正確に言えば、「社会生活」のほうの寛容度が狭いんです。
こだわりがある人を「まあ根はいい人だけどね」と、それはそれとして扱う大人の社会にはなっていません。
同質であることを徹底的に求めるので、話題が偏っていればそれだけで奇人変人扱いします。
多数派に対して「なんだ馬鹿どもめ」と見抜ければいいんですが、そうでないと自分を責めるのでつらくなります。
そういうときに、双方に対して(これが重要)、こういう人もいていいんだ、というために病名がつけられることがあります。
「だるいから休みます」という病気もあるんだ、と思えるなら、つまり病名によって社会も寛容になり、本人も生きやすくなるなら、それは一つの解決です。
ところが、「社会」側の不寛容さは、病名をも叩く傾向にあるのでどうにもなりません。
感染症のハンセン病差別がこんなに長く続いた先進国は日本だけです。アメリカでは戦前に解決していました。
視点・認知のずれということが分からないと、「普通の生活」ができない=無能だと思い込んでしまう危険性があります。
私はアスペルガーやADHDはありませんが(うつ・不眠はあります)、それとは別に方向音痴です。
方向音痴に向かって、「どうして迷うんだ?」と怒られても困ります。迷いたくて迷っているんじゃないんだから。
方向音痴だけを取り上げて、
「あいつは使えない奴だ」(なら外回りの仕事を内勤担当にやらすな)とか、
「彼はインドア派だから付き合いにくい」(こっちだってムダに歩かされるのは願いさげ)とか、
「減点」で評価するのが、日本的評価法です。
こういう生きにくい社会に対しては、減点法では評価しきれない多用な才能がある、また多様な生き方があっていい、ということを常に言っていかなければなりません。
情けない話ですが、「日本人の精神年齢は12歳」とはマッカーサーの評価ですが、21世紀に入って精神年齢は下がる一方で、目下のところ4歳ぐらいかと思われます。異質な存在を全く認めないんですから。
「ヒトラーの素晴らしさが分からないのは精神病だ」というのは笑えない実話ですが、一時期の小泉人気や新保守主義に置き換えると、ぞっとしない話です。
今の日本では「発達障害」は差別をするためのラべリングにしかなっていないからね。