はてなキーワード: サンドウィッチマンとは
そうなると見取り図が敗者復活して優勝か
俺はそれはないと思うな
万が一それがあったとしたらサンドウィッチマンのパターンになるんだけど
清廉なこころのあり方と幻想的な描写、というイメージで語られることが多い作家だと思うが、まだあまり作品を読んだことがない人で、このぐらいの理解でいたら、損をしていると言いたい。
宮沢賢治の良さは他にも、観察眼を突き詰めると対象への愛情とともに冷徹さを伴う好例のような、少し寒気がするほど容赦のない描写や、人を食っているとしか思えない異様な会話劇があって、これはサンドウィッチマンの文字起こしされた漫才を読んでいるのと同じくらい笑える。みんな読んだらいいと思う(『気のいい火山弾』『毒もみのすきな署長さん』がおすすめ)。
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さて『ツェねずみ』だ。
これも宮沢賢治の短編で、ある種の人間とそれが引き起こす不幸のことを、他の文芸作品では触れた経験がないぐらい明らかにしており、衝撃だった。
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ツェねずみは要領が悪い一方で欲が深く、性格がねじ曲がっているので、誰かから親切を受けても、「もっと自分のためになるように優しくすることもできたのに、それを怠った」という考え方をするため、みんなから死ぬほど嫌われていた。
本来なら恩を受けた時点でプラス(という表現もアレだが)のはずが、工夫次第でもっとプラスにできたはずのことを、そうしなかったので実質マイナス、というのがツェねずみのロジックだ。
ツェねずみが自分の理屈をどう考えているのかは書かれていない。
宮沢賢治がここに意識的に言及していないのかはわからないが、明示されていないことが実に効果的だと思う。俺は、「最初は自分でもムチャな理屈だと思っていたが、言い続けているうちに世の中がこれで渡れることがわかったので、次第に正気を失ってきた」と読む。
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そんな中で、唯一ツェねずみに優しく接するものがいた。「鼠捕り機」だ。
宮沢賢治の作品では、物体でも機械でも平気で人格を持って話し始めてしまう。木の柱だとかバケツだとか、そういうものだ。
他の物体がツェねずみに嫌気がさして付き合いをやめていく中、鼠捕り機だけはツェねずみと仲良くしようとする。
その理由は、鼠捕り機が(宮沢賢治の時代でさえ)人間社会にはもう不要、という扱いになっており、邪魔者とみなされていたので、鼠捕り機も他に親しく付き合える相手がいなかったからだ。
鼠捕り機は自分に仕掛けられた魚の頭やハンペンを、あえて罠の扉を閉めないことで、ツェねずみと交流を持つ。本来的には殺される者と殺す者という構造であったはずが、ねずみの強欲(と狂気)、鼠捕り機の孤独によって、いびつな友好が成立する。
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悲劇は、ツェねずみの尊大さに制限がかからなかったこと、そして、鼠捕り機の忍耐が特別優れていたわけではなく、通常の寛大さしかもたなかったことで生まれる。
ツェねずみは、相手が機械の本分を放棄して食べ物を与えてくれているという、ある種の奇跡が自分に起きていることに気づかない。この幸運をどん欲に消費し、さらに良い物を鼠捕り機に求める。相手をののしることさえする。
あるとき、鼠捕り機はののしられて一瞬われを忘れ、罠の扉をおろしてしまう。ツェねずみは閉じ込められ、お互いは本来の、殺される者と殺す者の関係に戻る。
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鼠を殺さない鼠捕り機、という存在は非常に奇妙だ。まともに生きにくい変わり者であると同時に、現代社会風で言えば「意識が高い」「キャラクターが立っている」という考え方も、できなくはない。
ただ、自分が変わっていることを自覚して、それを生きる上での背骨にしてやっていこうとすると破滅が起きる。
変わり者は、自分が変人だと知ると、まるでこれが一種の才能と考えたくなりがちだが(個性が重視されるはずの現代ではなおさら?)、実際は関係がない。世の中的には本当はなんの意味もないことだ。
なので、「変わり者として生きていこう」という目標は基本的に破綻するさだめにある。
社会からは、なんでもいいから普通にやってくれ、と要求されるし、より強大な理由としては、変わり者自身の中にもちゃんと「普通」の部分があるからだ(鼠捕り機でいう罠としての本分)。
社会と自らの内側の本性によって、人間は結局、まともに生きていかざるを得ない。鼠捕り機でいえば、優しかろうが意識が高かろうが、罠は罠らしく獲物を殺して生きていくしかない、ということだ。
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対象が親しい人間でも漠然とした世の中全体でもいいが、基本的に自我というのは、幸運をあり得ないものとして感謝するのをおこたりがちで、むしろそれを平時のベースとして、さらに豊かなものを求めようとする。
要求する相手が生身の人間だろうと、社会という概念だろうと、いずれにしてもこんなことはいつまでも続かないので、いつか破綻を迎える。
自分の望むものが度を過ぎていたので客観的には不幸でもなんでもないが、こういう「幸福を幸福として認識できないバグ」が心理に埋め込まれていることが、別の意味で「不幸」ではあるかもしれない。
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おそろしいような気がすることとして、ねずみと鼠捕り機のカップリングは、ある種の人間関係として、友人・恋人・家族同士の間で、思いのほかこの世で多く起きているような気がする。
たぶん社会のあちこちで、「自分には特別な才能があるから少し変わった生き方でもやっていけるし、罠としての本分を超克して目の前のねずみと生きていける」と錯覚した鼠捕り機と、「まあこれぐらいは相手に要求しても飲むだろう」と思い込んだねずみが、ある日双方のブレーキとアクセルをぶっ壊して悲劇を生んでいる。
また、俺が自分で感じたように、一人の人間の中にも、ねずみと鼠捕り機の両方が住んで同居している場合がある。宮沢賢治の『ツェねずみ』を、俺は『気のいい火山弾』と同じでサンドウィッチマンとか千鳥の漫才の台本とおなじくらいのつもりで読み始めたが、人間の本性と世界との関わり方の運命的な破滅についておそろしく冷徹に書かれていて感嘆した。すげえと思う。
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難しいのはねずみと鼠捕り機の関係で、鼠捕り機は自分の忍耐が切れて相手をとって食ってしまう前に相手から距離を置いた方がいいと思うが、人間という存在の希望も美しさも、鼠捕り機が自分の本性を乗り越えたり、周囲から押し付けられた役割を放棄して世の中を意識的にサヴァイヴしていくことで描かれがちだということで、実際それに成功した人は素晴らしいと思うし、この辺は正直どうにもならんのかな、と思っている。
おまえが社会に出る時に出鼻をくじかれたのは100%上の世代のせいかもしれないが、その後20数年経った現在の問題の責任の一端はおまえにもあるんだよ
<野球>
・種田仁 特徴的なバッティングフォームは「ガニ股打法」と呼ばれた。
・小久保裕紀 一本足打法の長距離砲。引退後は日本代表監督を務める。
・元木大介 「クセ者」として活躍。バラエティー番組でもおなじみ。
・新庄剛志 傑出したスター性で日米を沸かせた「球界のプリンス」。
・稲葉篤紀 打席に入ると「稲葉ジャンプ」で球場が揺れた好打者。
・小林雅英 ロッテ時代は「幕張の防波堤」の異名をもったストッパー。
・松井秀喜 日本を代表する長距離打者。2013年に国民栄誉賞を受賞。
<サッカー>
・岡野雅行 元サッカー選手で元日本代表。ニックネームは「野人」。
・三浦淳宏 FKの名手であり、日本における無回転フリーキック、ブレ球の先駆者。
<その他のスポーツ>
・高橋尚子 元マラソン選手。シドニー五輪金メダリスト。国民栄誉賞を受賞。
・貴乃花 第65代横綱。兄若花田とともに「若貴フィーバー」を巻き起こした。
・清水宏保 元スケート選手。二つの五輪で三つのメダルを獲得した。
・野村忠宏 柔道史上初、全競技通してはアジア人初となる五輪3連覇を達成。
<アイドル>
・GLAY CDセールス、ライブ動員数など数々の金字塔を打ち立ててきたバンド。
・平井堅 シンガーソングライター。代表作は「瞳をとじて」など。
・YUKI 元JUDY AND MARYのボーカリスト。現在はソロで活動。
・GACKT シンガーソングライター。俳優としても活躍。
・岡本真夜 「TOMORROW」は200万枚を突破する大ヒットを記録。
・華原朋美 代表曲は「I'm proud」「I BELIEVE」など多数。
・松岡充 俳優、タレント。ロックバンド・SOPHIAのボーカリスト。
・常盤貴子 代表作に『愛していると言ってくれ』『ビューティフルライフ』など。
・竹山隆範 お笑い芸人。元カンニングのボケ担当。俳優としても活動。
・塚地武雅 お笑いコンビドランクドラゴンのボケ。俳優としても注目を集める。
・サンドウィッチマン ツッコミ担当伊達みきお、ボケ富澤たけし。
・後藤輝基 お笑い芸人、司会者であり、フットボールアワーのツッコミ担当。
・梅宮アンナ ファッションモデル、タレント。父親は俳優の梅宮辰夫。
その他
・門倉貴史 経済評論家。日本における地下経済学の権威として知られる。
・荒川弘 漫画家。代表作は『鋼の錬金術師』、『銀の匙 Silver Spoon』。
・うすた京介 漫画家。『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』などが有名。
残念ではあるけど、若い割にはあまり新しい価値観をインストールできていないように見える。
Z世代が担う文化はWoke Cultureといって、社会的に誤ったものを排除し、正しい作品や作者に親しもうというものなの。
これはもう世界的に始まっていて止まることはないし、代わりの文化もないよ。
誤ったものは結局のところ、誤りそのものだけが問題なのではなく、若者の多数に支持されず、売り上げにもつながらない。
漫画家も、ミュージシャンも、お笑い芸人もこの流れから逃げられないよ。
たとえ20年前、30年前の深夜番組の1シーンの失言だろうが、日本中探せばどこかの家に眠るビデオテープにはきっと証拠が残されているだろう。
許さないよ。
どうしてもお笑いが好きなら、サンドウィッチマンやぺこぱのコントを見るといい。
彼らのお笑いは、誰も傷つけない笑いだ。
2007年にM-1グランプリに優勝、北海道新幹線、総務省、国交省、警視庁、NHK、花王、ユーキャンなどの広告に出演し、東日本大震災後の東北支援活動でしばしば一般紙やニュース番組にも取り上げられていたサンドウィッチマンなのに、はてブ民が誰もサンドウィッチマンのことを知らなくてビックリした。東大生には宇多田ヒカルやダウンタウンを知らない人間もいるという逸話を思い出した
- sai_arts サンドウィッチマン伊達?芸人かな?
- notomata すまんが知らないものに言及することは無理だ(お笑いに疎いので一瞬リアルなサンドウィッチマンがまだ街にいるのかと思ったぐらい)
- Cunliffe 「サンドウィッチマン伊達」すまんけど、誰そいつ? 増田
- OkadaHiroshi サンドイッチマン伊藤と言われても誰だかわからない。糸井重里は1980年代頃からサブカルでは有名なので知っている。
- shimasoba だれか知らんし。認知してない人のブログなんて見ないし…。
- xlc サンドイッチマンって誰だ?
- minamihiroharu 糸井は昔から大嫌いだから遠慮なくぶっ叩くが、サンドイッチマンとかいう人は知らないからなあ。
[B! 増田] ブクマカが糸井重里を叩きサンドウィッチマン伊達を叩かなかった理由 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200419093615
役割を軸にして考えたとき、(コントと比較すると)漫才ではボケとツッコミの役割がはっきり分かれるパターンが多い。
これは、コントでは最初から最後まで「自分以外の役」に入り込んで「演技」をする形態が主であるのに対して、漫才ではあくまでも「自分」が喋っている体で「会話」をする形態が主だからである。
「だったらコント漫才(M-1優勝者ではアンタッチャブルやサンドウィッチマンなどのネタがそれに該当)はどうなの?」という疑問が当然あると思うが、これも基本的にはボケ・ツッコミ共に自分自身を投影した役であることが多く、純粋なコントに比べると言動にパーソナリティが大きく反映されるという点で違いがある。
つまり、漫才には純然たる役割が決められており、M-1が2001年から開催されひとつの「競技」となっても「ボケ担当の人はひたすらボケ続けるし、ツッコミ担当の人はひたすらツッコみ続ける」という形はしばらく変わることがなかった。
漫才における役割を軸にして考えたとき、まず最初に議題に上がるのが笑い飯というコンビである。
彼らは、最初どちらかがボケてそれに対してツッコむというやり取りが終わったあと、ツッコんだ側が「俺にもやらせろ」と言って役割が変わり、それ以降はツッコむごとに役割が交互に変わっていくというスタイルを持つコンビである。
しかし、ネタ全体の構成を見るとボケ・ツッコミの役割がハッキリと別れており、それが入れ替わるというギミックがなければ比較的オーソドックスなネタであるとも言える。
このボケ・ツッコミという役割を曖昧にした上で主要大会を優勝した最初のコンビは、M-1 2005におけるブラックマヨネーズである。
基本的に吉田がボケ・小杉がツッコミの役割を持ったコンビであるが、この年に披露したネタは後半になっていくにつれて小杉が突拍子もないことを言いだし、それに対して吉田が正論でツッコむというパターンが多く見られた。
これは「平場のトーク(ラジオなど)では面白いのにネタがいまいち」というブラマヨ評に対して彼らがたどり着いた一つの回答である。
つまり、漫才だからといって必ずしも役割をハッキリ分けず、普通の会話のようにボケとツッコミがシームレスに入れ替わるパターンがあっても良い、ということが世間にも認められた瞬間であった。
そして、その漫才における役割の曖昧性が頂点に達したのはTHE MANZAI 2012である。
この中で役割がハッキリと別れたネタをする千鳥はさておき(ここもベタとは言えないスタイルを持つコンビではあるのだが…)、注目したいのはハマカーンとアルコ&ピースである。
まず、優勝したハマカーンであるが、2012年以前は浜谷がボケ、神田がツッコミという役割が比較的はっきりと別れた漫才をするコンビであった。
しかし、この前年のTHE MANZAIで(本人曰く)惨敗したあと、スタイルを大きく変える決断をし、役割も主として神田がボケ、浜谷がツッコミという形に変更した。
そして、このスタイルのネタの中で一番特徴的なのは、神田が女子目線で物事を語ったあと、浜谷が著しく感情的に怒り、それに対してさらに神田が理論的に諭すというものである。
抽象的に言い直すと、本来は単なる導入部に過ぎないネタ振りがボケとなり、それに対してボケに限りなく近いツッコミをして、それに対してさらに言い返す、というパターンを構築しているのである。
彼らもやはりブラマヨがネタの構成を変えた理由に近いものがあり、優勝後に記者が彼らに「どっちがボケ・ツッコミって書けばいいですか?」と質問したというエピソードもあるくらい彼らの役割は曖昧であったと言える。
彼らは、漫才の代表作としてラテン語風の架空の言語を駆使して(しかし、よく聞くと日本語が散りばめられており内容がわかる)しゃべくり漫才など、(自分自身を投影した役割ではないという意味で)どちらかと言うと限りなくコントに近い漫才を得意としていた。
この年に披露したネタは、酒井がよくある漫才のネタ振りを平子が真剣に受け取り芸人として苦言を呈していくというものであった。
これは、見ようによっては役割上はツッコミであるはずの酒井がボケっぽく見え、ボケであるはずの平子がツッコミっぽく見えるネタであると言える。
決勝ではハマカーンに敗れてしまったものの、このネタにより一回戦を審査員満票で笑い飯を退け、決勝に勝ち上がったということの意味はとても大きい。
このようにして、漫才における「役割」を軸にして考えると、いろんなことが見えてくる。
つまり、伝統的な漫才とされているものが、役割だけで見ると必ずしもそうとは言えない(またはその逆)ケースが出てくるのだ。
昨年M-1を圧倒的な評価で優勝したミルクボーイであるが、ちゃんとやり取りがあるという点においては比較的ベタなしゃべくり漫才と言えるが、役割を軸にするとどうだろうか。
彼らのネタはボケである駒場が、母親がなかなか思い出せない物事があると語り、それに対してツッコミである内海がヒントを元に推測する、というスタイルになっている。
ここで、内海のツッコミに注目すると「〇〇やないか!」「〇〇ちゃうやないか!」という最初のフレーズを除き、推測対象(コーンフレーク及び最中)に対してやや偏見掛かった持論を語るという形になっており、取りようによっては最初のフレーズ以外はほぼボケとみなすことも出来るだろう。
ボケである駒場も、特に突拍子もないことを言うわけでもなく、ただ淡々と対象を推測しうるヒントとなるワードを言い、それがツッコミによりボケと気付かされるというスタイルになっている。
つまり、ミルクボーイは役割こそ別れているものの、その境界線はかなり曖昧で、実はツッコミがボケをリードする形になっており、しゃべくり漫才における主従関係が逆転したスタイルをもつコンビと言える。
この、ボケと言えるかギリギリのラインを攻めるボケと、それを埋めるように著しく強いツッコミをするというスタイルをもつコンビは、過去にもくりぃむしちゅー(海砂利水魚)などがいるため、前例がないわけではないが、漫才全体の歴史で考えると十分革新的なスタイルであると言えるだろう。
一方、漫才であるかどうかということが槍玉に挙げられたM-1 2020を優勝したマヂカルラブリーであるが、役割だけを見るとかなり保守的であると言えるだろう。
彼らのネタはボケである野田がひたすらボケ続け、ツッコミである村上が外側で解説に近いツッコミをし続ける、というスタイルである。
つまり、やり取りが序盤とオチ以外存在しないという点が従来の漫才から外れているというだけで、それ以外は至極まっとうなスタイルのコント漫才である。
この「やり取りが存在しない」という漫才の最右翼としてあげられるのがナイツだが、彼らが漫才師でないという意見はほぼ皆無であろう。
したがって、ナイツを漫才師であると評価している以上、マヂカルラブリーのネタを漫才でないと評価するのは無理のある議論と言えるのではないだろうか。
先に書いておきますが、私個人の考えとしては、M-1決勝に上がった方々は皆さん「漫才」をしていたと思っているし、どのネタもとても面白かったと感じています。
このエントリーは、マヂカルラブリーやおいでやすこがを「漫才ではない」と断定し、「ちゃんとした漫才をした見取り図が優勝すべきだった」とする意見への違和感をきっかけとして書いたものです。
2020年のM-1終了後、Twitterトレンドに「見取り図」が上がりました。その中で多く散見されたのが、「見取り図が一番面白かった、優勝してほしかった」というもの。
その気持ちはとてもよくわかりました。笑いの感性は人それぞれ。自分のツボにハマった人が最も面白いし、勝って欲しいと思うのも当然です。
ただ、その中で気になる意見がありました。「最終決戦に上がった3組の中で、『ちゃんとした、正統派の漫才』をしていたのは見取り図だけだったから、M-1と冠するなら見取り図を勝たせるべきだった」というものです。決して少なくない方々がそのように呟き、トレンドを盛り上がらせる一端を担っていました。
ですが、その感想は的を射ていないと思うのです。
なぜなら、その方達が言うように「漫才」の定義にこだわるべきなら、見取り図はそもそも最終決戦に上がれなかったことになるからです。
寄席演芸の一種。2人で一組になり,滑稽な話題を掛合で聞かせるもの。
https://kotobank.jp/word/漫才-137921 より
漫才(まんざい)は、2人ないしそれ以上の複数人による寄席演芸の一種目。通常、コンビを組んだ2人によるこっけいな掛合いで客を笑わすものを言う。
(中略)
漫才は基本的に、演者が「演者自身」として発話し、その会話の流れによって観客の笑いを呼び起こそうとする演芸であり、その点で、何らかの役柄や舞台設定を、扮装や簡単なセットによって提示するコントとは異なる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/漫才 より
複数の人間が、演者自身として滑稽な掛け合いをすることが漫才なのです。会話の掛け合いでなくてはならないとは書いていません。
マヂカルラブリーは野田さん自身としての動きと村上さん自身としてのツッコミ。おいでやすこがは、こがさん自身としての歌と小田さん自身としてのツッコミで、しっかり掛け合いをしていました。
対して見取り図は、最終決戦では盛山さんとしてのツッコミとリリーさんとしてのボケで掛け合いをしていましたが、1回戦では挨拶もそこそこにマネージャーと大御所としての設定に入り、締めまでキャラクターを演じ続けていました。「ちゃんとした漫才」という定義にこだわってしまえば、1回戦のネタは正統派とはいえず、決勝の決勝には上がれなかったことになります。
ただ、上記のようなスタイルの、いわゆるコント漫才というものは、サンドウィッチマンやパンクブーブーなど、過去の王者達も採用しており、漫才の1つのスタイルとして確立されています。ほとんどの人が、漫才であるということに異論はないでしょう。私ももちろんありません。
私が言いたいのは、漫才に正統派なんてないんじゃないか、ということです。
コント漫才が、本来の漫才の定義とズレながらもスタイルの一つとして定着していったように、これからも多くのスタイルが生まれ定着していくことでしょう。
サンドウィッチマンの伊達さんの言葉を借りれば、「センターマイクに向かって舞台袖から出てきて『どうも』と始まれば、それは漫才」なのです。
演芸としての枠が大きいからこそ、時代ごとの芸人さん達が新しい発明をしていき、内容を進化させ、思いもよらなかった角度で私たちを笑わせてくれるのだと思います。
改めて書きますが、2020年のM-1では、マヂカルラブリーもおいでやすこがも、見取り図も、もちろんその他のメンバーも、内容やスタイルが違っただけで、皆間違いなく素晴らしい漫才をしていました。
昔、ABCのすんげーBEST10で中川家がいとしこいしのモノマネという体で彼らの見た目、しゃべくり、ネタごと漫才をカバーしていた。まだ若手とはいえ実力派の中川家が大御所のネタをそのままカバーしているから当然のように面白くて、いとこい世代ではない若い女性層で占められた客席は普通に笑って普通にオチで感心していた。その直後に司会の千原兄弟が「君らオチで感心してたけど、いとこい師匠のネタそのままやで」みたいな言及をしていたように思う
ベテランの漫才というのはたいてい作家が書くものだし、特定のパフォーマーが独占しなくてもいい気はする。とは言え漫才の面白さというのは、台本のみによって担保されるのではなく、その特定のパフォーマーのスタイルと強固に結びついている(ホンもそれをあてにして書かれる)のであって、上述の中川家の場合であれば、彼らがいとこいを完全に真似ているからネタの面白さがどうにか保たれていたのかもしれない
そういや水曜日のダウンタウンでサンドウィッチマンのハンバーガー屋のコント誰がやっても面白い説というのもあったね