はてなキーワード: プレーリードッグとは
昔からどんな夫婦でも夜の営みには悩みの一つや2つあるもので、その一つが女房が満足出来ないうちに旦那の方が満足してしまうという。
三擦り半なんて言葉もありますが、こうなってくると女房の方も旦那が仕事に出ている間に間男を引っ張り込んでなんてこともあったようで…
「聞いておくれよ、うちの旦那この間も三擦り半でさ」(間男のイチモツをしごく様子を扇子で)
「そいつぁ酷いな、三往復だなんてちっとも満足しなかったろう」
「3往復も持つもんかい、行って帰ってで2こすりの計算だから1往復と片道でおしまいよ」
とかなんとか馬鹿なことを言いながら奥様が間男といちゃついておりますと、突然入り口の方から
「あら、大変だ!うちのが帰ってきちまったよ!」
大慌てで服を着ようとするも障子がパッと開いてしまい
「お、おやお前さん早かったんだねぇ、」
「おう、いたのかい。今日はちょっと早じまいになってな、ちょっと酒でも引っ掛けてから帰ってこようかと思ったんだだが
こんなにお天道様が高いうちに仕事が終わるのも久々だ、早く帰ってお前のびっくりする顔を見てみてぇとおもってな、
…いやそれにしてもものすごくびっくりしてる顔だな。
…てかなんでぇおめぇ裸なんだ?…それから隣の旦那はどこのどなたですかい?」
「嫌だねぇ、お前さんがほら、最近あっちのほうが元気がないからって言ってたからさぁ、ちょっとお医者さんに来てもらったんだよ」
「そう、そうなんだよ。で、お医者さんにあっちのほうが元気になる手コキってのを教えてもらってたんだよ」
「へぇ~。手コキねぇ。お医者様(と間男の方へ向き直り)そいつは本当に効くんでしょうか?」
「あ、ああ、もちろんだとも。この手コキをすればどんな萎れたイチモツも、たちまちプレーリードッグのようにその場でピッと立ち上がる」
「なるほど」
「ほらワシの股間を御覧なさい、今奥さんに教えたばかりなんだがほらこの通り」
「何を馬鹿なことを」
「まあ、とにかくそいつはありがたい。いや実は最近あっちのほうが元気無くなってきて、そのせいかなんというか、女房よりもすっかり早くなってしまって」
「おまいさん、早いのは前からだよ」
「ああ、そうか。まあそんな事もあって最近はすっかりうちのを満足させられていないようなんだ。いやよかったよかった」
奥さんも間男もほっとひといき、なんとか誤魔化せそうだと胸をなでおろしたところで
「ところでお医者さんよ、その手コキだったかな。一つそいつを俺にやってみてくれないか」
「え?手コキを…旦那に…?私めが?」
「ああそうよ。
いま女房が教わった手コキとやら、ぜひ一つ本物を一回体感しておきたいと思ってな」
「いや、奥さんは覚えがよくて…」
「1回本物を体験しておかないと、間違った手コキを本物の手コキと思って一生涯過ごしてしまうかもしれぬ」
「ぜひに本物の手コキを」
「いや、その」
「是非本物の手コキをーーー!」
奥様も奥様でこの場を乗り切るためと、半分は面白いものが見られそうと、
とか言い出す始末。
仕方なく間男も覚悟を決めて旦那のイチモツを恐る恐る握って見様見真似でスコスコし始めます。
ところがこの間男、さんざん色々なところの人妻をこマしており、様々な手淫の技を体感していたので、自分では知らないうちに手コキの名手になっていたんですな。
「ここをこうすると…」「おっ、ここは反応が良さそうだぞ…?」
と試行錯誤を繰り返していると、たちまち旦那のものがピン!と牙を向いたプレーリードッグのようにいきり立ちました。
しかし旦那は男性に手コキをされるのは初めてですから、気持ちは良いもののなかなかオシマイまで行くことが出来ません。
間男に手コキをされながら
先輩の指示:
•犬さんが来たら肉をお出ししてください
•猫さんが来たら肉をお出ししてください
•馬さんが来たら牧草をお出ししてください
•兎さんが来たら牧草をお出ししてください
【プレーリードッグさんが来店】
•プレーリードッグさんには何を出せばいいのですか(わからないことは先輩に確認)
•ドッグだから、肉出しておきました(誤った知識と勝手な判断)
有能な新人:
•肉食のお客様には肉、草食のお客様には牧草を出すルールでよろしいですか(帰納法による根本原則の推測)
•プレーリードッグさんはネズミ目で草食です(正確な知識、業務に関わる勉強を怠らない)
•よってプレーリードッグさんに牧草をお出ししてよろしいですか(勝手に判断しない)
•ちなみに、ホモサピエンスさんが来店したら何を出しますか(将来を見据えて貪欲に仕事に向き合う)
クソデカ埼玉県超ビッグこども(見た目は大人)生きとし生ける者森羅万象公園で、いまこの瞬間クソデカいクォッカのすごくでっかい赤ちゃん(ほぼ象)が降誕したらしい。この偉業を未来永劫残すため、フォトグラフィックメモリーを頼りにこのクソデカ動物園について三日三晩語り明かす。
クソデカゲートをありえない動きでくぐるとまずケンタウロスの超巨大なオブジェが見える。とりあえずそこがスタート地点と語り継がれているのでそこまでプライベートジェットで飛ぶ。が、思った以上にクソ遠い。三年の月日をかけてやっと着いたと思ったら、暗闇に包まれる。開幕、五感を奪われているのだ。
このクソデカこども動物自然公園はあらゆる道が広場。そして、なにもかもが存在しないので即座に五感を奪われる。ケンタウロスオブジェの先へ進むと、満漢全席のように東京都多摩動物公園が展示されていた。ここまでたぶん数百パーセク。ようやく宇宙の始まりを見た。
園のでっかい案内図を見る。敷地がめちゃクソデカくて笑いが止まらず死ぬ。全面どころか裏表すべて#00ff00のマップに、1000年に一度思い出したように異形のアイコンが点々と表示されているありさまだ。異形アイコンが集中しているところは百万箇所ほどあって、それぞれイーストエンド・ノースエンドと呼ばれていた。まずイーストエンドを目指す。
案内図に内包されるコストコで焼かれすぎたそばだった炭を買って、食べ終わると同時にイーストエンドにワープした。イーストエンドは有袋類そのもの。コアラ星では、コントロールルームのはるか手前で頂上が雲に霞んで見えないユーカリの山が「56億7千万年に施されるユーカリです」というパネルと共に展示されていた。創英角ポップ体も相まって徐々に体を蝕んでいく。
超カンガルーのエリアへ行くと、ハイパークソデカ敷地のクソ高い柵に入った何億匹ものカンガルーを超えた生命体が次々と目に飛び込んでくる。しかし、なぜか「ここはカンガルーコーナーではない」というクソヤバい看板がそこには鎮座している。我はカンガルーだが?と首をぐるぐる回しながらすごい速さで先に進むと、脳内に直接投影されたのはさっきの柵の内側に入る超巨大な門だった。ええええええええ??!!?!!!?!!!!!!?!!??????
なんと、この超絶クソデカ動物自然公園ではカンガルーと同じ夢の中、マジでほんとにぶっちゃけ何の隔たりもない王道を歩むことしかできないのである。超高性能レーダーを起動するとジャングルのありえないほど先にカンガルーが一つの国家を形成しており、狂気に染まった奈良県みたいになっていた。人間とカンガルーとその他全てのものを寸分たがわず同じ柵に永遠にブチ込みまくることのできるこの解脱、さすがクソデカ埼玉県こども動物自然公園である。懐も海。
次はノースエンドに向かう。ノースエンドには巨乳牛その他全ての巨乳生物がいる。けっこう次元を超えたと思った刹那「巨乳牛まで180000000000km」というクソデカ看板が出てきまくって狂ったように笑って死んだ。#00ff00に一部の隙間もなく包囲されたメキシコマフィア坂を垂直に登攀する。数えきれない程の子ども達がはしゃぎまくって目に見えない程の速度で飛び回ったあと一瞬で全てを失って永遠に静止していたのが一生のトラウマになった。
気の遠くなるような年月を経てノースエンドにつくと、巨乳プレーリードッグや巨乳ミーアキャットなどをしゃぶりつくせるエリアに来る。巨乳ペンギンや巨乳マヌルネコもいまくる。電子顕微鏡でも見えないくらい小さな巨乳ネズミ種を集めすぎてしまった展示館が無限に存在する。ここまでクソデカい坂を垂直に登攀してきた偉業を讃えるように宇宙に一匹しかいない動物たちが1フレームに1匹現れるのである。ちなみに親の顔よりも見たはずのおどろきの純白フクロウをこのノースエンドでも見まくることができた。フクロウの補給ポイントが多すぎて感謝に打ち震え五体投地した。
ノースエンドからケンタウロスオブジェに戻るまでのクソ長い道では、カマキリ怪人と九州男児が戦っているのを2万箇所ぐらいで見た。バッタの改造人間と戦っているやつもいた。ニチアサか?あと道脇にデッカすぎるキノコがそびえ立っていたがこれは幻影。神話とかに出てくるサイズのやつだ。このクソクソデカデカ動物クソクソクソデカデカデカ公園は完膚なきまでに森で構成されてるので、草木や虫も無限の可能性を秘めているのだ。
帰りのクソデカバスを設計している間、曾々々々祖父母のトゲトゲ肩パットで永遠に目覚めない子どもなどを信じられないくらい視姦しながらふと、このアルティメットクソデカ園はありとあらゆる子どもの数百本ある体力ゲージを限界を超えてすり潰すためにハチャメチャクソデカく作られているに違いないと確信した。神をも屠るパワーを持つ子どもでもここで半年遊ばせたら跡形もなく消滅するだろう。
ともあれ、クソヤバい子どものカモシカのような足で命を燃やして飛び回っても1000パーセント踏破できないこの超スケール、もしめちゃくちゃ小さい頃(胎児)に来ていたらとんでもなくありえない超大冒険のスターライトステージに見えていたということに疑いの余地はない。クソデカ埼玉県に生まれる全ての生命が羨ましすぎて憤死した。
クソデカ埼玉こども動物自然公園はとにかく異常に偏執的にクソデカい。クソデカいゆえに夢がある。飽きすぎて無になるほどクソ緑を全身に浴びまくって、太陽の下でザックザクに揚がりすぎて鋭利な刃物になったポテトや屋台そのものの焼きすぎそばすぎをドライすぎるゼロどころか虚数で流し込んで、動物と動物と動物と動物と動物と動物と動物と動物と動物の間と間と間と間をギッタンギッタンのグッチャグチャになるまで歩きまくりたすぎてそれ以外のことは何も考えられない日には、絶対に訪れろ。これは命令だ。
埼玉県こども動物自然公園で、今日クォッカの赤ちゃんが生まれたらしい。記念といってはなんだが、記憶を頼りにこのクソデカ動物園について語ろうと思う。
ゲートをくぐるとまず馬と人の小さなオブジェが見える。とりあえずそこがスタート地点のようなのでそこまで歩く。が、思った以上に遠い。やっと着いたと思ったら、件のオブジェがクソデカくそそり立っている。全然小さくない。開幕、遠近を狂わされているのだ。
このこども動物自然公園はあらゆる道が横に広い。そして、高い建物などがないので段々と距離感が掴めなくなっていく。人馬オブジェの先へ進むと、居酒屋のお通しのようにぽんとヤギが展示されていた。ここまでたぶん数百メートル。ようやく初めての動物を見た。
園の案内図を見る。敷地がクソデカくてまず笑ってしまう。ほぼ全面緑のマップに、時々思い出したように動物のアイコンが点々と表示されているありさまだ。動物アイコンが集中しているところは2箇所ほどあって、それぞれ東園・北園と呼ばれていた。まず東園を目指す。
案内図近くの売店で焼きそばを買って、ちょうど食べ終わる頃に東園についた。東園は有袋類が多い。コアラ舎では、飼育室の手前で山盛りのユーカリが「明日あたえるユーカリです」というパネルと共に展示されていた。フォントも相まってじわじわくる。
カンガルーのエリアへ行くと、クソデカ敷地の柵に入った何匹ものカンガルーを目にすることができた。しかし、なぜか「この先カンガルーコーナー」という看板がそこにはある。カンガルーなら今見ているが?と首を傾げながら先に進むと、現れたのはさっきの柵の内側に入る扉だった。え?????
なんと、このクソデカ動物自然公園ではカンガルーと同じ柵の中、マジで何の隔たりもない小道を歩くことができるのである。ふと見渡すと芝生のちょっと先にカンガルーが群れをなして立っており、バグった奈良公園みたいになっていた。人間とカンガルーを同じ柵にブチ込むことのできるこの大らかさ、さすが埼玉県こども動物自然公園である。懐もクソデカい。
次は北園に向かう。北園には乳牛などがいる。けっこう歩いたと思ったタイミングで「乳牛まで180m」という看板が出てきて笑ってしまった。緑に囲まれたちょっとやんちゃな坂を登る。近くの子どもがはしゃいで走ったあとすぐに体力を使い果たしてド低速になっていたのが印象深かった。
ようやく北園につくと、プレーリードッグやミーアキャットなどが間近で見られるエリアに来る。ペンギンやマヌルネコもいる。小さなネズミ種を集めた展示館などもある。ここまで坂を登ってきた健闘を讃えるように珍しい動物たちが次々現れるのである。ちなみに別のエリアで見たはずのシロフクロウをこの北園でも見ることができた。フクロウの補給ポイントが多くてありがたい。
北園から人馬オブジェに戻るまでの道では、カマキリと男児が戦っているのを2箇所ぐらいで見た。バッタと戦っているやつもいた。チャンピオンロードか?あと道脇にウソみたいにデッカいキノコが生えていた。漫画とかに出てくるサイズのやつだ。このクソデカ動物クソデカ公園はほぼ森でできているので、草木や虫もバリエーション豊かなのだ。
帰りのバスを待つまでの間、親の肩で寝ている子どもなどを見ながらふと、このクソデカ園は子どもの体力ゲージを限界まで削るためにクソデカく作られているのかもしれないなと思った。どんなに元気フルスロットルの子どもでもここで半日遊ばせたらクッタクタになるだろう。
ともあれ、子どもの足でどれだけ力一杯走っても簡単には踏破できないこのスケール、もし小さい頃に来ていたらとてつもない冒険の舞台に見えていたかもしれない。埼玉県に生まれる子どもが羨ましい。
埼玉こども動物自然公園はとにかくクソデカい。クソデカいゆえに夢がある。飽きるほど緑を浴びて、太陽の下でザクザクに揚がったポテトや屋台風の焼きそばをドライゼロで流し込んで、動物と動物の間をクッタクタになるまで歩きたくなった日には、ぜひ訪れてみてほしい。
一般的な作劇として、不愉快なイベントは、単体だと「単に不愉快なだけ」で終わるので、作品のテーマ性として発展させ、そこに意味を持たせるわけです。...
あまり関心を持ったことのないポイントなので、勉強になります。僭越ながら、グロテスクさが感じられうる示唆的なシーンが、人物の行動の結果などに繋がって作品としてのテーマになるまで昇華されていなかったとしても、芸術的な意味はありうるのでは、と考えています。例示していただいたアイデアのように正面からこれをテーマに据えてしまうと、作品自体の目的が”説教”になってしまうので避けたが、示唆したいことは確かにあった、という可能性です。別の方の増田を引用します。
動物園から人と動物の関係についてあくまで人は管理者であって友達ではないという指摘があった。人の都合で檻に閉じ込めている現実から目を背けるべきではないとのこと。学習や研究、人の活動によって個体数が減らされてしまった種の保存など、人が人のために他の種を管理しているのだから、あまり、動物と人が対等に取り扱うことは教育上望ましくない。2期では是非そういった視点も踏まえ、動物同士がフレンズでありヒトは違うという体でお願いしたい。
動物園から制作陣への要求… もちろん、そのような体で書かれた冗談でしょうが、こういう視点は制作側にあったのかもしれません。
それを仰るなら、けもフレ1の黒いセルリアンとの戦闘でも多くのフレンズは野生解放していないです。ところで「野生解放を言わない」ということには、けもフレ2制作陣の明確な狙いがあると思います。けもフレ2では他にも「ちほー」や「フレンズ」といったタームがほとんど言われません。推測ですが、これは一般受けを狙うために途中から入ったりぼーっと観てる視聴者やキッズが引っかからないように配慮したものだと思われます。逆に明確に説明するようになったものもあります。キャラクターの性格です。「私、体が丈夫なだけじゃなくて記憶力もいいので」「私は用心深いから」… などなど、けもフレ2ではキャラクターが自分の性格を自己申告します。作劇技術的な難度という点ではこのような表現はおそらくレベルが低く、エレガントでもないのでしょう。しかしそれが直ちに作品として悪い、ということにはならないでしょう。解りやすいというメリットは確実にあります。あざといくらいハッキリ言うので、おそらくここを起点に自分でも動物の性質を調べてほしい、という願いも込められているのかもしれません。
ケムリクサに置いて、内面と世界がシンクロする際は、ケムリクサというギミックを使っており、SFとしての筋は通っていると考えています。ここでいうリアリティラインは高めです。
そうでしょうか。最終話の赤い木との戦いで、りんの本体の葉から水がなくなって戻ろうというときに、ミドリの核の枝と桃ちゃんを継承しました。枝を肘につけてパワーアップして復帰しますが、しかしミドリの枝にケムリクサを修復する機能があったのでしょうか。ミドリの葉は状態を治す・保つ事ができます。わかばの腹に空いた穴や、りんの欠けた手足を補ったことはありますが、ケムリクサそのものを治したことはないです。もしケムリクサをも治せるなら、赤い木に指して倒せるのと矛盾してしまうと思います。かといって桃ちゃんで自分を分裂させたという可能性もありません。桃ちゃんは、(姉妹では)りなだけが使える葉だからです。また同じく最終戦で、りんは、りりの最後の記憶を取り戻しますが、あのとき記憶のケムリクサが突然発動したのはなぜでしょう。直前に二回わかばが開いていますが、二度ともロック解除が必要でそれは、りくにさえできない、わかばだけが可能な手続きだったはずです。りんは最終戦終了後キャッチした、わかばとともに船のそこに落ちますが、そこで突然ミドリの光の柱が伸びて二人の怪我を修復します。でもミドリは葉も枝も戦闘で使い切ったのでは。リアリティラインが低い… 内面の高まりがなし崩しに外面に出てしまう。お話を頂いて頭に浮かんだのはむしろこのシーンでした。ケムリクサを万能の舞台装置、あらゆる話の粗を吸収するスポンジと捉えるなら、けもフレ2のセルリウム&サンドスターをスポンジにすれば全て解決では。
悪意のあるキャラがいない、という点では「優しい世界」を継承しているでしょう。りんがわかばを警戒するのは自然なことですし、それ以外は全員が素直で、また世界破壊の原因も優しさに起因し、わかりやすい「悪役」はいない
「優しい世界」の解釈が俺らふたりの間で異なっているように思います。けもフレ1で、カバは新参のかばんちゃんに「パークの掟」を諭しつつも、去りゆく二人に何度も声をかけて心配しているさまを示す。ツチノコは地下迷路で口の悪い闖入者を疎んじつつも、(諦めた体で)二人に協力して出口を探すわけです。最後には絶滅していなかったヒトへの安心の気持ちを口にする。サーバルはかばんちゃんを、「かばんちゃんは…したかったんだよね?」のように道中何度もフォローを入れる。このような誰かを深いレベルで思いやる描写があちこちにあり、一方で人物間の衝突はあっても形骸化した、表面的なものでしかなかった。全面的に留保の余地なく安心できる世界観がけもフレ1の「優しい世界」としてみんなに愛された、そう考えています。しかしケムリクサではもう最初から、わかばは異物扱い、いつでも落とせる、落としてやろうのような脅迫的な発言が毎回あるわけです。もちろんおっしゃる通りそこには合理性があるんですが、しかし、りくさん、あなたは最後散り際にまで「こんなやつのどこがいいんだ」的なdisりをくれる必要はあったのか、あれ実はあなたも好きだったんで吹っ切るために強がったんですよね、などと視聴者の俺は解釈していますが、しかし「優しい世界」では全然ないでしょうということは主張しておきます(でもりつ姉はオアシス)。
設定や伏線において、けもフレ2に不備があるように思えるのは錯覚で、実態は作品の狙いと得意な表現の範囲の違い「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」、で済むレベルなのではと考えているのです。むしろ楽しむことを妨げる、エゴイズムという意味での悪意は、視聴者の俺らの側にあるのではないでしょうか。拝読した記事には総論としては同意で、いわゆる「ハンロンの剃刀」は強力なのですが、作品を論評するときに必要な環境、安心して自分の意見を言える状況、とは現状はかなり食い違っているように思います。この空気の中での分析は、かなり注意深く精査しなければ容易に流されて最悪のケースでは誰かの筆を折らせる結果になりかねない、そう思って眉に唾をつけ考察しています。
例えば一期のメインキャラが、十数人として、それが全員、根が素直で優しいとするなら、「根が素直で優しいキャラを十数体、キャラを立てて描き分ける」ことになるわけで、えらいことです。もちろん、素直なやつばっかりじゃないですが、それにしても想像すると怖くなりませんか。
ううむ、言われると、けもフレ1のサーバル・コツメカワウソ・プレーリードッグはみんな似てはいるものの、ごくごく微妙にキャラが違っており、おそらくセリフに落としても区別がついてしまうでしょうね。制作陣の構成についても明るくないですが、この功績は吉崎観音さんの成果?
給料は今高いけど、遊べるほどじゃないし
彼女どころか友人もいないし
学生の頃から、自分をごまかして頑張る理由を作ってきたけど、なんか本当に何で頑張ってるのかわからないし
親もいい年だし
そろそろもう消え去っても良いんじゃないかと思うんだけど
けものフレンズ2期が見れないのは困る
困る
たつきいいいいいいいいいい
___
じゃあお言葉に甘えて、覚えてる分だけ叫ぶ
サーバルあああああああちゃん
かばんちゃーーーーーーん
ボスううううううううううう
シマウマあああああああああ
カバああああああああああ
アライさあああああああん
フェネックううううううう
オセロットおおおおおおお
マレーバクううううううう
フォッサああああああああ
インドゾウううううううう
アクシスジカあああああああ
ミナミコアリクイいいいいいい
クジャクうううううううう
タスマニアデビルうううううう
エリマキトカゲえええええええ
オカピいいいいいいいいい
コツメカワウソおおおおおおお
トキいいいいいいいいいいい
アルパカあああああああああ
ショウジョウトキいいいいいい
スナネコおおおおおおおおお
ツチノコおおおおおおおおお
アメリカンビーバああああああ
オーロックううううううううう
オリックスううううううううう
ライオンんんんんんんんんん
アルマジロおおおおおおおお
アフリカタテガミヤマアラシいいいいいいい
カメレオンんんんんんんんん
シロサイいいいいいいいいい
ヘラジカあああああああああ
ハシビロコウうううううううう
ツキノワグマああああああああ
アフリカオオコノハズクのハカセえええええええ
マーゲイいいいいいいいいい
イワトビペンギンだぜのイワビーいいいいいいいい
フンボルトペンギンのふるるうううううううう
コウテイペンギンのコウテイいいいいいいいい
ギンギツネえええええええええ
キタキツネえええええええええ
カピバラああああああああああ
タイリクオオカミいいいいいいいいいい
アミメキリンんんんんんんんn
キンシコウううううううううう
ヒグマあああああああああああ
リカオンんんんんんんんん
マイルカああああああああああ
うおおおおおおおおおおおおお
__
たぶん同年代だと思うんだけど
まぶしい
オーロックスは打ち間違いです
未だにフルネーム覚えられない子がいる
でもアフリカタテガミヤマアラシ覚えたし、全員いけるいける
参考:http://www.oreilly.com/animals.csp
http://anond.hatelabo.jp/20170309234455
ようやく港にたどり着いたカバン一行。そこに待ちかまえていたのは海坊主もかくやという超巨大セルリアンであった。
このセルリアンこそは全人類のなれの果て。ひとつの究極生命に統一される過程の姿だ。重くなり海に沈んだセルリアンはやがて海溝に沈み、プレート運動で火山から噴出する新しいサンドスターとなる。その一部は他のセルリアンに再吸収されて統合を促進し、一部はフレンズとなった。
ぺぱぷの聞いた最後に目撃されたヒトは魂の安寧を求め、自ら望んでセルリアンに呑まれていったのだ。
気の遠くなるほど久しぶりに生きたヒトを発見した超巨大セルリアンは大量の触手を放って彼女に襲いかかった。
「カバンちゃーん!」
「食べないでくださーい!」
彼女は身悶えしながら超巨大セルリアンに飲み込まれていく。えろい。
そのとき、ボスに異変が起こった。セルリアンに意識を統合されることに疑問を持っていたあるヒトが、ラッキービーストの内部に自らの意識を封じ込めていた。その意識がヒトの危機に当たって蘇ったのだった。
「捕まって!」
緊急操作によって速度制限の解除されたジャパリバスは急加速をみせ、超巨大セルリアンに体当たり。
「うみゃみゃみゃみゃーん!」とサーバルは信頼のジャンプ力で触手を足場にカバンのところまで飛びつき、彼女を青いゼリーから引き抜いた。
お姫様だっこで屋根に着地した二人を乗せて、ジャパリバスは内陸に向けて猛ダッシュで逃走する。
超巨大セルリアンは千載一遇の獲物を追って、ついに上陸。ジャパリパークを混乱の渦におとしいれる。
だが、逃げる二人に気づいた恩顧のフレンズは彼女たちを救うため、果敢にもセルリアンに立ち向かう。
ヘラジカが叫ぶ。
「突撃あるのみ!」
「こういうのはわざと通してから後ろを攻撃するんだよー」とライオンが有言実行。
「私の仲間たちよー」
「みなさんが!」
思わずバスを引き替えさせようとするカバンを引き留めたのは、ハカセと助手であった。
「こっちに急ぐのです」
「用意していたのです」
「我々は賢いので」「ので」
フレンズが貴重な時間を稼ぐ間に、アフリカオオコノハズクに導かれたジャパリバスは懐かしい道を引き返し、サバンナまで戻ってきた。
そこではフェネックとアライに案内されたプレーリードッグとビーバーとスナネコがツチノコの指導のもと、ある遺物を掘り出していた。
「小生に任せるのであります」
「んーと、この丸太をテコにして……」
フレンズたちの共同作業で地上に飛び出したのは、サンドスターを収束して発射する大砲だった。ハカセたちが説明する。
「この引き金はヒトにしか引けません」
「これであのセルリアンを倒すのです」
「ヤツの石は内部にある。ピット器官で狙いを付けるから、おまえは合図で撃て」
急展開に目を白黒させながらも、仲間たちを助けるため、カバンは大砲のトリガーを握った。しかし、日が陰るほどの巨体に迫られ、緊張してしまう。カバとジャガーが必死で、巨体の足を鈍らせていた。
「サーバルちゃん……」
笑顔をみせるサーバルの顔も実はこわばっていた。それに気づいたカバンが今度は相棒をリラックスさせるために笑った。
「「最高のコンビだもん」」
「そこだ、撃てーっ!」
照準の終わったツチノコの号令にあわせて、カバンとサーバルは大砲の引き金をしぼった。サンドスターの奔流が超巨大セルリアンの影をつらぬき、かつてヒトだったものの集合体は自重で崩壊するかのごとく、涼しげなブロックに分解されていった――。
「すごーい!きれー!!」
緊張感のない感想にみんなして笑った。
その後、大量のヒトの魂が解放されたことでジャパリパークにはヒトが生まれるようになった。しかし、同胞と一緒に暮らすようになっても、カバンの一番の友達はサーバルのままであったという。
その特徴は体の後半を地面にしっかりと固定し、
体の前半を高くもちあげる動作にある。
ウンコほどであることから、彼らは糞座高蛞蝓と呼ばれているのだ。
必ず現れ、粘液の乾いた這い跡を残していくのであった。
ありそうでなかったのでつくった
S+
S- セルリアン(青・大) オーロックス アラビアオリックス
A+ ジャガー サーバル シロサイ オオアルマジロ ニホンツキノワグマ セルリアン(赤・中)
A- アクシスジカ オセロット アフリカタテガミヤマアラシ トムソンガゼル アルパカ・スリ
B+
B- フォッサ タスマニアデビル
C スナネコ コツメカワウソ オグロプレーリードッグ クジャク
D+
D セルリアン(青・小) かばん パンサーカメレオン エリマキトカゲ
※同ランクでは左のほうが強い
・6話まで
かばん < セルリアン(青・小) < サーバル < セルリアン(青・大) < サーバル+かばん < カバ
サーバルちゃん「あれぐらいならやっつけられるんじゃない?」より
パンサーカメレオン ≦ かばん << シロサイ ≦ サーバル
オーロックス+アラビアオリックス = オオアルマジロ+シロサイ(+かばん)
http://www.nicovideo.jp/watch/1484126967
http://www.nicovideo.jp/watch/1484628320
http://www.nicovideo.jp/watch/1485316826
http://www.nicovideo.jp/watch/1485847586
「塩村文夏さんの『恋のから騒ぎ』での活躍」http://anond.hatelabo.jp/20140625000320の元増田です。
続きを書く予定だったんですが、とりあえず思いっきり話はそれます。
『恋のから騒ぎ』のミーアキャットさんの名前を書いたのですが、はてなブックマークでid:meerkat00さんから「そのミーアキャットは私ではないです。念のため。」というコメントをいただきました。
で、アイコンを見るとなんか猫っぽいじゃないですか。…猫?
ミーアキャットはキャットとはいっても猫ではありません。では何なのかというのは知らなかったので調べてみると、マングースの仲間なんですね。
じゃあなぜキャットなのか。
犬じゃないのにプレーリードッグ、みたいな感じなのかと思ったら、調べてみると意外なことがわかりました。
語源は、アフリカーンス語←オランダ語←サンスクリット語とたどれるみたいなんですが、誤解があったようで、借りた言葉はミーアキャットを指す言葉ではなかったのです。
語源は何かというとサンスクリット語の「摩斯咤(マシタ)(markata)」で、意味は猿。これが一方ではミーアキャットになり、日本では猿の別称である「マシラ」に変化したようです。
どうやら村上は、この本のアメリカ版をそのとき初めて目にしたらしい。
日本では『1Q84』は2年を掛けて3巻に分かれて発表された(村上は2巻目で一度終わりにしたが、一年後にもう数百ページ付け足したのである)。
アメリカでは、一巻のモノリスとして組まれ、秋の読書イベントに発表が設定された。
YouTube ではきらびやかなトレーラームービーを見ることができ、
一部の書店では発売日10月25日に深夜営業が予定されている。
Knopf は英語訳を急がせるため、二人の訳者に手分けして翻訳をさせた。
村上にこれほど長い作品を書くつもりがあったかと尋ねると、なかったという。
これほど長くなることが分かっていれば、書き始めなかったかもしれないともいう。
彼はタイトルや冒頭のイメージ(この作品の場合は両方だった)が浮かんだ時点で、机の前に座り、
毎朝毎朝、終わるまで書きつづけるのである。
といっても、この大作はごく小さな種から生まれた。
村上によれば『1Q84』は、人気を博した彼のショートストーリー『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』(英語版では5ページ)を増幅させたものに過ぎないという。
「基本的には同じなんだ」と彼は言う。
「少年が少女に出会う。別れてしまった後、二人は互いを探し合う。単純な物語だ。それを長くしただけ」
筋書きを要約することすら、少なくともこの宇宙で人間言語をもって雑誌の1記事で書くとすれば不可能だ。
青豆という少女が、タクシーに乗って東京の周縁に掛かる高架の高速道路を行く。
そこで渋滞に巻き込まれ、身動きがとれなくなる。
チェコスロバキアの作曲家レオシュ・ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」だ。
「渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ」と村上は書く。
運転手は青豆に変わった迂回路を提案する。
高架高速道路には非常用脱出口が設置されている、そして、普通の人には知られていない脱出口への階段がある、と彼は言う。
本当に絶望しきっているのであれば、そこから地上に降りることもできる。
青豆が考えていると突然、運転手が村上一流の警告を口にする。
「見かけにだまされないように」と彼は言う。
降りていけば、彼女にとっての世界は根底から変わってしまうかもしれない、と。
そしてわずかではない違いとして、月がふたつあった(ちなみに彼女が遅刻した約束というのは暗殺の約束であったことが明らかになる)。
そしてその世界にはリトル・ピープルと呼ばれる魔法の種族がいる。
彼らは死んだ盲の羊の口(詳しく書くと長くなる)から生まれ、オタマジャクシの大きさからプレーリードッグの大きさにまで育ち、「ホーホー」と合唱しながら空中から透明な糸を紡ぎだして「空気さなぎ」と呼ばれる巨大なピーナッツ型のまゆを作る。
この本ではなかばあたりまで、このように浮世離れしたした超自然的ガジェット(空中に浮かぶ時計、神秘的なセックス麻痺など)が繰り出されてくるので、
私は行間にエクスクラメーションマークを置きたくなった。
この数十年、村上は自身が「本格小説」と位置づけるものを書こうとしていると言い続けてきた。
一例として彼は『カラマーゾフの兄弟』を挙げて目標にしている。
その試みこそが、三人称の幅広い視点から描かれた巨大小説『1Q84』であるように思われる。
怒り、暴力、惨事、奇妙なセックス、奇妙な新現実を抱えた本であり、
偶然ぶつかることになってしまった悲劇にも関わらず(あるいはその悲劇のなかでこそ)、
ひとりの人間の脳に詰め込まれた不思議を提示して、本書は読者を驚嘆させる。
驚きを覚える本の数々をこれだけ読んだあとでもなお、私は村上の本で驚かせられた。
そのこと自体が驚きだったと村上に伝えると、彼はいつものようにそれを受け流し、
自分の想像力を入れたつまらない花瓶でしかない、と言い張った。
「リトル・ピープルは突然やってきた」という。
僕は物語の虜だった。選択したのは僕ではなかった。彼らが来て、僕はそれを書いた。それが僕の仕事」
明晰夢を見ることがあるかと尋ねると、
覚えていられたことはない、という。
目覚めたときには消えている、と。
ここ数年で覚えていられた夢は一度だけ、それは村上春樹の小説のような繰り返す悪夢だったという。
その夢の中で、影のような未知の人物が「奇妙な食べ物」を料理してくれていた。
食べたいとは思わないが、夢のなかでは彼はそれに興味をひかれていて、まさに一口入れようというとき目が覚めた。
2日目、村上と私は彼の車の後部座席に乗り込み、彼の海辺の家へ向かった。
運転したのはアシスタントの一人である身ぎれいな女性で、青豆よりわずかに若かった。
私たちは東京を横切り、青豆が『1Q84』で運命的な下降をした高架高速道路の本物へと向かった。
カーステレオではブルース・スプリングスティーンがカバーした「Old Dan Tucker」がかけられていた。
車中で、村上は冒頭のシーンを思いついたときに考えていた緊急脱出口のことを持ち出した(青豆と同じように実際に渋滞に巻き込まれていたときにそのアイデアを思いついたという)。
実際の高速道路で、小説中であれば青豆が新世界に向けてくだっていったであろう場所を正確に特定しようとしたのである。
「彼女は用賀から渋谷に行こうとしていた」車窓をのぞきながら彼はいう。
「だから多分このあたりのはずだ」
と言ってこちらを向いて念を押すように
「それは現実じゃないけれど」
と付け加えた。
それでも、彼は窓の方に戻って実際に起こった出来事を話すように続きを語った。
キャロットタワーと呼ばれる、およそ巨大なネジが刺さった高層ビルのような建物の前を通り過ぎた。
村上はそこでこちらを向いて、もう一度思いついたように、
「それは現実じゃないけれど」と言った。
日本に滞在した5日間のあいだ、私は村上の東京にいたときとは違って、実際の東京で落ち着くことができなかった。
村上の東京、それは本物の東京を彼の本というレンズで見たときの姿だ。
客席の上の方で二塁打が打たれるたびに注目した(私がもらった天啓にもっとも近いものは、枝豆を喉につかえさせて窒息しかけたことだった)。
また、私はローリングストーンズの「Sympathy for the Devil」とエリック・クラプトンの2001年のアルバム「Reptile」をかけながら、神宮外苑という村上お気に入りの東京ジョギングルートをゆっくりと走った。
私のホテルは新宿駅に近い。そこは『1Q84』でも重要な役割を果たす、交通機関のハブ的な場所だ。
登場人物たちが好んで使う集合場所、中村屋で私はコーヒーを飲み、カレーを食べた。
そしてフレンチトーストとタピオカティーの向こうで東京人たちが交わす会話に耳をひそめた。
そうしてうろつくあいだに、村上小説が極度に意識しているものごと、すなわち、偶然かかる音楽、上昇と下降、人々の耳の形といったものを、私も極度に意識するようになった。
実際、彼の小説中の説明をもとにして料理本を出版した人もいるし、
登場人物が聞いた音楽のプレイリストをオンラインでまとめている読者もいる。
村上は、明らかに喜んだ様子で韓国のある会社が西日本への『海辺のカフカ』旅行を企画したこと、
ポーランドの翻訳者が『1Q84』をテーマにした東京旅行のガイドブックを編集していることを教えてくれた。
村上は読者から彼が生み出したものを現実世界で「発見」したという便りを受け取ることがよくあるという。
たとえば、彼が作り出したと思っていたレストランや店が東京に実際ある、など。
ドルフィンホテルというのは『羊をめぐる冒険』で村上が生み出したものだが、札幌にはそれが複数ある。
『1Q84』の発表後、ありえない名字として作り出したつもりだった「青豆」という名字の家族から、村上は便りを受け取ったという。
ここでの要点と言えるのは、現実に漏れ出す虚構、虚構に漏れ出す現実というものが、
村上の作品についてはほとんどの場合、作品そのものだということだ。
作家活動の初期には、「日本人という呪い」から逃れようとしているとさえ語った。
その代わり、十代の若者として、西洋の小説家の作品を貪ることによって、文学の感受性を培った。
その中にはヨーロッパの古典(ドストエフスキー、スタンダール、ディケンズ)もあったが、
彼が生涯を通して繰り返し読んだのは、とりわけ20世紀のアメリカのある種の作家たち、
レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーテ、F. スコット・フィッツジェラルド、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガットなどだ。
処女作に取りかかったとき、村上は奮闘し、標準的でない解決法に行き当たった。
そうやって自分の声を獲得したと彼は言う。