はてなキーワード: ハイヤーとは
23区内でタクシーを呼ぶときはフルクル https://www.fulcul.com/ を使っている。
使い方は簡単で、タクシーを呼びたい場所でアプリを立ち上げてスマホを振るだけ。
こうすると、タクシーの運転手側にはフルクルが使われた位置だけ伝わる。で、タクシーの運転手はその場所に行ってもいいし、行かなくてもいい。
フルクルを使った乗客側も、フルクルで呼ばれたタクシーに絶対乗らなきゃいけないわけじゃない。たまたま直ぐに近くを通りがかったタクシーに乗ってもいい。
それで乗客側も運転手側も、拾えても拾えなくてもお互い文句なしだったりする。
つまり、予約アプリとは全然違うアプローチの、タクシーの運転手と乗客をゆるーくつなぐアプリってこと。
海外でタクシーに乗るときは言葉が通じなくても問題ないUber一択だけど、国内でタクシーを呼ぶならフルクルしか使わない。
迎車を予約するアプリじゃないから迎車料もかからないし、予約したタクシーを待たなくてもいいし、これで捕まえたタクシーの運転手さんに聞いても、お客さんを絶対に拾わないといけないわけじゃないから気楽でいいという話しか聞かない。
ちなみに、日本国内でUberを頼むと、いわゆる白タクしか捕まらないらしく、ハイヤーが来たりした。これはこれで楽しいけどちょっと気がひけるのでやっぱりフルクルがいいよ。
取り敢えず、私の批判内容を見たい人は「第一章」でページ内検索して飛んで欲しい。
結論だけ確認したいなら、「第三章」でページ内検索をして飛んで欲しい。
そしてやたら上から目線になると思う。
何故かって?ごめんなさい、理由は伏せさせてもらいます。失礼に当たるから。
正直、資本主義や技術崇拝といった思想を持ってる人間からすると、そういう人間がいて本当に嬉しいし今後もそのままで居てほしいからこの記事を読んで欲しくない。貧乏がいるから金持ちがいるのです。
さて、おそらく「上から目線」で「主語を大きく」私が考えてる事・持論を「長文」で投稿するだけでだいたいの人は読まなくなるでしょう。既に閉じたくなったでしょう!!
では、何故書くのかって?それはSNSやネット上の記事を見ていて腹が立ったわけで、それを誰かに伝えたかったからです。度を過ぎた目障りだった。
なお、これを読めば、「サイズ感が合わないから買わない」っていってるやつが、なぜ二度とApple製品を買ってはいけないのか分かるでしょう。そしてiPhone5などを買ったことがあるなら、そのおこないが過ちだったかわかるでしょう。
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まず「iPhoneXsやXrはデカい」「iPhoneSEが一番片手で使いやすいサイズ」は理解出来るし、同意できる。
しかし、そこから「サイズ感が合わないから買わない」という意見や「Appleは需要を分かっていない」という批判に発展するってのは頭の出来を疑います。
「iPhoneXsやXrはデカい」「iPhoneSEが一番片手で使いやすいサイズ」というのが同意できる事には理由がある。その理由は、「片手で使うサイズではないため」だ。
そう、Apple信者の一人である自分ですら、完全にそこは同意できる。iPhoneXをはじめとする新製品には、画面を下に4割ぐらい下げる機能「簡易アクセス」がある。それは一時的なもので「片手で使うサイズ」ではないことは確かです。
では、なぜ「iPhoneXsやXrはデカい」から「サイズ感が合わないから買わない」に繋がらないというかは次の第二章を見て欲しい。
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「iPhoneXsやXrはデカい」から「サイズ感が合わないから買わない」に繋がる意見をいってるやつ対して頭の出来を疑ってる理由を述べる。
まずざっくり言うと、AppleはデカくてiPhoneを落としちゃう利用シーンを考えていないことが、Apple製品から察して欲しい。
なぜならば、ちょっと画面見るためならばAppleWatch使えば良いし、音楽聴きたいならAppleWatchとAirPodsを使えばiPhoneを操作せずに再生できるし、iPadで書いたメモや図をiCloudで同期しMacで続きを進めるという、複数の製品を組み合わせて使うことを想定してるからだ。
それが何を意味しているかというと、「貧乏人やAppleに対する信仰心の足りない人間を相手にしないという意味」だ。
まず、iPhoneは10万/AppleWatchは5万/AirPodsは2万/Macは10万/iPadは10万/を足し算すると「37万」です。適当に税金つけたりして40万としましょう。そしてその40万のサイクルは1年から3年です。
そしてこの40万が高いと感じる人間は貧乏人やAppleに対する信仰心が足りない人間ということです。
では、なぜ「AppleはデカくてiPhoneを落としちゃう利用シーンを考えていない」と察しろと言ったかというと、上記40万を完全に揃えた状態で「iPhoneを落としそう」な状況というのは意外と少ない。お外で立ちながら片手に荷物をもってiPhoneを使いたいシーンとか、電車でつり革に捕まりながら使うとかです。
さて、更に言いますが、上で述べてる40万は最低ラインです。ゲームの最低動作スペックと推奨スペックに違いがあるように、40万は最低ラインです。最低ラインで常時FPS60でるんですかね?笑
その理由を述べる。
まず、Macは持ち歩けるMac book や Mac Book Pro と家で使うiMacと分けるべきです。つまり、10万で買えるのはMac bookやmac miniなので、家で使うならばiMacを買うべきである。(mac miniを選んだらMacbookやPro。)さて、iMacの想定価格は適当に25万としましょう。次に、iPadにはApplePencilを使うとすらすらと書けて仕事がはかどりますし使って行きたいですね1万追加です。(絵師入門KITとしても優秀ですね!)
さてだいたい26万が追加されます。ざっくりと30万が追加された値段としましょう。
つまり、70万が1年から3年サイクルでAppleに支払える人間をターゲットとしてる。
年収300万としたら70万はとても大きいですね?年収700万であればあんまり大きくない気がしますね。1400万であればさらに70万は小さいですね。(税金があるので実際はその2倍ぐらいは欲しいところですが)
つまり、この70万を支払える人間というのは高給取りとなります。
高給取りとなって都内に住めば、都内に住んでいる場合はタクシーを使ったり、なるべく満員電車に乗らないようにしたりという工夫をするでしょう。
つまり、タクシーやハイヤーを使うのであれば満員電車で片手で使う必要が減ります。車に座りながら荷物は横において両手で使えばいいのですから。
以上により、Appleは電車で20分とか30分ならタクシーや車を使うような人がターゲットです。壊れたら買いなおせばいいし、iPhoneでApplePencilを使いたがらずにデカデカと書けるiPad買えばいいじゃんという話でもあります。
つまり、Appleは「iPhoneを単体で利用することを考えてない」「Appleは貧乏人は大切にしない」「Appleは金持ちが満足する製品展開をしてる」ということがわかります。
では、この章の始めにいった「「iPhoneXsやXrはデカい」から「サイズ感が合わないから買わない」に繋がる意見をいってるやつに対して頭の出来を疑ってる」という意見の理由に繋げると、ココまでの思考が時間があるにも関わらずできていない気がするためです。
次の章では、第一章で述べた「二度とApple製品を買ってはいけないのか分かるでしょう。そしてiPhone5などを買ったことがあるなら、その買ったことが過ちだったかわかるでしょう。」って事に関してきちんと理由を述べます。
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iPhone5sを買った時点でAppleの戦略に加担してきています。だってブランド力を付ける、利用者数を増やすということに加担してしまっているのだから。
AppleはAppStoreに上がってるアプリの品質(不具合が発生するレベルやUIの質)を一定レベル以上を常に保っています。そうすることにより、ブランド力が高まるためです。
また、金持ちと貧乏人を含めた多くの人々が憧れるものを持つのがステータスと金持ちは考えます。その憧れる理由の代表には「製品として質が高い」や「ブランド力」といった理由が含まれています。
つまり、新しいiPhoneを買えない貧乏人はただの引き立て役でしかありません。
無課金勢がソシャゲで大切にされる理由に近いです。無課金勢が多いからこそ重課金勢が楽しめるという考え方が数年前の流行りましたね。
貧乏人は既に「欲しいけど買えない」というブランドイメージを付けることを、より一層高めるための人間になっているのです。また金持ちは「欲しいけど買えないものを買えちゃう」というステータスを誇示できて、より憧れに繋げさせてしまってるのです。
第二章までで、「サイズが合わないから買わない」というのは、考えが浅い的なことをいいました。また遠回しではありますが、サイズが合わないから買わないという意見は、いくつもあるApple製品の中でiPhoneしか買わないというポージングでもあると暗示したつもりでもありました。
iPhoneしか買わないということは、Appleのサービスを完全に受けられない状態でもあります。つまり、コスパが悪い状態。サービスに対してではなく、単純に持つことにたいして価値を感じてる状態でもあります。
第三章では、ブランド力や憧れといった点に重点を置いてかきました。
日本においては憧れの他に「みんなが持ってるから持ちたい」という感情も少なからず働きます。憧れのアイドルが持ってるから使いたいという感情もあるでしょう。そういう数多ある理由のどこかにiPhoneしか使わないはずの人間が加担してしまっているのです。
第三章の〆として、iPhoneしか使わない場合は、ブランド力を高めて、より一層Appleが力を付けることに加担していると、Appleは目標に向かって歩むでしょう。つまり、理想に向けての動きを加速させるという事を言いました。(iPhoneを考えなしに、評価し、購入した過去は過ちだと思いませんか?)
次章の余談では、私がAppleの信者である理由について書きます。(ダイヨンショウだけにヨダン なんちゃって…)
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本文章のハジメに私は「資本主義や技術崇拝といった思想を持ってる」と言いました。
より具体的に言うと、オルタ右翼で新反動主義、実力主義です。知能がある者ほど、人々のまとめ役となるべきと考えてます。例えばスティーブ・ジョブズが生きてれば国王の都市国家(株式国家!)があったらなとか思ってしまうわけです。ひいてはそんな世界に命をかけて自身の都市国家を作れたらなって本気で思ってるわけです。早死にしたとしても。
さて、その思想を持つ私はAppleに対して以下感情を抱いています。
「Appleは知能が低いものを捨てる姿勢を貫いてる」「自身の目標や理想に対して実に頭の良い策略で手を打ってる」「Appleはそのことを表に出さない」「Appleは理想を描くがその実現力をもってる」と考え憧れを感じてます。
普段、私たちが感情的に捨てられないものを捨てる姿勢すら感じれます。その真意を伏せて。
これ、恐怖心すら出るレベルで格好良くないですか? 憧れを感じませんか?
店までの道中を贅沢にしたらどうだろう、ハイヤーとか
ディーセントなマーケティングが「自分軸」でできない人は劣っているとか
プロ品質の歳して合意形成できないなんて人格的にマターがありますし、将来性もありますとか
そんなことコミットメントしてないってわかってイノベーションを起こしているのに
「新たな価値観を生み出す自分は恋愛もできないし、したことない劣った意識の高いやつだ」というオンスケがぬぐえない
ドライブ、まずは些細な挨拶から逃げ出そうとマーケティングしようとしてステイしているし
一種の劣等感があるからハンダルクまでもディーセントな恋愛ができないと言っても過言ではない気がする
世界を知らないまま現在のブロックチェーンにハイヤーを縛られたコンバージョン
ペイにもなれずに
締め切ってしまいそうとも考えらえるで圧倒的に成長したい
今から20年ほど前の1990年代であれば、街中セダンタイプの車ばかり走っていたよね。
カローラ、カリーナ、コロナ、スカイライン、クラウン、マジェスタ、セルシオ・・・。まだ思いつく。
あれから20年が経過したけど、道路にはセダンタイプの車をほとんど見なくなってしまった。
セダンタイプの車を見なくなった代わりに、ミニバンやハイブリットカー、電気自動車のリーフ、軽自動車ばかりが走り回っている。昔は軽自動車に乗っているというだけで恥ずかしい、という風潮だったけど、今はそんな風潮は完全に無くなった。
別にアルファードやプリウスの車も格好いいとは思うけど、セダンタイプのような格好よさではないんだよね。
まあ、セダンタイプの車も全く無くなったわけではない。警察のパトカーや自動車教習所の教習車、タクシー、ハイヤーはまだセダンタイプの車を見かける。
近所に自動車教習所があるんだけど、最近になってトヨタのカローラ・アクシオという新型のセダンカーが30台ばかり納入された。半分がATで、もう半分がMT仕様になっている。今時、MTのセダンなんて久しぶりに見た気がする。
普段は、街中でミニバンや軽乗用車ばかり見慣れているから、その新型のセダンばかりが並んでいる教習所内がすごく新鮮な世界に見えたわけだよ。
逆に言えば、そういった事業用の車の世界でしか、セダンタイプの車は生き残ることができないということなのか。警察やタクシー業界なども、今までずっとセダンタイプの車を使い続けてきたのが「伝統」になってきているから、今更変えられないのかもしれない。・・・アルファードのパトカーがあったとしても、犯罪者や暴走族にバカにされそうだし。
パトカーに採用されているトヨタの最新型クラウンをよく見かけるけど、ミニバンや軽自動車に駆逐されているとはいえ、セダンカーのデザインだってしっかりと進化している。おそらく、2010年代のクラウンのデザインは、歴代クラウンの中で一番洗練されているのではないか。
めったにある機会ではないけれど、大人になってからグリーン車や黒塗りのハイヤーに乗ったことがあるんだけど、なにが驚いたって、長時間乗った時の疲労度が全然ちがう。
こりゃ、金持ちやお偉いさんが乗りたがるわけだと思った。
移動で疲労するなんて、ムダなことはしないで、政治のために疲労困憊してほしい。
政治家が庶民=国民が何を考えているか全くわからないのでは困るが、それは分かってればいい話だ。
庶民感覚とあまりに乖離してちゃこまるが、別に生活まで庶民と一緒である必要なんかない。
ま、極上のスイートルームは必要ないかもしれないけれど、ちゃんとしたベッドのあるちゃんとしたホテルで、ちゃんと休息してほしい。
選挙で落とすべきは「グリーン車や黒塗りに乗ってる政治家」じゃなくて、「グリーン車や黒塗りにのってるくせに、大した仕事をしてない政治家」だと思う。
浪費癖は、ローマ皇帝カリギュラを筆頭に歴史を掘ればザクザク出て来る悪癖ではあるもののだよ。
溶かし尽くす感じではない。
で、絶対的な基準としての「浪費」ってのはすんごく少ないと思うのよ。
イーロン・マスクが使う適正な交通費と、栃木の一般的な男子中学生の使う適正な交通費は違うよな。
でも、中学生でもプロ選手がハイヤー雇って会場まで移動したって、浪費とは言うまい。
「その財政で」「オマエの立場で」「それは浪費だ」という3段オチのハズ。
で、そっから考えると、浪費家を見分けるのにサイゼリヤに行こうってのは、まずワードが悪い。
サイゼリヤが浪費って視点がまず無い。外食とかなんという浪費!みたいな。
5000円のランチだけどこりゃトンデモなくお得だ!みたいなフレンチもあるわけで。
だからこれは「価値観が合うか見分けるのにサイゼリヤに行く」じゃなきゃイカンわけだ。
そうすると、「ん?サイゼリヤがオレの価値観なの?」みたいな疑問がでてくるだろ。
マクドナルドがスンゲー好きなのに、相手がポテトを親の敵みたいに憎んでたら、
そりゃちょっと話し合いが必要な気がする。お互い歩み寄ろう的な。
奢るだのワリカンだのデートの行き先は一緒に決めるだの相手を試すだのとは全く別次元で、
まず大前提として「金銭面の価値観が合うかどうか知りたい」という欲求があるのであれば、
それは「相手が浪費家かどうか確認する」とは違うもんだよな、という話。
二郎ラーメン連れてくんでもゴア映画観るんでも夏フェス行くんでもオンナジだと思うわけよ。
なんじ試すことなかれという話でもない。
オノレの価値観と、カレシカノジョの価値観、果たして近いだろうか遠いだろうか。
そういう話じゃないのかい?というな。
鼻息荒くBlu-ray BOXを買う算段たててるなら、まずソレを相手に聞くところじゃないのかい?という。
良いんだよマスターグレードのΖガンダム積んだって。捨てられたくないだろソレ。
Nintendo switch買うんだって、人によっちゃずいぶんな浪費に見えるわけで。
「オレには無駄遣いに見えるカネの使い方が無いかチェックしたい」って
ずいぶんと高いところから身勝手な査定すすめてんなって思われるから炎上したんだと思うワケよ。
価値観の違いを「相手の金遣い」だけ確認して「ヨシヨシ慎ましやか」とか考えてると
「貴方のそのNゲージって、いっぱい買ってて浪費よね?」って言われて面食らったりするのよ。
「オレの金遣い的にカノジョとのデートでメシを食うのはサイゼリヤだけど、どう?」って主張に見えると
浪費家かどうかとは全く無関係に、自らのスタンスを相手に投げかけているように見えると思うなあ。
魂は新しいも古いもなくて生まれたり死んだりするものじゃないと思う。
数も量も単位をつけて具体的に数えることは出来ないかもしれない。
魂は人間だけのものじゃなく、動物、魚、虫、植物、微生物、岩石、鉱物、水、光線に至るすべての物理的な存在にそれぞれの形で入っている。
世界の人口が増えることで絶滅する生物が増えているということは、確かに地球全体の魂の総量は決まっているのかも。
でも思考の深度は魂の質量にはあまり関係ないような気がする。できてから数千数万年経ってる巨大な岩とか地層にも魂があって、脳みそないから思考することはできないけど、魂の質量は相当なものじゃないかな。そういう地盤はその地中で起こってる化学反応とか地上のあらゆる出来事を知っていて、記憶していると思う。証明はできないけど^^;
知らない土地に行って、この場所なんだか独特な不思議な感じがする、っていうことないですか。あるいはそこに行くと不思議と特定の何かを思い出すとか、元気が出てくるとか冷や汗が出てくるとか。雰囲気やオーラのような。悲惨な出来事が起こった場所ってやっぱり禍々しいムードが残ってること多いじゃないですか。空間と場所自身が記憶してるんだと思う。記憶=魂。
そんな地層も大昔から今までに死んだあらゆる生物の死骸と魂でできていて、生物の肉体も魂も死ぬときは両方分解され、土やら水やら気体に分散して帰って地球全体という1個の魂に戻っていく(吸収されていく)。生きていた時の個体としての記憶は死んだら地球全体に吸収されて自他の区別が付かなくなるかも知れない。う~んどうなんだろう。
でもある程度思考ができる、感情がはっきりしてる個体がまた新たに生物として生まれるときは、分散していた魂がまた同じ個体となって生まれると思う。必要とあらば他の魂の一部と合わさるのかも。前生の最重要要素(人格の根幹、ハイヤーセルフ、大きな自己の意図、重要な記憶)はちゃんと引き継がれる。あとエゴも引きずって似たことを繰り返すことがある。ただし、普通めったに自覚したり思い出したりできない。
自分の記憶、自己を自己たらしめる要素、全生涯で思考・体験したことは、死んだらなくなるんじゃなくて、種全体、地球全体の魂に余すことなく引き継がれる。大事な栄養になる。全然関係ない個体(あるいは似た境遇の個体)に引き継がれて、生き伸びるために役に立つ。新しい形質を作らせる。このサイクルがなかったら生物はここまで進化してないと思う。目にも見えないし、科学的に全く観察できないことだけど。
魂は非物質的エネルギーのことで、物理法則を超越している。物理次元のもっと上の次元。
魂は宇宙(世界)が生まれた時からある。宇宙=魂=全物質。で、私達人間それぞれの魂も、本当は宇宙(世界)の途方もない年齢と同い年。自覚できないけど。そもそも宇宙(世界)には始まりすらないかも知れない(そしたら無限歳だ…)。
となんとなく思いました。
★“リニアの「速さ」は、出張には中途半端かも?:日経ビジネスオンライン”
の記事内に「新幹線に会議室を作ればヒットする」と書いてあった。
また、企業重役の移動時間内に、ベンチャー企業が「ハコ乗り」して、企業重役相手にプレゼンする新サービスを、東京のハイヤー会社が始めたらしい。
★博多⇒東京の上り「のぞみ」16号車指定席の一部列車を「プレゼンテーション・モニター車両」にしてみてはどうか?
名古屋⇒新横浜間(「のぞみ」の次停車駅が最も長くなる区間)に、企業が16号車の数十名にプレゼンテーションや試供品プレゼントやアンケートを行う。
乗客は企業プレゼンを聞いたり、アンケートに協力したりする代わりに、運賃を5,000円割り引いてもらう。
JR東海は、乗客への割引分+αを、企業から場所代として徴収するビジネスモデル。
★「なぜ上り16号車か?」と言えば、プレゼンテーターが最も東京寄り(つまり、運転席側)でプレゼンするため。
途中号車だと、プレゼンテーターの場所を、「トイレに行く人」とか「号車を移動する人」が邪魔してしまう。
「なぜ博多発列車か?」と言えば、少しでも協力いただける乗客を確保したいため。
★企業が一般人を集めてモニターとかアンケートとかテスト品品評会とか開く場合、普通相場として5,000円程度を参加者に支払っている。
そう考えたら、「モニター等に協力すれば、5,000円割引」というのは、相場に合っている
★例えば、東京駅に21時頃到着する博多発「のぞみ」車内で、キリンビールが新しいビールのサンプルを配って、
乗客から味やパッケージデザインについて意見を募る、そういう使い方
或いは、保険会社が16号車乗客に新しい保険のプレゼンするとか、携帯会社が16号車乗客に新しいスマホをプレゼンするとか、
★企業のモニターとかアンケートとかって、参加者が主婦とかの「有閑者」に偏りがち。
忙しいビジネスパーソンに対して、なかなか意見を募る場が存在しない。
ビジネスパーソンのモニター意見を集約できる場として、「のぞみ16号車」は貴重
★プレゼンカーが軌道に乗れば、「プレゼン対象乗客は女性限定」とか「60歳以上限定」とか
「0~6歳の子供がいる人限定」のような「顧客属性を限定」するようにすれば、より突っ込んだプレゼンが成立する
★LCCでもプレゼン・フライトは成立しえるが、LCCはあまりカネ持っている人は乗らないからなあ。
レガシー航空会社が、プレゼンフライトみたいなことをする勇気があるかどうか。
★ウィーラー・トラベルなどの高速バスで、カネのない若者相手のプレゼンバスも、成立するといえば成立する。乗客は皆ヒマそうだし。
「東京⇒大阪昼行バスで、アンケートとか座談会に協力いただければ、運賃タダにします」バスがあれば、相当ヒットするだろうなあ。
東京~大阪バスで「アンケートに協力すれば無料バス」はさすがに難しいが、
「都内~成田空港バス」「大阪市内~関西空港バス」ならば、アンケートやプレゼンに協力してくれるならタダ、というバスは成立しそうな気がする。
アラスカの国際空港で、アップルの地図アプリに従った運転者が滑走路に進入するという事件が連続して発生した。
「iOS 6」の地図アプリが、英国のロンドンでなく、カナダのオンタリオ州にあるロンドンに人々を誘導して不興を買ったことを覚えているだろうか。
アラスカの国際空港では、もっと大変なことが起きた。アップルの地図アプリに従ったドライバーが滑走路に進入するという事件が、連続して発生したのだ。
『Alaska Dispatch』紙が9月24日付けで掲載した記事によると、アップルの地図アプリは、東ランプ経由で誘導路B(BravoのB)に入るよう指示したという。これはパイロットが滑走路にアクセスするところだ。そこからだと、ターミナルは滑走路のすぐ向こう側に見えるので、ドライバーは、(通過したすべての道路標識を無視して)目に見える手がかりに従い、真っ直ぐターミナルに向かったという。
この出来事はまず9月6日に起こり、9月20日にもう一度発生した。Alaska Dispatch紙によると、最初の事件の後、アップルはこの問題に対処すると述べたという。しかしその後も、ハイヤーの運転手が、空港警備と警察によって包囲されて腰を抜かすという事件が発生した。現在は、問題が解決されるまで、一時的にバリケードが設置されているという。
わかるよ。大人になると確かに幸福感が変わる。子供の頃目指していた大人になれていないし。
子供の幸福感の正体ってなにかな?自由に夢を描いたり、欲しいものが手に入ることなんじゃないかな?
だけど大人になると、根拠がない幸せには不安が芽生えてきてしまう。
これは、棚ボタの幸せに一喜一憂することのバカらしさを学んだからじゃないでしょうか?
“何のために”欲しい物を手に入れるのか、手に入れて何ができるのかを考えだした。それは決してネガティブではないと思います。
例えば、子供は「うんこ」とかのリアクションで笑える。ハラハラドキドキの、ワンパターンな映画でも素直に楽しめる。意味やテーマを咀嚼せず、反応しているだけだから。
でも大人になるにつれて(頭が良くなるにつれて)「うんこの何がおもしろいの?」「あの映画と同じテーマだよね」って気づきはじめる。裏側の意味を楽しむようになる。
ワンランク上がるって言い方は語弊を招くかもしれないけど、意味のないものに楽しさや幸せを見いだせなくなった。ただそれだけじゃないかな?
そして、それを受け入れてみるのはどうでしょう。
と言うのは、幸せになろうとするんじゃなくて
ってこと。
大人の幸せは「今の自分を肯定すること」だと思います。今の自分が未来に繋がってるから。今の自分にしっくりきてないのに、バラ色の未来を描くのは難しい。
あなたはそれがわかっているから、バラ色の未来が描けないでいる。頭がいいんだよ。根拠もなくハッピーな未来を夢見るのは、子供だからできること。
だけど不幸だとは思っていない。自己実現はともかく、ある程度の欲求は満ちている。
可もなく不可もなく幸せです。
とか、そこらへんの考え方の根本的な部分が知りたいのかもです。
「諦め」って言葉はネガティブに使われがちだけど、元来は「明らかにする」って意味だし、悟り。明らかなうえで受け入れる。
妥協は受け入れないで、擦り合わせること。
自分の場合は、暗→明のほうへ人生が180度変わる出来事があった。とは言っても、精神的な変化だから、きっかけらしいきっかけはないけど。
ただ、それ以前が底辺すぎたから平穏を手に入れて嬉しいと感じた。
「幸せって精神的なものなんだ」って気づくと同時に欲が消えた。煩悩が消えた感じ?冒頭の例のように、奥行きが必要になってしまった。
あ、欲がなくなったと言っても食欲と睡眠欲はあるよ。性欲はなくても困らない。
時々「鬱なのかな?」って心配にはなるけど、死のうとは思ってないから大丈夫なんだと思う。
で、気とかオーラとか占いとかスピリチュアルとか、なぜか周囲にそういう人たちが増えて、一般的にあやしいと思われている分野へ足を突っ込んだ。
最初は、あなたと同じで疑り深くて苦手でした。今でも信じてないです。
でも「なぜそう言えるのか?」を調べていくのは楽しい。いずれも元を辿ると西洋哲学や東洋思想にたどり着く。
すると、人が人であるがゆえの悩みは普遍的で、それを整理する方法も大昔から研究され尽くしていて、それなのに未だに人は悩み多き生き物なんだってわかった。
ハードは進化してるけどソフトはあまり進化していないって。だから生きてるんだなって思えました。考える葦なんです。
前者は「内なる子供」で、後者は「高次の自分」と訳されるけど、適当にアレンジして「子供性」と「大人性」で解釈するとわかりやすいかな?
そのバランスを意識しなきゃいけない時期に差し掛かっているのかもしれませんね。
二十歳になったら成人式やって法的に大人になるけど、本当に大人になる瞬間は、経験によって人それぞれにバラバラで、
あなたが今置かれている状態は通過儀礼ではないかと思います。自分は20~24歳までモラトリアムになって、24の時に脱皮した。
大人性というのは、いつも自分を律したり、自分に指図している自分。
一方の子供性は、ありのままでいようとする自分そのもの。子供は「快・不快」に敏感。
ハイヤーセルフは、自分をあるべき姿へと導いている。だけどインナーチャイルドが時々「私って幸せなの?」と問いかけてくる。
心をないがしろにして自分を律しすぎている時には「素直に泣いてもいいよ」って子供が出てきていて、
ウダウダが長く続けば「あんた、ヤバイんじゃないの?」って大人が出てくる。
ややスピった考えを言いますが、
と考えてみてはいかがでしょう?律している自分も必要だし、駄々っ子の自分も必要。
「よくわからないけど、幸せじゃない。おかしいな」って感じている。今、そういう状態だよね?
今は心の中にいる子供がグズグズしている。そう考えると、啓発より癒やしかなぁと思います。
自分だって考えたら自分を上手く癒せないけど、自分の子供だって考えたら少し優しくなれませんか?
子供だと思ったら「泣くな、元気出せ」って言えないでしょ?
「無邪気に幸せを感じていた子供の自分」を否定しちゃうと辛いです。
それはそれ、仕切り直しの気持ちで「子供の頃はこうだったけど、今の自分はこう」って考える。
今が充たされないと、未来は見えないです。
あちこちのサイトを見るとわかると思いますが、インナーチャイルドとかハイヤーセルフが出てくるサイトには
天使やら偉大なるマスターやら、神秘的に説明されていて、知性面から捉えると「あやしい」ですw
でも、
これも持論だけど、啓発って「気づき」を得ることだから、人に教えてもらうもんじゃないと思います。
啓発本は「こうしたらイケてる奴になれるぜ」ってやつだから、すでに前向きな意志が持てて、契機づけたい時にのみ有効。
「教えやがれ!この野郎」って思える時に読むのがおすすめで、やる気が落ちている時にはあまり意味がない。
啓発本には啓蒙的なものが多すぎるし、意識だけやたら高くなっても、肉体がついていかないと使えないです。
スピ用語を使わずに伝えるにはどうしたらいいかな?と思っているうちに、長文になっちゃいました。
上手くまとめられていないと思うので、わかりにくいところはまた質問ください。参考になれば幸いです。
おっとい嫁じょとはいわゆる略奪婚の慣習であり、「婚姻に同意しない婦女をして婚姻を止むなく承諾させるため相手の婦女を強いて姦淫する」習慣のこと。
なぜか都市伝説扱いされることもあるが、実在した風習であり、昭和34年(1959年)に強姦致傷で男性が逮捕、有罪となったことから全国的に有名になった。
事件を契機に、おっとい嫁じょの習慣の存在、村を挙げて男性を無罪にすべく署名が集められたこと、弁護人も違法性の認識を欠き無罪である旨主張したことなどが大きく新聞等で報道されたためである。
昭和34年というと大昔のように思う人もいるかと思うが、同風習が昭和34年に廃れたとしても、これににより夫婦となった者はいまだ十分存命であると考えられる(若ければ70程度か)。
両親がおっとい嫁じょにより結ばれたという人も、50代40代にはいることだろう。
判旨を引用する。太線、■は増田。鹿児島地判昭和34年6月19日。
主 文
理 由
(罪となるべき事実)
被告人は、昭和三十四年一月十五日頃、その義兄である■■■から早く婚姻するように勧められたので、被告人もその気になつて南に年頃の娘の紹介を依頼したところ、南の計らいで同月十九日鹿児島県肝属郡串良町細山田■千■百■十番地乙野次郎方において、同人の長女A子(当二十年)と会う機会を得たが、被告人は忽ち同女に想いを寄せるに至り、その場で同女に婚姻の申込をなしその後二回にわたつて同じ申込を繰り返えしたが、同月三十日には同女の兄B男を通じて右申込を拒絶された。然し、被告人はどうしても同女との婚姻を断念できないので、同女を強いて姦淫したうえ同女をして止むなく婚姻に同意させようと考え、同年二月五日■方において■、ならびに■■こと■■■■■と相談の末、翌六日同女が鹿屋市所在鹿屋職業安定所に行くのでその帰途を三名で待伏せて無理にでもハイヤーに乗せてどこかに連れて行き、更に婚姻の同意を求め、それでも応じないときは夜になつてどこか知人の家に連行し、被告人において同女を強いて姦淫することに計画を決め、翌六日午後零時過ぎ頃、被告人等三名は前記安定所附近において同女を待伏せ、同女を附近の食堂に連れ込んだうえ、再び婚姻に同意するように説得したが、同女に拒絶されたので、ここに、被告人等三名は前記計画を実行に移すべく意思を通じ、同日午後三時頃同市向江町■■医院先路上において被告人は前方より同女の手を引き、■、■■■等は後方より同女を押す等して同女を無理に前もつて被告人が誘導して来ていたタクシーに乗せたうえ囎唹郡大崎町方面に連行し、同町所在の食堂において時間をつぶした後、同女をその自宅に連れて帰ると欺いて再び同女をタクシーに乗せ、途中下車させてくれと懇願するにもかかわらず、タクシーの戸を押えて脱出を不能ならしめたうえ同日午後六時過頃、同女を肝属郡串良町有里■千■百■十■番■■■■■方に連れ込み同日午後十時頃、被告人は前記連行により極度に畏怖している右A子を同所四畳半の間において仰向けに押倒し右手で同女の両手を同女の頭の上方に押えつけ、足で同女の股を蹴る等の暴行を加えて完全に同女の反抗を抑圧したうえ二回にわたり強いて同女を姦淫したがその際同女に対し治療五日間を要する処女膜裂傷を負わせたものである。(証拡の標目)《略》(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法第百八十一条第百七十七条第六十条に該当するので所定刑のうち有期懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法第二十一条を適用して未決勾留日数中三十日を右本刑に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文により全部被告人に負担させることとする。(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は「被告人の住居地である串良町地方には婚姻に同意しない婦女をして婚姻を止むなく承諾させるため相手の婦女を強いて姦淫する「おつとい嫁じよ」という慣習があり、右姦淫行為は一般に適法視されている。被告人も右慣習の存在により本件姦淫行為を適法行為と確信し、その違法性の認識を欠いていたから本件行為は、その故意を欠くものである。」旨主張するが、少なくとも本件の如き自然犯にあつては違法性の認識は故意の成立要件ではないと解せられるのみならず被告人の当公廷における供述同じく検察官に対する供述調書によれば、被告人が右の如き慣習が反社会性を帯びるものであることの認識を有していたことが明らかであるから被告人は違法性の認識を有していたものと認むべきであり、弁護人の右主張は採用しがたい。
よつて主文のとおり判決する。
昭和三十四年六月十九日
昭和34年に集団強姦罪はなく、強姦致傷罪の法定刑も今より軽い。なお、処女膜裂傷が強姦致傷に当たることは現在では確定判例(最決昭和34年10月28日刑集13巻11号3051項)である。
弁護人の主張、「自然犯にあつては違法性の認識は故意の成立要件ではない」との判示については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%85%E6%84%8F、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98など。現在では自然犯、法定犯の区別はぴんとこないかもしれないが。
上記判例より、おっとい嫁じょの慣習のあった地域は鹿児島県肝属郡串良町地方であることがわかる。
現在では、平成の大合併により、鹿児島県肝属郡串良町は鹿児島県鹿屋市の一部となっている。
しかしながらこの文章を書いているいま、私が検索したところでは、串良町地方とおっとい嫁じょを関連づける文献がインターネット上には存在しない。
なるほどおっとい嫁じょは現行刑法下では犯罪となるべき行為である。
しかしながら、我が国日本に古来より伝わる文化のひとつでもあり、これをなかったものとし徒に無視することはひとつ文化の損失であるといえる。
そこで、差し出がましいかと思ったが、串良町とおっとい嫁じょを関連づけるべく、本記事を書いた次第である。
失われゆく日本の文化が何らかの形で保存されることを切に願う。
http://anond.hatelabo.jp/20100324034034
の元増田です。
追記の形にしましたが、流れてしまったので改めて投稿します。
大学生は一度はインドに行け、みたいな話を聞いたことがあるけど、インドには何か学生にカルチャーショックを与えるようなものを感じた?
ご質問有り難う御座います。
カルチャーショックは感じると思います。
私にとっては日本と比べてあからさまな格差が見られたことでしょうか。ヴァリエーションが凄いです。
たとえば、ニューデリーの繁華街コンノートプレイスでも、海外ブランドの店から、パリカバザールの雑多な店、
南のジャンパト通りにひしめく土産物店といろいろな店があります。アーケードに商品を並べる露店やバクシーシ
を求める人もいます。車で移動すると、信号で止まるたびに寄付を求める人がいます。夜になると、路上で寝る
人々も各所でみられます。
交通手段も、タクシー、オートリキシャ、バス、メトロとありますが、新しい車両もあれば、日本では整備不良
で取り締まられそうな車も数多く見ました。バイクの家族五人乗りもよく見ましたし、南の国道では現役のラクダ
もいました。大八車も現役で、いろいろな種類の車が混在しているためか、渋滞がすごかったです。道の整備も所
によりまちまちで、車に乗るときは舌をかまないように注意する必要があります。継続的に費用をかけないとイン
フラは維持できないことがよくわかります。
交通手段といえば列車で、長距離夜行列車は、セカンド、スリーパー、三等冷房スリーパー、同二等、一等と
細かいクラス分けがあり、駅での待合室の有無もそれによって変わっています。夜の駅では、入り口やホームで
毛布にくるまっている人がたくさんいます。
ホテルもバックパッカーのドミトリーから大理石造りのミッドレンジ以上までランクによって設備が全然違い
ます。大都市と地方の格差も大きいです。デリーとムンバイではちょうど良い安宿がほとんどありませんでした
(私は個室バスでホットシャワーが出るかどうかが一つの判断基準になると思っています)。
街のにおいやレストランやホテルの衛生についても日本と全く異なります。ガイドブックにのっている所でも
羽音がうるさいのや黒いのやいろいろな虫がみられます。ヤモリも日本の都会ではほとんど見ないのではないで
しょうか。停電も頻繁で、食事中やシャワーのときにまっくらになるとびっくりしました。あと、食事はインド
人向けのものは大体とてもとてもとても辛く、お菓子であればとてもとてもとても甘いです。日本のインドレス
トランはノンヴェジ(肉OK)が多いですがインドではヴェジの方が多い気がしました。味付けも日本人向けに甘
かったんだと思います。
日本は規制のためだと思いますが、最低限の底が抜けたようなものが目に見える形ではあまりないような気が
します。ビニールシートハウスはあっても、そこに子どもを含め家族が住んでいるという話は聞きません。社会
が確保できる最低限度について現実的な見通しというものが、規制をどうするのかという話には必要なのではな
いかと思いました。
インドに行って良かったと思うのは、そのような格差を見るだけでなく、変化を求める人々の動きにも触れら
れたことでしょうか。汽車の中では、日本で働き口はないかと聞いてくるエンジニアや大学生とも話しましたし、
海外や州を越えた出稼ぎの話しもよく聞きました。ニュースでは、女性に三分の一の議席を確保する留保政策の
審議が話題となっていました。それには指定カースト・部族の席も設けられる予定なのだそうです。
観光名所で特に印象に残ったのはアーグラのタージマハルとヴァーラーナシーのガンジス川です。タージマハル
は写真で見るよりずっと大きく、綺麗です。ヴァーラーナシーは、本当に川に浮いているbodyを見たときの衝撃も
あるのですが、川の近くに行くと迷路のような町が広がっていて、独特の雰囲気があります。どちらも現地に行っ
てみないと、テレビや写真では、その感覚はわからないと思います。
インドのいろいろな場所に行って思ったことは、インドは人も場所も気候もいろいろあって一概には語れない
ということなので、誰もがカルチャーショックを受けるのかはわかりませんが、面白い体験はできると思います。
私にとっては安いほうが印象が強かったのでその方を強調していますが、大都市であれば、クレジットカードが
使える辛くないレストランも、自家発電機を備えているホテルも、新車のハイヤーも、便利な国内線も、バック
パッカー的生活に比較すると目の玉が飛び出るような価格ですが、日本国内旅行に比べれば安く利用できるので、
どのようなインド体験をするかはその人次第ではないでしょうか。