はてなキーワード: クソ喰らえとは
座席のランク付けはまあ改善してほしいかな。俺ははじめから最上位ランクは地雷だと思ってたけど。
でもくだらん理由で楽曲を「排除」した事実を俺はずっと覚えているからな。
主催だろ?それを決めたのは。ライブ運営側にそこまでの権力は無いはずだ。
そのくせタイアップ曲が「排除」されうるCDが物販から除外されてなかったのガバガバすぎでしょ。
コンテンツを生み出す側が、大人の事情かなにか知らんがくだらん理由付けて自ら生み出した表現を規制したという事実を、俺は覚えているからな。
元凶かもしれない何某のことを、この件に関して言えば俺は1ミリも悪いと思っていない。
まあやらかしたのが事実であればそれはそれで罪を償ってくれ。ばかやろう。それだけ。
結局、ライブから「排除」するという判断を下したのは紛れもなく主催に違いない。
別に「排除」しなくても良かっただろ?世間から何か言われるかもしれないが、どうせしばらくしたら何事もなかったかのように振る舞うんだろ?なんで「排除」するの?
たとえ慣例だろうと、契約内容の履行だろうと、あなたがたが何も言わずにダンマリでいる限り俺はあなたがたが「排除」したと確信し続ける。
定期的に燃えては消えを繰り返すアカデミアのアファーマティブアクション(以下、AA)に対する怒りが止まらないため感情整理のために書く。
東大の准教授以上のポストを今後女性限定で埋める記事を見て日本でのアカデミア就職を諦めかけている。
https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S15478221.html
大学のファカルティ職(助教以上のアカポス)の男女比は偏りがあり、教授では7.8%程度になるらしい。そのため、文科省および大学は、女性のアカポス比率を上げるために女性限定の公募を設け女性比率を向上させる事を推奨している。
パッと見ると非常に重要な施策だし、男女平等に向けて良い向きだと思われる。しかし、実際に運営するうえで差別を差別で上塗りする面が拭えず一定数の反対を受けるため、それに対する私見を述べたい。
そもそも論として日本のアカデミアでテニュアのポストは減少傾向にあり、ポストを獲得するという事は簡単な事ではない。そのため有名大(とりわけ大都市で予算の潤沢な大学)はひとつのポストに対して倍率数百倍という応募が殺到する。つまり、年間数万人の博士が誕生するが安定したポストを得ることができるのは男女に関わらず一握りであると言える。ひとつの仮定として、男女平等に一定の優秀層が選ばれた場合、男女比は博士学生の比率とほぼ同一になると予想される。しかし、博士課程学生における女性比率は現在約30%程度となっており、女性に対して選考プロセスで何らかの差別があったと考えても良さそうである。しかし、本当にそうだろうか?
ここで(1)世代間格差, (2)分野間格差, (3)日本における女性のライフスタイルの選好という新たな変数を導入すると、今のAAの問題が浮き彫りになってくる。
(1)世代間格差
これは簡単に言ってしまえば、博士の男女比が世代によって変化しているはずという事である。科学技術政策研究所による調査では、1975年の博士の女性比率は5.8%であり2010年の30%まで上昇傾向にある。
ここで単純な仮定として、現在の教授が60歳とすると博士号の取得年度は1990年となり、その年の博士女性率は12%と推測できる。この場合、選考プロセスにおける差別度は前述の30-7.8 = 22.2から12-7.8 = 4.2と大きくポイントを下げる。また准教授、助教と職位が下がるごとに女性比率は上昇傾向にある事からも、女性の博士取得の上昇とアカポスの女性率は正の相関があり、不合理な差別によって力強い訳圧ある訳ではないと推測できる。
これは男女の分野による好みの違いである。一般に女性はSTEM(科学技術分野)を敬遠する傾向にある。実際に上述の博士数調査に於いても人文科学40%に対し、工学6%と選好に差が生じている。また、議員数や社長の男女比により算出されるジェンダーギャップ指数が高い(男女平等度が高い)国ではSTEM系は敬遠される傾向にある事が報告されている。つまり、完全に平等な選考プロセスを踏んだとしても分野間による男女比の差は生じるため数値目標には分野間の調整が必要だと考えている。もし、理工系などでアカポス男女比を50%すると言ったら、選考に歪みが生じるのは想像に難くないはずである。
(3)ライフスタイルの選好
これが一番燃えそうな気がするが、つまり女性は養うために仕事をしないという事である。
男女における賃金の格差は全業種において大きな問題のひとつだが、独身の場合、差はほとんどない事が各調査で示されている(そもそも同じ職位で性別による給与差があれば労基案件である)。では、どこで差が生まれるかというと、単純に結婚後にフルタイムワークからパートタイムに変更するからである。つまり、女性は結婚後に稼得業務を男性に委託する傾向にあると言える。これは各家庭の家事/稼得の比率を断定するものではなく総体として、女性は結婚、出産後に仕事を辞める傾向にあると言う話である。
ではアカポスと何の関係があるかというと、博士のアカデミアに残った女性も一定確率で仕事を辞めているという事である。つまり、単純に博士の数と出口であるアカポスの比率を比べても一生その溝は埋まらないのである。これは個人的な観測だが、女性である程度のアカポスにある人は医者や同業者などと結婚しており、男性のように専業主婦を養うようなスタイルは非常に珍しい。同期や友人の博士学生もプロポーズされたから辞めたいなどと言う始末である。これは全業種の女性が収入が高くても専業主夫を養わない事と同根であると考えている。
一方で男性は自己実現としての研究職と家族を養うという両軸のバランスを取りながら、覚悟を決めて科学を職業にしようとしている。実際にめちゃくちゃ優秀なのに家族を養うためにアカデミアを去った人を何人も知っている。
(まとめ)
以上をまとめると、現在のアカポス事情は女性の博士取得者の上昇に従い、男女比は改善しつつある。しかし、一定の低い分野や上昇の鈍さは女性そのものの選好も加味する必要があると言える。
しかしながら、現在進められているAAはこの結果を見ずに、ただ数値目標的に女性比率を上げようとしているものが大半である。これは平等を担保されるべきである選考を無理矢理歪めた結果平等であり、断じて許されるものではない。理工系などでは、その歪みによる若手のダメージは深刻である。
百歩譲って過去に機会レベルで男女差別があった事は認めよう。しかし、男女平等が一定水準でインストールされ育ってきた、我々若手男性が不当に差別を受けなければいけないのだ。看護系や美術系に男性が少ない事は、一切問題にしないのに、一部の理工系だけ捕まえて無理なロジックを使わないでほしい。
こっちは今後家族を養っていく事を踏まえて、覚悟を決めたチャレンジをしているのに"自己実現(笑)"みたいなノリで遊びに来ないでくれ。
実際に現場レベルで何が起きてるかと言えば、外国人留学生の女性とか教え子を2年とか助教として置いて、外国人1 pt, 女性1 ptと点数稼ぎしてるだけじゃないか。何の意味があるんだ。
声のデカい女性研究者が声高にAAを礼賛し、少しでも反論すれば差別者呼ばわりするのも辟易する。謎のポンチ絵で反論したり謎ロジックで脅迫しないでくれ。せめて科学者なんだから論理的な整合性を取ってくれ。
貴方たちが求めるアカデミアが、結果平等で男女比が均質な世界なのなら、立場の弱い私たちは受け入れて生きていくしかない。ならせめて、加害している事を受け入れてくれ。痛みも背負った戦いをしてくれ。アクロバティックに被害者にならないでくれ。いっそ「差別者だった性別の方に産まれたのが運のツキだったな!バーカ!死んでやり直すんだな!」とか言われた方が気持ちがいい。それなら我々は、男としてこの時代に生まれた事を受け入れて去っていくから。
恐らくこれを外で言えば、我々男性は一瞬でアカデミアから消されるだろう。もう動き出したのは止まらないし、誰も変えられない。我々20代からすれば抑圧者はいつだって女性である。
感情的に書き殴ったが、以上が今のAAに対する素直な気持ちである。これだけ間違っていても私は科学が大好きなので、科学をしながら家族と生きていける未来を模索していこうと思う。
会陽
即ち裸祭りは、天下の奇祭として広く知られているが、その歴史は遠く奈良時代に始まる。
東大寺良弁(ろうべん)僧正の高弟、実忠(じっちゅう)上人が創始した修正会即ち新年の大祈祷を開山の安隆上人が伝え、毎年旧正月元日より14日の間厳修されていた。
永正7年(1510年)忠阿(ちゅうあ)上人の時、修正会の結願の日参詣の信者に守護札を出したところ、これを戴く者は福が得られると希望者が続出し、やむなく参詣者の頭上に投与したので奪い合いとなり、身体の自由を得るために裸となり、無垢の信仰心は水垢離となり、遂に修正会と不離一体の今日の会陽の形が成り立ったと伝えられている。
どういうことかというと、寺の中央で札を投げる→それをみんなで群がって奪い合う→持ってた一人が幸運、という日本版バトロワなのだ
この祭りの攻略法は4人以上のチームを組んでアタッカーとディフェンダーに分かれて守護札を奪うのが肝になる
チーム組むのが卑怯では?と勘のいい増田なら思うだろうが安心して欲しい。守護札をゲットしたら他の人も一緒に祝ってくれるのだ
これは意味不明だがそういうものなので安心してチームを組んで臨んで欲しい
と言っても動画を見てくれれば分かるが群衆雪崩クソ喰らえなレベルで揉みくちゃになるので参加者は殴り合いになり血を流したり骨を折ったりしててヒョロガキは参加しない方がいいので身体をムキムキに鍛えた人か揉みくちゃの中合法的に殴れる機会が欲しいヤンキーが参加すべきだろう
なんだかよくわからない基準でよくわからない名前の賞を授与されていた。
渡す側が一番楽しそうだ。気持ち良さそうなオナニーだ、よかったな楽しくて。
私は誰かに『選ばれる側』に回るのが嫌いだ。ひいては『誰かを選ぶイベント』も大嫌いだ。
理由は当然「いつも自分は選ばれなかったから」だ。つまり私怨だ。
就活では何十社も受けて何十社も落ちた。最も景気が良いと言われていた時期にだ。
実のところ、誰かに「自分を」選ばれるような仕組みでなければ得意だという自負もある。
成果物を作ることには自信がある。卒論はゼミで一番よくできていると言われたし、数千人に一人レベルのコンテストで受賞したこともある。
だから厳密には「人間を審査して選ぶというイベントが嫌い」なのだろう。単に自分が苦手なことを嫌っているだけ。
だが、実際それが嫌いな人は少なくないのではないだろうか。
なぜなら「選ばれる側」は常に少数なのだから。大多数は「自分が選ばれないとわかっていて選ばれない」という結果を突き付けられるだけだからだ。
『就活が好き』だなんて変人は、就活でいくらでも望む内定を取れた上澄み1%未満だけだろう。
成果物系の選考も嫌いな人だっているはずだ。むしろそちらにも共感する。当然、無様に落ちた経験だって何度もあるからだ。
「人が人を選ぶ」という行為は傲慢で、おこがましい。それがシステム上必要だとわかっていてもだ。
それならまだしも、「人が人を裁く」という行為の方が理解できる。罪に対する罰。それは、そうあるべきだ。自分が対象となるとしても、納得できる。
だが……「人に選ばれる(選ばれない)」という行為は、罪も犯していないのに罰を受けるような気分になる。
なぜ選ばれなければならない? ふざけるな。
まぁ、それが嫌なら「選ばれない」立場になるために起業でもしろという回答にはなるのだろう。それは正論だし、自分でもそう思いはする。
ただ、今ここで書きたいのは正論でもなければ対策でもない。『選ばれる側』という状況がとにかく嫌いだと叫びたいだけだ。
その点において、数値式のテストは好きだ。
機械的な基準が明瞭で、それに従えば絶対に受かるか落ちるかに二分される。正当で迷いがなく、疑う余地もないし、何をすれば結果がどうなるかもすぐにわかる。
人間などという曖昧なものに意図的に選別をされるぐらいなら、数字によって結果が出る方が遥かにマシだ。
自分より能力が高かろうが、低かろうが、同じくらいだろうが、人間なんてものは曖昧で適当だ。
認識は不完全で、やり方は千差万別で、条件と与える情報次第でいくらでも結果が覆ることをよく知っている。別に、それはいい。人間の長所も短所も、それ自体はいい。
だがそれに選ばれたくはない。審査機構として、人間はあまりに不十分すぎる。
選ばれる側に回るのが嫌いだ。
ただそれだけの話。
西日本の地方都市在住。JRの在来線乗るとき最近はぜんぜんマスク着けてないけど、他の乗客からも駅員からも何も言われたことないよ。数十分にわたってボックス席とかにも乗ってるけど、別に、それで困ったこととかない。普通に対面に座ってくる人いるし。
大型書店? いや、別にいちいち着けてないけど。スーパー? 着けたり着けなかったり、気分で決めてる。映画館では映画泥棒が出たあたりで外してる。アニメイトでも割と平気になってきたよ。何度もノーマスクで入店して買い物してる。
ユニバーサルマスキング? 知らんがな。俺の生活様式をくつ王先生だか誰かに指図される理由はどこにもないんでね。そういう「全員で同じことをやりましょう」的な同調圧力というか全体主義が大嫌いなんだよ。これまでの人生で花粉が飛んでるとか埃っぽいとかで自発的にマスクを着けたことは何度もあるけど、それとマスク着用を強いられるのは全然別の話なんで。自発的にセックスすることと無理やりセックスさせられることは全然違う、って誰でもわかる話だよなぁ?
着けていたいという人は好きで着けていればいいけど、俺に着用を強制するな。俺がいつマスクを着けるかは俺が決める。新しい生活様式クソ喰らえ。俺の生活様式は俺が決める。
まあ、くしゃみが出るようになったり、花粉が飛び始めたり、埃っぽい部屋を掃除するときはマスク着けるけど、それは俺が判断することなんで。実際支障はそれほど出てないよ。なんだかんだで日本って自由の国だよな。マスク着用を法で強制するようなおファッキン人権侵害国家の住民じゃなくてよかったわ。
今の世の中、国際的な争いなんかを見ても、コロナ対策とか少子化対策とか国内的な問題ごとを見ても、高い実行力や問題解決能力を見せているのは往々にして強権的な政府を持つ国だ。
民主主義的な縛りで強権を発揮できない国はいつもいつも後手後手に回って国力が衰えていっている。
一方で、じゃあその民主主義で人々が幸福になれているかと言えば、そりゃあ独裁国家で生きるよりは恵まれているんだろうけど、結局、権力者優位には変わりない。
完璧な民主主義なんて絵に描いた餅で、人々は政治的無関心に陥り、制度はハックされ、民主主義というフィールドの中で上手いこと立ち回れる政治家や金持ちばかりが私腹を肥やす。
そうした権力者による腐敗を正すのはいつだって革命のような民衆による抵抗的暴力の行使だったけど、『法の支配』が行き届いた現代先進国ではそうした暴力行為は他ならない民衆自身によって忌避される。
だからルールを悪用し、ルール作りそのものに介入してくるような権力者に根本的な形で対抗する術は、法治主義国家にはない。
民主主義が国を縛るから国家は強い政策を取れないし、法治主義が民衆を縛るから人々は国の腐敗を止められない。
結局、民主主義国家の持続可能性は低く、ズルズルと弱く、そして腐ったモノになることが運命づけられている。
……と、ここまで言っておいてなんだけど、でも俺は民主主義先進国に生まれることができて良かったと思っているよ。
富国強兵なんかのためにたった一度の人生を使い潰されるのなんてごめんで、俺は趣味と自分の周りの狭い繋がりを最優先にして自由に自分の人生を謳歌したい。
デモとかも自分が気に入らないモノが叩かれていたら痛快に思うけど、それで交通が止まって会社に行けなくなったら「邪魔なんだよあいつらよ~」って悪態をついてしまう。
国家の行く末を憂いての崇高な革命運動よりも、自分の日常が滞りなく進行することの方がよっぽど大事だ。
そうやってこの国の未来よりも目先の平和と安寧を優先できる民主主義や法治主義が俺は心の底から大好きだよ。
でも同時に、せめて、それらの制度? 国家体制? が未来に対する不正義を内包していることくらいは自覚するべきなのかなと思う。
民主主義や法治主義をまるで理想的な国家体制の如く喧伝するのではなく、俺達は自分達の明日のためにそれらの制度を使って未来を食い潰していることにちゃんと思いを馳せるべきなんじゃないかな、と。