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はてなキーワード: 花崗岩とは

2018-07-11

[] コアストーン

あい地盤を作る「花崗岩」が風化する過程でできる岩。

  

花崗岩」に亀裂が入ると、雨水などがしみこんで風化が進み、一部が「真砂土」と言われる崩れやすい土になるが、

風化しなかった部分が「コアストーン」として残り、中には大きさが2メートル前後、重さが数トンのものもある。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180710/k10011526931000.html

2018-06-12

愛することと、差別すること

結論を先に述べると、人にとって分け隔てなく愛するということは不可能で、愛することはすなわち差別することにつながる。

それでもなお、それを理想として追いつづけていくしかない。それが神を捨てた人の宿命

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愛には、対象特定せずに広く与える愛と、対象を選り好みして特定のものにだけ注ぐ愛とがあるという。

前者の愛は、一神教における全知全能の神が人々に与えるものであるし、日本においては万物に宿る神が織りなす世界から加護、あるいはお天道様が見て下さるという感覚が近いものだろう。

一方で、後者の愛は、よくある狭義の愛である

前者の愛をもたらす対象が人ならざるものであることからも分かるように、物事の如何に区別なく愛情を注ぐというのは、人にとって不可能にも近い不得手なことがらである

人が織りなす愛というのは、何かと何かを区別する、あるいは誰かと誰かを差別することで特定のものに注ぐものである。それは肉欲によるようなものばかりではなく、優れたもの・素晴らしいものを愛でるときにも当てはまる。なぜなら、そのとき人は、劣ったもの・醜いものを選り好みして差別しているからだ。勿論、その選り好みは外見だけの評価とは限らず、内面や行動などで判断される場合もある。

美術美術として評価されるのは、他のものと比べて美しさが秀でているからであって、誰か素人が作った作品よりも他人からの愛を受けているからだ。平等に愛を注ぐのなら、そうした素人作品美術品すら区別なく差別なく、愛を注いでしかるべきだ。残念ながら、選り好みをしてしまうということ自体が、平等に愛を注ぐということに反しており、結果としてそのように世界を愛するというのは一般の人には到底不可能ことなである

それが不可能で、それでいてなおかつ愛を受ける身としては理想的であったからこそ、全知全能の神という概念を人々は作り出したとも言える。なにしろ、どんな存在であっても愛を受ける資格はあるのだから。たとえどんな悪事を働いていたとしても、無為存在であったとしても、そんなことは関係ないというのだから。人々が与える愛は、相対的肯定はあっても、絶対的肯定はありえない。それは秀でたものがより愛され、劣ったものがより愛されないという状態であり、その基準は各々異なっていても、対象によって愛を与える程度が異なるというのは変わらない。その優劣は非常に恣意的で、単に身近にいるかそうでないかという差異であったりもする。親が子を無条件で愛すると言っても、子として存在しているからこそ他人より差別して愛するのであって、どんな人であっても同様に愛するというのとは全く異なっている。そうした相対的な愛ではなく、絶対的な愛を誰も分け隔てなく与えてくれる存在、それこそが理想でなくてなんなのだろうか。

かような神という概念を創出したことで、人々は平等に愛を得ることが可能になった。その愛が空想上のものであったとしても、構わない。重要なのは当人が愛を受けていることを感じているかどうかであって、実体として誰かが愛を与えているかどうかではないのだから

このように考えてみると、万物に対する差別なく区別ない愛というのは、人々の空想上のものに過ぎないと分かる。ただ、それは空想産物であったとしても、非常に賢い発明であったことは確かだ。それに、実体がなかったとしても何の問題があるだろうか。愛を与える存在いるかいないかに関わらず、愛を受けているという感覚があるということこそが重要なのだから

いずれにせよ、これまでの議論から導き出されるのは、人は区別差別することなしに愛することはできない、ということだろう。言い換えると、区別することで初めて愛することができる、とも言える。それは人種国籍身分その他という分け方でなくても、ヒトかヒトでないか動物かそうでないか生物かそうでないか、石ころだって特定の、例えば花崗岩や砂岩などと判別することで初めて対象特定化て愛情を注ぐことができるのではないか。漫然と、自分の子供と野良猫とそのへんの石を全く平等に愛するというのは不可能なのだ。そのへんの石だって、他の石と区別することで初めて愛しうる対象になりうる。区別できなければ、その対象にすらなり得ないのだ。

故に、人を愛するにはその人を他人区別することが必要となり、集団を愛するにはその集団を他のもの区別する必要があり、地域を愛するには他の地域区別する必要が、国を愛するには他国区別する必要が…となっていく。愛国心などと言っても、日本という概念があまり一般的ではなかった江戸時代には、諸藩における郷土愛はあっだだろうけれども日本を愛するという考え方はごく一部の外国認識している人を除いて存在しなかっただろう。列島を束ねる存在日本)が当たり前過ぎて、認識するに至らなかったというほうがより正確なのかも知れない。

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左翼のというより、人権思想などの近代思想の出発点は、フランス革命自由平等友愛から始まっている。ここで友愛とは博愛とも同胞愛とも訳され、仲間に対する愛を示しているのだけれども、これも特定集団に対する愛を唱うことで他の集団差別している。平等とはあくまでその集団の中だけで適用される概念で、他の集団に対しては平等であることは必要ではないのだ。だからこそ敵であるフランス王家斬首になったし、信条が異なる集団に対してはリンチが横行した。これは左翼思想を発展させた共産主義に引き継がれ、今なお信条正統性を主張する形で争われている。

この近代思想は、神が行ってきた(と人々が空想した)分け隔てない愛を与えるという行為を、人が自らの意志で執り行おうとして産み出したものであろう。それは確かに理想ではあるけれども、実態として分け隔てなく愛するということが不可能であるが故に、とき空想となり、あるいは夢想となって人々を混乱に陥れたようにも思う。

結局、現代人はその理想を、限定して扱うことで現実妥協しているのではないだろうか。

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人は誰も、差別されることは拒絶するが、他人区別することなしに過ごすことはできない。

基本的人権として求められるべき最低限の平等規定しつつ、それ以上の区別は互いに棍棒で殴り合う、もっと文化的に折り合うなどして勝ち取るものではないだろうか。

それでも、今なお基本的人権すら蹂躙されている場面が見られるのが現実ではあるけれども。

2017-07-26

[]

おじょうさばぶ」と入力すると最初に「お嬢差バブ」と変換されるのですわ。

本日は苗木遠山資料館と苗木城、中津川市鉱物博物館に行ってまいりましたわ。

苗木遠山資料館では「苗木藩の参勤交代」展を開催中でしたの。

1万石の小藩ですけど、大名行列は約140人になったそうです。

一度の出費が200両で、別の展示によれば藩の財政赤字が年に932両ですから

幕府からみれば「効いてますわ。効いてますわ」ですわ。

中山道標高ビニールテープで表示して、

宿場距離別に人形と一緒に展示していて工夫が感じられましたわ。

常設部分とあわせて今の金額に換算することが好きな学芸員さんがいらっしゃいますわ。

苗木城には運動をかねて登ってきました。

資料館から天守台まで登りが13分、寄り道しがちな下りが16分でしたわ。

登りで3匹の下りで5匹の立派なトカゲさんを見かけました。

花崗岩露出した地帯なのでトカゲさんのひなたぼっこに最適なのですの。

最近岐阜マチュピチュを名乗っているようです。

大矢倉は無理すればそのように見えないこともありませんわね。

とても暑くて高山の涼しさとは無縁ですけど・・・・・・

中津川市鉱物博物館は「あおい鉱物みどりの石」展を開催中です。

あおい鉱物として見事に結晶したラピスラズリ(のラズライト部分)が

目玉でしたわ。表面がシャープで、面から一様の反射光まで出してくれる結晶は初めて見ましたわ。

他にもタンザナイトなど美しい鉱物が多くて目の保養になりました。

日本の人造鉱物ヴィクトリアストーン」も素敵でしたわ。

それとそれとマダガスカル産の緑柱石が入っているローズクォーツが立派でしたの。

前回苗木遠山資料館 https://anond.hatelabo.jp/20161012225131

前回鉱物博物館 https://anond.hatelabo.jp/20170320210505

2017-03-18

こんな「迷惑」は虚構だと断言できる

2000年代大学生時代、私は妹を含めた家族とともに実家にいた。そこでは携帯電話や家の電話に掛かる詐欺電話宝くじ当選金絡みのカツアゲや不良による大人の園への勧誘辟易していた。

それから時は進み、現在ではこういった集団に対しては社会的制裁が課せられるようになり、プライバシー尊重はより厳格となった。不良が過去帳入りになり、もうこれで文句はない…と私は思っているが、世の中にはとにかくそういった些細な問題を徹底的に撲滅しなくては気が済まない人間がいるようだ。

オタク性悪説」という言葉がある。思考の偏った人間の増加が社会に対する悪影響を引き起こすのだそうだ。

そのオタクが不良連中よりも害を引き起こすというのだが、こんなのは完全なデタラメである。しばしばオタクネトウヨよりも危険という説も語られるが、それなら迷惑順位を付けると以下のようになる。

オタクネトウヨ>不良連中

こんなバカなことがあり得るだろうか? 

よく考えてみよう。彼らによる迷惑が仮にあったとしても、その量は職業不良などにくらべるとケタ違いに小さいはずだ。おそらく数千分の一とか数万分の一とかのレベルだろう。それが「間接的に」社会害悪をもたらしているということは、さら問題レベルは軽減されることになる。

ではそれらの立場の人がどういう問題を撒き散らすか、ここで考えてみる。

オタク = 見てくれにより不快感を覚えさせる

ネトウヨ = 政治的な直接的影響+政治的な間接的影響+見てくれにより不快感を覚えさせる

不良 = 反社会的迷惑行為政治的な直接的影響+政治的な間接的影響+見てくれにより不快感を覚えさせる

どう考えてもオタクが最も悪質などというのは寝言同然におかし理論なのだ。こんな単純な足し算すらわからないのか?

思うにオタクなどという、政治活動家や不良連中に比べたらものの数ではないほどの迷惑を排撃しようとするのは、もうこれくらいしかいじめの要素がなくなったからだ。

タバコ放射線のように閾値のない害だとしても、ここまでのレベルになると、もはや花崗岩の上に立つの危険(花崗岩放射線量わずかに多い)というほどのレベルの話でしかない。

そんなものを狂ったように排除しようというのは、健康論どころか、大衆ファシズムによる自由社会への害のほうがはるかに大きいといえる。

しばしば欧米オタク(とくにアニメドラマ漫画小説日本文化)に関しては狂気じみたヒステリックな主張をしてくる。そしてオタク絶滅させたいと思う人間がこれに根拠曖昧なまま便乗するのだ。まさに思考停止状態というほかはない。

2016-12-03

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豊田市藤岡民俗資料館に行ってきましたわ。

昭和29年建築の旧藤岡中学校の校舎を流用した資料館です。

室内はやや肌寒く、昔の授業環境を実感できました。

屋外に藤岡地区最後の一機となった水車が展示されているのですが、

こちらは陶器づくりに使う原料を砕く「トロンミル(一部の表記トロミル)」を

動かす為のものでした。

陶器の原料をえるための藤岡鉱山も近くにあったそうです。

採掘される花崗岩が風化した土のことを「サバ土」と呼んだとのことで、

とたんに親近感がわきましたわ。あとで確認したところ地質学でいう真砂土と同じもののようです。

平成26年に起きた広島土砂災害でも「サバ土」の保持力の低さが話題になりましたけど、

火山温泉噴火をもたらすように、土地利益不利益を同時にもたらす例のひとつですわね。

校内の「棒の手(この地方、土着の武芸ですわ)」の展示を追うと、

藤岡町では1972年猿投神社への演武奉納が途絶えるほどの大災害が起きています

別の展示の年表によればその正体は豪雨による土砂崩れでした。

おそらくサバ土のえられる土地質がこの災害関係していたのでしょう。

ですけど、サバ土には罪はなく、ただそこにあるだけ。

特質をよく知り賢く利用してほしいですわ。

サバ仲間からのお願いですわ。

2009-12-21

現役東大生が語る「数学さえやっていれば東大へ受かる」理由

教育目的社会的ニーズに合わせた個人の形成にあるならば、小中学校歴史理科国語を教える意味はまったくないだろうね。

まず歴史。アホの一つ覚えみたいに旧石器時代からネチネチとどうでもいい知識を詰め込んでいく。しかも小、中、高と重複も多い。近代史だけで十分だろ。そもそも現在日本のあり方語る上で、聖徳太子とか小野妹子とかもう、どうでもいい(聖徳太子最近教科書には載っていないらしいけど)。明治から現代までの歴史を、くだらない年号とか一切抜きにして、さっと流せば十分。半年もあれば浚える。それだったら大学教養課程でやりゃーいい。

国語はいらん。ここ参照。http://d.hatena.ne.jp/filinion/20090214/1234584728

理科がいらないっていうのはわけがある。それは後で書く。

んで、空いた時間で何をするかっていうと、算数(数学)をばっちりと教え込む。課程の全時間をそれに当てる。あー、体育、音楽はあってもいい。家庭科はいらん。あんな包丁の持ち方とかお裁縫とかは家で教えろ。そもそもミシンの使い方なんぞ大部分の人間にとって必要ない。総合学習は即刻廃止。うちの学校では「一輪車の乗り方」を教わったわけだけども、人生においてまったく何の役にも立っていない。習字もいらない。もう毛筆なんぞ日常的に使う人間はいない。ユーキャンのペン習字でもやらせておけ。コンピュータ数学の実習という形で触れさせる。フィルタリングなんぞ必要ない。

とにかく義務教育学習課程で無駄を徹底的に排除。

高校入学後は、これに加えて経済理科生物学中心)を英語で教え込む。現代の経済学科学はほとんど西洋で作られたから、わざわざどこぞの教授自分研究室大学院生編集させたり、ろくな知識もない学歴だけ無駄に高い高校教師が作ったような教科書を読む必要性はない。教える内容も、基礎中の基礎で十分。日経新聞や、日系サイエンスを読んで、とりあえず8割くらいわかる、という程度でOK。

大学では最低1年、望ましいのは2年間ほど教養教育に当てる。ここで初めて各人の選択で、古文やりたいやつは古文やったり、旧石器時代を習いたいやつは習えばいい。哲学やろうが、地政学やろうが自由。それを通過して初めて専門課程に進ませればいい。

今の日本で高校進学率の高さは異常。中学校までの義務教育で、「とりあえず社会労働者として生きていくのに必要な知識」を与えておいて、そこからはもっと人数を絞り込んでやっていけばいい。明治時代エリート教育みたいに。たとえば東大数学科だとしたら、定員は10人もいれば十分。それでも多いくらい。その10人に対して3倍の数の教員が質の高い教育を提供すればいい。大学での教養課程も、「やりたくなければやんなくていいよー。ただし国際社会で恥かくのは君だからねー」でいいじゃん。無理やり必要もない人間に「人間安全保障」とか教えても意味がない。自己責任でやっていけばいい。

小学校教員も、最低博士課程を出た人間じゃないとなれないようにする。進級をアメリカ大学並みに厳しくする。必要な知識を身につけていない子供は容赦なく留年させる。勿論能力によって厳密にクラス分け。子供が「数学なんてやっても意味ねー」と言い出したら、「そうだね。君の人生にとっては意味がないよね。義務教育終えたらそこらへんの工場労働者として頑張ってね!」でいい。

関係ないけど、修士課程も廃止。日本修士課程世界の中でもかなり独特で無意味制度博士課程4年、の一本でいい(MBAは例外)。

反発が予想されるのは、「楽そうだから」「若い女の子と触れ合えるから」って理由で教職に就いた、理科社会科国語科(古文、漢文)、保健体育の教員からだけども、かれらも頑張って労働者として働いていただけばいい。本当に熱意があれば、大学教養課程で、エリート対象に教えればいい。

こう思ったのは、昔塾で勉強を教えていたときに、あまりに無駄が多いと感じたから。小学生花崗岩を見分ける能力、名称を覚えることがまったく無意味だ、とは言わないけれども、もっと他に大事なことはいくらでもあるはず。種子島鉄砲伝来と、キリスト教伝来、どっちが先だったか覚えるのは、もうまったく無意味。何の流れも関連性もないだろ。センター試験を見てみても、本当に無意味な問題が多い。

まあ凡人には理解できないかもね。

2009-02-15

歴史理科国語は小中学校で教える必要がない

教育目的社会的ニーズに合わせた個人の形成にあるならば、小中学校歴史理科国語を教える意味はまったくないだろうね。

まず歴史。アホの一つ覚えみたいに旧石器時代からネチネチとどうでもいい知識を詰め込んでいく。しかも小、中、高と重複も多い。近代史だけで十分だろ。そもそも現在日本のあり方語る上で、聖徳太子とか小野妹子とかもう、どうでもいい(聖徳太子最近教科書には載っていないらしいけど)。明治から現代までの歴史を、くだらない年号とか一切抜きにして、さっと流せば十分。半年もあれば浚える。それだったら大学教養課程でやりゃーいい。

国語はいらん。ここ参照。http://d.hatena.ne.jp/filinion/20090214/1234584728

理科がいらないっていうのはわけがある。それは後で書く。

んで、空いた時間で何をするかっていうと、算数(数学)と英語をばっちりと教え込む。課程の全時間をそれに当てる。あー、体育、音楽はあってもいい。家庭科はいらん。あんな包丁の持ち方とかお裁縫とかは家で教えろ。そもそもミシンの使い方なんぞ大部分の人間にとって必要ない。総合学習は即刻廃止。うちの学校では「一輪車の乗り方」を教わったわけだけども、人生においてまったく何の役にも立っていない。習字もいらない。もう毛筆なんぞ日常的に使う人間はいない。ユーキャンのペン習字でもやらせておけ。コンピュータ数学の実習という形で触れさせる。フィルタリングなんぞ必要ない。

とにかく義務教育学習課程で無駄を徹底的に排除。

高校入学後は、これに加えて経済理科生物学中心)を英語教え込む。現代の経済学科学はほとんど西洋で作られたから、わざわざどこぞの教授自分研究室大学院生編集させたり、ろくな知識もない学歴だけ無駄に高い高校教師が作ったような教科書を読む必要性はない。教える内容も、基礎中の基礎で十分。日経新聞や、日系サイエンスを読んで、とりあえず8割くらいわかる、という程度でOK。

大学では最低1年、望ましいのは2年間ほど教養教育に当てる。ここで初めて各人の選択で、古文やりたいやつは古文やったり、旧石器時代を習いたいやつは習えばいい。哲学やろうが、地政学やろうが自由。それを通過して初めて専門課程に進ませればいい。

今の日本高校進学率の高さは異常。中学校までの義務教育で、「とりあえず社会労働者として生きていくのに必要な知識」を与えておいて、そこからはもっと人数を絞り込んでやっていけばいい。明治時代エリート教育みたいに。たとえば東大数学科だとしたら、定員は10人もいれば十分。それでも多いくらい。その10人に対して3倍の数の教員が質の高い教育を提供すればいい。大学での教養課程も、「やりたくなければやんなくていいよー。ただし国際社会で恥かくのは君だからねー」でいいじゃん。無理やり必要もない人間に「人間安全保障」とか教えても意味がない。自己責任でやっていけばいい。

小学校教員も、最低博士課程を出た人間じゃないとなれないようにする。進級をアメリカ大学並みに厳しくする。必要な知識を身につけていない子供は容赦なく留年させる。勿論能力によって厳密にクラス分け。子供が「数学なんてやっても意味ねー」と言い出したら、「そうだね。君の人生にとっては意味がないよね。義務教育終えたらそこらへんの工場労働者として頑張ってね!」でいい。

関係ないけど、修士課程も廃止。日本修士課程世界の中でもかなり独特で無意味制度博士課程4年、の一本でいい(MBAは例外)。

反発が予想されるのは、「楽そうだから」「若い女の子と触れ合えるから」って理由で教職に就いた、理科社会科国語科(古文、漢文)、保健体育の教員からだけども、かれらも頑張って労働者として働いていただけばいい。本当に熱意があれば、大学教養課程で、エリート対象に教えればいい。

こう思ったのは、昔塾で勉強を教えていたときに、あまりに無駄が多いと感じたから。小学生花崗岩を見分ける能力、名称を覚えることがまったく無意味だ、とは言わないけれども、もっと他に大事なことはいくらでもあるはず。種子島鉄砲伝来と、キリスト教伝来、どっちが先だったか覚えるのは、もうまったく無意味。何の流れも関連性もないだろ。センター試験を見てみても、本当に無意味な問題が多い。

http://nyushi.yomiuri.co.jp/nyushi/center/09/1/exam/522/12.htm

って本当に、大事なことなの?

もっとコアになる部分をしっかりやらないと、資源のない日本では本当に足元から崩壊してっちゃうだろうね。

2008-10-28

ミネラルウォーター不思議

http://anond.hatelabo.jp/20081028194546

関係ない話だけれど、なんで六甲のおいしい水ってエビアンあたりよりも高いのだろう。

製造コストってせいぜい工場運営コストと輸送費ぐらいしかかからなそうなのに。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%94%B2%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%84%E6%B0%B4

泉源神戸市灘区篠原南町6-1-25で、六甲山系の花崗岩層をくぐり抜けた水であるが、採取地が住宅地の中(周りはマンションダイエーグルメシティ灘店)と意外な場所にあるため写真週刊誌で記事にされたこともある。この土地は以前、六甲牧場という1879年明治12年)創業の小規模な牛乳飲料メーカー現在存在しない)があった工場跡であり、六甲のおいしい水は、そこにあった井戸を基礎として採水し、トレーラー奈良工場(大和郡山市)まで運ばれてボトリング(瓶入れ)されている。

ミネラルウォーターの作り方としてはやや特殊(普通採水地でボトリングまでを行う)ではあるが、2005年西区に新工場六甲工場)を建設し、2リットル入りの製品はこの新工場で採水からボトリングまで一貫して生産するようになっている。熱を加えない「フレッシュ無菌パック製法」を採用している。なお、500ミリリットル入りの製品現在でも奈良工場生産されている。 

まさか阪急より南で採水しているとは思わなかった。

2007-04-01

今、鉄腕ダッシュでガラスづくりとかやってるんだけど

ダッシュ村って思いっきり花崗岩地帯だからいい原料とれるはずなんだけどなぁ

 
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