はてなキーワード: 海辺とは
車椅子キャラといえば『ぼくらの〜alternative〜』のコズエ
鬼頭莫宏の漫画『ぼくらの』の小説版だが完全オリジナルストーリーで、少しズレた並行世界の話
コズエはオリキャラで、かつては活発なスポーツ少女だったが、病気の後遺症で車椅子生活をするように
夏休みの自然学校として海辺の田舎町を訪れ、他の子供たちが進んで介護してくれ日々を楽しむ
突然に巨大ロボットを操縦することになったコズエは、人家を踏まないように避けて敵を倒そうとそろそろとロボットを歩かせる
500メートル級の途方もない巨大ロボットでも念じるだけで動く
戦闘中に他の子が「ちゃんと歩けてる」とロボットの動きに感嘆を漏らす
その声を聞いた途端、もう長年自分の足で歩くことのなかったコズエは「歩くってどんな感覚だっけ」とふと疑問に思った
思念によって動くロボットは、「歩く感覚」をそういえば忘れているとコズエが自覚してしまったことで立っていられなくなり崩れ落ちる
他の子供達の「立って!早く立って!」という叫びを実行できずコズエはパニックになる
ロボ操縦が「スイッチやレバーの操作をこなすタイプ」ではなく「思念タイプ」の場合、歩き方を忘れた身障者はロボを歩かせるのかというのは面白い題材だった
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押す側の人はわかると思うんだけど、車椅子ってちょっとぶつかっただけで超痛い。
だから押す側はだいぶ神経使う。重いし。
繊細な人なんだなとか思われるかもしれないが、身内は人並に大雑把で人並に優しく人並に理不尽な人だ。
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例えば、人混みを通らなければならないとき。
介助者の自分は当然「すみません」って声をかけて通るんだけど、
乗ってる側としては「何で謝らなきゃならないんだ」って悲しくなるらしい。
そんなことで?ただの声かけじゃない?と思った。
大体人混み通るときって健常者だって「すみませーん」ぐらい言うし。
で、よくよく話を聞いてみると、そもそも「頭を下げないと道も通れないことが悲しい」というような旨を言う。
それは意味が違うと思うけどなあ…と思い、
そのときは「SorryじゃなくてPardonの意味だから、受け取り方が違うよ!」と慰めた。
そういうことを言う人でもなかったので、何となく引っ掛かりを覚えた。
よくよく考え、「そういう風に考えてしまう」こと自体が、身内の内情を表している、そんな気がした。
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金銭的に依存したいとか、恋愛的に依存したいとかは健全じゃないながらあると思うが、
『身体を動かす点において依存したい』という人間は、多分いない。だって不便じゃん。
最初は周囲に助けられてなんとかなるかもしんないけど、それがずっと、死ぬまで続くなら本当に毎日毎日うんざりすると思う。
周囲だって、毎日毎日世話することに疲れてくると思う。そう考えちゃうのも、周囲を信用できていないみたいでいやだし。
でも車椅子の人って実際こうなんだろうなと。
傲慢な人だとか、人を使役することに慣れている人なら、「でも俺は動けないし」で済むかもしれない。
本当~に一般の、どこにでもいる普通の人が突然そんな状況に置かれ始めたら、段々だんだん「申し訳ないな…」って気持ちになるのは必然な気がする。
「自分の要求のために絶対人が動かなきゃならない」が毎日毎日、この先もずっと…って考えたら、しんどくなるわそりゃ。
つまり、身内の中に蓄積された「また頼ってしまった」「また助けて貰ってしまった」という無力さと、
「それに対して自分が返せるものが何もない」という良心の呵責、周囲が自分をどう思っているかへの不安、
それらが蓄積した結果、「何で謝らなきゃならないんだ…」という最初の言動そのものになってるのかなと思った。
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いや、これはマジでよくない。と思った自分は「もっと外に出て元気でいて欲しいな」と安易に考えた。
だってずっと家にいるってことは、やっぱり生活に彩りがなくなるし、体力も筋力も落ちてくる。
これって、人によっては段々生きる気力が減退する場合もあるし、ネガティブになることも多くなると思う。
外に出て沢山刺激があった方が、色んなことが塗り替えられるじゃない。
でも、それも難しいんだよね、車椅子だとさ…。
だから多目的トイレを探さなきゃならない。で、もし使用されてたら使用が終わるまで待たなきゃならない。
車椅子用トイレが使用中で、仕方なく待つことはある。大体お仲間だったり、赤ちゃんだったりする。
ただ、10分後ぐらいに水を流す音もせず、ばっちりメイク決めたJKが出てくると流石にムッとする。
いや確かに多目的だけれども…苛つく気持ちは理性では抑えられない。
もしかしたら彼女も何か抱えているのかもしれないので口汚く言いたくはない。
かもしれないが…しれないが…しかし…世の中には多目的トイレでセックスをするアホもいたりするからな…。
健常者なら、許容できる範囲かもしれない。だってそんな苛立ちも抱えず他のトイレに行けば済むのだ。
車椅子の人だって介助者だって別に、自分に関係なければ許せるかもしれない。
そういうありもしない未来・過去がそのたびに去来し空しくなる。
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他の例だと、地方の美術館では2階に行けないこともあったし、砂利道はガタガタしすぎて危ないから通れないこともある。
外出の選択肢として楽なのはアウトレット。舗装されてるし広いから一人当たりの占有面積もゆったり。でも数は限られてるし場所によっては早々行けない。
海辺の砂浜なんて車輪がもたれるから絶対だめだ。山を登ることも、ハイキングもできない。
エスカレーターも階段も使えないから常にエレベーターを探さなければならない。
エレベーターって意外と辺鄙なところにあるから、実際探し当てるまでもかなり大変な目に遭ったりする。
一度エレベーター縛りで移動してみると、面白いと思う。それをこの先ずっと続けるとなると辟易だと思うが。
見つけたとしても、必ずしも乗れるわけではない。混んでたりするからね。
降りて譲ってくれる優しい人がいると、この先この人に今の五万倍の幸せがあるといいな!と思う。有難いことこの上ない。
実際バリアフリーは沢山あるし、色んな公的機関では配慮されてることが多い。
障害者オンリーの観覧日を設けてくれる美術館などは本当に助かる。
若ければ車椅子サッカーとかバスケとか、そういった活動もあるかもしれないが、年をとるとインドアなことしかできなくなるので。
とんでもない角度の段差の補助?だったりすると「あーっ惜しいですね」となってスルーせざるを得ない。
エレベーター行くのに遠回りしなきゃいけなかったりするし。まあ、仕方ないんだけどね。やってくれるだけ有難い。
(この「やってくれるだけ有難い」も、身内の「何で謝らなきゃいけないんだ」の一部だとは思うが…)
施設は、入場料がいらなかったり、半額になったりする。
でもまあそれは「平等なサービスを受けられないことによる減額」なのかもなと思う。
美術館だと照明が反射して、絵がよく見れなかったりする。健常者と見る位置が違うから。
コンサートなら車椅子用の席は固定で、「可も不可もない中間よりちょっと遠い席」が普通かも。
たまに逆にえらい良い席なときもあるけど。最後尾があたる可能性もないが、最前席があたる可能性はない。
本人は車椅子に乗ったまま、介助者の自分はパイプ椅子…なんてこともあった。
クラシックコンサートだったが、ずっと尻が痛かった。ちゃんとした席が横にあるんだからそっちにして欲しかったなあと思ったけど、まあ仕方がない。
「尻が痛かった…」と少し溢すと、申し訳なさそうな顔をされて「しまった」と思ったりする。
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マジで行ける分いいと思うのだ。行ける分良い。でも、ざっと書いただけでもこれだけ大変なことがある。
自分が車椅子だったらと考えると、そりゃ外出たくないよなって思う。
望んだわけでもないのに、同じサービスが受けられない。周りに迷惑だと思われているし、介助者にも迷惑がかかる。遠回りさせる。自分がいるから存分に楽しめなかったりする。そもそも、自分の行動や欲求に付き合わせている。
そういった事実によって生まれた葛藤が『何で謝らなきゃならないんだ』、ひいては『何でいちいち感謝しないといけないんだ』になるのは、わからんでもない。
そういう立場を体験していない自分が、その感情を否定することはできない。
ただ「しょうがないよね」って茶を濁して共感することしかできない。無力だなあと思う。
身内の気持ちは身内にしかわからないから、ここまで考えているか感じているか実際は知らないけど、まあ大外れではないと思う。
当初は「そんなことで?」と困惑した自分も、もう肯定するほかないなと思ってる。
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社会に生きる人間は良くも悪くも社会にある程度迎合しなきゃならないというのが個人的な持論。
人間は全員が「違う」から。違うから、お互いを譲歩し適切な距離を保って、険悪にならない距離でコミュニケーションをとる。
これは最近のトランスジェンダー関係の話でもそうなのかなと思う。
自分のすべて受け入れてほしい!と思うなら、そういう社会に行くか、新しく作るしかないんじゃないだろうか。
平和に生きてる人たちを脅かしてまで自分を押し通したいと思う人と、手を取り合いたいなんて思わないだろう。
だからまあ、身内の心情に心をいためつつも仕方ないよな、なんて思う自分もいて、
なんていうか…罪悪感じゃないけど、申し訳なさを感じたりもする。
色々人生楽しめるものを用意できるよう、無理じゃない程度にやっていきたい。
無理させてると思わせるのが一番、本人にもよくないと思うので。
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そういうわけで(?)
車椅子を押す側として思うのは、優しく見守ってくれる人がたくさんいてくれればいいなと思う。
助けてくれなくたっていい、通り過ぎたって全然良い。
舌打ちしたり、からかったり、邪魔になることはしないでくれれば。
こんなん、健常者でも当然のマナーだと思うんで、改めて言うのも変な話だけど。
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おまけ
テレビの某野外音楽フェス特集を見て「一回ぐらい行きたかったなぁ」と言われた時は「それは…無理だな…」と思った。
「そりゃ車椅子なんだから無理でしょ」って当然のように言う人はいると思う。
いや無理なんだよ。そりゃそう。無理なの。物理的に。
確かに頑張れば行けるかもしんないけど。知らないけど、配慮もされてると思う。
でも立ち見の音楽フェスに行くというハードルがそもそも高い。そこに行くまでの道程のハードルも高い。
立ち見だから見るとしても多分後ろの方でしっとり見るしかない。車椅子にぶつかると怪我させちゃうだろうし。
そういったリスクをひっくるめて考えて「無理」となる。勿論フェスを非難してるわけではない。
「金がないから無理」とか「忙しいから無理」とかと違って、「車椅子だから無理」は本人にはどう努力もできない「無理」だ。
介助人としては軽く「え!行きたいなら頑張るよ!」なんて返したりするけど、身内は難しいことを知ってるから、何も言わずに首を横に振る。
こんな無力なこと、ある?
自分はまあ行こうと思えばいつでも行ける。
身内はこの先あの景色を体験することはないんだ。と思ったら無性に悲しくなった。
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「Card Survival: Tropical Island」面白い
他の人のプレイを見て衝動的に買っちゃったが、スプリングセール待てば良かったな
3割引になっとる
定価で買っちゃった
無人島に流れ着いたおじさんが武器をつくって獣肉を得たり葉っぱから服をつくったりサバイバルする
他にも「一緒に流れ着いたおじいさんの看病をする農婦」「妊娠中の魚人」など色んなキャラを使えるらしいが、まだ最初のおじさんで悪戦苦闘している
おじさんは単身で、日焼けに強い肌を持ち槍術が強いサバイバル向きの人物だ
サバイバルゲームでよくある3Dアクションではなく、カードゲーム風
大変なところは、30日ほどの長い乾季があり、それまでに水の確保をなんとかしないといけないところ
何度も水が足りなくて脱水で死んだ
最初の海辺を拠点にして、ジャングルの道に貯水池つくって、ジャングルの湿地に井戸つくるのがベストかな
絵で見せてくれるわけではないけど、貯水池も井戸も地面を奥深く掘り進めるのがすごく大変でしんどい
作業がひたすら多いのでダルさについてこれなくて投げる人もいそうだけど、苦労してサバイバルやってる実感を持つ
外を探索して回ると暑いからガンガン痩せていって油断したらちゃんと食べてても餓死するし
どうすればおじさんの心身を守れるんだ
ふんわりと気持ちのよい音楽が流れて、タイやヒラメたちの、それは見事な踊りが続きます。
ここはまるで天国のようです。
そして「もう一日、いてください。もう一日いてください」と、乙姫さまに言われるままに朝昼晩とストロングゼロを飲みながら過ごしてる内に、三年の月日が経ってしまいました
不思議に思っていると、乙姫さまが「お目覚めですか?ほら、今日もこれを飲んで楽しく過ごしましょう」とストロングゼロを持ってきました
「ああ、今まで見てきた物は全てストロングゼロを飲んだ時の幻覚じゃあないか」と
すぐさま、浦島太郎はストロングゼロをひとつ飲み干すと、竜宮城の乙姫さまに「家族が待っています。帰らせてください」とお願いしました
「そうですか…ではお土産にこれを」と
それはそれは綺麗な箱でした。乙姫さまは
「この箱は最後の手段です。どうかよく考えておあけください」と言います
浦島太郎にはさっぱりその意味が分かりませんでした。亀に送られて、地上に帰った浦島太郎でしたが、地上はまるで変わっていました
「三年でこんなに変わるものだろうか…それともまだ幻覚の中なのだろうか」
確かにそこは浦島太郎が釣りをしていた海辺でしたが、何だか様子が違います
浦島の家はどこにも見当たらないし、出会う人も知らない人ばかりです。
「私の家はどうなったんだろうか。みんなは…どうなったんだろう?あの、すみません浦島太郎の家って知りませんか?」
浦島太郎が一人の老人に話しかけると、老人はストロングゼロを飲みながら言いました
「浦島…?ああ、そいつなら七百年ほど前にストロングゼロを飲みすぎて死んだとかなんとか」
え?!久しぶりに見たとても美味しそうなストロングゼロにびっくり
「そうか…みんなは死んじまったのか」
途端、頭の中に自分を責める声が響きました
それは次第に周りの音が聞こえなくなるぐらい大きくなっていきました
耐えられず、ついに浦島太郎は箱を開けました
その中にはストロングゼロが一缶だけ入ってました。浦島太郎はそれを一気に飲み干すと、目の前にかつての故郷が現れました
「ああ、帰ってきたんだ。やったぞ」と浦島太郎は自分の自宅へ駆け出しました。しかし、そこに故郷などは無く、浦島太郎は崖から真っ逆さまに転落してしまいました。
「ぼくらの」のアニメ1話で、オリジナル展開の中で子供たちが水着着て海辺できゃっきゃしてる姿があった
本田千鶴は原作では「年上の恋人に騙され、ロリコンクラブに売りつけられ強姦されまくって妊娠する」というキャラクターである
苦しみながらも本田千鶴は子供に罪はないので産みたいと思っていた
水着姿になっているのを見て「ああ、原作のあのえげつない設定は改変されたのか。アニメだと仕方ないよね。この世界の本田千鶴は妊娠してないんだ」と思った
ところが、妊娠の経緯こそマイルドになったものの、アニメでも千鶴は妊娠中だと判明
じゃあなんでお腹も出てないまだ体が不安定な時期に水着でキャッキャしてる奴に改変されたんだよ
本田千鶴は妊娠を周囲に隠している奴なので無邪気なふりして遊びに加わるのはわかるけど
原作改変するのは仕方ないけど、改変箇所同士で辻褄あってないとか、改変箇所と原作そのままの部分で辻褄あってないとかはやめろ
鋼の錬金術師も、アニメオリジナルの展開でエドがアルを水中に沈めた次の回で、原作通りに「アルは水に触れると血印が消えて危険かもしれない」って言わせるとか辻褄あってなくてクソだったんよ
劇場版ガンダムSEEDから思う「今のアニメの作画」※ネタバレ無し
ガンダムSEEDは、DESTINY終盤が放送されている時期に友人から勧められてハマった。私は当時小学生。人生で初めて買ったCDは玉置成実の『Reason』だった。
…こんな書き出しだが、「ガンダムSEEDシリーズは私の世代にとって革新的で思入れが強くて〜」といった話ではなく、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』を見て感じた「近年のアニメの作画」に対する率直な思いについてまとめたもので、作品評価は含まない。
できれば拡散されたい。
人の意見が聞きたい。
劇場版SEEDの情報が解禁されるにつれ、SPOT映像も順々に公開された。
そのうちのひとつ、海辺で語らうキラとラスクのシーンで、キャラクターの動き・表情が機械的で実に不気味だと感じた。特にラクスが顕著だった。人が手で描いたはずなのに、瞬きなどはまるで3Dモデルに見える。例えるならVtuberのモーションに近い。
結論から言うと、劇場版SEEDは全編をとおしてほぼそのような絵でできていた。
昨今のデジタル作画特有の「完璧に均一で色に溶け込むほどの極細な線」が、画面内をなめらかに動き続ける。
メカ類は基本的に3Dなので、ピタリと止まることなく常に画面内を揺蕩っていた印象だ。
正直行って、絵(?)が動き過ぎだと感じた。
やたらに動くだけでその動作に意味を伴わないため、少し酔うほどだった。
これは果たして、作品の演出として本当に必要な手間なのだろうか?とつい考えてしまった。
ただし「SEEDシリーズの作画」に関しては、テレビシリーズの頃よりオタク達からよく指摘を受けていた。
週ごとに絵柄が変わったり、バンクを多用して展開上違和感のある映像になったり…(ムウのヘルメットの話ではない)。
これらを今の技術で改善し、あの頃からのファンへ自信を持って作品を発表することも、製作陣の課題のひとつだったのだろうと想像している。
ネットに触れていれば「ヌルヌル動く作画」といった表現はよく目にするだろう。昨今の制作サイドにおける流行りの表現方法であり、今の視聴者層に響く華のある映像なのだろう。
ただ、劇場版SEEDはいわば「ニュルニュル動く作画」で、私にその手の専門知識はないが、全ての絵に凄まじいコマ数を詰め込んだ映像なのだろうと思わされた。
おそらく手で描いていない部分もある。きっと今の技術を使えばそれもできてしまうのだろう。
少し大袈裟に言えば、3Dロボット・デジタル効果・ニュルニュルと動くキャラクターの映像が流れる中で、たまに手描きっぽく思える絵が混じって目立つ感じだ。
私が幼少期に見たデジモンやゾイドのような、手描きの絵の中にゴリゴリの3Dが混ざっていた時代からは見事に逆転したような印象を受ける。
芸術分野のことばに「不気味の谷」というものがある。簡単にいうと「決して3次元ではないが2次元の域は超えつつあるリアルな創造物」のことで、例えばAI生成の人物画像に対して抱く感情のことだ。
「ヌルヌル作画」を超えつつある昨今のアニメ映像…薄給と聞くアニメーターにとって本当に必要な手間なのか?手描き丸出しのアニメはもう古いのか?それとももうできないのか?それは技術・人員・時間、どれが原因か?
普段、犬のトリミングは家族が車で連れて行っているが急な予定が入ったとかで、私(ペーパードライバー歴3年)が連れて行くことになった。
ゴールド免許持ちの優秀なペーパードライバーなので車を使うのは早々に諦め、徒歩と電車で連れて行くことにした。
トリミングで疲れるだろう犬を犬用バッグに入れて坂を下ること40分、海辺のトリミングサロン付近に到着した。
民家に擬態しているタイプのトリミングサロンで場所がわからず犬に
「君、場所を知ってるでしょう。案内してくれない?」
と話しかけながらウロウロしてたらたまたま店員さんが外に出てきて、
うちの犬を見るなり
「〇〇ちゃんですね〜〜」
近くの駅から電車に乗り別の駅に移動して時間を潰してると終わったと連絡があり、犬を迎えに行った。
トリミングを終えてすっきりした犬は元気そうなので、駅までちょっと歩かせてからバッグに入れ、電車に乗った。
少しでも鳴いたら諦めてまた40分かけて今度は上り坂を延々と登るつもりだったが、犬は鳴きもせず動きもせずに静かだった。
電車を待つホームでバッグを覗いたら、犬はバッグのメッシュ地に鼻を押し付けて外をじっと見つめていて、
「15年間生きてきたけど、こんな場所は来たことがない」と言わんばかりの様子だった。
私も15年間この犬を飼っているが、電車に乗るのが好きというのは新しい発見だった。
ポリコレアフロはポリコレ方向で有名になってしまったけど、イヤミスというか変な動機理不尽な動機ものとして好きなんだよなあ
ある犯人は地味な弱者男性で、まあそれでも結婚して子供はつくれた 離婚したけど
彼には幼年期にある強烈な体験があった
当時から冴えない地味男児だった弱男は、キラキラしたイケメン男児とたまたま一緒に海辺にいた
イケメンは知らない人に声をかけられて、君は選ばれた特別な存在だからついてきてくれといったことを言われた
選ばれたものにしか与えられないバッジを与えられ、イケメンは自慢げな勝ち誇ったような顔を弱男に見せて、男に連れられてどこかへ行った
そのままイケメンは二度と帰らず、まあ普通に考えれば甘言を用いて誘拐され悲惨な末路を辿ったのだろうと想像できる
弱男も長じるにつれてそう思いはしたが、選ばれた側の存在だぞという勝ち誇ったイケメンの顔が忘れられなかった
誘拐されたなんてのは凡人の想像にすぎず、イケメンはどこか特別な世界で特別な体験をして選ばれた側としてのドラマチックな活躍をしているんじゃと想像した
ある時弱男が一人で釣りをしていると、複数の家族がキャンプをしており、輪の中から外れて一人遊びをしている少年がいた
弱男は少年が自分と重なって見えて、少年に声をかけて連れ出して殺して埋めた
後から少年の家族は「少し目を離した隙に消えた」と報道で話していたが、何十分も目を離していたくせにと弱男は憤る
弱男はその後も数年ごとに、選ばれない側の可哀想な少年に同情して殺害を繰り返した
狙うのは自分の姿と重なる男の子ばかりだったが、ある時自分の住む街にロリコン犯罪者がいることに気づいた
二人組で歩く女の子たちがある道で別れた時に片方だけをロリコンは狙った
弱男は選ばれない側の女の子が可哀想でならなくなり、そちらの女の子を殺害した
選ばれない側、存在が軽い側のまま生きていく子がいることに耐えられなかった
といっても大ハマりのものが一つあり、あとはまあまあ、くらいなんだけど
でもまあ、重いので楽しめると思った
思ったんだけど…
ブランド創設者のキリアンヘネシーの陽キャ・リア充セレブっぷりのネット記事読んだら、香水の良し悪しとは別にキリアンで金を落とすことが嫌になった
香水界の貴公子ともてはやされ、ファッションのこだわりについてインタビューされ答えるキリアンヘネシー
胸元開いた白いシャツに黒のパンツによく分からんけど高そうな靴と、いけすかない感は以前から感じてた
ドクロや蛇のモチーフも、なんだかなと思うところはあった
ゴージャス感ある妻とのデートショット、子供たちとのセレブ家族幸せショット、陽気な仲間たちとの海辺でのパーティショット、等々、等々
香水に罪はないけど
昔々、ある海辺の町に、カニという賢い生き物が住んでいました。カニたちは誠実で正直な生活を重んじていましたが、ある日、町にクリックベイトの詐欺師が現れました。
この詐欺師は、ウェブサイトや記事に、信じがたいタイトルを付けては、読者をだまそうとしていました。人々はそのタイトルに魅了され、クリックしてしまうのですが、記事を読むといきなり「タイトルは嘘です。でも、完全にありえない話とは言い切れないのです・・・」という言葉が現れ、詐欺師の手口が明らかになりました。
この詐欺師は、カニたちの誠実な価値観を馬鹿にし、町の人々を欺こうとしました。しかし、カニたちはこの詐欺師に怒り、彼を町から追い出すことを決意しました。
カニたちは知恵と協力を結集し、詐欺師をたちまち捕まえました。そして、詐欺師に誠実さと正直さの大切さを教え、彼に改心の機会を与えました。
詐欺師は町の人々に謝罪し、クリックベイトの手法を捨て、正直なジャーナリストとして新しい生活を始めました。町の人々と詐欺師は友情を築き、共に幸せな日々を過ごしました。
このお話から、クリックベイトの手法は一時的な成功をもたらすかもしれませんが、誠実さと正直さこそが長期的な成功と信頼を築く道であることが示されます。
詐欺師を捕らえ、改心させる部分をもう少し詳しく書いて下さい。
もちろん、詐欺師の改心の部分を詳細に描いてみましょう。
詐欺師がカニたちに捕らえられた後、町の広場で対話が始まりました。詐欺師は最初は強気で振る舞い、自分の行いを正当化しようとしましたが、カニたちは冷静に説明しました。
カニ1: 「あなたのクリックベイトの手法は人々を欺き、信頼を傷つけています。」
詐欺師はしばらくの間、頑なに耳を傾けませんでしたが、カニたちの言葉が次第に心に響いてきました。
詐欺師: 「あなたたちは正しい... 私の手法は誤っていました。」
カニ1: 「でも、我々はあなたにもう一度の機会を与えたいのです。」
カニ2: 「誠実な生き方を選んで、町の一員として共に幸せに暮らしましょう。」
詐欺師は考え込み、最終的には改心しました。彼はクリックベイトの手法を捨て、町の新聞社で誠実なジャーナリストとして働くことを決意しました。
カニたちは詐欺師に誠実さと正直さの大切さを教え、彼を町の一員として受け入れました。詐欺師は新しい生活を始め、クリックベイトではなく真実と信頼に基づく記事を執筆しました。町の人々と詐欺師は友情を築き、共に幸せな日々を過ごしました。
このお話は、誰もが過ちから学び、改善し、誠実な生き方を選ぶことができることを示しています。
詐欺師がどう考えて改心したのか、その思考プロセスをステップバイステップで書いてください。
もちろん、詐欺師の改心に至る思考プロセスをステップバイステップで描いてみましょう。
ステップ1: 捕らえられた瞬間
詐欺師がカニたちに捕まり、町の広場に連れて行かれた瞬間、最初は怒りや防御の姿勢を崩しませんでした。彼は自分の行いを正当化し、カニたちの非難をはねつけました。
カニたちは冷静に詐欺師に説明を始めました。彼らはクリックベイトの手法の悪影響について語り、誠実さと正直さの大切さを強調しました。詐欺師は最初はそれを受け入れようとしませんでしたが、カニたちの言葉が少しずつ心に響き始めました。
詐欺師は自分の過去の行いを振り返り、誠実さと正直さの重要性について考えました。彼は自己嫌悪に陥り、自分の行為が他人に害を与えていたことに気付きました。
最終的に、詐欺師はカニたちと対話した結果、謝罪の意を表明しました。彼はクリックベイトの手法を捨て、誠実なジャーナリストとして新しい生活を始めることを決意しました。彼の心には新たな価値観が芽生え、彼は誠実さを大切にするようになりました。
このプロセスを経て、詐欺師は誤った行いを改め、新しい方向に進むことを選択しました。彼の改心は、誠実さと正直さが誰にでも備わる可能性があることを示しています。
なんかクソみてーな話だな