はてなキーワード: 鋭利とは
「ゆゆっ! ゆっくりいそぐよ!」
ここは駐車場。
東京のベッドタウンであるこの湯栗市ではよく見られる、比較的広い駐車場を持つ総合スーパーの駐車場である。
とうに秋は終わり、冬の寒気が辺りを覆っている。
その一角、乾いたアスファルトの上を小汚い饅頭がエッサエッサと動いていた。
冬はゆっくりにとって死の季節。
よほどの無能でない限り巣穴にこもって春の訪れを待つ。
そう、よほどの無能でない限りは……。
「ゆっ! こんなところにくそにんげんがいるよ! れいむがはしってるんだからどいてね!」
溜まっていた有給を一日だけ取ったが、既に半分以上を無為に過ごしていた。
せめて酒でも買い足しておこう。そんな軽い気持ちで家を出る。
と、視界の隅に動くものが。
「どいてねって……俺に言ってるのか?」
それなのに突っ込んでくる饅頭。
そう思い直して、饅頭を見下ろす。
薄汚れたボディ、ボサボサでカピカピの髪の毛、生ゴミよりもみすぼらしいリボン。
それでも血色は良い。スーパーの周辺を縄張りとしているのなら、冬でもそれなりに良いものを食べているのだろう。
ぽいんぽいんと、人間がゆっくり歩くほどのペースで跳ねてくる。
先程「どけ」と言っていたが、このままの進行方向ならそもそもぶつかることもない。
彼は、立ち止まったまま行き過ぎるのを待つことにした。
数秒が経過し、ようやく饅頭が通り過ぎようとした、その時だった。
「ゆゆっ! やっぱりくそにんげんにはゆずりあいっのせいしんさんがないんだね! れいむはゆっくりよけるよ! れいむやさしくってごめーんグエッッッ!!!」
急に方向転換した饅頭が、鬼威氏にぶつかってきた。
吹き飛ぶ饅頭。れいむの口から漏れた餡が、鬼威氏のスニーカーに付着する。
ハッと我に帰った鬼威氏をよそに、件のゆっくりは上を下への大騒ぎをしていた。
「い゛た゛い゛ィィィィ―――!! れいむのようきひっさんもしっとするうつくしいおかおがあああ!!! くそにんげんにけられたあああ!!!」
お気に入りのスニーカーが、汚物による生物化学攻撃を受けていた。
鬼威氏の血圧が上がり、血管が浮き出た。
「おいクソ饅頭、お前、なんてことを……」
そう言いつつ、深呼吸をする。
アンガーコントロール。文明国に生きる人間なら当たり前のスキルを試みる。
まず靴を拭いて、れいむが落ち着いたら一言二言文句を言おう。それでいい。相手はゆっくりだ。
「くそにんげんンンン!! あやまってね!!!!! ばいっしょうはあまあまさんやまもりでいいよ!! れいむやさしくってごめーんね!」
いくら下等ナマモノといっても、許されない限度というものがある。
いやしかし、鬼威氏の理性はなんとか持ちこたえた。
「ゆっ、なんのさわぎなのぜ? れいむ、どこいってたのぜ?」
「まりさ!!」
そこに突如として現れた第三者。
今まで気付かなかったが、鬼威氏が車を止めたすぐ隣にみすぼらしい段ボールが置かれていた。
クソ饅頭はこれで勝ったと思ったのか、さらに横柄な態度になった。
一方まりさは鬼威氏を見てとると、目を丸くして驚いた。
「ゆゆっ、にんげんさん!? ま、まりさなにもしてないのぜ! えっと、えっと、ゆっくりしていってね!」
くすんだ銅のバッジが帽子に付いている。元飼いゆっくりだろうか?
なんにせよ、多少は話が通じそうだ。目元にも怯え以外に、知性の光が見える。
「ゆっくりしていってね、まりさ。このゆっくりがぶつかってきたんだ。僕の靴が汚れたんだけど、何故か逆に謝罪を求められて困っているんだ」
まりさは鬼威氏が指差す先を見た。白玉の瞳に、番のれいむが映る。
いや、もう既に死は確定しているかもしれない。
そう思えるだけの知性を、まりさは保持していた。
だからこそ
「ごめんっなさいなのぜ! そのれいむはまりさのおくさんっなのぜ! まりさはたらくのぜ! おくつをべんっしょうするのぜ? だからいのちだけはゆるしてほしいのぜ!」
全力で頭を下げる。ゆっくりの生命など、人間の前では塵も同じ。
「なにあやまってるのおおおおお!! ばかなの? しぬの? このくそにんげんをせいっさいしてね!! いますぐでいいよ!!」
自分を守り、戦い、そしてこのゆっくりしていないクソ人間をぶち殺してくれる存在。
「別に生命までは取る気はないよ。ただ、れいむには謝ってほしかったんだけど、もういいよ。君が謝ったしね」
鬼威氏はまりさの俊敏性に驚きつつ、そう答えた。
「そういうわけにはいかないのぜ! いま、れいむにもあやまらせるのぜ! すこしだけまっていてほしいのぜ?」
「いいよ。じゃあ、ここで待っているから、話がついたら教えてくれ」
鬼威氏は今日、特段やることもない。
それに今真っ先にやることは靴をきれいにすることだ。
ドア裏のポケットからウェッティを取り出して、慎重に餡を除去し始めた。
一方、こちらは巣穴の中。
「なんでおそとにいったのぜ? えっとうできるたべものはあるのぜ! ふゆさんはさむいさむいであぶないのぜ? あとおちびはどこなのぜ?」
まりさが詰め寄る。
まずは時系列に沿って説明させ、頭を冷やさせようという戦略だ。
「れいむはくささんなんかたべたくないから、おちびちゃんとかりさんにいってあげたんだよ! かんしゃしてね!」
「おちびと? で、おちびはどこなのぜ?」
「そうだよ! おちびちゃんがうんうんもらして、あにゃるさんがくさいくさいだからまりさをよびにきたんだよ! おちびちゃんのあにゃるさんをきれいきれいしにいってあげてね! いますぐでいいよ!」
まりさにはそこまでの情はなかった。
「そんなのじぶんでやればよかったのぜ。まりさはさむいさむいのなか、でかけたくはないのぜ」
冷たく言い放つ。
「どぼじでそんなこというのおおお! れいむはこんっそめさんをたべたかったのになかったんだよ? ぼせいあふれてるんだよ?」
コンソメを見つけられなかったことは今なんの関係があるのだろう?
「わかったのぜ。まりさにさくせんさんがあるのぜ。れいむがあやまったら、そのすきにまりさがにんげんさんをせいっさいするのぜ?」
れいむの顔がパアッと輝く。
置き去りにされたまりちゃがぽつねんと立ち尽くしていた。
当然見つかるはずもなく、無為に時間を浪費した後、ここに置き去りにされたというわけだ。
「あにゃるさんくちゃいくちゃいなのじぇ……ぽんぽんさんぺこぺこなのじぇ……さむいのじぇ……くるしいのじぇ……? おとーしゃ、おかーしゃ、どこなのじぇ?」
寒さ、空腹、それから孤独と心細さがまりちゃの身体を蝕んでいた。
冬になってから外になんて出たことはない。それも一人でなんて。
寒空の下乾いた風が吹き抜け、甘やかされたまりちゃの身体を震え上がらせる。
そして寒風は悪魔をも運んできた。
それも小学3年生くらいの。
即殺ではなく、嬲ることの面白さを知る年頃。
500円玉を握りしめ、お使いに来たのだろう。
なんにせよ、ゆっくりにとって最悪の相手が目の前に立っていた。
「ゆ! ちびにんげん! ちょうどよかったのじぇ! まりちゃのどれいにしてやるのじぇ!」
決まった。完璧に。
まりちゃの威厳ある宣言に、人間の子供は震え上がり、威儀を正して土下座をしていることだろう。
その姿を想像するだけでしーしーがもれる。
まりちゃは想像と現実の一致を確かめるようにゆっくりと目を開く……。
「ゆじぇああああああ!? いたいのじぇええええ!!!?!?!?」
小学生は指先ほどの小石を拾い上げると、まりちゃの額に押し込んでいた。
いとも簡単に肌を切り裂き、餡へと至る。
が、
「おぼうしさん! かえしてええ!!」
ゆっくりにとって命よりも大切なお飾り。
それを小学生は持ち上げる。
そして、ビリビリと引きちぎる。
「おぼうしさん!? ゆっくりなおってね!? ぺーろぺーろ……? ぺーろ…ぺーろ……?」
ぼろぼろになったお飾りを治そうと舐めるが、そんなことでは当然治りはしない。
もう二度とゆっくり出来ない。
そう悟った時、まりちゃの餡子の底から、悲しみ、絶望、それから怒りがこみ上げる。
「ゆるさないのじぇ……ぜったいゆるさないのじぇ……! ないてもゆるさないのじぇ? ぶっころしてやるのじぇ……おそらっ!?」
まりちゃを掴む手が離れる。
「まりちゃはとりしゃん!」
その衝撃で、真っ二つになった眼球がポロリとまろび出た。
「どちらかというと、恨むべきなのはここに一人にした親じゃない?」
小学生とは思えないような慧眼。
「どぼじで……こんなことをするのじぇ? まりちゃだって……ゆっくりだって……いきてるのに!!」
ドン!!
そんな効果音を心のなかで響かせて、まりちゃの決め台詞が炸裂する。
これで、このクソ人間も改心しただろう。
まりちゃの目を潰した罪を背負い自らの目を潰して、まりちゃに献上するに違いない。
一生かけて罪を償うに違いない!
そんな期待を込めて、再び目を開ける。
「ねえ、まりちゃ? ゆっくりを自転車で引っ張ったら……どうなるかな?」
が、まだまりちゃには奥義——ぷっくー——がある。まだ勝つシナリオはある。
その希望がある限り、まりちゃは非ゆっくり症という救いを得ることは出来ない。
場面は再び戻って駐車場。
「ほられいむ……あやまるのぜ?」
れいむはまりさが後ろ手に聖剣えくすかりばーさんを持っていることを確認すると、頷いた。
このクソ人間の終わりは確定した。
「にんげんさん……にんげんさん……」
「なんだい、れいむ?」
鬼威氏はニコリと微笑みかける。
幸いなことに、スニーカーの人工革の部分に餡子が付着していたため、きれいに取ることが出来た。
もう許すも許さないもないのだが、まあ謝罪を受けたほうが収まりが良いだろう。
「しねえ! このくそにんげん!! まりさ! いまだよ!このくそにんげんをせいっさいしてね!!」
「……わかったのぜ」
「ゆんやああああああああ!! れいむのかもしかっさんのようなあんよさんがああああ!!!! い゛た゛い゛いいいいいいい!!!!」
「まりさ……どうしてそんなことを?」
「れいむは、もうにどとおうちからでないのぜ……。だからいのちさんだけはゆるしてあげてほしいのぜ……! まりさはどうなってもいいのぜ」
それを聞き、鬼威氏はまりさに微笑みかけた。
「わかったのぜ……」
迫りくる巨大な手。
が、感じたのは柔らかな感触だった。
「ああ、やっぱり! まりさ、お前汚れているだけで金バッジじゃないか!」
鬼威氏の手にはウェッティがあり、それでまりさのくすんだバッジを拭ったのだった。
「お前、迷いゆっくりじゃないか? このスーパーで張り紙見たぞ」
「えっ……?」
「だから、お前の家、湯ン矢町じゃないのか?」
「そうだよ……! でも、まりさは捨てゆっくりなのぜ。帰る家なんて」
「捨てられたわけじゃないみたいだぞ? お前の飼い主は、お前を探してる」
「そう……なのぜ……?」
鬼威氏の穏やかな目に嘘はなかった。
「家まで送って行ってやるよ。助手席に乗りな! 安全運転でGOだ!」
「わ、わかったのぜ!」
鬼威氏がドアを開ける。
「まりさ……! なにやってるの? れいむをおいていかないでね?」
「ごめん……なのぜ!」
「よっしゃ出発だ!」
だからこそ陽気に、鬼威氏はエンジンをかけると、オンボロの軽自動車をゆっくりと湯ン矢町へと向けた。
彼は酒を買い忘れた事に気付いていない。
このミスから野良ちぇんに出会うことになるのだが、それはまた別のお話。
今はただ、まりさの心だけを……。
夏の終わり。
「あついのぜ……まりさは……じぬのぜ?」
「ゆ! おみずさんあげるよ?」
まりさはひといきに飲み干すと、少しだけ息を整えた。
「ありがとうなのぜ……きみはだれなのぜ?」
「ゆん! のんだね? いまのはけっこんのちかいのおみずだよ!」
後光が指す。
捨てられたと思い込んでいたまりさは、それを受け入れた。
冬の審判の日は、まだ遠い。
「ゆ……ゆ……」
3日前より少しだけボロボロになった段ボールの中に、不気味な影が一つ。
なんとか這い戻ったれいむが力なく横たわる。
まりさは手加減をしていた。
それは致命傷にはならなかった。
が、二度と歩くことは出来ない。
「れいむはにんげんをせいっさいしてやったよ……! にんげんをあやまらせてやったよ……!」
うわ言が響く。
死のうにも、まりさが冬ごもりのために蓄えた食物は三匹分ある。
人間を吹き飛ばしたこと。人間に謝罪させたこと。人間からあまあまをぶんどったこと。人間を奴隷にしたこと。
少しでもゆっくりするために、書き換える。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
アニメーション、画面上の動きの一つに、こうした共通言語や構図の時間的変化から読み取れる言語で感じて欲しい叙情性に補完を入れたいのか。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
※序盤~中盤前までくらいのネタバレあり
オタクのこういう話はnoteの方がそれっぽいと思うんだけど、
IPアドレス流出騒動があった直後なので少し怖い。まあ大丈夫だと思うけど。
タイトル通り、6/20から初めたド新規なので気になる人は読まない方が良い。
まず面白いってどういう意味?というところから始めて、当て嵌まりそうなものを選んだ。goo辞書から。
①興味をそそられて、心が引かれるさま。興味深い。
②心が晴れ晴れするさま。快く楽しい。
③風流だ。趣が深い。
順番に書いていく。
①興味をそそられて、心が引かれるさま。興味深い。
タイトルから分かる通りヒーロー物。オタク教育幼稚園で触れるであろうメジャージャンル。とても入りやすい。
そこからどう作品の個性を出すの?という興味が湧くので、まず心引かれると思う。
個性を知る前=序盤に、コミカルなやり取りや結構重い変身の代償など、
起承 一章〜三章
転結 四章・五章 となる。
この各章の終わり方も良く、「成る程な、よし次どうなる?」と思わせる
作りになってる。アニメCパートみたいな意味深な台詞が並ぶ。否が応でもワクワクしてしまう。
三章以降は佳境なのもあり、特に顕著。
(佳境は「物語の面白い場面」らしいから、全編通して面白いワヒロに使うのもアレ)
②心が晴れ晴れするさま。快く楽しい。
本編のコミカルなシーンだったり、奇策を駆使して有利な状況へ運ぶバトルシーンだったり。
お話読んで吹き出す、というのは、実は結構少ない気がしている。私の話。
けど、イベストがどれも面白くて、外れがない。これは本当に凄い。なんで出来るんだ?
説明が難しいんだけど、「(よく設定を知っている)××さんがこう動くから面白い」ではなくて(そういう要素もある)、
「言動や会話のやり取りがクスッとする」形なのが凄い。
キャラのことを知らなくても笑える。単純にギャグセンスが高い。尊敬
あと、キャラがとても生々しい。フィクションにおけるリアルの最高峰かもしれない。生きている感じがする。
そういうキャラを心から応援したくなって、「心が晴れ晴れする」。
命を掛けて敵と戦う、自分の意思を貫こうとする姿勢が、幼さを残しながらもとても立派で、ずっと応援したくなる…。
上手く言えないが、頑張りすぎてると「無理するな…!」って心臓痛くなってしまうし、
努力描写って加減が難しいと思うんだけど、ワヒロのキャラはそこが絶妙と言うか、
高校生〜しつつ、ヒーローをやる時は自分の信じたもののために戦っている、その姿が堪らなく応援したくなる。
③風流だ。趣が深い。
①と被ってしまうんだけど、
ボーイ・ミーツ・ボーイな物語の始まりは物凄く分かりやすく、取っ付きやすい。
王道大好きオタクはワクワク感と共にスムーズに入り込めて助かった。
出会った二人の少年は「自分は何も無いという意識がある」という
オタクは、今後に何か響くであろう誓いのシーンが大好き…
また、この「何も無い意識」は二人ともそう感じるようになった理由が説明されていて、
その理由として描かれたエピソードは正直しんどいが、オタクそういうの好き。
あとオタク好きやろ系の、「ヒーローはただ敵と戦えば良いだけでなく、
周囲の色々な意思が介入しており、割とキナ臭いところがある世界観」というのは
序盤から細やかに説明がされているので、何かあるやろ!!!と予想出来ていたが、
実際にお出しされるとテンション上がるものがある。良いお約束だよね
戦闘描写が良い。戦術がきちんとある。勝てば官軍、搦め手上等。
「悪知恵の働く奴!」的な台詞はあるけど、正々堂々と戦えって本気で言う奴は…確か居なかったはず…。
とにかく、彼らにとって戦闘はフィクションではないというのがよく伝わって良い。
上述した通り、序盤から「不穏要素がそこかしこに!!」ってなると描写が多い。
ヒーローは変身した状態では心を強く保たないと世界に取り込まれて死ぬとか言うし、
ヒーロー周りキナ臭いし、主人公は自分が死んでもいいとか言うし…
でも、オタクに優しい世界だと思う。プロデューサーさんが意識してくれた通り。
ワヒロは「物語が締められるか分からないワクワク感・怖さ」はほぼ無い。良い意味で。
で、なんでハッピーエンドを信じられるかって、これでもかって程教えてくれるのである。
公式サイトイントロダクションとか、アプリ説明文とか、下記のような文章がある。
「共に笑い、涙し、成長をする日々の先に、守るべき世界の、ハッピーエンドがあると信じて。」
更に、それだけじゃ足りねえだろと言わんばかりに、
本編内でも「この物語はハッピーエンドになるんだ」と強く実感させてくれる仕組みになっている。
いくらハピエンですよ安心してくださいって言いたいからって、キャラにそんな奴出す!?最高~~
浅桐真大という男なんだけど、度々口にする言葉があって、
最高のハッピーエンドってのは、そういう風にできているんだ。」というもの。これを本編内で言わせるんだから凄い。
浅桐はしばしば彼らにとっての現実を、ハッピーエンドとかエンタメだとか表現するけど、そこに露骨さは一切ない。
キャラブレが無いから、序盤から感じた信頼感がずっと損なわれないんだな…
問題との向き合い方が良い。
ヒーロー達はそれぞれに過去がある。結構割と、思い出したくない類のものを抱えている人が多い。
ただ、本編においてそれが取り上げられる事は少ない。ヒーロー達の会話から
「こういう事があったんだな」と推察出来るから知っている。その程度の描写しかない。
一部例外は除く(本編で取り上げられる事もある)。
でもワヒロって「傷を乗り越える物語」じゃなくて「険しい道を進みハッピーエンドを
手にしようと足掻く物語」だと思っていて、そこが好き。フィクションのなかのリアリティを強烈に感じる。
人みんなそれぞれ悩みがある。でもそれを解決まで導くことって、現実問題 相当難しい。
「上手く付き合っていく」ことだと思うんだよな。ベターな手法。
ベストなのは解決だけど、問題って自分一人だけのものじゃないものが多いから難しい。
トラウマの克服が主軸ではなく、少年たちが頑張って探して見つけた自分の信念を胸に全力を尽くす箇所
なのが 好きだな…これは私の解釈。
もちろん本編で描写する傷とその決着もあるし、ガチでエゲつない。
そんなしんどいなら本編で出さんでくれと思ったレベルでしんどかった。
でもだからこそ答えを見つけるシーンは美しくて感動して心震えたので…
最高のエンタメだった。この二カ月で色々読み返して、そのたびに楽しませてもらってます。
まだ読めてない話があるから、オフライン版助かるはずだけど、サ終が悲しいな。
このあと何か展開がありますように。
鮫島浩
@SamejimaH
ツイッター屈指のリベラル派インフルエンサーであるDr.ナイフさんがついに朝日新聞言論サイト「論座」に登場。明晰な頭脳で政治を鋭利に切り取り華麗に解析するツイートは政治記者を凌駕する。ツイッター界の貴公子が大手メディア論壇にどう斬り込むのか。この先が楽しみだ。
https://twitter.com/SamejimaH/status/1287344834865373184
鮫島浩
@SamejimaH
ジャーナリスト。 2013年度新聞協会賞受賞。政治部デスクや特別報道部デスクを歴任。現在…。テレビ朝日、AbemaTV、ABCラジオなど出演多数。政治やマスコミに聖域なく斬り込みます❗
これ本物の記者?やべーな
クソデカ埼玉県超ビッグこども(見た目は大人)生きとし生ける者森羅万象公園で、いまこの瞬間クソデカいクォッカのすごくでっかい赤ちゃん(ほぼ象)が降誕したらしい。この偉業を未来永劫残すため、フォトグラフィックメモリーを頼りにこのクソデカ動物園について三日三晩語り明かす。
クソデカゲートをありえない動きでくぐるとまずケンタウロスの超巨大なオブジェが見える。とりあえずそこがスタート地点と語り継がれているのでそこまでプライベートジェットで飛ぶ。が、思った以上にクソ遠い。三年の月日をかけてやっと着いたと思ったら、暗闇に包まれる。開幕、五感を奪われているのだ。
このクソデカこども動物自然公園はあらゆる道が広場。そして、なにもかもが存在しないので即座に五感を奪われる。ケンタウロスオブジェの先へ進むと、満漢全席のように東京都多摩動物公園が展示されていた。ここまでたぶん数百パーセク。ようやく宇宙の始まりを見た。
園のでっかい案内図を見る。敷地がめちゃクソデカくて笑いが止まらず死ぬ。全面どころか裏表すべて#00ff00のマップに、1000年に一度思い出したように異形のアイコンが点々と表示されているありさまだ。異形アイコンが集中しているところは百万箇所ほどあって、それぞれイーストエンド・ノースエンドと呼ばれていた。まずイーストエンドを目指す。
案内図に内包されるコストコで焼かれすぎたそばだった炭を買って、食べ終わると同時にイーストエンドにワープした。イーストエンドは有袋類そのもの。コアラ星では、コントロールルームのはるか手前で頂上が雲に霞んで見えないユーカリの山が「56億7千万年に施されるユーカリです」というパネルと共に展示されていた。創英角ポップ体も相まって徐々に体を蝕んでいく。
超カンガルーのエリアへ行くと、ハイパークソデカ敷地のクソ高い柵に入った何億匹ものカンガルーを超えた生命体が次々と目に飛び込んでくる。しかし、なぜか「ここはカンガルーコーナーではない」というクソヤバい看板がそこには鎮座している。我はカンガルーだが?と首をぐるぐる回しながらすごい速さで先に進むと、脳内に直接投影されたのはさっきの柵の内側に入る超巨大な門だった。ええええええええ??!!?!!!?!!!!!!?!!??????
なんと、この超絶クソデカ動物自然公園ではカンガルーと同じ夢の中、マジでほんとにぶっちゃけ何の隔たりもない王道を歩むことしかできないのである。超高性能レーダーを起動するとジャングルのありえないほど先にカンガルーが一つの国家を形成しており、狂気に染まった奈良県みたいになっていた。人間とカンガルーとその他全てのものを寸分たがわず同じ柵に永遠にブチ込みまくることのできるこの解脱、さすがクソデカ埼玉県こども動物自然公園である。懐も海。
次はノースエンドに向かう。ノースエンドには巨乳牛その他全ての巨乳生物がいる。けっこう次元を超えたと思った刹那「巨乳牛まで180000000000km」というクソデカ看板が出てきまくって狂ったように笑って死んだ。#00ff00に一部の隙間もなく包囲されたメキシコマフィア坂を垂直に登攀する。数えきれない程の子ども達がはしゃぎまくって目に見えない程の速度で飛び回ったあと一瞬で全てを失って永遠に静止していたのが一生のトラウマになった。
気の遠くなるような年月を経てノースエンドにつくと、巨乳プレーリードッグや巨乳ミーアキャットなどをしゃぶりつくせるエリアに来る。巨乳ペンギンや巨乳マヌルネコもいまくる。電子顕微鏡でも見えないくらい小さな巨乳ネズミ種を集めすぎてしまった展示館が無限に存在する。ここまでクソデカい坂を垂直に登攀してきた偉業を讃えるように宇宙に一匹しかいない動物たちが1フレームに1匹現れるのである。ちなみに親の顔よりも見たはずのおどろきの純白フクロウをこのノースエンドでも見まくることができた。フクロウの補給ポイントが多すぎて感謝に打ち震え五体投地した。
ノースエンドからケンタウロスオブジェに戻るまでのクソ長い道では、カマキリ怪人と九州男児が戦っているのを2万箇所ぐらいで見た。バッタの改造人間と戦っているやつもいた。ニチアサか?あと道脇にデッカすぎるキノコがそびえ立っていたがこれは幻影。神話とかに出てくるサイズのやつだ。このクソクソデカデカ動物クソクソクソデカデカデカ公園は完膚なきまでに森で構成されてるので、草木や虫も無限の可能性を秘めているのだ。
帰りのクソデカバスを設計している間、曾々々々祖父母のトゲトゲ肩パットで永遠に目覚めない子どもなどを信じられないくらい視姦しながらふと、このアルティメットクソデカ園はありとあらゆる子どもの数百本ある体力ゲージを限界を超えてすり潰すためにハチャメチャクソデカく作られているに違いないと確信した。神をも屠るパワーを持つ子どもでもここで半年遊ばせたら跡形もなく消滅するだろう。
ともあれ、クソヤバい子どものカモシカのような足で命を燃やして飛び回っても1000パーセント踏破できないこの超スケール、もしめちゃくちゃ小さい頃(胎児)に来ていたらとんでもなくありえない超大冒険のスターライトステージに見えていたということに疑いの余地はない。クソデカ埼玉県に生まれる全ての生命が羨ましすぎて憤死した。
クソデカ埼玉こども動物自然公園はとにかく異常に偏執的にクソデカい。クソデカいゆえに夢がある。飽きすぎて無になるほどクソ緑を全身に浴びまくって、太陽の下でザックザクに揚がりすぎて鋭利な刃物になったポテトや屋台そのものの焼きすぎそばすぎをドライすぎるゼロどころか虚数で流し込んで、動物と動物と動物と動物と動物と動物と動物と動物と動物の間と間と間と間をギッタンギッタンのグッチャグチャになるまで歩きまくりたすぎてそれ以外のことは何も考えられない日には、絶対に訪れろ。これは命令だ。
https://anond.hatelabo.jp/20200716235904
の増田とそのトラバ・ブコメを一覧にまとめました。誤字・誤記等ありましたらお知らせください。可能な範囲で対応させて頂きます。
夕張メロンソフトクリームなど。じゃがポックルも売っている。混雑しやすく週末などは入場制限もかかるらしいので密にお気をつけて。
とても充実している。サッポロクラシックとさけとばチップ、カチョカバロ(焼いて食べるチーズ)が元増田のおすすめ。西山製麺の麺類の品揃えがすごい。
北海道フーディストの系列店らしく東京以外でも全国展開されている。
函館のアンテナショップがあるらしい(https://bussan.hakodate.jp/localshop/)。
銀座からは少し離れているが、スーパーに近い品揃えの豊富さで海のものも山のものもある。小岩井ソフトクリームは元増田/ブクマ双方で美味しいとの評。瓶入り生うに(not塩水うに)は必買とのブクマ談。
牛タン推し。今なら期間限定で萩の月も買える。お勧めは喜久福(生クリーム大福)、生どら焼き、三角油揚げ、ほやの塩辛。冬季に時々「霜ばしら」という飴菓子が売り出される。東北新幹線で車内販売している「ほや酔明」も取扱あり。2階の牛タン屋も美味しい。
バター餅をいつでも買える。ババヘラアイスはないようだがソフトクリームとババヘラクッキーが買える。
物産品のほか奥にレストランも併設されており、酒、米、稲庭うどん、比内地鶏、山菜など幅広く美味を味わえる。
直送野菜・野菜の加工品等沢山あり普段使いできる。同じビル内に山形の食材を使った上品で美味なおしゃれイタリアンのコースを食べられる店(ヤマガタ サンダンデロ)がある。玉こんにゃくがおすすめ。
飯豊町産ブランド米を使ったおにぎりがメインの店舗。物産の取り扱いも。
週替わり(?)で様々な喜多方ラーメンの店が出店している(夕方以降は売り切れに注意)。酒の種類が非常に豊富。美味しい生鮮野菜、桃・ぶどうの珍しい品種などが買え、桃のシーズンは桃をまるごと乗せたソフトクリームが食べられる。電話注文で発送してくれるらしい(https://midette.com/9680/)。
鉄板の納豆の他、あんこう、メロン、笠間焼など。メロンパン・メロンパフェが美味しく品揃えが良い。
県民おすすめのレモン牛乳がおいしい。蒸かしたじゃが芋に衣をつけて揚げたいもフライも素朴な味わいが楽しめる。
ぐんまちゃんに会える日もある。トラバ増田のおすすめは「かいこチョコレート」。インスタ映え間違いなし(……)
その他の東京の小売店については→ https://www.pref.saitama.lg.jp/b0101/saitama-meibutsu/index.html
大島や八丈島など東京の島々の特産品を取り扱っている。ネットショップでも購入可。
燕三条(金属加工の街)ゆかりのキッチン便利グッズが妙に豊富で面白い。元々物販系だったがリニューアルにより食べ物や酒類も少し増えた。
包丁・はさみ・爪切りなど鋭利な金属推し。栃尾揚げは人気のためか売り切れが多い。スーパーマーケットのように普段使いできる品揃え。
比較的新しい。バーコーナーで富山の日本酒の飲み比べができ、常時約20種の日本酒から3種類を選べる。かまぼこやサバのなれずし等つまみも旨い。奥の方には本格的な和食の店もある。観光案内もやっている。ホタルイカの一夜干し、銘菓甘金丹・月世界などが旨い。
フグの卵巣の粕漬けが売っていて鍋の締めの雑炊に混ぜるととても旨い。塩気が強いため使う量は少量で済み、値段も800円程度。金箔ソフトクリーム、能登牛、烏賊丼などのイートインもおすすめ。
物販系のアンテナショップ。越前漆器などの伝統工芸品が非常に美しい。
いつでも信玄餅を買える。
ちょっと笑う感じでりんご押し。色々な種類のりんごが売っている。広さはさほどない。丸山珈琲(軽井沢)が各種置いてある。
所在:上野/鶯谷(岐阜ホール/https://dailyportalz.jp/kiji/gifu-hole)
日本茶を飲める店。東京駅でもうなぎパイV.S.O.P.が買える。
最近話題の伊勢うどんが食べられる。新しいビルの路面店で狭い。手裏剣なども売っている。
鮒ずしが買える。ほうじ茶が旨い。1Fのバーカウンターで「お試し鮒ずし」と滋賀の日本酒を併せて楽しめる。
粉ものメイン。コーヒー、ミックスジュース、ソフトクリームなど。ブコメによるとどん兵衛の西日本味や製造中止となったカールが買えるとのこと。
でかいせんとさんが軒先に立っている。柿の葉寿司と油揚げが旨く晩酌におすすめ。
日本橋にあったが日比谷に移転。新米の季節の仁多米、日本酒などのほか柚子の皮の砂糖漬けが美味しい。出西窯、湯町窯という民藝ブランド窯の食器がおすすめ。
国産無農薬レモンやカープソース(お好み焼きソース)、広島カープの土産が買える。旨いお好み焼き屋もある。「この世界の片隅に」などアニメとのタイアップ企画をしていた。柑橘ジェラートが充実。B1の瀬戸内ダイニング「遠音近音」も美味しい。くにひろ屋のブランデーケーキは5個パック/10個入のみ取扱い。
フグのひれ酒の「ひれ」だけを売っているので冬場などにひれ酒を楽しめる。
小豆島のアンテナショップ。特産の生そうめんがある。2階ではうどんも食べられる。
ゆずアイス、紅茶ソフトなどがあった。しょうが推しか。リュウキュウ、のれそれ、どろめ、ヤマテパン、土佐鶴の天平など都内では珍しい地元名産品を買える。併設レストランのカツオのたたきはもちろん旨い。
あまおうソフトクリームなどの飲食提供有。お菓子、うまかっちゃんのいろんな味セットなど。「スタッフが好きなもの」でまとめたコーナーがある。梅ヶ枝餅も買える。
壱岐で獲れた魚、種類豊富なカステラ、あごだし、五島うどん、波佐見焼など目でも舌でも楽しめる品揃え。たまにV・ファーレン長崎の名物マスコットが一日店長をしているらしい。
イートインが併設。
くまモンのプレゼンスがでかい。くまモンモンキー(オートバイ)展示があった。いきなり団子がおすすめ。東京の普通のスーパーではなかなか売っていない馬刺しを買える。
温泉(足湯)がある。かぼすソフトクリーム、かぼすサイダーなどの飲食提供有。
マンゴーソフトクリーム、甘乳蘇ソフトクリームなど。併設レストランのランチ定食「お刺身とチキン南蛮焚き餃子のセット」が別トラバ増田のおすすめ。水に溶くだけで作れる冷や汁の素が売っている。
老舗?の物産館。さつま揚げ(鹿児島県人はそう呼ばない)が旨い。東京のスーパーでは売っていないムチムチしたさつま揚げが食べられる。併設レストランの黒豚しゃぶしゃぶランチも美味。3Fにも食器類がある。
広々としていて店の奥の方にサーターアンダーギー、沖縄そば、ブルーシールのイートインスペースがある。泡盛が充実している。「シーサーがいっぱい」という黒飴、練り唐辛子ペースト、もずくの天ぷらなどがおすすめ。
東日本の食品を中心とした、JR東日本グループの地産品ショップ。ほか池袋駅にレストラン、上野駅に居酒屋としても展開。
架空の「地方のスーパーチェーン」にいるような気持になれる。富山の豆腐の味噌漬けが美味しい。
全国各地の特産品が販売されている「日本百貨店」他。1店舗で全国が揃う感じ。
こちらも食品/物産/カフェ/レストラン等4F建て1店舗で全国特産を網羅。
ローカルスーパーで地元の特産品を買った際には冷凍焼き芋と冷凍枝豆を保冷剤に使うとよい。
※755ブクマ時点までの元増田・トラバ・ブクマの情報を反映しました。字数制限に引っかかって追記が難しく、頂いた情報全てを反映できず申し訳ありません。
尿(にょう)の陳鎮(ちんちん)の都に住む短小(たんしょう)という男が、天下第一の陰茎の名人になろうと逸物を勃てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今男根をとっては、名手・飛精(ひせい)に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて女体を見るに即刻絶頂するという達人だそうである。短小は遥々飛精をたずねてその門に入った。
飛精は新入の門人に、まず萎えざることを学べと命じた。短小は家に帰り、妻の股座の下に潜り込んで、そこに仰向けにひっくり返った。陰茎とすれすれに女陰が忙しく上下往来するのをじっと萎えずに見詰めていようという工夫である。理由を知らない妻は大いに驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人に覗かれては困るという。嫌がる妻を短小は叱りつけて、無理に股を開き続けさせた。来る日も来る日も彼はこの可笑しな恰好で、萎えざる修練を重ねる。二年の後には、遽だしく往返する女陰が陰毛を掠めても、絶えて萎えることがなくなった。彼はようやく股の下から匍出す。もはや、鋭利な錐の先をもって陰茎を突かれても、萎縮をせぬまでになっていた。不意に火の粉が尿道に飛入ろうとも、目の前に突然灰胡座(ばいあぐら)が立とうとも、彼は決して陰茎をしぼませない。彼の海綿体はもはやそれを縮ませるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡している時でも、短小の陰茎はカッと大きく屹立したままである。ついに、彼の睾丸と睾丸との間に小さな一匹の蜘蛛が巣をかけるに及んで、彼はようやく自信を得て、師の飛精にこれを告げた。
それを聞いて飛精がいう。萎えざるのみではまだ射精を授けるに足りぬ。次には、視ることを学べ。視ることに熟して、さて、貧を視ること巨のごとく、微を見ること爆のごとくなったならば、来って我に告げるがよいと。
短小は再び家に戻り、肌着の縫目から乳首を一つ取り出して、これを己が陰毛をもって繋いだ。そうして、それを南向きの窓に懸け、終日睨み暮らすことにした。毎日毎日彼は窓にぶら下った乳首を見詰める。初め、もちろんそれは一つの乳首に過ぎない。二三日たっても、依然として乳首である。ところが、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少しながら大きく見えて来たように思われる。三月目の終りには、明らかに乳房ほどの大きさに見えて来た。乳首を吊るした窓の外の風物は、次第に移り変る。煕々として照っていた春の陽はいつか烈しい夏の光に変り、澄んだ秋空を高く雁が渡って行ったかと思うと、はや、寒々とした灰色の空から霙が落ちかかる。短小は根気よく、陰毛の先にぶら下った哺乳類・催淫性の小乳頭を見続けた。その乳首も何十個となく取換えられて行く中に、早くも三年の月日が流れた。ある日ふと気が付くと、窓の乳首が馬のような大きさに見えていた。占めたと、短小は陰茎を打ち、表へ出る。彼は我が目を疑った。陰茎は高塔であった。睾丸は山であった。陰毛は森のごとく、包皮は城楼と見える。雀躍して家にとって返した短小は、再び窓際の乳首に立向い、男根の綿に精液をつがえてこれを射れば、精液は見事に乳首の中心を貫いて、しかも乳首を繋いだ毛さえ断れぬ。
短小は早速師の許に赴いてこれを報ずる。飛精は高蹈して金玉を打ち、初めて「出かしたぞ」と褒めた。そうして、直ちに射精の奥儀秘伝を剰すところなく短小に授け始めた。
男根の基礎訓練に五年もかけた甲斐があって短小の腕前の上達は、驚くほど速い。
奥儀伝授が始まってから十日の後、試みに短小が百歩を隔てて女体を見るに、既に瞬間射精である。二十日の後、いっぱいに精液を湛えた盃を右肱の上に載せて剛直を扱くに、狙いに狂いの無いのはもとより、杯中の精液も微動だにしない。一月の後、一本の陰茎をもって速射を試みたところ、第一射が的に中れば、続いて飛来った第二射は誤たず第一液の染みに中って突きささり、更に間髪を入れず第三射の精液が第二射の溜まりにドッパとなだれ込む。精精相属し、発発相及んで、後射の精液は必ず前射の精液に喰入るが故に、絶えて地に墜ちることがない。瞬く中に、百発の精液は一本のごとくに相連なり、的から一直線に続いたその最後の一滴はなお剛直を銜むがごとくに見える。傍で見ていた師の飛精も思わず「逝く!」と言った。
二月の後、たまたま家に帰って妻となかよしをした短小がこれを威そうとて黄金の陰茎に白銀の精液を溜めきりりとしこって妻の目を射た。液は妻の睫毛三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、射られた本人は一向に気づかず、まばたきもしないで亭主を罵り続けた。けだし、彼の至芸による精液の速度と狙いの精妙さとは、実にこの域にまで達していたのである。
もはや師から学び取るべき何ものも無くなった短小は、ある日、ふと良からぬ考えを起した。
彼がその時独りつくづくと考えるには、今や陰茎をもって己に敵すべき者は、師の飛精をおいて外に無い。天下第一の名人となるためには、どうあっても飛精を除かねばならぬと。秘かにその機会を窺っている中に、一日たまたま吉原において、向うからただ一人歩み来る飛精に出遇った。とっさに意を決した短小が陰茎を取って狙いをつければ、その気配を察して飛精もまた男根を執って相せんずる。二人互いに射れば、精はその度に中道にして相当り、共に地に墜ちた。地に落ちた精が軽塵をも揚げなかったのは、両人の精液がいずれも実に粘っていたからであろう。さて、飛精の精液が尽きた時、短小の方はなお一射を余していた。得たりと勢込んで短小がその精を放てば、飛精はとっさに、傍なる野次馬の陰茎を折り取り、その粗根の先端をもってハッシと液を叩き落した。ついに非望の遂げられないことを悟った短小の心に、成功したならば決して生じなかったに違いない道義的慚愧の念が、この時忽焉として湧起った。飛精の方では、また、危機を脱し得た安堵と己が巨根についての満足とが、敵に対する憎しみをすっかり忘れさせた。二人は互いに駈寄ると、吉原の真中に相しごいて、しばし美しい師弟愛の摩羅をかきくれた。(こうした事を今日の道義観をもって見るのは当らない。性豪の精(せい)の乱公(らんこう)が己のいまだ味わったことのない珍々を求めた時、厨宰(ちゅうさい)の液牙(えきが)は己が息子を蒸焼にしてこれをすすめた。十六歳の少年、秦のシコシコう帝は父が死んだその晩に、父の男根を三度襲うた。すべてそのような時代の話である。)
精涙にくれて相扱きながらも、再び弟子がかかる企みを抱くようなことがあっては甚だ危いと思った飛精は、短小に新たな目標を与えてその気をせんずるにしくはないと考えた。彼はこの危険な弟子に向って言った。もはや、伝うべきほどのことはことごとく伝えた。爾がもしこれ以上この道の蘊奥を極めたいと望むならば、ゆいて西の方大硬(たいこう)の嶮に攀じ、掻山(かくざん)の頂を極めよ。そこには甘勃老師とて古今を曠しゅうする斯道の大家がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射精のごときはほとんど児戯に類する。爾の師と頼むべきは、今は甘勃師の外にあるまいと。
短小はすぐに西に向って旅立つ。その人の前に出ては我々の技のごとき児戯にひとしいと言った師の言葉が、彼の海綿体にこたえた。もしそれが本当だとすれば、天下第一を目指す彼の望も、まだまだ前途程遠い訳である。己が業が児戯に類するかどうか、とにもかくにも早くその人に会って摩羅を比べたいとあせりつつ、彼はひたすらに道を急ぐ。裏筋を破り亀頭を傷つけ、陰茎を扱き精液を出して、一月の後に彼はようやく目指す山顛に辿りつく。
気負い勃つ短小を迎えたのは、羊のような柔和な目をした、しかし酷くよぼよぼの爺さんである。年齢は百歳をも超えていよう。腰の曲っているせいもあって、陰茎は歩く時も地に曳きずっている。
相手が聾かも知れぬと、大声に遽だしく短小は来意を告げる。己が技の程を見てもらいたいむねを述べると、あせり勃った彼は相手の返辞をも待たず、いきなり股間についた陽根摩羅を露出して手に執った。そうして、玻璃の我慢汁を出すと、折から空の高くを飛び過ぎて行く渡り鳥の群に向って狙いを定める。陰茎に応じて、一射精たちまち五羽の大鳥が鮮やかに碧空を切って落ちて来た。
一通り出来るようじゃな、と老人が穏かな微笑を含んで言う。だが、それは所詮射精之射精(しゃせいのしゃせい)というもの、好漢いまだ不射精之射精(ふしゃせいのしゃせい)を知らぬと見える。
ムッとした短小を導いて、老隠者は、そこから二百歩ばかり離れた絶壁の上まで連れて来る。脚下は文字通りの大木のごとき茎立千仭、遥か真下に糸のような細さに見える精液渓流をちょっと覗いただけでたちまち勃起を感ずるほどの淫らさである。その断崖から半ば宙に乗出した猥石の上につかつかと老人は駈上り、振返って短小に言う。どうじゃ。この石の上で先刻の業を今一度見せてくれぬか。今更引込もならぬ。老人と入代りに短小がその石を履んだ時、石は微かにグラリと揺らいだ。強いて気を励まして陰茎をしごこうとすると、ちょうど崖の端から小石が一つ転がり落ちた。その行方を目で追うた時、覚えず短小は石上に伏した。男根はワナワナと顫え、我慢汁は流れて踵にまで至った。老人が笑いながら手を差し伸べて彼を石から下し、自ら代ってこれに乗ると、では射精というものをお目にかけようかな、と言った。まだ勃起がおさまらず蒼ざめた陰茎をしてはいたが、短小はすぐに気が付いて言った。しかし、陰茎はどうなさる? 睾丸は? 老人は去勢済だったのである。陰茎? と老人は笑う。男性器の要る中はまだ射精之射精じゃ。不射精之射精には、金剛の陰茎も碧玉の睾丸もいらぬ。
ちょうど彼等の真上、空の極めて高い所を一羽の鳶が悠々と輪を画いていた。その胡麻粒ほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた甘勃が、やがて、見えざる精液を無形の陰茎につがえ、満月のごとくに引絞ってどぴゅと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るではないか。
短小は慄然とした。今にして始めて茎道の深淵を覗き得た心地であった。
九年の間、短小はこの老名人の許に留まった。その間いかなる修業を積んだものやらそれは誰にも判らぬ。
九年たって山を降りて来た時、人々は短小の陰茎の変ったのに驚いた。以前の太く長いカリ高な魔羅魂はどこかに影をひそめ、なんの凹凸も無い、コケシのごとく棒のごとき根貌に変っている。久しぶりに旧師の飛精を訪ねた時、しかし、飛精はこの魔羅付を一見すると感嘆して射精した。これでこそ初めて天下の名人だ。我儕のごとき、足下にも及ぶものでないと。
陳鎮の都は、天下一の名人となって戻って来た短小を迎えて、やがて眼前に示されるに違いないその性技への期待に湧返った。
ところが短小は一向にその要望に応えようとしない。いや、陰茎さえ絶えて手に取ろうとしない。山に入る時に履いて行った金糸の下履きもどこかへ棄てて来た様子である。そのわけを訊ねた一人に答えて、短小は懶げに言った。自慰は為す無く、シコシコは言を去り、至射精は射精することなしと。なるほどと、至極物分りのいい陳鎮の都人士はすぐに合点した。陰茎を執らざる射精の名人は彼等の誇となった。短小が陰茎に触れなければ触れないほど、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝された。
様々な噂が人々の下の口から口へと伝わる。毎夜三更を過ぎる頃、短小の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ自慰の音がする。名人の内に宿る射精の神が主人公の睡っている間に体内を脱け出し、淫魔を払うべく徹宵守護に当っているのだという。彼の家の近くに住む一商人はある夜短小の家の上空で、雲に乗った短小が珍しくも陰茎を手にして、古の名人・羿(ゲイ)と超勃起の二人を相手に魔羅比べをしているのを確かに見たと言い出した。その時三名人の放った精はそれぞれ夜空に青白い光芒を曳きつつ娼宿と天淫星との間に消去ったと。短小の家に忍び入ろうとしたところ、塀に足を掛けた途端に一道の精気が森閑とした家の中から奔り出てまともに股間を打ったので、覚えず射精し外に顛落したと白状した盗賊もある。爾来、淫心を抱く者共は彼の住居の十町四方は避けて廻り道をし、賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。
雲と立罩める名声のただ中に、名人短小は次第に老いて行く。既に早く射精を離れた彼の魔羅は、ますます枯淡虚静の域にはいって行ったようである。木偶のごとき陰茎は更に凹凸を失い、勃つことも稀となり、ついには存在の有無さえ疑われるに至った。「既に、陰茎と空との別、是と非との分を知らぬ。眼は陰茎のごとく、耳は陰茎のごとく、鼻は陰茎のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐である。
甘勃師の許を辞してから四十年の後、短小は静かに、誠に精子のごとく静かに世を去った。その四十年の間、彼は絶えて射精を口にすることが無かった。口にさえしなかった位だから、陰茎を執っての活動などあろうはずが無い。もちろん、寓話作者としてはここで老名人に掉尾の大乱交をさせて、名人の真に名人たるゆえんを明らかにしたいのは山々ながら、一方、また、何としても古書に記された男根を曲げる訳には行かぬ。実際、老後の彼についてはただ無為にして化したとばかりで、次のような妙な話の外には何一つ伝わっていないのだから。
その話というのは、彼の死ぬ一二年前のことらしい。ある日老いたる短小が知人の許に招かれて行ったところ、その家で一つの器官を見た。確かに見憶えのある器官だが、どうしてもその名前が思出せぬし、その用途も思い当らない。老人はその家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ部位で、また何に用いるのかと。主人は、客が冗談を言っているとのみ思って、ニヤリととぼけた笑い方をした。老短小は真剣になって再び尋ねる。それでも相手は曖昧な笑を浮べて、客の心をはかりかねた様子である。三度短小が真面目な顔をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顔に驚愕の色が現れた。彼は客の眼を凝乎と見詰める。相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、また自分が聞き違えをしているのでもないことを確かめると、彼はほとんど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだ。
この煽りの元ネタはとある絵師が描いたイラストで、内容はメガネをかけた青年が「すいません、三色チーズ牛丼の特盛に温玉付きをお願いします。」って口にしてるだけのもの
これが元イラスト
↓
https://i.imgur.com/y4hIO4q.png
・このイラストの青年の見た目が地味で冴えないという意味で「陰キャ」の特徴を見事に捉えていること
・注文台詞を早口でボソボソ喋ってそうなこと(後述の流行の経緯から見るとこれは副次的なもの)
こうした理由から主に匿名掲示板で煽りや自虐目的で使われる様になり、そこからまとめサイトを経由してTwitterでも使用される様になり、現在では日本のインターネットのそこかしこでこの画像やこの画像から発展した「チー牛」というジャーゴンが煽り目的で使われる様になっている
前述した様に元々は「陰キャ」の優れた表象として評価された「チー牛」だったが、今ではその立場が完全に逆転してこれまで「陰キャ」が使われていた場面でも「チー牛」が使われることの方が多くなってきた
もはや「チー牛」がインターネット界を席巻しており「陰キャ」はすでに過去の栄光になりつつある
そして俺はこの「チー牛」煽りが苦手だ
説明口調の長文を書く人や対抗言論を述べる人に対してこの「チー牛」煽りは使用される傾向にあるのだが、これって単純に気に入らない奴に「ブサイク」って言ってるのと変わらないんだよ
思い出してほしいんだけど、チー牛が流行ったのは陰キャ→ブサイク→チー牛イラスト→ブサイク→陰キャっていう循環的な連想があったからなんだよ
流行の初期は陰キャを自称する人が「俺マジでこんな顔だわ」って自虐を込めて貼り付けたり、「お前らどうせこんな顔してるんだろ?」と陰キャを揶揄する目的の人が貼り付けたりしてたのが「チー牛」イラストなんだよ
いやだったらそもそも大元の「陰キャ」からしてブサイクを揶揄する意味が込められてんじゃん?って指摘は当然起こると思う
それはその通りなんだよ
でも「陰キャ」にはブサイクだけではなく「根暗」とか「インドア」とか「内向的」っていう意味も含まれてて、そうした「陰キャ」の多義性が「陰キャ」煽りの精神的逃げ口でもあったんだよ
「陰キャ」煽りっていうのはそういう意味で致命的なものではなかった
だけど「陰キャ」から派生した「チー牛」は上述した通り完全に「(早口)ブサイク野郎」って言ってるのと同義なんだよ
これ本当に酷い致命的な悪口なんだよ
逃げ場がないんだよ
「(早口)ブサイク野郎」として世間から肯定的な承認を集める「チー牛」の英雄とかいないんだよ
なのに「チー牛」っていう可笑し味のある語感のせいでインターネットの至るところでこんな危険物が気軽に投げつけられる現在の惨状を招いてるわけ
本当にこれは酷いインターネットだよ
一昨日(4/25)に何を思ったのかパイパンにした。
つい先日、年単位で使っていた剃刀を新品に買い替えたのがきっかけだった。
それがもうめちゃくちゃ切れ味が良い。ドラッグストアで売ってる800円ぐらいの剃刀なんだけど、もうめっちゃ気持ちよく剃れる。
自分はムダ毛処理というものが本当に苦手で、ムダ毛は処理せず服で基本的に隠す、でなんとか凌いできた。(たまにうっかり腕まくりして死ぬ)
それが剃れるのがめっちゃ楽しくていやもう股の毛とかいらんくね???とか思いながらチキンなのでその日は剃らずに風呂を出た。
ってことがあったんだよね、って付き合ってる彼氏に言ったらめちゃくちゃ食いつきがよかったのでじゃあ剃るか~~と決意したわけです。
まぁコロナ騒ぎで1年近くは友人達とも旅行行けないしいいだろ、という軽いノリで剃りました。
で、思ったんですが、パイパンにしたらどれくらいで元の長さに戻るのかがググってないのでさっぱりわからない。
自分の股間に良いサンプルあるし、経過観察していけば日々やるタスクとして楽しく更新できるかな、と思って日記形式で投稿していけたらいいなと思う。
本当は画像投稿とかした方がより良いんだろうけど規約的にもNGだし、流石に自分の性器を自分のスマホで撮って、インターネットに載せるって過程は想像するだけで地獄なのでしない。
という訳で本題。
1人で全部剃れたら良かったんだけど、彼氏が手伝うと言ってくれたので剃刀を彼氏に託した。
剃られてる最中にそもそもここにも毛って生えてるんだ!という気付きがあった。
びらびら部分をめくってみると何を防御してるんだお前はみたいな毛がある。
流石にめくらないと出てこない部分を剃ってしまうと、生えてきたときに自分の皮膚に刺さるだろうから剃らないでおいた。
ちなみにケツ毛は今回は対象外にしている。(生えてくる時のチクチクが前も後ろもなるのは地獄なので。)
とりあえず剃刀でやれることはやってみたが、恥丘は青髭のようにうっすら青くなってしまった。
ちなみにこの時点では上から恥丘を撫でるとつるつるだが、下から撫でるとチクチクする。
剃刀ではこれ以上頑張ってもうまく剃れない微妙に残った毛たちの主張が僅かにあったので、彼氏の髭剃りを借りて更に剃ることでようやく下から恥丘を触ってもつるつるの状態になった。
世の中のパイパンの女性たちはこんな大変なことしてるのか、としみじみ思いました。
いわゆるIラインに関しては自分じゃ全く見えないので、人にやってもらえるのであればそうした方がいいと思う。
朝起きて確認してみると、バラバラではあるけどもう既にうっすら生えてた。早くない?
でも冷静に考えてみると、脇毛なんかも翌日ぐらいにはちらほら生えてたりするのでそういうものなのかもしれない。
この時点ではかゆい、チクチクするとかはないが、下から恥丘を撫でると肌がチクチクして痛かった。
これは手に刺さって痛いのではなく、恥丘の皮部分が痛かった。
皮膚をへそ方向に引っ張ると、生えたての短い毛たちがまた毛穴に潜って毛穴じゃないところに刺さって痛いのだと思う。
とは言え、軽く触る分にはそんなに痛くならないので、暇さえあればパンツに手突っ込んでジョリジョリを堪能していた。
彼氏にそういえば婦人科検診いつだっけ?って言われてから気付いたけど、1ヶ月後ぐらいに内膜症の検査で股おっぴろげ台に乗せられるの忘れてたのを思い出した。
初の平日です。
朝起きて見てみると全体的に結構伸びていた。
と思って触ってみると表面的に出ているのは1,2ミリぐらい?だった(定規がないので正確にはわからないが)。
剃った時も思ったが、皮膚に埋まっている部分が割と可視化されていてシンプルにうわぁ…って思った。引いた。
昼過ぎになってみると若干チクチクしてかゆくなる。
ただし、掻いてしまうと昨日の「生えたての短い毛たちがまた毛穴に潜って毛穴じゃないところに刺さる」現象が起きて結構痛い。
なのでどうしようもないので、適当なアニメ観て気を紛らわせた。
業務を終えてもっかい確認してみたところ、Iラインとかもうっすら毛が生えていることがわかった。
多分朝から生えていたが、そんなに時間がなかったので確認できていない。
やっぱり意外と伸びてくるペースが早い。
でも元の長さに戻るまでとなると、このペースで行っても数か月は掛かりそう。
それまで飽きずにこんな感じで更新していけたらいいなぁ。
覚えてたら定規を準備しておく。
20200503追記)
いちゲーオタ中年男性のハートのど真ん中の最奥部に抜けないほど深く突き刺さった「テン年代ゲーム」10本をランキング形式で挙げていきます。お付き合いください。
のっけから「特別賞」から始めることをお許しあれ。ランキング発表後だと、1位よりもスペッシャルな空気を醸し出してしまいそうで。それを避けたかった。
でも、本作がとくべつな1本であるには違いない。だから悩んだ挙句の……「特別賞」。まんまでごめん。
個人的には『ノベルゲー」って昔からあんまやらないんです。ノベルゲーやる時間あったら小説を読むほうが(たいてい)有益だろう、という長年の思いこみ集積のせい。でも、『Doki Doki Liteature Club』は例外。ゲームらしいインタラクティブな要素があるわけじゃないのだけど、小説でもマンガでもアニメでもこの表現は絶対不可能。
本作の凄さについてはもはや語り尽くされている感があるし、強く深い思い入れを持っている方が世界中にいらっしゃることも存じておりますし、まだプレイしていない方のためにも、内容については何も言いたくない。
でも、これだけは言わせてほしい。
本作は「神は存在を愛している」ってことをギャルゲー/ノベルゲーのガワで見事に顕してみせた一大叙事詩である。ここには生があって、性があって、詩があって、死があって……愛がある。さらには現象学的「彼方」をも開示してみせる。
その(一見)破天荒、かつ強烈な内容に憤怒するかもしれない。ショックのあまりマウスを壁に叩きつけるかもしれない。号泣するかもしれない。戦慄するかもしれない。でも最後にはきっと宇宙大の愛に包まれる……絶対。
ああ、すっきり。
では、こっから心置きなく2010年代・心のベスト10を発表させて頂きます。
「……なんか妙に懐かしいな。子供の頃、お前と行った鵠沼海岸をまざまざと思い出したわ」
ゲームと本の山でとっ散らかった僕の部屋にやってきて、このゲームをしばらく遊んだ君は、いかにも重たいPSVRヘッドギアをつけたまま、そう呟いた。
僕はかなり潔癖症だから、君が顔じゅうに汗をたっぷりかいてることがひどく気になって、除菌ティッシュ片手にそれどころじゃなかった。
けどさ、あの頃君と一緒に見つめた空と海の青さに、まさかVRの新規アクションゲームの中で出会えるとは夢にも思わなかったよ。
ハタチん時、『スーパーマリオ64』を初めてプレイした時の驚きと、海辺で自分の子と君の子が一緒に遊んでいるのをぼんやり眺めてるような、そのうちに自分たちも同じくらい小さな子供に戻って、一緒に無邪気に冒険してるような……切なくて温くて微笑ましい気持ちがじわじわこみあげてきた。そのことに、僕は本当に心底驚いたんだよ。またいつでもやりに来てくれ。
「あー、なんかシャベル持ったナイトのやつでしょ。古き良きアクションゲームへのオマージュに溢れる良質なインディーゲーって感じだよね、え、あれってまだアップデートとかやってんの? なんかsteamセールん時に買って積んでんだけど、ま、そんな面白いならそのうちやるわー」
あなたが『ショベルナイト』をその程度のゲームだと思っているのなら、それは大きな大きな間違いだ。
プレイ済みの方はとっくにご承知と思うが、本作はレトロゲーもオマージュゲーもとっくに越えた、誰も登れない山頂に到達した類い稀な作品である。アイロニーと切り張りだけで作られた、この10年で数えきれないほど溢れ返った凡百のレトロ風ゲームとは、かけ離れた聖域に屹立してゐる。
そして3つの追加アプデ(大胆なアイデアに溢れた全く新規追加シナリオ。今月でようやく完結)によって、本作は10年代下半期にリリースされた『Celeste』や『ホロウナイト』の先駆けとなる、傑作2Dアクションとしてここに完成したのだった。さあ、ショベルを手に彼の地へ赴け。
このゲームの印象を喩えて言うなら、
久し振りに会って酒でも飲もうものなら、いちいち熱くてしつっこい口論になってしまう、共感と嫉妬と軽蔑と相いれなさのような感情を腑分けするのが難しいくらい綯い交ぜになっている面倒きわまりない幼なじみ、みたいな。
正直、ランキングにはあまり入れたくなかった。が、初プレイ時の衝撃をまざまざと思い出してみると、やっぱり入れないわけにはいかぬと悟った。
もし未プレイだったら、このゲームはできればPC(steam)でやってみてほしいとせつに願う。当方バリバリのコンシューマー勢なので、ゲームでPC版を薦めることは滅多にない。だが、コンシューマー機ではこのゲームの持つ「鋭利なナイフ」のような「最後の一撃」が半減してしまうだろう。
作者トビー・フォックス氏は、かつての堀井雄二や糸井重里の系譜に連なる倭人的王道シナリオ(コピー)ライターと感じる。
確認のために本作の或るルートを進めていた時、初期ドラクエと『MOTHER』と『moon』が携えていた「あの空気」が30年ぶりに匂い立ってくるのを感じて眩暈がした。会えば会うほど凄みを増す狂人のような作品だ。
2020年内に出る(であろう)2作め『DELTARUNE』において、トビー氏は堀井/糸井が書け(書か)なかった領域に確信犯的に踏み込んでくるにちがいない。それが半分楽しみで、半分怖くて仕方がない。
その山の森の奥には古い洋館があった。
庭は川と繋がっていて、澄んだ水が静かに流れていた。
君は川沿いにしゃがみこんで1輪の花を流していた。
俺は黙って君を見つめていた。
君は俺に気づかない。
俺は木に上ったり、柱の影から君を見守ったり、触れられない手で君の髪を撫でたりしているうちに……君の可愛がってたシェパード犬がこちらにひょこひょこやってきて、ワン、と小さく吠えた。
ああ、なんだかこのゲームやってると批評的目線がどんどんぼやけていくのを感じる。まるで透明な死者になってしまったような、奇妙で懐かしい感覚に否応なしに包みこまれるような……。
本作は「VRで描かれた古典的AVG(アドベンチャーゲーム)」であると言われている。個人的には、そんな持って回ったような言い回しはしたくない。
VRでしか描けない世界と情緒に対して、あまりに意識的な本作。その手腕はあざといくらいなんだけど、実際に本作をやってみるとあざといどころじゃない。泣くわ。胸の内に熱いものがこみあげてくるわ。
『Deracine』はプレイヤーの原風景をまざまざと蘇らせる。かつて失ってしまった友人を、失ってしまった動物を、失ってしまった思い出を、「ほら」とばかりに目の前に差し出してくる。そのやり口はほとんど暴力的でさえある。
もしVR対応しなかったら、知る人ぞ知る良作(怪作)止まりだったであろう本作。
かくいう俺もPS Storeで見つけて何となく買った時は、まさか2010年代ベストに入れることになるとは思わなかった。怪しい仮面被ったバレリナ少女がサイケ空間を飛び回ってんなあ……製作者はドラッグでもやってんのか?くらいの。
しかしPSVR対応した本作を再度プレイして驚愕した。怪作がまごうことなき傑作に生まれ変わっていたのだ。あるいはコンテンポラリーアート作品としての本質を露にしたとも言える。ああ、VRというハードではこんな事態が起こり得るのか……。
画を作っているサンタモニカ・スタジオ(ゴッド・オブ・ウォー、風ノ旅ビト他)の仕事はいつだって凄まじいクオリティでため息が漏れるのだが、VRとの相性は抜群だ。とりわけ今作での仕事は白眉と言える。
とにかく、思わず自分と少女の頬をつねりたくなるほど美しい。少女が、景色が、色彩が、確実に「もうひとつの世界」(夢、とは言いたくない)を現出させている。
そして本作は本質的な意味で——究極の恋愛ゲーでもある。誰も認めなくても、俺はそう強く感じる。あの少女と過ごした時間を、あの少女が内に秘めていた闇の部屋を、あの少女が戦っていた怪物を、そしてこの狂気と色彩にみちみちた世界を日常生活の中で思い出す時、この胸に去来するのは——それは「恋」としか言い様のない儚い感情だ。
書き始めるまで、本作がここまで自分内上位に食い込むとは思わなかった。
が、確認のために軽くプレイしてみたら、やっぱりとんでもなかった。
実験施設内部に、そして自分の内側(Inside)に展開するめくるめく不穏な景色。ディストピアの先にある、吐き気をもよおさせると同時に、穏やかな安寧に包まれるような、唯一無二のビジョン——を完璧に描ききった本作。
終盤の怒濤の展開と比類なき生命体描写のインパクトに心奪われるが、本作の真骨頂は木々や空や雲や雨、海などの自然情景(それが何者かによって造型されたものであれ)の美しさだと思う。荒んだ世界の中、思わず立ち止まって、天に祈りを捧げたくなるような敬虔な心持ちを強く喚起させる。
俺にとって『INSIDE』とは、自己の内面に深く潜るための潜水艦、あるいは哲学書のページを繰っても繰っても掴めない、自分と世界との乖離を自覚するための尖った注射針であり、神なき世界の宗教である。
灰色にけぶった空の下、雨降るトウモロコシ畑で無心で佇んでいた時のあの安寧と絶望感に、これから先もずっとつきまとわれるだろう。
人の生には「もっとも幸福な時期」というものがたしかに存在するようだ。そして、それは必ずしも幼少期だったり青年期だったりする必要はない。
俺にとっては、傍らに愛猫がいてくれて、WiiUと3DSが現役ハードで、仕事から帰ってくると毎日のように今作にあけくれていたこの頃が——生涯でもっとも幸福な時期だったと言いきってしまいたい。なぜなら、幼少期や青年期と違って、その記憶ははっきりと想起できるから。
そして後から振り返ってみて、その時期がどれほどありがたいものだったかを確認し、やるせない気持ちに包まれるのだ。「ああ、やっぱり」と。
総プレイ時間は生涯最長となったし、この作品を通じて(自分にしては珍しく)老若男女多くの「オンラインフレンズ」ができた。
が、続編『スプラトゥーン2』は発売日に購入したものの、ろくすっぽプレイしなかった(できなかった)。
その理由は(おおざっぱに書くと)3つ。
ひとつは『2』発売時、先に述べた、俺にとってもっとも幸福だった時代が過ぎ去っていたこと(ごく個人的な理由だ)。
ふたつめは、初代スプラトゥーンが持っていた、俺を夢中にさせるサムシングが『2』には欠けているように感じられたこと(批評記事ではないので、それについてここでは掘り下げない)。
3つめは、次に挙げる同じく任天堂開発の対戦ゲームの登場である。
それは35年前に夢見た未来の『パンチアウト!!』だった。そして20年前に夢みた『バーチャロン』と『カスタムロボ』の奇跡的融合であり、同時にそれらとは全く別次元に昇華された「理想的格ゲー」であった。
『スプラトゥーン』で「共闘」の愉しさを味わった俺に、本作は「見知らぬ相手とサシで戦う」ことの妙味と厳しさをばっちり思い出させてくれた。
そして画面内のキャラをこの手で操る——そんなあまりにも原初的な「ゲーム」の喜びが本作には隅々までみちていた。こればかりは「Just do it」(やるっきゃない)。
やがて俺は日々のオンライン対戦では飽き足らず、リアルの大会にまで足を運んだ(あっさり敗退してしまったが……)。そんなゲームは、おそらく生涯最初で最後だろう。
余談だが、Joy-con特性を生かした「いいね!持ち」による操作こそが本作の革新性であると信じているのだが、革新性よりも「合理性」と「勝率」を求める猛者たちには殆ど浸透しなかった。
「いいね!持ち」メリットをうまく調整できてさえいれば、本作は『e-sports』ゲーム初の従来型コントローラーから離れた(両腕全体を用いた)操作形態を実現していたはずで、それについては至極残念だが、現在開発中であろう『ARMS2』に期待したい。
2010年代下半期は、俺にとっては「VRに初めて触れた年代」としていつまでも記憶されることになるだろう。
2017年冬、とにかく『Rez infinite』をプレイしなければならない——そんな義務感でPSVRを勇んで購入した。配線がややこしい機器をPS4に繋げ、想像していたよりもさらに重たいヘッドセットを被り、本作をプレイすると——すぐに「ここには未来がある」と思った。いや、正確じゃないな。「未来に至る——今の時間と自分」をばっちり感じたと言うべきか。現在は可視化され、360度方位に顕在し、俺をユニバーサルに包みこんだ。
AreaXを初めてプレイした時の、重たい身体感覚から自由になり、魂だけが全宇宙に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから過去30数年を振り返ってみても、5歳の時に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。
これだけ長いこと「ゲーム」なるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚を初めて得られたことに深く感動し、ラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように思い出せる。
そして『Rez infinite』の「次の体験」を今か今かと待っている。
『Rez infinite』からのまさかの……自分に驚き、何度も自身に問うた。
あれだけ昔から『どうぶつの森』嫌いだったお前が。とび森を。テン年代1位に。据えるつもりか?
お前はそんなにぶつ森好きだったのか? ありがちな中年男性みたいに「しずえ萌え」になったのか? それとも親子くらい歳の離れたフレンドと時々会えるからか? おいおい、かあいこぶってんじゃねーぞ、と。
だが本作を1位にした決定的な理由——それは、テン年代初頭に放たれた今作から「仮想世界」における、人間存在の理想的な在り方の萌芽をひしと感じたからだ。
一発で脳内に凄まじいヴィジョンを注入した『Rez infinite』と比べると、まるでアリが餌塚に砂糖を運ぶようなゆったりとした足取りだが、本作は確実に世界中のゲームファンに「もうひとつの世界」をキュートな顔つきと口調(しずえ嬢のような……)でじわじわと浸透させ、人々の無意識をしれっと変容させ、もうひとつの生活を愉しませ、ネット接続により文字通り「飛び出させた」。
『どうぶつの森』は今年3月に発売する次作『あつまれ どうぶつの森』においてさらなる大きな広がりと変化を見せてくれるだろう。
が、俺は本作をとくべつに、個人的に、偏執的に、限定的に愛しているのだ。
それは故岩田社長が生み出した『3DS』というハードへの偏愛と、ゲーム機では3DSだけが備えた「裸眼立体視」——ARとVRを折り合いし、先取りした——唯一無二の機能によって『どうぶつの森』というクローズドな世界をまるで飛び出す絵本のごとく彩り、「夢の中で他者の森を訪ねる」という奇妙かつ魅惑的な通信世界を生み出し——
要は、全シリーズを振り返っても今作『とびだせ どうぶつの森』だけが持ち得た、この奇妙で牧歌的で神秘的なアトモスフィアに由るものだ。
カフカ『城』や村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』主人公のように、俺はある時、この森の中に、夢の中に、村の中に、これからも留まり続けることを選んでいた。
そういうわけで、本作を迷わずにテン年代1位に据えたいと思う。
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長々とお付き合いくださって本当にありがとうございました。
余談ですが、最初は「順不同」にしようと考えていたのです。これほど自分にとって大切なゲームたちに順位なんてつけるのは相当失礼な気がして。
でも、敢えてつけてみた。並べてみたら、なんとなく自分内重要度みたいなものがぼんやり浮かび上がってきたので。
異論提言はもちろん、よかったらあなたのテン年代ベスト(5本でも20本でも1本でも)教えて頂けると、いちゲームファンとしてめっぽう嬉しいです。
この間座談会に出席した。
「私のひそやかな楽しみ」というテーマで一人一人喋る場面があり、そこで「ひとりで回転寿司に行く」という回答がダブったのが今でも鮮烈に脳裏に焼き付いている。という前置き。
週に何度も通る駅への道。傍らで開店している回転寿司屋。(これは開店と回転をかけたギャグです)
しかしけしてひとりでは通らない。脳の裏側でひとりで回転寿司という文字というか概念が二重になって輝く。その色数 1680万色。
ゲーム脳と誹りたければそーしろ。私の脳は青色 LED が発明される前に生成されたので燃費悪いよ。
三人揃えば高速増殖炉となり高速で寿司を回転させていただくことも可能だけれども、条件がまず揃わない。
幻の三人目は西野カナではない。よって揃わない。
真剣に悩み、突き詰めた結果、私はいくらが食べたいということが判明した。
実のとこ真剣に悩む前からいくらが好きだったのだけど、意識してしまうと慕情が止まらなくてぼじょーて漏れまくる。(これは慕情とぼじょーをかけたギャグです)
定期的に五人で食事会を開く。揃いも揃ってる。夕食で休日で緊張で震える。六割方揃ってる。
五芒星パワーで毎度寿司が召喚される。いくらもいる。いくらも…いるんだよ。いくらは…存在するんだよ、手を伸ばせばすぐそこに。
でもそれらいくらはすべて私ではない人が食べる。いっぱい食べる君がすきだから…。いくらよりすきだから…。
人を食らった原生生物を探窟家が食べてふたたび私たちの力になるのって旨の話をリコちゃんがしてた気がするんだけど、いくらを取り込むことによりより私に好かれまくってってる気がする、私のいくらを食べる人。私のいくらを、食べる人。私の、いくらを食べる人。
でも失ったいくらはもう食べられない。私の口でいくらがはじける日は来ない。
もう何億年もいくら食べてない感覚持ってる。カンブリア紀には寒鰤が獲れてたはずなんだから鮭くらい余裕でいるっしょ。そこは心配してない。
これらが満たされないと人はいずれ死ぬ。私ももう長くはない。もって八十年というところか…。
近所のスーパーでいくら丼やいくら軍艦に値引きシールがつくことがある。
多少高くても値引きシールが貼られているのならお買い得だねという気持ちに包まれる我が家のローカルルールである。
しかし値引きシールが貼られるとき、そこに私はいない。眠ってなんか…いない!(本当です)
たとえ私がそこにいても、夕食前なのだ。家族で団らんなのだ。一人前のいくらなんて持ち込めないのだ。ぼくぽろりなのだ。
もし持ち込めたとしても速攻でいくらバキュームが発動して私の口には下のごはんとか海苔とかしか入らない。
そんな日々がかれこれずっと、ながくながらくながらがわく続いていた。
しかしある日、転機が訪れた。いくらバキュームの君が、遅ればせながら習い事を開始したのである。
なんとびっくり、夕方近くの単独行動可能時間帯という副産物が小一時間ほど発生するようになった。
ひょー!たん!こまっ!(これは瓢箪から駒が出ている様子を表現したオノマトペです)
いやそれより前から通うもんはあったけど、基本ガラスの向こう側で私もじっと手に汗握って見守る系のやつで、そんなフリーダムなもんがこの世に存在するという発想がなかった。
人は自由を手にしたとき何を為すか…答えは当然、近所のスーパーに赴きのんびり自分のペースでお買い物、である。
そして… ""知って"" しまうのである…その時間帯からおあつらえ向きに値引きシールが貼られ始めることを…。
はじめてソロ活動中にいくら丼 550円 20% 引きという文字列を確認したときのあの心の躍動を忘れない。
そう、私の心は、躍った。網膜を通し脳裏に燦然と貼られる値引きシールを翻し、かろやかに、はじけ飛ぶように、そうまるでいくらの如くはじけ飛ぶように!なんかうまいこといった!とにかくまあ躍った。
しかし冷静になって考えると、私は夕食とは別に、家族に内緒で、475.2円のものをかっ食らおうとしている。
事が済んだらその容器をごみ箱の深淵へ誘い、上から別のごみを殉葬して、素知らぬ顔で自分のごはんをふーんわーりエアリーに盛って、何食わぬ、当然いくらも食わぬ顔で家族と夕食を取ろうとしている…。
強烈な背徳感が私を襲う。
人を欺こうなどと大それたことはせず、馬鹿がつく系の正直に、不器用に生きてきた。
そんな私がこんな倫理に反するようなことを想像し、あわよくば実行しようとするなんて…!
自分すら知らなかった自分の一面に恐れおののき打ち震えた。私単体だと結構震えてるんだな。
倫にあらず。すなわち不倫。
今まで誰にも言ったことがなくて増田初公開情報なのだけれど、私は不倫というか不倫をして悲劇のヒロイン気分に浸ってる女性というのがどうにも苦手で、とにかく不倫にまつわる様々なものを遠ざける傾向にあった。
それでまあ、そう思った瞬間一気にハードル高くなって、未だいくら買えてない。食べてない。目の前で食べ尽くされるのは見た。
代わりと言っては何だけど、そのスーパーで売ってる冷凍タピオカ買ってココアとかミルクティーとかに突っ込んで百均のぶっといストローでずぼぼぼぼぼってしてる。少し満たされる。
タピオカ飲料に使われるストローのあの鋭利な斜め加工は、上部にシーリングされたフィルムをえいやっとつんざくためだけではなく、タピオカをストロー内に導くためにも必要だということが、百均の無加工ストローによって判明したのでよき教訓となった。
飲む前にキッチンばさみでちょんと切って斜めにしてる。
それはそれとしていくらを諦めた訳ではない。
生協のカタログでちょっとお高いやつならたまに見かけるから、もうちょい手が出せる価格帯での販売もして欲しい。
なんかいくらのこと考えだしたら廃人みたいになってしまったんだけど、いくらのこと想いながらキーボード打ち殴ってったら少し落ち着いた。
殴るほどの威力かけてはいないけど、なんか打撃が頭蓋のツボにヒットしてしまった人っぽい文が書けたね。
私はいくらがすきです。
思いのほか人に読まれることとなったので、「これから日記を書いてください、ただしこれは確実に人に読まれます」て言われたら↑の RAW 文とりあえず書くだけ書いた後↓の文にコンバートするだろうな、みたいなやつも今書いてきました、併記しときます。多分↓だけ読めば伝わりオッケーだと思う。
以前知人が「ひとりで回転寿司に行くのがひそかな楽しみ」という旨のことを話してくれた。
それ以来私も一度はひとりで回転寿司に行きたいと願っていたが、家庭の事情もありなかなか叶わない。
自問自答して問題の切り分けをした結果、願いのサイズを「いくらを食べたい」というところまでミニマルにできた。
そんな中、値引きシールの貼られたいくら丼を家族に内緒で買って食べるチャンスが回ってきた。
しかしこれは倫理に反する、つまり不倫だ、と私の心が判断して、不倫にまつわるものが苦手なあまりそのチャンスすら手放してしまった。
せめていくらがもう少し安く売られていたらなあ。