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はてなキーワード: 不完全性定理とは

2024-07-18

ZFCの哲学

ZFC (Zermelo-Fraenkel set theory with the Axiom of Choice) の哲学は、数学基礎論における中心的な位置を占め、その含意は数理論理学モデル理論証明論にまで及ぶ。

ZFCの存在論的基盤は、von Neumann–Bernays–Gödel (NBG) 集合論との比較において明確になる。NBGがクラス概念を導入するのに対し、ZFCは純粋に集合のみを扱う。この違いは、大規模基数の存在に関する議論において重要意味を持つ。例えば、到達不能基数の存在は、ZFCでは公理として追加する必要があるが、NBGではより自然に扱える。

ZFCの哲学重要性は、その一階述語論理に基づく形式化にある。これにより、完全性定理適用可能となり、モデル理論手法を用いた相対的矛盾証明可能になる。特にゲーデルのL構造構成可能全体)とコーエン強制法は、ZFCの独立性結果を示す上で本質的役割を果たす。

ZFCの公理系、特に置換図式の導入は、フレーゲ論理主義崩壊後の数学基礎論の再構築において重要役割を果たした。置換図式は、ラッセルパラドックス回避しつつ、十分な数学対象存在保証する。

選択公理 (AC) の哲学的含意は特に深い。ACは、トポロジーベクトル空間におけるハーン・バナッハの定理や、測度論におけるバナッハ・タルスキのパラドックスなど、数学の広範な領域に影響を及ぼす。ACの非構成性質は、直観主義数学構成数学との緊張関係を生む。

ZFCの哲学は、大規模基数公理研究と密接に関連する。イナクセシブル基数、マーロ基数、超コンパクト基数などの大規模基数の存在は、ZFCの無矛盾性を強化し、数学宇宙階層構造示唆する。これらの基数の存在は、プラトニズム的な数学観を支持するように見えるが、形式主義的解釈可能である

ゲーデル不完全性定理のZFCへの適用は、数学的真理の本質に関する深遠な問いを提起する。特に、第二不完全性定理は、ZFCがその自身の無矛盾性を証明できないことを示し、ヒルベルトプログラム限界を明らかにした。

ZFCの哲学的含意は、数学構造主義との関連でも重要であるブルバキ学派の構造主義的アプローチは、ZFCを基盤として数学構造定義し、分析する。一方、カテゴリー論的基礎づけは、ZFCに代わる代替的なアプローチ提供し、トポス概念を通じて数学宇宙多様性示唆する。

内部モデル理論特にゲーデルのL構造研究は、ZFCの哲学に新たな視点をもたらす。V=L(すべての集合が構成可能である)という仮定は、連続体仮説一般連続体仮説肯定するが、同時に多くの大規模基数の存在否定する。これは、数学宇宙の「薄さ」と「厚さ」の間の哲学的緊張を生む。

結論として、ZFCの哲学は、数学存在論認識論真理論交差点位置し、現代数学の基礎に関する最も深遠な問題を提起する。その影響は、数学哲学にとどまらず、論理学計算理論量子力学の基礎にまで及ぶ。ZFCの哲学探究は、数学知識本質限界に関する我々の理解を深化させ、数学哲学境界を絶えず再定義しているのである

2024-02-21

[] 数学は量子物理学と同様に観察者問題がある

量子力学における観測問題についてはよく知られるように、人間主観性が量子実験の結果に重要役割果たしている。

ドイツ物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによる有名な引用がある。

私たちが観察するのは現実のものではなく、私たち質問方法さらされた現実です。」

例えば有名なダブルスリット実験では、スリットの後ろに検出器を置かなければ電子は波として現れるが、検出器を置くと粒子として表示される。

したがって実験プロトコル選択は、観察する行動パターンに影響する。これにより、一人称視点物理学の不可欠な部分になる。

さて、数学にも一人称視点余地はあるか。一見すると、答えは「いいえ」のように見える。

ヒルベルトが言ったように、数学は「信頼性真実の模範」のようである

それはすべての科学の中で最も客観的であり、数学者は数学的真理の確実性と時代を超越した性質に誇りを持っている。

ピタゴラスが生きていなかったら、他の誰かが同じ定理発見しただろう。

さら定理は、発見時と同じように、今日の誰にとっても同じことを意味し、文化、育成、宗教性別、肌の色に関係なく、今から2,500年後にすべての人に同じ意味があると言える。

さて、ピタゴラス定理は、平面上のユークリッド幾何学の枠組みに保持される直角三角形に関する数学声明であるしかし、ピタゴラス定理は、非ユークリッド幾何学の枠組みでは真実ではない。

何が起こっているのか?

この質問に答えるには、数学定理証明することの意味をより詳しく調べる必要がある。

定理真空中には存在しない。数学者が正式システムと呼ぶもの存在する。正式システムには、独自正式言語付属している。

まりアルファベット単語文法は、意味があると考えられる文章を構築することを可能にする。

ユークリッド幾何学正式システムの一例である

その言語には、「点」や「線」などの単語と、「点pは線Lに属する」などの文章が含まれる。

次に正式システムのすべての文のうち、有効または真実である規定した文を区別する。これらは定理である

それらは2つのステップで構築されれる。まず、最初定理証明なしで有効である宣言する定理選択する必要がある。これらは公理と呼ばれる。

これらは正式システムの種を構成する。

公理から演繹は、すべての数学コンピュータで実行可能な印象を生む。しかし、その印象は間違っている。

公理選択されると、正式システム定理構成するもの曖昧さがないのは事実である

これは実際にコンピュータプログラムできる客観的な部分である

例えば平面のユークリッド幾何学と球の非ユークリッド幾何学は、5つの公理のうちの1つだけで異なる。他の4つは同じである

しかしこの1つの公理(有名な「ユークリッドの5番目の仮定」)はすべてを変える。

ユークリッド幾何学定理は、非ユークリッド幾何学定理ではなく、その逆も同様。

数学者はどのように公理を選ぶのか。

ユークリッド幾何学非ユークリッド幾何学場合、答えは明確である。これは、単に説明したいもの対応している。

平面の幾何学であれば前者。球の幾何学であれば後者

数学は広大であり、どのように公理選択するかという問題は、数学の基礎に深く行くと、はるかに感動的になる。

過去100年間、数学集合論に基づいてきた。

すべての数学オブジェクトは、いくつかの追加構造を備えたセットと呼ばれるものであるということだ。

たとえば自然数のセット1,2,3,4,...は加算と乗算の演算を備えている。

一般的なセットとは、数学で正しく定義されたことがない。

集合論特定正式システムによって記述される。Ernst ZermeloとAbraham Fraenkelと、選択公理と呼ばれる公理の1つに敬意を表して、ZFCと呼ばれる。

今日数学者は、すべての数学を支える集合論正式システムとしてZFCを受け入れている。

しかし、自分自身を有限主義者と呼ぶ少数の数学者がいる。

彼らは、無限公理と呼ばれるZFCの公理の1つを含めることを拒否する。

言い換えれば、有限主義者正式システムは、無限公理のないZFCである

無限大の公理は、自然数の集合1,2,3,4,...が存在すると述べている。すべての自然数に対してより大きな数があるという声明(「ポテンシャル無限大」と呼ばれる)よりもはるかに強い声明である

有限主義者は、自然数リストは決して終わらないことに同意するが、いつでも自然数の集合の有限の部分集合のみを考慮することに限定する。

彼らは一度にまとめたすべての自然数の合計が実在することを受け入れることを拒否する。

したがって、彼らはZFCから無限公理を削除する。

この公理を取り除くと、有限主義者証明できる定理はかなり少なくなる。

正式システム判断し、どちらを選択するかを決定することができるいくつかの客観的基準...なんてものはない。

主観的には、選ぶのは簡単である

時間空間を超越した何かを象徴しているので無限大が大好きだ」と言えば無限大の公理を受け入れることができる。

ゲーデルの第二不完全性定理は、十分に洗練された正式システム(ZFC等)は、自身一貫性証明することができないと述べている。

数学者は、今日のすべての数学の基礎であるZFCが確固たる基盤にあるかどうかを実際に知らない。

そしておそらく、決して知ることはない。

なぜなら、ゲーデルの第二の不完全性定理によって、より多くの公理を追加することによってZFCから得られた「より大きな」正式システムにおけるZFCの一貫性証明することしかできなかったから。

一貫性証明する唯一の方法は、さらに大きな正式システム作成することだけだ。

数学を行うためにどの公理選択すべきかについて、実際には客観的基準がないことを示唆している。

要するに、数学者が主観的に選んでいるというわけである自由意志に任せて。

公理のための主観的基準というのは、より豊かで、より多様で、より実りある数学に導くものを選ぶという人は多い。

これは自然主義と呼ぶ哲学者ペネロペ・マディが提唱する立場に近い。

自分自身制限する必要がないので、無限公理を受け入れる。

特定公理のセットを選択する行為は、量子物理学特定実験を設定する行為に似ている。

それには固有の選択肢があり、観察者を絵に導く。

これが、一人称視点とそれに伴う自由数学において正当な場所を取る方法である

2024-02-18

なんか最近"数"が増田流行っているみたいなので、ワイくんも作文してみました

数の概念文化歴史によって変化してきた。古代ギリシアでは、1は数ではなく単位とされていたが、現代では自然数の集合 N の最小の要素とされている。

 

数の概念哲学的問題を引き起こすことがある。無限や超準数といった数は直観に反する性質を持つ。例えば、無限自分自身に加えても変わらないという性質を持つ(∞+∞=∞)。超準数もまた通常の数の演算法則が成り立たない(ω+1≠1+ω)。

 

数は実在するのか、それとも人間の心の産物なのかという存在論的な問いもある。数の実在主義は、数は客観的実在であり、人間の心とは独立して存在すると考える。数の構成主義は、数は人間の心の産物であり、人間言語思考依存して存在すると考える。プラトニズムは、数はイデア界に存在する普遍的実在であると考える。ピタゴラス主義は、数は万物の根源であると考える。論理主義は、数は論理的な体系から導き出されるものであると考える。

 

数の概念数学の基礎付けにも関わる。数学公理定理は、数の概念に基づいて構築されているが、その正当性や完全性には限界がある。ゲーデル不完全性定理は、数の概念を用いた形式体系には矛盾しないが証明できない命題存在することを示した。

 

数の概念は、かつて客観的現実を表すものと考えられていたが、量子論の発展により、数はより複雑で主観的ものである可能性が高まった。古典物理学では、数は物理量と一致していたが、量子論では、数は物理量とは別の抽象的な概念として使われている。

 

自我自由意識と同様に、数の本質はまだ解明されていない。しかし、量子コンピューターは数の概念を利用して作られており、数は物理システム表現する有効ツールであることは、どのレイヤースケールにおいても明らかである

 

数の概念私たち知識理解拡張するものであり、同時に私たちの疑問や不確実性を増やすものでもある。

 

数の概念は、私たち世界に対する見方を変える力を持っている。(どやああああ)

 

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流行を作った増田

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

https://anond.hatelabo.jp/20240216124331

2024-02-16

anond:20240216160814

現代数学者ほとんどは形式化された数学の体系であるツェルメロ-フレンケル集合論ZFCを使っています.

言及されている通り, ゲーデル不完全性定理によってZFCが無矛盾であるならばZFCは自身の無矛盾性を証明することができません. ZFCが矛盾している可能性はあります. ZFCの無矛盾性に関しては, 一方でZFCを用いて多くの数学者数学をしている中でまだ矛盾が見つかってないという傍証もあります.

仮に矛盾が見つかってしまった場合, その後の方向性はいくつか考えられます:

1. その矛盾証明をよく調べて, その原因を取り除いてZFCより弱い新たな数学体系を構築する.

これに関しては普段数学をする際にフルでZFCを使っているわけではないので, 合理的なZFCより弱い体系を見つけることができればこれまでの数学を続けることができるかも知れません.

2. その矛盾もっと深刻で代替案が見つからない場合.

この場合数学がどうなるか想像がつきません. 数学にとって大打撃になると思います.

他にもZFC以外の別の数学形式的な基礎づけを与えようという動きもあります. またZFCより改善させるような新しい体系, 公理形を見つける方向の研究もあります.

このように数学基礎論という数学の一分野は形式化された数学のもの数学的に調べようという分野があります.

anond:20240216160814

結論としては「自明だと納得できるところ以降についてのみ考慮する」が一般的姿勢だと思います

数学とはAを真と仮定した時にBもまた真であることを演繹的に導き、次のCへと繰り返すものなので、Aをどこに設定するかというのは向けている関心がどこなのかによります

もちろん大多数の人が遡らない範囲に着目する研究者もいると思いますが、不完全性定理が示されて以降はごく少数なのでは。

anond:20240216124331

数学科出身です。

この疑問は第一不完全性定理についてですね。

数学という矛盾のない論理体系の中にも、数学説明不可能な要素が必ず残ります

「方向」を数学の別の言葉定義したとしても、その時用いた言葉を他の何かに定義して…と終わりがないことを表しています

よく言われるのが「右」「左」の定義が難しいってやつですね。

2024-02-11

↓なんかchatgptっぽくね?

ゲーデルの第1不完全性定理は、形式的論理体系内での数学特定命題に関して「証明できない」ということを示しています。この定理によれば、ある論理体系内で自己言及的な命題を含む場合、その命題が真か偽かを証明することはできないということを意味します。

まりゲーデルの第1不完全性定理は、「この命題証明できない」という命題を考えた場合、それが真か偽かを判断できないことを指摘しています。したがって、特定命題が「証明できない」ということは、その命題現実には真か偽かになっているかどうかを示すものではありません。

ゲーデルの第1不完全性定理は、形式的論理体系の限界を示すものであり、数学論理学の基本的性質理解する上で重要な結果です。しかし、この定理特定命題の真偽を示すものではないため、その命題現実に真か偽かを判断するためには、他の手段情報必要です。

ウィトゲンシュタイン思想ゲーデル不完全性定理には、いくつかの類似点があるかもしれません、それぞれ異なる観点から論理数学アプローチしています

ウィトゲンシュタインの「論理空間」の概念は、言語記号による表現の枠組みや制約を強調し、言語論理限界について考察しています。彼は「言語ゲーム」という概念を導入し、言葉文脈の中での意味理解に注目しました。ウィトゲンシュタインの主張は、言語論理使用特定文脈ルールに従って行われることを強調し、その文脈ルールから外れた場合意味崩壊する可能性があるというものです。

一方、ゲーデル不完全性定理は、数学的な形式的論理体系に焦点を当て、その体系内での命題証明可能性について論じました。この定理は、特定命題がその論理体系内で証明できないことを示し、論理体系の限界示唆しています

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13286033693

2023-11-28

「暗さ」と「生き抜くための武器」の話

世間では「明るいこと」に比べて「後ろ暗いこと」への理解が浅い。浅すぎると思う。


そもそもいつからこんなに、明るさや賑やかさが正義とされ始めたのだろう。そして明るさを「楽しい」と変換する安直な人が増えたのだろう。

性質」と「それがもたらす感情」は別物なのに、ごく当たり前のようにいっしょくたにされすぎである自分の中できちんと「楽しい」に変換されたなら全く構わない。し、社訓や集団スローガンに沿っていっしょくたになる場合は往々にしてあるから仕方ない。

けれどよく考えずに、よりによってその場の空気なんかで「楽しい」としているのはいただけない。

後述するように、思考放棄すると自分のためにならないからだ。


明るく賑やかなものに触れると楽しい。後ろ暗いものに触れると気が滅入るし嫌だ。だから暗さは人生必要ない。Q.E.D

ここまで解いてペンを置く人たちが意外と多くて恐怖をおぼえる。はたしてそんなに簡単証明できるものなんでしょうか。まだ終了のチャイム鳴ってませんよ。まだまだ考える時間はたくさんありますよ。ゲーデル不完全性定理みたく証明できないということを証明しても間違いじゃないんだから、もうちょっと考えましょうよー!


情報が増えSNSが普及し、みんなが広く「人と比べる」ことを始めてから、世の中ではグッとわかりやすものへの評価が高まった。

わかりやすいというのは、説明やすいということだ。「楽しい」はわかりやすい。他者との濃密なコミュニケーション。よろこび。平和笑顔健康皮肉にも先人たちのブランディングのおかげで、個人に沿ったものかは別として楽しいシチュエーションなんて山ほどあげられる。フェス。海。BBQ。友人とのランチ家族との食事etc……。

それに比べて「気が滅入る」「嫌」はどうだ。「楽しい」ほどポンポンシチュエーションが出る人は少ない気がする。

それは人によって全く違う形をしているのと、「嫌なことなんて忘れて、楽しいことだけ考えないと人生もったいないですよ♪」というひとつの考えが蔓延しているからだ。

はたしてそれがみんなに適応する考えなのだろうか。楽しいことだけで自己形成されているわけなんてないのに、臭いものに蓋をしてしまったとき、ひずみが生まれないだろうか。そしてそのひずみは、今すぐでなくても時間をかけてゆっくり自分を苦しめたり、あるいは自分無意識他者攻撃する原因になったりしないだろうか。


私の母はもう還暦になるが、家の中でひとりでボケてツッコんで、永遠に喋り続けている陽気な関西人だ。器用で頭の回転が速く、生活力も抜群に高い。何をやらせても80〜120点でこなせるタイプで、どこでも重宝されて生きてきた。

母は子供時代友達と遊ぶことを許されなかった。共働きの両親の代わりに家事を引き受け、弟の面倒をみた。ランドセルを放り出して遊びにいきたいのをずっと我慢して、結婚して家を出るまで一生懸命家族に尽くしてきた。

年月は流れ、両親も母も歳を取った。いざ相続に関する話が出たとき、母の親、つまり私の祖父母露骨に弟を贔屓したそうだ。

母は当時50代だったが、そこから何年も「男尊女卑精神が染み付いた両親」と向き合うことになった。

『思えばずっと、あの家が嫌いだった。ずっと、両親の弟贔屓が嫌だった。でも、嫌ってしまったら「嫌な家庭に生まれ人間」になってしまうから考えないようにしていた。年老いた親を嫌うひどい人間になりたくない』……。

さめざめと泣く母を見て「別に実の親のこと嫌っててもいいじゃん。そういう自分を認めていいじゃん。『私はあの人たちを嫌いで理解できない』ってことを自分理解しておけばいいじゃん」と言った。

これは言わなかったけれど「私は絶対自分の中の『暗い部分』や『何かを嫌う理由』と向き合っておこう」と思った。

自分を広く知ることは武器になる、と常々思う。

私は母と違って生活力もなければ大抵のことが40〜50点しかできないし、場合によっては0点も当たり前、でもある特定の条件が重なると涼しい顔で200点を叩き出せる、そういうタイプ人間なのでより一層そう思う。

これは私の持論だが、これから先もずっと自分の弱い部分や後ろ暗さ、悲しみや憎しみについて考えなければならないと思う(楽しいことなんて放っておいても無意識に考える)。

「ずっとトラウマを抱えるな」「いい大人なんだから忘れろ」「うじうじするな」「そんなこと考えて人生楽しい?」とかなんとか言ってくる人がいる。けれど、そもそも簡単に忘れられないかトラウマなのだし、「いい大人」なんて曖昧言葉理由になることなんてないし、うじうじしているのではなく向き合っているのだし、人生は広い目で見ると楽しいけどピンポイントで見ると全然楽しくない、そういうものだと思ってます

勘違いされたくないから強調するが「『暗い部分』や『何かを嫌う理由』と向き合って昇華し、キラキラすっきりと生きていこう♪」という能天気なことを言っているわけではない。無理無理、それは私には無理。ずっと私は暗いもん抱え続けて生きているし、嫌なもんは嫌なまま。

その理由言葉説明できるようにしておくと「本当に無理なこと」を避けられる。客観視できるまで噛み砕いておくと「これに関しては私のバランス感覚おかしいのだな、人を選んで主張しよう」「これは今いる環境によって自己がブレてしまって起きている事象から、あまり気にしないでおこう」と判断ができる。

自分を知るという槍、客観視点という盾で戦うしかない。転生したらきっとチート主人公になれるのだから、今世ではとりあえず、武器を持って立ち上がろうと思う。

2023-10-05

感情論も仕方がない

人は自分論理的思考力を超えたことに対して考えて主張するには感情論になるしかないんだから

望月新一証明があってるかなんて話になると専門家のくせに感情論のぶつかり合いってなんである

最低でも第二不完全性定理証明理解できない程度なら結構無意識感情論連発してると思う。もちろんおれも。

でも意見はしたい。なので意見したらそれは非論理的にならざる得ないというだけの話だ

そもそも感情論と非論理的論を同じものにみたいに扱うのが正しいのかも自信ないしな

2023-05-09

[]プリンストン高等研究所物語

プリンストン高等研究所物語を読んだ。

1946年ごろのプリンストン高等研究所天才実在だの知性の限界だのの話をする日常物語。主な主人公フォン・ノイマン、クルト・ゲーデルアインシュタインの三人。

肝心なのは実在人物が登場するが、これは物語であってドキュメンタリーではないこと。

彼らの会話内容や経歴には元ネタがあるにせよ、要するに著者の妄想である

メイン主人公フォン・ノイマンプリンストン高等研究所数学教授アカデミアでは知らない人はいない超天才最近計算機開発にご執心。フォン・ノイマンちゃん天気予報をやってみたい!

クルト・ゲーデル不完全性定理を発表した当代随一の論理学者、にして奇人最近教授になりたくてしょうがない。

世界アイドル アルバート・アインシュタインさんは、ここでは時代に取り残された古典物理学者。つまり金看板ですよ金看板

あとはオッペンハイマーとかワイルとか、なんか色々出てきて、不確定性原理とかヒルベルトプログラムとか知性とか認知とかの話をしながら和やかに穏やかに日々が流れる

クルト・ゲーデル教授に昇進し、フォン・ノイマン計算機開発が採択され、アインシュタイン主人公格なのに影が薄いまま物語は幕を閉じる。

気晴らしにはちょうど良いが内容が適当っぽくて人には勧めにくい。

図書館には娘を連れて行ったわけだが、本当に久しぶりだ。紙の娯楽本を読むのも久々だ。

年のせいか読書ヂカラが衰えてきたな、なんて思うこともあるのだが、この本はすいすい読めた。

どうもやはり紙の本は、Kindleとは違う。読んでいるときの脳のモードとか没入感が違う。

なんでだろうね。

2023-03-15

アスペ不完全性定理(の証明)など理解できない

とは思いたいがいかにもアスペ知恵袋とかで一語でも間違った用語の使い方をしたらまともに質問に答えてようとしないウエメセ回答者は案外それなりに頭よさそうなんだよな。用語が間違ってると判断できるのは論理的に正しく難しい理論理解してるからこそだからなあ。

アスペ独りよがり比較的単純な論理しか理解できないって考えるのは傾向性としてはありえるが希望的観測の域をでないきらいもあるんだよなああ

2023-02-07

anond:20230207180622

どんな名文でも論理的妥当ケチつけれるってのはもう原理的な次元でそうなっちゃってるのかね。不完全性定理とも微妙関係あるのかな。(ないか)

2022-12-09

anond:20221209135746

ゲーデル不完全性定理燃えた人もだけど、よく分からないのにいっちょ噛みしようとするから火傷するんだよな

2022-12-02

ChatGPTで遊んでみたけど

ChatGPTっておもっきし知ったかかましてくるから、真偽が自分でわからないとまだ使えないね

 

 

今年の流行語大賞に「村神様」が選ばれました。野球界の言葉らしいですが、私の周りでは聞いたことがありません。過去流行語大賞野球関係言葉が選ばれることが多いのですが、ちょっとおかしいですよね?

今年の流行語大賞に「村神様」が選ばれたことは、確かにそうです。「村神様」は、プロ野球選手村田修一さんのことを指して、日本プロ野球が決めた「#村田修一の日」(2020年5月31日)に発生した「村田修一」のツイートが爆発的に拡散し、社会現象となりました。「村神様」は、その社会現象からまれ言葉です。

 

村田修一のことになってて草。知ったか過ぎ。どんくらい知ったかかましてくるか知りたくなった。

 

ヤーコブ・ヤコビについて簡単におしえてください

ヤーコブ・ヤコビは、1782年デンマークで生まれ数学者物理学者天文学者です。彼は、「ヤコビの原理」や「ヤコビの法則」などの数学定理発見し、物理学天文学においても多くの貢献をしました。また、1814年にはノーベル賞創設者であるアルフレッド・ノーベル祖父であるベルトルト・ノーベルとともに、デンマーク最初技術大学であるコペンハーゲン技術大学設立しました。

 

→ややマイナー人名として数学者を聞いてみた。前半はともかく後半は真偽不明だった。1829設立デンマーク技術大学は見つかるがコペンハーゲン技術大学自分では見つけられない。この前にナポレオンについて聞いてみたけど、これはまあ当然正しく答えてきた。

 

エチエンヌ・マルセルについて簡単に教えてください

エチエンヌ・マルセルは、フランス哲学者数学者です。1840年に生まれ1903年に亡くなりました。彼は、現実世界構成する素粒子基本的物質単位として「アトム」を提唱し、「粒子の衝突」や「粒子の伝播」などの物理現象分析しました。また、「不完全性定理」や「確率自然主義」などの哲学的概念提唱し、現代科学理論に多大な影響を与えました。

 

全然自分ではエビデンスを見つけられなかった。マイナー人名として14世紀の100年戦争時のパリ市長を聞いてみたのだが、予想と全く違っていた。いくつかの何かが混じってる?全くのウソ?こういう人もいたの?

2022-09-10

anond:20220910150414

論理構造の話をしてるので不確定性原理とかは全然違う話(そもそもシュレディンガー方程式は順問題で不確実性無い)。

不完全性定理は確かにそういうところあるけど、応用上は気にする必要がない基礎論部分での話なので問題になりづらい。

2022-03-29

anond:20220329122655

根本的なところでは、言葉を使って考えざるを得ないからだと思う。っていうか、思考自体言葉なんだけど。言葉は相当あやしい。どっか限界があるっぽい。ゲーデル不完全性定理とか、ラッセルパラドックスとか。数学でさえ信用できないっていうし。わからんものわからん。そりゃ、専門家わからん素人わからんは別だろうけど。

似非科学って量子力学のタームと相性いいイメージだけど、あれもよほど頭いいヤツしかからないし、その頭いいヤツの中でも解釈がわかれてるし、そりゃ、素人を煙に巻くだけなら言ったもん勝ちにもなるよな、気持ちの弱ったやつは騙されるよな、と思う。

あとホメオパシーとかも、全然現行の科学に反してるのに、統計では有効って結果が出る場合があるらしい。だから既存科学が間違ってるとかって話じゃなく、数字をそれっぽく利用してやろうってヤカラにつけこまれ余地があるっていうことで、正直、どの似非科学にも引っかかってない人は運がいいだけ、周りに恵まれてるだけ、という感がある。

2021-12-12

数学不完全性定理よく分からん

はてなとかで不完全性定理がどうたらだから数学は○○だ…みたいな事言ってる人達って

あの定理きちんと理解してんだろうか

2021-06-18

弁護士に対して弁護を怠けたとかで罰金が科されたりすることはある?

たとえば死刑しかない外患誘致罪起訴された裁判って被告はもちろん弁護士のほうも詰んでない?

弁護にしようがあるとすれば、外患誘致罪ではない別の罪に該当することを立証するか、責任能力あたりを問うかだろう。

しかそもそも有罪率99%となるように検察側が用意周到に準備するこの国においてそもそも弁護士は圧倒的に不利だ。

外患誘致罪など今まで適用例がなかったような罪状場合ならばそんな小手先の弁護をしようと思えるような隙などないだろう。弁護される余地があるぐらいならそもそもその罪状は選ばれないはずだ。

たとえば医者が末期がんの患者処置なしとして特に治療を施さないことがあるだろう。そしてそれが医療ミスとして糾弾されるようなことではない。

上のような刑事裁判において弁護士が手を拱くのまたそれと同様に妥当なことではないかと思うのだがどうなのだろうか?

そもそも最善弁護義務には例外はないのだろうか?圧倒的に弁護側が不利なのに?

数理的には不完全性定理関係するのか知らないけどとにかく論破不可能な主張はないということらしいが、もし弁護義務例外がないとすれば、それはきちんとそういう証明がなされていることを踏まえて取り決めされたこなのだろうか?そうではなく「理屈と膏薬はどこへでもつく」のような、まさかことわざなどを拠り所して「どんな裁判にも絶対弁護の余地はあるはずだよね」みたいに楽観視の結果決められた義務などだとしたら不条理に極まりないと思う。民衆ことわざなど矛盾だらけなわけで厳格さを要求する立法においてあてにしていいはずがないのだから

(まあ責任能力から攻めるという手法ならどんな罪状のどんな裁判に対しても有効だということは直観されていたのかもしれないけれど。それでも裁判という体系の中で本当にそうなのかは証明しておくべきではないのか)

自分裁判を傍聴したことはないから的はずれな疑問になってるかもしれないからそこらへんは容赦してほしい。

2020-10-10

プリウスは悪くないログが残ってるいると言うが

じゃあECUバグがあってちゃんロギングできていないと立証できるのか?

ゲーデル不完全性定理からバグがないプロログラムはないはずだ。

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