2015-11-30

最近文章を書く能力の低下が著しい。

読む量は増えたが書く量が減ったことに起因するのではないかと思ったが、英語に関して言えば読むどころか聞く量すら激減していることに気づく。これで翻訳生業にする夢を諦めきれていないというのだから驚きである高校大学と授業や試験英語を扱ったときも「自分中学英語の知識だけで問題を解いているなあ」と思っていたふしがあるが、まさかここに至るまでその意識を捨てきれていないというのはいかがなものか。むしろ劣化しているとさえ感じる。

この現状を打破するためにも積極的英語に触れていこうと思うまではよいのだが、いざ自由時間ができたところで訳しかけの『緋色研究』に手を付けた試しがない。翻訳趣味と言っていた自分は何だったのか。ただの就活用のアピール項目に過ぎなかったのか。お前の情熱とはその程度のものなのか。社会人になったら新聞投書欄投稿したいと言っていたのではなかったか

と、ここまで考えたところで、なぜここまで翻訳業に固執するのかと思い直したところ、「自分のしたことが目に見えて分かる」ことに喜びを感じる自分というものに気づく。大企業にいるとそのようなことはそう起こるものではないし、それゆえに半ば業務に対する情熱を(半年も携わっていないのに!)失いかけているのだろう。さらに欲を丸出しにしてしまえば褒められたいのだろう。贅沢である。褒められなくとも自分が何かを創りだし、それに満足のいくことのできるような仕事がしたい、というのが恐らく本音だ。だがそのような職に就ける人間果たしてどれほどいるというのか、と夢物語一言で片付けてしまえばそれでお終いであるのに、いかんせん身近にそういう人がいるものからどうにも未練がましくなってしまっているらしい。

なんだお前は、つまるところ物を書いて飯を食う人間になりたかったのか。

likeとcanは動詞助動詞レイヤすら違う話なのに。昔から文章にすることでストレスを発散してきたというだけで、どうしてそこまで思い上がれるのだろう。少しばかり英語の成績がよいというだけの、ただのいち理系学生だった自分が、中学生から抱く翻訳作家という夢を未だ捨てきれず、性懲りもなくくすぶらせ続けている。なんと往生際の悪い。だが文字通り今が往生際になるとすれば、きっとそのことを後悔するのだろうと思うと苦笑せざるを得ない。

我が家インターネットという近代通信網が導入されてからしばらく経ち、国語の授業で作文をするというとき、どうにもネットスラングを入れてしまいそうになる自分にふと気が付き「ああ自分はこんな文章しか書けなくなってしまったのだな」とショックを受けたことを思い出す。恐らくそれ以来、自分なりに人一倍言葉遣いに用心するようになったのだと記憶するが、それも言うなれば自己満足しかなく、「言葉遣いが正しい」ことは「いい文章である」ことの十分条件ではないのである

もっと言えば「いい文章である」かどうかは読み手判断するものであり、いくら自分で「いい文章が書けた」と思ってもそれが万人にそう思わせるものであるとは限らない。「いい文章だ」と感じる読者がなるべく増えるようにするためにできる最低限の努力なのだ。そんな自己満足世界生計を立てられるほどの能力などあるはずもないのに、こうして毎日夢を見ているのは、まだ「お前には到底無理だ」という現実をはっきりと突き付けられていないからであり、それはある意味幸福ことなのかもしれない。

そんなしあわせな夢を、帰路の電車に揺られながら、手にした本の世界から誘われながら、また今日も見るのである

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