はてなキーワード: クソ喰らえとは
口を開けば「権利」「権利」って、良い加減にして欲しいなって思うのって、僕だけですか。
LGBTとかフェミニストとかベジタリアンだとか、そういうの、リベラルって言うんでしょうか?
詳しくは知りませんけど。
世の中って、キレイごとだけで回っているわけではないじゃないですか。
彼らって、少し傲慢に聞こえませんか。
正しい世の中のあり方について、まるで理解してしまっているんだというような態度を取るじゃないですか。
歴史が常に正しい方に進歩してきていて、その進歩の途上に今があるんだというような理解をしているように聞こえるんです。
本来、社会に権利を認めさせるのって、誰かの利益を侵害したり、自ら犠牲を払ったりする必要があるものじゃないですか。
なのに、権利の方ばかり主張して、義務の方を語らないじゃないですか。
これじゃあまるで一方的じゃないですか。
夫婦別姓とかも、まあ形式的な話ですし、割とどうでも良いと思いますけど、家族や親族がいるという事で受けて来た恩恵もあるはずです。
家族のもとで育ててもらって、教育を受けて来たんですよね。もし何か身の上に不幸があっても、身を寄せる場所として一番頼りになるのは家族ですよね。
親が亡くなったら相続で財産や家督も引き継がれますよね。自分が死んだら、家族の墓に入るじゃないですか。
みんながみんな僕みたいに恵まれた家族親族を持っていない事は承知してますが、彼らはこういった事を考えた上で夫婦別姓を主張しているんでしょうか。
そうでないのなら、虫の良すぎる話じゃないんですか?
子供の頃は自分が間違った事をしたらよく父親から殴られました。
今では何かあると体罰だ体罰だと言いますが、体罰を受けない権利を得るためには、説教を頭でわかるだけの頭が必要だと思います。
然らざる者に権利を与えて、なんでもかんでも「事件」にして「訴え」て「手続き」を取って、暴力を誰かに外注してしまう世の中の方が、よっぽど情けなくはないでしょうか。
僕、15の時、クリスマスのために豚を屠った事があるんです。ショックでしたよ。豚が可哀想だなって思いましたよ。
二匹屠ったんですけど、一匹目を撃った後に、二匹目が怯えてたんですよね。パニックになった豚の姿を、今でも思い出すことができます。
夜は涙で枕を濡らしましたし、ベジタリアンになろうかなと真剣に思いました。
でもお肉ってやっぱり美味しいじゃないですか。だからやっぱり今でも美味しく食べてますよ。
僕って、間違えてるんですか。
重要なのはその登場人物が魅力的かどうかでしょう。自分は大島弓子さんの「ヨハネがすき」の夜羽や「F式蘭丸」の蘭丸が(Likeの意味で)好きだった。よく考えると彼らはある一面においてリアルだったような気もするし。
自分はそもそもファンタジーが読みたいのでリアリティなんぞいらない派。俺が実感できるようなリアルさを持った小説なんぞ死んでも読みたくない。
マジかよ
「ジェンダーバイアスに苦しめられる男性を描く女性作家の作品ってどうなんだろう」って話題で
「女性は自分が描く男性キャラのリアリティなんてそこまで考えてないんじゃない?」って感想が出て
それで「いや面白ければリアリティなんてどうでも良いだろ」って、それが正直な本音なんだろうけど
「ジェンダーバイアスに苦しめられた男性の呪いを解きたい」って建前さえもう守ってないじゃん守る気ないじゃん
結局「面白い作品ならそれで良い」っていうのがありのままの本音で「現実的な男性の苦しみを描きたい、読みたい」なんてただの嘘っぱちじゃねえか
少し前にヒプマイにハマって、バトルシーズンも緩やかに楽しんでたけど、中間発表後のオオサカのオタクたちの様子がおかしい。それに感化されて他ディビ推しのオタクたちの様子もおかしい。
積む、積まない、積んだ方がえらい、積まないやつは要らない。
そんな同調圧力や排他性、趣味を楽しむのに必要か?日常の息苦しさから逃れるために、人生を楽しむためにオタクやってるんじゃないのか?
生活費削って投票するというツイートも少なからず見かけた。それに大量のいいねやリツイートがついているのも見た。欲しがりません、勝つまでは、か?戦時中か?支持してる人達同士で仲間意識を持ち、支持しない者の不安を煽る。
悪いのは商法です。まだ運営の金の使わせ方に疑問を持てている人はいっそお金を使わないという選択をしてみませんか?黙って金だけ出し続けていたら運営体制は変わらないまま。コンテンツありきなのは分かってる。それを支えるためには金を出さなきゃいけないのも分かってる。でも消費者側にもお金の使い方を選ぶ権利はある。同じ金額を使うのでも、もっと別の使い方があるのなら、バトルのようなシステムとは別の使い道があるのなら、そちらを選ばせてほしい。
声をあげれば、体制を変えることはできるんじゃないだろうか。できなければその体制の中で生き残ったオタクだけが金を出し、その他のオタクは離れていくだけだろう。いずれにせよ、こんなに消費者側が消耗しているジャンルの息がそう長く続くとは思えない(そもそも最初から運営側もそういうつもりなのかもしれないが)。コンテンツはオタクの人生を保証してくれない。どんなにお金を出しても勝ちは約束されていない。お金を使い切ったあとで残るのは貧しい自分の生活だ。
投票しないのは不買運動と同じだ。商品は良くとも企業理念を肯定できなければ起こる不買運動と同じ。商法に賛同できないから投票しない。この理由で投票をしないという選択肢もあるのではないか。
色々言ったが、この商法嫌だよ〜…とかおかしくない…?とか思ってる人はいっそ投票しないでみるのはどうか、という提案です。
ヒプマイは運営がキャラクターを人質に取っている、なんて比喩も散見されますが、このシステムのままでは金で推しが解放されるわけではなく、どんどん縛られていきます。推しが息しやすい環境にするために声をあげてみるのはどうか、今回であれば投票しないのはどうか、運営に問い合わせてみるのはどうか。(運営への問い合わせは私もやります。)
投票を扇動する文章を書くような人たちは文章が上手だし、推しのために心込めて書いてるからそれに心動かされた人がいるかもしれませんが、一度冷静になって最初にあった違和感を大事にしてください。他人に強要し始めたらマルチや宗教になってしまいます。推しを信仰する気持ちは分かりますが。
ただ、キャラクターや楽曲はもちろん舞台やVRなどのコンテンツ自体はすごく良いのでそれはお勧めします。それだけにこのバトルの商法(によってオタクが色んなダメージを受けていること)が悔やまれるというか、コンテンツ豊富なので無理に手を出さなくてもいいはずなのにバトルに積まないとファンじゃないという空気があることがしんどいというか、資本主義クソ喰らえだぜというか…。
あずまんがに始まり、ハルヒ、らきすた、けいおん、東方、ガルパン艦これウマ娘、、、
なんというか、オタクカルチャーっていうのは、愛とか恋とかが絡むようなお話って、クソ喰らえだった気がするんだ。
オタクたちはそうやって、自分に縁のないものを、自分の庭の外に投げ捨てて、マイワールドを楽しんでいたはずだ。
まるで修行僧のように。
少なくとも俺はそうだったし、今もそう。
それがなんか、どうした?
なんでシンエヴァの、あの無駄に生々しい、現実じみた終わり方に感動できるんだ?
進撃の巨人もうすぐ終わるけど、あのミカサのチューに生々しく盛り上がっちゃってるよな?
あとさ、なんだかよく分かんないけど、「バチェロレッテ」見ただろ?杉ちゃんにちょっとだけ自分重ねただろ??
なんなら、「花束みたいな恋をした」見ちゃってるだろ??泣いちゃってるだろ???
オタクたち、いつの間に愛を楽しめるようになってしまったんだ?
俺には分からない。
町山智浩が発した「女性差別発言」の一つとして有名なものが「女の子が急にマニアックなこと言い出したら、たいてい男の影響。 (2013-2-18 06:30:23)」と云うツイートです。
この発言からは、町山智浩の根底に「女性は主体的に何かを発見して選択する能力が欠如している」という考えが存在することが、如実に見て取れます。
柳下毅一郎との共著『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』を読むと「中身が空っぽの映画を、配給会社や広告代理店が薄っぺらいキャッチコピーで盛んに宣伝することで、それを鵜呑みにした女性観客が劇場に足を運ぶ」と云う類いの主張がなされる場面に度々出会います。例えば「『タイタニック』を観に来た若い女性観客は、レオナルド・ディカプリオの演じる登場人物がクライマックスで死ぬのを見て『ウソー!』とビックリする。予告編を観れば死ぬことぐらい予想がつくだろ!(=つまり町山智浩らは「女性観客にはそれを予想する脳味噌が無い」と言っている)」と云う具合いです。
要するに、町山智浩らは「配給会社や広告代理店に騙されるのは、いつも女」であり、「雑誌『映画秘宝』が気に食わないタイプの映画が世間でヒットしてしまうのは『馬鹿な女たち』が原因」であり、「男女や親子が一緒に観に行くデート映画やファミリー向け映画も、女の好みに合わせた結果つまらない作品ばかりになった」と、そう主張するのです。
その一方で「馬鹿な広告代理店や一般的なマスメディアを活動拠点とする評論家は理解していないが、映画『○○』は本当は✕✕なんだよ!それを指摘しているのは俺たち(『映画秘宝』)ぐらいなもんだよ!」とか「映画『○○』が流れている劇場にいるのは『映画秘宝』読者だけ(或いは、劇場に行ったら中原昌也とか藤木TDCに出くわした)」とか「周囲の観客が泣いている中で笑っているのはオレたちだけ(この逆に、周囲は笑っているのにオレたちは泣いていたと云う『少林サッカー』パターンもある)」と云う、典型的な「オレ(たち)ってフツウじゃないゼ」アピールも度々出てきます。「本当は✕✕!」という言い回しが好きですよね。
こうすることによって「『馬鹿な女ども』とは違い、『オレたち(=ボンクラ男子)』はモノが分かっている(=『映画秘宝』的な価値観を良く学習出来ている)」「オレたちは『本質』を見抜いている『仲間/同志』だ!」と云う「選民意識」と「自己陶酔」のカルト集団的な感覚を『映画秘宝』読者に与えていた訳です。
ところで、私がこの「雑誌『映画秘宝』の記憶」と題する一連の文章をはてな匿名ダイアリーに投稿したところ、或るブックマーカーからコメントで複数回「過去の『映画秘宝』で、そんなに自己陶酔している記述箇所が有ったか?」との疑義を呈されました。上で挙げたような町山智浩らの芸風と、それを熱烈に歓迎していた当時の『映画秘宝』ファンの姿と雰囲気。もしも、それをリアルタイムで見知った人に「あれは『自己陶酔』ではなかった」と否定されてしまうのであれば、これはもう私としては「見解の相違ですね」としか言えません。自己陶酔は「オレ(たち)は『スゴい』!」と云う直截的な形だけではなく「こんなボンクラ映画が大好きなオレ(たち)って本当に『ダメ』だよな〜」と云う、一見さも「へりくだった」ように見える『自虐』と云う形式を取って顕れる場合もあると私は考えています。町山智浩ら『映画秘宝』が行う「オレたちオトコってのはさ〜、『バカ』な生き物なんだよ。だから許してよ〜」と云う芸風と、それを支持した読者たちは、本人たちとしては「分かった上で『バカ』を演じている(いた)」つもりかも知れませんが、これも傍から見れば、立派な『自己陶酔』だと私は思います。「自虐」は「オレ(たち)はスゴい!」の裏返しなのです。しかし、一部とはいえ『映画秘宝』ファンらしき人から「自己陶酔は無かった」と言われたので、私は正直ビックリしました。自覚が無かったのですね。
それでも「『自己陶酔』と言われることには抵抗が有る」のであれば、代わりに『甘え』と言い換えましょう。「オレたちオトコは、ボンクラ映画好きだからさあ」とホモソーシャルな価値観と物の見方を持ち出して酔い痴れ(=『陶酔』)ながら「だから、オレたちのするバカを許してね」と「女性と云う他者」に甘える(=負担を強いる)ことを続けてきたのが、町山智浩ら『映画秘宝』及びボンクラ信奉者たちの真の姿です。そして、そんな風に「オレたちは『こんな感じ(=ボンクラ)』だからさ〜」と甘え続けて行き着いた果てが、前・編集長の岩田和明による恫喝DM事件の発生です。目を逸らしてはいけません。もう、これ以上『バカ』や『ボンクラ』を言い訳にして「女性に甘える」のは止めませんか?『自己陶酔』に気づかないふりをするのも『甘え』だから止めませんか?そうでないと、また恫喝DM事件のような大失態が繰り返されかねません。
それにしても、上で挙げた例に出てきた「ディカプリオが死ぬ場面にビックリする女性観客」は、実在したのでしょうか?何だか私には、町山智浩らが「女性観客は愚か者である」と主張するために、都合よく頭の中だけで拵えた『藁人形』なのではないかと思えます。
実際は、女性観客にも「馬鹿な映画、底抜け大作、広告代理店の嘘八百宣伝と百も承知の上で、わざわざ観に行く『物好き』な人たち」は少なからず存在するのではないでしょうか。彼女たちは、自らの意志でそれを選択しているのです。ただ、町山智浩らには「女性たち自身の意志」が存在することに我慢がならないのだと思います。
町山智浩らの言う「騙されるのは、いつも女」「それとは違い、オレたち男は『真実』に気づいている」と云う考え方や主張は、ひどく「古臭い」と私には思えます。と言うのも、これらの考え方は結局のところ、キリスト教の「エデンの園で蛇の誘惑に騙されたのは女であり、男を唆したのも女だった」や仏教の「女は悟りの障碍になる」と云う、古来の考え方を焼き直したものに過ぎないとしか思えないからです。
ご存知のとおり、恫喝DM事件が発覚した後に新体制となった『映画秘宝』では、のん(能年玲奈)さんの連載が終了することが告げられました。のんさんが誌上で『この世界の片隅に』の主人公すずさんの姿に扮したのはまだ理解できましたが、何の関わりも無い『ワンダーウーマン』の主人公のコスチュームに身を包む彼女の表紙を見て「何だか着せ替え人形みたいに扱われてるなあ。のんさん本人が喜んでやっているならば別に構わないけど」と私は思っていました。しかし、このたびの騒動でのんさんの連載が迅速に終了したところを見ると「やっぱり本当は彼女も、心の底では嫌がっていたんじゃないのか?」と穿った見方をしてしまいます。冷や飯を喰わされていた状況下で『この世界の片隅に』を大々的にプッシュして応援して貰ったという義理も有ると、なかなか断り辛かったことでしょう。のんさんみたいな大物女優がリクエストに応えてくれることは『映画秘宝』のボンクラ男たちにとって、さぞかし快感だったことでしょう。もしも仮に「オレたちはボンクラだからさ〜、こういうのが好きなんだよね〜」と、岩田和明らがのんさん相手に甘えていたとしたら?
散々「美少女アニメは、オタクの幼稚な性欲を満たす為のポルノ!」と攻撃していたくせに、その実は『映画秘宝』自ら、自分たちのボンクラ願望を満たす為に、本物の女性を使って着せ替え人形遊びに耽っていたとするならば、それは美少女アニメ趣味よりも遥かに幼稚で醜悪な姿ではないでしょうか。真相は如何に?
冒頭に挙げた町山智浩の「女の子が急にマニアックなことを言い出したら、たいてい男の影響」という発言は、町山智浩の自己を勝手に他者に投影したものに過ぎないのでしょう。おそらく、町山智浩自身に「自分は女性の影響で何かマニアックなことを急に言い出した」と云う経験と自覚が有るのだと思います。町山智浩にとっての「マニアックな事」は何でしょうか?そういえば、一時期から町山智浩は、熱く「恋愛論」を語るようになったと記憶しています。何故か今はパッタリと語ることを止めたようですが、結局あれは何だったんでしょうね?まさか「女性の影響」だったんでしょうか。
舎弟の高橋ヨシキやてらさわホークも近年、付け焼き刃っぽいポリコレ的な言動を見せるように変化しましたが、あれも「女性の影響」でしょうか?高橋ヨシキとてらさわホークも、自分たちよりも年齢の若い、女性のアメコミ翻訳家と一緒に仕事をするようにもなりましたから、仕方が無いですね。でも、高橋ヨシキなんか『チーム・アメリカ』の「ポリコレなんぞクソ喰らえ!」的な内容と姿勢を称賛していたはずなんですけどね。まさか、過去の振る舞いを無かったことに出来ると思っているのでしょうか?
もちろん「他者から影響を受けて変化すること」自体は、別に構わないと私も思うのです。ただし、それが「相手の歓心を買う」ことを目的とする「表面だけの底の浅い変化」でなければ、の話ですが。
しかし、古株の元『映画秘宝』読者の目から近年の町山智浩や高橋ヨシキを見ていると「単に女性の歓心を買うのが目的なんじゃないか?」という疑念が拭えないのです。だって、彼らの言動からは滲み出ているでしょう?「自分たちボンクラのコントロール下に置けない女性に対する怖れや侮蔑」の感情が。
分かるか分からんかで言ったら分かる。私もなぜ母親なのに自分を粗末に扱うのか、なぜ愛情を向けてくれないのか、不満だったし、自分が生きづらいのはそのせいだと思ってた。
でも、伴侶と巡り合い子どもも生まれた今なら思う。愛情を与えるか、感じるかは親とか子どもとか関係なく人間の相性なのだと。
親が与えてくれなかった(と思っていた)愛情は伴侶から与えてもらえた分で充分まかなえたし、自分が子どもに向けてる愛情が子どもに伝わらなかったら仕方ないと思うし、今思えば自分の母親も全く私を愛さなかった訳ではなく、ただ私にそれを理解する能力が欠けていた部分もあったと思うし、世の中に溢れる愛情深い親信仰をクソ喰らえだと思う。
本当に愛情深い親信仰はどうにかならんかね?美しい話かも知れんけどそれは絶対ではなく相性なんだから、相性の合わなかった人間にとってものすごく深刻なハラスメントだと思うんだが、エロはハラスメントだから規制しろって意見が通るのに、これがハラスメントだと認識されない世の中ファッキン!
「女なんてオ⚪︎コするだけの道具やんケ、何ムキになっとんねん」みたいなハナから差別感情バリバリのクソみたいな増田の思想が丸出しの恋愛話は凄まじい勢いでよくバズるじゃん
でもそう言う奴がモテるし女もそういう奴に近寄るのは当然なんだよな
道具扱い=機能が提供できる内は守ってもらえるし金もらえるわけで
道具以上の物は何一つとして求めない、熱帯魚や金魚は水槽で手間も少なく泳いでりゃいいだけで、デジモンみたいに進化したり刺身としても美味しいみたいなことは求めない
現実問題、いちいちこいつは良識ある女かどうかなんて見極めてたら気がつけばオッサンになるわけだし、クソ女に譲歩や謙譲を持ってすれば際限なく付け上がることを知っている
だから最初から女なんてクソって意識で当たるから一才の躊躇も迷いもない
大体のクソ男は、女がネット炎上させるだけの発信力を持たないか、発信できないようにする
そもそも自由恋愛なので法律には何ら違反してないのでネット炎上さえ注意すれば合法でなんのリスクもない
男女平等が完成しているのであればこう言うやつはモテないわけなんだが現実は違う
フェミが叩くべき敵はそう言う男なのに、ネットでピーチクパーチクバズらせて手口やノウハウを宣伝してる結果にしかならず、現実そんな男と出会えばフェミがそれを擁護する地獄よ
わかってないなー。
お金の使い方が違う。
年収500以下だったら全て自分に投資しろ。年収を100万単位であげる努力。基本は転職。金融資産なんかクソ喰らえだ。
年収が500万を超えたら自分への投資はそのままに少し余った金額で金融資産を増やしておくんだ。額が小さいうちに金融資産の運用について学べ。失敗しても額が小さいからリカバリが効く。
年収が800万超えたらある程度自由にしても大丈夫。ただ守るものもできてる頃だから健康に投資しろ。
それ以上はもう適当にしてくれ。だまってても老後の資金は2000万超える。ただ子供を育てるのは金かかるよ。人生の楽しみがぐっと増えるんだけどね。
パソコンもスマートフォンも普段使っていて別段困る事はない。しかしながら戦術の通りプログラミングやソフトウェア、
そして最新のハードウェア等になるとまるっきりついていけない。ハードウェアはUSB-TypeCにも種類があるとか理解できない。
俺もコネクタなんて種類が多くてもう分かんないw
こういうのも技術的な意味合いのものと、商業的な大人の事情によるものが混在しているわけで
メンテナンスできないものを使い続けるというのはあんまりないはず
印刷の現場でClassic Macを使っていたり、工場でPC-9801を使っている現場は今でもあるにはあるけど、
日常でClassic MacやPC-9801を頻繁に見ることはないはず
西暦2020年にもなって、プログラミングが簡単には出来ないし、ハードウェアの規格も完全に統一はされていない。
というかプログラミング言語自体多すぎる。ソフトウェアはデファクトスタンダードのモノ程度は知っているが、
例えば、Windowsのゲームを開発するときDirectXを使うと思うのだけど、なんでマイクロソフトがわざわざDirectX作ったかというと、
商業的側面は、OpenGLとかはJISのような規格なので、マイクロソフトは口出しできない、主導権が握れない、
技術的側面は、規格の策定はビジネスのスピードより遅く、グラフィクスカードの進歩に追いつかない、OpenGLよりも先んじて先進的な技術をユーザーに提供したい、
みたいな思惑があるわけだ
この選択は正しかったと思われる、それがXBoxの開発にもつながるし、Windowsデスクトップの表現力にもつながった
言語が多くなるのは近年のCPUなどのアーキテクチャに則した言語を作りたい、
折角作り直すんだったら文法なども変えたい、みたいな考えがあると思う
フロッピーディスクなんてもう終わったのだからいい加減AドライブをSSDまたはHDDにするべきじゃないのかとすら思う。
だけどずっとCのままだ。
古いプログラムの中には「C」と決め打ちで書かれてしまっているため、Cドライブという概念をなくすとこれまでの資産が全部動かなくなる
そうすると、Windowsのような最初のHDDをCドライブと決めているOSは誰も使わなくなってしまう
俺も役所への手続きだの、これを知っているのが大人の常識だの、みんなクソ喰らえだと思っているけど、
そうしないと駄目みたいな世間の空気があるので、嫌々ググって調べたり、お役所ルールバカすぎるだろwと思ったりするけど、
ただ、コンピュータを製造するのは企業だし、そこにはビジネス的な大人の事情とか思惑が介入するわけで、
そうなると純粋な情報処理という学問を阻害されることは容易に起こるわけである
だって、自分でゼロからコンピュータやOSを作るわけにはいかないし
かと言って、企業もまったく情報処理学や数学を無視したものを製造できるはずもないわけで、
これって流行り廃れる技術なのか、少なくとも死ぬまで廃れることのない技術なのか、みたいな選定の目につながる気がする
言語も、まあ色々だけど、とりあえずCのような言語がちゃんとできればコンピュータの中が分かってないと書けないところがあるからCをやる意味はある
Linuxカーネルの一部にRustを実験的に持ち込んだりしてるみたいだけど、Cがなくなることはまだまだない、というかこれからもずっと続くと思う
なんだかんだCはRustより書きやすいと思うし、書きやすいからこそRustよりデンジャラスなのだ
Cドライブ云々は、例えばLinuxではCドライブという概念がないが、
同じコードをWindowsとLinuxで動かすなら、まずOSの種類を判定するコードを書いて、そこからパスの生成を分岐させればいい