はてなキーワード: 帰納とは
第1章 新しいプログラミング・パラダイムをめぐって (井田哲雄) 1.1 はじめに 1.2 プログラミング・パラダイムの形成 1.3 プログラミング・パラダイムの展開 1.4 パラダイムと作法と構造化プログラミング 1.5 構造化プログラミングを超えて 1.6 関数型プログラミング,論理型プログラミング,対象指向プログラミング 1.7 新しいプログラミング・パラダイム 1.8 まとめ 第2章 ラムダ計算と高階プログラミング (横内寛文) 2.1 はじめに 2.2 ラムダ計算 2.3 最左戦略 2.4 コンビネータによる計算 2.5 まとめ 第3章 マルセイユProlog,Prolog Ⅱ,Prolog Ⅲ 3.1 はじめに 3.2 準備 3.2.1 述語 3.2.2 項 3.2.3 項の単一化 3.2.4 節およびHorn節 3.2.5 論理式の意味 3.2.6 論理的帰結と導出 3.3 マルセイユProlog 3.3.1 Prologの記法 3.3.2 Prologの計算規則 3.3.3 Prologプログラムの例 3.3.4 カット・オペレータ 3.3.5 DEC-10 Prologとの相違 3.4 Prolog Ⅱ 3.4.1 difオペレータ 3.4.2 freeze 3.4.3 ループ構造 3.4.4 Prolog Ⅱのインプリメンテーション 3.5 Prolog Ⅲ 3.5.1 制約の枠組 3.5.2 Prolog Ⅲのプログラム例 3.5.3 束縛の領域と制約系 3.5.4 Prolog Ⅲのインプリメンテーション 3.6 まとめ 第4章 制約論理型プログラム (相場 亮) 4.1 はじめに 4.2 制約プログラミング 4.3 制約の分類 4.4 プログラムの実行 4.5 制約の評価 4.6 まとめ 第5章 オブジェクト指向 (柴山悦哉) 5.1 はじめに 5.2 モジュラリティと抽象化 5.2.1 抽象化 5.2.2 手続き抽象 5.2.3 データ抽象 5.2.4 オブジェクトによる抽象化 5.2.5 並列オブジェクトによる抽象化 5.3 共有 5.3.1 多相型 5.3.2 継承 5.3.3 多重継承 5.3.4 Self 5.3.5 動的束縛の意義 5.4 対話性 5.4.1 クラスの再定義 5.4.2 表示機能の一体化 5.5 オブジェクト指向の弱点 5.6 まとめ 第6章 型推論とML (横田一正) 6.1 はじめに 6.2 LCFの超言語からMLへ 6.3 プログラミング言語と型 6.4 MLの表現と型宣言 6.5 MLの型推論 6.6 LCFへの応用 6.7 まとめ 第7章 Miranda (加藤和彦) 7.1 はじめに 7.2 Mirandaの概観 7.2.1 等式による定義 7.2.2 基本データ型と基本演算子 7.2.3 ガード付き等式とスコープ・ルール 7.2.4 高階関数とカリー化 7.2.5 パターン・マッチング 7.2.6 ノンストリクト性と遅延評価 7.2.7 ドット式とZF式 7.3 型 7.3.1 強い型付けと静的な型付け 7.3.2 多相型 7.3.3 型類義 7.3.4 代数データ型 7.3.5 抽象データ型 7.4 処理系 7.5 まとめ 7.6 文献の紹介 第8章 項書換えシステムと完備化手続き (大須賀昭彦) 8.1 はじめに 8.2 項書換えシステム 8.3 TRSの停止性 8.3.1 意味順序 8.3.2 構文順序 8.4 TRSの合流性 8.4.1 完備なTRS 8.4.2 危険対 8.4.3 危険対を用いたTRSの合流性判定 8.5 Knuth-Bendixの完備化手続き 8.6 KBの応用 8.6.1 帰納的な定理証明への応用 8.6.2 等号論理の定理証明への応用 8.7 まとめ 第9章 等式プログラミングから融合型プログラミングへ (富樫 敦) 9.1 はじめに 9.2 等式プログラミング 9.2.1 等式プログラム 9.2.2 代表的な等式プログラム 9.2.3 プログラミング技法 9.2.4 正則プログラムと正規化戦略 9.3 条件付き等式プログラム 9.3.1 条件付き書換え規則 9.3.2 条件の種類 9.3.3 利点と問題点 9.4 融合型プログラミング 9.4.1 AMLOGシステム 9.4.2 向付き等式 9.4.3 実行戦略の変更 9.4.4 代入操作 9.4.5 合流するプログラムへの変換 9.5 まとめ
第1章 有限オートマトン D.Perrin:橋口攻三郎 1. 序論 2. 有限オートマトンと認識可能集合 3. 有理表現 4. Kleeneの定理 5. 星の高さ 6. 星自由集合 7. 特殊なオートマトン 8. 数の認識可能集合 第2章 文脈自由言語 J.Berstel and L.Boasson:富田 悦次 1. 序論 2. 言語 2.1 記法と例 2.2 Hotz 群 2.3 曖昧性と超越性 3. 反復 3.1 反復補題 3.2 交換補題 3.3 退化 4. 非生成元の探求 4.1 準備 4.2 生成元 4.3 非生成元と代入 4.4 非生成元と決定性 4.5 主錐の共通部分 5. 文脈自由群 5.1 文脈自由群 5.2 Cayleyグラフ 5.3 終端 第3章 形式言語とべき級数 A.Salomaa:河原 康雄 1. 序論 2. 準備 3. 書換え系と文法 4. Post正準系 5. Markov系 6. 並列書換え系 7. 射と言語 8. 有理べき級数 9. 代数的べき級数 10. べき級数の応用 第4章 無限の対象上のオートマトン W.Thomas:山崎 秀記 序論 Ⅰ部 無限語上のオートマトン 記法 1. Buchiオートマトン 2. 合同関係と補集合演算 3. 列計算 4. 決定性とMcNaughtonの定理 5. 受理条件とBorelクラス 6. スター自由ω言語と時制論理 7. 文脈自由ω言語 Ⅱ部 無限木上のオートマトン 記法 8. 木オートマトン 9. 空問題と正則木 10. 補集合演算とゲームの決定性 11. 木の単項理論と決定問題 12. Rabin認識可能な集合の分類 12.1 制限された単項2階論理 12.2 Rabin木オートマトンにおける制限 12.3 不動点計算 第5章 グラフ書換え:代数的・論理的アプローチ B.Courcelle:會澤 邦夫 1. 序論 2. 論理言語とグラフの性質 2.1 単純有向グラフの類S 2.2 グラフの類D(A) 2.3 グラフの性質 2.4 1階のグラフの性質 2.5 単項2階のグラフの性質 2.6 2階のグラフの性質 2.7 定理 3. グラフ演算とグラフの表現 3.1 源点付きグラフ 3.2 源点付き超グラフ 3.3 超グラフ上の演算 3.4 超グラフの幅 3.5 導来演算 3.6 超辺置換 3.7 圏における書換え規則 3.8 超グラフ書換え規則 4. 超グラフの文脈自由集合 4.1 超辺置換文法 4.2 HR文法に伴う正規木文法 4.3 超グラフの等式集合 4.4 超グラフの文脈自由集合の性質 5. 超グラフの文脈自由集合の論理的性質 5.1 述語の帰納的集合 5.2 論理構造としての超グラフ 5.3 有限超グラフの可認識集合 6. 禁止小グラフで定義される有限グラフの集合 6.1 小グラフ包含 6.2 木幅と木分解 6.3 比較図 7. 計算量の問題 8. 無限超グラフ 8.1 無限超グラフ表現 8.2 無限超グラフの単項性質 8.3 超グラフにおける等式系 8.4 関手の初期不動点 8.5 超グラフにおける等式系の初期解 8.6 等式的超グラフの単項性質 第6章 書換え系 N.Dershowitz and J.-P.Jouannaud:稲垣 康善,直井 徹 1. 序論 2. 構文論 2.1 項 2.2 等式 2.3 書換え規則 2.4 決定手続き 2.5 書換え系の拡張 3. 意味論 3.1 代数 3.2 始代数 3.3 計算可能代数 4. Church-Rosser性 4.1 合流性 4.2 調和性 5. 停止性 5.1 簡約順序 5.2 単純化順序 5.3 経路順序 5.4 書換え系の組合せ 6. 充足可能性 6.1 構文論的単一化 6.2 意味論的単一化 6.3 ナローイング 7. 危険対 7.1 項書換え 7.2 直交書換え系 7.3 類書換え 7.4 順序付き書換え 7.5 既約な書換え系 8. 完備化 8.1 抽象完備化 8.2 公平性 8.3 完備化の拡張 8.4 順序付き書換え 8.5 機能的定理証明 8.6 1階述語論理の定理証明 9. 書換え概念の拡張 9.1 順序ソート書換え 9.2 条件付き書換え 9.3 優先度付き書換え 9.4 グラフ書換え 第7章 関数型プログラミングとラムダ計算 H.P.Barendregt:横内 寛文 1. 関数型計算モデル 2. ラムダ計算 2.1 変換 2.2 計算可能関数の表現 3. 意味論 3.1 操作的意味論:簡約と戦略 3.2 表示的意味論:ラムダモデル 4. 言語の拡張 4.1 デルタ規則 4.2 型 5. 組合せ子論理と実装手法 5.1 組合せ子論理 5.2 実装の問題 第8章 プログラミング言語における型理論 J.C.Mitchell:林 晋 1. 序論 1.1 概論 1.2 純粋および応用ラムダ計算 2. 関数の型をもつ型付きラムダ計算 2.1 型 2.2 項 2.3 証明系 2.4 意味論と健全性 2.5 再帰的関数論的モデル 2.6 領域理論的モデル 2.7 カルテシアン閉圏 2.8 Kripkeラムダモデル 3. 論理的関係 3.1 はじめに 3.2 作用的構造上の論理的関係 3.3 論理的部分関数と論理的同値関係 3.4 証明論的応用 3.5 表現独立性 3.6 論理的関係の変種 4. 多相型入門 4.1 引数としての型 4.2 可述的な多相的計算系 4.3 非可述的な多相型 4.4 データ抽象と存在型 4.5 型推論入門 4.6 型変数をもつλ→の型推論 4.7 多相的宣言の型推論 4.8 他の型概念 第9章 帰納的な関数型プログラム図式 B.Courcelle:深澤 良彰 1. 序論 2. 準備としての例 3. 基本的な定義 3.1 多ソート代数 3.2 帰納的な関数型プログラム図式 3.3 同値な図式 4. 離散的解釈における操作的意味論 4.1 部分関数と平板な半順序 4.2 離散的解釈 4.3 書換えによる評価 4.4 意味写像 4.5 計算規則 5. 連続的解釈における操作的意味論 5.1 連続代数としての解釈 5.2 有限の極大要素と停止した計算 6. 解釈のクラス 6.1 汎用の解釈 6.2 代表解釈 6.3 解釈の方程式的クラス 6.4 解釈の代数的クラス 7. 最小不動点意味論 7.1 最小で唯一の解を得る不動点理論 7.2 Scottの帰納原理 7.3 Kleeneの列と打切り帰納法 8. プログラム図式の変換 8.1 プログラム図式における同値性の推論 8.2 畳込み,展開,書換え 8.3 制限された畳込み展開 9. 研究の歴史,他の形式のプログラム図式,文献ガイド 9.1 流れ図 9.2 固定された条件をもつ一様な帰納的関数型プログラム図式 9.3 多様な帰納的関数型プログラム図式 9.4 代数的理論 9.5 プログラムの生成と検証に対する応用 第10章 論理プログラミング K.R.Apt:筧 捷彦 1. 序論 1.1 背景 1.2 論文の構成 2. 構文と証明論 2.1 1階言語 2.2 論理プログラム 2.3 代入 2.4 単一化子 2.5 計算過程―SLD溶融 2.6 例 2.7 SLD導出の特性 2.8 反駁手続き―SLD木 3. 意味論 3.1 1階論理の意味論 3.2 SLD溶融の安全性 3.3 Herbrand模型 3.4 直接帰結演算子 3.5 演算子とその不動点 3.6 最小Herbrand模型 3.7 SLD溶融の完全性 3.8 正解代入 3.9 SLD溶融の強安全性 3.10 手続き的解釈と宣言的解釈 4. 計算力 4.1 計算力と定義力 4.2 ULの枚挙可能性 4.3 帰納的関数 4.4 帰納的関数の計算力 4.5 TFの閉包順序数 5. 否定情報 5.1 非単調推論 5.2 閉世界仮説 5.3 失敗即否定規則 5.4 有限的失敗の特徴付け 5.5 プログラムの完備化 5.6 完備化の模型 5.7 失敗即否定規則の安全性 5.8 失敗即否定規則の完全性 5.9 等号公理と恒等 5.10 まとめ 6. 一般目標 6.1 SLDNF-溶融 6.2 SLDNF-導出の安全性 6.3 はまり 6.4 SLDNF-溶融の限定的な完全性 6.5 許容性 7. 層状プログラム 7.1 準備 7.2 層別 7.3 非単調演算子とその不動点 7.4 層状プログラムの意味論 7.5 完全模型意味論 8. 関連事項 8.1 一般プログラム 8.2 他の方法 8.3 演繹的データベース 8.4 PROLOG 8.5 論理プログラミングと関数プログラミングの統合 8.6 人工知能への応用 第11章 表示的意味論 P.D.Mosses:山田 眞市 1. 序論 2. 構文論 2.1 具象構文論 2.2 抽象構文 2.3 文脈依存構文 3. 意味論 3.1 表示的意味論 3.2 意味関数 3.3 記法の慣例 4. 領域 4.1 領域の構造 4.2 領域の記法 4.3 記法上の約束事 5. 意味の記述法 5.1 リテラル 5.2 式 5.3 定数宣言 5.4 関数の抽象 5.5 変数宣言 5.6 文 5.7 手続き抽象 5.8 プログラム 5.9 非決定性 5.10 並行性 6. 文献ノート 6.1 発展 6.2 解説 6.3 変形 第12章 意味領域 C.A.Gunter and D.S.Scott:山田 眞市 1. 序論 2. 関数の帰納的定義 2.1 cpoと不動点定理 2.2 不動点定理の応用 2.3 一様性 3. エフェクティブに表現した領域 3.1 正規部分posetと射影 3.2 エフェクティブに表現した領域 4. 作用素と関数 4.1 積 4.2 Churchのラムダ記法 4.3 破砕積 4.4 和と引上げ 4.5 同形と閉包性 5. べき領域 5.1 直観的説明 5.2 形式的定義 5.3 普遍性と閉包性 6. 双有限領域 6.1 Poltkin順序 6.2 閉包性 7. 領域の帰納的定義 7.1 閉包を使う領域方程式の解法 7.2 無型ラムダ記法のモデル 7.3 射影を使う領域方程式の解法 7.4 双有限領域上の作用素の表現 第13章 代数的仕様 M.Wirsing:稲垣 康善,坂部 俊樹 1. 序論 2. 抽象データ型 2.1 シグニチャと項 2.2 代数と計算構造 2.3 抽象データ型 2.4 抽象データ型の計算可能性 3. 代数的仕様 3.1 論理式と理論 3.2 代数的仕様とその意味論 3.3 他の意味論的理解 4. 単純仕様 4.1 束と存在定理 4.2 単純仕様の表現能力 5. 隠蔽関数と構成子をもつ仕様 5.1 構文と意味論 5.2 束と存在定理 5.3 隠蔽記号と構成子をもつ仕様の表現能力 5.4 階層的仕様 6. 構造化仕様 6.1 構造化仕様の意味論 6.2 隠蔽関数のない構造化仕様 6.3 構成演算 6.4 拡張 6.5 観測的抽象化 6.6 構造化仕様の代数 7. パラメータ化仕様 7.1 型付きラムダ計算によるアプローチ 7.2 プッシュアウトアプローチ 8. 実現 8.1 詳細化による実現 8.2 他の実現概念 8.3 パラメータ化された構成子実現と抽象化子実現 8.4 実行可能仕様 9. 仕様記述言語 9.1 CLEAR 9.2 OBJ2 9.3 ASL 9.4 Larch 9.5 その他の仕様記述言語 第14章 プログラムの論理 D.Kozen and J.Tiuryn:西村 泰一,近藤 通朗 1. 序論 1.1 状態,入出力関係,軌跡 1.2 外的論理,内的論理 1.3 歴史ノート 2. 命題動的論理 2.1 基本的定義 2.2 PDLに対する演繹体系 2.3 基本的性質 2.4 有限モデル特性 2.5 演繹的完全性 2.6 PDLの充足可能性問題の計算量 2.7 PDLの変形種 3. 1階の動的論理 3.1 構文論 3.2 意味論 3.3 計算量 3.4 演繹体系 3.5 表現力 3.6 操作的vs.公理的意味論 3.7 他のプログラミング言語 4. 他のアプローチ 4.1 超準動的論理 4.2 アルゴリズム的論理 4.3 有効的定義の論理 4.4 時制論理 第15章 プログラム証明のための手法と論理 P.Cousot:細野 千春,富田 康治 1. 序論 1.1 Hoareの萌芽的な論文の解説 1.2 C.A.R.HoareによるHoare論理のその後の研究 1.3 プログラムに関する推論を行うための手法に関するC.A.R.Hoareによるその後の研究 1.4 Hoare論理の概観 1.5 要約 1.6 この概観を読むためのヒント 2. 論理的,集合論的,順序論的記法 3. プログラミング言語の構文論と意味論 3.1 構文論 3.2 操作的意味論 3.3 関係的意味論 4. 命令の部分正当性 5. Floyd-Naurの部分正当性証明手法とその同値な変形 5.1 Floyd-Naurの手法による部分正当性の証明の例 5.2 段階的なFloyd-Naurの部分正当性証明手法 5.3 合成的なFloyd-Naurの部分正当性証明手法 5.4 Floyd-Naurの部分正当性の段階的な証明と合成的な証明の同値性 5.5 Floyd-Naurの部分正当性証明手法の変形 6. ライブネスの証明手法 6.1 実行トレース 6.2 全正当性 6.3 整礎関係,整列集合,順序数 6.4 Floydの整礎集合法による停止性の証明 6.5 ライブネス 6.6 Floydの全正当性の証明手法からライブネスへの一般化 6.7 Burstallの全正当性証明手法とその一般化 7. Hoare論理 7.1 意味論的な観点から見たHoare論理 7.2 構文論的な観点から見たHoare論理 7.3 Hoare論理の意味論 7.4 構文論と意味論の間の関係:Hoare論理の健全性と完全性の問題 8. Hoare論理の補足 8.1 データ構造 8.2 手続き 8.3 未定義 8.4 別名と副作用 8.5 ブロック構造の局所変数 8.6 goto文 8.7 (副作用のある)関数と式 8.8 コルーチン 8.9 並行プログラム 8.10 全正当性 8.11 プログラム検証の例 8.12 プログラムに対して1階論理を拡張した他の論理 第16章 様相論理と時間論理 E.A.Emerson:志村 立矢 1. 序論 2. 時間論理の分類 2.1 命題論理 対 1階述語論理 2.2 大域的と合成的 2.3 分岐的 対 線形 2.4 時点と時区間 2.5 離散 対 連続 2.6 過去時制 対 未来時制 3. 線形時間論理の技術的基礎 3.1 タイムライン 3.2 命題線形時間論理 3.3 1階の線形時間論理 4. 分岐的時間論理の技術的基礎 4.1 樹状構造 4.2 命題分岐的時間論理 4.3 1階の分岐的時間論理 5. 並行計算:その基礎 5.1 非決定性と公平性による並列性のモデル化 5.2 並列計算の抽象モデル 5.3 並列計算の具体的なモデル 5.4 並列計算の枠組みと時間論理の結び付き 6. 理論的見地からの時間論理 6.1 表現可能性 6.2 命題時間論理の決定手続き 6.3 演繹体系 6.4 モデル性の判定 6.5 無限の対象の上のオートマトン 7. 時間論理のプログラムの検証への応用 7.1 並行プログラムの正当性に関する性質 7.2 並行プログラムの検証:証明論的方法 7.3 時間論理による仕様からの並行プログラムの機械合成 7.4 有限状態並行システムの自動検証 8. 計算機科学における他の様相論理と時間論理 8.1 古典様相論理 8.2 命題動的論理 8.3 確率論理 8.4 不動点論理 8.5 知識 第17章 関係データベース理論の構成要素 P.C.Kanellakis:鈴木 晋 1. 序論 1.1 動機と歴史 1.2 内容についての案内 2. 関係データモデル 2.1 関係代数と関係従属性 2.2 なぜ関係代数か 2.3 なぜ関係従属性か 2.4 超グラフとデータベーススキーマの構文について 2.5 論理とデータベースの意味について 3. 従属性とデータベーススキーマ設計 3.1 従属性の分類 3.2 データベーススキーマ設計 4. 問合わせデータベース論理プログラム 4.1 問合わせの分類 4.2 データベース論理プログラム 4.3 問合わせ言語と複合オブジェクトデータモデル 5. 議論:関係データベース理論のその他の話題 5.1 不完全情報の問題 5.2 データベース更新の問題 6. 結論 第18章 分散計算:モデルと手法 L.Lamport and N.Lynch:山下 雅史 1. 分散計算とは何か 2. 分散システムのモデル 2.1 メッセージ伝達モデル 2.2 それ以外のモデル 2.3 基礎的概念 3. 分散アルゴリズムの理解 3.1 挙動の集合としてのシステム 3.2 安全性と活性 3.3 システムの記述 3.4 主張に基づく理解 3.5 アルゴリズムの導出 3.6 仕様記述 4. 典型的な分散アルゴリズム 4.1 共有変数アルゴリズム 4.2 分散合意 4.3 ネットワークアルゴリズム 4.4 データベースにおける並行性制御 第19章 並行プロセスの操作的および代数的意味論 R.Milner:稲垣 康善,結縁 祥治 1. 序論 2. 基本言語 2.1 構文および記法 2.2 操作的意味論 2.3 導出木と遷移グラフ 2.4 ソート 2.5 フローグラフ 2.6 拡張言語 2.7 その他の動作式の構成 3. プロセスの強合同関係 3.1 議論 3.2 強双模倣関係 3.3 等式による強合同関係の性質 3.4 強合同関係における置換え可能性 3.5 強等価関係上での不動点の唯一性 4. プロセスの観測合同関係 4.1 観測等価性 4.2 双模倣関係 4.3 観測合同関係 4.4 プロセス等価性上での不動点の唯一性 4.5 等式規則の完全性 4.6 プロセスの等価性に対するその他の概念 5. 双模倣等価関係の解析 5.1 等価性の階層構造 5.2 階層構造の論理的特性化 6. 合流性をもつプロセス 6.1 決定性 6.2 合流性 6.3 合流性を保存する構成子 7. 関連する重要な文献
もしかして見てるかな
まぁ、それはいいや
知りあって数年の異性と約束をした
あちらには「居てくれること、傷付けない事、受け入れる事」を
こちらは「自身を相手の一部とすること、自我を与えること、依存を受け入れること」を
こうして文字にすると、その異常がより際立つ
人に言わせれば「気持ち悪い」の一言で一蹴されるような、おそらく汚い関係
青年期におけるアイデンティティの確立と拡散の発達課題に支障が出ている
ここで躓くということは、きっと以前の発達段階に積み残しがあるんだろう
せいぜいが、基本的信頼と不信の乳幼児期だろうが
話を一般の方に帰納する
相手の存在に自分の存在意義を委ねていない人がどれだけいるだろうか
「あなたのために~~」とキャラクターに言わせれば美談になるくせに
病的とさえ言われる
その時の恋人や伴侶の必要性とは何だろうか
社会的ステータスか、生殖のための遺伝子供給装置か、共同育成者か
感情の含まれない、役割と機能のみの道具の為が自然と思うのだろうか
自立していない、人間として終わっている、理性持つ存在として堕落しきった姿勢だ
別に理性を廃せよと言いたいのではない
「否定するな」と行動の制限をしたいわけでもない
ただ単純に、誰もが発達課題をきちんと積めるわけではないと言いたい
隙間の開いたジェンガのように、まばらでふらふらと安定しない存在でも、不安になりながら生きている
積み残しを補完するには、その上に積んだものも積み直しを迫られる
それは、きっと苦痛だ
それが出来ないから、他のジェンガに寄りかかって、集まって、倒れにくくする
きっとそれは、恋人や伴侶の話に限ったことではないだろう
きっと寄りかかり合って積んでいく
隙間一つ無いジャンガなら、そんな必要もないだろうが
だから、あらゆる関係において「依存」という形容詞が適応されるだろう
きっと本来は、依存は「良悪」で判断されるべきで「善悪」で判断されるべきでは無いんだろうな
演繹する
自分と相手には、それが必要だった
大きな依存を結ぶ必要が
そうでなければ、ジャンガを全て崩す他なかったのだ
初めから積まなければいいのだ
崩してしまえば、崩れることはない
それは、自殺だ
だったら、どう違うか相対的な整合性を仮定しなきゃ
まったく意味がないよな。
個人的な経験則は無効だぞ。
まあ本格的なバカみたいだから簡単に設問すると、
僕はその問題に少しだけ詳しいので知っていることを説明します
あなたもご存知の通り、
風俗がオナニーよりなぜ気持ちいいのかという設問は長らく論争の的でした
いまだに決着していないといってもよいその議論は
とりもなおさず生命とは何かということの定義あるいは自己複製へのイデオロギー的確信に
世界中の科学者、研究者がこの人類に残された究極にして最後の謎、
暗い闇の中を手探り状態で開拓しはじめたのが今から70年程まえです
著者はサイモン・プライマー、題名が「断片の創造性にかかる自己複製への影響の解釈」という
この科学論文が英国科学研究機構に提出されたのが今から71年前のこと、
当時この論文にはさほど科学的に重大な発見が記されているとは思われていませんでした
そこに書かれていたのは、自己複製の連続性つまり人類の生命誕生における
遺伝子決定に関してたんぱく質が影響をおよぼす断片的な創造性の思想的な解釈でした
それはDNAの2重螺旋構造をセントラル・ドグマとした当時のある種流行とも呼べるテーマでした
この全体としていささかインパクトにかける無名の生物学者が書いた論文に
たった一行それはあまりにもさりげなくしかし後の科学にとっては非常に重要な示唆が挿入され
それをあくまで直感的に解釈するプライマーの言葉が短くしるされていました
それが以下、
私はこの等式記号がただちにオナニーの快感を否定するものではないことを承知するが
さしあたって風俗での射精との関連についての演算的なゴールであることを定義するものであること
でした。
ここに風俗とオナニーに関する科学史の始まりとそして同時に終末が同時に記されたのです。
あるいは当時この示唆はあまりにも大胆な飛躍ととられたのかもしれない。
しかし、このほんの小さな一陣の風の前に
一人の研究者が現れることで科学史は大きなうねりを持ち始めるのでした
意味はわからないかもしれませんけど、まだ始まったばかりですから
最終的に風俗がオナニーよりなぜ気持ち良いのか科学的に証明するところまで
行くのにあと300レスは必要なんだしその頃には分かるんじゃないかと思います
ごめん終わらせちゃっていい?
天才だなお前
ちょっと待ってくれ。
>>37がやろうとしていることは生命科学だよな。
おまえがやろうとしているのは疑似科学だ。
捏造することもできない。
僕はそれを証明しようとしてるだけだし
それを疑似科学だとか言うならそもそも君の設問がナンセンスだってことになるよ
それに僕はオナニーでの射精から得られた精液から得られた微量のゲノムDNAサンプルと
風俗での射精から得られた精液から得られたゲノムDNAサンプルのRCA解析の結果を2次元下で
モデル化することで余剰次元の素粒子標準の不明点は切り離せると考えてるし
あくまで演算的に設問を証明しようとしてるわけだから可視化の力学的性質だけで
検出できない微小なプロセスは物理的な効果も無視されるのがふつうだ。
君の考えていることとはベクトルがまるっきり逆だと思う
射精のメカニズムを解析するのではなく射精された精液に含まれるDNAのふるまいによる
観察結果がおのずと回答を導くんだ。だから300レスで十分に証明可能なんじゃないか。
間違えたPCRでの解析だ。RCAじゃヒッグス機構と階層性問題の内部対称性が示せない。
超対称性を取り入れた標準モデルの拡張性の大きな強みは、粒子とスーパーパートナーの
双方から仮想の寄与があるとき、超対称性によって仮想フェルミオンと仮想ボソンそれぞれの量子補正が
実現できるてことになるから。とにかくRCAじゃなくてPCRでの解析を比較します。
読んでて頭が割れそうだ。
※おことわり
少し時間ができたので、最近ちょっと考えたことをまとめておこうと思う。
単なるメモでも良かったけれど、次の展開を期待してあえて発信してみる。
ただ、自分の意見への少しの共感が、ごくわずかな人からでも得られたら…
と、どこかで期待しているのも否定しない。
重たいタイトルだが、以下は要するにキャリアについてのまとめ。
自身はすでに就職先の決定など、人生における比較的重要な選択を終え、
どうしても帰納的なキャリアの導き方となるが、そこは了承いただきたい。
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俺は哲学者でも何でもないけれど、自分のキャリアを考えているうちに、
進むべき道を定義するためには、自分の生きる意味なり目的なりを
ある程度はっきりさせておく必要があるのでは、と考えた。
いわゆる、人生の“コンセプト”というやつだ。
それが定まっていると、なんとなくラクだろうな~と思う。
例えば就職活動など、人はどこかの段階で人生における重要な選択を迫られる。
この時、選択したものに対して論理的な説明ができなければならない。
特に大きな問題はないだろうというのが正直なところだ。
それでも論理的な説明を用意しておくべきだと考えるのは、
自分を納得させるためでもある。
自らのキャリアを選択するのに悩む場面が出てくる。
そんな時に、思考の上で帰る場所があれば、と思うのだ。
迷ったら帰る場所であり、それは同時に目的地、ゴールでもある。
一度そこに立ち返って、演繹的な思考を重ねれば正しい選択を導ける。
いや、正確に言うと正しいかどうかは判断できないが、
少なくとも自分を納得させられるだけの論理構成を組み立てることが可能だ。
「キャリア」についての説明が不足していたので少し補足しておく。
途中、いくつかの岐路があってどこに進むか選択しなければならない。
選択を誤ると、目的地まで遠回りすることになったり、
これは普段気づきにくいことだが、
…という話をするとどうしても抽象的になるが、
いずれも、ここで言うキャリアに含まれる。
少し脱線したが、そもそもなぜこういうことを考えるに至ったか…
改めて検討しようと考えたからだ。正しかったのか…というよりは、
間違っていなかったことを証明したかったという方が正確かもしれない。
自分が納得のいくための説明をするためには、
論理構成が正しく組み立っていることが大切だ。
論理的に正しいということはつまり、なぜ?に対して答えられるということ。
しかし、なぜ?を何度か繰り返すと必ず壁にぶつかる。
なぜ、生きるのか―。
千差万別の答えが得られそうだが、
俺の結論を先に言うと“子孫を繁栄させるため”だ。
さらに子や孫、あるいはその世代が
よりよい生活を送られるように、環境を整えようとする。
では、どう生きるか―。
これもまた、十人十色の答えがあるだろう。
俺が導いたそれは“適応的に生きる”ということだった。
そんな変化の多い時代、
子孫を繁栄させることができる。
少し横道に逸れるが、キリンの話を。
遺伝の変異で首の長い種が誕生したのだが、それが環境に適応した。
これまで地面に生える草木をエサとしていた草食動物。
しかし、エサとなる草木にも限りがある。
そこにはエサの取り合い、熾烈な生存競争があった。
キリンはその長い首を生かして、
他の動物が手の(口の?)届かない高い樹木の葉を食べた。
これなら他の種と争うことも無く、エサに不自由することがない。
繰り返しになるがとどのつまり、
文明の進展によって、人は社会と呼ばれる環境を自ら作ったのだ。
すなわち、現代を生きる人にとっての適応とは、
すごく簡単な言葉に置き換えると、
時代の流れにうまく乗る、と言ったところか。
その社会環境への適応のためには、今を分析して未来を予想する必要がある。
…ならないのだが、俺は識者でも学者でもなければただの一般人。
ゆえに、ここからは完全に私見になるためやや省略ぎみに。
また、情報爆発の時代ではITリテラシーの有無が情報格差につながる。
情報取得、選別能力の高さがそのまま社会環境への適応力の高さに。
そんな中では、人としてのコミュニケーション能力が重要。
さて、これまで長ーく書き連ねたけど、
もっと言うと子供や孫、さらにはその世代の人々も、
みんな幸せを実感しながら生きられたら、と。
結果、コンセプトのある生き方なのかな、と。
そこから導いたのが上のような考え。
もっと欲を言えば、自らが適応できる社会環境をつくっていけたらと。
そうするために、自分が出来ることはなんだろう?
これからも考えながら歩んでいこうと思う。
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※おわりに
それなりにやることやってきたのかな?と思う。
そのためには色々なものを見て、たくさんの経験をすることが必要。
1つのことを徹底的に深める人は本当にカッコイイと思うけど、
自分はそれよりも広さを追求しようと思う。
よしなしごとだが、今日18日午後、twitterで唐突に東浩紀氏が曰く、一昨日の晩から原発関連の報道が少なくなったかの印象があるとのこと。
もちろん、事実報道は絶えずなされている。ご本人も「放水してることぐらいは知ってます」と書いている。
事実そのものの緊迫度合いは変わっていない。事態の進行状況や対策対応を見れば情報を量的に計算しようともそれは変わるまい。いや、合衆国政府からの協力への強い要請(の露呈)や、IAEAからの情報開示要求というニュースを見れば、事態は以前を凌ぐものだろう。
東氏ご自身は政府が情報統制を始めたんじゃないかと書いていたので、ここに書くのは東氏の意図とは違う。もっと曖昧な「印象」についての話である。印象とは根拠のないものであり、帰納的にしか語ることができず、つまり「論」ではない。まさによしなしごと。
その印象が何を指しているか。
事実の質と量は充分であるのに、事実以上の報道はされていない?番組が少なくなった?という印象?
似たような話がある。
国内メディアの報道のトーンについては当初から、悲惨さに寄り過ぎる、自衛隊ほかによる救済など「いいニュース」が海外メディアにばかり流れている、避難所はもっと前を向いているのに伝えられない、等の批判が出ていた。twitterなどでも同様だったが、ロケ先で被災したコメディアンであるところのサンドウィッチマンによるコメントは、その国内メディアでも報じられたのでかなり広く知られるに至った。これらを受けてNHKでは編成方針を変更したようだ。
「ようだ」というのは、上記のようなことは定量的には前後比較できない、当事者の公表なしには視聴者の感想(の露出)によってしか測ることができないことだから。逆もまた真なり、敢えて書くことはしない。
それから、これも今回の震災に絡めてTwitterで見かけたエピソード。
阪神淡路大震災の折、被災地を放送エリアに持つ読売テレビが、番組編成を報道偏重からアニメやバラエティなど日常的なコンテンツを採り入れたものに切り替えたところ、賛否が多く寄せられたそうだ。不謹慎だというクレームはもっぱら被災地外からのもので、被災者からは「ひさしぶりに笑った」という感謝のメッセージが届いたという。
tweetの主旨は、悲惨な状況にこそ深刻さばかりでなく笑顔を生みだすようなものが必要だ、それを実現した読売テレビさんは素晴らしい、在京各局も続くべしということ。
それにしても、こうまで深刻である必要はどこらへんにあるのか。といっても「こうまで」の「こう」が曖昧至極であるが。
下位に対する憐憫という「善意」の発揮によって穏当裡に、普段は緩やかに規定される上下関係こそ、ここ最近のこの共同体を支える文化的精神的基盤だ。
もちろん、階級のないこの社会を円滑に運営するうえで有用だからこそ基盤たりえる。が、善意の発揮は多くを包み隠しもする。
女性差別を訴えられた男性は少なからず心外に感じるだろう。だって自分は女性を「弱き者」だと理解し、その通りに行動しているのだから。その振る舞いに、端から自立を放棄せよとのメッセージが含まれているとしても。
現在中年以上の大人であれば、街ですれ違う病者や障害者を「じろじろ見ちゃだめよ、可哀相でしょ」とたしなめられた記憶のひとつやふたつあるのではないか。乙武洋匡氏を引き合いに出すのは失礼と承知しているが、氏のような快活さをいまだに受け入れられない大人はいる。
それと同じように、被災地に救援物資と称してぼろが届く。「伊達直人」氏によって児童養護施設にランドセルが届いたのをきっかけに始まった伊達直人ブームも、しばらくすると最初の伊達氏の志とは随分違ったものになってしまったような印象だ。
しかしそれを差別だと大っぴらに言うことは憚られる。なんといっても善意だから、悪気はないのに、それを責めるのか、ひどい。
翻って、在日朝鮮民族・韓民族に対する差別があからさまに起き続けるのは、彼等がこの不文律を共有しない、憐れみに対して首を垂れないからではないのか。いうまでもなく不文律とは心の中にしか存在しない。印象と同じようなものだ。
そのような一連の意識を反映するものとして、原発関連の報道が、少なくなった、印象だ。
憐れまれる側にまわった者に供給されるべき「深刻さ」の座興などないということだろう。
最後に、東氏が18日未明に書いたもうひとつのtweetを引用しておく。
このような表現を使うと不謹慎と怒る人もいるかもしれない。しかし、ぼくたちはこの未曾有の災害を「好機」として捉えなければならない。バブル以降の20 年間の停滞に終止符を打ち、麻痺から脱し、日本をまともな国に戻すための最後の好機として。この好機を生かせなければ日本は本当に終わる。
「論理操作能力」(これ、「頭の回転の速さ」でいいと思うんだけど)を先天的なものだと考えた理由が書かれてないのが気になる。主張の重要部分なのに。
「経験的に(帰納的に)知った」というけれど、幼時を知らない間柄で、どうやって知りえたのか。
もしかしたら、「知った」のではなく、「思った」のか。だとしたら何故か。
案外重要なところかもよ。
また、論理操作能力が先天的であるということは、実際に東大にいて、多くの東大生を見てきて、僕が経験的に(帰納的に)知ったことです。
東大生の例から帰納的に考えたのであれば(野矢茂樹の論理トレーニング的な言い方をすれば)「推測した」という言い方が正しく、「知った」という言い方をするのはおかしい。
ここもそうだけど、帰納的に推測したことを「事実を知る」という言い方をする理由がわからない(元増田が国語や論理的な思考が苦手だという理由以外では)。
そもそも「論理能力が先天的に決まっている」というのが「事実」だとしたら是非どこかの学術雑誌に投稿してほしいものだが、そういうわけではなくて、単に元増田が自分の妄想を事実と勘違いして垂れ流してるだけだろう。
元増田が東大生かどうかは知らないが、論理操作能力的なものが存在すること、元増田がそれに乏しいこと、そして論理操作能力が受験ゲームにおいてそれほど重要ではないことにはわりと同意。
追記:ブコメみたら元増田の文章に納得した、とか言ってる人もいるみたいだけど、こいつは「論理操作能力が先天的である」ことの根拠なんて全く示してないから。勘や感覚でなんとなくそう思う、そんな気がする、ならわかるけどね。
東大卒。自分はギリギリで東大理Iに受かったぐらいの大したことのない頭の持ち主だが、東大に入ったおかげで、色々な東大生を見ることが出来た。その結果、論理操作能力というのは極めて遺伝的なものであるという事実を知ることが出来た。東大の中でも頭がイイ奴は、特に、時間あたりに操作できる論理操作の数が常人の数倍は速く、常人より1桁正確だと思う。この事実を知ることが出来たことが、東大に入って最も良かったことの一つだと思っている。
お勉強が出来るだけでは社会に出ても役に立たないというのは、その通りだと思うのだが、論理操作能力が速くて正確なことは社会に出る上で非常に役に立つ。特に、議論で圧倒的に有利になる。議論って言うのは、実は、試験よりも速くて正確な論理操作能力が要求される。その場で返答しなければいけないからだ。試験だったら、その場でとっさに答えを思いつかなくても、「とりあえず置いておいて、試験時間終了間際にもう一度見なおしてみるか」といった戦略が取れるが、議論の場では、相手は何十分も返答を待ってくれない。その場で返答しないと意味が無い。
論理操作能力は遺伝的なものだから、訓練しても高くはならない。だから、論理操作能力が低い(才能がない)我々のような人間が彼らに勝つためには、「論理操作能力が高いヤツとは最初からマトモに議論しない」ということが重要だ。例えば、相手が持っていない情報に基づいて反論する。いくら論理操作能力が高くても、知らないものを知ることは出来ない。それから、論理操作能力が高いヤツの前では、自分のやっている仕事を面白そうに見せない。論理操作能力が高いヤツが自分の仕事を持って行くからだ。
こういう勝つ技術の中でも一番多く使うのは「自分の仕事に関係ないことは黙っておく」という技術だ。会議の中で自分より論理操作能力が高そうな人間がいて、その会議が自分の仕事に直接関係なく、意見することで何か自分に利益がもたらされるのでなければ、黙っておく。論理操作能力が高い人間の意見は高い確率で正論なので、しばらく放っておけば、そういう人間が会議を引っ張っていくようになる。
論理操作能力が低い自分でも、論理操作能力が高い人間が多く集まる東大という環境にいられたおかげで、こういう論理操作能力が高い人間の中で立ち回る技術を身につけることが出来た。人類の大半は、論理操作能力が低い人間だ。みんなで、共闘して奴らを追い落とそう。
追記:最後の文の「奴ら」は、論理操作能力が高い人達の事です。時間がたってから校正しないと、こういう曖昧性に気がつかないのが、僕の論理操作能力が低い証拠です。論理操作能力が高い人達は、即興で曖昧性の低い文章を書くことが出来ます。
また、「情報処理能力」の方が適当ではないかという意見がありましたので、「論理」「操作」能力とした理由を説明します。「論理操作能力」というのは、平たく言えば、「頭の回転の速さ」だと思ってください。
まず、「情報」ではなく「論理」という言葉を使ったのは、「情報」では、人に上手く質問して情報を引き出す能力や、ネットや本で調べる調査能力を含むような誤解を与えると思ったからです。そういう調べ物が得意な人は居ますが、その人の専門にもよりますし、信頼できる情報源をどの程度「知っているか」という知識の問題でもあります。例えば、法学部卒の人が法律に関することについて情報入手能力が高いのは当たり前です。一方、「論理」なら、こういった調査能力を含むかのような誤解は与えません。ですから、「情報」より「論理」の方が適切であると思いました。
次に「処理」ではなく「操作」という言葉を使った理由は、「処理」では、処理した結果何をアウトプットとすれば良いのかが明確に決まっている、という誤解を与えるからです。例えば、漠然と「何かいいアイデアない?」と聞かれた場合は、欲しいアウトプットは定まっていません。このような得たいアウトプットが明確に決まっていない状況でも、与えられた条件から「この条件とこの条件をこう組み合わせれば、こういうことが言えて(=こういうアウトプットが得られて)、嬉しい!」ということを即興で考えつくことが出来る人がいます。僕は、「論理操作能力の高い人」という言葉で、こういう人たちのことを指したかったのです。
例えば、車を操作する、とは言いますが、車を処理する、とは言いません。「操作」という言葉が、どの方向に進みたいかを決めることをも含んでいるからです。一方、「車をA地点からB地点まで移動するという仕事を処理する」ということは出来ます。処理するためには、アウトプット(目的)が最初から決まっていないといけないのに対し、操作することは、アウトプットを定めることも含んでいます。ですから、「処理」よりも「操作」の方が適当であると思いました。
ところで、この文章では、遺伝的と先天的を同じ意味で使ってしまっています。僕が言いたかったのは「先天的」の方です。先天的だからといって遺伝的であるとは限りません。また、論理操作能力が先天的であるということは、実際に東大にいて、多くの東大生を見てきて、僕が経験的に(帰納的に)知ったことです。また、僕は、論理操作能力の高い人が東大だけに存在するとは思っていません。どの大学でも、名前が知られている大学なら、上位何%かは論理操作能力が先天的に高い人だと思います。東大は、その「何%」が、1~2割程度になっているぐらいです。東大は、一般教養の代わりに、シンフリ制度(最初は全員教養学部に属し、1年~2年前期までの成績で、他の学部学科に転籍する進学振り分け制度)を取っているので、学部・学科によって、論理操作能力の高い人の全体に占める比率は大きく異なります。シンフリ点数の高い学科は、やっぱり、論理操作能力の高い人が多いと思います。シンフリとかシケプリ・シケタイ・シケ長とかいった言葉を知っていることは、僕が実際に東大卒である傍証にはなると思います。
追記2:
言いたいことが伝わってこない、という人が何人かいるのですが、そういう方は、どこが悪いか教えていただけると幸いです。理系出身なので、各段落の1文目をキーセンテンスにして書く点や、曖昧性がないように書く点だけは気をつけて書いているつもりです。文章が長い(冗長性が無駄に高い)のは、校正してないのでしょうがないと思っています。
追記3:
何で「論理操作能力」っていう言葉を定義しただけで、こんなに反論が多いのだろう。とりあえず、「論理操作能力が高い」=「与えられた前提から、単位時間あたりに論理的な推論を用いて導き出せる有意義な結論の数が多く、また、その推論が精確なこと」と定義しておく。単に論理的な推論がたくさん出来るだけ(=論理演算能力が高い)では、コンピューターの方が人間より優秀だということになってしまう。論理的な推論を重ねて、「有意義な結論」を見出さなければならないから、「操作」という言葉を使った。また、人間は推論を間違えることも多々あるので(例えば、A→Bが、議論を進めていくうちに、B→Aも成り立つことになっていたり)、推論が精確であることも重要なので、「推論が精確なこと」を定義に含めなければならない。
「コミュニケーション能力」とか「国語力」とか「人間力」とかよりも、ずっと精確に定義できていると思うのだけど、何でこんなに反発を食らうのか分からない。
追記4:
英語を使うと冗長すぎるって言われそうなのでやめておいたのだが、やっぱり、書くことにしてみた。操作は、"operation"の意味で使っています。"operations"のように複数形に出来ることが大事。まぁ、"manipulation"の意味でもよいかもしれない…これも、"manipulations"にできるからね。"control", "exploit"の意味では使っていません。
追記5:
増田も寄付は大好きだよ! 施すほうじゃなくて、受け取る方としてならね!
なんだか一億総ポトラッチ化が進んできました昨今、増田が由緒正しきネトウヨであったら「ゲヒヒ、次は国を隣国に寄付ですか?」と揶揄の一つも売ってやるところだけどはてサは恐いし、増田はそもそも右翼じゃない。ただの逆張りが好きな女子中学生だ。そう考えて読むと気分いいよ?
流行ものをとりあえずdisとくのはウェブに生きる天邪鬼としてのたしなみだよ! みんなも若いうちは、無闇やたらに反発するといいんじゃないかな?
でも実際twitterとかでこの手の逆張りやってんのは三十代のピザデブハゲ女子中学生たちなので、きみたちの健康と精神に大ダメージを与えるよ! 貧弱な想像力は時にみずからの命を助けるね!
ところでなんでぼくらはタイガーマスクきどりどもが嫌いなのかな?
不思議? ふしぎだよね!? だって、寄付ってすごいいいことなんだよ? ただの偽善じゃない。誰も傷ついてない。与えるほうも貰うほうも、みんな得してる。死んだビジネス用語でいうところのwin-winってやつだね。そうそう、未だに会議でwin-winなんていう単語出してくる上司をみかけたら、さっさとその会社の四階から飛び降りたほうがいい。
なぜか。
まあそんなことは上でさんざん申し述べてきたように、ぼくらが「どうしようもない天邪鬼だから」で済むんだけど、世間はそれじゃあ納得しない。反対するなら説明すべし。感情論は排してな。
と、ぶっちゃけバカに理論的な説明求めるなんてバカなんじゃねえのと思うむねがあるかもしれない。けれど、ココは天下の往来はてな匿名ダイアリー。またの名を皆殺しの増田。
説明責任逃れは問屋がおろさない。せめて嫌悪感の根源くらいはつきとめないといけない。
とはいうものの、「なぜ私は寄付ブームが嫌いなのか」を論理的に説明するのは、おそらくアジを三枚におろすより難しい。
この手の喧嘩でよく使われる殺法は「だって被寄付者が迷惑がってるじゃないかやめてあげなよ白豚野郎」と「親切の押し売り、大きなお世話」を強調するやりかただ。
ここでぼくら天邪鬼は施す物-施される物、という図式を瞬時にして加害者-被害者という関係に塗り替えることでスペクタクルとカタルシスをおぼえるんだけど、それで非難される無辜の大学生ボランティアとかはいい迷惑だよね! いい気味ですね!
そう、善意の悪人は悪意を自覚している悪人よりも罪が重い。なんだかよくわからないけど、ぼくらはそう信じちゃってる。漫画か何かの影響ですよね。あるいはお母さんについて、何かトラウマがあるのか。
まあ、ともかくしかし、タイガーマスクについてはなかなか「迷惑してる」という話は聞かない。少なくともビル・ゲイツより広くておーつねさんより狭い増田の観測範囲では、見当たらない。被害者は存在しない。まあ「あの手の寄附行為ばっかり報道されて恒常的に寄付を行なっている人たちが無視されてる」って声もあるけど、そんなもん、もともと無視されてたわ。
「みんなが得した」ここが、今回の件でやっかいなところだ。火のない所に煙は立たないし、煙が高いところにのぼらなければバカもまた踊れない。
さて、実はここに今回のぼくらが抱えるフラストレーションの一端が隠されている。
つまり、「いつもとおなじように偽善者を叩けると思ったら、おあずけくらってしまった」ってわけ。これってとってもストレスフルな状況じゃない? 犬みたい? 哺乳類と比べられるだけマシさ。
偽善ってなんだろうね? 寄附行為に限定して考えてみよう。広辞苑の定義を持ってくるのは、頭の悪い学生にやらせておけばいい。ぼくらには集合知の究極体、wikipediaさんがいるのだから。
「寄付(きふ、本来の用字は寄附。寄付は代用字)とは、金銭や財産などを公共事業、公益・福祉・宗教施設などへ無償で提供すること」
「無償」とはつまり、見返りをもとめないということだ。税金控除される時点で見返りもクソもないだって? まあ、それはここでは関係ないから頭から弾いてくれ。
この議論は彼らが「見返りを得ているか」の一点に集約される。
もちろん、違うよね? 物質的な恩恵はもちろん、名誉すら得られない。だって、匿名だもの。キャラクターだもの。「タイガーマスクはえらいですね」っていくら古舘さんがつばはいてコメントしても、それは神奈川県在住の庭師・津田大介さん(48)を褒めたことにはならない。まあ、2chでアンカもらえたときみたいに「存在すること」の承認を貰える快感はあるかもしれないけど、自己承認欲求そのものが満たされることはない。ランドセルは一個9000円。六つで54000円。あなたは2chでアンカもらうためだけにこれだけの金額を払おうと思う?
でも、実際金髪……津田さん(仮名)は「いいこと」やったじゃん。子どもたちの反応はともかく、施設は受け入れてるじゃん。全然ひとりよがりな自己満足ちゃうやん。
自己満足っていうのは充足してるってことです。いわゆるリア充。
はいみんな思い出してー。
っていうか、今回に限らず「ボランティアフォビア」だの「NGO死ね」だの「人権団体とか環境団体とかバカヤロウ」だのを表層だけで叩いてるとか、
っていうか、ぼくらが何者かを叩くときの原動力は、たぶんだいたい、コレ。
だって妬ましいじゃないですか。嫉ましいじゃないですか? 死ねばいいじゃないですか?
自分が善人だって自覚するのはなにより強烈なうぬぼれですよ? ましてや、ヒーローに自分をかさねて? 「悪ふざけだもん」ってみんなにバレバレな形で照れ隠ししてたりして?
ハンッ!
そんな綺麗事、罪じゃないわけないじゃないですか。
彼らはまごう事無き「善人」であるからこそ、叩かれるに値するのです。
それがイヤならアラを探すんだ。マスクどものアラを。徹底的にひとりひとりの素性を洗いだして、瑕疵を探しだせ。これだけいるんだ、ひとりふたり後ろめたいのやら奇抜なのやらは混じってるだろう?
特殊な例を普遍化しろ。延焼させろ。大火がみたい。燃やし尽くせ。
でも今回はそれが通じるかしら? しょせんは匿名が個人を葬るための技術。
匿名が匿名を殺す、新しい時代の戦争に対して、ぼくらはあまりに無知でありすぎる。
俺もまがりなりに、部下を持ち、後輩というか新卒を教育する立場になってしまった。今現在、二人の新卒君を指導しているけれど、この二人の性格というか個性の差によって、「この新人は、モノにならんなー」と思ってしまう。その理由の様なモノに思い至った。自分の日記に書くと、ウチの新卒がショックを受けてはイカンので、ここに書く。
新卒君/さんの参考になれば幸いだ。
駅弁理系大卒、7年目のシニア・エンジニア。これで年収800位出す規模の会社勤務(小さくはないが、世界的には大手でもない)
新人ども。
この二人に対する現在の俺の評価は、Aくんがマイナス、Bくんがプラスだ。
技能で言えばA君の方が多少はいいかもしれない。そりゃ留学までして、専門知識を厳しい環境で学んだ訳だから、多少は出来なきゃ意味がないだろうし、日本の大学の温い環境でやってきたB君は線形代数や微分積分すら、マトモに理解してない。アドバンテージは、断然A君な訳だ。しかし、実際にはAくんに対して俺は「この子はモノにならんかもしれん」と思っている。
何が違うか?
これは教育の立場に立った人間に共通する認識だと思うが、質問者が質問してきた時の質問の仕方で『どの程度まで自力で調べてきて』『今何を考えていて』『どうして詰まっているのか』まで、だいたい分かっている。質問するまでに掛かった時間も参考になる。かつて自分が通ってきた道だからでもあるし、何を理解して欲しいか?というテーマも持っているから、最初から辿らせたい道筋も知っているからでもあるけど、とにかく分かる訳だ。
で、この場合。A君は明らかに、それほど苦しむ事無く質問をして来ていて、B君はかなりいいところまで練りこんでから質問をして来ている。そんな訳で、思考力や問題への接し方の差で評価に差が出ている。決して、技術力や知識での評価ではない。むしろ、もっと根源的なもんだ。
ここで俺がA君に望むこととはなんだろうか?と言う事を書いてみる。
ということ。漠然としてるかな?
具体的に言うと、二人の質問の仕方が決定的に違うのは、A君は「正解を知りたがる」けど、B君は「自分の何がおかしいか?を知りたがる」ということに現れているってことで、俺はA君にはB君の様に考えて欲しいわけです。これで概ね俺の言いたいことが分かったんじゃないか?と思うけど、どうですか?
更に掘り下げていきますと。
A君は端的に言うと「ここのページを見てみたんですけど、こうなるはずなのに駄目でした。どうすればいいですか?」と来る。
B君は「こんな方法をこうしてみたくて使ってみたんですが駄目でした。何が駄目なんでしょうか?」と来る。
二人とも答えを知りたがっていることに差はないし、またアプローチの仕方に大差がある訳でもないのだけど、圧倒的に違うのは思考の道程だと言う事がこの質問から伝わって来ると思う。A君に正解を教えても、自分が間違った理由を知って正解を覚えるだけで終わるが、B君は自分の考え方のどこに足りないものがあったかを理解して、正解への道筋と失敗の間に横たわる溝を知る。
これが何年か積み重なった時、どうなるだろう?
おそらく、A君はB君の部下として仕事を進めることになるだろうな。
という訳で、新人がすべきことというのは単純だと思うし、必要以上に仕事や先輩を恐れる必要もないと思う。今、現時点で君たちが持っている様な知識なんか、俺らからしたら目くそ鼻くそで大差なんかないし、何も知らなくて当然としか思ってない。また、俺の知ってることを知ってる事なんか、まるで期待してない。ただ、「3年後に自分と同じレベルの目線で、問題を捉えて、アプローチできる素養があるか?」どうかを、期待してるだけだ。そして、それは普段から考え方を改める事で、対応できるレベルの事だと思う。
職場で失敗続きで、鬱になりかけてる若い諸君に、一言だけ言いたい。
【君が出来ない事はまるで怒ってない。君が「なぜ自分が出来ないのか?」を考えてない事に怒ってるんだよ。】
今がどうあれ、自分の間違いや失敗の理由を考え始めて行動しはじめたときには、先輩や上司は君を見る目をはっきりと変えて、それから何度でも手を差し伸べるはずだ。頑張ってくれたまえーー。俺もさっさと楽になりたいんだからさw
ブクマが20もついたので続き.
細胞骨格というと,モーターの役割つまり骨格筋における化学エネルギーの運動エネルギーの変換を取り持つアクチンミオシンすべり説が有名だけれど,細胞骨格はどうやら細胞生理において輸送作用をもち重要な機能を持つらしい.この辺を拡散モデルとの対比の分子モーターモデルで説明するのはちょっと理系のカップルならではかな.次元が減るのと熱物理化学的な親和性のための吸着力で輸送が可能になるというお話.細胞外骨格や結合基質もつながる.
結合組織は単に体の支持・結合に役立つだけではなく免疫・情報伝達・熱と物質の輸送等さまざまな機能がある.膠原病から反対に考えてみると普段の結合組織は発生と同様に機能が生理的に制御されている.
で,発生.発生はもう受精卵がヒトになるというので面白いこと請け合い.ちょっと妊娠の話とか混ぜて彼女の考え方を聞いてみてもよいかも,・・・,ではなくてモルフォゲンモデルという古典的な制御のモデルだけでなく最新のモデルの話もあわせて,アポトーシスの話や系統発生繰り返し説にふれてみるとよいかも.発生と完全に地続きのはなしになる.内部状態と環境とが幹細胞の分裂とできた細胞の分化とにかかわってくるんだ.
人間の器官レベルの制御機構は神経系と内分泌系が担っていて,後者の支配を前者が受け持つから神経系―受容効果系は人間の重要な部分.基本的には前者が高コストだから後者の低コストの制御も合わせて使うと考えればよい.糖の出し入れをいちいち神経で支配していたらエネルギーがかかりすぎる.
んで,システムズバイオロジーやさきほどの細胞間情報伝達のつながりで,ある細胞につきそこへの全入力(エネルギー(物質・輻射)・エントロピー・テンパラチャー)と全出力と全内部統合演算とを想定するモデルを考えられるから,細胞の出入力と内部統合につきシステムを建設することが多細胞でも重要なんだなどと自分の扱う細胞のシステム生物学の宣伝をしてみる.
単細胞でも人間でも何でもよいのだけれど,先ほどと同じで出入力と統合あるいは受容統合効果で考えることは同じ.で,感覚器からの情報を統合して,記憶などとも統合し出力をすることを考えるのだけれどこれがしこたま難しい.単細胞生物でも走性に記憶バイアスがかかることなんかが知られているけれど,ブラックボックスとして考えたくなる.強いて僕が考えていることはある入力に大しては特異的に発現しやすい出力があるということから統合のあり方を考えていくのと,神経の機能回路モデルを数学的に建設していくのと,があるけど全然専門外.恋した僕の気持ちも僕にはわからない.
地表(海含む)では重力が卓越していて生物や多くの物質は地表に束縛される.そこで単細胞生物と同様に生態系は多くのコンポーネントがあるシステムだと考えることができる.そのサブシステムとしては大陸・海洋・気象・太陽系との関係なんかがある.ある個体や生物種・生物群の動態は細胞内における細胞小器官の動態に似ているかな.どちらもシステム特性を規定しているのは物理法則だという点は共通.
ダーウィンはすごく頭がよかった.で『The Origin of Species by Means of Natural Selection: The Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life』(1st,1859)のなかで
The slightest advantage in one being, at any age or during any season, over those with which it comes into competition, or better adaptation in however slight a degree to the surrounding physical conditions, will turn the balance.
という一節がある.(個体に変異が起こりその)性質がほんの少しでも有利なら生態系のバランスを変化さす,と括弧内をつけくわえてみると,変異と自然選択のモデルが考えられる.たとえば点変異がDNAにおこって対照状態で細胞生理の変化を定量的に計測ないしシミュレートするモデルとか.
僕の興味はというと数理モデルを物理法則のもとに組み立て細胞の制御システムモデルをリバースエンジニアリング的に,帰納することにあるんだよと再び告白.
承前:http://anond.hatelabo.jp/20091005002132
ランド研究所というのはアメリカ空軍が設立したシンクタンクで、色々面白い研究をしている。
ゲーム理論とか線形計画法、動的計画法、帰納推論に正規表現、論理回路の縮約法、パケット交換ネットワーク、
RAND のレポートが先で、学術論文は後、そんな 1950 年代はアメリカの冷戦パラノイアいっぱい夢いっぱいの時代だった。
彼らがどうも昔のレポートを気まぐれに無料公開しているっぽい。2005年から毎年その数は増えている。半導体のスイッチング速度が10ギガの壁にぶちあたり絶賛停滞中のわれらが人類文明だけど、近過去に目を転じると、けっこーすげーじゃん、って気分になれるかもしれない。
試しに
site:www.rand.org/pubs/papers/2008/
とか
site:www.rand.org/pubs/papers/2005/
とか、年号を変えてぐぐってみよう!
追記:
site:www.rand.org/pubs/research_memoranda/2005/
とかもためしてみてね。ペーパーとメモの違いは正直よくわかりません
そりゃ学歴は欲しいよ。就職で有利になるし俺と同じ哀れな考えを持った連中から羨ましがられるから。でもそれも虚しい。
勉強だけなら働いてお金捻出して教材を買って独学でできる。勉強自体が楽しいならそうしていられるしプレッシャーも何もないからやめたいという気持ちも無くいつまでも続けられる可能性はある。勿論学校で強制させられてスキルを身に付ける事ができるという可能性もあるわけだが。
何でもそうだけど突き詰めていくとどうして生きているんだろうかっていう疑問に帰着してしまう。前述したんだけどそれが虚しいんだよ。
その疑問に加算集合の最初の元pをナンバリングしてそこから帰納的に導ける任意のnからQ(n)に対し¬Q(n)は証明可能でない。「¬Q(n)」は「最初の疑問から帰納された事象に対して生きている理由を導ける」と言う事だからω無矛盾な公理系。
これは証明も反証もできない命題だから虚しい。
あ、
死
ひ
ひいいいいいいいい
さいきんニセ科学批判やニセ科学批判批判やニセ科学批判批判批判を見ていて、あまりの議論のかみ合わなさにモヤモヤ通り越してイライラしてきたので書く。
ニセ科学が何故批判されねばならないか。それは「ニセ科学が『科学』でないから」ではなく「ニセ科学(者)が『科学(者)が満たすべき知的誠実さ』を満たしていないから」であり「社会的活動が満たすべき、倫理的規範を満たしていないから」である。
科学とされるもの、科学ではないとされるものの境界は、存在するけれども曖昧である。科学哲学における終わらん議論を見ても、科学社会学的な分析の試みをみても、科学史を俯瞰しても、それは明らかである。
たとえば、「科学とは何か」についてのあらゆる言明は、経験や帰納に依った言明である。数学における定義みたいに公理から導かれているわけじゃない。「科学であるもの」「科学でないもの」の間には微妙なグラデーションがあり、きっぱり線引きできない。もう少し現実的に突っ込めば、科学者集団が「これが科学だ」と認めているものが科学である、と言うこともできよう(うっかりすると「鶏と卵」のごとき循環論法になってしまうわけだが、しかし実はこの点は大事なのである。これについては後述する)。
つまり、「科学じゃないから」という論理はきわめてshakyなのである。ニセ科学批判やニセ科学批判批判批判を見ていてイライラするのは、わざわざそんなぐらぐらの基盤に立って相手を論破しようとしているからである。
ニセ科学が批判されねばならないのはなぜか。それはニセ科学(者)が「科学(者)でない」からではなく、科学(者)が満たすべきものも含めた広い意味での社会的規範を満たしていないからである。
たとえば、ピアレビューや批判・議論を拒否する態度。科学・工学にかぎらず、人文学を含むあらゆる知的営みにおいて、その質を保つ、あるいは向上させるためにピアレビューや議論は存在する。「科学者集団が『これが科学だ』と認めているものが科学」というのが無意味な循環論法にならないのは、ピアレビューによって、自身らの営みの価値を科学の外にある知的誠実さに帰しているからである。これらを拒否する「ニセ科学」者は、(彼または彼女の営みが科学かどうかを飛び越して)そもそも知的に誠実でない。
たとえば、社会に不利益をもたらす営み。これらは社会における倫理学的な規範を満たさない。骨相学や優生学が批判されるのはこのためだし、ホメオパシー信者によるインフルエンザ感染パーティなどもこの類に入ろう。
つまりは、批判のポイントは科学の境界線問題ではなく、倫理学にあるのである。ニセ科学に対しては、決して感情的にならず、相手と同じ土俵に立たず、倫理学の基盤に基づいた厳しい批判を淡々と行うべきなのだと思う。
以前日本人女性と付き合っていた経験から言えば、明らかに今の日本人女性の精神は軟弱になっている。
これは一種の社会問題だと思うので、ここに書こうと思う。
俺は日本に住んでいたが、成人してからはアメリカに住んでいる。
しかし、たまに日本人女性と交友を持つ機会はあり、日本人女性の精神構造をかいま見る機会はある。
そこで思ったことだが、日本人女性はなんでも男性のせいにするというある種の甘えが常態化している。
なるほど日本人は甘えの強い民族だということは、「甘えの構造」を紐解くまでもなく今や世界的に当たり前の認識であるが、
ここで言いたいのはそういうレベルのことではない。
今の日本人女性にはこれまでの日本人に見られなかった新しい傾向が広く見られるのである。
それは、どういうことか。こんな例がある。
女性が男性に限らず他の人間に何らかの不満を持ったとする。この時に、不満の解消を相手にさりげなく求めるような行動をまずとる。
これは人間として自然なことであり、とくにおかしなことではない。度を過ぎると問題ではあるが。
次に、この行動の結果として、相手が不満に気づいてないかのようなレスポンスを返したとする。
そうすれば女性はなぜ不満に気づかないのかと少し怒って、より不満を強く主張する。
ここまではいいのだ。ここまではなんということのない人間らしい行動である。
問題はこの次である。この次に、相手がやはり不満に気づかずに、不満の原因となっている言動をとり続けた場合である。
このとき、今の日本人女性は、不満をより強く主張することはせずに、「ネチネチした人間だ」とみなすのである。
ここが非常におかしい。今の日本人女性の極めてねじまがった精神なのである。
そのようなおかしな精神が一部の人だけならまだしも、それが当然であるかのように日本人女性全体に見られることが、なおさら異常である。
では、これの異常性についてより詳しく見てみよう。
アメリカの女性のばあい、相手に対する不満を持続的に感じたばあいには、相手が分かるまで強く改善を要求する。
昔の日本人女性のばあい、相手が不満点を改善しない場合、我慢するかより強く要求するかどちらかであった。
ところが、今の日本人女性はどうだろう。相手の人格のせいにするのである。これは自我を守るための一つの有効策ではあるだろうが、
さすがに過剰反応であり、それだけ強く自我を守らねばならないほど日本人女性の精神が軟弱になっていることを意味する。
言うまでもないことだが、相手が不満点を改善しない原因にはいろいろあり、人格というのはその一つに過ぎない。
人格以外に、不満点を相手が自覚していない、不満な気持ちが相手に伝わっていない、特別な事情があって相手に不満を与えているその言動を止めることができない、
といった原因があるものである。これらの原因の可能性を考察することなく、すぐ人格のせいにしてしまうのは、
じっくりと相手について理解を深めながらコミュニケーションをとることを最初から放棄しているのである。
なぜ放棄しないといけないかというと、それくらい自分を速やかに防衛しないと自我を健全に保てないからであり、それくらい精神が軟弱ということだ。
思うに、こうした日本の風潮のなかで育った子供は、コミュニケーションを粘り強くすることを学ばず、
いつでもコミュニケーションは切ることができるものと考えるようになるだろう。
そういえば、メールのやりとりでもすぐにブチる日本人女性が多いように思う。まことにゆゆしき事態である。
このように着脱が自由なコミュニケーションというのは便利で身軽な面もたしかにある。そういう意見はたしかに一理あるとは思う。
しかし、そのような考え方が日本、とくに日本人女性のあいだで広まったことで、日本人女性の精神の軟弱さが加速するのではと心配である。
粘り強くコミュニケーションしたり物事を理解したりする練習を教育に取り入れるべきである。
ネチネチしてる→そんなことはない。サラッとした文章でもないけど。これくらいで嫌悪感持ってるようじゃ、他人の意見聞く耳がなさすぎる。それじゃ世界観狭くなるよ。もしあなたが男性ならちょっと引く。/今気づいた。長文だからネチネチしてると言われてるのか?それだったら別問題だな。
周りに配慮を求めすぎている→いや自業自得だから勝手にしろと思ってたけどさすがに危機感持ったので文章にした次第。日本だと「郷にいれば郷に従え」で自己正当化する所があるからなあ。
俺も相手の人格のせいにして自我を守ってる→とくに守ってないけど。ネチネチしてると言われたのは俺ではなく知人。「あの人ネチネチしててやだ」って俺に愚痴ってきたわけ。本人の前で「ネチネチしてる」って言えるくらい精神強かったら俺がこんな文章書くことも無かったろうに。
ふられたかなんかあったんですか→いいや?ディープな会話に差し掛かると身をかわすところが日本人女性特有だなと興味深く思って。興味深いけどよくよく考えるとこれってヤバイ状況だなと。
比較対照はWASPですか→サンプルに偏りがあるのは致し方あるまい。反例があるなら提出してもらいたい。
観察対象が狭いだけ→だから反例を。確かに狭いとは思いますよ。
日本は「気(心)」でアメリカは「言語」でコミュニケーションする→その通りだね。アメリカでは多様な価値観の人が共存しているから、相手の気持ちをそう簡単に推測出来ない場合が多い。ちゃんと話し合わないと分からない。
派閥とか同調圧力では→周りもゆるくコミュニケーションしてるから自分もということ?確かにそれもあるけど、それを続けることで粘り強いコミュニケーション能力が失われ、
精神が軟弱になるという面もあるよね。その面から書いたのがこの文章。
見当違いのコメ多くね→予想はしてたけど、なんでかねえ。ネットだからか。ちゃんと相手の言ってること受け止めないで勝手に解釈してコメントしてるって感じ。
わざわざこんな長文を書くということは、増田はまだ日本人女性に期待しているということか→なぜ長文なのかがまず分からない。日本人女性には別段期待してるわけではないが、同じ日本人としてしっかりして欲しいとは思う。
おっさんを見てみろよ。キミの指摘がピッタリ当てはまるよ。→ん?おっさんはゆるーいコミュニケーションとは対極のコミュニケーションをとっていると思うけど。
おっさんが、「これだから若者は」などとすぐ言うのは、別に精神が軟弱だからではなくて、単に頑固だから。どちらにせよ、自我を守っての言動には違いないけど。
不満点を改善することを簡単に諦める+人格のせいにする+コミュニケーションを絶つ=相手が根気よく付き合うほど自分にとって重要な存在じゃないorむしろ切り捨てがメリット(不満→人格ではなく人格が不満を産む)
→もちろん相手の重要度は、対話を諦める時の一つのファクターだけど、他のファクターとして精神の強さもあるでしょ。
その精神の強さが昔の日本人女性と今の日本人女性と比べた場合、危機的レベルにまで弱まっているということを言ってるんだけど。
何人と付き合ったのよ→自慢ではないが恋愛が俺の人生の中心にあるので結構たくさん恋愛経験してるぞ。とはいえ100人もいないわけだから、あなたは少ないと言うんだろうね。
私の周りの女性は強いけどな。もはや男性に何も期待してない。→男性に期待してないのは強いと思うけど、ここで言ってるのは粘り強い対話をするための強さだからね。
「男性なんてくだらないわ」という感じに男性との対話を拒絶しているのであれば、その強さは自我を殻で守って維持しているから強く見えるだけだよ。
積極的に自我を相手に晒して対話を続けていける人のほうが、たとえ見た目でやんわりした印象があっても実は強い。
我慢して付き合わないといけない男性ってビジネス以外でそういると思わないのだが→その見方は悲しい。恋愛相手、友達、たくさんいるだろう。それにあなたにとって
粘り強い対話は「我慢」かね。それも悲しいなあ。
上にも書いたけど、「どこで対話をブチるか」という決定には、相手の重要度以外に、精神の強さという因子も関係してるでしょ。
自分の精神の弱さを棚上げにして、「あんな奴大事じゃないからブチったのよ」ってのは、違うと思うんだよ。
一般化しすぎるのは良くない→気づいたらすぐ発言する。これが俺のやり方です。間違ってると思うなら反例をどうぞ。
そもそも比較対象の昔っていつくらい昔?明治とか大正じゃないよね?→本文読めば分かると思うけど。
上から目線で語る→勝手にそっちが自己卑下してるだけじゃないの?でも仕方ないのかな上下関係を重んじるからね日本社会は。
不満があると人格のせいにする欧米女性もけっこういる→人格のせいにすることを問題視しているのではなく、大した対話もなしに人格のせいにせざるをえないような精神の軟弱さを問題にしているんだよ?
男と比較した実例を出せ等の批判→みかんの物価が値上がりしているという証拠を挙げるのに、りんごとの比較は必要か?つまり、そういうことだ。
日本人女性の精神の軟弱化を証明するのに、男性との比較は必要ない。ちなみに、俺は明らかに性差があると考えている。
アンタが女性にメールしても切られまくる→そんなことはないよ。あなた女性でしょ?そういう茶々を入れてないで現実に向き合って欲しいものだ。
日本の催しももう少し子供が積極的に参加する物があるといいのでは→そうですね。催しに限らず能動参加をたくさん教育に取り入れるべきだと思います。
「たまに日本人女性と交友を持つ機会はあり」程度の情報でしかない→多忙だから継続的に交友を持っている日本人女性は少ないが、
たまに交友を持つ女性・一時的に交友を持つ女性はたくさんいるという意味なんだけども。
べつに恋愛関係や友人関係ではないよ。仕事や趣味などでお話するような相手ね。一般化しすぎという意見が多いが、それもまた少々過剰な意見だ。
帰納した結果を反証するような事例があったらそのたびに主張を修正していけばいいのであり、全ての事例を集めてから帰納して主張しないといけない道理はないよ。
類は友を呼ぶ→少なくとも俺はそうやすやすと対話をブチったりしないけれども。
ある視点からは“軟弱”と感じられるようにならざるを得なかったジェンダリズムがあるのでは?→そうだね。それもあるし自業自得でもあるから放置してたんだけど、
先日日本人女性に「あの人ネチネチしてんのよ」って愚痴られた時に、よくよく話を聞いてみればどうも女性側の早とちりであるらしいことが分かったのを機に、
もしかしてこの状況ヤバいんじゃないかなと思って、他の人の意見を聞く意味でも文章にした次第。
改善を要求するコストが高いなら関係性を絶った方が現在の社会では安上がりなので、合理的。つまり、あなたの代わりはたくさんいるってこと。ま、女性の方が合理的ってことかもね
→面白い意見。女性のほうが計算高いから改善を要求するよりもコストの少ない、関係性を絶つという選択肢を選ぶ、ということだね。
しかし、相手をよく知らずに関係性を絶つことは激しく不定なリスクをともなうよね。そこまで計算してる人なんているのか?
それに、女性の精神の軟弱さを合理的だからそれでいいんだよと自己正当化してるのではという疑念は拭いきれないな。
外国住まいで恋愛が人生の中心とは何というスイーツ男性→スイーツという言葉の誤用。
「こうした日本の風潮のなかで育った子供は、コミュニケーションを粘り強くすることを学ばず、 いつでもコミュニケーションは切ることができるものと考えるようになる」それなら、女性限定ではないのでは?
→男性は女性に好かれるために粘り強く相手を受け入れる必要があるので、それが良い訓練になる。だから、男女を比べた場合、
男性のほうがまだ本文の意味で精神が強靱ということになる。しかし、今後は男性もますます軟弱化していくのではないかな。
要約すると、“日本の女性の皆さん、僕は人情の機微に疎いのではっきりわかるように言ってくれないと困ります。鈍いからといって嫌わないでください。”
→はっきり言わないことを問題視しているのではない。本人の意志でさりげなく伝えようとしているのであればまだ救いがあるのかもしれないが、
最近の日本人女性はそれさえも早々と諦めている。俺はよく恋愛相談に乗るから分かるが、好きな彼氏に対してさえも粘り強い絡みが出来なくなってきている。
だから、相手が重要でないから切っているんだよという批判は当たらない。社会学では「ヤマアラシのジレンマ」という言葉があるが、
その話で言えば針が刺さった時に与えられる痛みが以前より激しくなっている。だから「ゆるーく絡める彼氏が欲しいな」という女性が最近やたらと多い。
うつ病や不安症などが日本人女性の間で増加するなど精神的な弱さが表面化してきていた時点で、日本人女性大丈夫かよと心配していたが、その予感は的中したようだ。
個人的には僕も含めて日本全体が「人のせいにする」ようになったと思う。要は増田も人のせいにしてるんだろうね。
→1:1のコミュニケーションでは入念に自分のせいであるかもしれない可能性を検討すべきだというのは同意だけど、
日本人女性全般を語る時まで慎重になってたら誰も何も社会問題指摘できなくなっちゃうよ。
それに、観測者が俺であることによるサンプルの偏りには気を配って、今回の一般化に踏み切っているよ。
というのも、俺はいろんな人が証言する日本人女性の話やいろんな日本人女性がする俺以外の人間との人間関係の話を聴いてきている。
だから、「お前がメールして切られまくってるんだろ」等の「俺側に問題あるんじゃね」という形の批判の多くは的外れだと思う。
確かにこんな面倒くさそうな男に積極的にコミットするような粘り強さは持ち合わせていない。→上のコメント読んでほしい。
この増田みたいな欧米かぶれには「もっと対話しろ」と言われる一方、保守的な日本人からは「もっと慎ましくしろ」と詰られる。日本人女性ってホントに大変だね。
→慎ましさは積極的に対話しないこととは別では?
「我慢せずに受け入れない」選択肢が増えただけでは?→そう。コミュニケーションが着脱可能になった。それによって、粘り強いコミュニケーション能力が衰退した。
その結果、粘り強いコミュニケーションをとるには多大な努力を必要とするようになってしまった。教育改革が必要である。
それから、上のヤマアラシジレンマについての箇所読んでほしい。大切な人と仲良くすることさえ出来なくなっていることから、単に受け入れない選択肢が増えただけではなく、
精神が軟弱になっているのだと分かる。
鏡を見ろ→類は友を呼ぶに対するコメント見ろ。
・ペーパーマンという、ネットの一部利用は無料の、ガンアクションゲームをやった。
・麻雀をやった。
こういったゲームをしていて、その日ごとに、『面白かった』がちがったりもする。
だから、変動するゲームの面白い、つまらないって
どうやって決まるのかな~~ と考えてみた。
○自分に勝つのか
○相手に勝つのか である。
→ハイスコア狙う。コンボを開発する。昨日では出来なかったことが出来るようになる。面白さ。
→相手に勝つという形で認められる。自分は強い!と思う。気持ち。面白さ。
突き詰めてまとめるなら、自己承認欲求のかたまりではないだろうか
自分の記録を自分で抜いて、俺ってすげーー おれって凄いヤツ!!だし、
相手に打ち勝つことで、俺ってすげーー 俺って凄いヤツ!! だろう。
だから、どうすれば勝った!!っていう気持ちを味わえるのか。勝つってなに?
なのであり、自分は、この3点のバランスではないか。と考えている。
技術=それを実行して、
運 =それらが、少しランダムな要素がある。
戦略ばかり高いのは、将棋や囲碁。頭でっかちなゲーム。思考あるのみ。
技術ばかり高いのは、テニスとか。体でっかちなゲーム。練習アルのみ。
運ばかり高いのは、ジャンケン。 運でっかちなゲーム。ただ、祈るだけ。
コドモと、大人で遊ぶなら、実行する技術の面で問題アリアリでつまらんだろうから、
ほとんど同じ水準で実行できる技術にすればいい。
戦略と、技術がガチガチの本格ゲームは、勝ち負けがはっきりしすぎるから
運(偶然)の要素をおおくいれれば、一般化する。
つうか、話が突飛に過ぎるように思う。
痴漢被害の話は「男はみんなこうだ」という内容を暗に含
んでいるつもりがあるとは限らないし(というか通常は無いだろう。無いからこそ話すのだと寧ろ俺は思う。本当にそういう気があるのなら、男である増田に対して話す気にもならないのでは?)
痴漢被害の話は既に被害にあった後の話なので、対策が打てない。
といっても、男同士であっても日々常にある議題とそれに伴う対策を論じているわけではないだろう?w少なくとも俺はしていない。(こういう話題になると、何故か男は別に日々たいした話なんぞしていないのに「女どもより高級な話をしている」とばかりに高下駄を履く傾向がある。プライドか、見栄か?)
電車に乗れば「つーか、昨日俺、コンビニのバイトで店長にマジしかられて」「マジで?それマジキツくね?」なんて若い男同士の会話なんぞヤマのように聞こえてくるわけである。
上記2点によって、一方的なサンドバッグにされてしまう。
というが、「痴漢被害にあった」というだけで、そもそも上記二点の事を勝手に感じ取り「サンドバッグにされた」と感じるのが若干被害妄想に過ぎると俺は思うのだが。実際に、明確にサンドバッグにあった、というならば、それはもう「痴漢被害を話す女性」の話ではなく「痴漢被害について男をみかけると一方的にサンドバッグにしてくる女性」の話であり、両者は明確に分けなければならない。この辺が、この増田は突飛なのである。痴漢被害をただ話す女性と、それによって「男は皆そう。あんただってそう。あんたも責任を感じて私に謝りなさいよ」と例えば言ってくる女性とは分けて話さないといけないのだが、増田の話術?により「サンドバッグにされてしまう」まで読むと、読んでる側としてはいつのまにか「痴漢被害を話す女性=誰でもいいから男性をサンドバッグにする」と誤った情報がインプットされてしまうのである。その上、それを前提に話を進むからわけのわからないことになる。
その次の論からしても何か突然に「女性は共感してほしいのだと思う。」である。突然に何故か事実のように増田の主観が根拠なく語られるのだ。そしてまたそれを根拠に論が進むというマッチポンプ状態である。
また
とまるで「事実かのように」さり気無く書いているが、これはそういう女性にたまたま増田が出会っただけであることは忘れてはいけない。人間関係や、男女系の問題で、こういった「自身の身の回りのわずか数例、多くて数十例ぽっちのことから帰納法でもっともらしい一般的法則を無理矢理に出そうとする」タイプは多いのだが、危険だし、非論理的である。そういった人はまず人間が何人いるか、男性、女性が何千万人いるか、そういった規模の大きさや人の多様さを確かめてからにすべきである。君の周囲がイコール社会ではないのである。社会学や心理学は、「エセ科学」なんて蔑視されていたりもするが、その学問だってまさかこんな「自分の身の回りのわずかな人間から急に帰納法で無理矢理一般法則を見出す」なんてことはしない。何千人何万人とデータを取るのである。それでも確かとは言えないのだ。いわんや、増田をや。
君がパンクが好きだとして、「音楽ってのはギターぶっこわしてなんぼ、逮捕歴があってなんぼ」なんて思っていて、周囲も自然とそういう人間が集まったとする。そして「音楽とは?」と聞かれた場合「逮捕歴があってなんぼだよな」なんて答える人が君の回りに10人もいたとしても、それを「東京都民」に広げたら途端に少数派となるだろう。つまりはそういう可能性もあることを忘れてはいけないのである。
あと、さっきもいったが別に男とて常に「相談―対策」といった構造の話ばっかりしているわけではないw
男女問題になるといつの間にか男がそんな「キャラ」になってしまうのはおかしなことだが、俺だってたとえばスリにあったとして、友人に「昨日一万スられてさ、あーあ」とかいった途端に対策など講じられてはたまったものではないし、実際にそんな事を言い出す人間にも今のところ会ったことはない。会話を有る意味で大袈裟にとらえすぎというか、「マジかよ、災難だったな」終了、でいいんである。「もう事後だから対策を練れない」とかマニュアルバカみたいな事を思う前に、「今このときにおける自分自身の対策」を練り上げるべきである。こういう人間は、やたら対策対策言うわりには、他人に対するそれしか興味がなく、肝心の「自分の対策」はとんと興味がないらしい。妙な話だ。(つまり、「オレってば対策を講じてしまうんだよね」なんてのは、「他人に何か一言物申したい」という俗物根性をこぎれいにコーティングしてみせただけの一品だけでしかないということをこの時点で認識すべきである。)
あと、以前からはてな界隈ではよく好まれる「男は対策を考える、女は共感して欲しい」だが、これはあくまでそういう『傾向』が見受けられるというレベルであり(それもまだ統計的なレベルでしか証明されていないのでは?よく知らないが)、当然ながら男女でスパっと分かれているわけでは決して無い。すぐさまそうやって両極端な二元論を根拠に何かを組み立てそれっぽい論を作り論じた気分になるというのは文系の人によくありがちなのだが、世界はそうそう簡単なものではないので注意すべき。
また、個人的には必ずしも男は対策を考えるのが好きとは思えん。そもそも今このエントリにだって、「男は対策好き、女は共感好きだよね」「あーわかる、だよねだよね、俺もそう思う」なレスがついている時点で何かおかしいと思わないか?別に男も共感は求めるし、居酒屋など男の愚痴と共感の嵐、独壇場である。増田でも失恋した、といってグダグダ管を巻いているおそらく男によるエントリが多数見受けられる。逆に女性が対策を尋ねているエントリも多数見受けられる。
何か男は「共感を求めるのは感情的系ぽくてカッコワルイ、対策を考えるって方が、頭がいいっぽい」などと思い見栄をはっているだけでないか、と個人的には思うのだが、それはさておき、これは状況の問題もあると思う。
人というのは、よほど極端な人でないかぎり、通常、自分が愚痴るときは共感してほしいが、他人が愚痴ってるときは一言言いたいのである。
だからその時どちらに役柄が回っているか、というだけの話なのだ。女性が多数いると思われる小町なんかを見てみれば、さて彼女達は相談者に対して「わかるー」だけを言って終り、だろうか?そうではない。むしろビシバシつっこんでいく。こうすれば?ああすれば?と具体例をドンドン出していく。そもそも小さい頃自身の母に何か愚痴ったり相談したりしたら「こうすればいいじゃないの」と言われた経験はないだろうか?
「男は対策をいいたがるが女は共感してほしがる」という話が出るとき、その背景で想定されているのは「女が何かを相談あるいは愚痴をいい、男がそれを聞く」というパターンだけである。問題は性別というより、その「構造」にある。この場合は、男が聞く側にまわっているから男が対策を言いたがる側になっているだけなのだ。
男が愚痴り、男がそれを聞いている場合でも、結局同じような形が繰り広げられる。中身でなく「構造」に問題がある。
男が愚痴り、女がそれを聞き、「こうすればいいんじゃないの?うんたらこうたら」と言ったら、男に嫌われた、というネタの女性向け4コマは実は結構あるのをご存知だろうか?4コマのネタなんてのはたいがい基本「あるある」系だ。それだけありがちなのだ。女が聞く側にまわったとて、小町のときのごとくやはり対策を言いたいのである。聞く側はいわばぶっちゃけ「何の関係もない」ので、悪く言えば無責任な、よくいえば冷静な事をさらりと言える。
しかしこのパターンがあまり認知され難いのは、そもそも「男にアドバイスすると不機嫌になる→だからしない」というある漫画でいうところの猛禽女が増えていることや、そもそも男性は女性に愚痴りにくい(そうするのがカッコワルイ、という雰囲気は、いまだあるところにはあるだろう)こと、また先ほども言ったが男性側が「俺達は共感とかじゃなくて対策を言いたがるんだよね、論理的で、頭いいんだよね、俺達」と見栄を張りたいがゆえに気付こうとしないなど色々あげられる。
そもそもこういう男女ネタでは大抵男の方がいいように書かれている。別に論理的と感情的は相反するものではそもそもないが、一般レベルだと相反する感じがするし、また論理的といったほうが「アタマイイ」感じがするので、一般的に「論理的」と言われたほうが嬉しいのである。今の時代は。だから男はこういった男女ネタを支持する。支持すれば、別段何が変わったわけでもないが、自分が男と言うだけで優れた気になれるからである。白人による黒人差別にはヨクナイ!なんていったりしてみても、日本人は欧米人より知能が上である、といった論説は案外「あーそうかもー」とかいって飲み込んでしまうのに似ている。要は都合がいいから信じるし、「俺もそう思ってた」「あるある」なんていってみたりするのだ。まあ、確かに、自分に都合のいい論というのは大変に甘い汁であって、「本当にそうか?」と突っぱねるのは結構勇気がいるものではあるのだが。
よくわからんけど、そのアメリカの黒人差別時代には、白人専用席を上下の差以外で儲ける理由があったの? 日本の女性専用車両みたいに。
あったんなら歴史の評価が何だろうが差別だと思わんし、なかったんなら差別だと思う。
わける事自体が100%差別の呼び水になる、というなら、それこそ頭をひねって呼び水にならないそれを新しいアイデアとして構築すべきだし。
そもそも呼び水にならないと思うし。過去のアメリカがこうだったから似たような状況では普遍的にそうなる、なんて全く思えないなあ。帰納的に考えるにもサンプル数が少なすぎる。
というか上下の差以外で「白人専用席」を作ることのできる状況なんてそれこそテレビの討論番組くらいしかないだろうから、バスなんかで起こりえる状況じゃないんだけどね。