はてなキーワード: 投書欄とは
結論:場合による
https://togetter.com/li/1113766
https://matome.naver.jp/odai/2149564479015738601
この辺見てると、「そうだよね」というものと「いやいやおかしいでしょ」というものがどちらもある。批判している人の中には文系の慣行に詳しくない人もいるようなので、しがない文系出身者が「文系だとだいたいこんな感じ」というのを提示してみる(「お前の感覚おかしいよ」という指摘があれば教えてください)
「分析に用いている時点でこれは引用ではない」みたいなやつがおかしな意見の代表。いやいや、分析対象として使うのも立派な引用ですから。
たとえば、「私が好きな○○さんの二次創作小説はマジ文学なので文学作品として研究対象にします」だったら、それがマイピク限定とかでなく全体公開されている限り無断で引用して差し支えない(他人の机の中にしまわれている黒歴史ノートを無断で引用するのは当然のことながら違法です)。10年前に20部だけ頒布された同人誌に載っている内容でも引用してよいし、「バナナ」とか「前立腺」とかいう単語も容赦なく引っ張ってきてこの表現の含意はとかここで使われている暗喩法はとか分析していい。
文学研究ってそういうものなんで。たとえばナボコフの研究では、英語版とロシア語版を照らし合わせて登場人物の名前がどんなふうに変更されていてそれにはどういう意味が込められているかとかそういう細かな点を論ずる研究というのも実際あるし、そういう研究対象としての引用というのはまったく問題がない。作者に許可を取る必要もない。
それが本当に研究する価値のある文学作品であり、文学研究としての作法を踏まえているのなら、ラノベだろうが官能小説だろうが二次創作だろうが分析対象にしていい。異世界転生で俺TUEEEEEEであってもそこに文学として研究されるに値する何かがあるならガンガン引用することが許される。文学研究であるなら著者名と出典を明記することは研究倫理上むしろ必要不可欠だし、仮にそれで元の投稿者がマイピク限定にしちゃったりしても、このケースならそこまで研究倫理的に問題はない(と、私は判断する)。
現状、それをやっている人がほぼ絶無なのは、
という理由であって、やっちゃいけないなんてことはない。二次創作書きから直木賞作家とかに登り詰めて死後に全集が作られるような身分になったら生前に書いたピコ手の二次創作小説が掘り起こされて「若き日の習作」として分析対象になってしまうのも甘んじて受けよう。
しかし、問題は、これ文学研究じゃないですよね、という話で、テキストにあらわれる語の頻度を分析してフィルタリング機能に活かそうとかそういう研究だとまた違う話になる。たとえば「夏目漱石の作品中における接続詞の使用頻度」みたいな研究なら著者を明かすことに意味はあるけれど、この場合はそうじゃない。まあ一般的な語の用法の分析じゃないからコーパス使えないことはわかるけど、「有害な表現のフィルタリングのため」という目的で用法を研究するなら研究対象の具体的なURLと作者名は伏せた方がいいだろうし(これがまだせめて「“尊い”という語の用法」みたいに価値判断を加えていなければよかったかもしれないけど)、そもそも個々の作品のURLを列挙できる段階でちゃんとした研究とはいえないんじゃないんですかね。ふつうそういう研究なら、「○○新聞のデータベースで××年分の記事を検索して調べました」とか「pixivのデイリーランキング上位20作品を平成××年△月から△月まで○ヶ月にわたって調査しました」みたいなデータになるはずで、分析対象が10作品だけって段階でサンプル少なすぎるでしょ。いやもちろんサンプルが少ないから悪いというわけではないけど(談話分析とかならたった30分程度のTV番組を分析するだけで論文1本書けるだろうし)、フィルタリングを情報工学的に考えるならまずサンプルたくさん集めないと話にならないというか……
「pixivの規約に引用禁止と書かれている!」という主張はなんとも微妙だ。「は? それpixivの内輪ルールだろ? 著作権法上は自由なんだよ!」というカウンターも見られるが、そう簡単な話でもないと思う。
一般論として、引用は著作権法で保護されているので、それが適正な引用である限り(主従関係とか出典の明示とかそういうことね)自由に引用してよい。なので「無断引用禁止」と書かれている痛いサイトも自由に引用して叩いてよい、ことになっている。そういう意味では、「支部の規約より著作権法の方が偉いに決まってんだろボケ」派の言うことは正しい(実際、著作権的にはこれ問題ないとみなされる可能性が高いのではと思うが、法学クラスタの皆さんその辺どうなんでしょうか)。
しかし、ここで問題になってくるのは
ということだ。
それを読んでいるということは、検索で行き当たった作品を引用しているのではなくpixivのアカウントを取得してログインしそれらを読んでいるということだ。ということは、利用者としてpixiv規約を守る必要があるのではないか。少なくとも、利用しているサービスの規約に反して収集した情報を引用するのは、研究倫理に反するのではないか。
※追記:pixivの規約見たら「本サイト及び関連サイトにアップロードされている投稿作品の情報を、当該著作者(創作者)の同意なくして転載する行為」が禁止なのね。じゃあ、別に引用はしてもいいんじゃん。少なくともこの点で研究倫理がどうこう言うのは不当な非難だと思うので謝罪の上撤回します。
たとえそれが個人的な談話であっても、社会学や文化人類学では引用してよい。「○○村の女性Aさん(45)が私に語って聞かせた結婚生活の愚痴」なんてのも、これらの分野では立派な研究対象だろう。ただしその場合、事前に「私はこの村に社会学や文化人類学の調査で来ているので、皆さんの発言を研究に使います」と断る必要がある(増田にはフィールドワークの経験はないので、実際にどんなふうに許可を取るのかは知らない)。たとえそのような許可を取って滞在している村の住人の発言であっても、「これは絶対に論文に載せないでね」と言われたのに論文で引用したら、そらアウトだろうと思う。
だいいち仮に許可を取ってのことだとしても、社会学や文化人類学の研究なら普通は発言者をボカす。社会運動の指導者とかでもない限り、現代社会に生きる無名人の名前をそのまま載せるなんてありえない。ふつうは、AさんBさんとか、長門さん(仮名)と陸奥さん(仮名)みたいに処理した上で引用するの。
仮にそれが著名人であったとしても、使っちゃいけない、使うべきでない類の資料というのもある。たとえばちょっと前に、毎年ノーベル賞獲れなかったと騒ぎになる某作家さんの高校時代の図書館での貸し出し記録を調べてドヤ顔で記事にしてた新聞があったけど、と、図書館の自由に関する宣言~~~~~ってなりますよね(実際日本図書館協会は激おこだった)。
これが歴史学だとまた話が違ってくるというか、たとえば、百年前の新聞の投書欄を分析して当時の世情を研究するみたいな研究は割とある。その投書欄に書いているのは農民だとか小役人だとか、まあ市井の人々なわけだけど、投書欄に実名を載せているなら実名ごと引用され分析される(ていうかふつう実名をそのまま引用することはないけど、「○○という人物は次のように言っている」と地の文で書かれるとか、注釈で書誌情報の一部として実名が記されるとかはよくあること)。
ただし、これは「百年前の」「新聞への投書」だから許される話だ。書いた本人はたいてい死んでるし、遺族がいたとしてもたいして不利益はない。これがたとえば、公開を意図せずに書かれたお役所の文書だったらどうだろう(近代史でメインに使う史料というのはたいていこれだ)。もちろん、単に「○○という市民が食糧配給が少なすぎると文句を言ってきた」程度の内容なら実名を出してもいいだろうと思う。でも、それが故人の名誉を傷つける内容だったら? 徴兵された普通の人々がどのようにして戦争犯罪に加担していくか、という研究で、某中二病患者に人気の国の国防軍関係の史料が引用された時には、登場人物の多くがイニシャルだった。
インターネットにおけるレイシズム、みたいな研究で、twitterの膨大な投稿を分析し発言者を特定しない形で差別発言の例を挙げることは許されているけど、それが実際のアカウントと紐付けられる形で提示されたら、やっぱまずいんじゃないの。研究対象が著名人であるとかなら別だけど(twitterで右寄りの発言ばっかりしてるラノベ作家がいたとしたら、その人の思想を研究する上でそういうツイートを参考資料として引っ張ってくるのはまあアリだとは思う)、研究というのは告発のためのルポルタージュでも責任追及のための裁判でもないのだから(レイシズムに無批判であるべきだ、という意味ではないので念のため)。
それを考えると、やっぱりあそこで個々の作者さんの名前を出す正当性は全然ない。出典の明示にしても、「○○というサイトで××年~××年にかけて上位20位に入った計△△作品を分析しました」でじゅうぶん。その上で個々の発言者が特定されない形で「バナナ」という語の使われ方を存分に研究すればよかった。
=何が言いたいかというと、確かにあの論文は研究倫理に反するけど、それは同人小説を研究対象として引用することがいけないからではないので、批判する側も適切な論拠を選んだ方がいいですよ、というお話でした。
何でこんなもんを載せたんだ、査読してないのか、という意見もあるけど、してないか名前だけのザル査読なんじゃないかなあ。これ、フルペーパーではなくて学会発表のプロシーディングでしょ? 情報系は知らんけど、人文系だと学会発表で査読しないところもまだまだ多いですよ(内容が酷ければ質疑応答でボコボコにするか論文投稿時に査読で落とせばいい話なので口頭発表時点で査読が無いことは別に悪いとは思わない)。まあ、PDFとして載せちゃった以上は責任問われるのも仕方ないと思うけどね。最低限そこは査読なかったとしても編集委員会の判断とかで弾こうぜ。
あとこれ多分M1の学生の研究に助教と准教授が名を連ねてるだけだとは思うのだが、まあ共著者として名前連ねてる以上は責任を負うってことなんだろうし、実際M1の学生が袋叩きになるよりも准教授が叩かれる方がマトモだとは思うので、うん。
社会調査するならこれ読んどけ! 的なものとしてマサキチトセさんの翻訳が拡散されてる。
http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/1758
マサキチトセさんの訳は丁寧だし、社会調査しようと思うなら必要だと思うけど、これこの件に関係ないよね? ごっちゃにしてない?
いちおう言っておくと、
ってこれ全部別の話だからね。
正直、腐女子が研究者や研究者コミュニティに不信を持つのは当然だと思うし、それは腐女子を面白いオモチャとしか見てこなかった研究者サイドの自業自得なので、「法的に問題がないことはわかったけど、あいつらのやっていることは信用できない」と思うのは無理ないです。その感情を否定したいわけじゃない。ただその感情の根拠としてぼくのかんがえたちょさくけんほうとかわたしのかんがえたけんきゅうりんりとかを振りかざさないでほしいだけ。正しい認識の上に立ったところで研究者に対する信頼が急に生まれるなんてことあるわけないんだし。
研究で「引用」というと文献リストに載せるやつなので,今回の件では研究用語的には「引用」では無いんじゃないかなあ。法的には分からない。pdfは全発表のを出してるんだから,いちいち弾いてらんないでしょ。
文系では文献リストは必ずしも必須ではないのよね(この辺、理系からすると何それかもしれないけど)。たとえば文献情報を全部脚注で書いちゃうやつだと文献リストはなくてもいい(だって書誌情報、つまり引用元の出典は脚注で示しているんだから論文の最後にリストとして挙げる必要はないでしょう? もちろん脚注にきちんと文献情報載せない場合は文献リストが必要ですよ)。あと、参考文献リストにない文献を引用するときに注で補ってもいい。
これ日本だけのローカルルールじゃなくて英語圏でもあるからね。たとえばNationalism and Ethnic Politicsなんかはこの方式のはず。
いちいち弾いてらんない、ってのは、せやな。こんな発表が許されるなんて学会の研究倫理はおかしい! とか騒いでる人もいて頭が痛いよね。アホか。
こうして燃えてる時点で侵襲性があるということになるのでは。「衆目に晒された→恥ずかしい→公開をやめる」が「過剰反応」だとしてもそのせいで研究対象は消えてしまったわけで。
ここで言ってる「侵襲性」ってのは、研究発表以降の話じゃなくて研究をする段階の話です。つまりデータを採る段階。
お医者さんだったら、患者さんを診察室に呼びつけて、服を脱がせて、相手が医者じゃなければ屈辱的な姿勢(ケツの穴を見せるとかね)をとらせたりして病気を診察して、それで病気や怪我のデータを採るわけですよね。社会学だったら、時間を割いてアンケートに答えてもらったり、面談してもらったりする。文化人類学なら、調査地に住み込んで、同じメシを食って家族の会話に割り込みながら相手の文化を学んでいく。そういう研究手法が、侵襲性のある、侵襲性の高い研究だってことです。
こういう研究をするときには調査される側の同意が必要だし、データをどこまで公開していいか決める権限は調査される側が持っている、というのが、あちこちで訳知り顔で語られている社会調査の鉄則です。
でも、文献調査はそうじゃない。いったん公開してしまった情報であれば、それを調べる段階では調査される側=文章を書いた人にとっては基本的に関係のない話。だってそうでしょう? いったん公開された情報については、研究者は、本屋さんで本を買ったり、図書館で雑誌のバックナンバーをあさったり、パソコンの前でマウスをポチポチするだけなんですよ? これにいちいち事前の同意が要るという主張はどう考えてもおかしいわけで。
医学論文でもカルテ調査するなら患者本人には(直接的には)迷惑かからず、それを氏名つけて公表したあとに患者本人に影響出る可能性が出てくるわけで"根本的に違う"というのがよくわからん。
カルテって、出版されたり、数万人の会員がいるSNSにアップロードされたりしてるんですか? 根本的に違うってのはそういうことです。当たり前ですけど、二次創作小説でも「作者が誰にも見せずにしまっているもの」「数人の親しい友人以外には見せていないもの」を引用するには許可が必要だし、無断で引用したら大問題ですよ。
会員制で見たい人だけが見られるようにしてある物を引っ張り出してきても許される、引用や研究ってそんなに万能なんです…?
少なくとも引用は万能です。数人の仲間だけにパスワード教えて見せてたならともかく、捨てアドがあれば誰でも会員になれて、数万人規模の会員がいるところに、会員なら誰でも見られる状態で置いてあるものは、著作権法上公開されたものと考えていいと思います。なのでそれが適正な引用方式に従っていれば引用はオッケー、お国の法律が認めてくれてます。やったね!
(ていうかその理屈だと、お金払わないと読めない学術雑誌に掲載された論文は無断で引用しちゃいけないことになりますけど、それでいいんですかね……? NatureとかCellもウカツに引用できない世の中、やばくね?)
研究はこれから議論されていくところなんじゃないかな。少なくとも昔は、書かれたものというのは「書店や図書館に流通し誰でも読める状態に置かれる」か「私家版としてごく少数の人のあいだで流通するか机の引き出しで死蔵される」の二択だったわけですよ。「数万人の会員がいるサイトで公開されてるけど一般公開はしてません」なんて状況、想像もしてなかったでしょ。この辺は今後頭を悩ますしかない。そういうめんどくさいのが嫌な人は歴史学とか古典文学とか考古学とか関係者が軒並み死んでる学問をやりましょう。
二次創作が研究対象になるなんて前例がなく誰もそんな想定をして書いてない。これは前例がないことだということを頭に入れていきなり研究の場に引き釣り出されて心の準備が追い付かない人の気持ちも憂慮してほしい。
前例はあります。
今手元にないんで間違ってたら申し訳ないんですが、2004年に男性向け作品での美少女表象を研究した本が二見書房から出ていて、バッチリ同人誌も引用されてたような。手元に確実にあるやつで確認すると、2009年に創刊されたコンテンツ研究系の学術誌に載ってる尾道の聖地巡礼史を論じた研究では、聖地巡礼同人誌が引用されてます。探せば同人誌を引用した研究はもっと出てくるんじゃないかな。コンテンツ研究だと痛絵馬の分析とかもやってるし、そこまでおかしな事態じゃないです。この辺の学術動向知ってれば「前例がない」なんて発想こそ出てこないですよ。何を今更。
まあ、素人さんがそういう学術動向知っとけ、って無茶ですよね。でも、これでわかったと思うけど、学術って開かれているけれど閉じられた世界なんです。興味のないことには誰も目を向けない。同人誌も同じです。女性向けの島中に置かれてるマイナーCPの薄い本なんて、理屈の上ではコミケ来場者全員に買う機会があるけど実際に買うのはごくごく一握りでしょ? はっきり言って今回の論文だって似たような位置づけなわけですよ。知らない場に引きずり出されて不愉快に思うのはよくわかるし、同情もしますけど。
あとこれ言うと揚げ足取りになっちゃうんであまり言いたくないんですけど、『アララギ』とか『白樺』だって同人誌だし(ていうかあっちが元祖)、そういう意味での同人誌ってたくさん研究で参照されてるし、CiNiiで「同人誌」で検索かけたら戦時中の誰も読んでないようなマイナー文芸同人誌を詳しく紹介するみたいな論文がヒットするわけですよ。同人作品だから引用しちゃいけないとか研究の場に引きずり出してはいけないって言われても、それどこの星のルール? っていう感じがします。明治文学研究とかルール違反の百貨店や~。
これ発表してから2ヶ月近く経って、いろいろ考えましたが、やっぱり私は研究倫理には反してないと思いますね。人に不愉快な思いをさせることがすべての局面において研究倫理に反するわけではないし、やっぱり引用の権利は厳然としてあるので、そこを突っぱねるのは筋悪かな、と。
そんな無駄に食う分があったらアフリカの子供に……という、いつもの理屈である。
なんでも、終わった後は吐いてるらしいから、確かに食べ物の無駄と言われてもしょうがない。
投書では触れられていなかったが、危険というのももちろんある。
しかし、よくよく考えてみると、食い物を無駄に消費するという点では、他のスポーツも同じだ。
例えば相撲の力士。体重別ではないため、基本的には太るほど有利なルールになっている。
だから、彼らは毎日のように、稽古をしては大量に食って寝る。太るのも仕事のうちだという。
小兵で活躍すればもてはやされるが、それはレアケースだからで、やっていくのは厳しいのだろう。
つまり、力士でいる限り、不必要に食うことがほぼ必要とされている。
みんなそんなことはわかっていて、でもまあしょうがないよね相撲だから、とごまかしているのだ。
けしからんからテレビ中継なんかやめてしまえ、という年寄りの話なんか聞いたこともない。
大食いとの差はただひとつ。その光景をテレビで直接見ずに済んでいるだけだ。
だからあの体を見ても何とも思わないのだろう。
ゲス・ベッキー不倫報道のあと、ネットでちらほら「芸能人の恋愛とかどうでもいい」「くだらないゴシップで騒ぐな」といった意見をみかけた
気持ちはわからんでもないが、それをブコメやツイッターで表明してしまったら、そのくだらない報道を利することになるのでは?と気になった
ブクマが増えればトップに載る期間が延びて記事のPVも増えるだろうし、固有名詞を入れてつぶやけば「ツイッターでも注目を集めた」という構図に貢献してしまう
じゃあそういうイライラがあった場合、どこに吐き出せば敵を利することにならないのか?と考えていったら、最終的には文春やテレビ局にクレームを入れるか、なんか「ゴシップ報道に呆れ」みたいなタイトルで新聞の投書欄にお手紙を出すか、というところに行き着いてしまい、不自由なもんだなぁと思いましたまる
読む量は増えたが書く量が減ったことに起因するのではないかと思ったが、英語に関して言えば読むどころか聞く量すら激減していることに気づく。これで翻訳を生業にする夢を諦めきれていないというのだから驚きである。高校大学と授業や試験で英語を扱ったときも「自分は中学英語の知識だけで問題を解いているなあ」と思っていたふしがあるが、まさかここに至るまでその意識を捨てきれていないというのはいかがなものか。むしろ劣化しているとさえ感じる。
この現状を打破するためにも積極的に英語に触れていこうと思うまではよいのだが、いざ自由な時間ができたところで訳しかけの『緋色の研究』に手を付けた試しがない。翻訳が趣味と言っていた自分は何だったのか。ただの就活用のアピール項目に過ぎなかったのか。お前の情熱とはその程度のものなのか。社会人になったら新聞の投書欄に投稿したいと言っていたのではなかったか。
と、ここまで考えたところで、なぜここまで翻訳業に固執するのかと思い直したところ、「自分のしたことが目に見えて分かる」ことに喜びを感じる自分というものに気づく。大企業にいるとそのようなことはそう起こるものではないし、それゆえに半ば業務に対する情熱を(半年も携わっていないのに!)失いかけているのだろう。さらに欲を丸出しにしてしまえば褒められたいのだろう。贅沢である。褒められなくとも自分が何かを創りだし、それに満足のいくことのできるような仕事がしたい、というのが恐らく本音だ。だがそのような職に就ける人間が果たしてどれほどいるというのか、と夢物語の一言で片付けてしまえばそれでお終いであるのに、いかんせん身近にそういう人がいるものだからどうにも未練がましくなってしまっているらしい。
なんだお前は、つまるところ物を書いて飯を食う人間になりたかったのか。
likeとcanは動詞と助動詞、レイヤすら違う話なのに。昔から文章にすることでストレスを発散してきたというだけで、どうしてそこまで思い上がれるのだろう。少しばかり英語の成績がよいというだけの、ただのいち理系学生だった自分が、中学生から抱く翻訳作家という夢を未だ捨てきれず、性懲りもなくくすぶらせ続けている。なんと往生際の悪い。だが文字通り今が往生際になるとすれば、きっとそのことを後悔するのだろうと思うと苦笑せざるを得ない。
我が家にインターネットという近代的通信網が導入されてからしばらく経ち、国語の授業で作文をするというとき、どうにもネットスラングを入れてしまいそうになる自分にふと気が付き「ああ自分はこんな文章しか書けなくなってしまったのだな」とショックを受けたことを思い出す。恐らくそれ以来、自分なりに人一倍言葉遣いに用心するようになったのだと記憶するが、それも言うなれば自己満足でしかなく、「言葉遣いが正しい」ことは「いい文章である」ことの十分条件ではないのである。
もっと言えば「いい文章である」かどうかは読み手が判断するものであり、いくら自分で「いい文章が書けた」と思ってもそれが万人にそう思わせるものであるとは限らない。「いい文章だ」と感じる読者がなるべく増えるようにするためにできる最低限の努力なのだ。そんな自己満足の世界で生計を立てられるほどの能力などあるはずもないのに、こうして毎日夢を見ているのは、まだ「お前には到底無理だ」という現実をはっきりと突き付けられていないからであり、それはある意味で幸福なことなのかもしれない。
ヤ「面白そうじゃねーか、虐殺の文法とやらを俺にも掛けてみろよ」「はい、掛けます」10;…ぎゃわー10;10;「だいたい、あいつら文法以前に言葉も通じないし、言語もない、原生生物みたいな脳してるんじゃよ」— kash06(ジュスト) (@kash06) 2015, 8月 17
記号的な差別はしないけど、話してわかる人とわかんない人の区別はするよ?話してもわかんない人に説明するのは誠意ではなく、不毛なだけだから。— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2015, 8月 20
最初はある思想から発言していても、敵対する論者の中で極論を言う人間を見つけては嘲笑するという楽しさにどんどんのめり込んでいくと、だんだん思想関係なく、この嘲笑行為が楽しくなってしまうという— 加野瀬未友 (@kanose) 2015, 8月 20
昔はてなダイアリーで、時事ニュースやネットで話題になった事件について、ずっと言及している人がいたんだけど、っていうとそういう人は別にいっぱいいそうだが、当人の生活や趣味の話はほぼなく、とにかくダイアリーでニュースなどをずっと批判しているだけだったのが印象的だったのだ。もぐもぐさんが言うような「ずっと怒っている人」である。毎日、自分が怒りたくなるようなニュースを探しているみたいだけど、疲れないのだろうか…?と疑問に思っていたのだが、ある時疲れたのか、プライベートモードになった。と思ったら、その後、はてなハイクで似たようなことをやっていた。調べたら、東日本大震災のあと、しばらく続けていたが、震災から半年ぐらいでやめていた。Twitterも併行してやっていたが、そちらもやめたらしい。現在はそういうネット活動に飽きたのか、それともTwitterなどサービスを変えて同じようなことをやっているか…。それはわからない。浅羽通明氏が、湾岸戦争の時の新聞投稿欄を元に「新聞投書に見る『発言したい欲望』という記事を書いているのだが、昔ならこういう人は新聞投書をしたのかも知れない。ブログという没のない新聞投書欄を得て、「ずっと怒っている人」は可視化される。
虐殺の文法とは
何を勉強するにしても何を目指すにしても、上を見たらキリがないってのをつくづく実感する。
高校の頃は偏差値がどんどん伸びていくのを見るのが嬉しくて、努力が報われている感覚が心地よかった。一応そこそこの大学に入れたんだし、いっちょ研究者か一流企業か官僚にでもなってエリート街道を歩んでやるぜと意気込んでたんだけど、本当自分がゴミのように甘い考えを持っていることを思い知らされた。
グループワークではキレッキレな質問を投げかけて延々わけのわからん現代思想の話を教授と楽しそうに会話してるやつがいたり、大学の成績がほとんどSの奴がいたり(なんで第2外国語をそんなに頑張れるんだ?なんであんな面白く無い上に漠然としたテーマで優秀なレポートが書けるんだ?)昨今話題の意識高い系ではなくて、本気で日本を変えたい世界を変えたいと思って行動してる奴とかが山のようにいる。
法科大学院に進むのにSの数が7割強必要とか理解の範疇を超えてる
院に進んだら少なくとも定職につくまでには27歳くらいになってるんだろ?しかも職も保証されてない文系の院なのにどうしてそんなに勉強したいんだ
そこまで勉強して勉強してそんな一流の職を勝ち得た一握りのエリート達が不夜城と呼び名の高い省庁や研究機関で、その優秀極まりない頭を捻りに捻っても現代の諸問題は一向に片付かないし、一向に改善してない。
じゃあ俺みたいな人間ができることってなんなんだ
少し前に新聞の投書欄に、院生が日本の若者の現状を嘆く内容が掲載されて話題になっていた。生活に困って犯罪に走る人間を何人が毎日のように報道されている。病院に行けば親族の死を迎えたであろう家族が涙を流してる。そんな中ゴミみたいな日々を送ってる自分がつくづく嫌になる。
何とかしたいと思っていても、うえを見れば俺以上のモチベーションで俺よりはるかに高い能力をもってして解決に取り組んでいる人たちが大勢いる。
そんな人達を見た目で自分を見ると、そこにはTOEIC(笑)で点数を取ることしか脳のないただの名ばかり高学歴のゴミしかいなくて絶望する。
適当に果物でも売って、できるだけ寄付して年金をちょっとだけ多く収めて、さっさと老後を迎えて迷惑かけないように死んでいこうな!
小売店でお客様の声ってあるじゃん。掲示板に張り出すようなの。
あそこ見ると「こういうの求めるクズっているんだなー」って思う(そして自分がそうじゃないことに安堵する(そしてそういう職場にいなくてよかったとも思う))
たとえば、
「いらっしゃいませの「い」の字もねえよ。どうなってんだよ。」
とかいう声が寄せられて、
とか返事書いてるわけ。
キモーって思わない?客もキモいけど、そんなことで教育しますとか回答しちゃう店もキモいって思っちゃう。
そしてそういう形で最適化されていく店そのものもキモいって思えちゃう。
ちなみに「挨拶がなくたっていいじゃないですか。商品がなくたっていいじゃないですか。そういう時だってありますよ」的な内容を書いた俺の投書は1年経っても掲示されない。
もうこういう投書欄レベルからして「クレームをいかにもらわないようにするか」が徹底されてるんだろうね。ここからクレームつける奴は筆跡からわかるから、そういうやつを不機嫌にさせないために他のお客様の声を検閲しようってなってる。
投稿者が本当にJR東海にサービス改善を願うのなら、中日新聞に言うより先に
JR東海に申し立てるべきだろう。
これは無いだろ。
直接文句をいうよりなんらかのメディアで拡散して炎上させた方が良いと言うのはわかりきってる。
JR東海に電話やメールで苦情申し立てたって「苦情の1案件」にしかならない。
下手すりゃ電話の係りが「クレーマージジイ乙」で消去して終わりだ。
新聞の投書欄にはクレーム受けた会社からの反論も受け付けられてる。
いまどきはもっと簡単にJR東海のサイトなりtwitterなりで見解を出すことも可能だ。
1ジジイ対巨大企業であり、ジジイが大メディアを利用してもアンフェアでは無い。
第二に読者が不愉快な気分になる。とってつけたようにDJポリスを取り上げても
恨みつらみからは何も生み出さない。
これが本題なんだろうけど、
俺も多分その投書を読んだら「クレーマージジイ乙」って方向の感想になると思う。
しかし、「だからこのジジイは投書をしてはいけなかった」とまでは言わない。俺様ですら。
お前一体何様なんだよ。
自分の感情や好みの価値を極大化する癖は幼児期までに捨てるもんだ。
こうした投稿はときどきでてくるが、新聞の質の低下というべきか2ch化というべきか、
中日新聞の読者だから起きえる事態なのか、何れにせよいろいろと
考えさせられる投稿だった。
新聞の投書欄なんて大昔からそのような苦情や意見が寄せられてる。
まとめると、
この間から悶々としている。
内容は
・新幹線に孫と乗っていた
・別にうるさくしていたわけではないのに心外
・DJポリスのように注意の仕方を考えろ
読んで以後、いろいろと考えさせられた。
・この投稿を読んだ人はどう思ったのか。
この投稿者は乗務員に注意されたのでよっぽど悔しかったのだろう。
一方的な主張であり、その乗務員の主張、周囲の客の主張が
わからないのではなんとも言いようがない。
腹に据え兼ねた投稿者はJR東海に直接クレームをつけたのだろうか。
なぜ多くの人が目にする新聞紙面に載せようと考えたのだろうか。
投稿者が本当にJR東海にサービス改善を願うのなら、中日新聞に言うより先に
JR東海に申し立てるべきだろう。
大企業の怠慢、社会的弱者への視点の欠如、そうした意見の表明とも読み取れる
今回の投稿を取り上げることによってマスコミの使命を果たしたつもりなのか。
第一にクレームまがいの投稿は、何も解決しないし、それに対して反論したり建設的な
第二に読者が不愉快な気分になる。とってつけたようにDJポリスを取り上げても
恨みつらみからは何も生み出さない。
こうした投稿はときどきでてくるが、新聞の質の低下というべきか2ch化というべきか、
中日新聞の読者だから起きえる事態なのか、何れにせよいろいろと
考えさせられる投稿だった。