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2019-11-14

anond:20191114101959

KKO排除はつまるところヒトラー優生思想と変わらないわ

お前の考えはお前はアーリア人じゃないか死ねに行き着く

2019-11-11

正直ユダヤ人を根絶しても問題ないのでは?

治安環境観点から言っても今の倍以上は美化、清潔になるだろうし

アーリア人の方がスマート視点物事解決できるから、今よりもっと便利なグッズが出来るでしょうし

中々解決しなかった些事についてもすぐさま対応できる社会になるでしょう。

育児介護アーリア人だけなら安心ですし、通勤日常だって断然平和になる。それだけで素晴らしいと思いませんか?

それにアーリア人だけの方が協調性は湧きやすいし、国家として立派になれると思うんです。

アーリアファースト先進国として海外からも称賛されるに違いありません。

もっともその時には海外の方が国民アーリア人運動を完遂しているかもしれませんが!)

これを実施すれば混血問題も気にする必要はありません。あれはユダヤ人いるからこその問題ですし。

技術革新に伴って自然と淘汰されていくでしょう。

ほら、ここまで書いて貴方も分かったでしょう?

ユダヤ人がいなくても社会は回る。むしろ、より円滑に進行していくのです。

だとすれば、ユダヤ人を根絶しても問題ないのでは?と思うのです。

anond:20191110185048

2019-09-12

旭日旗ハーケンクロイツの違い

旭日旗

「太陽」「晴れ」を意匠化したもの

元は縁起物として家紋などに使われてきた。

1870年大日本帝国陸軍軍旗採用された。

これは日章旗日の丸)と菊の御紋を組み合わせたもので、

一般的旭日旗の光線が十六条なのは、菊の御紋(十六葉八重表菊)に由来する。

1889年には大日本帝国海軍軍艦旗としても採用された。

戦後、軍の解体に伴って「軍旗としての旭日旗」の歴史は途切れたが、

1954年自衛隊が発足するにあたり、帝国軍旗を受け継ぐ形で自衛隊旗として採用された。

近年、「韓国旭日旗批判2011年以降に作られた新しいもの」との風説があるが、

韓国中国過去ニュースを見ても、それ以前から日本軍国主義を思い起こすもの」として、

旭日旗批判的に認知されてきたのは間違いない。

ただし韓国における「戦犯旗」という蔑称2012年頃につけられたものである

ハーケンクロイツ

鉤十字

ヒンズー教仏教など、古くからさまざまな宗教民間信仰で「幸運の印」などとして用いられてきた。

1900年から、「アーリア人」がヨーロッパ人共通祖先であるという思想アーリアン学説)のもと、

ドイツ国内でハーケンクロイツは「最も優秀なアーリア人であるドイツ人象徴」とみなされるようになり、

1919年設立されたナチスもそれを踏まえて1920年党旗ハーケンクロイツとした。

1933年ナチス政権を掌握するとハーケンクロイツ国旗に準ずるものとされ、

1935年にはハーケンクロイツ正式国旗となった。

終戦後、ハーケンクロイツナチズム象徴とみなされ、ドイツでは公の場での使用禁止された。

1990年東西ドイツ統一以降、ネオナチ活動顕在化するにつれて、

ハーケンクロイツへの警戒も強まっている。

イギリスヘンリー王子ナチス風の軍服を着ていたという2005年問題きっかけに、

ハーケンクロイツ使用EU全域で禁止する法案が提出されたが、

これはヒンズー教徒の反対などにより阻止されている。

考察

こうして見ると旭日旗ハーケンクロイツに大きな差はないように思われる。

特に「元は平和的な図案だったが悪質な政治に利用された」といった話は双方に共通する。

ただ、ハーケンクロイツが直接的に「(悪であるナチスシンボル」とみなされるのに対し、

旭日旗は「(悪である大日本帝国軍隊シンボルであるため、やや間接的な関係に思われる。

このあたりの印象の差があり、ハーケンクロイツほどには規制されなかったのだろう。

また近年のインターネットの普及によって、各国のナショナリズム的行動が可視化されたことで、

より大きく反発が起きるようになった面もあるのではないかと思われる。

旭日旗について言えば、

明治になってから軍旗として採用され、菊の御紋と重ね合わされる「十六条旭日旗」が、

皇国史観軍国主義と結び付けて見られるのは仕方ないのではないか

仮に旭日旗使用擁護するならば、「元は平和的な〜」や「奇誠庸が〜」などではなく、

「十六条旭日旗のみ」に問題限定したり(この場合海上自衛隊自衛艦旗は変更することになる)、

思想的なシンボルではなく軍旗にすぎない」ことを強調する(この場合自衛艦旗としての利用は擁護するが平和的な場では使用を控える)、

といった点を前面に出したほうが良いのではないかと考える。

2019-07-09

anond:20190709111416

弱者を殺せ」って叫び始めた社会自分の足を食い始めたタコのようなものからそう長くはもたないと思う。

横だが本当にそうなんだろうか?

そもそも弱者を殺さないで成り立つ社会になったのごく最近、ここ百年未満の話であって

それまでの歴史弱者を殺さずに成り立っていた社会って史実のどこにあるんだろう?

もちろん逆説もある、たとえばナチ代表される弱者と見込んだら全て殺す社会はかなりの速度で滅んだ実績はある

まあそれを言いだすと、滅びてない社会ってどこにあるんだろうって話でもある。


「なるべく長く」「社会を維持する」という目的を達成するとき弱者の切り捨てが絶対悪であるという証拠はどこにあるんだろう?

ナチだけ?そもそもアーリア人絶対主義ナチだけじゃなく、アメリカイギリスフランスイタリア欧米諸国ではあの当時割と普通の考え方で

その代表奴隷制度であり、KKKなわけで、たまたまナチドイツが早めに滅びただけでしかない。


個人尊重」というのは太平洋戦争の教訓からまれた新しい社会の考え方で、

それまでは日本欧米も家、そして国、つまり社会を基本として社会を維持してきた、そこに異論は無いと思う。

では、フェミポリコレ弱者の切り捨てに代表される個人尊重することで社会を殺していく場合

本当にその「社会」は維持可能なんだろうか?

そもそも社会の維持とはなんだろうか?選択肢が多い社会の維持することだろうか?日本という国名が残っていくことだろうか?大和民族が生き残ることだろうか?

日本語が残ることだろうか?日本社会インフラを子供達に残せることだろうか?年金を孫世代にのこせることだろうか?痴呆老人が死なない社会を維持できることだろうか?

2019-06-04

anond:20190603174014

優生思想の話とは少しずれるが

世の安易に「ナチス擁護するオレ格好いい斬新画期的」と思ってる人には一言したい

ナチス的な優秀な人間けが繁栄すればよいのだ思想の信奉者は

絶対自分をその優秀な人間に分類される側だとか脳天気に思ってるだろ?

で、ナチス時代ドイツではユダヤ人や非アーリア人は嫌な思いをしたけど

世間の大多数の普通ゲルマン系ドイツ人はみんな幸福だったとか思ってるだろ

ところがどっこい

世の中は「純血のゲルマン人は神/ユダヤ人ゴミクソ」とかい

単純な二分法では割り切れず、大量の「白でもない黒でもない中間」がいるわけ

で、ナチス時代ドイツはどうなったか

善良なドイツ人が皆お互いに

「お前、祖父の代までさかのぼったら純血のアーリア人じゃないだろ?」

「お前こそ、曾祖父の代までさかのぼったら純血のアーリア人じゃないだろ?」

「お前こそ5代さかのぼったら同上」

「お前こそ10代さかのぼったら同上」と言い合い、

一生懸命に「理想的ゲルマン人」の骨格に合致しているかどうか

顔の額の広さや顎の広さをミリ単位で測って競い合うようになった

なまじ、ある一種類のみが優等、逆にこれは劣等なんて基準を作ると

際限なくこーいう相互疑心暗鬼で「こっちが優等」争いになるわけ

そーいうギスギスした世の中を防ぐためにも

「みんな違ってみんなダメ」が理想的なんだよ

「みんな違ってみんな良い」などという綺麗事は言わぬw

あいつらはダメ、でも俺もダメな部分がある、と認められる謙虚さが必要

2019-06-03

anond:20190603174014

優生思想の間違っている点

 

①当時の技術では、ある遺伝が「優生」かどうか判断できるわけがなかった。

アーリア人種が優越しており、ユダヤ人が劣等である、とかいうなんの根拠もない断言がメイン。骨相学のような初期の遺伝研究にも見られた間違いで、欧州人白人富裕層意味もなく上に起きがち。

(注意:いまも出来ているとはとても言えない)

 

②ある遺伝先天的に持つことからといって、その遺伝的形質を発現するとはかぎらない。

例えば数学天才遺伝子をもつからといって、満足な教育を受けずに高校レベル数学を解くのは不可能である泥棒遺伝子をもつとしても、毎日満足なお小遣いがあるならば万引きをすることはないであろう。

遺伝があることは、その特質を発現することとは違う。遺伝のみでその後の人生能力判断できない。

 

③いまの社会に最大の利益をもたらす能力人間は、20年後社会に最大の利益をもたらすとはかぎらない。

プログラミング天才になる遺伝を持つ人間は、50年前は凡人だったのか? 同様に、我々は根本的に未来について無知であるから未来社会利益をもたらす遺伝特質を知ることができない。

 

 

まとめ。

優生思想に陥るもの現実空想区別がついてない。

2019-05-27

anond:20190527170749

ユダヤ人店主が善良なアーリア人をだまして小銭を巻き上げる被害が横行している

詐欺師を撲滅するためにユダヤ人専用商店街アーリア人専用商店街を作ろう!

詐欺師以外のユダヤ人アーリア人も何も悪くないよ!誰も責められてないよ!詐欺師だけを責めてるよ!

なんでこれがユダヤ人差別につながるのかわからない

2019-04-07

anond:20190407225609

アーリア人種が優れてるのも医学的に認められてたと思うよ、認められなくなるまでは

2018-11-22

anond:20181122005215

それお前の偏見じゃん

アーリア人以外は劣等だとみなして収容所送りにしそうな人ですね

2018-09-19

anond:20180919112852

人はそれを「優生思想」と言います

優生思想が抱える価値観問題なのは

その基準は「勝手理屈」に過ぎないということです。

アーリア人至上主義によって、ナチスドイツ虐殺肯定されたりしました。

別に世の中に人の能力価値をはかる絶対基準存在するわけではないので、

その絶対基準がわかったような気になっている「優生思想」は、

「おれは世界の真理を知ったんだ」という様なものヤバい奴です。

2018-07-30

杉田議員LGBTに関する発言

いきなり本題から

議員が「LGBT生産性がない。よって彼らを優遇するな。」と言ったとする。

この裏は「生産性のある人は優遇されるべきである。」ということになる。

元来、「国が○○を優遇する」ということに対しては極めて慎重でなくてはならないはずだ。

(○○に”アーリア人”などと代入すればわかる)

誰かの優遇と誰かの冷遇は表裏であるし、国が人々をある状態積極的誘導することは良心の自由に対する緩やかな侵害であるからだ。

しかしその中で、「子供を産み育てる」ということは優遇されるべきこととして広く容認されている数少ない行為ひとつである

なぜなら、われわれは全員いつか老人になり誰かの子供に食わせてもらうことになるからだ。

いくら自己決定云々言ったって、誰かが子供を産み育てないと国が続かないからだ。

よって、LGBT優遇することに慎重であるべき、という議員の主張は正しいと思う。

同時に、彼らに対する排除や不当な不利益排除することも議員の務めである。そのことも忘れずに頑張っていただきたい。

2018-04-25

anond:20180425202249

「犬とユダヤ人お断りレストラン要る?」

ユダヤ人「は?要るわけないじゃん」

アーリア人「ほしい!」

両方に聞いたうえで要る人向けに作っただけなのでこれは差別にはあたらない

2017-08-31

麻生の「ヒトラー動機が正しくても」発言で…

麻生本来趣旨は「政治は結果だ。ヒトラー動機がたとえ正しかったとしても、結果として何百万人もの人間を殺したのだからダメだ」という話なので、麻生は「ヒトラー動機も結果も悪い」と言っている。

ここで気になるのは、麻生が例示した、「何百万人もの人間を殺す」ための「正しい動機」に何があるのか、という問題だ。

ヒトラーの「悪い動機」としては「アーリア人のための優性思想」というやつがあるだろう。

麻生は「どんな正しい動機でも何百万人も殺すことになってはダメだ」と言っているのだが、その「正しい動機」は何で、どんな「正しい動機」なら何人まで殺すことを良しとすると考えているのか。

2016-12-04

死の収容所へ 1

ヨーロッパユダヤ人絶滅の準備

 ドイツ軍ソ連侵攻は「特別行動隊」(Einsatzgruppen :アインザッツ・グルッペン)によるすさまじい組的殺作戦をともなっていた。侵攻から数週間を経ずしてナチスは他のヨーロッパ地域に住むユダヤ人絶滅作戦の準備に着手した。1941年7月31日、ゲーリング( Herman Göhring 空軍相、元帥)はラインハルトハイドリヒ(Reinhard Heydrich SS上級部隊隊長、SS大佐)に次のような命令を伝えている。

「次を命ずる‐貴官は、ヨーロッパドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の『最終的解決』に関する組織、実務、そして財務上の必要なあらゆる準備にかかり、… さらに、ユダヤ人問題の『最終的解決遂行にかかわる準備組織、実務、そして財務上執るべき手段計画の全容を、本官に対し速やかに提出せよ」

 この任務遂行の準備を調整するためハイドリヒは1942年1月20日、ヴァンゼー(ベルリン郊外)に会議召集した。会議にはドイツ帝国閣僚の面々、ヨーロッパ占領地域各国のドイツ総督、そして、ゲシュタポ本部ドイツ移民ユダヤ人局長・アドルフ・アイヒマンを含むSSの上級将校たちが出席した。

ヴァンゼー会議」の決定はやがて、政治および軍事面において、全世界に重大な展開を引き起こすことになる。

 1941年12月11日日本軍による真珠湾攻撃を受けてドイツアメリカ合衆国に対し宣戦を布告した。戦争はすでに人類を連合国側と枢軸国側に隔て、全世界を巻き込む総力戦様相を帯び始めていた。この新しい局面は、ドイツ戦争遂行上の衝害から解き放った。ドイツにはもはや政治的配慮や「ユダヤ人の大量殺戮がもう始まっているのではないか」という世界世論に気がねをする必要が全くなくなったのだ。

 ヴァンゼー会議の進行は詳細にわたって記録され、議事録ニュルンベルク国際軍事法廷証拠として提出されている。それによれば、ハイドリヒはまずヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決について自分ゲーリングから全権を委譲されていることを告げて会議を始めた。会議の中でハイドリヒは次のように述べている。

総統意向により、ドイツ移民は目下ユダヤ人をことごとく東方追放し、その跡地に対して行われることになった…

ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決の中では、各国に散在する約1100万人のユダヤ人が考慮されなければならない。次のとおり…」

 ここでハイドリヒはヨーロッパ33の国と地域ユダヤ人口をリストに揚げている。リストにはドイツ占領国や同盟国とは別にイギリスソ連ヨーロッパ地域、また中立国ポルトガルスペインスウェーデンスイスアイルランドトルコといった、ドイツ占領する予定だった国も含まれていた。

 ユダヤ人大量虐殺の実際の準備はハイドリヒによる組織の準備と同時に進められた。1941年夏、ハインリヒ・ヒムラーアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスを呼んだ。ヘスは戦後証言で「ヒトラーユダヤ人問題の最終的解決の実行を決断したことを、このときヒムラーから知らされた」と明らかにし、さらに次のように述べている−「事実東部で行われているようなやり方(ソ連地域でのユダヤ人殺害特別行動隊による狩り込みと射殺)では与えられた任務対応できなかった。絶滅という任務のためには、特にアウシュヴィッツ収容所対応させる必要があった」。

 この会談の直後、アイヒマンアウシュヴィッツを視察している。二人は、ソ連で行われている射殺は大量の人間を短時間のうちに皆殺しにするには不向きであり、大量殺戮はガスを使う他はないとの結論に達した。

 ガスを使った殺害ナチドイツにとって初めての経験ではなかった。すでに「安楽死計画」において、ガスが使用されている。この計画1939年9月から1941年8月末まで実施され、7万から9万人にのぼる精神病者と重度の障害者がガス殺された。わずかにユダヤ人も含まれていたが、このとき犠牲になったのはほとんどがドイツ人だった。ナチスはこの「安楽死計画」を、「役立たずの穀つぶし」—ナチは彼らをそう決めつけた—を国家から駆逐し、アーリア人種の優性を高めるための手段だと考えていた。ヒトラーはこの計画にあたり「T-4」という秘密組織を発足させている。「T-4」は総統直属の正式組織として医師を擁する医療関係の諸機関大学研究所病院等)を支配した。不治の病に苦しみ死を待つばかりとなった病人たちの命運が、かれら医師たちの手に委ねられた。

 かくして犠牲者たちはそれぞれの医療機関に用意された気密構造の部屋へ案内され、ガスによって窒息したのだ。死体特殊な焼却炉で燃やされた。このガスを使った安楽死はすぐに外部に露見し、ただちにこの殺害行為をやめさせるための抗議行動が‐特に犠牲者の遺族と教会から‐起こった。ヒトラーは譲歩し、1941年8月末、これら医療をかたる殺人を当面中止するよう命じた。

 しかしこの安楽死計画の中で蓄えられた経験は、「最終的解決」の準備をしていたSS当局に役立つことになったのである

絶滅作戦

 絶滅作戦としての最初のガス実験は1941年9月アウシュヴィッツで行われた。ソ連軍戦争捕虜たちが実験台に選ばれた。彼らは密封された地下室に閉じ込められ、チクロンBによってガス殺された。非常な短時間捕虜たちは窒息死した。以後続けられた一連の実験で、ナチスはガスという新しい殺害方法を開発するめどを立てるに至った。同じ頃「特別行動隊」も、ハイドリヒ指揮下のSS技術局の援助を受けて同様の方法を開発している。ここでは「ガス室」の代わりに「ガス・トラック」が用いられた。この車の外見は救急車冷蔵車に偽せてあったが貨物室は気密構造となっており、マフラーから貨物室まで 延ばされた特殊パイプ排気ガス中の一酸化炭素を密閉された貨物室に直接流し込むようになっていた。犠牲者たちが貨物室に入れられるとドアが閉まり、鍵が下ろされ、そしてエンジンがかけられた。

 「ドライブ」は、全員が死亡するまでに30分も要しなかった。所定の場所に着くとドアが開けられ、死体は運び出されて埋められた。この「ガス・トラック」は、大型のものでは150人を、小型のものはその半数を収容した。ソ連ドイツ占領地域では1941年12月だけで、数千にのぼるユダヤ人が「ガス・トラック」で絶滅させられている。

 1941年12月8日。占領ポーランドのロッヅ管区ヘルムノ村(ポーランド名ウッヂ市ヘウムノ)近郊で最初絶滅収容所が稼働を始めた。殺害には「ガス・トラック」が用いられた。犠牲者たちは主に列車で運ばれ、収容所の近くで降ろされた。そこは一部を公園に囲まれ崩れかかった古い宮殿の中央広場で、人びとは垣根に囲まれ区域に通されると「労働に就く前にこれから車に乗ってシャワーを浴びに行く」と告げられ、次のように言い渡された。「衣服を脱いてこの車に乗るように」

 「ドライブ」が始まった。車が4キロメートルほど走ったころには、排気ガスによって全員が毒殺されていた。「終点」は森の中の柵で囲まれ場所で、そこにはこの仕事のために特別に殺されずにいるユダヤ囚人の一団が待機していた。彼らが死体を車から降ろし、そして埋めた(後には死体は焼却処理されるようになっている)。ヘウムノではこうした「ガス・トラック」が3台稼働し、当局員として150人ほどの警察官とSS隊員を擁して1943年4月に一旦閉鎖されるまで稼働し続けた(その後1944年から3ヵ月あまり再稼働)。ここではロッヅ管区他から連行されたユダヤ人と少数のロマ・シンティヨーロッパ語名ジプシー)の集団、合わせて30万人近くが殺害されている。

 1941年11月ポーランド総督管区内でユダヤ人絶滅作戦の準備が始動した。ヴァンゼー会議ハイドリヒの挙げたポーランド在住ユダヤ人口は228万4千人であるハイドリヒは1942年5月にチェコレジスタンス暗殺されたがそれ以後この暴挙は彼のファーストネームに因み、ドイツ政府より「ラインハルト作戦」のコードネームを与えられた。作戦指揮官には後のルブリン管区SS司令官警察長官、オディロ・グロボチュニクが任命された。グロボチュニクは3つの絶滅収容所計画を実行に移した。1942年3月中旬、まずベルゼック(ポーランド名ベウゼッツ)収容所、次いで同年5月ソビボル(同ソビブル)収容所が、そして7月末には第3の収容所、トレブリンカが大量虐殺を開始した。ドイツ東方植民地に設置されたこれら3つの収容所はいずれもガス室を備えていた。ここでは一酸化炭素ガスが使用され、ガスは屋外に設置されたガソリンまたはディーゼルエンジンからパイプで引き込まれた。それぞれの収容所には2、30名のSS隊員と、90から120名のウクライナ人(もとソ連軍捕虜で、ナチス・ドイツに協力を申し出た者)が 当局員として駐在した。SS隊員のほとんどは「安楽死計画」の要員から抜擢された者たちで占められ、後者ウクライナ部隊はルブリン近郊のトラヴニキにあったSS錬兵場で編成・訓練を受けたので、付近住民からは「トラヴニキ・マン」と呼ばれていた。

 ヘウムノ、ベウゼッツ、ソビボルそしてトレブリンカの各絶滅収容所は、文字に違わぬ殺人工場だった。連行された人々は、そのままガス室直行させられたのだ。何百人かのユダヤ囚人処刑を免れていたが、これは当局員と囚人たちの身の回りの世話のためであり、こういったグループはすべて数週間あるいは数ヵ月ほどで殺され、随時交代させられていた。

 ルブリン近郊のマイダネク収容所ユダヤ人、非ユダヤ人双方を収監する完全な構造を備えた強制収容所で、この地区にある他の収容所は全てマイダネクの補助収容所として機能していた。おびただしい数のユダヤ人がここで殺され、あるいは移送中に通過し、あるいは囚人として収監された。この中にはポーランド軍属のユダヤ人戦争捕虜も含まれている。マイダネクを生き残った者は数えるほどしかいい。

 強制収容所および絶滅収容所のうち最大の規模を持つアウシュヴィッツ収容所は、第三帝国ポーランド南部シレジア地方建設された。1940年、早くもアウシュヴィッツ村(ポーランドオシフィエンチム町)に近い旧ポーランド陸軍兵舎敷地強制収容所が設置されている。これは元々ポーランド軍将校政治犯収容するためのものだったが、I.G.ファルベン社などドイツ軍工業囚人労働力を提供するため、収容所近辺に多数の労働収容所が補助収容所として置かれるようになった。1941年にはビルケナウ村(ポーランド名ブジェジンカ)に最大の規模を持つ絶滅収容所アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)収容所建設が開始された。ビルケナウはアウシュヴィッツ基幹収容所アウシュヴィッツⅠ)から西へ約3キロメートルの地点にあり、1942年5月に稼働を始めている。チクロンBを使用するビルケナウの4つのガス室は一度に1万2千人を殺害する能力を備えており、死体ガス室に隣接し連動する焼却炉(ナチはクレマトリウム火葬場と呼んだ)で 焼却された。焼却炉は24時間あたり8000人分の死体処理が可能だったが、1日で殺害される人数はこれを上回っており、残りの死体ガス室近くの森の中で野積みで焼かれた。アウシュヴィッツでのガス殺は1944年末まで続けられた。2つの収容所は約2500名のSS隊員を擁して1945年1月まで稼働し、その間に130万から150万のユダヤ人を含む、180万から200万人が殺害された。

 アウシュヴィッツビルケナウ収容所絶滅収容所と同時に強制収容所としても機能していた。殺されるために収容所に到着した人々は「選別」を受けるよう命じられることがあった。若く屈強な男たちは絶滅の集団からはずされ強制労働に就かされるか、他の収容所移送された。他に子ども双生児脊髄障害を持つ遺伝病患者などが選別の対象となった。彼らはドイツ人医師たちの医学実験用に選ばれていたのだ。医学博士ヨーゼフ・メンゲレは、医師団の中でもとりわけ悪名高い。

 生き残った囚人たちも「選別」を免れたわけではなかった。1日に何度も行われる点呼で衰弱したり病気にかかった者、または労働に適さない者が見つけ出され、彼らはガス室に送られた。

 厳格をきわめる制度の下に束の間の余命時間が貸与され、囚人たちはそれを生きていた。飢餓さらす、むち打ちなど懲罰の苦痛を与える−この種の非道所業はすべて囚人たちの心身を消耗させ死に至らせることが目的であり、SS隊員でもなければ思いつかないようなものばかりだった。 恐怖は、囚人たちの日常だった。囚人バラックから毎日、何十体もの死体が運び出されていた。 アウシュヴィッツビルケナウ−ここで心身を全うし得た者は、ごくわずかにすぎない。

2015-10-17

僕が子供を欲しくない理由

まず大前提として僕はきわめて子供が好きだ。あやしかたなんかうまいほうではないけれども彼ら彼女らはとても愛らしい

道行く子供など見ているだけでも楽しい

ただ僕が子供を好きであることと子供自身が持つ人生は全くの別だ。100%の主観他人を見て関与するのはやめておいたほうがいい

それがたとえ愛だとしても


現代歴史上で最も人間人間らしく生きることが難しい時代だと感じている

「なにをバカな、昔は宗教戦争があってコロッセオで人を虎に食わせて結核にかかったら必ず死ぬ時代だったんだぞ。今は飢えて死ぬことはどんなに貧乏でもありえなくどこにでも行ける交通手段があって子供武器なんか持たせなくていいんだぞ」

とおそらく人は言う

けれど闘争弱肉強食宗教という信念に準じた戦争尊皇攘夷日本赤軍アーリア人の強烈なナルチシズムもどれも人が自然に生きる中で生じた出来事であり、人としての感情が素直に発露した結果である。ここで書きたいのはそれが良い悪いの話ではない

現代暴力権力自意識、怒りなど人が最もエネルギーを発揮する感情は全てそれがどんなに小さいものでも即座にたたきつぶしにくる

かわりに悲しみや平和ばかりが讃えられる。何か犯罪が起きた時に被害者遺族の悲しみには同情しても加害者の怒りにはほぼ誰も同情しない。特に女性は100%と言って良いだろう、聞いてみればいい

「君はストーカーに同情しますか?」と

まれた時からほぼ全員が道徳正義常識にそぐわない怒りというものをこれでもかと封じ込められてきた

しかしまともに生きてきた人間なら怒りほど行動力思考力や集中力を高ぶらせるものはないと知っているはずだ

自意識激情には徹底的に蓋をする。そういう時代

けれど「私」に蓋をすれば同時に悲しみや喜びにもふたをする。エーリッヒ・フロムはそれを抑うつの正体だと言った

これは何も先人達闘争によって獲得された現代平和否定する話ではない。ただ人が有機体として生きるとは何かという話である

東京を歩いているとたまにどういう気持ちでいればいいのかわからなくなる時がある。人はその時々の環境によって見せる顔も役割気持ちも違う

家で鼻くそほじくっている時と仕事している時

吉野家に入る時とフレンチに入る時

歯医者に行く時と図書館に行く時

アルマゲドンを見ている時とホタルの墓を見ている時

意識せずとも経験自然感情の流れでその場その場に適応していく

悲しい時には泣けばいいし笑いたい時には笑えばいい。そうやってその場の温度がつくられる

けれどどういう気持ちでいればいいのかよくわからなくなる時がある

パチンコ屋の上に精神科のクリニックが入っているビル

貼り付けた笑顔接客するファミリーレストラン

タバコを売っているJTが設置した喫煙所嫌煙広告

ingress提供するgoogle

大手TVに出演する元不良のコメンテーター

笑ってセックスするAV女優

二面性を否定するほど子供ではないがそれでも憂慮も沈黙も罪悪感も置き去りにしているように見える無機的に見える事物が多い

愛よりも金や資本有機体よりも無機質な物の趨勢がかなり強くなっているように感じる

前後が逆だ。英語表現するとわかりやす

I have to do 私は何かをしなければいけない

I am to do 私は「可能性、責任運命、予定、意志」で何かをする

何かを持って何かをするというのはしなければならないと訳される一方で後者は自らでいるために何かをすると訳される。言語というのはかくも面白い

例えば笑って接客する店員はHe has the job to laugh at strangers with no reason.となる

直訳は彼は理由もなく他人笑顔を振りまく仕事を持っている、省略すれば彼は笑わなければいけない、だ。

持つことを否定するわけではない。仕事金も車も恋人も持つために持つと書くと強制になってしまう。欠乏している他人をさげすむ人は必ずこの思考様式である

自身も金に脅かされほとんど逆転してしまっている。もう抗うことは不可能なほど機械化もとい無機化が進行している

2045年には技術的特異点によりいよいよ機械が人を超える時が来るようだ

時代が悪い。過激な言葉でいえば人が生きている時代じゃない。そんな時代に僕は子供を欲しくはないんだよ

2015-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20150212071914

だよな。アーリア人は優秀な成果を収めてきたからこれから世界を主導するべきだもんな。

2013-09-14

知り合いが死んでも泣けない

40年以上生きてきて、知ってる人が死ぬのを何度も経験してきた。

爺さん婆さん、大学時代の恩師、友人、従兄弟。あと、ポチ

でも、一回も泣いたことが無い。

葬儀の場では全然涙がでないし、漫画とかドラマであるような、

葬儀の1週間後ぐらいにその人の死を実感して号泣するみたいなのも無い。

そもそも、知り合いが死んでも特に悲しい気持ちにならないんだよな。

俺っておかしいんだろうか?一度友達にこのことを話したときは、

笑いながらひでー奴だなって言われたけども。

ただ、言い訳じゃないが、別に涙がでない人間ってわけじゃないんだよね。

俺はアルマゲドンを観て泣くし、タイタニックでも泣ける。

この前、ムダヅモ無き改革って漫画で、小泉純一郎ASIMO

スーパーアーリア人と化したヒトラーを命をかけて倒したのを見たときも泣いた。

創作の死では結構泣けるんだよ。例えそれがかなり馬鹿馬鹿しいものであっても。

なのに、知り合いの死じゃ全然泣けない。

昔、あまりにもオナニーばっかりやってると、オナニーの刺激やオナニーでの逝き方に

慣れてしまって、セックスじゃ逝けなくなるって話を聞いたことがあるけど、

俺の場合もこれと同じようなことがおきてるんだろうか?

小さい頃から創作での人の死の表現を見すぎてしまって、演出された人の逝き方

じゃないと、人が逝くということを実感できなくなってるんだろうか。

親が死んだ時も泣けなかったら、嫌だなあ……。

2010-09-28

南京大虐殺はすべきだったし、朝鮮人強制連行はすべきだった。

南京大虐殺はすべきだったし、朝鮮人強制連行はすべきだった。

俺は今まで日本植民地支配は人道的で、インフラ整備や現地人のために教育を施したり、素晴らしいものだったと錯覚していた。でも、最近ニュースを見ていると、どうやらその方法は間違っていたということに気がついた。欧米列強の猿真似をして、植民地支配をするなら、徹底的にそういうことも真似するべきだったんだ。

日本は和をもって尊しとなすと言うけれど、その方法で支配をした国なんてほとんど知らない。野蛮人を手なずけるなら、最初に徹底的に主従関係をはっきりさせ、反抗する気がなくなるくらいいじめ倒してやらないとダメだ。下手に絶滅寸前のハングルを掘り起こして教育をしたばっかりに、猿に知恵がついてあることないこと吹聴される。そんなことなら本当に歴史を全て書きかえてやればよかったんだ。南京大虐殺だって、下手に中国人を生かしているから謝罪と賠償を要求される。あのとき皆殺しにしておけば今こんな事にはならなかったんじゃないかな。

アフリカ人は欧米に反抗しようなんて思わないし、実際身内の争いでそれどころじゃない。アジア日本が支配した時に、平和じゃなくて身内同士の軋轢を残す政策をすればよかったんだ。具体的に言うと、インドの支配は本当に素晴しいと思う。アーリア人は現地人を奴隷アンタッチャブルに置いて、ヒンドゥー教という強い理由づけを強いた。前世の業のせいだと本人たちは信じきっているし、アンタッチャブルはその中でお互いを見下しあって、ほんの最近まで身分の差に疑いを持つことなんてなかったんだ。今だってそうだ。そんなのが1000年以上続いてる。士農工商の下に設けた身分のように、植民地政策をしている国の人々はそういう身分に置くべきだったんだ。もちろん、今の台湾人みたいに、日本の統治を良かったと言ってくれる人も少なくないけど、あることないこと言われるどころか、無いことばっかり言われて、それにお金を払う事になるなら、最初からそういう事をしておけばよかったと思う。

ナショナルジオグラフィックでやってる「犬の気持ちわかります」でも言っているように、犬と人間最初上下関係をはっきりさせないと、飼い主にも犬にも不幸な結果を招く。犬は犬らしく育ててやらないと勘違いして飼い主にかみつくんだ。

2009-11-15

また人権真理教徒

http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20091112/1257981327

「彼ら」はノタマウ。「デメリットはちらほら見たことがありますが、メリットは?と尋ねても答える賛成派はいないんですよ。」と。それがどんなに恥知らずな質問か(もしくは己の無知を曝け出す質問なのか)、全く気づいてない。これは二重の意味恥知らずなんだけど、まず第一に、「メリット/デメリットで語るべき問題なのか?」ということである。

これは酷い人権真理教www いの一番にコメ欄に駆けつけているのが有村であるのもまた味わい深いw はてさの典型のように見えるが、プロフィールには「ネット右翼」と書いてあるw 何が何だかよく分からんw いや、どっちでもいーんだけどw 問題はそこじゃないw

自分が支持する施策の「メリット」すら語れないばかりか、それを問うこと自体を拒絶するのは「二重の意味恥知らずwww

「それがどんなに恥知らずな」ことなのか「全く気づいてない」愚かさには目も当てられないwww

ここにあるのは単なる盲信w 反対の反対をして「清く正しい自分」に酔っているだけwww

このようなバカわ戦前であれば「天皇陛下万歳お国のために雄雄しく死ね」、ナチス政権下では「アーリア人サイコーユダヤ人殺せ」、「お隣の国」に生まれていれば「偉大なる主席様」と「ノタマ」っているに決まっておるw

手近に転がっていた教義を自らの拠り所にすると、後はひたすら無自覚無批判にそれを絶対不可侵のものとして奉っているだけであり、こいつの場合はたまたまそれが「人権」であったり「民主主義」であったりしただけの話であるwwww

この恐ろしいまでの思考停止w 学校のセンセーに「人権は大事だよ」と教わったから、それを繰り返しているだけであり、信じていたものがオウム真理教であれば、「ポアしなきゃ駄目だよ」と言わた途端にヘーキでサリンを撒いていたことであろうw

こんなこと言ってもバカだから「なにをいいたいのかわからないだろうとは思うけど」さwww

2008-12-24

http://anond.hatelabo.jp/20081224024011

っていうか、不寛容の何がまずいのかなぁ。

そういうことを平気で言える感覚が恐ろしい。

かつて、ナチスドイツでは「人種的に優れた」アーリア人どうしの強制結婚が行われ、

その一方でユダヤ人障害者絶滅政策が行われた。

翻って現代日本では、非モテへの憎悪が高まりつつあり、非モテは常軌を逸した迫害に晒されている。

お前ら恋愛至上主義者はナチ的な優生思想に基づいて非モテを「生きるに値しない劣った集団」と規定し、

その排斥を公然と主張している。

お前らのような人間が多数派を占め政治的実権を握っている現代日本は、まさにナチスドイツの再来だ。

2008-08-17

トリ-ナチ-経営学論争への個人的疑問総まとめ

増田では概ね有意義な反応が尽きたようなので、戦闘的でも粘っこくもなさそうな方に試しにトラバ

http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080814/1218670547

さて不謹慎な表現など多々あるかと思うけど、以下に私的な疑問・論点をまとめます。

時間掛けて経営学医学倫理学歴史学を学んでたら、軽くクリアーできる論点・誤解もあるかも知れないけど、その他も含めてご容赦を。

●論点1 トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。

●論点2 「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスホロコーストを行わなかったのだろうか?

●論点3 「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。

●論点4 経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?

●論点5 トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?

●論点6 トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。

●論点7 むしろ平時に「かわいそう」の論理を追求する方が、長期的には「かわいそう」な人を増やすのではないか。

●論点1

トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。

たとえば、短い時間で選択を迫られるという意味でなら、(汚い例で恐縮だけど)映画館で上映開始数分前に便意を催し、

そこで素早くトイレを済ませるか、そのまま2時間前後我慢するかなど分単位決断を迫られたりとか、

あるいは語源となる(らしい)コーヒーの選別作業など秒単位決断を迫られる行為が、実は日常でもよくある。

もちろん時間以外の資源をモノサシにする場合も同様に議論を進められるはず。

つまり、時間等の量的な制約をその条件とするのであれば、いわゆるトリアージ以上に「極限状態」とみなせる

選択はいくらでも存在することになり、なぜトリアージだけを取り上げて「極限状態」と呼ぶのかがわからない。

そして呼ぶだけならいいとして、そこに殊更特別な意味を見いだそうとする行為には恣意性が入って来ないか?

明確な基準がなくはっきりしないせいで、そうした疑問が浮かんでしまう。

もし資源制約等々を最初から全部取っ払って、人の命を「切り捨て」るプロセスを指し「極限」と呼ぶのであれば、

蘇生行為の中断や、人工呼吸器の取り外し、あるいは脳死判定?など、(当事者にとっては非日常ではあるものの)

平時の医療行為の中にもそれらは存在する。これらはいずれも倫理学検討に値する問題ではあるんだろうけど、

今回の問題意識とはずれているのではないかという気がする。なぜなら、経営学講義中の「資源制約下の選択」

というトピックで取り上げる事は難しいと思えるから。よってこれも不適。

ここからはさらに妄想。そこで「資源」の意味をもう少し拡張し、技術水準まで含めるとしたら?

現代医療で人工呼吸や蘇生脳死判定が要請される重態の患者でも、実は簡単に救えるほどの医療技術

遠い将来いずれ誕生する事を想定すれば、それらの現場を「極限状態」と呼ぶ事も可能かも知れない。

けれど何事も有限なこの世界で、資源の有無は所詮相対的な問題でしかないから、逆に心臓マッサージも知らない

ような時代まで遡れば、現代医療は「極限」でも何でもなく、相対的にかなり恵まれた状態だとさえ言えるかも知れない。

だからこの妄想理論も、当然すぎるほど当然ながら、使えないよね多分。

●論点2

「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスホロコーストを行わなかったのだろうか?

トリアージ現場では、住所氏名年齢性別人種思想信条宗教経済状態等ではなく、たとえばSTART法に

代表されるように、あくまで症例とその喫緊性を判断材料にして、医療資源の配分が決定されて行く。

そこでの個人は、生存者の最大化という観点から、同じ人間同士限りなく対等に扱われると見ていいはず。

他方、ナチスアーリア人種なんかにとって、異民族共産主義知的身体障害者等の存在有害だと

訴えてたわけで、その排除は平時であると有事であると問わず、進行していたんじゃなかろーか。

不謹慎な言い方をすれば、対等ならざる「異分子」の排除は、保健所動物駆除のように、

生存権私有財産権その他の人権を持たざる者と扱った上で、粛々と進められたんじゃないかなと。

また日本北欧等でも障害者社会的弱者の断種手術が進められたけれど、これらも特に有事であるからと

行われていたわけではないはず。社会ダーウィニズムや通俗的な理解によって「市場原理主義」など(あるいは

原理主義資本主義」?)と呼ばれる淘汰のプロセスは、ある緊急時の必要に応じて進む(進められる)

と言うよりは、むしろ長期的に徐々に着実に進行していくモデルだと考えるのが妥当だと思う。

そして比喩としての「極限」的危機のアピール自体は、かつてのワイマール共和国を含む(民主主義・非民主主義問わず)

あらゆる国家で行われる、支持者獲得の為の常套戦略で、たとえば、核戦争原発メルトダウンの恐怖を時に過剰に煽るのも、

類似の行為と言えるのでは?ナチスに特徴的な行動として取り上げるのは些か困難じゃないかと感じる。

以上の点から、トリアージ差別的な(どころか相手を人間扱いしていない)ホロコーストとなぞらえるのは

間違いであるし、また仮にトリアージが「極限状態」の選択であると仮定しても、ナチズムやホロコーストとの

同質性を認定するのは恣意的だと考える。トリアージの普及推進や例示がホロコーストと地続きである、または

そうした考えを広げるというのは、不謹慎である事を除いても有益な議論とは言い難いはず。

そもそもホロコーストの最たる物である絶滅収容所等におけるユダヤ人殺害は、ナチスドイツ

敗色が濃厚になった戦争後半期にかえって加速していたようで、一般的な意味で言う有事への対応や

資源の最適な配分という意図からは、どうも外れた感が強い。元々戦場の論理とは別物なのでは。

●論点3

資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。

トリアージ現場においては人員物資設備等の制約がボトルネックとなっているけど、そもそも人員物資設備等が

無限であれば、トリアージはもちろん企業経営の探求や経済学考察など、資源の効率的な配分を研究する

学問・営為は生まれなかったはず。経営学経済学をはじめ、多くの人間知的営為はその濫觴において、

現実世界資源の有限性を前提としており、その有効活用目的としているわけだから。

たとえば、市場メカニズム根本を支える価格シグナルは、財やサービスの需要と供給によって決定されるけれど、

供給無限商品の物量だけでなく運搬供給設備やそれらの生産性等も)であればその価格ゼロとなり、

人は欲望の尽きるまでそれらを蕩尽するはずだが、もちろん現実はそうじゃない。一見価格ゼロに見えても

広告販促込みだったりして誰かが費用を負担しており(そのままでは持続可能ではない)、いずれにしても

価格」の存在は、資源の有限性がこの世界に付き物だという事実を、端的に示していると言えるわけ。

またたとえば、かつて環境問題が今ほど注目されなかった時期には、社会的制限が存在しない中で

工場は排煙を垂れ流し放題だったけど、現在では空気ですら無限ではないというのが、環境問題認識する

あらゆる人間の知る所で、その為に各種の環境規制や課税が行われ、少なくとも先進国では、工場経営者も排煙その他の

公害原因の扱いに注意を払うようになっている。逆に各種エネルギー補助金(それは低い技術水準とワンセットだが)を

与えている中国インドなどは、その凄まじい蕩尽によって資源の国際価格高騰や各種公害の原因としても台頭している。

以上のように、資源無限か有限か(≒価格ゼロか否か)は、その資源を効率的に扱うインセンティブを決定している。

そして、およそあらゆる物に価格税金規制が付きものなのは、それらが現に有限だからに他ならず、

経営学経済学トリアージはもちろんとして、多くの人間知的活動はその資源制約によって発展・流転を促されてきた。

よって「資源の有限性を前提にするな」という主張は、現実を無視し多くの知的活動を否定する行為に等しく、場違いな指摘だと考えます。

有限性の前提や資源の効率的利用・効用最大化と言った考えがナチズムへとつながるのであれば、必然的にこの世の

学問・営為・制度・生活習慣は、その多くがナチズムの眷属となり、今回の件を特別批判する意味は限りなく薄まるはず。

●論点4

上と関連して。経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?

経営学経済学は、もちろん共に資源制約の下での効率的利用を目的とするんだけど、後者が主に

社会全体の効用最大化を目指すのに対して、前者は時に社会全体の効用をかえって損なう決定を推奨しかねなかったりする。

既に上で述べた環境問題における企業行動が典型例だし、あるいは独占や寡占の追求、他企業とのカルテル

最近も相次ぐ情報の非対称性を悪用した偽装問題など、企業は時に利益追求という存在意義に忠実なまま、

社会全体の最適化からは逸脱しちゃう場合がよくある。そうした行為には違法な物からグレーゾーンまで何でもあり。

他に経済学概念上でだけで考えれば、ブランド構築・製品差別化特許等の独占的使用販売権の取得等も、

完全競争を避ける狙いから行われる、社会全体の最適化に反した行動とみなせる。もちろんこれらの場合は

消費者社会利益となる場合もあるんだけど。ともかく経営が目指すのは本質的部分最適・部分均衡なわけ。

このように企業はいろいろな経営的実践を通して、市場における競争を避け、超過利潤・独占利潤を得ようとする。

それに対して、各種公害規制や独占禁止政策・不正競争防止、情報の非対称性の排除などを通じて、市場メカニズム

健全な作用を維持し、また時に所得再分配考慮し、社会全体の効用最大化を目指すのが、一般的な意味で言う経済学の使命。

つまり、別々の学問として定立している以上当然なんだけど、経営学的実践における「全体」と、

経済学的・政治的・社会的実践における「全体」とは、多くの場合かけ離れているんだね。

よって、(仮に)経営学的営為の例としてトリアージを取り上げる場合でも、それらが一般的な意味で言う「全体」、

社会国家全体に敷衍されて適用される恐れがあると考えるのは、学問目標を見誤った、飛躍を含んだ主張じゃなかろーか。

●論点5

トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?

既出のようにこの世界のあらゆる物は有限であり、ある選択は必然的に他者の選択を制限してしまうのが世の常。

だからたとえば、日常の買い物で財布の中身と照らし合わせながら商品を決める(予算制約下の最適化行動)裏には、

売り上げ好調で繁栄する勝ち組企業と同時に、売れない商品を作って経営不振に陥り、場合によっては

倒産する「かわいそうな」負け組企業存在があったりする。ひょっとしたら「切り捨て」られたその経営者

自ら命を絶ってしまうかも知れない。その他日常ありふれた選択が、当然のように多くの他者の運命を決定している。

政治上の決定で見ればもっとわかりやすい、再分配は必ず財源を必要とする。

たとえば公共事業を削ればどうしても倒産は増えてしまう。増税だって薄く広いだけで景気を落ち込ませずには居られない。

以上のように考えれば、無視出来ない他者の範囲は空間的・時間的に際限なく広げる事が可能であり、

トリアージだけを取り上げ、その「他者性がない」側面を強調する行為には、恣意性が含まれているのではないかと。

●論点6

トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。

仮に「災害時に被災・負傷し、物的人的制約のある災害医療の拠点に搬送された場合にどのような治療戦略を望むか」

という契約をあらかじめ(被災時に意識を失えば意思の確認が出来ず不公平なので)交わすとすれば、

そして公序良俗に反するという立場から、金銭などの代償を対価とした優遇や、自己犠牲を禁じ手とすれば、

自由かつ平等な個人は、期待生存率を最大にする為=自分自身の為にトリアージを選択する権利を行使するはず。

これが全体主義国家ならマイノリティ放置され、地位や能力のある者の治療を優先させられるかも知れない。

よってトリアージは「みんながひとりのために」でも「ひとりがみんなのために」でもなく、

「ひとりがひとりのために」という個人主義ベースとした選択と考える事も十分可能だと思う。

また自分の命が常に他者の命と可換であるという強い認識が働くから、他者認識がないという批判も的外れとなるはず。

(ちなみに治療従事者自体はロボットだって構わないわけで、その他者性認識を問題にする意義は仮想の話の上では薄いと思われ)。

以上はリベラリズムの基本である無知ヴェールアイデアを多少拝借した物。

無知ヴェールとはリベラリズム上の社会正義のあり方を考える思考実験で、それを被された者は他人はもちろん

自分も含めたあらゆる属性・・・住所氏名年齢性別人種主義主張経済状態等々・・・がわからなくなってしまう。

その状態で、各個人は自身の利益も含めもっとも望ましく公正な社会の条件を考えてみよ、というのが実験の中身。

で、リベラリズム上の議論においては、その条件の下で「格差は最も弱い立場の人々の効用を最大化する目的でのみ正当化される」

という「格差原理」が導出される事になっている。では、トリアージ現場において、それがどのような人々に当たり、

かつその条件の下で選択要請される治療戦略とはどのような物になるだろうか、ちょっくらこれを考えてみる。

まず被災患者を症例・緊急度により以下のように分ける。

A.所与の医療資源技術では、どれだけ治療を施しても亡くなってしまうとされるグループ(START法では黒いタグを付けられる)

B.放置すれば亡くなってしまうが、治療を施せば助かる可能性のあるグループ(赤、または黄色のタグを付けられる)

C.治療の必要が無い軽傷か無傷のグループ(緑のタグを付けられる)

そして以下のように選択可能な治療戦略が提示されているとする。

1.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、医療資源を人数分で割って全員に割り当てる「平等戦略

2.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、各人へのくじ引きで割り当てを決める「機会均等戦略

3.最も重症で生存の見込みのないAは一番「かわいそう」だから、そこに医療資源限界まで注ぎ込む「蜘蛛の糸戦略

4.Bに医療資源を注ぎ込む、いわゆる「トリアージ戦略

5.まずCに医療資源を注いじゃおうという、文字通りの「贅沢戦略

これら5つの内であれば、各人は全体最適など考えずとも(それを考えるのが完全な悪というのもおかしいんだけど)、

個人の利害に触発されて、自由かつ平等な権利の下に、最も自らの期待生存率の高い4のトリアージ戦略を選ぶはず。

ではその場合の「最も弱い」人はどの患者グループなのか、その効用はどうなるのかを不謹慎な表現も交えるかもだが次に検討

もし医療資源を注ぎ込んでも「ほぼ」助からない黒いタグ、この場合グループAの患者だとすれば、どのような治療戦略においても

「ほぼ」死亡という結果に終わり、効用は「ほぼ」不変=「ほぼ」常に最大だからトリアージを選ぶ事は「ほぼ」許容される。

次に死亡状態とみなされる人ではなく、助かる可能性はあるが治療を必要とする赤や黄色のタググループBに含まれる患者

「最も弱い立場」とするならば、トリアージによって最も手厚く医療資源を配分される事になるから、やはり許容範囲となるはず。

グループCの緑のタグ患者検討するまでもないとします。

問題はもちろんグループAについての「ほぼ」の取り扱い。技術水準の問題として閑却する事も話の上では出来るんだけど、

(前にネタのした時は確実に生存率を判定出来ると仮定したので簡単だった)、現実トリアージではそうは行かない。

ただ、いずれにしても確率的な選択を強いられるのであれば、やっぱり4のトリアージ戦略しかないと思うんだけどね。

あと検討の順序が逆だったり、戦略や条件の設定の重複・恣意性等あるけど、まあ素人なんで大目に見てくださいな、と。

基本的には無知ヴェールまで降りて議論するまでもなく、最初の期待生存率+公序良俗の「治療戦略選択契約」の話で

大体OKと思うし、そこで「全体主義的」なる批判はシャットアウト可能だと考えてます。よってここらでこの論点終了。

字数制限でhttp://anond.hatelabo.jp/20080817193711へと続きます。目障りでごめんなさい。

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