はてなキーワード: インパクトとは
独VW、国内で大規模人員削減し3工場閉鎖へ 労組幹部表明 - ロイター
https://jp.reuters.com/business/autos/CSNYEOUHQBMNJLFKBR7UTLJQNY-2024-10-28/
はてな界隈でもこれはかなりのインパクトがあったようで、まさか一度に3箇所のドイツ国内工場の閉鎖を検討しているとは誰も予想ができていなかったと言わざるを得ない。
VWの辛酸は無茶な自然環境保全計画政策が欧州連合圏で採択されたことによって、それら政策の法的な制限下で企業運営しなければならなくなったVWが、中国の競合する電気自動車伸長と価格競争で苦境に立たされ、一気に採算性を落とし販売台数が振るわなくなった結果、それらEUおよびドイツ政府の政策責任をVW経営者と被雇用者が取らなければならない事態に陥ってしまった。
ドイツでのVWと似たような存在感を放つトヨタを擁する日本の労働者階級として気になるのは、ドイツの社会保障費に関する持続性問題がどうなってしまうのか?ということだ。
調べてみると、当然のようにドイツは日本と似たような社会保障制度を持っている、というか日本はドイツの社会制度を大いに参考としており、老齢年金や遺族年金、障害者年金などの制度があり、社会保険も扶養者が社会保険料を支払っていれば被扶養者も加入判定となり、更には社会保険料の負担額も所得に応じた調整がある(ソース:ドイツ連邦年金保険組合)。
政府が誤った政策を取ると完全に明日は我が身と戦々恐々とするが、他山の石として社会保障費に関する持続性問題へ国内自動車産業がどのように影響するのか?を検討してみたいと思う。
物凄くシンプルな話だが、ロイターが報道しているようにVWの3工場で数万人規模の解雇がVW本体として起きると、そこには当然ながら自動車の大幅な減産が発生するので、自動車部品や周辺サービスを供給する関連企業へ大幅な減産は波及し、これら関連企業の雇用も危ぶまれる・・・というか危ぶまれると言う表現ですら日和見すぎであり、解雇は必至だ。絶対にクビ切りをやる。
機序を改めて説明するまでもないとは思うが確認のため説明すると、ドイツ国内での解雇は自動車業界と、例えば工場周辺にある飲食業、労働者の作業着を供給する服飾業、小売業、広告業、ゲーム娯楽産業などなど様々な業界へも影響するため、ドイツ国内での解雇は数十万人、下手すると百万人規模に膨れ上がるのは想像に難しくない。
ここから何が起こるかと言えば、税収や給料から控除されていた社会保険料や年金の大幅減少であり、即ち社会保障費に関する持続性問題が加速度的に現実味を帯びてくる。しかも引退後まで逃げ切れると思っていた世代にすらその現実は重くのしかかる。
これを改めて確認すると「本当にヤバいな・・・」と生唾を飲む思いだ。
逆を考えてみよう。これまで豊かと見られていた超大手企業VWと関連周辺企業、地域の様々な業態産業、それら従業員はなぜ豊かさを手に入れられていたのか?
それはVWが外貨を獲得し続けていたからだ。企業の売上、従業員の給料、収められる税金や社会保険料、そして年金の原資はVWが稼ぎ出した外貨だった。
EUとドイツ政府の誤った政策によりVWの外貨獲得は阻害されてしまい、3工場閉鎖をVW経営者ではなく労働組合が検討し始めるという自体にまで陥っているわけだ。
そうつまり、トヨタを擁する日本も外貨獲得を阻害する誤った政策が政府により実行されてしまうと給料や雇用どころか、社会保障費や年金の持続性を更に危うくするような、VWの危機的な現状の後追いをする可能性が非常に高い。
日本では直前の衆院選2024で、与党自公の議席が大幅に減って衆院議席過半数を割り、立憲民主党や国民民主党、日本維新の会、その他小規模議席政党などの政策が以前よりも通しやすくなった。
これは政策立案や可決などで与党自公の横暴を防ぐ非常に良い状態だと評価しているものの、VWが苦境に立たされて社会保障費の持続性が悪化する原因である外貨獲得政策について野党がどのようについて考えているのか?というのは確認しておくべきだ。
例えば、就職氷河期世代は年金などへついて「自分たちの引退頃には受給年齢が引き上げられ減額される」と予測している人が大半だと思うが、ここにVWのような外貨獲得阻害の状況が付加されたらどうなるかと言えば、前述のような予測見通しすら甘い考えになる。
今の20代の予測のように「自分たちの世代は年金貰えない」のが就職氷河期世代へも降りかかることになるのだ。
さて、前述の外貨獲得政策について野党がどのようについて考えているのか?から先ずは立憲民主党の衆院選2024の公約を確認したいと考えたが、正直に言ってこれを高く評価するのは非常に困難だ。
単一ページだけを見て評価をしてしまうのは申し訳ないと考え、立憲民主党政策集2024 経済政策など立憲民主党公式Webサイトをくまなく読んだが、立憲民主党の思考は完全に内需へしか向いておらず、何なら企業の資金調達の要であり、今や年金を原資として金融市場で運用することで年金の持続性を高めている金融市場へ対して冷水を浴びせる金融所得課税強化まで検討しており、立憲民主党支持者は現在の政策の他に「あまりにも内需へ向きすぎてはないか?外貨獲得をどうするのか?」を立憲民主党へ問わなければならないと思われる。立憲民主党の成長ポイントだな。
続いて国民民主党の衆院選2024の公約を確認すると、今一歩足りない気もするが立憲民主党よりは世界を見ており、より将来の社会保障の持続性について不安感の強い20代の若者から比例票が流れたのも納得できる部分があり、表現として適切なのか検討する必要はあるものの、企業とべったりな自民党と内需へ振りすぎている立憲民主党の間の子のような性質の政策を取っている。
そして日本維新の会の衆院選2024の公約を確認するが、日本維新の会は立憲民主党とはまた方向性の違う内需へ向きすぎな政策を取っており、特に外国人へ対して厳しい目を向けているようで立憲民主党は平等を訴えがちだが日本維新の会は日本人優先、ポピュリズム政党の面目躍如と言ったところか。外貨獲得に関しては立憲民主党とどんぐりの背比べなのでどちらが優れているという話はない。これも日本維新の会の成長ポイント。
そして、日本共産党やれいわ新選組、日本保守党、参政党なども確認したが、言うは及ばず立憲民主党や日本維新の会よりも強力に内需へ注力するどころか賃上げや消費税減税を訴えつつ企業負担の大きい内部留保課税、金融所得課税などをするという国内資本を食い潰すことしか考えていない経済観の有様で、どうやって社会保障の持続性を担保するのか本当に謎だ。
以上のことから、野党は現在の与党自公が過半数を取れていない衆議院で自民党と政策について取引する際、自民党が外需の刺激や輸出企業の支援を法案として打ち出そうとするときは邪魔をせず、例えば自衛隊へ補正予算を付けるなんていうときに夫婦別姓法案の可決を飲むのであれば協力するなどの動きをしたほうが良い。
もしも、自民党が外需の刺激や輸出企業の支援を法案として打ち出した際に、野党がそれと取引をしようとするということは我々国民の社会保険や医療費、年金を人質にしていると同義であり、最悪の場合はドイツVWのような状況となってしまうので、こういう野党の動きには国民一丸となって野党を非難すべきであるし、野党も外貨獲得をもうちょっと考えようよと国民は提言するべきだ。という話でこのエントリを締める。
増田の人気エントリって9割鬱状態の人が書いてそうなんだけど!
え、いや、ネガティブすぎん?
ネガティブがネガティブに引きずられて鬱誘導されて負のサイクルに陥ってない?
なんかもっとみんなポジティブシンキングしない?
ポジのサイクル広げていこうぜ!
それは史実事件の凄い暗い洋画を見ること。それでどっかで話したりSNSで感想書くこと。
なんか凹みそうって思うじゃん?これがねぇ全然凹まんの。親戚死んで落ち込んでても見れんの。
たしかに現実には辟易するけど気分はそれほど落ち込まないんだよね。なんでだろうね?わかんないや。外国だからかな?
逆にハッピーな映画は疲れてるときマジで疲れるから見ないほうがいいよね〜。
1969年の北アイルランドで起きたプロテスタントとカトリックの暴動が起こる最中にいた少年の話だよ!キリスト教関連にはまったく疎いから全然知らんかったよ。検索したら公式に人生賛歌って書いてたけどそんな明るくないから宣伝は笑うよね。白黒映画なのがオシャレ〜って感じで見るのもありよりのあり!
キリスト教のコミュニティ村で起こった大規模なレイプ事件の映画だよ!これ元は南アメリカの事件だよね。キリスト教関係だったかな?まあそこは置いといて。男たちが事情聴取されにいった数日間の猶予の間に女たちがこれからどうするのか語り合うよ!ポリコレガーとか云々の前に見てみてよ!激ヤバすぎて口開けながら見てたよ!
紹介するなら最近の映画にしようかと思ってたんだけど、暗い史実題材映画を思い浮かべたら2012年の映画を思い出したよ!インパクトが強いね!ゲイカップルがダウン症の虐待児を引き取ろうとするよ!注意だけどあんまり死にたい衝動が強いときには見ないでね!
これはめちゃくちゃ史実だけどめーっちゃひどい話!!巨悪に立ち向かう正義が勝つ話だからスカッとするんだろうなーと思ってみたんだけど全然だね。起きてたことがヤバヤバでゲロ吐きそうになるけど吐かなかった!これ昭和後期の話かよ?アルゼンチンやべぇな!アルゼンチン頑張れよ!ってなる映画だよ!
世の中には二種類の人間がいる
そもそも触れていない者を含め後者となった人間は――明らかに過言だが――人生を失敗していると俺は強く思う
前提任務がプレイ必須ではないものの広範に渡っていた点から事前に察せたことだが
世界任務や伝説任務を網羅していた熱心な人ほど受け取れた感動は大きいだろう
最新の魔神任務すらもちょいネタや考察上参照できる要素があった
運営型ゲームにおけるイベントシナリオが与える胸熱体験として極上のものであった
少なくとも自分にとってこの作品に初期から触れていて良かったという至福感を強く与えてくれたものとして5年に一度クラスのインパクトがあった
この会社がなぜヒットメーカーになったのかというのも凝縮されていたように感じる
様々な配信者を通じて何度か見返しているがホヨバ練度の高い配信者だとハナヤマという人が良かったな
あと浅瀬みやこという人も3rdどころか学園までカバーした上でオタク的実況されているので注目している
正直マグロヘッド氏とかも解説動画ばかりじゃなくシナリオ系の配信もしてほしいと思うが
練度高い人と振り返るメインやイベントシナリオは俺的にかなり需要があるのだが男性では少ないなメソ氏くらいか
シナリオ進行度が低いので理解度面の練度高いとは言えないが声優のこまちょえ配信は面白いんだよな
しかし配信を見てる暇があったらホヨバの3作ないし4作くらい追っていた方がいいので
それを全部やりつつ実況者を利用して余韻にも浸っている俺のような暇人は他にいないのかもしれない
10/27 27時ごろまでにいただいたブコメ・トラバをまとめました! お寄せいただいた知見に助けられております。ご興味のある方はぜひ。
<以下本文>
集英社「別冊マーガレット」の名編集長・小長井信昌が74年「花とゆめ」創刊編集長に就任(のちに「LaLa」「ヤングアニマル」でも創刊編集長を務める)。氏が別マから引き抜いてきた漫画家が、最初期の「花とゆめ」を支えた。
2作まとめて、令和の今でも作品が生きているな、と思わせる説明不要の名作(前者は「連載中」ではありますが)。月刊誌→月2回刊化の目玉として2作同時に連載スタート。コンテンツの息の長さに、編集長の慧眼が察せられる。
主人公のマリネラ王国・国王パタリロに次いで2番手のキャラクターはMI6少佐・バンコラン。彼は主に美少年を愛好する同性愛者で、本作はギャグマンガだが 「同性愛であることそのもの」を揶揄していない点に、作者の品格を見る。
作中に「ドイツのギムナジウムで一緒だったんです」「11月ごろ?」というやり取りを挟むなど萩尾望都ファンであることがわかる。82年アニメ化。「花とゆめ」というより白泉社として最初のアニメ化。
どの作品を推すかが分かれる。世間的には『笑う大天使』(1987~88)が有名で傑作集を出す際のアンケートでも番外編の『オペラ座の怪人』(1988)が2位だが
・作者ご本人はまったくスポ根の人ではないのに、スポーツものに傑作がある
・甲子園という制度に批評的視点を投入 と、一歩踏み込んでいる本作をリストアップ。個人的には『月夜のドレス』(1984)が好き。
メディアミックスとしてはOVAのみであるが「前世ブーム」の火付け役として爆発的な人気を誇った。※ラジオドラマあり。ブコメご指摘感謝
『スケバン刑事』のような「悪に対する憎悪」ではなく「優秀だが他人を寄せ付けない戦災孤児と品行方正な優等生との、互いに相反する感情」など愛憎の陰影が濃い大人びた作風に、当時の読者(主に10代少女)は魅了された。
「久しぶり 君には心底会いたかったよ 秋海棠」以上にインパクトのある「ひき」を未だに知らない。
こちらも説明不要の名作。菊池規子『わが輩はノラ公』(1973~78)以来人語を話すペットが出てくる作品はたびたび登場したが 「人語は解するけどしゃべれない(しかし主張はする)動物たち」が出てきたところが新機軸。よくない形で「ハスキー犬ブーム」がありました…。
※飯森広一『ぼくの動物園日記』(1972~75)はノンフィクションなので除外してます。
(このあたりで「男性読者も多い花とゆめ」時代が終焉したと思っている)
続く『ニューヨーク・ニューヨーク』(1997~98)、『しゃにむにGO』(1998~2009)と第一線で花ゆめ本誌を支えた大功労者。『赤僕』は白泉社では初めて他社の漫画賞(小学館漫画賞・1994)を受賞。ヤングケアラーの立場に置かれた小学5年生が主人公で90年代父子家庭を活写した作品となった。熱量のあるドラマ巧者。
2006年に台湾でドラマ化、2007・2011に日本、2012に韓国でドラマ化。そして今年、初のアニメ化が発表されている。日本ではプライム枠連ドラ案件で『ガラかめ』『スケバン刑事』とは違う、読者ターゲットを広く取れるラブコメが、あの「花ゆめ」から出たのだなぁと感慨。
アラサー(アラフォーですかね)のオタク女子から作品名が挙がることが多い。
2007年に「もっとも売れている少女マンガ」として、ギネスブックに認定されているそうで2001年のアニメ化・2019~21の再アニメ化・2022の劇場上映の実績は立派。十二支を背景にしたキャラ設定等、往年の「花ゆめ」らしさが光る(私見)。
(ここから、00年代デビューの漫画家が飛んでしまいます。申し訳なし…)
連載中のラインナップで、今一番勢いがあると思われる作品。アニメ化も決定。男性アイドル(キャラ)・推し活…と、イマドキの設定は鈴木ジュリエッタ「推しに甘噛み」(2022~)でも同様で、ここが今の「花とゆめ」の現在地である。
※「創刊50周年記念 花とゆめ展」ブックレットでは2人の対談が掲載されている
他
選外ってありえないですよね。すみません…。
『花のあすか組』(1987~95)が代表作でありつつ『グランマの憂鬱』(2015~)が昨年萬田久子主演でドラマ化もされている、息の長い漫画家。
1985年は角川書店(当時)がコミックに進出して地殻変動が起きた年で、そのタイミングで白泉専属ではなくなってしまった。 「別冊花とゆめ」連載「赤鼻のアズナブル」(1982~83)、別花短編だと「優しい瞳」(1984)が好き。
この方も白泉社を離れ角川へ。『ミミと州青さんシリーズ』(1979~85)が人気&今はなき「シルキー」でレディースたくさん描いてましたが、一瞬ミステリー&サスペンスものも手掛けていました。こっち路線もよかったのになぁ。増刊号掲載『異国にて』(1984)がベストですが本誌掲載作ということで『マンハッタン』を。
別マ移籍組、和田慎二の盟友。『紅い牙 ブルーソネット』(1981~86)ですよね。とはいえこのシリーズも別マからの移籍なので、あえて本誌掲載の短編を選んでみました。綾波レイみたいなタイトルですが、まさに綾波のようなお話です(ネタバレ回避)。
ヨーロッパを舞台にした華やかな作風。ほかの作品も海外モノ多し。
制服高校生ミステリものの嚆矢といってよいのでは。近い年次のデビューだと佐々木倫子よりずっと早くブレイク。メディアミックスに縁がなかったのが不思議。表題作では『消えた肖像画』が大変な秀作。1巻所収。
「花とゆめ」の「80年代後半のSFもの」のストーリーや絵柄の象徴。キャラ造形についてはフォロワーがたくさんいた記憶。
代表作はこれだってわかってるけど、白泉社作品なら私は『フラワーデストロイヤー』シリーズ最終編 『ダーク・エイジ』(1991)が好き。
1巻完結の表題作がかわいい短編集。所収の『月光夜曲 −ムーンライトセレナーデ−』がすごくよかったの、思い出しました。ビッグヒットがないの、なんでなんだ…。
氷室冴子原作ものの中で、長く支持されたコミカライズ成功例かと。
すごく売れてた! 世界観が魅惑的で熱いファンが多く、「ぼく球」以来のビッグタイトルが出たと思いました。絵のタッチも今見ても素晴らしい。
代表作はこれだってわかってるけど「赤僕」より少し前にスタートした『久美子&信吾シリーズ』(1990~97)が好き。女子高生と小学生男子カップルの物語。大人になった坂田と小沢にはハッピーエンドになってほしかったなー。
いずれ『推しに甘噛み』の人になるかもですが、まだこちらの方が有名かと。2012・15のアニメ化で聖地巡礼企画も出ていました。
<番外・別冊花とゆめ枠>
オリジナル初コミックス「環状白馬線 車掌の英さん」(2009)からずっと、ハートフルなストーリーを展開。恋愛重視の作風ではない、往年(年配)の読者が考える「花ゆめらしさ」は別花に残っていたのかも。それがまさかの月9原作。やはり時代は変わった。
ここまで挙げた白泉社作品の中では一番好き。とはいえ代表作は『始末人シリーズ』(1983~91)かと。このパターン多い。大大大好きな明智抄で(同人誌「単行本未収録作品集」全5巻はコンプリート)10選にも入れたかったのですが、作品リストを振り返ると『始末人』ですら本誌・別冊を行ったり来たり(後半は別花)、かと思うと「チツケイレン」の「アフロディーテはきずつかない」(1988)が単発で本誌に載ったりして、編集部は運用どうしてたん…と。これからも読み続けることには変わりないのですが。
近作に抜け漏れ多くてすみません。明らかな抜けは増田の知識やアンテナが欠落している箇所です。とはいえ総論として、ガラかめ~動物のお医者さんまでは不動かな、と。
もしよかったらブコメでいろいろと教えてください。
ハイキューが最終回を迎えた際、Twitterで感想を漁っていたら、「なんでバレーしてるだけなのにこんなに泣けるんだろう」というファンの投稿が目に入った。自分はハイキューで泣けるほどの感受性はとうに持ち合わせてなかったが、そこから数えて24年前にほとんど同じ気持ちを味わっていた。
井上雄彦の作品に通底するのは徹底したリアリズムである。彼が本作で行ったのは、本気でバスケットボールに挑む人間の思考と感情をつまびらかにするだけで面白くなるということの証明と、人気が出なかった時のため不良路線でも行けるような作風を選んだことだけである(当時バスケットボールがマイナースポーツであったことに留意したい)。この結果、フンフンディフェンスを除くあらゆる要素が後世のスポーツマンガにリアリティの基準点をもたらすこととなった。
桜木花道がバスケットマンに変貌するたった4ヶ月の物語は、命のやりとりや世界が終わることよりも一本のシュートの成否の方が遥かに切実で重要な問題になりうることを、今なお我々に伝えている。
講談社は1970年代末期には後発のジャンプにマンガ業界の盟主の地位を明け渡しているわけだが、それを奪い返す最大のチャンスが90年代後半に訪れた。DB幽白スラダンといった作品が終了した暗黒期のジャンプを、金田一はじめの一歩GTOを擁するマガジンは苛烈に追い上げ、ついには発行部数で逆転したのである。
その中で強引に看板作品に祭り上げられ、ジャンプの屋台骨を支えることになったのが本作だ。後に和月伸宏は「次につなげたい」という気持ちで描いていたと語っている。明治という激動の時代の中で不殺の剣士・剣心が刀を交える相手は、旧時代に未練を持つ者や、新しい時代の荒波に飲み込まれた者たちであった。黄金期と暗黒期の狭間で奮闘した本作のありようは、皮肉にもそこに重なって映る。
ワンピナルトが出てくるまでを空白期間にせず、少年マンガ誌の代表というジャンプのアイデンティティを守りぬいたのは同時代の誰も比肩できない功績だ(幕張や封神演義やBOYSにこの役割を代替できたか考えてみてほしい)。現代のジャンプ読者はもっと、もっと本作に感謝すべきだと、佐藤健の超人的なワイヤーアクションを眺めながら思うのである。
連載終盤、もはや燃え尽きる寸前だったといううすた京介は後年、「マサルさんはシュールではなく、ベタをシュールに見せていただけ」と語っている。自分を含め、多くの読者は同意しかねるだろう。彼が未来永劫に参照点となりうる新たなベタを作り上げたことに疑いの余地はないからだ。
本作はギャグマンガでやってもいいことの範囲を大幅に拡大した。キャラクターの行動原理なんてなくていい。話の展開は唐突でいい。絵柄は毎ページ変わっていいし上手くなくていい。読者が知らなさそうなパロディだって入れてよいのである。現代の観点では至極当然と思える要素を2年弱、全7巻に惜しげもなく詰め込んだ。
彼の次回作(ピューと吹く!ジャガー)ですらも、ついにその革新性を更新することはなかった。90年代にうすたに憧れ新人賞に応募した有象無象のワナビー達も誰一人として出来なかったことを考えれば少しは気が休まるだろうけども。
闇の人格を持つ主人公によるダークヒーローものというコンセプトで始まった本作は、ほどなくしてマジック&ウィザーズという架空のTCGを中心にした物語に変化した。この変化が、数十枚の紙束を並べる行為を、玩具・ゲーム業界において最も存在感のあるエキサイティングな遊びに位置付けることになる。
コナミでは社内の遊戯王関連の部署をしばしば「造幣局」と呼ぶそうだが、紙を刷って売上1兆円に到達するコンテンツなど他に存在しないことの証左である。こうした状況に、高橋和希の優れたキャラクターデザイン、ストーリー構成が大きく貢献したのは言うまでもない。ゲームが友情を育むツールになりうると示し、メディアミックスの力を世に知らしめた功績は間違いなく彼のものだ。
世界で最も多く発行された単一作者によるマンガ作品について何か語るべきことがあるだろうか?まだ言及すべき余白が。本作のように自然にカテゴライズを避ける作品というのは極めて少ない。友情、夢、自由、強さという最もありふれたテーマに挑み、ついにそのすべてを超然と飲み込み描き切ろうとする本作を何らかの箱に入れて理解するのは難しい試みに思える。
毎週月曜日にワンピを読んで喧々諤々と考察できる世界に我々は慣れ切ってしまった。30年間マンガ業界の頂点に君臨する男がいるという現実に。一定の年代以上の人間にとって、本作の終わりがジャンプという雑誌の終焉に見える人がいても無理のないことだ(今ワンピの次に長寿連載しているのはハンタを除けば2019年連載開始の夜桜さんである!)。ルフィと尾田栄一郎という二人の男の、幼少期から練り上げた夢の果てを世界中が見届けようとしているのだ。我々がこうした光景にふたたび立ち会えるかは疑わしい。
幽白は極めて質の高い作品でありながら、冨樫義博が抱える巨大なアイデアの数々を収めきれた作品ではなかった。それでも仙水編と、その後に異例の月一で掲載されたレベルEで前人未踏の領域に踏み込んだ彼は、自身4作品目の連載においても既視感のある展開とご都合主義を執拗なまでに避け続けた。彼の描くキャラクター達は自身が取れる最善の選択を積み上げた末に、我々が期待する最善以上のドラマを生み出す。幾度もの休載を挟みながら。
「今週の『HUNTER×HUNTER』は休載いたします」の表記(今はこれすらなくなったが)を昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらぬ平常心で見られるようになってもなお、自分に限ってはこんな感じであった───「HUNTER×HUNTERの最終回を読める可能性があるというだけで、どんなクソみたいな人生でも生きる理由が生じる」
いまや冨樫は少しずつ体調を取り戻し、我々は一時期とは比べ物にならないほどコンスタントに彼の創り出す世界に触れることができる。何百何千もの作品がジャンプにおいて連載され、本作に近い作品、それ以上のものを期待し続けてきたが、その度に彼の偉大さを突き付けられるだけなのだろう。
前例のないテニスマンガでの成功、女性読者の流入、クールで生意気で強い主人公像、菊丸が分身して以降のテニヌ...といった誌面上で読み取れる新規性だけでは、本作のもたらした文化のごくごく一部しか語りえない。
1000曲近いキャラソン、出役としての役割を求められる声優たち、2.5次元文化の源流かつ若手俳優の登竜門としてのテニミュ...現代における狭義のオタク文化の根を辿れば、必ずテニプリが残した功績にぶち当たる。「推し」という文化が、人間を描くあらゆるコンテンツに侵食して久しいが、許斐剛が生み出した世界は、ジャンプで築き上げられたあらゆるファンダムの中でもっとも複雑で永続的な強度を保ち続ける、史上最も「推す」に値する文化であり続けている。
すみませんほんとに書くことが思い浮かびませんでしたでも世界的にマンガ文化を広めた功績は鳥山に並ぶと思ってますマジで
あまりに多くの言及がこの作品になされ、そのどれもが口をそろえて言う。「描き分けが上手い...絵の引き算が上手い...ルビ振りのセンス...久保帯人は中二病...ストーリーが薄い...」これらすべてはもちろん真実だ。
連載中、ワンピナルトブリーチの三枚看板の最後尾というポジションが崩れることは一度もなかった。果たしてこの評価が妥当だったのかは分からないが、少なくとも我々ネット民は久保帯人のセンスをバカにし過ぎたことに対し大いに反省すべきところがあるのではないだろうか。海賊、忍者のような明確なモデルがいないのに、久保帯人はどうしてあれほどまでに洒落たキャラクターとセリフ回しを無尽蔵に生み出せたのか、系統立てて説明できる理屈は未だ見つからない。もしその答えが彼の脳内にしかないとするならば、我々は本作を源流に大いなる歴史が作られていく可能性を認めなくてはならないだろう。
デスノートという作品は複数の点で極めて例外的な成功を収めた。肉体的攻撃を伴わない心理戦、一切の引き伸ばしをしない、公権力、宗教的崇拝、欠点の無い主人公、ゴシック的キャラ造形、ダークヒーロー、死亡エンド...
本作に散りばめられたこれらの要素は、すべて従来のジャンプ漫画では邪道、あるいは不要とみなされてきた要素であった。このような野心的な作品がメディアミックスにおいても成功を収め、国民の誰もが知る作品となったのは驚異的だ。この作品が出たことは心理戦を描こうとする後世のマンガ家にとっては悲劇かもしれない。夜神月ほど賢く、悪どく、魅力的なキャラクターを矛盾なく作れる人間は大場つぐみくらいしかいないのだから。
2010年代にジャンプを購読していた人間はみな共通してうすぼんやりとした不安を抱えていた。「ワンピの連載終わったらジャンプってオワコンじゃね?」
ジャンプの終わりという、週刊少年マンガ誌という形態の終わりと同義に思える未来を避けるべく、集英社は読者以上に血眼になって後継者を探し求めた。しかし我々の期待も空しく、トリコ暗殺教室ヒロアカソーマブラクロ約ネバドクスト呪術といった平成末期の傑作たちすらも、尾田栄一郎が築き上げた領域には辿り着けなかったように見えた───ただ一つの例外を除いては。
「家族、友人への愛」「困難を乗り越える強さ」という普遍的なテーマにフォーカスした吾峠呼世晴の連載デビュー作は、あらゆる世代へ届く成功を収めた。特に、劇場版『無限列車編』は社会現象化し、国内の興行収入1位を達成するなど、経済的にも文化的にも大きなインパクトを残すことになった。
出版業界の衰退、コロナ禍、趣味の多様化といった逆境の中で、マンガが世界的なムーブメントを引き起こすことがまだ可能であると証明した本作は、令和を生きる日本人の心象風景に残る新たな「国民的マンガ」として、時代に選ばれたのだ。
ひとりのスターの存在がプラットフォームの価値を定義することは古今ジャンルを問わずあることだ。ダウンタウンの登場がお笑い養成所という存在をメジャーにしたように、米津玄師の登場がニコ動の文化をオーバーグラウンドなものにしたように。
2014年に創立したジャンプ+というプラットフォームの目的である「紙とデジタルの垣根をなくし才能を育てること」が名実ともに達成されたのはいつだったのか?それは初めて本誌とジャンプ+両方でスターとなった人間の登場によって定義付けられる。
かつて秋田の片田舎から新都社に「長門は俺だ」という名前で投稿していた少年は、その衝撃的なストーリー展開で我々を魅了する存在となった。ファイアパンチ以降、ジャンブ+はあらゆるWebコミックサイト、いや雑誌を含め、もっとも野心的な作品を読める場所のひとつとして認知されるようになった。
藤本タツキの本誌への到着は新たな才能の鉱脈をインターネットに求める時代の始まりを告げ、媒体の違いというものがマンガの面白さになんら本質的な影響を及ぼすことはないという事実を我々に突き付けたのだった。
特に普段から使ってる人にとっては、あんまりインパクトないというか
1000円オフって聞くと「ちょっとだけか…」って思っちゃうのもわかる。
でもプラチナ会員ならまだ十分すごいじゃん!
Xで「このレトルトカレーCoCo壱より旨いわ」とか言ってる見ず知らずの人に対して
「俺が酷評したやつだ、俺の料理に合わないやつは好きなのかもな」みたいな謎の嫌味で絡んでわーわーやってる
そもそも疑問なんだけどリュウジってあの料理の味に自信持ってるもんだったの?
脂と塩を極振りにしたインパクト特化バズ特化で
あれで味だの舌だのに誇り持つことなくない?
流行に乗る。
名探偵コナンに追い付くために読んでいたほうがいいエピソードは既にいろんな所でまとまっているし、10エピソードどころではおさまらない。
なので読んでほしい回を下記に書く。(傑作集とでも言うべきか)
というのもコナンの人気エピソード投票はよくしているのだが、どうしてもキャラクターが活躍する回とか、話が大きく動いて流れが変わる回とか、幼少期のアニメ視聴者が絵的インパクトのみで記憶に残ってるとか、妙にネットでこすられた回がピックアップされてしまうのだ。
今回はそういうの無しで行きたいと思う。
順不同だ。あと見るなら原作をおすすめする。アニメは原作からちょっといじってるし、漫画の絵が良いんだよコナンは。
行方不明の推理小説家を探すというもの。鍵は作家が残した原稿にある暗号ミステリーである。この暗号を解くまでのコナンが良い。あまり知られていない蝶ネクタイ型変声機の弱点も知れる。推理小説好きは好き。
原作で読んでほしいと先に書いたが、これはトリックと漫画ならではの構図の絵が美しいのが特徴だ。
雪山山荘、燃えさかる吊り橋、何も起きないわけがないと知ったあの頃を思い出す。
これは初期作品でなかなかにインパクトが強い絵面が楽しめる事件だが、これがあるから名探偵コナンは国民的になれたのではないかと感じる。こんなん誰が思いつくねん、という事件。
この辺は入れとかないと誰かに刺されるかなと思った。コナンの設定を生かした事件で本当に唯一無二だと思うが、その中でも特に驚きが強く展開が読めないので面白い。
まぁこれはなんというか来年の映画のために見とけよってかんじではあるのだが、好評だったからメインに長野県警が選ばれたわけで、それは大事なことだろう?
コナンで唐突にくるグロ回が好きなのだが、長野県警が出ると大体グロいので良い。コナンのグロなら平気~って人もこの回はヒェッとなるかも。多分作中ベスト3に入るグロさ。
まぁこれもなんというか来年の映画のために見とけよってかんじでは(以下同文)
97巻ともなると人物相関図がややこしくなるが、かなり緊張感があったのでそういう楽しみ方もできるし、出てくる暗号もコナンを読んでいればいるほどミスリード的なお遊びがあり、ほどよい難易度だった。ぜひ一旦解読してみてから進んでほしい。
地味な話ながら地味にファン人気があるエピソード。地味なファンに人気があるエピソードとも言おうか。地味に面白くて地味に残るものがあるシンプルで良い回だ。結構悲しい話。
42巻に収録された6話構成のエピソード、だがベルモット編の終結とも言えるのでそこまでの流れを見ている方が良い。
とにかくここまでの流れの完成度が高く、すべてがうまく行っている。ある種の名探偵コナン一部完結といった感じもあり、おそらくここまでを読み込めば名探偵コナンのラストが予想できるのではないか…といった考察もある。もちろん80巻以降毎回のように重要情報を出すようになったので全巻読まないといけない仕組みなのだが…。
正直この事件が入っていない人気投票系のエピソードランキングは信用していない。これは必ず入っておくべき、と思う二元厄介オタク。
一回読んだだけだと理解できず、何度も見返して「なるほど」となったので印象深い。謎一つ一つはクイズ番組であるようなものなのだが、それを事件に繋げて複雑化していくのでなかなか読めない。
あ、これも長野県警出てるから来年の映画のために…いや、これは読まなくていい。
大体このエピソードをライト層におすすめしてくるファンとは関わらない方が良い。
でもこの場はそういうのを書いていい場所だと聞いたので。
お札を見せるやつねって言ったら覚えてる人多いかな。
毒と幻のデザインと同じくコナンと平次の共闘と言っても、上の話と違ってこれをおすすめしてくるコナンファンはとても優しい。大事にした方が良いと思う。このエピソードは完成度が高く、映画を見たかのような満足度がある。
1000話超えてるのであれが入ってないとかこれが入ってないとかあると思うけど、まあそういうのは各自おすすめしてください。
ザンザスは独特のデザインと個性的なエンジン音が魅力のバイクです。特に、高回転域での鋭い加速や、レーシングマシンを彷彿とさせるスタイリングは、多くのライダーを魅了しました。
ザンザスが「史上最高のバイク」と言われる理由として、考えられる点はいくつかあります。
唯一無二のデザイン: ザンザスのデザインは、他のバイクとは一線を画すもので、強烈なインパクトを与えます。
高回転型のエンジン: 高回転域での爽快な加速感は、他のバイクでは味わえない独特の乗り味です。
レーシングマシンを彷彿とさせるスタイリング: スタイリングは、まるでレーシングマシンを思わせるようなスポーティなデザインです。
高い人気: 発売当時から高い人気を誇り、中古市場でも根強い人気があります。
一方で、ザンザスには以下のような特徴も挙げられます。
クセのある乗り味: 高回転型エンジンによる振動や、独特のポジションは、すべてのライダーに合うとは限りません。
街乗りには不向き: 高回転型のエンジン特性上、街乗りでの扱いやすさは他のバイクに劣る場合があります。
生産終了: すでに生産が終了しているため、新しいパーツの入手が困難な場合があります。
「史上最高のバイク」かどうかは、人によって感じ方が大きく異なるでしょう。
スポーツ走行を楽しむ人: 高回転型のエンジンによる爽快な加速感を重視する人にとっては、ザンザスは最高のバイクと言えるかもしれません。
個性的なバイクを求める人: 他のバイクとは一線を画すデザインや、個性的な乗り味を求める人にとっても、魅力的な選択肢となるでしょう。
実用性を重視する人: 街乗りでの扱いやすさや、燃費性能を重視する人にとっては、他のバイクの方が適しているかもしれません。
この意見は、投資家としての個人の経験や利益に基づいたものとして妥当である部分がありますが、いくつかの問題点や矛盾も含まれています。
妥当な点
1. 自民党政権時の経済回復: 自民党政権下では、アベノミクスなどの経済政策を通じて金融市場にプラスの影響を与えたという事実があります。アベノミクスにより日銀の金融緩和が行われ、株価や資産市場の上昇を促進したため、金融資産を保有する人々に恩恵があったことは多くの投資家が体感しています。
2. 投資機会の提供: 自民党政権時には、オリンピックなどの大きなイベントが経済にインパクトを与え、特定の分野に投資機会が生まれたこともあり、経済刺激策が投資家にプラスに働いたと言えます。
1. 一部の視点に偏った見解: この意見は主に投資家としての視点に基づいており、一般市民や低所得者層の視点が欠けています。自民党政権の経済政策は一部の富裕層や資産家に利益をもたらした一方、所得格差が広がったり、社会保障費の削減が進んだりして、一般市民には必ずしも恩恵が届いていないという批判も存在します。
2. 民主党政権時の評価の偏り: 民主党政権時(2009-2012年)は、リーマンショックや東日本大震災などの外的要因により経済状況が厳しく、これを単純に政権の責任とするのは偏った見方です。また、民主党政権時にも経済政策の改善を試みましたが、それが十分な効果を発揮しなかっただけでなく、当時の世界的経済状況も影響を与えていたことを考慮する必要があります。
3. 汚職・不正に対する軽視: 裏金や不正行為に対して「どの政党もやる」とする考えは、政治的倫理の問題を軽視していると批判される可能性があります。確かに政治家の不正はどの政党にも起こり得ますが、政治的なクリーンさは政策の信頼性や国民の支持を左右する重要な要素です。不正行為を軽く扱うことは、政治全体への信頼を損ねるリスクがあります。
4. 他党の可能性を無視: この意見は「自民党以外の選択肢はあり得ない」としていますが、他党にも政策の改善や新しい経済モデルを提案しているところがあるため、その可能性を完全に無視するのは過度に一方的です。自民党以外の政党にも独自の経済政策や社会保障の改善策を持つ政党があり、それを検討する価値があると言えます。
この意見は、金融資産を持つ個人としての経験や利害に基づくものであり、その部分においては妥当です。しかし、社会全体の視点を欠いており、民主党政権時の評価や不正行為への対応が単純化されている点が問題です。選挙においては、広範な視点からの判断が重要であるため、異なる視点を取り入れた議論が必要です。
突然だが、山上たつひこについて書く。
山上たつひことは誰だ。ギャグ漫画家だ。代表作は「がきデカ」。
なぜ急に山上たつひこについて書くのだ。
その直接のきっかけは
「週刊少年チャンピオン、マンガ10選(試案)」https://anond.hatelabo.jp/20241022172620
個人的には「がきデカ」はチャンピオンの歴代漫画の中で「ドカベン」の次に重要なマンガではないかと思う。
売上貢献的にも社会に与えたインパクト的にも、後進漫画家への影響でも、ブラックジャックより上じゃなかろうか。
まあそれはおいといて、悲しいのは「がきデカ」も山上たつひこも、若い人たちには知られていないことである。
山上はギャグマンガ史の超重要人物である。「日本漫画史上重要なギャグマンガ家10選」みたいな記事を作るなら、絶対入ってくる漫画家である。しかし、令和の今においては、その功績に比べて、過小評価されているというか、全然知られていない気がして、この文章を書き残しておこうと思った。
なお、最初は本当に「日本漫画史上重要なギャグマンガ家10選」を書こうと思ったけど、そんなに漫画のこと詳しくないんでやめた。詳しい人が書いてくれると嬉しい。とても読みたい。
さて、さっそく本題に入る。
山上たつひこは何をやった人なのか、なぜギャグマンガ史で重要なのか。
今の若い人は漫画でボケ・ツッコミがあっても、なんも思わないでしょう。物心ついたときから、漫画にはボケ・ツッコミがあるから。漫画ってそういうもんだと思っているから。でも、これって元をたどれば山上から始まっていることなのだ。
「バカボン」とか読むとわかるんだけど、山上以前のギャグ漫画ってボケ・ツッコミなんてないのよ。変な人が出てきて変なことをやるとか、なんかすごくシュールな世界が繰り広げられてたりするのがギャグ漫画だった。
1972年に山上が「喜劇新思想大系」で初めて、ボケとツッコミっていうシステムを漫画に持ち込んだ。(ちなみに「喜劇新思想大系」は山上のギャグ漫画デビュー作。それまではシリアスな漫画を描いてた)
例えば、銀さんがぼけて、新八が「おいいっーーー!」て言ったり、ボーボボにビュティが突っ込んだり、ターちゃんにヂェーンが突っ込んだり……まあ、なんでもいいけど、こういうの基本的になかったのよ。こういうのの元が山上たつひこなんすよ。これ、すごくないすか。
山上がボケ・ツッコミをどこから持ってきたかっていうと、これはもう明らかに吉本新喜劇をはじめとする、関西のお笑いからだ。山上は大阪育ちで関西の笑いに馴染みが深かったのである。
それはともかく、山上が漫画界にボケ・ツッコミを持ち込んだら、すごい影響力があって、みんな真似した。というより、山上の真似であることも意識されないぐらい「ボケ・ツッコミ」は浸透した。
山上の影響は非常に広範囲に及んでいる。例えば高橋留美子も山上たつひこの影響を受けている漫画家の一人だ。がきデカを読んでから、高橋作品のギャグシーンを読むと山上の影響がわかる。
一方で、「がきデカ」以降も、赤塚不二夫系統のボケ・ツッコミ区分の薄い関東型のギャグ漫画もそれはそれで生き残っていた。「マカロニほうれん荘」なんかは関東よりのイメージだ。
(追記:読み返してみたらマカロニほうれん荘は結構、律儀につっこみ入れてた。だからこの記述は無視してもらったほうがいいかも)
ギャグ漫画史を関東型と関西型のせめぎあいの歴史として見るのも面白いと思っている。誰か詳しい人がいたら描いてほしい。
上記のとおり、山上が出てきてすぐに「ボケ・ツッコミ」の天下になったわけではなくて、しばらくは南北朝時代みたいな感じだったんだけど、今ではギャグ漫画は圧倒的に「ボケ・ツッコミ型」が多い。特に少年誌では。
これはうすた京介の存在が大きいのかもしれないが、そのうすたも元をたどれば山上の系譜である。
(もっともうすた京介が直接影響を受けたのは山上ではなく、ダウンタウンをはじめとするお笑い芸人なんだろうが)
今のギャグ漫画家は大体、山上の創始したボケ・ツッコミ漫画をやっていて、山上チルドレンと言っても過言ではない。
もちろん、当の漫画家は山上なんて意識していないかもしれない。「がきデカ」なんて読んだことないという漫画家も多数いると思う。それでも、それらの漫画家が山上が作ったものの延長線上にいるということには変わりがない。
山上の作ったものがフォロワーのもとで再生産され、世の中のスタンダードになる。そうすると、新しかった山上の表現はありきたりなものになり、山上は忘れられていく。しかし、山上を知らない漫画家が作る漫画も、山上が切り開いた世界で作られた漫画だ。バッハを聞いたことがない作曲家もバッハの影響を受けているのと同じことである。
話が長くなったが、何が言いたいかというと、山上という漫画家がいたんだよということだ。別に山上を尊敬しろとかはいわない(そもそも自分も別に山上のこと尊敬してるとかではないし)。ただ、そういう漫画家がいたということを、なんとなく書き残しておきたくなっただけである。
なお、これまで述べてきた通り、山上はすごい漫画家なのだが、知名度がさほどでもないのは、山上自身が漫画界と距離を取っていたことによるものだろう(長らく小説家に転身していた。最近たまに漫画も描く)。
こんなこと言っても詮無いことであるが、もし山上がずっと漫画を描き続けていたら、いまごろは永井豪みたいなレジェンド扱いだったんではないだろうか。
【追記】
この疑問に答えるのは難しい。当たり前だが、この世の中の全部の漫画読んでいるわけじゃないし、特に昔の漫画については知らないことのほうが多い。
何をもってツッコミとみなすかについても、定義がないから主観的に判断するしかないし。
細かく探せば、山上以前のギャグ漫画にも、ツッコミに見えるコマもあるんだろうとは思う。
ただ、それらは作品中に出てくる頻度がすごく少ないし、作者としては狙ってツッコミを描いたわけではないんじゃないかと思う。後世の我々から見たら、これはツッコミになっていると判断できるというだけなんではないだろうか。
意図的に「ボケ・ツッコミ」をやり始めたのは山上で間違いないと思われる。
もっとも、今では名前の残っていないマイナーな漫画家がやり始めて、それを山上が真似した可能性はある。
しかし、その場合でも世間への影響度からみて、「ボケ・ツッコミ漫画」の創始者は山上と言ってよいのではないか。
・この文章を読んで「ボケ・ツッコミ型」のギャグ漫画のほうが面白い、とか新しいとか、私が主張しているのだと思われた方がいるなら、それは否定しておく。そんな意図はない。
ツッコミのあるなしに関係なく、面白いギャグ漫画はいっぱいある。「伝染るんです。」や「稲中卓球部」をはじめツッコミがほとんどないギャグ漫画にも面白いものはたくさんある。
・今ではギャグ漫画は圧倒的に「ボケ・ツッコミ型」が多い。特に少年誌では。
この書き方はおかしかったかもしれない。「ボケ・ツッコミ型」が多いのはあくまで少年誌であって、青年誌や少女漫画を見れば、昔から今までずっと「ボケ・ツッコミ型」じゃない漫画のほうが多い気がする。
今朝Yahooを開いたら、脳を作る構造がホヤで発見されたというニュースがトップで上がっていた。産経や読売で記事にされているらしい。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6517409
ネイチャーに掲載された研究だから、インパクトのある研究なんだろうとは思うが、素人の俺にはこれが、ヤフーのトップに来るほどのニュースなのかどうかが判別できない。
というものの、冒頭のタイトルにも書いたが、新聞などで紹介される「科学」の記事は、日本の大学の研究成果ばかりだからである。一般メディアで紹介されるような価値のある研究成果が日本からのものばかりなら、毎年のノーベル賞の受賞者は日本人ばかりになるはずではないか。新聞の中で速報的に報じられた科学分野での研究成果が、数年後なりに社会的に認められてノーベル賞なりのお墨付きを得た、という事例のほうが少ない気がする。
だいたい、新聞の連中というのは仕事の仕方が適当である。今回の記事はさておき、明らかに研究者の側から売り込まれたにすぎない怪しい研究成果を、無批判に紹介したりしていることも多い。科学の分野がこうなので、産業領域などに関する記事でも同じように、真にインパクトのある事実よりも、取材者が理解できて記事にできる程度の材料が揃っているネタを主体的に吟味することなく垂れ流しているのではないかと思う。
前評判がしっちゃかめっちゃかになっているジョーカー2を観た。ジョーカー1とはほとんど別物だと言っていいような変な映画だった。
記憶がおぼろげで悪いけど、1ってたしか馬鹿にされて虐げられて抑圧されてギュッッッッッッッッッッッとなったアーサーがとうとう弾けて、あとはもう空想をヒュンヒュン加速させながらあちこちで殺しをやりまくるみたいな話じゃなかったっけ。
だとしたら、2はアーサーが看守や囚人からヌメッとチヤホヤされながらガチ恋女とヌメヌメ愛し合い、歌を覚え、歌いまくり、寝ながら歌い、空想の中で歌い、電話口で歌い、なんかもうあちこちで歌い、その合間に裁判台に立たされたり殴られたりする、そんな映画だった。
とにかく歌の挟まり方がすごい。映画一本の中に、阿漕なyoutuberの広告ぐらいギチギチに歌が挟まっている。ロバートのコント「柳田節」ぐらい歌う。歌が終わるとどうなる?知らんのか、次の歌が始まる。
でもホアキンもガチ恋女役のレディガガも歌がうまいから、評判より全然楽しめるもんだな、と思った。3曲目ぐらいまでは。なにせ1曲1曲の演出カロリーが高いので、すぐお腹いっぱいになるのだ。そもそも歌を見にきたわけじゃないし。それでも歌はお構いなしに出てくる。二郎ラーメンでわんこそばをやっているような気分だ。「もう歌の口じゃないんだけどな」と思っていても「アイヨ歌一丁!」と強制的に歌をねじ込まれる。アーサーの歌わんこそばにストップはない。
さらに1と違うのは、全体的にアーサーが受け身なことだ。感情はしっかり出す。けれど、行動はどこか後手に回っている。質問されたから答える、囚人にキスを頼まれたからする、ガチ恋女が火をつけたから一緒に逃げる、法廷に立たされたから喋る、というように起点が他者や状況に置かれがちなのだ。
頼みの空想も、今回はそこまで現実に干渉してこない。いっぺん法廷でキレて暴れたときはちょっと気持ちよかったが、それも所詮は空想の中だけの出来事だった。だから、観客はほとんどの時間を「様子がおかしいけれど害はない、等身大のアーサー」と過ごすことになる。そして、彼の行動が「アーサーってそういうもんだよな」という我々の予想を超えてくることはほぼなかったように思う。
つまり、ジョーカー1のようなムチャクチャな破滅が彼自身の手で引き起こされることはなく、代わりに本人は歌ってばっかりいる、そういう変な映画なのだ。
火をつけたのはガチ恋女だし、裁判所に突っ込んだ車は信者のものだ。インパクトのあるシーンはことごとくジョーカーの手を離れて始まっている。裁判が突然の爆弾カー突入で強制終了になったときは流石に「ウオーッ!これだこれ!ゴッサムシティに法律はねェーッ!」と客席から立ち上がりかけたけれど、その後の展開で「あっ普通に法律とかあるんすね」「失礼しました」「そっすか……」とすぐさま心を着席させることになった。ここまでくると製作側から意図的にカタルシスを取り上げられているような気さえしてくる。
そしてある意味、それは当たっていたのかもしれなかった。物語の終盤、別れに際して歌おうとするガチ恋女にアーサーが言うのだ。「歌はもういい!歌うな!話せ!」みたいなことを。
ここで初めてアレッ?と思った。なんとなくそれまで、ジョーカー(アーサー)になんも面白いことをさせず、ただ歌わせるだけの映画を撮った製作陣にある種の無邪気さを感じていた。このナンセンスさは彼らの読み違え、あるいは天然ボケなんだろうと、無意識に考えてしまっていたのだ。
けれどそれなら「もう歌うな!」なんて客席の9割の人間が思っていそうなことを台詞にするだろうか。まるでこっちの考えが読めているようにも見えてくる。もしかして彼らは、ジョーカーを暴れさせずに歌わせてもそこまで面白くないことを最初から分かっててこれを作ったんじゃないだろうか。
そう考え始めた途端にいろいろなことが腑に落ちてきた。作中、アーサーは恋愛に溺れる以外はほとんど何もしてないのに、周りが勝手に感化されて狂ったり崇めたりする。そして、ジョーカーがただの人間アーサーだったとわかると潮が引くように離れていく。その心の動きが、映画館の席についてからここまでの自分の心境といやにぴったり重なっているのだ。
勝手に期待して近づいて勝手に失望して帰っていく、ジョーカー2の大衆と今ここにいる自分とfilmarksの低評価レビュアーたちはきっとそう変わらない。そして、思い返せばこの映画はずっと「シラフのアーサーと狂った取り巻き」に焦点を当て続けていた。
結局のところ、「おもんない取り巻きばっか映して何がしたいねん、はよジョーカー暴れさせろや」とぼやきながら、自分はずっとスクリーンに大映しになった鏡を見つめ続けていたのだ。
ジョーカー1はいろんな人間に「自分はジョーカーかもしれない」と思わせた。けれど、ジョーカー2は「お前ジョーカーちゃうで」「自分をジョーカーやと思いたいただの取り巻きやで」「あとジョーカーも蓋開けたら多分そんな大したことないで」という常温の現実をバシャバシャと浴びせてくる。
そういうメタだと捉えれば、この映画は面白かったと思う。実際のところは知らんけど。ジョーカーは1も2も一回ずつしか観てないからうろ覚えだったり的外れだったりするかもしれないし、ひとまずこういう印象を受けたとだけ言いたい。他の感想も気になってきたな。
• 熱湯を注いだ瞬間から始まる命がけのバトル。なんだかんだでやっぱり待てない。
• さわやかで甘酸っぱいシーン…のはずが、ひたすらスイカバーの種と格闘する少年の一言。
• タイミングを完全に見誤った呪文の一言。ドキドキが一転して、微妙な空気に。
• 買いに行くたびに売り切れ。それでも諦めない男子高校生たちの奮闘劇。
• もはや謎の深さを感じさせるセリフ。飲み物なのか、それとも…?
• フライドポテト好きによる、フライドポテト好きのための壮大な叙事詩。
• しゃべり出す猫のせいで、とんでもない大騒動が巻き起こる。
• 炒められる米とともに人生を振り返る主人公。まさかの感動巨編。
私はトップ103cmでアンダー67cmでカップはKなんだけどさ。
まぁ、肩が凝るとか足元が見えないとか巨乳あるあるはほとんどあるけど、それ以上にKに対する反応がわりとウザく感じることがあるw
文字情報でKカップって言うとまず「デブなんじゃないか」って思われる。まぁ、巨乳っていってただのデブっていうのは男性陣ネットでも風俗店でも経験してるから、たぶん心に予防線張ってるんだろうね。
あと、アニメとかゲームのKって言うと、人間の乳してないような描き方されることもあるから(てかカップサイズは大体ファンタジー補正で描かれてるけど)、実際見たらそんなでもない的な反応も微妙。
後は実物見た男性から89.7%くらいで聞かれる「何カップあるの?」からの「K!?」っていう反応。いや1対1で"そういう"つもりで会ってるときは、こっちもそういう反応はおもしろいんだけどさ。普通に他の人もいるお酒の席とかはウザいなっておもう。ある程度我が乳を(というか私を)ネタ的に晒して盛り上げようっていう魂胆がスケスケだからさー。
まぁ多分あれなんだろうなぁ。おっぱいのインパクトを理由に個人として尊重されてない感が伝わってくるかさウザク感じるんだろうなぁ。そして心の何処かで尊重してほしいってある程度期待してるからこそ。
両方合わせて5kg近いモノを24時間365日抱えて過ごしてるんだから、とりあえず最初は先ず「私」を愛でてほしいんだろうなぁ。
その点で言えば、まだソープのお客さんのほうが「私」をみてくれる気がする。皮肉なことだけど、多分エッチなことするのは当たり前で大前提の場所だから、あえて注目しなくていいんだろうなぁ〜。
8話までは素晴らしくて絶賛しまくってたけど、それ以降は権力を悪く描きたくないのが丸見えで糞の塊。ばんもんとか酷すぎ。イタチの最期が制作陣の分かってなさを極めていた時点で見限ったからそれ以降知らん。原作が悪いとか寝言ほざいてる奴がヤフー知恵遅れにいたが原作の良さを徹底的に踏みにじったのがこのアニメ。
② 呪術廻戦
渋谷までは面白かったし、それ以降もレジィ戦とか秤鹿紫雲戦とか見どころはあったけど最終的評価は糞of糞。細かな描写の積み重ねができないから描写に説得力が無く、味方(脹相除く)にも敵(宿儺)にも魅力が無い。いや魅力はあったけど作中で良さがことごとく殺されている。脹相は綺麗に死ねて本当に良かったね。インパクト重視で展開がいきあたりばったりのちぐはぐさなのは作品そのものが乙骨in五条といえる。ブリーチの最終章も批判されてるけどミラクルとスーパースターがうざかっただけで味方はちゃんとかっこいいし主人公が最後ちゃんと決めるからな。領域展開したと思ったら岩手観光しかしなかった主人公のしょぼさたるや。エネルギー吸収アリーナのほうが絶対に面白かったわ
ファイナルファンタジーだとか、名のしれてるのはまぁそこそこ数出るのはわかるが、全く無名のタイトルってどんぐらい売れんだろ?
1千や2千程度の人数ならともかく1万を超える兵力を派兵するとなると必ずその帰還兵は大きな不安定要素となって閉鎖された北朝鮮社会に大きな動揺を与えると考えられる。
アジアではベトナム戦争の終結以来大きな紛争は起こっていない。
日本にしろ中国にしろ北朝鮮にしろ、どの国の軍隊も戦争を経験していない兵士ばかりだ。
この点が定期的に実践を経験している米兵やずっと紛争状態を維持している中東の兵隊、アフリカの兵士たちと違うところだ。
同じ軍隊と言っても本当に戦うための軍隊と、そうでない軍隊とでは大きく意味が違ってくる。
笑い話で、戦争が始まれば自衛隊の隊員は一斉に除隊をする、などと言われるように実際の生き死に関わることとただ日々の生活のための働き口としての軍隊は意味が異なる。
独裁者からすれば自分の命令であれば軍人は喜んで死にに行く、と思っているのかもしれないが、もちろんそんなわけはない。
ただ北朝鮮のような閉鎖社会であれば洗脳ブーストが掛かるので、普通の民主主義社会と比べれば多少は独裁者への絶対的忠誠心をもつ人の比率は高いかもしれない。
しかし、それも実際に戦場で自分の命が失われる可能性に直面すれば、あっという間に正気に戻るだろう。
そして、ウクライナに行った兵隊たちに起こるであろう心理的変化だ。
おそらく北朝鮮のような閉鎖社会は極度に相互監視の状態にある。
誰それが何時にトイレに行った、そこで誰それとコソコソ話をしていた。
そんなことすら互いに意識し合いながら生きている社会のはずだ。
だがウクライナの戦場へと行けば、ある意味での「自由」を得ることになる。
また戦争という本物の仕事を遂行するのは、相互監視閉鎖社会での儀礼としての仕事をすることとは大きく異なるはずだ。
彼らはある意味、本当の人生がウクライナの戦地で始まるとさえ言っても過言ではない。
目的のために自由に行動して、自由に考え、自由に話し合える場所としての戦場。
自分の頭で考え始めた人たち。