高かったじゃん」と言いたいのだ。
「嫌だったかもしれないけど、その分こっちも懐痛めてたんだしさぁ」
「むしろお前らのほうが得してただろ?」
「俺を振ってオヤジと腰を振りやがったくせに」
そう言いたいわけだ。
もちろん、これは「女子高生を消費してもいい空気」が犯人なので、一部を除いて女子高生たちには責任はない。しかしこの「一部を除いて」と言わないといけないのがネックになる。それで金を稼いだ女子高生が確かに存在したことが問題をややこしくさせる。
オヤジどもが突くのはこの点だ。確かに金を得た女子高生はいたのだ。オヤジたちをあざ笑い、金を持って行った女子高生が存在した。
それがあるから、「本当に嫌だった」を素直に聞き入れられないのだ。
今でいうパパ活とは比較にならないほど広汎に「ヤレるイメージ」がついたのがあの時代だ。一度に動く金額は現代のほうが上だろうが、総額ではあの時代が圧倒的に上だろう。
ちょっと遊んでる風の女子高生には、必ず「ウリをやってる」という噂が立った。"清純"な女子高生が眼鏡をやめてコンタクトにしたりしたら、「オンナになった」とかささやかれた。
山本直樹のマンガ「Blue」の時代だ。そういう空気感だった。
なので、「当時の遊んでる女子高生像」がどうしても頭から離れない。
90年代前半の女子高生は下劣なオヤジとギブアンドテイクの関係だった、と、オヤジたちは思っていたから、女子高生の消費が止まらなかったということは言えるだろう。
ただ電車に乗っているだけで痴漢にあい、服を切り裂かれ、日常の中で脅威にさらされた女子高生たちは大変気の毒な時代だった。
なぜそのような目にあったかと言えば、「世間が女子高生をそのように扱ったから」としか言えないような気がする。
俺自身も、当時付き合っていた彼女がエンコーしていた事実があった。今でいえば脳が破壊されるというやつだ。
そういう経験もあって、正直なところ、心のどこかでかつての女子高生に同情ができない気持ちがある。申し訳ない。
ともあれ、まぁ、「あの時代」はこんなもんだったんじゃねーかなということを書いてみた。
会場で香水をつけたワイシャツを嗅ぐの、悪ノリし過ぎっていうかやりすぎじゃないですか?
この香水が同人グッツだったらこの売り方で全然OKだし考えた人天才かwって思ったと思う。
推しの匂いのワイシャツなんて嗅ぎたいに決まってる(なぜならオタクなので)。
私は腐女子なので推しCPのキャラの香水を両方使って攻め(もしくは受け)の香りが
移った受け(もしくは攻め)のワイシャツを作るもの萌えるなーって思う。
夢女子の方はオーバーサイズのシャツにつけて「彼シャツ」やベッドリネンにつけて
「彼のベッド」を楽しむのもいいんじゃないかなー。
でもさ、それは家でやるよ。家でやろうよ。
「お前がエロい目で見てるから変に感じるんだろ?」とも思うんだけどさ、
男子高校生のキャラのワイシャツってさ、制服をイメージするじゃん。
それを公式の場で色んな人が嗅ぐのアウトじゃね?痴漢プレイかよ。
キャラクター達が女の子だったらって考えるとこのモヤモヤは嫌悪感なんだろうなと思う。
スポーツ(じゃなくても良いけど)に打ち込む女子高校生達の漫画があって、
そのキャラクター達をイメージした香水が販売される(ここまでは全然OK)。
でさ、香水とシャツと一緒にキャラクターの全身絵とプロフィールが飾られてるんだよ?
なんかさキャラクター達が公式の場で辱められてるみたいで嫌だよー。
公式の売り場ではあくまで香水(化粧品)として売って欲しいんだよ。
エログッツみたいにしないで欲しい(買う側はエロいことを考えていたとしても)。
今回の商品はエロ目的の商品じゃないならそういう売り方は相応しくないんじゃない?ってこと。
ワイシャツにかけて嗅ごうが、パンツにかけて嗅ごうが、フィギュアやぬいにかけて嗅ごうが自由だよ。
ワイシャツじゃなくてさハンカチとかタオルだったらここまでモヤっとしなかったかも。
坂道くんはキャラもののハンカチ、今泉くんはアイロンがしっかりあてられたブランドのハンカチ、
鳴子くんのは真っ赤で派手なんだけどちょっとくしゃっとしてるとかさ・・・
でもまあそれも家でやるから、ムエットだけで十分かな
あとキャラクターが少年誌作品の未成年なのもモヤっとするポイントかも。
原作がアダルト作品だったり、成人でセクシーなキャラ(冴羽獠とか峰不二子とか?例えが古い)
ならワイシャツ(あるいは下着でも)私はそんなに嫌じゃない(ゾーニングは必要)。
この辺の線引きは個人によってだいぶ違うと思う。自分自身でも数年後は違う考えをしている可能性が高い。
自分が大人になって、大人が未成年と恋愛するお話とかも単純に楽しめなくなってきたのとも関係ありそう。
架空のキャラクターと実際の未成年を混同したモンスタークレームなのかなこれ。
でもさ、オレたちオタクは架空の物語の架空のキャラクターを愛してるじゃん?
公式商品の売り場は作品とキャラクターに愛とリスペクトが欲しいんだよ。
キャラのワイシャツを公式の場所で嗅ぐのは愛はあるかもしれないけどリスペクトに欠けるように思う。
私はそう感じるよ。
あの展示をを考えて作って下さった方たちは、もちろん作品やキャラクターを貶めるつもりなんてなくて、
ファンに喜んでもらいたくて作って下さっていると思う。
批判的なことを書いておいてあれだけど白状するとワイシャツのサイズわかるの嬉しかった。
きっと「腐女子のつづ井さん」のつづ井さんと友人たちみたいに
楽しく真剣にワイシャツサイズを検討して下さったんじゃないかな。
でも私はやっぱり、つづ井さん達みたいにそーゆーのは家でやろうって結論になっちゃう。
最初に書いた通り私は腐女子なので推しのエロい同人誌をしこたま持ってる
(冴羽獠を例に出すくらいだ、もちろん成人済みだ)。
自分だってキャラのエロを楽しんでおいて、公式がエロ?フェティッシュ?寄りなことをすることで
これは自分に都合よく考えているダブルスタンダードなんだろうか?
書き出したら思ったより長くなっちゃったな。
こんなまとまりの無い文章を読んでくれた方がもしいるならありがとうございました。
初めて投稿する。
誰かに読んでいただくことを意識しながら書こうとすると、どうもちぐはぐな文章になってしまう。
そこで、いつもの紙の日記に書くかのように、独り言を発するかのように、書いていくこととする。
***
いや、今もまだ、受け入れ度合いは7割くらいで、
残り3割くらいは、「制服好きなんてキモい」「人に言えない趣味」「むっつりスケベ」なんて思ってしまう。
しかし、もしも将来、自分が娘を授かったら、これは懸念ではないか。
まさか我が娘に対して、いやらしい目線を向けてしまうのではないか。
まだ結婚もしていないというのに、杞憂に終わるかもしれないことを、気にしている自分がいる。
何を言いたいのかというと、
私はごく自然な人生を送ることを難しく感じるときがあるのである。
そんな目線を向けたくもないのだが、どうやら私の脳は、
女子高生の制服が、性的興奮の起動スイッチになっているようなのだ。
この10年の間に、ありとあらゆる角度から、自分のこの性質について、
私は、女子高生の制服そのものに性的興奮を覚える、ということが分かった。
だから、私服姿や体操着姿、ジャージ姿の女子高生では、あまり反応しない。
実は中身が男でも、高校の女子制服を着ていれば、ドキドキする気持ちがあることを確認した。
でも、だからといって、イメクラに行くとか、ブルセラ買うとか、メルカリで注文するとか、
そういうことはしない。
そういう人生には、したくないのだ。
いそいそと夜中に、女子高生とかjkとかを検索ワードに入れて、
「女子高生の制服が好き」という自分を認められていないと、虚無感に襲われる。
いわゆる街撮りという、女子高生の制服そのものに焦点を当てた画像サイトも好きだ。
不覚にも見てしまうと同じく興奮するのは悔しいのだが、
もし実際に駅のエスカレーターなどで盗撮しようとしている輩を発見した時には、
女子高生の制服フェチと、脚フェチ(靴フェチ、においフェチ含む)である。
女子高生の制服フェチは、おそらく私の生い立ちが関係している。
接点を作る努力を怠った、とも言えるが、
中高を共学で過ごした人は、女子との接点を作る努力など、そもそもする必要がない。
なぜ私は、一度きりの人生の中で、共学高校生活を経験すらさせてもらえなかったのか、と。
もう1つ、脚フェチについて。
女子の素足のにおいを嗅ぐのが好きだった。机の下に入って、女子の脚を見るのが好きだった。
小学校に上がってからも、女子のちょっと汚れた感じの上履きが好きだった。
ここに、女子高生の制服フェチが重なると、紺ソとローファーに強烈な性的興奮を覚えるのは頷ける。
紺ソ、ローファースタイルにスーツを着て、普通に仕事をしているときもあった。
ふざけ半分ではなく、真面目に捉えて、悩んでいる男性は、
私の、10年間の考察結果を、この日記で(これ、増田って言うんですね!)、
共有していきたいと思っている。
ところで、議論を混乱させるもう一つの問題として、アファーマティブ・アクションの話と、男女同権が達成されたその後の世界の話を混ぜて話している人がいるように見受けられる。たとえば、「必然性なく女性のみをアイキャッチ的に使うべからず」というのは、過渡期における一種のアファーマティブ・アクションとしては、一定の妥当性を持つと考える。一方で、真に差別が解決した世界では、そのような配慮は逆に不要になるかもしれない。たとえば、「必然性なくA型の人のみをアイキャッチ的に使うべからず」というガイドラインは、馬鹿げている。そもそも血液型など誰も気にしていないからだ。性別の問題も、真に男女差別がなくなった世界では、最終的にはそこに行き着くのかもしれない。類似の例として、アメリカなどでは、商品パッケージに人物を複数掲載する場合、人種の割り振りに対して神経質になるところがある。これは、特定の人種のみをアイキャッチに使う場合、人種差別を助長しているとみなされる可能性があるからだ。現在ガイドラインとして策定されているこのようなルールが、既存の不平等を是正するための措置であるという事実を無視して議論を展開することは、好ましい姿勢とは言えない。また、このようなガイドラインを「女性をアイキャッチに使うべからず」と極端な方向に誤読したり、「男性をアイキャッチ的に使用するのはいいのか」と、誤読を元にしたミラーリングを行うことは避けなければならない。
このようなアファーマティブ・アクションそれ自体が不公平あるいは不正義であり、そもそも認めない、という姿勢はあり得るかもしれない。また、単純に過度な配慮は不要であるという意見もあり得る。例えば、過去に発生したNHKにおけるキズナアイ騒動や人工知能学会誌の議論では、性的役割の固定に対する議論が行われたが、性的役割の是正を求める批判派(アファーマティブ・アクション派といえるだろう)、とそこまでの配慮は必要ない、あるいは(その後の世界では)むしろそのような配慮こそが差別である、とする擁護派の間で、意見の対立が見られた。個人的には、この2つの個別の事例に対しては、過度の配慮であると考えている。一方で、批判派の言いたいことも理解できるので、批判自体には問題がないと考えているし、耳を傾けるべき指摘であろう。なお、特にキズナアイ騒動については異なる論点もあったようだが、その点についてはここでは議論しない。
議論の多くは、おそらく件のポスターが性的、あるいは過度に性的かどうかに帰着するように思われる。そして、この点について、両陣営の合意は、ほぼ得られていない。
擁護派の多くは、件のポスターは性的ではない、あるいは性的な要素はあるとしても、問題になるほどには過度に性的ではないと考えている。一方で、批判派の多くは、乳袋や表情を理由として、ポスターは過度に性的であると見なしている。ポスターが過度に性的であると認められた場合、女性差別につながる表現であり、セクハラにもなるかもしれない。一方で、そもそも性的でないのであれば、セクハラにも女性差別にもならないだろう。
巨乳それ自体がいけないわけがない。また、ごく一部の過激派を除いて、大多数のポスター批判派も巨乳自体への攻撃はしていないように見受けられる。この点を議論するのはあまり意味がないし、ごく一部の過激派の意見のみを根拠に、相手陣営全体に対して「差別主義者」といったラベル付けを行うのは、誠実な姿勢とは言えないだろう。
これは全員にとって非常にクリティカルな指摘である。正直なところ、私自身も自分の認識が社会の平均と合致しているかどうかの自信がない。ポスター擁護派のうち、オタクを自認する人たちの意見が気になるところである。
例えば、「ビキニアーマー」は恐らく今となっては性的な表現のように思われる。肌に密着した黒タイツはどうだろうか。乳袋も本当にセーフなのだろうか。境界線は自分の中でもあやふやである。セーフな気もするし、性的な気もする。あるいら性的な要素はあると認めたとしても、過度に性的かどうかと言われると、過度ではなさそうか。みなさんはどうだろうか。
何を性的と見なすか、あるいは、何を過度に性的と見なすか、は個人どころか社会においてもあやふやであり、時代の変化にしたがって変化してく。
ポスター批判派は、(仮に今現在は認められていたとしても)今後このような表現は社会的に許されなくなり、状況は是正されていくべきだと考えている。これは、過去には普通に存在していた、水着の女性が(無意味に)アイキャッチとして使われていたビールのポスターが、近年ではほぼ絶滅した経緯と相似形である。
一方で、私は別の未来も想像している。それは、このような表現が、むしろ緩く認められる社会になるのではないかということだ。近年すでに指摘されている通り、「オタク」自体が一般化しているらしい。それに伴って、乳袋のような表現に過度の性的な要素を見出す層が減っていく可能性がある。言うなれば乳袋ネイティブ世代の誕生である。こうなった場合、乳袋は広く認められた表現になる可能性がある。
宇崎ちゃんは性的であるが、ワンピースのナミやセーラームーンは性的でない、という意見が見受けられる。これはポスター批判派からも出ている意見で、ナミは性的ではないという意見が見受けられた。
ポスター擁護派は、ナミも宇崎ちゃんもどちらもが乳袋を表現として用いていることから、仮に宇崎ちゃんが性的なのであれば、ナミも同じく性的であり、ナミを公共の場で用いることは認めら得るべきではないと考えている。同じくして、ナミを認めるのであれば、宇崎ちゃんも認められないと一貫性が失われると指摘する。
ここで興味深いのが、ポスター批判派の中でも、この点については意見が別れているということだ。これは、ポスター批判派が用いている「性的な表現に無自覚になっている」人々というのが、ポスター批判派の中にも存在するという事を意味しているように思われる。ワンピースは非常に歴史がある作品であり、オタクだけでなく、社会的にある程度の知名度を持って受け入れられている。好きな漫画といえばワンピースという人も多い。そのため、本来は過度に性的な表現を持ち合わせているはずのナミも、ワンピースという作品と共に社会に受け入れられてしまっている。ポスターに対して批判的であるが、ナミについては認められるという人は、乳袋ネイティブ世代に染まりつつあるといえる。私自身は、もし宇崎ちゃんのポスターが「乳袋は女性を性的に消費する表現である」として認められないのであれば、たとえナミであろうと、乳袋は許されないという姿勢を維持するべきであると考えている。ここで一貫性が崩れてしまうと、「(過度に)性的な表現」の定義が非常に困難になってしまうため、合意が得られにくい。「ナミは(見慣れているから|みんな好きだから|明るいから|強い女性だから)セーフ」という話になってしまった場合、個人の「お気持ち」と揶揄されるのは避けられないだろう。
セーラームーンについてはどうだろうか。すでに指摘されている通り、セーラームーンも公開当初はブルセラを想起させるであるとか、露出が多いであるとか、性的な表現についての批判が女性からもあったようだ。現在では市民権を獲得しているため、このような批判が行われることはまず見かけないが、たしかに絵面だけ見た場合、肌の露出は大きい。セーラームーンを使用した表現が公の場で許されるとしたら、なにが理由だろうか。
ポスター批判派からは、男性からの人気を得るために胸が強調された(宇崎ちゃん|ナミ)に対して、女性が良いと思う服装を女性に着せただけのセーラームーンは、性的消費には当たらないという説が挙げられている。これは、一理あるように思われる。セーラームーンは単に綺麗だったりかわいい格好をしているだけで、それを性的と見なすのは、見る方に問題がある、という考え方になる。韋駄天の例では、靴下を脱いだだけなのに、勝手にそれを性的と見なす男性陣によって問題が発生していたが、セーラームーンも同型だと言えるだろう。人には好きな格好をする権利があるのだから、女性がどのような格好をしても、他人にどうこう言われるのは好ましくない、というのは理解できる。
ここで、本人が望む格好は、どこまでなら許容されるべきであろうか、という議論がある。仮に、ある女性が自分にとっては裸がもっとも自然であると考えた場合、その女性を公の場に掲示されるポスターに使用することは妥当であろうか。そして、その裸のポスターを過度に性的であると誰かが見なす場合、それは見る側の問題であろうか。これは、冗談ではなくて、例えばヌーディストビーチの議論においては、既に似たような議論が起こっている。現在の日本において、恐らく多くの人は、裸の女性の写真を公の場に掲示することは、本人の意志はどうであれ、過度に性的であると見なすであろう。裸は極端としても、例えば胸の谷間が強調された服装はどうだろうか。このような服装を自発的に好む女性は存在するが、公共の場でポスターに使用することは適当であろうか。もし、そのような服装は適当でないと考える場合、あるポスターを評価する上で、本人の意思は、具体的な表現に劣後すると言えるのではないだろうか。つまり、本人が望んでいようとも、性的なものは性的であると見なされるということである。
ところで、海外の識者に宇崎ちゃんのポスターを見せたところ、ネガティブな反応があった、という情報がある。ここで、気になるのが、同じ人物にナミやセーラームーンのポスターを見せた場合、どのような反応があるか、である。宇崎ちゃんに対して否定的な反応がある場合、ナミやセーラームーンに対しても、これらの作品を知らない人からは同様の反応が帰ってくる可能性が、それなりに高いのではないだろうか。セーラームーンも、背景情報がなければ、過度に肌の露出が多い若い女性をアイキャッチに使っているだけのポスターに見える可能性がある。漫画やアニメに馴染みのない人たちにとっては、ナミも宇崎ちゃんもセーラームーンもどんぐりの背比べに映るのではないだろうか。そのような人にとって、セーラームーンを許容するあなたは「性的な表現に無自覚」であると見なされるかもしれない。
こういった観点を踏まえた場合、本人の気持ちや、背景情報といったものは、表現が性的であるかどうかを判断する上では、必ずしも重要な要素ではない、と考えることは可能である。「勝手に性的に見ている」という見方もできるが、多かれ少なかれ、だれもが自分の中の基準をもとに、ある表現が性的かどうかを判断している。そのため、「勝手に性的に見ている」こと自体を悪とする言説は、筋が悪いであろう。これは何も男女間にだけ発生するわけではなくて、世代間や宗教間にも発生する。そうであるならば、性的な表現の基準を考える上では、本人の意志や背景の文脈を考慮するよりも、物理的な要素(肌の露出度など)を用いるのが妥当である、という見方もできる。
セーラー服ってコンセプト自体ブルセラ需要が高まるなか男性編集者の意見で生まれたわけであいつら誰がどう見ても男の性欲を満たす格好してるだろ
案の定アニメは男にバカ受けして娘を持つ母親たちが眉をひそめた作品に何言ってるんだ
昔の嫌われてたクレしんと並んで親が子供に見せたくないアニメだったんだぞ
それこそ「宇崎と同じ」だよ
まだ緩かった当時の地上波ではエロいアニメだとさんざん紹介されて世間もそういう認識だった
お父さんは子供の面倒見るふりして一緒にセーラームーン見とけばエロいもん見れますよって
あなたの言う通りならそういう環境で育った女性は価値観が歪むんだよね