はてなキーワード: 年子とは
今年子供は三歳になる。
とても可愛いけれども、ここまで来るのはとても大変だった。
朝子供の保育園の準備をする、朝ごはんを作る、送って行く、迎えに行く、夜ご飯を仕込む、風呂に入れる、寝かせる。
うちは子供にアレルギーがあるので、しょっちゅう布団掃除機をかけ、床を水拭きしている。
これだけで、毎日ヘトヘトだ。
子供のために、家事をして、ご飯を食べさせて、物を買い揃えて・・・
これさえやってれば、ある程度は親の役目は果たせられていると言えるんじゃないか、と最近思っている。
と言うか、それだけで正直手一杯だ。夫婦いっぱいいっぱいだ。
当たり前の事がこれだけ大変なんて、思ってもみなかった。
親はヒステリックなことも多かったし、勉強に過度の期待をしてくることもあったし、色々揉めることもあった。
でも、自分が親になったいま、親は自分のためにこれだけ大変なことを毎日していたんだと気づいて、
なんだか自分が親のことを少し否定的に見ていた事は、あまり正しくなかった気がする。
プラスアルファを求めすぎていたんだと思う。
そして、自分がいかに愛されていたのか、自覚出来るようになった。
うちの母親は、真の意味で「子育てが趣味」という人間だ。徹頭徹尾子供のことのみを考えて生きていて、非実用的な私物は一切買わず娯楽の類にも興味がない。最近少しパソコンを始めたようだが、それも「PTAの書記になったから」というだけの理由だった。さすがに友人は少数いて月に一度くらい食事に出かけている。それがほぼ唯一の散財だ。専業主婦になる前一年ほど就いていた仕事も小学校の家庭科教師というのだから、筋金入りとしか言いようがない。二十四で初めての子供を産み(僕のことだ)、その後さらに追加で三人を産んだ。最後に生まれた娘が重度の知能障害だったのでより深く面倒を見なければならず、五人目は断念したようだが、後々になって「欲しくなかったの?」と訊いたら即答で「欲しかったよ」と言われて少々唖然とした。
それなりに広い二階建ての家を毎日隅々まで掃除し、大量の衣服を洗濯してアイロンがけし、夕飯も惣菜で済まさずに手作りする。これは明確に仕事の一環として行っていて、特に料理は全く好きでないらしい。前日の肉じゃがを再利用してコロッケを作るような工夫を見せながら(抜群に美味い)、自分は白米と沢庵で済ませていたりする。自分のことに関心がなく、そして外の世界にもほぼ関心がない。生粋の箱入り娘として育てられていて、男性経験も父以外には一人もない。よく昼ドラで描かれるような「専業主婦」とは対極に位置する存在だと思われる。
そんな彼女の一番の教育方針は「兄弟間で差を付けない」というものだ。僕は長男であり次男は三歳下、三男は四歳下なのだが「面倒を見ろ」と言われた記憶はない。「お兄ちゃんなんだから」と何かを我慢させられたこともない。小遣いは学年に応じて決められていて、同じ学年になれば同じ額が支払われた。僕が小四になって希望して塾に行ったので、弟達が四年生になった時も同じように(希望を訊いた上で)塾通いを許可した。子供が増えるほど家計は切迫していたに違いなく、これは想像以上にきつかったはずだ。
そしてこの方針を徹底している最も象徴的なことが、僕の呼び名だ。僕は家族全員から下の名前で呼ばれている。弟からも妹からも呼び捨てだ。「兄さん」などと呼ばれるのは想像しただけで寒気がする。これは間違いなく親が「兄」という呼び名を使わなかったことが理由で、つまるところ僕は家族の中で「兄」として扱われたことが一度もないのだ。だからよく、他人に「長男だ」と言うと「そうは見えない」と驚かれる。
この育て方の結果として、うちは兄弟仲が異常に良い。あたりまえのように一緒に食事やカラオケに行くし、仕事や好きな漫画について何時間でも話し続ける。弟二人は特に年子だから僕以上に関係が深く、対戦ゲームを一晩中遊んでいる様子を度々見かけていた。世間一般のイメージする「兄弟」というよりはどちらかというと「幼馴染」に近いようにも思うが、しかし僕にとってこれこそが兄弟関係以外の何者でもなく、それはすなわち母の教育の成功を意味しているのだと思う。
そもそも複数の兄弟を分け隔てなく育てるというのは、土台無理な話なのだ。あまりに手間がかかりすぎる。自分の好きなことは一切できないような生活にならざるを得ないだろう。だからこれは、うちの母に限定された教育法だ。彼女は「私欲を滅して子育てに魂を捧げるのだ」といった大層な決意を持って臨んだわけではない。単に自然に子育てをしたらそうなっただけのことなのだ。そう、彼女はある意味では自分の欲望に忠実に生きている。
現在、四人の子供は全員成人し、男三人はみな就職してそれぞれの仕事に励んでいる。すべからく子供は大人になり、親から離れてどこかへ行く。あたりまえのことだ。だがそれは母親にとっては唯一の趣味がなくなることを意味する。
だから四人目の娘が重度の知的障害者だったのは、(いろいろなものに目をつぶって言うと)僕たち家族にはとても良いことだった。今でも二歳児程度の知能発育である妹は、これ以上成長しない。彼女は永遠に子供のままであり、それはそのまま永遠に子育てが続くことを意味する。母親にとって、それはきっと幸福なことなのだと思う。
たぶんこれが現代の日本社会で最も周囲にアレコレ無神経なおせっかいを言われず、こじらせ系にならずに済むルート。
しかし一見平凡な女の幸せに見せて、ものすごく難しいルート。1回目の人生では入り口すら見つけられない人多数。
とにかくハードモード。人生3周目じゃないとクリアできそうもない。
高校生くらいの年齢の時からこのルートを目指して計画的に行動しているか、ものすごい強運が要る。実際はここに書ききれないほど多くの条件、つまり人格や個人的理由、感情やタイミングなどが加わってくる。そういう個々人の事情をすべてをまるっと無視して「これが女の幸せでしょ」とひとくくりに言われてしまうのは、さらっと受けながすにはなかなかに重たいのだ。心が弱っている時には特に堪える。
補足:
上記は私が直接言われたこと、私の女友達から聞いた愚痴、結婚出産育児系の掲示板で散見された情報を元に独断と偏見を持って書いた内容です。
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ブコメを受けての追記です:
夜中に書きなぐった文章が起きたらホッテントリ入りしていたのでギャー!となりました。色々な角度から多くのコメントを頂き、ありがとうございます。
ちなみにお察しの通り、ほぼ何一つ、私自身はこのルートを攻略できていません。
「世間体ばかり気にして大丈夫か?」「幸せとは」というコメントも頂きましたが、あくまでこれは「世間の言う通りにしたらこうなる」というシミュレーションです。理想通りに結婚しても、離婚分岐ルートも往々にしてあるので、ライフプラン、本当に難しいですよね。
「恋愛至上主義♪ワタシの結婚」「バリキャリ!高学歴女性のための結婚」「人生1回きりだもン!好きなことやって楽しむぞ結婚★」「困難を乗り越え運命の国際結婚」などひとりひとりの人生と価値観で、数えきれないルートがありますし、幸せとは自分の尺度でしか測れないと思っています。が、世間の言葉を受け流すにしても、さらっとかわせるコミュ力とメンタルの強さは一朝一夕には身につかないものです。傷つきながら僕らは大人になるのです。
それにしても、ブコメ欄でいろいろな方のご意見や人生を垣間見れました。ありがとうございました。
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ちなみに、あまりに無理ゲーなので、こじらせまくって1年ほど前にひとり結婚式をやったのでした。
ごめんなさい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/news/html/20150728/k10010169971000.html
「退園が問題なのではなく復園出来ないのが問題なんだキリッ」ってのが多いけどさ。
実際は殆どが復園出来ると思うよふつーに。
優先権つけるというし、年子で産む人は少なくて大体の人は上が2歳だろうから
育休1年取った後は大体3歳になってるだろうけど、3歳になると幼稚園への転園者が出て空きが出るからね。
年子とか上がまだ2歳になったばかりとかで育休消化後もまだ2歳って子は僅かだろうし、
その僅かくらいの人数なら優先権あれば何とかなるだろ。
ぼちぼち梅雨もあけて
夏祭りの季節だ。
なんのかんのいいつつ盆踊りは
毎年子供といっしょに見に行く。
そこでいつも思うのだが…
ちゃんと曲に合っているか、叩く人は本番前までに確認したことがあるのだろうか?
派手なアクションで叩いて、それで本来叩くタイミングを外しているだなんて、そのアクションに何の意味があるのだろうか?
練習不足でリズム感もへったくれもないのは論外なのだが、派手なアクションでリズムを外している太鼓を沢山見かける。
技術的に余裕があってのアクションならば、聞いていても見ていても楽しめるが、全くそうではなく、むしろアクションありきの叩き方を練習しているとしか思えないものばかりだ。
よっぽどのリズム感を持っている人ならばまだ何とかなるだろうが、町の盆踊りごときではそんな人材は滅多にいない。
見た目の派手さなどどうでも良いので、本来のリズムを叩いて欲しい。
蛇足だが、先日横須賀に行った際に楽器屋に立ち寄ったのだが、米兵と思われる若い男性がギターを試奏していた。
別段上手いギターではなかったが、要所要所では良いリズム感で弾いていた。聞いていて悪い気はしない。
いや「これから豊かじゃなくなる国なんだからしょうがない」とあるから、
豊かな国であってもそんなんあるのか?と突っ込んだだけで。
でも入園できる保証がない!とか騒いでるんだけど、現実的に考えると
待機児童多い自治体は普通は年度途中では入園できず、生まれた下の子も年度初めの4月まで入園できないので
最低でも4月まで育休取るのが普通(取れない会社なら上の子産んだ時点で辞めてるだろう。でなきゃ認可外にするか)。
そして年子で産む人は少ないから上の子は2歳という人が多いだろうし、その子は育休終了時に3歳になってる場合が多いだろう。
んで3歳以上は待機児童は激減する(3歳になると幼稚園に入れるので、保育園から幼稚園に転園する子や待機児童でも諦めて幼稚園に行く子が多いため)から
愛する妻との間に出来た子供。
その小ささとは相反する大きい産声から、命の力強さと父になった喜びを実感した。
「守るべき者が増えた。妻子の為にもしっかり働いて幸せに暮らせるよう頑張らねば。」
そう心に決め、仕事の忙しい時期ではあったが毎日帰りに病院に通い、帰宅後にまた仕事を続けるという日々を何とかこなして乗り切った。
子供が出来た。嬉しい。早く3人で暮らしたい。その想いが働く原動力だった。
ちょっと長めな入院と実家療養を経て妻子が帰ってきた。初めての3人暮らし。
「仕事も家庭も両立するぞ!!」張り切っていた。ただ、張り切り過ぎていたのかもしれない。
夜泣きが続く、泣き止まない。
育児のことは任せろとは言ったものの明日も仕事がある。少しは寝ないと。
産後に高熱が出た。どの病院で検査をしても診断結果は原因不明ばかり。通院と入院が続く。
会社を休んで何度か病院に行ったが、仕事の納期は変わらない。休んだ分は夜や土日に働いた。
突然の退職者のフォローもあり、普通に業務をこなす分にももうキャパシティを超えていた。
当時自分よりも忙しい人が居たことや、業務を任された後でやっぱり無理ですとなると今後に影響が出るのではとの恐れがあり、これ以上強くは言えなかった。
家族が増えたため、月々の出費は増える。
産後は会社を抜けたり休んだりすることが多かったので仕事はこれ以上休めない。
妻子は近くに住んでいる義両親が預かってくれている。
周りに相談したら、大変な時期だろうとは思うけど将来のことも見据えて仕事に勤しむべき。
そんな時、再度妻が体調を崩した為休んで欲しいとの話があったがもう休むことは出来なかった。
・家庭は大事だが、家庭の為にも仕事もこなさないといけないと主張する夫
・家庭の為に仕事を休んで欲しいと主張する妻
当然口論になったが、体調が良くなるまでは実家に居てもらうことにした。
本来であれば一番時間を掛けて家族で過ごしたい時期だが、感情を殺して今すべきことを頑張ろう。
「守るべき者の為に、今は頑張って働かねば。」そう思って働いた。
やっと仕事が落ち着いた時のことだ。
妻も少しずつではあるが体調が良くなってきたようだ。
そろそろ3人で暮らせるんじゃないか?
お互い余裕が無く、ストレスが溜まっていた時期は衝突が多かったけど、今は余裕が出来た。今なら何とかやっていけるんじゃないか?
そんな時だ、妻から別居の話が伝えられた。
理由は、
「一番守って欲しい時に守ってもらえなかったから。」
ショックだった。
守る為、来月以降の費用を稼ぐ為に働いていたつもりだった。
しかし、不確定な未来より、今、この場で困っている妻を助けなかったことは、妻にとっては耐え難いことだったのだと思う。
修復が難しいことを悟ったことから早々に離婚することとなった。
私の考えていた「守るべきものの為に〜」との考えは、すべて自己正当化や自己都合による理由付けであって、家族にとっては虚像以外の何物でもなかったのだ。
結婚生活に不満がなかったわけではない。
確かに妻とは衝突が多かった。
しかし、不満があっても、それでも、家族のことは一番大切だった。
しかし、その家族の為には家を空けて仕事をしなければならない。
休めるものだったら休んでるが、それが叶う状況ではなかった。
どうすればよかったんだろうか?
無理に休んでクビになったりしたら、家族が露頭に迷う恐れがあった。
無理に働いた結果はこの様だ。
ただ、この結末を知っていれば当時は会社を辞めてでも家族と向き合うべきだったと思う。
先週離婚が成立した。
守りたかった者は、もう居ない。
1歳児をコントロール出来るわけがない。出来るとしたら、単に虐待しているだけだ。
上が下の面倒見てくれるなら、元ブログ言う所の「自分の意思とは無関係に自分のやろうとしていたこと・したかった行動を子どもに遮られる」事は無いからね。
「二人目以降の方が楽」と言われる所以(もっとも二人目でも年子とかで上が頼りにならない年齢なら一人目より大変だが、5歳ならかなり使えるからね)
個別にも変な記述が多いな。どうせ増田なんて独身非モテばかりだと思って適当書いてるんだろうけど。
そんなことわざわざしなくても、5歳にもなったら勝手に一人でトイレ行って一人で用足すだろ。
すぐ椅子を立って食べるようであれば、座卓ではなくダイニングテーブルにする。
5歳にもなって椅子に座って食う躾が出来てなかったのかよ。3歳児だってそろそろ座れるようになってるべきだが。
そして1歳児は座卓だろうがダイニングテーブルだろうがどうせベビーチェアだし
5歳になって昼寝するの?
つか5歳児と1歳児を一緒に外で遊ばせるって体力的にも身体能力的にも無理だし、1歳児は目を離せないから
どうせ5歳児と3歳児は放置で勝手に遊ばせて、1歳児しか相手してないんだろ。
そもそも元ブログは子がまだ2ヶ月だから、一番下でも1歳(それも後半っぽい)の増田とは話が全く違うわけで。
離乳食開始時期を知らないくらいだから、2ヶ月児の生態なんてのも知らないんだろうな。3人もいるのに。
そりゃ奥さんブチ切れて実家帰るわ。
知るかよ、んなもん。と言われそうな話。
・
その進路ってけっこう幸せだったなー、結果的にもすごくありがたかったなー、と思うので
同じ進路に子供も進んでほしいと思った。
・
私の時9倍だった倍率が、今年は6倍程度だったので、本当に縁がなかったんだろうな、と思った。
・
子供が、その可能性をもっとも広げられる(行きたいと思う方向をつぶさずにいられる)進路はどこだろうか。
当初某私立もいいよねー、と思ってたけど、そこの学長のインタビューを読むと
(私の考え方とは)ちょっと違うな、と思うし、
でももしかしたらうちの子にはこういうのがあってるのかも、とも思う。
・
小さいうちは親の考え方に合うかどうかで選んでしまうけど、
けれども小さいうちにエスカレーター系に放り込んじゃえば親子ともにけっこう楽だよねとも知っているので
なんだかぐだぐだと悩んでいるところ。
ぼくは小さいころお金が好きだった。母子家庭で家が貧乏だったからだと思う。電気やガスを止めたり、おやつをうちだけ少なくしたり、母に徹夜で内職をさせる。不憫だ、子どもが不憫だと時おり、母を涙させる。そんなお金の力に引き寄せられたのかもしれない。
小学校二年生までのぼくの趣味は、おこづかいや、数少ない親戚から年に一度もらえるお年玉、たとえば数千円。それを両替機で崩すことだった。全部10円に。お金が増えるのがすきだった。受け皿に硬化が落ちてくる、あのジャラジャラッ、という音もすきだった。全部10円玉になると、店のおばちゃんに数十枚の銅色の硬化を渡した。きびすを返し両替機に銀色の硬化をまた突っ込んだ。繰り返し。迷惑なはなしである。
小学校三年生に上がると、その行為がまったく無意味だと悟った。今度は本当の意味でお金を増える方法をかんがえはじめた。勉強にも友達にもそれほど興味はなかった。
最初のぼくのビジネスは、自販機の小銭と落ちている空き瓶をあつめることだった。今はどうかしらないがその頃、一本あたり10円で特定のビンを買い取ってくれる駄菓子屋があった。たとえば、コカコーラ。スプライト。
二週間後には町内の自販機地図をつくり、近所の子どもたち数名を組織化してビジネスを拡大した。上がりは折半だ。軌道に乗った矢先、浮浪者のボスに一喝されてそのビジネスはご破産となった。
次は自販機ビジネスの資本をもって、今でいう「せどり」に挑戦した。カメレオンクラブ、キャンプ、わんぱくこぞう、遊コン。情報化前夜の昭和末期。ゲームカセットの買取価格と販売価格が逆転している商品をしらみつぶしに探しては、他の店に売りとばした。これも仲のよい同級生を組織化した。仕入れの費用がない場合はぼくが肩代わりした。が、ただ、店舗が密集しているわけではなかったので、仕入れの問題であまりうまく行かなかった。そのうち同種のカセットの買取に制限つきはじめた。息の短い商売だった。
中学生になってやったのがパソコン通信のログ取得代行する、というサービスだった。今思うととこれは犯罪だったかもしれない。Nifty-serveやPC-BANの規約はもう見れないので許してほしい。日夜マニアックな議論が繰り広げられる大手パソコン通信サイトのログをダウンロードしては草の根BBSで知り合ったおにーさん達に高値で売りつけた。ただのテキストが垂涎の情報となる時代があったのだ。
小さな商売としては、ビックリマンシールの仲買。発売日前に週刊少年ジャンプが並ぶ店を見つけて手に入れ時間貸し。CDのダビングを手伝ったりした。もちろん牛乳配達や新聞配達もやった。
最後にやったのはパチンコだった。本当はアルバイトをしたかった。が、中学生を雇ってくれる福祉的なビジネスマンを当時のぼくにみつけることはできなかった。ぼくの世代には一時期これで食べていた人が多いと思う。といってもぼくが中学生の頃なので、羽根物・権利物・フィーバー機など釘の甘い台をみつけては打ち止めにする。という同世代のパチスロプロより1つ前の世代だった。あからさまな中坊がパチンコ屋に来ても見て見ぬふりをしてくれる、牧歌的な時代だった。LUNA SEAが有線放送でよく流れていた。軍艦マーチももちろん流れていた。
そうしてぼくは晴れて16歳になり、まっとうに労働を金銭と交換し、またそれの再生産を繰りかえす立場となった。
ぼくはなるべくして中卒になった。1つも願書を出していない。
義務教育、学校に行く理由がまったくわからなかった。お金を稼ぐ事以外世界に意味がないと思っていた。だれも勉強をする理由を教えてくれなかった。貧乏な家の親、多くの市井の公立小学校の先生にはそれを子どもに説明する能力が、ない。ぼくも30をすぎてようやく勉強をする理由を先人の言葉を使って説明できるようになったくらいだから、無理もない。
高校へ通うには学費が多くかかると知った。これも進学しなかった理由の一つだ。さすがに15歳の僕にもわかる。母親の稼ぎだけで四人の年子が高校に行くのは不可能なことを。ぼくが行けても下の弟二人はきっと中卒だろう。
中学三年の担任は、進路相談でぼくが進学しないというと、とりあえずその場をなあなあで済ませた。その後、考えをあらためさせるべくぼく親友、山根を狩り出した。ぼくの説得を試みたのだ。まったく進学しない中卒は珍しかったらしい。無論、とりつくシマもなく断った。二人の目には、ぼくの事が、世界中を敵だと考え怯える、野生児のように見えたと思う。そんな目をぼくはしていた。
その後、労働でお金を稼ぐことより、お金を作る仕組みのほうに興味を捨てられなくて、自分で商売を始めるんだけど、それはまた別の話。
25歳、女。
会社の健康診断で子宮頸がん検査でひっかかって、あれよあれよという間に病人になってしまいそうだ。
検査結果を土曜に聞きに行く。不安だから寝てしまいたいけど眠れなくてこれを書いている。
ここ一ヶ月、ずっともうすぐ死ぬかもってことを考えていた。
それなら痛み止めだけもらって大人しく死のうだとか、
そういうことを誰にも言わずずっと考えていた。保険はあるし正社員だけど、
バイトみたいな誰でもできるような仕事しかしてないし、仕事も新卒3年目にしては動けるって程度。
そしたら「あれ、わたし、生きていたくない?」って気がついた。
生きてることよりも死ぬことよりも、お金がかかることが怖い。稼げなくなることが怖い。
実家はお金あるけど、あまり個人として尊重されないから関わりたくない。
仕事も趣味も楽しい。でも何か、自分を生に縛り付けておくものが欲しい。
百万二百万かかっても生きていたいと思えるような、そういう何かが欲しい。
私は死にたくないと思えるのか。お金かかるなら死んでもいいや、は、あまりにも惨めだ。
何か、この世に、未練が、欲しい。
続き もしかしたらガンかもしれない2
http://anond.hatelabo.jp/touch/20140713223836
http://anond.hatelabo.jp/20140714200210
仕事サボってはてなに来たら自分のエントリがなんかトップに来てたのと、その後はてなのパスワード忘れたから報告ができなかった。
三ヵ月後の検査の結果、なんともなかったときは検査した病院から田町の駅までスキップして帰った。
ごめんうそついた。途中で力尽きた。
なんともなかったよ。
やった!!!
やさしい増田と、冷静かつやさしいブコメのおかげで、すごく怖かったけど検査にいけたよ。
誰にも言えなかったんだ。友達にも同僚にも。がんばれたよ。本当に助かった。
あのままだったら怖くて検査に行かず、一人でメソメソしてた。
最初にブコメとか、くわしくて優しい増田読んだときは一人でサイゼでぼろぼろ涙流してた。
どこのだれとも知らない人たちが声をかけてくれて、本当にうれしかった。ありがとう。ありがとう。今も思い出し嬉し泣きしてる。
http://anond.hatelabo.jp/20140714033402
あなたに助けられました。あなたのおかげでがんばれた部分が大きいです。
声をかけてくれたネットのむこうの知らない人たちの幸せと、長寿と繁栄を。
それが贅沢なら、せめて明日500円玉を拾うぐらいのラッキーを。
こう言っても何もお返しできないので、
せめて職場の女子に「去年子宮頸がん検診うけて引っかかって死ぬかと思ったけど、後になんともなかったよ」って広めてきた。
私もそうだったけど「引っかかる=死もしくは赤ちゃん産めない」だと思ってるぽかったから
すこしは感謝を前に送れてるかな。
はてななんてよく見てたけど初めて使いました。
Twitterでこれが凄く話題になってたけど、ネタ的なツイート以外は叩かれ過ぎててちょっとムカついた。
「骨格標本」「骨と皮だけ」「あり得ない」「そんなやついるわけない」などなど。
ネタ的なツイートだとオオサンショウウオと同じとかね、それはいいよ
みんなそんな奴いないと思ってるから好き勝手書いてるんだろうけど、ここにいます。
最近バストはかってないからよく知らないけどDカップのブラがちょうどいいです。最近37kgになりました。
まあ確かに不健康だし起立性低血圧で立ち上がるとふらふらして目も当てられない状況。数秒後には歩けるようになるけど。
もっと体重を増やしたいし身長も160cmは欲しい。これが私の理想。
でも去年子供を産んでちゃんと子育てしてます。こんな時間に書いてるのは夜泣きで起こされてもう目が覚めてしまった。外明るいし
意外と二の腕や太もも、ふくらはぎに肉がついてるし産後だからお腹もちょっとぷにぷにだし。
そこまでガリガリじゃないよってことが言いたいだけなんです・・・。だからそんなに叩かないでください。あと蹴ったぐらいじゃ骨は折れません。
夜店といっても、お祭りの屋台、稼いだっていっても1祭り1000円くらいな小学生時代の話。
小4のころの俺の家は給食費がなんとか払える程度に貧しくて、とてもじゃないが近所で行われるお祭り用に金なんてくれる余裕なんてなかった。
ということで、前年、年子の兄と三歳下の妹がお祭りに行ったときなんか、妹が金魚すくいをずっと眺めているものだから哀れに思った兄がなけなしのお年玉の残り分で
金魚すくいをさせてやって、案の定取れなくて、でも金魚はもらえて、そして案の定、家に持って帰って返してきなさいといわれて兄妹が号泣している様を家で見た時には、
子供心にさすがにこれは悲惨だと思ったわけだ。俺はこの環境は自分の手で変えなければいけないと決心した。兄たるもの金魚すくい位は安心していくらでもやらせてやらねばならない。
思いついたのは、みんなたこ焼きもヤキソバもお好み焼きも食べたいという選好をもっていてそれをかなえるサービスがあればそこにお金が発生するんじゃないかというものだった。
祭りに金を持っていくものだと知らなかった頃、友達2人と祭りに行ったとき結局、食べ物を分けてもらうことになり、情けなかったけどこれ一番得しているの俺じゃね?と思った体験が決め手だった。
これだ、ヤキソバを買うやつとたこ焼きを買うやつを媒介すればいい。これに10円の手数料をつけたら、俺は金を手にすることが出来る。
まず、俺がはじめたのは、1か月前から祭りについての話題をクラスですることだった。パイを広げなければ、手数料ビジネスは成り立たない。
俺は祭りのチラシを教室のロッカー棚の上に置くなどの策も弄した。幸い、クラスでそこそこの発言権を有していた俺のおかげで、今度の祭りはすごいと雰囲気がクラスに満ち溢れ、
それは隣りへ、さらには学年をまたがって伝播すらしていった。さて、ここからが本番だ。
おれはまず友達5人を集めた。そして、例えば、お好み焼き買って、その半分と相応分のたこ焼きを交換したい吉田太郎君に、
吉田太郎お好み焼きたこ焼きと中央に書いた紙の切った左端を渡した(いわゆる勘合札)。
もちろん、友達には金を徴収しなかったが、この右端を10円で買う人を見つけるのが俺の次の仕事となった。
さて、必死さのおかげで5人にこれを売ると、なんだかあいつ商売しているぞという雰囲気が学年で認知されるようになった(同学年に売ってたからだが)。
僕、私もこれ交換したいんだけどというニーズが来るようになると機は熟したと言っていい。つまり、左端を金をもらって獲得するできる時期が来たということだ。
そして、必死の営業のおかげでどのような右端ニーズがあるかも分かっている。仕入れからも金をもらい、それを売る、黄金のサイクルが形成された。
こうした経済活動は、左端側を得た(条件を提示した人間)の要求を叶えるため、右端探し(条件を受け入れる人)を学年を超えたものとする。
兄の活躍もあってか、販路は小5にも拡大、一部の小3、小6マーケットを獲得した結果、俺と兄は100人のマッチングに成功し、1360円を稼ぐことに成功した。
祭りの日は愉快なものだった。わずかに余った左端のニーズに応えることもあって、俺はヤキソバを買い、半分をたこ焼きと交換した。
そして、10円を介することなく友達と食べ物を分け合い、そして、兄と一緒にお祭りに来ていた妹に金魚すくいを2回(兄から俺から1回ずつという形で)させてあげた。
やっぱ取れなかったし、そして今回は金魚もらうのを妹が断ってたので家で金魚が飼われることはなかったが、それでも楽しさは減ずることがなかった。
必死になってお金を手にしてよかった。情けなさもなしにおいしい食事と祭りを楽しめていることが最高に嬉しかった。
結局、最高の一日のあと、やはり俺の行動は問題となり、3,4か月して給食費が払えなくなったのが決め手となり、
それでも夫と2人の時は言葉もわかる同士だったから、どうにか時間を作れた。
子供の夜泣きに付き合うたびに、家事も育児もろくにせずに勉強する夫がうっとおしそうに私をみた。
羨ましかった。
これまでは添い寝をしないと、気づいた時にグズグズと文句をいう子供だったけど、学習の時間を設けてからは、子供が寝たあとに私が勉強することを良しとしてくれて、子供の就寝後に勉強できるようになった。
「ちょっとさみしいけど、おかあさんも、おべんきょうしたいよね。おべんきょうたのしいもんね。」という子供に、申し訳ない気持ちもあるけれど、勉強できることがただただ嬉しい。