はてなキーワード: 仏教とは
2022-07-23
■創価学会3世で未活動、関係も断っているが、公明党に票を入れてる
物心つく前から「勤行しないとバチがあたるよ!!」と、幹部だった祖母に仏罰の恐ろしさ刷り込まれ、学生部や男子部に上がるにつれそれが学会組織、公明党になり、学会と疎遠になっても私は票田として機能している。
一定の年代以上の福子は、絶縁されたり破門(って今は言わないのか?)される=仏罰が下る、という畏怖があって活動続けている人も多いと思う。
だから「創価学会はカルト」って誰かに言われると、反射的に「いやそれは違うよ」と言ってしまうのは、否定しないと自分にバチがあたるという恐怖が少なくともあるから。
興味深い。
波羅夷罪(はらいざい)[1]、あるいは単に波羅夷(はらい、巴:梵:pārājika, パーラージカ、波羅市迦)[2]とは、仏教の出家者(比丘・比丘尼)に課される戒律(具足戒)の内、僧団(僧伽)永久追放に値する最重罪の総称。
上座部仏教のパーリ律の場合、比丘(男性出家者)は淫・盗・殺・妄の4つ(四波羅夷)、比丘尼(女性出家者)には更に触・八事・覆・随の4つを加えた8つ(八波羅夷)がある[2]。
もし、出家者にして戒律や身分を捨てて還俗をしないで、この戒を破った際には、全ての資格ととを剥奪され、仏教教団から追放されて仏教徒では無くなり、二年間、一切の宗教活動を禁止しなければならない重い罪となる。
また、後に罪を悔い改めたとしても、仏教徒に戻ることは許されるが、再び出家者である僧侶となることはできない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E5%A4%B7%E7%BD%AA
書いてる私の略歴 中学で坐禅にはまって禅寺に通いはじめる。スピ系話が好き。ワクチンはP・P・Mで接種。年齢 中高年。
私が小学生の時、PTAのボス的存在に連れられて1946年に設立された教団に通い始める。
以下、母の証言による。
信者は皆の前で反省しなければならない。家のなかのあれこれを全部話させられる。貯金の額も申告させられる。
毎日布教に行く。母に同行した支部の班長は近所の不幸をあれこれ聞きだし、それを使って信者を獲得(○○で悩んでいた人が入信して良くなったみたいな)し、毎月信者獲得数トップで誉められていた。
布教の時に配る教団の冊子は信者が買う。沢山買って沢山配れば誉められる。返品不可。
ごく短期間で母ギブアップ。辞めるときにかなり揉めたらしいがなんとか脱退。
その後私が禅寺に通い始める。
退職後知人に誘われて入信。
一日中道場に詰めて連絡が取りにくくなるも、当初は留守番電話の設置だけ薦めて我が家は静観。
その後我が家に来て自分は清浄、我々は不浄な態度を露骨に見せ、他人の不幸を今まで以上に嬉しそうに話し始めたので、信者の自惚れに餌をやるタイプの碌でもない教団なのか、元々性格に難のある親戚だけがそうなって教団はまともなのか判らず我が家は対応に苦慮。
ご奉仕に身につけるエプロンは他で使うと穢れるとか、お守り袋作成の中に電話に出ると穢れるのとか、禁忌があまりにも厳しすぎ、自分達は守られているので医者に行かなくても大丈夫、薬は毒等々と言い出す。
うぬぼれはどこの宗教でも社会常識でも悪い事なのだが、それを抑えている気配が無く、禁忌によってそれを煽っているように見える。私の入門した禅寺の御老師様はこういうことにかなり厳しかったので絶句する。これはかなりまずいかもと退団の説得に乗り出す。しかし時既に遅く不浄な我が家の言葉は届かず、「守られている」と大見得切っているので事故や病気になったときに我が家に助けを求められず、却って事態が悪化すること数えきれず。
薬は毒だとか恐怖を煽りつつ、私たちだけは救われるんですよと優越感をくすぐる、宗教というより殆どマルチ商法という気がしたので「苦情の坩堝」や「悪徳商法マニアック」の体験談を読みあさり、なんとか脱退の糸口を掴もうとするも結局力及ばず。
晩年、教団墓地管理費を長年二重取りしていたことが判ったが(お金は返ってこない)、それでも結局親戚は死ぬまで信者だった。
親戚の死後、親戚が身につけていたお守りの事で親戚を誘った女性とも初めて会ったのだが、教団墓地の話ははぐらかすのに、突然の葬式仕切りで大忙しの私を道場へ何度も何度も誘った。控えめで気が弱そうで善良そうな女性がである。長年道場だけが重要で世の中の事は些事と教え込まれているとこうなるのだろうか。「世の中に間借りして修行させてもらってることを忘れるな」って御老師様は言ってたから、あんまり世の中を軽く扱うのもまずいのではと思う。
また信者に口寄せさせて、その人が話したことを真に受けて皆で実行していたようなのだが、そんな心許ないものに左右されてどうするのだろう。世間に対しては一々疑いや不信を抱くのに自分達の行いに対してはあまりにも信用しすぎなのもまずいと思う。「自分を疑え」「脚下照顧」と先達も諭しているのに。
通帳など紛失しているので判らないままだが、親戚が教団に納めた金額は8桁を超えていたようである。教団の維持にお金が必要なのはわかるけど、それも程度問題だと思う。
職場と家以外、人間には案外居場所がない。親戚にとって道場は第二の我が家だっただろうし、母も家とパート先以外の居場所が欲しくてあの教団に行ったと思う。でも信者獲得数やお布施の額で確保する居場所は良くないと思う。
余談だが、コロナが流行した年にこの教団の他県支部でクラスターが発生したらしい。薬は毒、我々は神様に守られている、発熱は好転症状と言い続けていたら、三密対策もとるにとれなかったろうとは思う。
タイトル通り。ある日知人ともう一人が冊子をもって布教に来たので、私は中学の時に禅寺に入門して受戒していること、今も信者である事を告げてお引き取りを願ったところ、「先祖供養はお寺任せではなく、自分でやらないと。ここなら自分でできるんです」と連れの年配女性。「自分でやってますが」と私。
しかし相手は怯まず他のやり方では駄目と言わんばかりに押してくる。
それなのに冊子には教団名が書かれてない。祈祷文をネットでくぐって漸く判明した。自信あるならちゃんと名乗れよ。
知人も過去の自分の不幸を開陳するのだが、母の体験もあるので私は一切自分の状況を口にせず「現状に大満足(大嘘)」で押し通す。キリスト教の告解は神父様だけにだし、仏教は仏に懺悔する。到らぬ身の人間相手に懺悔しても悪い結果にしかならないと御老師様も言っていたしね。
大宗教でも自派が一番優れているといってるけれど、それは大昔の、印刷術も電話もなく、人の移動がほぼ徒歩だった時代にアクセス出来る範囲にある宗教では一番と言ったわけで、色々な宗教信者が一緒に暮らす現在それをいうのは利より害の方が大きい。私の禅の師である御老師様は他宗教をくさす言葉は一言半句仰らなかった。
確かに小学校の友達が教会で入信したときに「私は救われるがあんたたちは煉獄」と言い放ったし、私が禅寺で入信したときクリスチャンの友人が牧師執筆の本を貸してくれ、そこには孝行を尽くした妹よりなにもせず親の死後仏壇を買った長男が誉められる仏教は間違っていると書かれていた。
事実に基づかない批判(貧女の一灯をしらんのか)を展開する行為の方が、私にはドン引きだった。さすがにこういうのは今は少なくなっていると思う。
常識を疑う、破るのは仏教にもあるが、それは修行が進んだあと、無意識下の刷り込みを打破するためのもので、一般信者が社会常識を踏みにじっていいということではない。
普遍的な道徳に照らしてアウトなものは宗教でもアウトだと思う。
この二人組は本当に何度も来た。コロナになってやっと音沙汰がなくなって悪いがほっとしている。
20代後半のある日、家で読経中に宗教の勧誘が来た。中断させられてイラっとした私は数珠袈裟のままドアを開けた。そこに立っていた男性は、私の数珠袈裟をみて「これはお邪魔をしました」と深く一礼した。近所のキリスト教会の牧師である事を名乗って、若い女で異教徒の私にもう一度お辞儀をして、信者を引き連れて帰っていった。信仰する者に出会ったことが嬉しいという顔をしていた。「美味これ淡味」本当に価値のあるものは奇をてらわない普通の姿をしているのだという御老師様の言葉が浮かんだ。私も深く一礼した。
霊感商法とか壺買わせるとかカルトにありがちなことをしていないだけで金は集めてるじゃん
それにキリスト教は子供に対する性的虐待ヤバすぎだしイスラム教は言わずもがなの人権の無さだし
誰がどこに線引きすんの?
俺から見たらキリスト教もイスラム教も仏教もどれでも全部カルトにしか見えないけど
俺が判断していいなら宗教なんて全部規制するしマルチも全部規制するよ
その結果世の中がどうなろうが知らん
それでいいんだよね?
宗教知識は有意義なものが多いぞ。そもそも日本は無宗教と言われるが、道徳は儒教、仏教をベースとしている。儒教、仏教が必ずしも神の存在を前提としないから、神の存在が消え去って道徳面だけが残っただけのこと。
信仰している当人の内心の自由は侵害できないが、外形的に金を奪い取るような行動や、強引な勧誘をは禁じることができる。
そもそもカルト宗教自体や、怪しい自己啓発セミナー自体、良さそうなものに食らいついて境界をなくして儲けるという手口だからな。
今年入ってから、兄(40代)、祖父、祖母が相次いで亡くなった。
兄が独身だったのと、長男代理だったので頑張れるから(あと父も高齢だから)全部喪主やった。
普通に仏教なのだけど、結構信心深い母方の宗派とそんなに信心深くない父方の宗派の両方経験した。
でも、どっちも葬儀で20万、初七日で3万プラス、お車代とお膳代で葬式やるだけで25万かかる(関西の相場)。葬儀代は別(これについては200万とかそれぞれかかったけど、次からは2~30万かもっと安くできる知見が得られた)
車で5分の葬儀場往復で1万とかないやろ(火葬上の往復まで全部タクシーとかなら5kは超えるかもだがそれなら車手配する)、親族の食事代は酒入れても一人5000いってないのだが? とか不満はありまくる。
けど、信心深くない人(本人が坊主呼ぶなと言い切ってる)を弔う、かつ世間体とか気にしないほんとに身内だけの家族葬以外では、言い値(相場)で払うしかない。
で、今ってまだ信心深い人が弔われるのが多いから、故人の遺志とかでお布施してるけど
数年後以降ってお寺ってどんどんどうにもこうにもならなくなっていきそう
うちの実家の地域が古いムラみたいなので、お寺改修するとかで億集めれる感じのとこだけど。
その次の世代って、寄付とかしなさそうだし、そもそもそのムラから出てたりする
■教養を身に付けられる本を教えて欲しい。
この問いに答えるには先に「『教養』とは何か」ということをクリアにしないといけないと思うが、これを抽象的に論じ始めると喧々諤々の議論となって、増田の「本を教えて」という望みにたどり着かない。
しかし、日本の「教養人」と言われる人/自称している人たちの中で「教養」の範囲は割と共通していて、だいたい以下のラインナップに自分の専門や好みを付け加えたものになるのではないかと思う。
これはもう間違いない。およそ西洋で発展した学問は深掘りすればすぐにキリスト教にぶち当たる。
ただ日本でキリスト教について知識を身に付けようとしてもなかなか良い本が無いのが現状。(その辺で売ってる入門書は表面をなぞってるものばっかりなので読んでも誤解して終わりだと思う)
個人的には内村鑑三の一連の著作から入るのが分かりやすくて良いと思うが、古くて読みづらいかも。田川建三から入るのも面白いかもしれないけどどうかなぁ。
なお、「教養人」といえど聖書は誰も通読していないので、上記の本で引用されたところを拾い読みしておけばよい。
ひと昔前までマルクス主義はすべての学問を包括する「グランドセオリー」と言われていて、どんな問題でも切れる便利なナイフのように活躍していた。
その残滓が今でもあって、社会科学においては今でも学生が知らず知らずのうちにマル経用語を覚えさせられていたりする。
むかしは手に入りやすくてわかりやすい入門書が不破哲三のものしかなかったが、数年前のマルクスブームでたくさん良い本が出ており、個人的にはデヴィッド・ハーヴェイの入門書をお勧めしたい。(ただ抵抗が無ければ不破哲三の著作は今でも分かりやすくてよい)
みんなの憧れ『資本論』も上記入門書の傍らに置いてちびちび読んでみると良い。そこらの難解な哲学書に比べればぜんぜん読める。
マルクスをやればみんな歴史がやりたくなる。マルクス主義史観を学校で習った日本史/世界史に当てはめて、その切れ味を試したくなるからだ。
好きな時代や分野をやれば良いと思うが、「教養人」はみんな網野善彦と遅塚忠躬の著作が大好き(偏見)なので、ぺらぺらめくっておくと良いだろう(マルクス主義史観の多少の解毒剤にもなる)。
ウォーラーステインも読みたくなるが、長すぎて誰も通読していないので、川北稔のアンチョコを読んで、読んだふりをしておくと良い。
なお、第二次世界大戦については最近、川田稔『昭和陸軍全史』という誰でも読めるすばらしい本が出たので、知ったかぶりができなくなった。
文学となると何を読むか、ということになるが、サマセット・モーム先生が『世界の十大小説』というすばらしいアンチョコを出しているのでまずはこれを読むと良い。
そこで採り上げられている小説のうち、『カラマーゾフの兄弟』と『戦争と平和』は「読まなければ人ではない」という風潮があるので、せめて読んだふりはできるように。キリスト教の知識がここで生きてくる。
日本の小説では、夏目漱石についての柄谷行人の論考を読んで、日本の近代について一席ぶてるようにしておこう。
それと『失われた時を求めて』はとりあえず買って挫折するのが大事。
わが国では哲学について昔から「デカンショデカンショで半年暮らす、あとの半年寝て暮らす」という有名な言葉があり、デカルト・カント・ショーペンハウアーが昔の「教養人」の必須科目となっていたらしい。
ただショーペンハウアーがここに入っているのは少し不思議で、今ならニーチェが入るのではないかと思う。
どうせ正確な理解なんて無理なのだから、適当なアンチョコを読んで知ったかぶりができるようにしておくと良い。
なお、なんか知らんが日本人はヘーゲルが大好き(な割に誰も理解していない)なので、一応挨拶だけしておこう。
「教養」として名前が挙がることが多い一方で、まともに条文を運用できる人がほとんどいない分野。
上述してきた分野と違って、本を読むだけではだめで、指導教官のもとで実際の事例にぶち当たってトレーニングを積まなければならないので難しいのだろう。
下手に基本書を読んでも本職に知ったかぶりをすぐ見抜かれるので、時折ネットで話題になる法律問題について法曹の解説を読んで都度勉強すると良いだろう。
ここまで挙げた学問はいずれも西洋で発展したものなので、「日本にはなんもねぇのか」という気分になってくる。
こうした「教養人」が抱えるコンプレックスについて内田樹が『日本辺境論』という本で書いているので、ちょろっと見ておくと良いだろう(Amazonで1円で売っている)。
ここらで本居宣長とか丸山真男とかを読み出す人も多いのだが、どうせ不毛な作業になるので、視野を広げて中国思想・インド思想辺りに目を向けるのが良い。
「教養人」というのは大概文系であり、自然科学についてはからっきしな奴が多い。
自然科学の話題になると、トーマス・クーン『科学革命の構造』をそれらしく引用して逃げ切りを図る人が多いのだが、本職に馬鹿を見抜かれるので素直に勉強しましょう。
ヨビノリをはじめとした学習コンテンツがYouTubeに転がっているので、せめて高校数学と物理ぐらいはやっておかないといけない。
上述してきたような分野をやっていると、唐突に詩が登場したりして困惑する場面が多々出てくる。
論理的(笑)な「教養人」の中にはこれを不得手として敬遠する人が多いのだが、どこかで対決しなければならない。
幸いなことに最近、詩人の渡邊十絲子という人が『今を生きるための現代詩』という詩についての分かりやすい概論を出したので、一読した上で適当な詩のアンソロジーでも買ってくれ。
なんか知らんが「教養人」は映画が好きな人が多いので、ある程度は観ておかないといけない。
イギリスのエンパイアという雑誌が「史上最高の映画500本」という特集をやっているので、上から適当に観ておけば良い。
とりあえずこの辺を押さえておけば周囲からは「教養がある」という認定を受けるのではないかと思う。
ただ教養があったとしても「教養人」からマウントを取られる可能性が低くなるだけであり、「他人との会話が盛り上が」るなんてことはまず無いから気を付けて呉れ給へ。
占いって、ある意味占い師ごとに別々な流派の新興宗教なんだけど、そんなの信じてると言われたらドン引きだろ。
だって、占い師ごとに師匠はいるにせよ、占いや根拠とすることは全然違うんだからキリスト教や仏教というカテゴリの中で新興宗教が分かれてるのと一緒。
今にして思うと、「アレってカルトだったのかも…」となったから当時の思い出を書くことにする。
当時の俺は、就職に失敗して、なんとか契約社員としてゴミみたいな工場に潜り込んだ男だった。
とにかく最悪の人生を過ごしていたと言っていい。
まあ偏差値は50後半くらいで、イキってそこそこの大学に行ったけど、コミュ力なくて落ちぶれたパターンのやつな。
大体エスポワール号に乗る前のカイジをイメージしてくれればいい。髪型とかマジであんな感じだった。
そんで、ある日、工場の同僚が「たまには遊びに行きませんか?」と言ってきたので、友達もいなかった俺は嬉しくなって夜勤明けの日に街に繰り出した。
で、一緒に飯食ってる時に、夢の話になった。「やりたいことないんですか」的なアレだ。
俺は嘘をついた。「実は輸入業とかやってみたいと思っている」と。
実際は輸入とかには全く興味はなかったが、フェアトレードがどうたらこうたら、それっぽいことを言うと同僚は何だか、色んな言葉を駆使して俺の事を褒めてくれたのを覚えている。
「今度、そういうの応援してくれる集まりがあって、友達に誘われてるんだけど、独りじゃ心細いから一緒に行きません?」と誘われた。
実のところ全く俺は他人を応援する気はなかったが、褒められてうれしくなっていたので、二つ返事で「行く」と答えて、連絡先を交換した。
その週の終わりには、俺は近所の市営の集会所に呼び出されていた。同僚と、その友人を名乗る色黒、細見の眼鏡がいた。
大体10人くらい?の人が集まっていて、まず、名前と住所、仕事を書くことになっていた。
俺は嘘をついた。安アパートに住んでいるのが恥ずかしかったので、実在する地名に、適当なマンション名を書いたのだ。
ということで、会はスタートした。優しそうなおじさんとおばさんが主催する会で、「普段は地域でクリスマスパーティとかお楽しみ会をやってるんだよ」的なことを言って、チラシを見せてくれた。
「実のところ、履歴書に書くこと目当ての大学生の人も多いと思うけどさ」とおじさんが言うと、笑いが起きたので、学生もいたのだと思う。
話は大体、みんながどういう人間になりたいか、的なことだった。最初はみんな、シャイな感じだったのだが、おじさん達は優しく合いの手を入れてくれた。
俺も気持ちよく輸入業を目指す青年という大嘘を突き通すことができた。言いながら(輸入ってなんだよ)とか考えながら、なんかよくわからんがマレーシアから絹を仕入れるんです!的なことを言っていた覚えがある。
そもそもマレーシアって絹取れるんだろうかとか、まあ、わかりゃしねえよって気持ちだった。
同僚は不安げで、「なんか怪しい宗教みたいじゃないですか?」的なことをそれとなくツッコんだら、周りの人間も笑った。
「まあ、お寺とかは正直付き合いあるよ」とおばさんが微笑んだ。
まあ、俺も幼少のころ、近所のキリスト教会の集まりに呼ばれて、大福などを作って食った覚えがあるので、そんなもんだろうと思ったが、
同僚は「うーん」とか言いながら、こちらをチラチラと見てきた。俺は「まあ、宗教って根ざしてるからね。地域に」と言って知見を示すと、同僚は笑顔になった。
夢をキラキラした目で語っていたガリ褐色眼鏡は、、同僚に対して、「俺さんもこう言ってるし、怪しいところじゃないでしょ」とかなんとか笑っていた。
そんな感じで、一回目の集会ではやはり大福が出てきて、茶を飲んで終わった。同僚は、不安げに「来週も着いてきてもらっていい?」と聞いて来たので、
頼られていると感じた俺はやはり二つ返事で「いいよ」と答えた。
2回目の集会では、親子関係というか、家族とは何か、的な話をしたと思う。それで、親の仕事について話す機会もあった。
俺は嘘をついた。
「親が丸紅に勤めてて、三人兄弟の末っ子の俺は落ちこぼれたんですけど、やっぱり海外と取引したくて」と。
親父はゴミみたいな中小企業で働くサラリーマンである。丸紅ってそもそも輸出とか輸入とかしてんのか?まあバレやしねえよという気持ちで俺は親の職業を偽ったのだ。
ちなみに兄弟も余裕でいない。純粋に一人っ子だ。兄弟がいた方がなんかカッコいいかな、と思って嘘をついたのである。
で、3回目の集会にも俺は参加する、と言っておいて、当日になってなんかめんどくさくなったので約束を破った。
そしたら、職場で同僚は「ガリ眼鏡とおじさんが会いたがっている」的なことを言ってきたので、しょうがねえなあ、という気持ちで4回目の集会に参加することにして、
それからもちょくちょく、集会に参加した。お菓子が段々グレードアップしていたし、おじさんとおばさんは俺達をよく褒めてくれていたから、まあ悪い気分ではなかったからだ。
結論から言うと、6回だか7回目の集会で、俺達は仏の彫像と変な健康食品セットを買う事になった。
値段は合わせて5万くらいだったと思う。なんというか、どういう売り文句で買う事になったのか、全く覚えていなくて恐ろしい。
ガリ眼鏡はともかく、宗教に否定的だった同僚も、何やら買っていたので、俺も流されて買ったのだと思う。支払いは現金とローン、どちらでもよかった。
俺は嘘をついた。
「このくらいの値段なら余裕ですね」と。ちなみに当時の俺は貯金ゼロ。だが、まあ別に払えなくてもいいだろ、という気持ちで12回払いのローンを組んだ。
普通に頭金の何千円かはその場で払ったのだが、その後のローンは余裕で無視した。
その次の次くらいの集会で、「あの、ローンってどうなっとる?」と聞かれたが、「すみません、すぐ払います」と言いながら誤魔化していたと思う。
10回めだかそこらの集会で、俺達はビジネスとして健康食品や仏教グッズを売る流れに参加させられることになった。
まあ、読んでる人はわかると思うから言っちゃうが、端的に言ってマルチだった。
「これって絶対もうかるじゃん」的なことを同僚は言っていたのを覚えている。俺も当時は「これって絶対もうかるじゃん」と思っていたので、頑張るぞ、という気持ちになった。
その時、マニュアルを渡された。要約すると、『プロ3人~4人で囲めば、絶対にモノは売れます』的なことが書いてあって、台詞だとかも全部用意されていた。
「サクラを忍ばせて、疑問を投げかけさせます、そしてその人間を説得、納得させると周りも流されます」的なことも書いてあって、これはぜってー売れるな!と俺も安心したものだ。
次の集会で、俺は嘘をついた。
「もう3個契約取っちゃいました」と。正直、契約書の提出とかその辺がガバいのを俺は見抜いていたので、余裕で嘘をつけるなと思ったので嘘をついたのだ。
おじさんはものすごく褒めてくれて、集会が終わった後、こっそり俺にお茶を手渡しながら、言った。
「実は、この集会やるのも高齢化でさ、子供会とかもあんまり回らなくなってきたんだよね」と。かいつまんで言うと、俺になんとかという教団に入って欲しい、的な誘いだった。
俺は嘘をついた。
「ええ、勿論入りますよ」と。なんか当時はすでに俺に嘘をつかせまくるおじさん達に対してイライラする気持ちもあったので、「入るわけねーだろバーカ」と思いながらも、その場しのぎで嘘をついたのである。
おじさんは嬉しそうで、「最近、新興宗教とかみんな不安だと思うから、ご両親に挨拶させてくれ」と言ってきたので、
俺は嘘をついた。
普通に知らない適当な番号を書いて渡した。そもそも実家の家電とか、両親の番号とか、携帯には入っていたが暗記はしてなかったのだが、それを言うのが恥ずかしかったからだ。
その次の集会。
俺はおじさんとおばさん、それにガリ眼鏡と同僚に激ギレされた。
「なんで嘘ばっかつくの!?」と。
なんのことだ、と俺は心の底からビックリした。おばさんはヒステリックにキレていた。
「電話番号も、住所も、全部嘘やん!!!」と。俺は本当に何のことだかわからなくて、興奮しながら置いてあった煎餅を齧った。
「あとさ、ローンも滞納してるし、もしかして前に健康食品売れたってのも嘘だと不安になっちゃうじゃん」と、おじさんは優しいながらもキレてきた。
まあ健康食品が売れたというのは嘘なので不安もクソもないのだが、俺は気が付くと涙を流していた。
「嘘をついたつもりはないんです。言い方が悪かったならごめんなさい」と。
煎餅をひたすら齧りながら、俺はひたすら泣いていた。同僚とガリ眼鏡は、やはりキレてきた。
「いや、伝え方悪いとかじゃなくてさ、お金の話だからさ、そういうの、全部自分に跳ね返って来るぞ」だとか、「自分が輸入業始めた時に嘘つかれたらどう思う?」だとかだ。
ロジハラをかましてきやがった2人に対して、俺はやはり泣くしかなかった。
おじさんは、「まあ、本当、お金だけね。お金の話だから、払うところだけ払ってもらって。そしたら、全部忘れるからさ」と言って、話は決着した。
普通にその後、集会に行くことはなかったし、職場の同僚は会うたびに「金払った?」と聞いて来てうざかったので、1年間俺はそいつとまともに会話をせず、工場を辞めてしまった。
金はないので払わなかった。仕方ないね。
当時こそ、「俺が悪い」という気持ちだったのだが、今回の統一教会の話とかを見ていて、「ああ、俺って騙されかけてたんだな」とようやく感情の整理をすることができた。
冷静に考えると、同僚はその団体と元からグルだったのだと思う。
ガリ眼鏡も、同僚も初めから俺をハメるつもりだったのだ。「団体に疑問を投げかけるサクラ」そのものだったのだ。
俺は、運よくカルト、ないしはマルチだろうか。深みにハマる前に、先方がボロを出してきたので入らずに済んだ。
でも、アレはいかん。本当に騙される。人格や教養に関係なく、人と人が正しくコミュニケーションをしよう、と考える限り、絶対にハマる。
俺の経験がもし教訓になるとしたら、カルトにハマらない方法とは、
金を持たないこと、他人の話を聞かないこと、他人の話に真剣に答えないこと。相手に気を遣ったり、本当のことを言わない事だ。
みんなも気を付けて欲しい。
キリスト教系カルト宗教で、欧米起源でなくよりによってキリスト教の歴史上全く無関係の韓国起源のカルトをどうして信仰しようと思うのだろうか。
キリストでもない、聖母マリア(婚前交渉で妊娠しちゃった事実を言えなかったビッチwww)でもない、韓国人の教祖が考えた合同結婚式とか意味不明過ぎるwww
世界三大宗教の仏教、キリスト教、イスラム教のほか、ヒンドゥー、儒教など、世界史に名を残す立派な宗教への信仰ならともかく、
どうして韓国起源のキリスト教カルトを信仰するに至るのかが理解できない。
たとえば、パチンコ依存症の家庭があって、 親のパチンコ依存で家庭が崩壊して、その家庭の子供がパチンコに嫌悪を抱くようなものか?
たとえば、アルコール依存症の家庭があって、 親のアルコール依存で家庭が崩壊して、その家庭の子供がアルコールに嫌悪を抱くようなものか?
たとえば、麻薬中毒の家庭があって、 親の麻薬中毒で家庭が崩壊して、その家庭の子供が麻薬に嫌悪を抱くようなものか?
たとえば、ソシャゲガチャ依存の家庭があって、 親のソシャゲガチャ課金で家庭が崩壊して、その家庭の子供がソシャゲ会社に嫌悪を抱くようなものか?
個人的には、これからはむしろ宗教への回帰が起こっていくと思う。
もちろん既存の仏教やキリスト教や新興宗教にそのまま回帰するということではなくて、形を変えた何かになるとは思うけど。
社会が高度化して複雑になりすぎて、普通の人々はもうその複雑さに耐えられなくなっていると思う。
もっと単純でわかりやすく、それだけ考えていれば人生はいいんだと思える物が強く求められているように感じる。
最近のライフワークバランス・家族・子育て重視みたいな流行もその一環だろう。
困ったことにその方向性は統一教会とめちゃんこ相性がいいわけだが(だから自民党の家族重視!改憲案とかに素朴に同意しちゃう人が多い)。
まずカルトって最初は救うんだよ。だけど、教祖に依存させるの。そして金を出し続ける機械にするの。
だけど、精神医療も発展し、脳内の血流も見れるようになってきた。そしてうつは脳の炎症だとわかってきた。
なので、迷ったら心療内科とカウンセラーとなるべきだろう。無論宗教の知識は役に立つ。最も偉人の知識と同列だろうと思うがな。
宗教知識も、宗教を踏まえてなにかいいことを言った人の本を買うというのが主流となっていくだろう。
そうするとカルト宗教は不要になる。宗教者も葬式仏教も栄えなくなってきている。ただし、SNSで発信して本を書く宗教者が著述家として生き残っていくという形になるのではなかろうか。宗教家の人数は激減するだろうが。
そもそも、何か迷ったり困ったりする人間以外に宗教知識はあまりいらないというか。
宗教知識すら一番最初は釈迦とかキリストが、それまでの宗教の知識関係なしに解いた教えをもとにしているから、納得がいくものなら納得がいって当たり前の知識になるから宗教性すら意識しないようになるというか。
日本人の道徳のベースは仏教と儒教だと考えているけど、仏教自体ももともとは神の存在を前提としてないから、政教分離と言われたら無宗教と考えても問題なくなったのだろう。
昔からというより、宗教は統一教会とかオウム真理教みたいなカルト宗教が跋扈してからだと思う。
昔は寺院への参拝は当たり前だったわけだ。特に名家と言われる家はその地域の寺社へ多く寄進している。名家の人間も寺社への寄進が故に成功したと思ってる。
そこで戦後宗教弾圧が終わったが、カルト宗教が跋扈したということの裏返しで、なにかトラブルに合った金持ちの団塊世代のお嬢ちゃんが宗教にすがれば解決するんだとカルト宗教に多額の金を出す。
カルトは様々な心理テクニックで人を騙して依存させてるわけで、葬式仏教として騙すテクニックもクソもない伝統仏教はどうしようもできない。まあどうにかできるにしてもカルト宗教に一度は救われたのは事実だろうから公権力しか対処できない。