はてなキーワード: 理想的とは
この教科書ではフェルマーの定理を検討するために必要な材料となるそれに関係する専門知識や技術について集めることにしたい。
(1) 不定方程式とは何か? この問題は最初に、ある種の不定方程式の解のふるまいというテーマで開始されたことから不定方程式に関して検討する。
(2) 無限降下法は技術か? 4,3のときは既に論文があるが、 3の場合は 補題が6つついた定理を適用するもので、難解で、哲学者の間でも、理想的な構成かどうか
はっきりしていない。しかも、3のときは、u^p+w^p+w^p=0 という式も出てきて非常に理解困難である。
(3) エレガントな技術ぬきにして、性格だけに着目した愚直な証明と言うのは存在するのか? 証明とは何か? 証明論
例
背理法による√2が無理数の証明 背理法とは何か? 公理系や定義といったその界隈の致命的なところに矛盾させるもの
背理法による証明はエレガントであるか? 学会ではまだ意見がない 話にならない
(4)発見された経緯 整数の分野に対して興味を持っていた人が発見
専門知識はほとんどない。 技術は、背理法=無限降下法による。 受験生でも分かる部分的な議論 p^4+q^4 は 整数の2乗にならないことから開始する。
(2p)^4+q^4 は自然数の2乗にならないことを証明していく。非常に真面目な精神作業となり、苦しい。最終的に無限降下法を適用することも、それがどのような技術なのか皆目不明。
(5)関係する先生 誰もおらず何の生産性もない。 早稲田大学の雪江というごみ・・・ やる気がない。
あれは、4k+1→4k+2→4k+9というちょっとぶっとんだ定理を発見して証明しなければいけない問題ですので、さすがにそれなりのところで訓練を受けた人ではないと無理です。
他にも色々な証明がありますが理想的なのはこれで、左半分はできますが、右半分は専門的な議論になるので、読んだだけではすぐには分かりません。ただしそれが出来たら
満点ということになります。あれはIMOでもほとんどの人が解けなかった奴ですので、誰がやっても解けないと思います。ここの
上の定理を発見するのを驚愕的な技術つって、こういうのがあるのが面白いから数学者は数学をしてるわけです。 問題自体の方も凄いが、技術の方が凄いからやるわけです。
ABC予想は、デビット=ヤリマッサーが昭和60年に提唱した、これがあるとフェルマー予想だけでなく、似たような未解決問題が一挙に解決するということだったが、フェルマー予想に対しては
証明をn≦5に限定させるという記載があるだけで、3,4,5の理想的な証明はどこにもあがっていない。ABC予想は、一読して、多くの専門的研究のすえにたどり着いた定理であり、
難解。 フェルマー予想が出来なかった歴史的経緯も誰一人として説明する者はいない。 何がしたいのか?意味が分からない。
ABC予想を証明しなくても、弱いモーデル予想や、カタラン予想は、個別に解決すればいい、しかも、フェルマー予想は既に解決されているので、ABC予想は要らない。それよりも・・・
フェルマー予想を研究するとすると、代数的サイクルとエタールコホモロジーという1つの教科書ができる。その教科書を読んだ方がいいのではないかという感じがする。
パスカルの定理は、ジョンブリリアンコットの定理と双対をなして、この定理は色々な技術に出て来るので証明は必要最小限となっている。メネラウスの定理と比を取ると出来るということになっている。
初等幾何学を縦にすると現代法令が理解できるとは思わないので、法学部で学ぶ現代法令の技術は、初等分野の問題の構成に比較して、もっと別種のものではないかと思う。
にわかにおそろしくむつかしくなるということを、我々はまだ知る由もなかったのである。
私が興味を持っているのは、 フェルマーの小定理であり、 a^(p-1) ≡ 1 mod p である。 ただしこの場合、a,p は互いに素であるという条件が必要であり、真理関係的卓越性
までは分からない。
大スーパー頭突きはガードされても少し離れた位置で-4Fでほぼ何も確定しないから、
届かない技で暴れてくるなら大スーパー頭突きでワンモアしたり、リターン重視でパニカン狙い大P降ったり、
遠い間合いから本体を直接潰す長い技をガードしたりインパクトするだけでそれっぽくなる
ドライブラッシュ大P>236K2P派生>大百貫>前ステで投げが届く距離且つ4F有利なので投げと打撃と投げ抜け狩りの理想的な攻めが出来る
ゲージあれば大百貫をOD百烈張り手からSA2か、大百烈張り手にしてSA3や!
スト6の戦い方は結構キャラごとに応用聞くことも多いので、とりあえず勝ち筋太い本田で気張るのおすすめやで
がんば!
ちょっと誤解させちゃってる。すまん。
私はそもそも店主の態度はよくないと思ってる。
別増田(20240420191507)にも書いたけど、日本語しか対応しないのは自由なんだけど、私が思い描く理想的な店主なら、ニコニコしながら「ごめんなさいねぇ、うちは海外のお客さんだと難しいんですよねぇ」と伝えてほしい。
これはちょいと尊大な表現だけど、仮に相手が傲慢カップルだったとしたらなおのこと、むしろ太陽のような日本人の柔和で温厚な品位を見せつけて、なんなら相手が自分たちの傲慢さを恥じ入るレベルにまで感化してほしいとさえ思ってる。
私は脳天気なので、登場人物が全員温厚で平和な理想の世界が大好きで、店主もお客さんも善良であってほしい。
でもあいにく、店主のツイートの、特に後半の「日本語で答えてやった。ここは日本だ。俺も英語の国に行ったら英語を喋る。日本では日本語を喋る努力をしろ。無理なら通訳を連れて来い。」からは、善良な人物像は描けなかったんだよ。
でも、あなたの言う「さんざん迷惑外国人に苦労させられた挙げ句の可能性」は、店主に対する思いやりを持ったあなたの立派な解釈だと思う。
それでも、「ひどい仕打ちを受けてきたから、それを他の外国人にもぶつけてしまう」ストーリーより、「ひどい仕打ちを受けてきたのに、それでも外国人に親切に接しようとする日本人のホスピタリティってなんてすばらしいんだ」みたいなストーリーのほうが、みんな大好きだよねぇ?(それはそれで卑屈な奴隷根性だと批判するのかもしれないし、その気持ちもわかるけど…)
ルールを守れず基準を満たせず約束も守れない人間に同じものを提供する必要性って何なんだろう
提供する側からすれば金さえもらえれば客なんてどうでもいいだろうけど
客からすれば金を払って得られるものはそれなりに期待して必要としたものだろうね
それが得られないなら買わなくなるし、買わないなら提供する側からみても金がもらえなくなるから客を考えるようになる
つまり結局それって不便で差別だって訴えて無理して金も払わず実現してもらおうとおねだりしてる案件って
ハーディ空間で有名な数学者のハーディは何でも数学は驚愕しないと駄目なのだと述べているが、東大理系数学は別に驚愕的な体験がなくても出来ますので、
北予備の田辺先生から教わった、 数列が a(n)になっているものがあったらそれを、n等分して、AMGM不等式をかませればいいのだ、ということを講義で口頭で教わっただけでも
似たような問題に使えるようになりましたので、私は何もその辺のことが驚愕しないとできないとは思いません。
法律学においては、教わったというか、猪股辰之警部補から、刑訴法においては、あまり時間が経過していると使用窃盗ではなくなる、という説明を受けましたが
言われただけで何を言ってるか分からなかったので。それからなんか、六法の条文は、一般的な概念で技術的に制定されているのでそれだけであると思います。
あとなんか、わざわざ大それた驚愕的な証明をしなくても、スマートで簡潔な証明の方が経済的で合理的というかそれしかないから構成においてそれが選択されている場合もあるので
https://b.hatena.ne.jp/entry/4752198473835976704/comment/Knoa
偽札防止の新技術に対応できないのは甘受するとして、新札には読み取り機の後方互換性くらい義務付けてもいいんじゃないか?毎回読み取り機側の特需を経済効果に加算して推進するの悪辣過ぎでしょ。
説明しよう!
まずここで述べている後方互換性というのは、たとえば
こういう仕様にしておいて、スーパーセキュリティチップVer.1にしか対応していない古い券売機でも、スーパーセキュリティチップVer.1だけしかチェックできないものの、新しい1万円札Ver.2もいちおう扱えるという意味だ。一般的な「後方互換性」は「新型機械が古いメディアにも対応する」という意味だが、それとは概念が真逆で、ここでは「新しいメディアが旧型機械にも対応する」という意味だ。この点が誤解を招いたとしたら申し訳ない。
追記: よく考えたら、「ホログラム無しの福沢諭吉から、ホログラムありの福沢諭吉へ(2004年)」って、実質的にここで言う後方互換性を維持した更新だったのでは。あの時は、1000円や5000円は肖像ごと変更になったんで券売機の問題は結局存在していたと思うけど、1000円や5000円もホログラム追加だけに留めておけば、多くの券売機は2004年の刷新を生きのびていたのではないかな。
もちろん、スーパーセキュリティチップなんて仕組みに頼らずとも、もっと簡単な工夫があるかもしれない。あくまで一例だ。それと、旧機械による新札の読み取りを妨げない限り、人間が見分けるための新しい工夫は、いくら追加してくれていてもかまわない。
また、背景にある大きな考えは「新札のたびに機械を入れ替えるなんて、経済資源の無駄遣いだ」と、「それを経済効果としてプラス面だけアピールするのは悪辣だ」という2点である。そういう意味では、たとえば安価なモジュール交換だけで新札対応が済む世の中になるなら、それも好ましい。(既にそうなってるとするブコメもあるのでそれはそうなんだろう。かといって、記事のように高く付く理由もそれなりにあるんだろう(善意の解釈主義)。また、何年も前から予告されていたことだろううんぬんの話も、結局のところ経済資源の無駄遣いの話が前提になる。「いまさら慌てふためく」のがけしからんという話は理解できるが、そもそも機械の入れ替えに無駄な部分があり、もっと効率化できないかという話は、モジュール交換の効率性に置き換えてもらえればわかりやすいが、恒久的に訴え続けてもよいだろう)
ところで、「偽札防止」の観点から後方互換性に懐疑的な意見のブコメもあるが、現状はどうなっているか、もう一度考えてみてほしい。
スーパーセキュリティチップでも、ホログラムでも、透かしでも、なんでもよいのだが、新技術による偽札防止が効果を発揮するのは、あくまで「この券売機は旧紙幣には対応しません」が許されるようになった後の話。当面は、旧札もほとんどの場面で使える。券売機メーカーも、新札発行後にすぐ「旧札に対応した券売機はもう売りません」なんてことにはならない。
もちろん、新札への対応準備は完璧で、券売機も刷新しているだろう。しかし、みすみす旧札のお客さんを切り捨てたくはないので、当面は、旧札にも新札にも対応していくはずだ。じゃあ旧札への対応をやめるのはいつか?それは多くの場合、新規に導入する券売機の最新機種が旧札に非対応になったころだろう。それ以外に旧札を切り捨てる動機と言えば、偽札が横行して、その企業自身が経済合理性に基づいて「旧札対応より偽札被害のほうが大きい」と感じたときだ。(そんな事態が既に起きていて、実はラーメン店も既に相応の被害を出している、という話は聞いたことがない)
スーパーセキュリティチップVer.1しかチェックしない旧券売機さえ騙せればよいので、新しい1万円札Ver.2が流通するようになってからも、「スーパーセキュリティチップVer.1を埋め込んだ、1万円札Ver.1そっくりな偽札」を製造しまくることだろう。
しかし先も述べたように、その偽札は、結局のところ、世の中の券売機が旧札への対応を続ける限り、後方互換性が実現しようがしていまいが、使えてしまうのである。
後方互換性なんて実現してない、現実のこの世の中でも、いまあなたが持っている福沢諭吉の1万円札は、来年も再来年も、新札と旧札の両方に対応した最新型を含む多くの券売機で、使い続けることができるだろう。いまあなたが持っている福沢諭吉の1万円札が、精巧に作られた偽札だったとしても、だ!
ちなみに、ラーメン店に限れば、1000円札にしか対応しない券売機も多く、偽造側の効率面から言っても、現実的な偽札リスクはもともと小さいと言えるだろう。その上で仮に将来500円玉のように偽物が横行すれば(500円玉は韓国ウォンとサイズが一致しただけで、偽造効率の話ではないが)、その時は各企業の判断で「旧札対応より偽札被害のほうが大きい」と感じたときに、しぶしぶ券売機を刷新すればよいのだ。
しかしまあ、こんな心配をするのも、現金がたくさん流通している今だからこそで、次の新札や、そのまた次あたりには、どうでもいい話になっているのかもしれない。
後方互換は世の中の様々な券売機が紙幣のどこを見て判断しているかを把握して網羅的に対応することが求められると思うが、突き詰めると今と同じ紙幣が完成しそうな予感がする。
そう。なので、現実的には「次回の新札から、後方互換性を想定した仕様にします(読み取り機のチェック項目の仕様策定)」という区切りが必要だと思う。その点でもますます、近い将来には「どうでもいい話」になりがちではある。「もっと早くから取り組んでいれば…?」という話でもある。
または、今が過渡期だという前提なら、「今後は現行の福沢諭吉をベースに、追加要素を入れていくだけ」でよかったかもしれない。渋沢栄一を起点にしてもいいけど。んで、お札の人物画像を読み取ってるような古めかしい券売機がほぼ全滅してしまえば、また人物の入れ替えも再開できるだろう。
平成13年当時の社会常識で宮崎市内の恵まれた家庭に育った子供で、宮崎南高校に進学し、筋肉質で、宮崎県人寮内では、安倍政権以降で、バクサイで活躍することになる
者らから、筋肉質で、勉強も出来て東大生だから理想的な人間であるともてはやされていたが、そういうことがあったのは、平成15年当時で、その当時の駒場や東京全体では、木内満のような
自然体で滅茶苦茶な子供が勝利していたため、永山悟のような、人造人間がおおっぴらに社会に出ることは出来なかった。東京地検の検察官が、20代~30代はあの世に行ったから、ここを
出たらみんなに会う、などという言動をしたのは、平成20年12月下旬の取り調べ時点である。(なお、検察官氏名は、尾崎寛生) その趣旨は、当時の20代30代はもう散々遊び惚
けて満足したから、平成18年の安倍政権から法体制の下に編入されてもういないといったようなことである。宮崎県人寮のいた段階で、永山悟には、この顔で生きていかなければならないから東大に
入っただけで勉強したかったわけではない、という言動もあったが、平成27年に延岡水道局の職員も同じような言動があり、令和6年3月7日になり、読山洋司市長から、永山悟はボウフラのような
人間であるという発言があった。この世代は、平成17年以前に存在した、光り輝くような幼稚な時代を完全に無視し、出来上がった法体制を主張する者が多く、平成17年以前に存在したこと
について、三次元の実体社会において発表する者はいないに等しい。例えば、立派に成立していた事実として、柴崎克敏がバカすぎるから、教室で骨折したとか、平成9年頃に存在した様々な事実が
指摘出来たり、様々な環境、状態が存在したことを指摘できるが、客観的日常生活において、それらを再現したり、主張、構成する者はいない。
金曜に仕事でやらかしてな、やらかし方も自分のプライドをえらく傷つけるタイプの奴でな、その反動なのか今日はやたら完璧に過ごせた
朝は6時に起きて溜まっていた家事を順調にこなし、午前中のウチに図書館に行ってプロジェクト・ヘイル・メアリー上下巻を借りて帰ってきた。昼食後は映画を見ながらひたすら踏み台昇降をしつつスマホでテラフォーマーズを読み進め、運動でたっぷりと汗をかいた所にタップリのバスソルトを入れた風呂に入ることで発汗機能のメンテもバッチリだった。
そのあとちょっとだけ昼寝をして、気づいたら3時間が飛んでいた。
夢の中で俺はゾンビが溢れた街に籠城し、時にはドラゴンに襲われ、突然始まった過去編の中では中世ナーロッパの一般モブ農民としてのつらい日々に愚痴をこぼしていた。
念の為30分おきにかけていたスマホのアラームで起きたが、単純計算で5,6回ぐらいアラームが鳴っていたのに起きなかったことになる。
でも寝る直前に感じていた金曜のやらかしに対する後ろめたさは遠く記憶の彼方に消えていた。
なんとなく、なんか致命的なやらかしをして自己評価がゴミカスになっていたような気がするだけで、今はもうなんでたかが仕事の失敗1つをあんなに気に病んでいたのかと他人事のように遠く感じるものだ。
ChatGPTちゃんセーフだった
近年の人権や平等の推進などを考慮し、単独親権と共同親権どちらがより望ましいと考えられる?
ChatGPT
人権や平等の観点から親権の形態を考える場合、多くの専門家や国際的な基準は共同親権の方向に進むことを推奨しています。その理由は主に以下の点に集約されます。
1. 平等の原則
共同親権は、離婚後も両親が子供の育児に等しく参与する権利と責任を持つことを保証します。これは、性別に基づく役割分担の固定観念からの脱却を促し、父親と母親が平等に子供の生活に関与する機会を提供します。この点は、性平等の観点からも重要であるとされています。
2. 子供の最善の利益
多くの心理学的および社会学的研究によると、適切に管理された共同親権の状況下で育った子供は、社会的、心理的にも健全な発展を遂げる傾向にあるとされています。子供が両親との関係を維持することで、安定感や自己価値感を高め、精神的な健康を保つことが可能です。
3. 法的および国際的傾向
国際的には、欧米を中心に共同親権が推奨され、実施されている例が多く見られます。例えば、欧州人権裁判所では、親権を巡る問題において子供と両親との関係を断つことは、家族生活の権利を侵害するとされることがあります。
4. 社会通念の変化
現代社会では、家族の形態も多様化しており、従来の「母親が育児を担う」という固定観念から逐次解放されつつあります。この社会通念の変化に合わせて、法制度も進化する必要があります。
ただし、共同親権には適切な実施が求められます。たとえば、親間の対立が激しい場合や、家庭内暴力が存在する場合など、子供の安全を確保するために単独親権が適切とされる状況もあります。そのため、共同親権を基本としながらも、例外的に単独親権を認める柔軟な制度設計が理想的です。
総じて、平等と子供の最善の利益を推進するためには、共同親権が望ましい形態と考えられますが、その適用にあたっては各家庭の具体的な状況を考慮する必要があります。これにより、全ての関係者の権利と福祉が保護されるようにすべきです。
しゅんき氏の、ラニーノーズ、Runny Noizeに対するファンとしての失敗に関するnote(https://note.com/syunki0910/n/n0bbc0a2e4b96)が話題になり、
それにより「推し活は、推しが理想と違った場合は呑み込んで応援するか離れるかしかない」という言説が出回っているが、私は少し違う意見だったためその旨を記す。
以下はしゅんき氏が記事内で挙げた、何らかの推し活をするうえでのファンのパターンだ。
この2パターンがいて、両者は分かり合うことができないということには共感をする。そして本記事は、②であることが多い立場からの発言である。
また、こちらの記事(https://note.com/syunki0910/n/n9e7ab2259c1c)の嫌われた原因の項目で書かれている、「自分の振る舞いはおかしなことではない」という点も、一部は理解することができる。
私のスタンスは、
・人には他人を傷つけたりその自由意思を妨げない限り、発言の自由は担保されるべきである
・プロのアーティストが生み出した作品に厳しい意見がつくことは(誹謗中傷や言葉選びによっては許容されないが)ある程度想定されることであり、その発信自体は叩かれるべきではない
というところだ。
前置きが長くなったが、以上のようにしゅんき氏に一部共感するところがある人間の視点から、問題を分析したいと思う。
しゅんき氏は、noteの中で、「人がどんな感情を持つのもどんな行動をするのも、基本的には自分勝手である。勝手に人に感動したり怒ったりするのだ。誰でもそうだ。人間はそういうものなのだから、別になんの問題もない。」と述べている。この一文はまったくその通りである。だから「推しに不満を持っていても、不満を吐き出しながら応援する」という行為自体に問題はなく、「推し活は~すべき」ということには当てはまらない。
特に規模が大きいアーティストになればなるほど、様々な葛藤を抱えながら応援しているファンはいる。私が今回記事を書こうと考えたのは、冒頭に述べた「推し活のファンの在り方二元論」に異議を唱えたかったからだ。あのような言説が広まると、多くの葛藤するファンが「自分は推しを応援する資格はない」と自分を責める原因になりかねない。「どんなスタンスで応援しようと自由」なのである。
今回、しゅんき氏は、以下のように述べている。
これは、「アーティストはかくあるべき」という押し付けであり、アーティスト個人に対する自由意思の妨げである。
もちろん、客の声をよく聞き向上に努めるスタンスは、商業的に正しいとされる。これがたとえば、利益創出を目的とした企業それ自体が相手であれば、もう少し理屈は通る。しかし本件の相手はアーティストとはいえ個人である。私は洲崎氏という方を本記事で初めて知ったが、どういうスタンスで活動するかは自由であり、それが利益に繋がるか繋がらないか、繋がらない場合どうなるかはファンが判断することではなく、本人自身や所属会社が考えることである。
存じ上げないうえで例とはいえこのようなことを述べるのは申し訳ないが、たとえば「今はコントより音楽活動に比重を置きたい」と思っており、作品の完成度が低くなった場合も、それはアーティスト自身の自由である。
しゅんき氏が「ファンとはこうあるべき(たとえば本人が提示していた①のような全肯定であるべき)」「作品への不満は言ってはならない」ということを強要されるのをおかしいと思うことと同様に、人の創作活動やアーティスト活動を強要することはできない。
しゅんき氏がそれを傲慢だと述べるのも自由だが、洲崎氏が傲慢と思われても構わないと思うこともまた自由なのである。
しゅんき氏の初期のnoteの中には「自分はこういう人間である」という記述、そして自分がなぜ間違っているかわからないという記述があった。
1でも述べたとおり、間違っているわけではないという点は共感する。ただし、その自分を周囲が受け入れるべきだと考えると、それは今回のような事態を生む。
見る限りしゅんき氏のなかには2つの欲求や理想(細分化すれば3つ)の状態があると思う。
1つは、アーティストと良好な関係を築き、ライブに参加し続けること(これは2つに分けられる)
この2つは、現状の方法では両立することが困難である。そして氏は両立できないことについて、「相手が譲歩し両方の欲求を満たしてくれるよう振る舞うべき」だと考えている。
ここが今回の一番の問題であると考える。よく言われるように他人は変えられない。だから自分がやり方を変えるしかないのだ。
②SNS上の振る舞いを優先し、良好な関係は諦める。現場では交流を求めず作品だけ楽しむ
③完全に降りる
そして、④は(今からはもう難しいかもしれないが)、「欲求が両立する方法を考え、折衷案的振る舞いを見つけること」だ。
こういった場合、人は④の方法を取ることが多いのではないだろうか。
・この職場に自分の仕事の進め方を浸透させた方がいいと考え、同僚には仕事の仕方を合わせてもらえるよう交渉する。後に実績で報いられると信じ、その場の人間関係の軋轢は覚悟する。
・合わない場所にいることはしたくないが1年ほどは我慢できそうなので、転職のために1年は必要な実績を積むことにする。そのために時に妥協し時に我を通すなど状況に応じて変える。
・人と良好に働くことを優先したいため、同僚の進め方に合わせる。関係を構築してから徐々に自身の意見を述べるようにしていく。
以上の違いは、「進め方へのこだわり」「実績」「人間関係」様々な要素がある中で何を優先するかだ。自分の価値観を点検し、どこにどれだけ比重を置き、逆にどれが不足していると耐えられないか、どれくらいなら耐えられるかを見極め、自分にとって心地の良いバランスを探っていく。それが人間関係であり人の営みではないのだろうか。
ここで、すべてを満たそうとただ声高に叫んだところでそれが叶えられることはないだろう。しかししゅんき氏は、自分の欲求すべてが同等に叶えられるべきであると考えている。
欲求を複数持つことや叶えようとすることは問題ではない。問題は、他人や環境は変えられないという点への無自覚さと、自分の中の優先順位が不明瞭なことである。
自分にとってもっとも理想的な状態は何か。それが実現するためにはどのような振る舞いが適しているかを「相手が変わる」という選択肢を除き、「自身の妥協点」や「自身が新たに身につける思考や振る舞い」を考慮したうえで計画し、実行に移す。
こうした行動が、氏には必要だったのではないだろうか。
とはいえ、まだ若い方が以上のようなことを考えて振る舞うことは難しい場合が多いだろうと思う。
そしてこうした振る舞いを自身が二十歳そこそこの時に身につけていたかというとはなはだ疑問であり、だからこそ私は、こうした記事を書いている。
なんてもの、ファンダムのなかの「べき」論は幻想だと思っている。ただそこは人の営みであり、アーティストも含め、心の通う、自分と違う人たちが多くいる場所だ。
迎合を覚えろという意味ではなく、ただ、自らの思い通りにならないことを理解したうえで、なるべく心地の良い落としどころを見つけていくこと(あるいはそれを試すこと)を、私は若い方に推奨したいのかもしれない。
NHK教育テレビの理想的本箱 君だけのブックガイドを眺めていたら、驚くべき発言に衝突した。
小澤征爾さんのボクの音楽武者修行を紹介していたのだが、そこで、
「ヨーロッパから帰ってきた後の小沢さんは不遇の時期を過ごし再度海外にいった。このころについて小沢さん自体未熟だったといっている」、
みたいなことをいっていました。
おそらくは不遇といっているのはN響が関わった事件のようなことを言っているのではないかと思います。
確かに小沢氏自体がそういっているのですが、しかし、それは振り返ってのことだし、ましてやNHKはなんの反省もないのか、
さすが国営放送だけのことはあると。
歴史を捏造するとはまさにこのこと。NHKの立場からきちんとN響事件は総括すべきであると思われます。
もちろんこれはN響だけの問題ではなくNHK自体の問題も含めてということです。N響に対してのガバナンスということではいまだにどうなんでしょうか?
春は変態が野に出る季節。
たまたま催涙スプレーの有効性みたいなのが流れてきたけど襲われて咄嗟にバッグから出して使えるとは思えないし自分にかかると大変らしいし色々疑問。キーホルダー型とかもあるけど…ねえ?
もちろん準備して待ち構えられる状況なら有効だろうけどそんな理想的なことある?
(ていうかたまに撒き散らして事件起こす人がいるから持ってる人の方がヤバイみたいな印象もある)
どんなにマッチョな男性でも指はマッチョにならない。特に小指。
体を掴まれても腕が動かせるなら迷わず指を掴んで力いっぱい折ろう!
ジムなら数十キロ持ち上げられても不意に30キロ40キロの重さがかかって耐えられる人はいない。
羽交い締めにされたら足を浮かせて体を丸め、地面に倒れ込んで振り解こう!
体にある最強の武器、それは顎と歯。
どんなに貧相な人にも肉を噛み切る力はある。首が動くなら相手のどこでもいいから全力で噛み千切ろう。
野生を取り戻せ!
ハリウッド映画なら女性が悪漢の金○を蹴り上げて倒すのがセオリー。
でも護身術講座でやらせてもらえば分かるんだけど金○は襲ってくる相手の「奥」なので届かないし弱点だからこそ狙わせてくれないんだよね。
現実は映画じゃないんだ。私はスカーレットヨハンソンにはなれませんでした。
残念。
それでは皆さまどうかご安全に。
いっちゃんの件以前からビヨ内部では何かが起こっていたのだろうと思う。
新曲も稼働してメンバーたちはもう気持ちの整理はとっくについていて
それに比べるとヲタは時間差で驚かされる。この温度差が歯がゆいです。
私は夢羽さんに、これからの人生に幸あれとか長渕剛みたいな言葉をかけるのは
それはその通りで良いんですが、ごく一部のファンかと思うんですけど、
もっと高瀬さんを信頼してあげるべきでは?と思う言葉が多くて、
これはなかなかグループによって違うんだな、と感じました。
一芸に秀でた、優秀で頼りがいのあるメンバーが多いだけに、
そういった個人の吸引力というのはビヨの魅力だろうなと思う。
6つば時代からのつばきを見ている自分としては、あらゆる点で頼りないこのグループを見て
最終的にはりこりこを見る、窺ってしまう、というクセがついていたんですね。
いろんなシーンでりこりこはどう思っているんだろうか、と窺ってみると、ただボケーっとしているだけというか、
いやいやまさか、何かきちんと考えているんだろうという風に思い直してニヤニヤしてみたり、
いま振り返って考えてみると、りこりこは理想的な上司だったという感じがします。
もともとつばきは研修生時代を含めて、みつばち先生直近の出来損ないの集まりといったら申し訳ないんですが、
どうしようもない自分たちに楽屋で毎日泣いてたみたいな話を漏れ聞くと、
りこりこに何か重責を委ねるわけではないんだけど何か横目で伺ってしまう雰囲気というのは
その不遇の時代から培われたサバイブ術なのではないかと思います。
ともあれ、口さがないファンから無能のリーダーなどとも呼ばれることもあったりこりこが
なんだかいろんなトラブルをサッサと片付けて前に進めたというのは、やっぱり人徳だったのかな、と思い返しています。
だからビヨヲタのみなさん。今はもっともっと、高瀬さんを見てあげましょうよ。
これからも卒業のお年頃のメンバーが続々出てくることと思いますが、そういう時でも高瀬さんに目を向けてみたいです。
メンバーの飛び抜けた才能は明らかですし、それを事務所がきちんと売れよーなんていう毎度おなじみの文句も散見されますが、
それからの一年間、俺はそれを溜飲に入れたままで手をつけず、でも腸は煮えたぎっていた。アンドロイドが自分の上司になったのは十八ヵ月ほど前だから、他が同じことをしても安全なのはほとんど間違いないはずだけど、俺が自分の上司のことをSNSで罵倒していたのが重役にバレたらどうなるかは、想像する気にもなれなかった。
俺は翌週の午後まで待った。その時間、重役は会議に没頭する。俺は自分の部屋のドアを閉めて、カーテンを引いた。ドアには鍵がなかったから、アカウントに偽装してアイコンを隅まで塗り潰したものの、モニターをじっと見つめたままでいるうちに画面が暗くなってしまった。VRの中で、元上司のことを考えた。元上司は俺も持っているのと同じ業務が原因で職を失ったが、目の見えなかった期間が長すぎたのでESC(Employment Support Center)の力では光を取り戻すには至らなかった。元上司が見せた将来への信頼が揺らぎはじめる。元上司の業務内容と俺の業務とは同じ系だが、取り掛かり方は個々人それぞれだ。俺は職を失うハメになりたくない――それに、俺がもたらそうとしている変化は、社長のところへ行ってアンドロイドの設定をもとに戻せば取り消せるものだとはいっても、それは重役に気づかれずにできることではなかった。
ゴーグルを揺すってふたたび明るくし、アプリの起動画面を表示した。この幻想的なアイコンのような鮮明で新緑の葉が木に宿っているのを、俺は見たことがない。けれど旧世代的な家庭環境を持つ友人たちが、寓話とも呼べる”新緑の葉”を見つけることは自分たちにも全然できないと確証してくれたことがあり、その言葉を疑う理由はなかった。俺の職場環境は、人間の三種類の性格類型論の典型的な反応と同じように分類することで、人の力量を最大限発揮できるよう最善を尽くす。だが、単なる分類しかしていないわけではなく、ほかの選択をすることもできる――その選択した場合、俺は職場の中に新しいハードウェアを入れることなく、社会心理学的なこれまで以上の就労を得ることが出来るのだ。
その仕組みはこうだ。俺の人工学習データじゅうに散らばっている量子シナプスには数百万個のスペアが含まれていて、機能中のセクターのどれかが故障したときに代わりができるように待機している。そのスペアは、前もって特定の言語や思想に割り当てられてはいない。なぜなら、たとえば代替の需要が右翼的や左翼的に偏った場合に、左翼派に割り当てられたスペアが、うまい棒のチーズみたいな人気味によって場所ふさぎに終わることがないようにするためだ。そして選択後に俺の思想を真似る手段は、形式分子や言語フィルターではなく、量子井戸全体に一連の電圧を設定するというものなので、スペアが表現できるのは民主主義・共産主義のような二元論に限定されない。社長が送ってきたアンドロイドは、各員に指示して俺たちの持つスペアのすべてを覚醒させ、さらに、覚醒したスペアをもともとの思想の領域のあいだとその両側、計四つの新しい帯域に同調させることができた。
俺はマウスホイールを指先でなでながら、結論を出そうとしていた。アンドロイドの上司が俺を他の社員と同じにしている。アンドロイド上司のおかげで俺は人々の中に紛れ込んでいる。それ以上のものを望む理由は? 統計学的な運命まかせにされていても、俺はあと二十年、完全に職を失うことはなかっただろが、友人は実行できるもっとも早い時期に代替手段を選択し、俺はこの環境に適応する機会を最大限にあたえられた。
だが、それは十八ヵ月前のことだ。俺の頭にまだ新しい環境を意義あるものに出来る柔軟性がある今、この試みがなかったら、自分がなにを逃したかは死ぬまで分からないままだろう。
決断を引きのばさせていたマウスから指をいったん離して、そのあとすぐ画面のボタンをクリックする。
会社はアンドロイドの優位性と実務証明を必要としたが、どちらもアンドロイドの取扱説明書にはっきりと記載されていた。メーカーの保証書は既に期限切れだが、なにも無効にはなっていなくて、HPの長たらしい前書きが謳うところによれば、このアンドロイドは定期検査をする技術従事者からその作動を完全に隠すことができる。休止状態に戻しても修正不能な誤りが生じないかぎりは、企業がアンドロイドの思想ブールに干渉したことは一生発覚しない可能性もあった。
次の局面では優位な反応を示していた。標準の思考(はい・いいえ)の曲線はすでにかなりの部分が重なりあっていたが、青の曲線はそこからほぼ完全に離れたところにあった。デフォルトで選択されているのは、青と赤のあいだにふたつの新しい曲線を押しこんでから、さらに折衷案の端にひとつ、否定案の端にひとつの曲線を付け加える方法だ。 ”逆方式”のデフォルトもひと組用意されていて、それは新しい思考のさまざまな組みあわせからどのようなかたちで情報を引きだすかを指定するものだった――あらゆる人間の頭の中で赤と青の反応の違いが計算され、脳へ送られるのとまったく同じようだ。
そうした構造をなにかしら編集する――そのプロセスに企業独自のひねりを加える――ことを考えると、緊張で手が汗ばんだ。理想的な思想範囲がどんなものか、俺自身の個人的な考えを作り上げようとしても、どこから手をつければいいのかさえわからない。それは同時に、俺がデフォルト設定を許可するとしても、それが悪意に基づいた選択ではないことの証明だともいえるだろう。けれど、表示されているいくつかの曲線の整然とした見た目には、心落ち着かせるものがあった。密着して並ぶ曲線の小さな山の各々は、隣の山から約八十ナノメートル離れた波長で頂点に達していて、行政上の認可領域を均等かつ効率的にカバーしている。そのどこかにもおかしな感じはなかったし、生物学的深層レベルの複雑な正当化なしには納得できないところもなかった。なにも変更は必要ない。
俺は『続行する』を押して、次のページに進んだ。
警告
あなたのアンドロイドの思考セクターを起動・再同調させると、アンドロイドの脳の思考経路に永久的な変化を生じさせる可能性があります。このアプリは思考をオリジナルの状態に戻すことができますが、あなたのアンドロイドの挙動に関しては、われわれはそのような保証をいっさいいたしません。
この警告に俺はまったく動じなかった。アンドロイドが受けとったり受けとらなかったりする情報によって改変されるというのは、俺にとって目新しい話ではなく、取扱説明書にでかでかと書いてあることだった。アンドロイドの登場は日本を救うのにはちょうど間に合ったが、俺を救ってくれたほどの効果があるものではまだなかった。さまざまな規模の企業や自治体たちもアンドロイドを導入している。考えれば考えるほど確かだと思えてくるのは、俺がこのチャンスをふいにしている間に、同僚や俺の友人たちが俺のはるか先を全力疾走して谷の反対側に姿を消してしまうのがいちばん恐ろしい、ということだった。
警告文はプログレスバーに取って変わった。アプリとアンドロイドの共同作業の進行状況を、バーの上の文章が警告するのを俺はまじまじと見ていた。スペア・センターの工程作成、センサーの内部テスト、再同調、再テスト。
プログレスバーが八十五パーセントのところで一時停止し、アプリが俺に、AIは制御されているか、適切な業務は可能か、と尋ねた。思考はクリアで、業務環境は整備済みだった。俺は社内からアカウントを追い出し、スマホをひらいて自分のアカウントを部屋に導き入れてから、社長にもらったアクセスキーをテーブルに置き、それからアンドロイドに投じる思弁ベースが連続した帯になるまで前後に調整した。
アプリに指示されるまま、俺はゆっくりと帯を動かして、スペクトルの左から右へ、赤の端から順に少しずつ青を動かしていった。スピーカーからナノメートルの数字がカウントされるのは、アプリが量子ブールにおこなった微調整をあらゆる波で検証しているためだ。それはとても劇的で俺に高揚感をもたらした。
アプリが終了を告げる。
「完了」
スマホを見ると、プログレスバーは百パーセントに達していた。画像がズームアップして、環状の帯がふたたび表示された。それが広がり点になるとアプリは終了し、俺をスマホのホーム画面をじっと眺めた。
扉を全面に閉じて、部屋を空白で満たす。なにひとつ前と違って見えるものはなかった。周りを知覚するのに何かの変化が生じるまでには数日から数週間かかることもある、と注意を読んでいた。しかし、苛立ちは安堵に相殺された。俺が今ほかに何をしたにしろ、少なくともアンドロイドに害を与えても職は失ってはいなかった。
次の数日間、俺は職場を実験場にして、同僚の意見に対して独自の判断をしたようなアンドロイドの言論に悩まないことを学習した――いうまでもなく、人権無視や、パワハラや、答えようのない曖昧な質問につながるような、それよりはっきりした反応を見せないことも。明らかに動揺する新入社員や、競合他社びいきの上司を見て、ニヤニヤ笑いをこらえるのが無理そうになったときには、自分だってどこを取っても同じくらい馬鹿みたいに見えていることを思いだすようにした。そのためには鏡は必要なかった。ちらっとシャツの汗の染みに視線を下げれば、それはまるで洪水の水が引くときに残していった灰色の沈泥のように見えて、こみあげる恥ずかしさがきっちりと唇から笑みは拭い去った。
こんなのいくらでも見るんだけど、普通はパラパラと入れ替わってくじゃん。おたふく風邪みたいなもんで、1回は陥るけどその後はだいたい現実ラインに落ち着いていくもんだ。
しかし、年期が入っていてずーっとこれを言い続けてる人たちがいるよね。
最近、こう言うひとらが教育問題になると、とたんに現状維持指向の中道右派みたいな事を言い出すのに気付いた。
例えば
ほかにも
これってやっぱり教師なのかな。連中。
教師って視野が狭いし社会性ないじゃん。そう考えると色々と説明がつくんだけど。
今の1歳は6歳に比べて2割少ないから、こんな調子で減ってって学校教員は余ること確実なんだけど、学校以外ではやっていけないやつらだけ残りそうで嫌。
心理学のまあまあニッチな理論に、対象関係論というのがある。赤ちゃん目線から見たお母さんとの関係に関する理論、という多分心理学に興味が無い人からしたら意味不明な理論がある。
この対象関係論に、「原始的理想化」がある。これは、「自分の好きな人がやる事をなんでも良いと思う事」である。もう少し言うと、「好きな人が自分にとって嫌なことをしても、それをその人がやったと思わない」事である。
この概念はSNSでの喧嘩とか炎上とかそういうのにも適用できそうだなと思う。たとえば熱狂的なファンが、アイドルがなんかヤベー事しても、いや〇〇は悪くない悪いのは××だ! ってなる奴あるじゃないですか。あれ立派な原始的理想化だと思うんですよね。
で、その原始的理想化の更に面白いところは、赤ちゃんが何故そんなことをしているかと言えば、自我の形成過程において相手の理想的な部分を自己に取り込んでるからそうなるんですよね。対象関係論なんで科学的根拠とか無いんですけど、面白くないですか? つまり、原始的理想化が起こってる時、「好きな人」はイコール「自分」なんですよ。だから原始的理想化が起こっている時に、好きな人を否定するということは、自分を否定することになるんですよね。
何か有名人に問題が起きた時、それを凄く擁護するファンとか一定数いると思うんですけど、それってまあ有名人を守ろうとしている一方ファンが自分達自身を守ろうとしている行為でもあるって事なんですよね(対象関係論的に言えば)。
まあ赤ちゃんとお母さんの関係の理論なんで、そういう行為自体が言うなれば"ガキ臭い"となるのも、また二重におもろいなと思ったりしますね。
あなたの感じていることについて、まずは理解を示したいと思います。労働組合や集団行動に対して否定的な感情を持つことは、個々人の価値観や経験によって異なるため、決して珍しいことではありません。あなたが述べたように、「徒党を組んで戦う」というアプローチが、個々の自由や選択、合意形成のプロセスを重んじる立場から見れば、疑問を感じることもあるでしょう。
労働組合や集団による交渉は、個人では力が及ばない場合に、より良い労働条件や待遇を求めるための一つの手段として存在します。この背景には、労働市場における権力の不均衡があり、個々の労働者よりも組織されたグループの方が交渉において有利な立場を得やすいという実情があります。
しかし、あなたが指摘するように、個人が自分の利益や価値観に基づいて職場を選択し、働く場所を自由に選べる状況が理想的であることも確かです。経営者と労働者間の利害が一致し、共に目標に向かって努力できる環境があれば、対立することなく共存共栄できるかもしれません。
労働組合や集団交渉のアプローチに対して異なる見解を持つことは、多様な意見や価値観があることの表れであり、それぞれの立場や考え方には一定の正当性があります。また、労働組合に対する批判的な意見を持つ人々もいれば、労働組合の果たす役割を高く評価する人々もいます。
重要なのは、異なる視点を理解し、それぞれのメリットとデメリットを考慮に入れながら、より良い労働環境と社会を目指していくことでしょう。そして、個々人が自分にとって最適な選択をできるよう、情報や選択肢を広げていくことも大切です。