はてなキーワード: 晩年とは
「オチが救われない話」というまとめサイトを読んでいたら、こんな救われない話を知った。
『フランダースの犬』は、アニメとして日本人によく知られている。
もとは1872年発表のイギリスの童話だが、原作者の女性がベルギーの風俗をイギリス人の目で偏見的に描いている。
イギリス人の心の奥底には、ヨーロッパに対するかすかな敵意が潜んでいる。
「この地方は荒れ果て、人々は不親切で、しかも愛すべき犬を何代にもわたって、激しい労働に不当にこき使っている」
こんなことをずらずらと書いているのだ。
その上、本家イギリスでは、運命に抗わずに教会で死ぬという内容がアングロ・サクソン的に受け付けられなかったようだ。
結局欧米では、誰も見向きもしなくなったというわけだ。
ところが日本では、1975年に感動的なアニメが作られたために爆発的な人気を獲得する。
80年代からの海外旅行ブームでは、ベルギーのフランドル地方観光が定番コースの一つとなったほど。
もっとも、ルーベンスの絵を観ることはできても、『フランダースの犬』にまつわるものがそこには何一つない。
日本人がガッカリして帰国するのが、当時のツアーのお決まりのパターンだったとか。
ところが、1982年、大きな転機がやってくる。
ベルギー・アントワープの観光局で働いていたヤン・コルテールという男性が、運命を変えた。
日本人観光客から『フランダースの犬』という物語の存在を聞いたことが発端である。
生真面目な性格で、面白みのない変わり者と思われていた彼には浮いた噂もなく、恋人はおらず、友達も少なかった。
そんなオタク青年の彼は、地元に関係する噂話を聞き逃さなかった。
「アニメをやってたんだけど、もしかしたら原作があったのかもなぁ」
というだけで『フランダースの犬』について、はっきりとしたことが分からない。
街の誰に尋ねても、何もわからなかった。
しかし彼はあきらめない。
「この地方を舞台にしているのなら、図書館にヒントがあるかもしれない」
図書館であらゆる資料をあさり、……そしてとうとう、60年の間、二、三度しか借りられていなかった原作を見つけたのだ。
欣喜雀躍たる、彼の喜びが想像できるだろう。
……だが、読み終えた彼はがっかりした。
実は原作には、最後にネロが天使に救われて天国へと召される……というシーンはない。
ただただ暗いだけの作品なのだ。
原作者は夫に捨てられた後、犬の保護に尽力していたが周囲に相手にされなくなり、晩年は30匹の犬に見守られて亡くなっていた。
(この原作と日本人の感動との間の乖離は、いったいなんなのだろう?)
もしかしたら、それがヒントになるのかも?
彼は、日本語を学び、日本人観光客の友だちを作り、帰国した彼らからアニメビデオや童話集を取り寄せてみた。
その結果……感動したのだった。
情熱は、いよいよ膨らむ。
一年半かけて調査を行ない、原作の舞台が近くのホボケン村だと突き止めた。
当時の日本なんて、極東の島国で、ドイツに加担して負けた挙句に少々景気を持ち直しただけの国、というイメージだったから、仕方ないだろう。
だが、彼の熱意は次第に周囲を突き動かしはじめた。
ルーベンス以外にこれといって観光資源のないこの街に、もう一つの観光シンボルが生まれるかも知れない。
そういった周囲の思惑も重なり、ついには1985年、ネロとパトラッシュの小さな像が、ホボケン情報センターの前に立てられた。
除幕式にはアントワープ州知事、市長、在ベルギー日本大使らも参席、盛大なパーティーが開かれたという。
ネロとパトラッシュが共に埋められた(ことになっている)街の教会は、観光コースとなった。
ルーベンスの作品を観るためにアントワープを訪れていた日本人観光客がホボケン村にも立ち寄るようになった。
その地域は観光収入でおおいにうるおい、観光局勤めの彼の名声も次第に上がった。
フランダースの犬はベルギーで放送され、80%近い視聴率をとったという。
ヤン・コルテールは『フランダースの犬』研究家として知られるようになる。
その地域では日本通として知られ、日本との橋渡し役としても活躍するようになった。
研究のために日本へ何十回となく訪れるようになり、大の親日家となった彼は、日本人女性の石井ヨシエと結婚した。
彼は妻と共に、今でも地元でつつましやかに幸せに暮らしている。
……はずだった。
なぜなのか?
コルテールが日本人の妻をもらい、日本とベルギーの架け橋として活躍していることまでは、いろいろなサイトで詳しく取り上げられていた。
ところが、彼が犯した殺人についての続報をいくら調べても、日本語のサイトでは何一つその理由が分からないのだ。
英語のサイトで調べても、アメリカ人などが『フランダースの犬』に関心がないためか、まったくヒットしない。
仕方ないのでグーグル先生の力を借りて、オランダ語のサイトを日本語に訳したり英語に訳したりしながら調べた。
その結果、驚くべきことがわかった。
コルテールとヨシエが結婚して数年は、大変幸せそうだったそうだ。
だが、次第にヨシエは旦那の拘束がうとましくなってきたらしい。
もっと自由にさせて欲しい、自由にいろいろな場所に行きたい、というのがヨシエの欲求だったそうだが、コルテールはそれを許さない。
異国の地にやってきて、海外でしか味わえない自由を満喫したい日本人女性。
彼女を大切にするあまりに、彼女の全てを管理したいと願うベルギー人男性。
だんだんと、二人の間には溝が生まれるようになった。
二人の間はギクシャクし始める。
その時に彼女の前に現れたのが、口が堅いという噂のピエールだった。
「夫とは長いこと話してないの。夫は頑固でさ」
秘密を守れるピエールへの心安さからか、ヨシエは彼へ愚痴をこぼすようになった。
「彼は変わり者だからね。我慢さ」
愚痴を聞いてもらううちに、ヨシエがピエールに親しみを感じ、やがて二人が愛しあうようになるまでに時間はかからなかった。
ピエールの口は固かったが、ヨシエの下の口はゆるかった。
二人がバスルームで愛し合っているところを、コルテールが発見してしまったのだ。
口がゆるい上に、脇も甘かったというわけだ。
だが、そのときヨシエは豹変した。
日本女性のおしとやかさはどこへやら、情事を発見したコルテールを怒鳴りつけたという。
「あんたさぁ、男としての魅力がないんだよ!!」
彼女の口は、悪かった。
その時に、コルテールは、彼女のことを深く深く愛していたことに改めて気づく。
何があろうと、彼女の気持ちが戻ってくればそれでいい、というのがコルテールの偽らざる気持ちだった。
彼は、離婚を迫るヨシエに対して、仲を修復したいと取りすがった。
しかし、彼と別れてピエールと一緒になりたい、というヨシエの気持ちは変わらない。
それは、最後のお願いとして、彼女と日本を一緒に旅行することだった。
二人が出会った日本で過ごせば、彼女の気持ちも戻ると思ったからだ。
……これ、男にありがち。
男の浮気は「名前をつけて保存」だが、女の浮気は「上書きして保存」
他の男に気持ちが移った以上、振り向くわけなんてないのだ。
日本でヨシエは、両親にコルテールを引きあわせたという(この辺りは女性特有の図太さといえよう)。
それでいながら、彼女の気持ちが変わることはついぞなかった。
それを拒むコルテールを、ヨシエは罵った。
そして、決して犯してはならないラインを越えてしまった。
彼女は、職場のベルギー人の同僚達と彼とを一人ひとり比較して、いかにコルテールが劣ったオタク野郎なのか、痛罵したのだ。
……こと、ここにいたっては、どうしようもない。
その時の衝撃は、彼の行動が示している。
コルテールは逆上し、ヨシエをナイフで22ヶ所切りつけて、殺害したのだ。
リアルは、『フランダースの犬』以上に救いようのない話だった。
マルクスは政権をとった後のことはあまり具体的なビジョンを示していないが、歴史をみれば、確実に暴力のツケがやってくることがわかる。
プロレタリアートが権力を奪取する手段として暴力は便利この上ないのだが、ポルノ並みの中毒性がある諸刃の剣でもある。暴力革命を成し遂げた政権がその後に示す暴力性は凄まじいし、反動勢力も含めて人民全体に暴力癖がしみついてしまう。中国を例にとると、偉大なマルクス主義者の毛沢東も晩年は文化大革命などで大荒れだったし、鄧小平も結局戦車でカタをつけた。最近では反政府側のチベット暴動なんかも然り。(中国についてはもともと暴力革命の伝統があるので、鶏が先か卵が先かの論かもしれないが。)まさに「剣をとる者は剣によって滅ぶ」ということであろう。元増田のいう「誤り」がどういうことを指すかはわからないが、臨床的観点から副作用がきつ過ぎる故まず採用しないのが賢明であろうとは言えると思う。
日本で始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。
ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範と市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範の適用の仕方を検証している。
サンデル教授はこれまで社会規範の適用されてきた社会に市場規範を適用するという最近の風潮を危惧している。
それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。
そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会の幸福への試金石になるかもしれない。
宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授はコミュニタリアン(共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。
つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義、自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。
NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授は功利主義、自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義と権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。
5章以降のカントの示した人生観やロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。
人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。
自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語を解釈している。
自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、
物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。
そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアンの正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。
サンデル教授は功利主義、自由主義、共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。
フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
(フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])
目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。
自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。又、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である。 自己超越者(transcenders)の特徴は
1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
(自己実現理論 :wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])
フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的を認識することが重要であることを示しているように思える。
ミクの声に違和感?とかなんとかって違うんだよな、人は人それぞれで声が違うもので、ミクの声の人との違いはその個人差の中に埋没すると思うんだよ。
だからあとは曲の問題だし、歌わせ方の問題だし、PVの問題だったりするわけだ。
ドラマやアニメの主題歌がたくさん売れるのは、そのOPやEDがPVの役目を果たしているからだと思うよ。
だからPVも重要で、ニコニコ動画、youtubeがない時代だったらミクがこんなに売れることはなかっただろうね。
萌え絵なんてものはお上手とかお下手ですねとかより、可愛いかどうかでしかなくて、その点ちょっと小奇麗な絵よりヘタクソなほうがかえってよかったりするわけで
たとえばさ、ピカソってめちゃくちゃ絵上手い人なんだよ。
あれ、上手いんだよ。
つまりさ、君が言ってる上手い下手っていうのは恐らくはより写実的かどうかということなんじゃないかな。
でも萌え絵ってさ、写実じゃないんだよ。現実にはいないんだから。
抽象画なんだから、より抽象的に可愛いを表現できれば写実的である必要性はないんだよ。
下手に見えるのにこっちの方がいいなーっていうのは、可愛いをちゃんと表現できてるってことなんだよね。
むしろ萌え絵としてはより完全に近いと言っていいと思うよ。
【岡崎】
・割りと張ってて飛び出したりしないプレースタイルの本田と前田がいるなか、貴重な裏狙ってる選手。
・3枚のところが松井本田香川だと足元すぎて相手からしたらあんまり怖くないのかもな。
・10人になってからもあんだけ動いてディフェンスもすればそりゃ監督は使いたいよなー。
・1点目2点目もなんだかんだ決めてもおかしくなかった。
・ゴンにちょっと似てる気がする。
【長谷部】
・シュート打てば枠内だし、いい攻撃参加もするし献身的なプレーもする。晩年のボランチのヒデとかもう超えてるんじゃないか。
【遠藤】
・溢れ出す自信がやばい。中盤の支配者みたいな。ここを激しくいかれると日本沈没の可能性。
【今野】
「パート」と言っているのに
とか言い出すのも現実分かってないよな。
体調の悪い高齢者が出かけるのもしんどくて一日中テレビ見てる、というのはあるだろうけど(祖母の晩年がそうだった)
元気なのに一日中部屋でぼーっとテレビみてる高齢者なんてそう居ない。
60代くらいの割と元気な若い高齢者(←変な日本語だけど)は大抵働いてるか、ご近所から民生委員とかのボランティアに駆り出されてるよ。
で、孫育ての為にパート辞めたような高齢者が「パートやってる方が楽だった」と愚痴るわけ。
そもそも「高齢者=金持ち」っつーのも世間知らずだよなー。お前の周りにそんなに金持ち高齢者いるのか?どんなおぼっちゃまだ?
ひとつのビジネスとして、お年寄りにイリュージョンのエロゲなどを
『最先端の仮想現実』と称して売ってしまえば、どれぐらいの儲けを得ることができるだろうか。
もちろん失敗するかもしれない。だが僕は、
老人の中に、若い女性とセックスしたいと思っている老人がいることを知っている。
しかも、残りの人生もあまり長くはない。
そこに、『仮想現実』として、イリュージョンのエロゲなどを紹介する。
老人は、『自分が晩年である』という効果も手伝って、エロゲにのめりこむだろう。
「時代はここまで来たのか…』なんて言ってしまうだろう。いや、
実際時代はここまで来たのだけど。
人工知能に恋をしたりセックスしたりする物語は、古今東西いろいろあるが、
やはり、科学の力で性問題を救ってほしいと考えている人が多いのだろう。
ならば、例えそれが若者から『フェイク』であることを見透かされたとしても、
それを老人に売ってしまうのは、ひとつの優しさであり、ビジネスとしても
十分成立するのではないだろうか。
俺は何を言っているんだ。
twitterのXSS脆弱性が露呈してちょいとした騒ぎになっているので表の世界ではあまり知られていないXSS四天王について軽くメモしておく。
日本人。今回のXSS脆弱性騒動を引き起こした男。表の顔はライブドア所属のサラリーマンだが夜になると7色の言語を操り電脳社会を駆け回る。推定27歳。一件のXSS脆弱性報告で15000円を稼ぎ白金台にXSS御殿を建てる。四天王序列は最下位でありお馴染みのテンプレ「●●がやられたか…」「ククク…やつはしょせん我ら四天王の中では捨て駒よ…」の●●に当てはまる男。得意技は『デスマーチ』。
日本人。表の顔はサラリーマンプログラマ。推定10代。数年に一度XSS脆弱性を用いたあいさつブームを日本中に引き起こす四天王序列No.3。伝説のXSS愛好家はまちーの息子。必殺技は『HelloAgain』。
アメリカ人。故人。表の顔はポップスター。子供のころ「ABC~♪」と連呼していて無機質なアルファベットと記号を組み合わせることでXSSが発生する事に存在に世界で初めて気付いた開拓者。
XSS界最大の壁Google社の脆弱性発見直後に謎の死をとげる。満50歳没。晩年の四天王序列は2番目であった。必殺技は「FaceEdit」
故人。日本をXSS先進国に引き上げた功労者。愛用機はシグマリオン3。ライブドア時代に髭男爵DanKogaiとの社内権力闘争に敗れ下野、裏社会でXSSを駆使して頭角を現し四天王トップに10年君臨する。後継者Hamachiya2の台頭を見届けるように2009年ひっそりとこの世を去る。必殺技は盟友TakagiHiromitsuとの連携技「Don't say sanitizing!」
これ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/24208162
ブコメがひどいですね。リストに挙げられた故人の名誉のために少しお話をさせていただく必要があるようです。
ホメオパシーは電波な医者が編み出した電波な理論だと思われていますが、それは違います。提唱された当初は、当時の先端医療の延長線上に立てられた有意義な仮説であり、当時の標準医療よりましなものでさえありました。その当時の信奉者は、必ずしもおかしなものを妄信していた非開明的な人物であるとは言えません。
今のように、ベルリンの壁を分子0.6個(平均値)しか残らないまでに薄めたものを教室や会社に噴霧すれば非コミュのお前らもいじめられなくなるなどというオカルトではなかったのです。(ベルリンウォールのレメディは、人間関係修復、いじめや鬱対策、戦死者やテロ被害者の浄霊などに効果があります。)
症状を引き起こす物質を薄めて体内に入れることで症状に対抗するという理屈。
何かに似ていると思いませんか?
非常に薄めた菌を植えて抵抗力を獲得する、ワクチンですね。
エドワード・ジェンナーが種痘の接種に成功したのは1796年、発表は1798年。それ以前から天然痘の接種は行われていましたが、なにせ病人の膿をそのまま植えるので、結構発病して死にました。薄めて接種することで危険性を下げ、うまく効果だけを得る方式を編み出したのがジェンナーなのですね。
一方ホメオパシーの始祖であるドイツの医師、サミュエル・ハーネマンが類似の法則を初めて世に問うたのは1796年(医学誌にエッセーを発表。これをホメオパシーと名付けたのは1807年?で、体系付けて理論書にまとめるのは1810年)。この時点では薄めることを条件としていないようですが、1800年には希釈したベラドンナを用いた記録が確認できます。
はい。ワクチンとごく初期の同種療法は、同時代の似通った発想なのです。
ハーネマンは希釈という手法をおそらくはワクチン研究から取り入れ、薬草でも同様に毒性を下げて薬効を得られるのではないかと考えたのでしょう。当時の最先端医療を勉強し、さらに拡張して薬草の効果にまで敷衍できないかと考えたのではないでしょうか。毒を薄めて薬にする薬草は結構多いですしね。結果的には同種療法の考え方は誤っていたものの、当時おかしくはない着想であり、悪くない医学上の仮説であったと言えます。
ハーネマンはアホではない。真摯な学究の徒でした。砒素中毒に関するまっとうな専門書を書き残してもいます。だからこそ砒素や水銀を処方していた当時の医療を嫌って独自の療法に走ったのであり、先端医療から希釈という発想を取り入れる聡明さも持ち合わせていました。
ふと思い付いてキナ皮を飲んでみたらマラリア類似の症状になったことから同種療法を考え付いたという逸話が有名ですが、ここに薄める手続きはありませんよね。そこは他人の先端研究を意欲的に取り入れた部分です。
ホメオパシーがまったく新しいオリジナルの着想だと言いたいホメオパスが元ネタを隠蔽したためにここがミッシングリンクになっているのです。もっとも、ハーネマン自身もそうだったのかもしれません。そのまま採用するのが癪で、薄めれば薄めるほど有効などという蛇足を加えたのかもしれません。
同種療法はハーネマンの元でほそぼそと試されていたのですが、これが世間の知るところとなったのは、1800年の猩紅熱の流行です。若草物語で三女のベスが死の淵をさまよう病気ですね。この時、上で述べた通り、希釈したベラドンナを使用しています。
ワクチンまでも開発されたご時世ではありましたが、標準医療としては依然、瀉血と(動物の血の)輸血が行われていました。そんなもん、ぴんぴんしてても死んでまうわ。
のちにナイチンゲールが語った通り、害のある行為よりは意味のない行為の方がましです。なので、同種療法は標準医療より生存率を高めました!
おめでとうございます。最先端医療である同種療法の有効性が確かめられました。
かくて華々しい実績を引っさげてデビューした同種療法はやがてホメオパシーと名を変え、1830年代までは標準医療に追われながらも果敢に戦っていたようです。が、1828年頃には、ハーネマンが次々思い付く新理論についていけないホメオパスも現れていました。ホメオパシーはもはやまったく医学上の一仮説ではなくなってしまっており、理論を信じて従ってきた者とどこまでもハーネマンに付く者という形でホメオパス同士の内部抗争が始まりました。
1830年からのコレラ大流行で英仏が水際作戦に失敗したため近代医療への不信が高まったことがホメオパシーの最後の味方となりました。ハーネマンは若い妻を娶り、パリの社交界に招かれさえもして、幸せな晩年を送ります。
しかし、それが最後の輝き。所詮は誤った仮説であったので、医療の目覚しい進展に伴い取り残されてしまいました。お疲れ様でした。役目を果たし終えた仮説に用はありません。誤謬でしかなかったホメオパシーは、そのままマイナーな代替療法の一種に零落していったのでしょう。
ですが、第一次世界大戦終戦後の暗い世相の中、ホメオパシーは再び胎動を始めるのでした……。ハーネマンの遺稿(と称するもの)が1920年に刊行されるほどに。
僕が最近考えるのは、僕が持っている「将来幸せになんてなれないという予感」についてだ。そのことを僕が考え始めたのは「若者殺しの時代」という本を読んでからだったような気がする。元々感じていたモヤモヤがうまく整理され始めたのだろう。
そんなニヒルな考えを持つに至った理由は以下
1.僕の生まれる1990年頃から今まで日本が大体不景気であること、あるいはそのように報道されていること
2.特に最近の日本は結構ヤバイらしくて、それを少し実感していること
4.僕がイケメンではないということ
1はそういう意見を読んで確かにな、と思ったから。よく言われることだと思うので割合。
2は最近の国際情勢、日本の政治いて(そこまで熱心に新聞の政治欄とかを読んでいる訳でもないが・・・)、マスコミが取り上げていることなどを見て日本ヤバいと感じているということ。総理が国歌を歌った歌わなかったとか、グダグダした感じが酷い。麻生の時はもっと酷かったし、もっと他にすることあるだろと思う。
あと、日本ヤバいと感じることは身の回りにもある。大学のサークルとかで、「あいつは金持ちだからなぁ」とかの陰口が叩かれるような風潮が出来上がってた。だから仕送りをもらってる人とかは話したがらない。そしてみんなの節約志向がすごい。金がもったいないからって1日100円のカップ麺で過ごしたり、今日実家から届いたメロンしか食わないとかいう無駄話が妙に多い。そういう「貧乏が正義」みたいな風潮が友人たちの間に軽くあって、お前らは派遣村から来たのか、と言いたくなった。
3は個人の境遇から来てるものなのでしょうがない。簡単にいえば、母親が統失っぽくてちょっと姉に対して虐待みたいなのがあったらしい。祖母がほぼ僕の育ての親である。祖父は、僕が中学生になったくらいから、寝たきりで要介護になってしまい、祖母はその介護に腐心していた。父親は仕事と母親の面倒、晩年の祖父の面倒でもう、てんやわんや。3年前に祖父が亡くなり、今は父親もある程度落ち着いたが、母親は変わらず入退院を繰り返している。姉とのゴタゴタもたまにある。お盆に実家に帰ったが、3人とも老けたように思った。 正直に言って僕はこの家族を見ていると、「がんばればいつか幸福になれる」という文言を信用できない。このことを考えて、時々泣く。
4は冗談。イケメンにも悩みや不幸はあるに違いない・・・けど人生の難易度はイージーモードじゃね
「そんなのみんな同じだ甘えんな」「そんな予感を持っているならむしろもっと頑張れよ」みたいな批判はもっともだと思う。けど、こういう予感を19歳の若者が感じてるのも問題なんじゃないのとか、こういう予感を実はみんな感じてるんじゃないかと思い、増田に書いてしまった。良かったら、意見をお願いします。
終わり。
2010/8/24 追記をしました。http://anond.hatelabo.jp/20100824141446
晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家――この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油罐だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。
16歳で初めて東京へ遊学、初め漢学を次に哲学を志して遂に大学予備門に入学、東京帝国大学では国文科に入り、二ヵ年の修行で病気のために退学した。居士は大学で修める学科が居士の志す所と没交渉のものが多いからというのを退学の一理由としているけれども、勿論病気ということもその退学原因の重大なものであった。
退学が病気に因る如く、居士の事業また病気によるものが多い。その俳句研究を始めたのは喀血後明治21、2年頃からである。 「俳句を研究せねば、足利以来の日本文学とその思想は到底鮮明することは出来ない」 とは、その頃居士が他に語る口癖であったが、斯く考えることもまた病身ということが手伝って力あるものである。そうして24歳より俳句の復興革新に志し僅々5年29歳の頃には略ぼその大業を成就するに近くなったのである。
次に30歳頃から和歌の革新を思い立ち、「紀貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ歌集に有之候」という当時としては歌壇の反逆児としか思えない畏る可く宣戦の言葉を放って健闘すること3年有余、その34歳の頃には既に速くも歌壇一千年の永き惰眠を覚醒し、写生趣味による真実味と自然味とを和歌に注入して以て殿上文学たる和歌を地下の書生学徒の手に移したのであった。
次で文章の革新をも思い立ち、写生趣味を加えた言文一致の文を発表し、真実を自然のままに叙写するのでなければ、到底永遠の生命ある文章を得べからざることを称道し、所謂写生文なる一派の文を興すに至ったのが、明治32年頃からその晩年たる35年頃までの活動により成就せられたのであった。漱石の猫が生まれたのもまた実に子規居士の造った揺籃に於てしたのである。
かような明治文学史上に最大の意義ある事業を為す傍ら、明治24年頃から、俳句の分類だの、俳家全集などの編著にも精力を注がれた。
20歳喀血し、30歳脊髄を冒されて、腰は全く立たず、カリエスは開口して漏膿し、痛苦を伴った。30歳の頃以後は年百年中37度ないし39度くらいの体温を干満した。生まれて虚弱、13歳より5、6年僅かに小康を得、そうして盛年常に病魔に冒されて以て一生を終わった。居士は畢竟病を以て終始したものである。そうして享年僅かに36歳、明治35年9月19日示寂せられたのである。
寒川鼠骨「子規居士小伝」より
シモ・ヘイヘ(Simo Häyhä, 1905年12月17日 - 2002年4月1日)は、フィンランドの軍人、狙撃手。フィンランドとソビエト連邦の間で起こった冬戦争では、フィンランドが生んだもう一人の天才スナイパー、スロ・コルッカと並んでソビエト赤軍から恐れられ、史上最多の確認戦果2505名射殺の記録を残している。
当時のロシアとの国境近くに位置する小さな町ラウトゥヤルヴィで生まれ、幼い頃から猟師を営む。1925年に軍へ入営。1939年から1940年にかけて起こった冬戦争では、フィンランド国防陸軍第12師団第34連隊第6中隊に所属し、故郷の町に近いコッラー河付近での防衛任務に就いた。
ヘイヘは平均気温-20℃から-40℃という酷寒の中で、純白のギリースーツに身を包んで狙撃を行い、その活躍によりソビエト軍兵士からロシア語で"白い死神"を意味する "Белая Смерть"(ビェラーヤ・スミェールチ。フィンランド語では"Valkoinen Kuolema")や“災いなす者”等と仇名された。
冬戦争中のコッラーの戦いにおける丘陵地を巡る戦闘では、ヘイヘを含むフィンランド軍32名が64000名のソビエト連邦軍を迎撃、拠点防衛に成功し、この丘陵地は“殺戮の丘”と呼ばれた。フィンランド軍は終戦までコッラー河付近の領土を守り抜き、この戦果は後に“コッラーの奇跡”と呼ばれた。
ヘイヘは冬戦争中、防寒着の背中を砲弾の破片がかすめて切り裂かれた以外はほぼ負傷する事はなかったが、終戦直前の1940年3月6日にソヴィエト軍兵士の銃撃を頭部に受け、あごを撃ち抜かれる重傷を負う。友軍に救出されて一命を取り留めたが、意識不明のヘイヘを回収した兵士は「彼の頭は半分なくなっていた」と述べており、後年の写真でも傷痕が確認される。3月13日に意識を回復したものの、すでに冬戦争はその前日のモスクワでの講和条約締結を以て終戦を迎えていた。
終戦後、ヘイヘはグスタフ・マンネルヘイム元帥と面会し、コッラー十字章を受勲、兵長から少尉へと5階級もの特進を果たしたが、その後戦場に出ることは無く猟師兼猟犬の繁殖家として余生を過ごし、かつて自らが守ったロシアとの国境線近くのルオコラハティで、2002年に96歳でこの世を去った。
ヘイヘは狙撃において、ソビエト側では旧式になりつつあったモシン・ナガンM28を使用していた。冬戦争当時、物資や銃弾が極端に不足していたフィンランドは、戦前からソビエトの軍事的影響を受けていた為、多くの制式装備がソビエト製だった。このため戦場で鹵獲した敵の装備をそのまま使用でき、ヘイヘも敵の武器であるモシン・ナガンを使用することになった。ヘイヘは身長約152cmと小柄ながら、120cm以上あるこの銃を手足のように自由に扱ったと言われる。後にその活躍から、サコ社によって調整された特製のモシン・ナガン[1]を与えられている。
モシン・ナガンには3.5倍から4倍の倍率を持ったスコープが装着できたが、ヘイヘはこれを使用せず、銃身に付いた鉄製の照星と照門のみで狙撃を行った。これは、猟師時代からの射撃姿勢への慣れ[2]と装備の軽量化に加え、レンズによる光の反射で自らの位置を悟られるのを嫌ったことによる。当時の狙撃にはスコープの使用が当たり前になっていた中で、あえてこれを用いずに多くの敵を倒したヘイヘの名声はさらに高まった。ヘイヘの使用したモシン・ナガンのうちの1丁は現在もフィンランド国立軍事博物館に展示されている。
ヘイヘの狙撃技術は入隊前に営んでいたケワタガモ猟で培われたものと言われ、これは元猟師だったソビエト軍のヴァシリ・ザイツェフや、アボリジニーの猟師出身者が多い現代のオーストラリア軍SAS狙撃兵などの経歴と共通する。ヘイヘの狙撃は連続的な射撃と精度を両立していたとされる。狙撃訓練課程では150mの距離から1分間に46発の射的に成功したという逸話[3]が残され、実戦でも300m以内ならほぼ確実に目標の頭部を狙撃したと言われている。
ヘイヘが狙撃で殺害した人数は最終的に24500名から25540名と言われ、いずれにしても世界記録となる[4]。この中には狙撃銃以外の火器によるものや、未確認の殺害数は含まれていない。またヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではKP31サブマシンガンを用いて、記録では3200名以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した10505人よりも多くの敵兵士を倒したと言われている。これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間のうちに残されており、1939年のクリスマス直前の12月21日だけでも525名の赤軍兵士を殺害し、クリスマスの夜には通算殺害数が4138名に達していたという。
1998年、晩年を迎えたヘイヘは狙撃の秘訣を問われた際、一言「練習だ」と答えたという。また、自らの残した記録については、「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでだ」と述べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%98
肉がお好きで、卒寿を超えてもステーキとフォアグラを一度に頼んでいたという。脚本家の倉本聰さんが「存在そのものがすでに演技」と惜しむ森繁久弥さん、96歳。後輩のために弔辞を読む役回りを退き、いよいよ聞く番となった▼人も芸も軽妙だった。TBSの生放送ドラマ「七人の孫」で、お手伝いさん役の新人女優をいたく気に入った森繁さん、放送当日、急坂のラーメン屋台という妙な場面を注文する。台本なしの本番。屋台の丸いすに座ったご隠居は、即興で横のお手伝いにすり寄った▼新人がうぶに押しのける。屋台は坂をずり始め、2人は抱き合って倒れ込んだ。このわるさ、配役を任された久世光彦(くぜ・てるひこ)さんが『今さらながら大遺言書』(新潮社)で明かしている。相手は後の樹木希林さんだ▼女性を愛し、映画でも尻や胸によく手が伸びた。パシッとやられて退散する流れがおちゃめで、いやらしさはない。座談の色話には軽(かろ)みが漂い、エロというより、小さな字で助平と書きたいおかしみがあった▼大阪人のサービス精神に、大御所の威厳がいい案配で重なる。銀幕の盛りはチョビひげ、晩年は白いあごひげの相を大衆の記憶に刻んだ。お座敷でのドジョウすくいと文化勲章。どちらもはまる自在の人だった▼勝新太郎さんや芦田伸介さんら、仲間に先立たれる思いを「朝寝坊でロケバスに乗り遅れた私だけがまごまごしている」と記している。「生きているやつはみんな哀れなんだ」と。久世さんも、最愛の妻子も待つ次の現場に向かって、悠然とバスに消えた。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20090618-OYT8T00349.htm
僕の父は、心臓病を長く患って、十年前に死んだ。父の晩年に、難病の少女が海外で臓器移植を受けたというニュースがたまたまテレビで流れたとき、ポロリと母が「お父さんも臓器移植手術ができたらいいのにね」といった。それに対して、当時反抗期まっさかりだった僕は、「そこまでしたい? たしかに不自由はあるかもしれないけど、今のままでも親父は生きてはいられるわけだしさ」みたいな言葉を返した。当然、母は激怒。父親の反応は「現実にありえない話で喧嘩すんな」みたいに冷静だったけど、内心は悲しかっただろうな、と今なら思える。当時の自分の無神経さは、思い出すと今でも腹が立つ。
……とはいえ、やっぱり、社会の側がどれだけ「生きたい」「生きていて欲しい」という個人の気持ちを許容するべきなのかはわからない、と今でも思ってしまう僕もいる。
うまく意見や疑問としてまとまらないけど、ちょっと吐露したかったので書いてみた。
http://anond.hatelabo.jp/20090414170900
何やらはてなで在日が話題になっているようなので、便乗してみる。
私も在日であった。そして、割と成長するまで自分が朝鮮人だという事を知らなかった口である。でも、通名を使用していなかったので自分が外国人だという事は知っていた。どういう事なのかというと、私は自分の事を中国人だと考えており、朝鮮人だとは思っていなかったのである。おそらく、友人も自分を中国人だと思っていたと思う。
何せ名字が「李」で(ちなみに、自分の名前は日本式だった。例だけど、李 一郎みたいな感じ)、周りで外国人と言えば中国人、朝鮮人は一人もいなかった。さらに、我が家の稼業はラーメン屋だった。これで中国人じゃないなんて、ギャグとしか思えない。
朝鮮人だと知ったのは、おそらく中学に入った頃だと思う。どうしてなのか、きっかけは忘れたが、親に「我が家は中国人なのか」と聞いて、帰ってきた答えが「いや、朝鮮だよ」だったのだけは覚えている。その時に思ったのは、驚きよりも「朝鮮ってどこ?」だった。
当時はまだ小泉純一郎も首相になっていない時代だったので、ニュースに興味もなく成績も学校で下の方だった中学生にとって、朝鮮というのは未知の国でしかなかった。韓国の北だよ、と言われてようやく分かった(当時はソウルオリンピックが開催されていたので、さすがに韓国くらいは知っていた。大韓航空機爆破事件も知らなかったほど、当時の自分はニュースに興味がなかった)
そんな感じだったので、朝鮮人だと分かった後も、自分が朝鮮人だと気にする事は無かった。中国人だとの意識も抜けなかった。周りに朝鮮人が一人もいないのだから、朝鮮学校なんて物もなく、私は小学校から短大まで、日本の学校に通った。名字が珍しい事以外、差別をされた経験もなければ、在日だからと同情された事もなかったので、朝鮮人と強烈に意識する事は皆無だった。
家ではキムチが出た記憶が無く、おそらくは他の日本人と同様の食生活だったと思う。休日の昼は必ず餃子とラーメンだったのはご愛敬だけど。親からも、朝鮮人の誇りだとか、金日成の話なんて聞いた事はなかった。今思えば、不自然なくらい、朝鮮の匂いなんて物が無かった家だったと思う。親戚付き合いも皆無と言って良く、自分は祖父母以外に親戚に会った事がない。聞けば、祖父母には兄弟がいたらしいけど、朝鮮戦争のごたごたで亡くなったらしい。
朝鮮人だと強烈に意識したのは、拉致問題だったかな。社会人になっていたけど、相変わらず一部の人(例えば、勤め先の社長とか)以外、私を朝鮮人だと知る人はいなかった。私が、積極的に朝鮮人だと言う事がなかったからだ。何せ、朝鮮人だと言ったところで、朝鮮半島の事なんか、韓国の首都がソウル、北朝鮮の首都は平壌だという事くらいしか知らないのだ。
ただ、通名は使用してなかったので、周りは自分の事を中国人だと思っていた。自分自身、中国語も喋れないが、中国人だとは思う事はあっても、朝鮮人だと思う事はなかった(本気で中国人だと思ったわけではなく、中国人という単語を「外国の人間」という感じで使っていた)。だから、拉致の時も、私は何も言われなかったが、私自身が自分の国籍を気持ち悪いと思った。こんな野蛮な連中と、同一の民族に思われたらかなわない。そう思い、とっとと帰化してしまおうと思った。
こういうと、ひょっとしたら「日本は昔野蛮だっただろう」と言う人もいそうだけど、その時に私は生まれていないのだから、その辺の事は個人的に「どうでも良い」事だ。正直、六十年も前の事をいまさら蒸し返すのは、馬鹿馬鹿しいとしか思えない。
だいたい、親の代から日本に住んで、日本語をしゃべり、日本の会社に務めているのに、日本国籍を持っていないなんて、どうにも不自然で仕方がない。正直、日本が好きか嫌いか以前の問題だった。帰化に関しては、ぶっちゃけ拉致発覚以前から考えていた事だったけど、拉致問題で踏ん切りがついた。
書類が集まらなくてやたら時間がかかったけど、取り敢えず拉致発覚の1年半後くらいに日本に帰化した。名前はそのまま。苦労した割にあまり「日本人になった」という達成感も実感はなく、金がかかって損した気分にもなったが(だって、何も変わってないのにお金は数十万円もかかったんだぞ)、現在私は日本人である。
私の家は、通名を使用していなかったので、外国人だとは知っていたが、在日朝鮮人ではなく中国人だと思っていた事は先述した通りである。そして、以降も朝鮮人としての自我は、全く芽生えなかった。ひょっとしたら、差別をされたら、逆に朝鮮人としての意識も出てきただろう。だけど、幸運な事に、私はそういう機会がほとんどなかった。
ただ、自分が自分を朝鮮人だと思えなかった最大の理由は、それは、我が家に朝鮮との繋がりを示す物が殆ど無かったからだと思う。前にも書いたが、キムチをはじめ、朝鮮の料理すら殆ど食卓には無かったのである。せめて、誰か親戚でもいれば朝鮮人としての意識も育っていたかもしれないが、これも無かった。これは、以下のような理由らしい。
先にも言ったように、祖父母は命からがら朝鮮戦争から逃れてきたらしく、親戚一同は皆殺しになったらしい。
曲がりなりにも同胞に家族を殺されたせいなのか、祖父母は朝鮮に関係する物を意識して遠ざけるようになったらしい。我が家が妙に朝鮮の匂いがしなかったのは、祖父母の教育のせいらしい。殺された親や兄弟の為に、「李」という名字は残しつつ、子や孫(つまり、私や、私の父)には日本名を付けていた。祖父母の話では、日本では意外な事に差別らしい差別を受けなかったらしい。
言い忘れていたけど、ここでいう祖父母は父方の方である。母方の祖父母は、私が生まれる前に亡くなったので、会ったことがない。ただ、聞いた話では、母方の祖父母は父方の方と違って、かなり差別を受けたらしく、意識して日本人と同化しようとしていた家のようだ(母は、例え話として太平洋戦争の時、日系アメリカ人が自分達への差別を無くそうと積極的に米軍に志願したり、アメリカ文化に同化しようとしたのと同じだと言っている)。そのため、親戚からは白い目で見られるようになってしまった。母方の親戚は父方と違って何人か日本にいるらしいのだけど、全く付き合いが無くなってしまった。そして、母親も普通の日本人と殆ど変わらない人間となったのである。ちなみに、母の家は日本に同化しようとしたのに日本国籍ではないのだけど、単純に金がなかったかららしい。母方の祖父母は、晩年かなり身体を壊しており、治療費がかなりかかっていたらしく、帰化費用も惜しかったのだとか。
まあ、こうして、我が家は朝鮮人の家系でありながら、私は朝鮮人としての意識が皆無の人間として育った訳である。
今でも日本人かと問われたら、何となく違和感があるけど(子供の頃は、中国人だと思っていたわけだし)、少なくとも朝鮮人だと聞かれたら、はっきりと首を横に振れる。
ここまで長い文章書いて、何か意味があるのかなとも自分で思ってしまったけど、まあこういう朝鮮人としての意識を最近まで全く持っていなかった在日もいるということで。
http://anond.hatelabo.jp/20090305003946
アイアム元増田。わては真の非モテかと言われると知らねー。けど今まで彼女なんて居なかったのは事実なんだぜ。
文章が気持ち悪いのは仕様な。というか、はてなid を特定されたくないからあんな感じにゃの。ほら、増田に張り付いて視てて特定できる人達が居るのよ。ばれるのが恐いのよ。「あ、実は○○さんってそんなこと悩んでたりするんだ。それも増田に書くとかぷぎゃー」とかってなったら恥ずかしいじゃろ?あんな文章を書いてる時点で恥ずかしいと思ったら負けだっ!
ふぅ、という事で、例の彼女でオナニーしてきたので、もうどうでもよいです…ってのは大嘘で未だに気になってるような気がする…いやオナニーもしてないですよ?
ほら、あのね、もし自分が性欲全快だとしたら、彼女に迫ったら、彼女が傷つくカモ知れないじゃに?「酷い!体が目的だったのね!もう男なんて信用できない!」ってなって、彼女は一生独身となり、研究に実を費やすこととなった。彼女の研究は男性の性欲を減退させる電波の研究であり、彼女の晩年、その研究は完成し、彼女は東京タワーをハイジャックし全世界の男に向けその電波を発信させた。これが後のDNA保管再製計画のきっかけとなった事件である。
いや、単に体だけが目的だった自分に自己嫌悪するだけなんですけども。あっ、これ、なんか重要っぽいけど、掘り下げたらツラそう!だから逃げる!か・ん・が・え・な・い!
そういやね、アレですよ、いきなりね強烈に迫ったりしませんよ。いくら女に植えている自分だからって。例えば「葛原さん、おっぱいをもませてください」なんてやったら只のセクハラおやじになっちゃうわけじゃないですか。
だから最初は、やっぱり飯?とか?食う?とか?一緒に?とかって感じを考えて、
「坂上さん、今度一緒に飯でも食いに行きませんか?神保町にですね、ちょっと有名なお店がありましてね、その手の人には大人気の食べ物がありまして、結構行列が並ぶらしいんですが、それだけまあ人気があるってことなんですよ。確か三田あたりに本店があるらしいのですが、とりあえず近場の神保町あたりも人気らしいんですわ。どうでしょう?行きませんか?行かない?じゃあ、おっぱいをもませてください」
とかこんな感じ?すごく自然。まあ、これでほらお友達みたいな気分を演出してだ。今度は池袋とか荻窪とかの店に行ってみようとか回数を重ねて仲良くなっていくってのがまあ理想的?かもしれないかなーとか妄想でドン!
一応皆様の回答を見る限り、「行け」って意見が多いみたいね。迷うなら行くなってのもあったけども。サイレントマジョリティはどっちかな?やっぱり「氏ね」が多いかな。
俺はついていると思う。
同級生はみんな子金持ち。おかげで今になってお金に対してハングリーになった。
大学で入ったサークルのつながりでいろいろな人と知り合うことができた。
そのおかげで今の会社に入れた。
数年前母が会社を建てた。
まだ全然利益が出ていないが、息子である俺が技術面でのお手伝いやら
そして、田舎だが土地があり、某大手メーカーに1500坪もの土地を貸して定期的に不動産収入があるようだ。
こんなにチャンスがあるんだから、これらを利用して何かをしない手はない。
最近一瞬で一日が終わる。
人生も一瞬で、気がついたら死んでいるのかと思う。たびたび背筋がぞっとする。
やれるうちにやりたいことをやるのだ。
「悪くなかったな」
と思いながら死んでいきたい。
俺はツイている。