はてなキーワード: 帰納とは
はっきり言ってしまえば、虐殺器官のトリックもハーモニーのアイディアも、SF的観点からするとさして目新しいものではない凡庸なものだ。
にも関わらず、「夭逝の天才作家」として祭り上げられる以前から○○おじさんを含むめんどくさい連中に評価されている理由は何かと考えると、ディティールの積み上げる圧倒的なリアリティにあるのだと思う。
虐殺器官に出てくる心理的マスキング処理、ハーモニーに出てくるアマゾンめいた個人評価のスター、これらは今現在からの延長線上の未来として演算される現実的なもので、一部の組織や企業内では既に現実のものとして実装されているものであろう。
彼の死から早6年、彼の最後の作品である屍者の帝国が、Project itohの最初の映像作品として公開される、それも彼が最も愛した映画という形をとってだ。
6年間、それはあまりにも長い時間でした。僕らの好きだった計劃さんは、どうしようもなくめんどくさい(そして愛すべき)はてダの映画おじさんという存在から、いつの間にかに「夭逝の天才作家」という世間を騒がすアイドルになっていてProject itohなるものが始動してしまう始末。
それでも、それでも、Projectに苦虫を噛み潰したような表情で立ちすくむ○○おじさんたちも、御大の小説が映像化されることには公開される前は素直に喜んで胸のときめきを抑えきれなかったはず、そう公開される前は。なんなんですか、いざ公開されたとなればハダリーたんのおっぱいとか階差機関に対する言及はあれども映画そのものに対しては皆口をつぐみ、挙句の果てに「地獄はここにあるんですよ」と指差す始末。
はっきり言おう、○○おじさんたちは生前の計劃さんから何も学んでいないと。
映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブに溢れる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。
批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「〜が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。
だから、こいつは映画批評じゃない。まさに印象批評的で、規範批評的で、それはすべて、ぼくが紹介する映画を魅力的に見せるためにとった戦略だ。
このページでいろいろ書いていることは、結局そういうことだ。
「おかえり、フライデー」
人間は死亡すると、生前に比べて21g体重が減少することが確認されている。それが霊素の重さ、いわば魂の重さだ。我々は魂が抜けた肉体に擬似霊素をインストールすることによって死者を蘇らせる。
原作は我らが伊藤計劃、そして円城塔。といってもたった30枚の遺稿は映画化にあたってオミットされている。メディアミックスなるものは今日当たり前のものになりつつあるのに、なぜかこと映画化に関しては地雷であるという評価が当然のものになりつつある、特にマンガやアニメの原作付きのものに関しては顕著だ。本作もその類に漏れず、○○おじさん達から大変な不評を買ってしまっているが、伊藤作品の映像化という観点からすれば私は十二分に楽しむことができる傑作だと思った。
原作付き映画に何を期待するかは人によってそれぞれ違うが、原作のストーリー通りに話が展開するだとか、セリフを忠実に再現するだとか、冒頭の30枚を残すだとか、少なくとも私はそういったことには重みを置かない。小説には文字の、映画には映像の文法がそれぞれあるのだから、単に忠実に再現するだけでは翻訳として成り立たないし、少なくともメディアミックスとしての価値はない。それは原作ファンを称するクラスタに向けた言い訳に過ぎず、怠惰な姿勢だと思う。
文字とはすなわち情報であり、映像もすなわち情報である。その違いがどこにあるかというとtxtファイルとwmvファイルの容量を比べるまでもなく、圧倒的な情報量にある。つまり同じシーンを描写するにあっても、映像化のためには不足する情報を画面に徹底的に描き込まなければならない。では不足する情報をどこから補ってくるかといえばやはり原作であるのだが、単に帰納的演算に基づいて情報を付加すると、あたかもjpeg画像を拡大したように荒く違和感を感じるものになってしまう。そこで映像化にあたっては、原作を入念に読み込み世界観を理解したうえで、原作に存在しなかった情報を加えることでディティールを明確にする。一方でその情報量が過剰であるが故に、人は文字を3時間追うことができても、映像を3時間観ることは困難なのもまた事実(現実的には予算だとか尺の問題だが)。そこで行われるのは物語の圧縮である。先に述べた情報の付加と異なり、如何に情報量を減らさずに短い時間に収めるか、如何にディティールを残したまま圧縮できるかが肝になる。
こうして完成した映像作品は、個々人の頭の中に存在する「原作」とは違ったものとなっているので、ほぼ確実に違和感を与えることになる、場合によってはそれが不評の原因になるかもしれない。だが、ここであえて言わせてもらえば、その違和感こそがメディアミックスとしての醍醐味であって、映画を見る楽しみの観点であろうと。
私はかつて植民地だった地域によくある上海の租界のような場所が好きだ。それは現実の宗主国の建築物を現地にある材料で模したまがい物に過ぎないのだけれども、望郷の念からか過剰に演出されたそれらの建物は本物のフランスやイギリスの建物より本物らしく見える。例えるなら歌舞伎の女形が女性より女らしいようなものだ。
映像化された屍者の帝国に、私は原作より原作らしいもの、あるいは書かれることがなかった、この世界線には存在しない真の原作の面影を感じることができたと思う。
ボンベイにたむろする屍者の労働者、○○おじさんにも大好評だった圧倒的なディティールの階差機関、白く荒涼としたカザフスタン、目黒雅叙園に相撲の浮世絵ジャパン、映像化に際して付加された情報量についてだけでも映画として申し分ない。かつて彼が愛していた世界観型の映画のように、産業革命の時代に屍者技術なるものが存在した場合どんな世の中になるかというSF的観点なif、たったひとつの嘘による世界構築がなされている。
「あなたにもう一度逢いたかった、聞かせて欲しかった、あなたの言葉の続きを。」
原作ではフライデーが円城塔で、ワトソンが伊藤計劃にあたる。彼が残したテキストを読み足りない情報を補って、作家伊藤計劃を脳内にエミュレートして続編を書くという行為を考えれば当然の配役である。小説のエピローグで、彼岸に渡ったワトソンを思ってフライデーは自らの意思を持ち動き出す。一方、映画ではその立場が逆転して、ワトソンが円城塔でフライデーが伊藤計劃にあたり、旅の目的は伊藤計劃の復活である。映画の文法としては旅の目的の明確化だが、○○おじさんにとっての不評の元凶となる改変だ。BLだノイタミナだとdisる気持ちもわからなくはないけど、ヴィクターの書記を手に入れて伊藤計劃を復活させるという話が映像化第一弾として公開されることに意味を感じる。
冒頭にも書いたが伊藤計劃の小説は言ってしまえばそんなでもないし、同じようなものを書ける人は出てくる。けど、彼の映画批評のような愛と薀蓄に溢れた文書を書ける人はもう出てこないような気がする。それでも彼がもし生きていればこの映画をどう評論しただろうか、死んだ彼がこの映画を見たらどう評論しただろうか。
増田で、あおり気味にモテ無いことをガンガン愚痴ったら、いい感じでアドバイスもらえた。
増田民、やるじゃん。
被服学
最速でオシャレ
オシャレのサイトいくつか
②ニコ生やれ
やった。ゲーム実況やっちゃった。
声はイケメン、絶対モテてるよね、って評判上々でツイッターでもリプきまくった。
でもハードなゲームを実況してたし、ガチプレイだったから、視聴者男ばっかりだった。
で、『ニコ生はなぜパコれるのか http://hitode99.hatenablog.com/entry/2015/09/08/201826』を読んだ。昔も読んで絶望したけど、また読み返した。
次は、やっぱり、歌い手とか、フランクなゲーム実況目指すべきかもしれない。
③相手の人格ありきだろ
多分、他人の気持ちは分からない。でも、分からないものとして精神医学なり、面接学なりは成立してるから、それだけで即負けでもなさそうではあるとは感じる。
でも、恋愛って競技は、相手の気持ちいいことを先回りしてやって相手の好感度上げるゲームなので、他人の気持ちが分かるってのはアドバンテージなんだろう。
相手の気持ちをよくするってのは、正直、クッソ気持ち悪いけど、コンビにみたいなもんっつーか。マニュアル接客みたいなもんだから、とにかく覚えるしかない。
格闘技の打ち込みのように、ある種の反復でうまくなるしかない分野かもね。
扉を開けてレディーファーストだの、同意して共感を示すだの、ミラーリングだのって、技術はいくつかあるけど、全然体系だって無いし、俺にあった技構成もわかんねー。
たいていの格闘技はこのあたり体系化されて、絶対実につくようになってんだけど、恋愛はなってないよねえ。
なんつーか、勉強できるくらい体系化されてないと、確かに学ぶのはキツイ。昔は、格闘技は誰がやってもみにつくってもんじゃなかった。
それが、柔道の始祖の東大の先生もやってた加納治五郎が、「これが投げの原理です」ってのを丸裸にして、他流の格闘技をボコボコにして最強になって。で、寝技ばっかり研究した高専柔道の東大生達が全日本クラスの柔道家に全勝勝ったって歴史がある(三角締めがはじめて世に示された瞬間)、それが今の寝技で勝つ系の柔道なんだけど。
それから、ヒクソンとかが体小さいのにブラジリアン柔術でケンカ自慢だの色々な格闘技の代表をボコボコにしたUFCがあって、そんで、今は一般人でも寝技学べばそこらの素人にはまず負けないようになった。
格闘技とか、勉強で勝てるわけねーじゃんってのが一変した瞬間。
で、今は、まだ恋愛にそういう革命が起きてないのかね。まだまだ、一部の特殊な才能のアル奴しか勝てない分野なのかもしれない。
そうなると、やっぱり、マダマダ相手の人格ありきなのかもねえ。
④風俗嬢に泣きついた
イケメン扱いってお願いして、好き好き言いまくってたんだけど。
終わったあとに、まあ、自分勝手なプレイしてんなーってのは思った。だって楽しいししょうがねーよ。
風俗嬢いわく、「別に見た目はカッコイイし、でも自分勝手は確かにねーそれはモテないよ」と。自分ではマダマダブサメンと思ってるけど、客観的にはフツメンくらいは多分行ったかもしれない。オシャレとかで。
そりゃそうだよな、相手の機嫌取るゲームで、ミスって負けたようなもの。自分勝手って、学んでない雑魚が自分からミスって負けたようなもんだから。ゲームでいうとエンジョイ勢、上にいけないやつら。養分。
俺は、苦手やな、他人のこと考えるのが。理屈とか、論理で答えを先に出してしまうから、相手の脳みその過程とかに興味が持ちにくい。相手と同じ感情を持てない。
技術的には、多分もう知識はあるのかもしれない。
ただ、相手の気持ちが分からないため、適切に技術を繰り出せない。
どーしても、自分の楽しみが先行して、勝手に興奮して勝手に妄想の世界に入る。
俺は、小中と友達いなかった。正確にはいたが、勉強や読書ばかりして、興味もてなかった。とにかく、勉強とか知識とか入れるのが大好きで、ドンドン世界を知って、哲学、文学、数学、医学、農業、財政、政治と知りたいことをひたすら学んでいた。
正直、教育学部程度の脳みそとして思っていたし、IQも俺よりハルカに下のチンパンに教育とか嘘だローとかいやなガキだった。
ってか、今思うと、ADHDの過半数が持ってる、反抗挑戦性障害ってやつだったのかもな。
そんな感じで、相手の気持ちを読むとか、考えるとかすっ飛ばして、哲学的な結論を持って、そっから他人を理解したのがダメだったのかも。
普通は、友達との付き合いのなかで世界を理解したりするのかもしれない。でも、俺は、「地図持って旅しないと、旅のなかで地図を作るの大変ジャン、間違いばかりだし、効率も悪いよね」見たいな感じで、世界の見取り図から、周りの環境を理解しようとしていた。
ってか、普通に俺苦しいしね。人間の体に適した思想ってのは、周りの環境との交通から作られていくほうがストレスないのに、無理やり世界の形に変形して自分を成立させてきたから、思考がとにかくゆがむし、体も耐えられない。
キチガイっぽい感じになったのはそのせいだろうね。
違う。主張が間違っていると言えるのは、最初から間違いだと知っているからだ。
たとえば、
「俺の爺さんよりも婆さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん男より女の方が平均寿命が長い」
「俺の婆さんよりも爺さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん女より男の方が平均寿命が長い」
も同じ論理。
同じ帰納的推測で同じ論理であっても、論破できるのは下の方だけになる。
でも決して「男は」「女は」という主語の大きさのせいではない。
繰り返すけど、「主語が大きい」という言葉は情報価値がゼロなのだから、情報価値がゼロの言葉でも論破できる命題は、最初から破綻しているものでしかあり得ないわけ。
http://anond.hatelabo.jp/20141001050424
元増田ですブックマーク400くらいついてるほげええええええええええええTwitterで500ぐらいつぶやかれてるおえええええええええええええええええええええ
なんだこれうわぁ、なんだこれうわぁ、こんな鬱憤を晴らしたいがためだけのゲロみたいな投稿にこんなにレスポンス返ってくるなんてひたすらに申し訳ない、申し訳ない…
自虐はここまでにして。
とりあえずトラックバックとはてブのコメントとTwitterのつぶやきをざざっと見させてもらいました。ほんとに色んな意見があるなと。
限られた情報から職場・元増田自身を想像してアドバイス(叱咤激励含む)をくれる方や、この個別具体的な事案から今の日本における”仕事”が抱える構造的な問題点を一般化する帰納的な論を展開する方まで。
いや、実に興味深いです。これがアクセスする”抵抗”がとてつもなく低くなったネットワーク(=インターネット)の力ってやつなんですね。改めてインターネットは偉大な発明なのだなと。90年代前半とかだったらこうは不特定多数の意見を伺うことは出来なかっただろう。
まさか自分がその当事者になるとは思わなかったけど、生きてるとこんなこともあるんだねぇ、面白い。
最初にも書いたように、元増田の記事は鬱憤を晴らすための、というか見えない出口を探し求めてほとほと疲れ果てた中で書いた忘備録のためのような記事です。
なので、主張はかなり偏っているかなぁと。
まず、仕事を覚えられなくて中々スマートに実行できないのはひとえに元増田である僕のせいです。僕が無能であるだけなんです。先輩たちのせいじゃないのです。
元増田記事と矛盾している…深夜テンションで書いた記事だから仕方ないね。
- メモをほぼ活かせない
メモはとりあえず取るんですが、「とりあえず取る」だけで体系化できていない事多し。自分なりのマニュアルポケット手帳みたいなのは作っているんですが、当方怠け者のため最近の情報が更新できてなかったり、そもそもどうソートしていいのかわからない指示があったりして不完全。
- うっかりミスが多い
仕事を進める中でミスをされると注意されるわけですが、業務を知らなかったというミスより「あっ、そうだったー!」というミスの方が多いです。注意されたり、次の仕事に移る時に「あっしまったこうだった!」という。これについては、ちょっとあまりにも多すぎるので発達障害を疑って次策を検討中です。どうやって医療機関を絞ればいいのか、そもそも受診・相談する気力が湧いてこない、とかに悩んでるわけですがそれはまた別の話なのでここでは割愛。
致命的なことに、職場の人と上手くコミュニケーションがとれていません。何気ない会話を投げられてもコミュ障あるあるみたいな返答しかできないというか。「あっ」とかよく言っちゃうし「あっ、えっと…あっ…スイマヘン」みたいな挙動不審みたいな謝り方を注意された時にしちゃったりとか。お客さ…都道府県民相手にならマックのマニュアルしゃべりみたいに対応できるんだけどなー
というわけで、先輩たちはいい人たちで、仕事覚えられないのは全部僕が悪いんです。
基本的に職場で僕が役に立たない時にイライラしてるだけで、その他は至って普通です。険悪なムードを醸し出してるわけでもないです。仕事のちょっとした合間や休憩時間は少し談笑したり子供の事で情報交換したりしてる、雰囲気の良い職場です。
もっと体系的に仕事を把握できるように頑張るべきで、そのためにはきっとメモだけじゃ足りないので、仕事のフロー図書いてみたり、家で自習のため自分の仕事に関することを色々調べたり、そういったことをやらなければ。
また、もっと円滑なコミュニケーションを取るために、積極的に会話に参加したり、マナー・常識を本やネットを参照しまくって実践である職場で学んだりしなければ。
そういった具体的な方策は思い浮かんでいるんですが、家に帰っちゃうともうおやすみモードに入っちゃって、ポロシャツのまま即寝たりニコニコ見たりテレビ見たりしちゃって…どうにもダメですねぇ。自分の甘えでこうなっているのはわかっているのですが、中々そこから脱出できなくて…
仕事を覚えられないのはそんな自分のせい。その「行動しないストレス」を上司のせいにする、という方法を通して匿名ネットにぶちまけてしまったのです。そう、僕が悪い。
なんというか、皆さん色々と意見をありがとうございます。結構、これからの指針の参考になるような意見もたくさんあって、ほんとありがたいです。
「MENSA(メンサ)とは、1946年にイギリスで創設された、全人口の内上位2%のIQ(知能指数)の持ち主であれば、誰でも入れる国際グループです。 」
とある。
そして、MENSAは自分たちの団体のことを「高知能団体」と呼んでいる。全人口内の上位2%とは、IQにして148(標準偏差σを24とする)となるので、これはかなりの高知能ということになるだろう。単純に考えると50人に一人程度存在するということであるから、その希少さはかなりのものだ。そして、日本で有名なMENSAとは正式には「JAPAN MENSA」というものらしく、これはMENSAの日本支部であるという。(以後のMENSAという記述はJAPAN MENSAを示すものとする)
MENSAについては私も昔から知っていて、「へぇ、そのような団体があるのか」と興味は持っていた。
ところが、先日大学の友人がMENSAの入会テストを受けてきた所、どうやらこの試験というものは所謂「IQ(全知能)」を測るテストとは少し違うものらしい。このような入会テストを行っている団体が「高知能団体」として世間に認知されていくのは良いことなのだろうか、少し疑問に思った。
そこで、一応大学で医学を専攻した身として、MENSAに対して一言述べておこうと思いこのブログを書くことにした。
MENSAの知能測定方法が「全く無意味」というわけではない。知能の限られた部分しか測定していないということである。そして、それこそが一番の問題なのだ。
医学的に知能指数を測る方法は何種類か有る。(知能指数 - Wikipedia)
かなり初期のものとしてはビネー式知能指数テスト。こちらは「子供向けの知能指数テストであり、大人には有効ではない」ということが明らかになっている。そこで、登場したのが「WAIS」と呼ばれる知能指数テスト。現在、大人が医療機関で知能指数テストを受ける場合には、大抵「WAIS」を受けることになる。(田中ビネー式については割愛)
ところで、MENSAの公式ホームページには「入会テストの受験は15歳以上に限る」と記されている。つまり、子供向けではなく、大人を対象にしたテストであるということだ。
そこで、医療機関で実施されている大人向けの知能テスト「WAIS」について少し詳しく見ていこう。
WAISは現在、14の下位検査から成り立っている。(ウェクスラー成人知能検査 - Wikipedia)
- 知識:文化によって獲得した一般知識の程度。(例「ビクトリアの長は誰ですか?」)
- 理解:抽象的な社会慣習、規則、経験を扱う能力。(例「一石二鳥という諺はどのような意味ですか?」)
- 算数:数学問題を暗算する集中力。(例「1ドルで45セント切手を何枚買えますか?」)
- 類似:抽象言語理解。(例「りんごと梨はどのようなところが似ていますか?」)
- 単語:学習や理解の程度、および語彙の言語表現力。(例「ギターとは何ですか?」)
- 数唱:注意・集中。(順唱例「1-2-3」、逆唱例「3-2-1」)
- 語音整列: 注意と作動記憶。
動作性検査
そして、これらの知能検査から各々の「知能指数」を算出。それらを総合して全知能(合成得点による全検査IQ)を算出することとなる。
ところで、なぜこのような成人向けの知能指数テストが行われるのだろうか。WAISのスコアから何が分かるのだろうか。
実は、WAISのスコアは高ければ良いというものではない。それぞれの分野のスコアがある一定の範囲内(15以内)に収まっていることが重要なのである。そして、これの範囲を超えてしまうと、発達障害との診断が下る可能性が高くなる。医師はそれを一つの目安として発達障害の診断を下すことになっているからだ。
つまり、部分的に隔たった知能は「発達障害」である可能性を示唆することとなるということだ。
さて、MENSAに話を戻そう。
実は、これはWAISで言うところの「行列推理」だけを問うものなのである。
すなわち、MENSAの試験においてスコアが高いということは、WAISで言うところの「行列推理のスコアが高い」ということのみを指し示す結果であり、(各能力の発達がある程度独立であることを考慮すれば)上述した「発達障害」である可能性も、一般の人よりも遥かに高いということである。
つまり、MENSAという団体には、世間よりも遥かに高確率で発達障害の人が存在していると考えられるだろう。
MENSAが高知能団体を自称するのであれば、最低でも言語性知能や他の動作性知能のテストを必須にしていただきたいものだ。
行列推理のスコアが高いだけで「高知脳団体」と言われても、それは詐称に他ならない。むしろ、行列推理だけのスコアが高いということは、高知能であるということを示すより、発達障害を示唆する可能性の方が高いとすら言えるだろう。
元増田にもあるとおり、ビジネスにおける選抜にフェルミ推定を用いたいなら特にそう。
なぜならビジネスで要求されているのは、結果・数字・利益であって、能力ではないから。
ピアノ調律師が何人いるかが直接ビジネスに関わるのならば、ググレばいい。まじで。
それで答えが出てくるならそれに依拠するのが一番早い。ピアノ協会(あるかどうかしらねーけど)が
人数とか公表してるかもしんねーじゃん。検索結果の信憑性とかを言い出すならフェルミ推定の結果の信頼性も
どっこいどっこいですから。0を1にする端緒としてフェルミ推定とグーグルのどっちが上かは一概には決まらないよ。
むしろ論理的思考力なんて無くても答えにたどり着けるグーグルの方が優秀とさえいえるかもしれない。
多くの反論が予想されるのは
「画一的な答えが期待できないからこそ帰納的・演繹的推論能力を見るためにフェルミ推定をやるんだ」
ってやつ
いやー、でもこれ言い換えると「ビジネス上の問題にグーグルは答えてくれねーよksg」ってことでしょ?
だったら最初から「ググッてもいいよ」くらいの余裕が面接側にほしいよね。答えが無いって分かってるならさ。
ってことは事実上要求されてるのは知識の運用能力(と知識量)だよ。フェルミ推定を始める端緒としてぐぐれる環境が
あっても全然いーじゃん。
いっつも思うんだけど、企業の採用活動として、何を目的にフェルミ推定を面接過程につっこむ(べきな)のか
繰り返しになるけど、調律師の数字が問題なのであればむしろ必要な能力は
どこを掘るとその情報に出会えるか知ってることだよ。そんでもって人間の活動でまったく新しい何かなんて
ポストモダンな現在にあっては存在しませんよ。むしろXに迫るためにAとBとCとOとPとQのどれを組み合わせて
先行研究とすべきかという能力のほうが重要なんですよ。さらに言えばそういう先行研究の成功と失敗を踏まえないと
そこまでブレイクダウンして採用活動にフェルミ推定を導入しましたか?もっと言えば普段の活動をそこまでブレイクダウンしてますか?
そういうの抜きでフェルミ推定だけ採用活動に導入すると滑稽ですよ。
話が大分逸れてきた。
言いたいことは、フェルミ推定で要求されている能力が情報・知識の運用能力であるなら、
むしろグーグルをいかに活用するあるいはしないかというところも見ないと現代社会では無意味でしょということ。
そういう設問のフェルミ推定問題を作らないとダメですよということ。
そんでもってぐぐって得た情報でみんなが妥当な答えにたどり着けるならそれは出題側の問題だし、恐らく普段の業務も
ちょっとググれば答えが転がってることを棚上げにしてる可能性が高いってこと。
後で読もうと思ってタブを残しておいたらこれですよ。
http://kabux.hatenablog.com/entry/2013/12/03/090345
というかブログ自体が消えてる。
まったく簡単に消さないでほしいよなー。
「後記」(http://kabux.hatenablog.com/entry/2013/12/04/103731)のほうはgoogleさんのキャッシュに残ってた。
昨日のエントリに多くの反響をいただいた。少しだけ追記をしておこうと思う。
先生、その教え方では差別はなくなりません。 - 矛盾銀行株式会社
「差別はよくない」という原則を語るのには2パターンの方法がある。すこし理屈っぽいのだが、
- 「こういう扱いを受けて悲しい思いをしている人がいる」という事例をたくさん並べて、そこから「差別はよくない」という原則を見つける、帰納的な方法
- 「人間とは多様なものである」「多様性を認めないのは正義でない」という原理から出発して、「差別はよくない」を導く、演繹的な方法
今回エントリに綴った講義は前者のパターンである。世の中にはこういう差別の事例がある、関わることはもちろん知らないことも罪深いのだ。差別の事例を知らずして差別の何たるかはわからない、と。そしてこれはぼくの憶測だが「差別に関する知識の欠如は、差別を排斥しようという意識の欠如と一体だ」というのが講師の主張なのだろう。
さて、ぼくの抱えた単純な疑問は「前者のパターンを取った場合に、事例の列挙に終わりはあるのか」ということだ。極端な考え方だということを認識しつつ書くが、あれは差別だ、これは差別だと並べるその終わりはどこなのだろうか。およそ差別や偏見と呼ばれる行為によって、悲しい思いをしている人がいるのは事実だ。だた、そのすべての悲しみを掬い取るまで、ぼくたちは悲しみの一つ一つを学ぶのだろうか。
自分以外の人の悲しみに触れることは、他人に対するいたわりを育むうえで欠かすことはできない。他人に対して耳を傾け手を差し伸べる優しさと勇気を育てるだろう。(机上の学習も含めて)他人の悲しみに触れる体験は、間違いなく必要だ。
ただ、もっとシンプルに、「アナタとワタシは違っていて当たり前」ということを当たり前に受け入れよう、ということからスタートすることもできると思うのだ(先に挙げた、後者のパターン)。出自、病気、身体の欠損、性、宗教、あるいは慣習は多様なものだ、というプリンシパルを個々人の中に育てたらよい。その中の必要な局面で事例を挙げたらよいのではなかろうか。
そういうプリンシパルの上で、自分と違う個性を持つ目の前の誰かと相対すればよい。目の前のその人が困っていたり、悲しい思いをしているのであれば、手を差し伸べたらいいのだ。ぼくはそう思っている。
追記の追記。
元銀行員のブログという文脈で差別を話題にしたので、本筋とは違った趣旨でお読みになった方もいるかもしれないが、他意はない。
ちなみに、この同和教育は業務の一環だった(時間外手当がついた)。また本件以外にも、銀行業務として相対することがあるということで、実務的な人権教育-在日外国人のこと、反社会的勢力と人権のことなど-を受けたこともあった。
どっかに残ってないかな、元の文章。
一理あれば一害あり。私法家は個人平等の極端に捗りて社会の秩序を害し易く,公法家は権力相関に偏重して世運啓発に伴ふことを怠るは,各 其(の)専らとする所に於て免れざるの弊なり。唯 此の二元素 相 調和して始めて国家法制の美を成すべしと雖,我邦 維新以來 社会の改新を謀るの急なるより,明治立憲の法度,或は専ら私法家の理論に偏傾したる跡なきにあらざるが,豈に後世史家の浩歎する所ならざるを知らんや。
我(が)国は祖先教の国なり。家制の郷なり。権力と法とは家に生れたり。不羈自由の個人が森林原野に敵対の衝突に由りて生れたるにあらざるなり。氏族と云ひ国家と云ふも家制を推拡したるものに過ぎず。権力相関を指摘するの呼称は異なりと雖,皇室の嬖臣に臨み,氏族首長の其(の)族類に於ける,家父の家族を制する,皆 其(の)権力の種を一にす。而して之を統一して全からしむるものは祖先教の国風にして,公私の法制習慣 之に由るにあらざれば,解すべからざる者 此々 皆 然り。之を要するに,我(が)固有の国俗法度は,耶蘇教以前の欧羅巴と酷相似たり。然るに我(が)法制家は,専ら標準を耶蘇教以後に発達したる欧洲の法理に採り,殆んど我の耶蘇教国にあらざることを忘れたるに似たるは怪しむべし。
耶蘇教以前の欧洲の文化は希臘(=ギリシャ)羅馬(=ローマ)の盛世 之を代表す。当世の史料,素より富胆なり。之を詳にする難きにあらず。況や如今 法制史の大作,クルチウスの希臘(=ギリシャ)に於ける,モムセン及(び)イエリングの羅馬(=ローマ)に於けるあり。専門の士にあらざるも之を窺ふに易きのみ。古日耳曼(=古ゲルマン)に到りては僅(か)にタシタスセーザルの記傅に由ると雖,方今ワイツ以下 古独(=古ドイツ)法制 探究する者少なしとせず。而して耶蘇教以前の古(日?)耳曼(=古ゲルマン?)の制度は,期せずして希臘(=ギリシャ)・羅馬(=ローマ)と其(の)跡を同ふするを発見するときは,耶蘇教の欧洲に入らざりし以前は汎く印度・日耳曼(=ゲルマン),人類に通ずるの主想ありしこと知るべきなり。
欧洲固有の法制は祖先教に本源す。祖先の心霊を崇拜するは其(の)建国の基礎なり。法制史は法の誕生を家制に見,権力の源泉を家父権に溯る。然れども何が故に家父権は神聖なりやと問はゝ,之を祖先教の国風に帰一せざるべからず。祖先の肉体存せざるも,其(の)聖霊,尚(なお)家に在りて家を守護す。各家の神聖なる一隅に常火を点して家長之に奉祠す。是れ所謂 家神なり。祖先の神霊なり。事細大と無く之を神に告ぐ。是れ幽界の家長にして,家長は顕世に於きて祖先の霊を代表す。家長権の神聖にして犯すべからざるは,祖先の霊の神聖にして犯すべからざるを以てなり。家族は長幼男女を問わず一に其(の)威力に服従し一に其(の)保護に頼る。
一男一女,情愛に(由?)りて其(の)居を同ふす。之を耶蘇教以後の家とす。我(が)新民法,亦(また)此(の)主義に依れり。之れ我(が)国 固有の家制にあらざるなり。是れ欧洲固有の家制にあらざるなり。欧土の古法は祖先の祭祠を同ふする者を家族と云ふ。家神は其(の)子孫にあらざれば之を守護せず。各家に其(の)神あり。之を絶滅することを忌む。家運の恒久を顕するなるべし。共に同一の神火に頼る者を家族と云ふ(古語家族とは神火を同ふすると云義なり)。後代,或は家長権の及ぶ處(=ところ)を家属とし,必(ず)しも血縁の因のみに限らざるの制あり。然れども,民法家が我(が)国に行はんとするが如き家とは,一男一女の自由契約(婚姻)なりと云ふの冷淡なる思想は,絶(え)て古欧に無き所なりとす。婚姻に由りて始めて家を起こすにあらず。家祠を永続せんが為に婚姻の礼を行ふなり。茲(=ここ)を以て,古法は娶らざるを禁じ,叉 子無きときは婦を去ることを認め,或は他姓の子を養ふて家祠の断絶を防ぐ,皆 古欧の家制は今の家制と其(の)主想を異にし,祖先教に本源することを証するものなり。之を我(が)国 非耶蘇教の習俗に照応するときは相似たる者あり。欧洲は,彼の宗教行はれしより,独尊の上帝は人類の敬と愛とを専有し,子孫また祖先の拜すべきを知らず。於是乎(=ここに於いて?)孝道 衰ふ。平等博愛の主義 行われて民俗血族を疎んず。於是乎(=ここに於いて?)家制 亡ぶ。而して個人平等の社会を成し,個人本位の法制を以て之を維持せんと欲す。フュステル・ド・クーランジ(ュ)は法制史の大家なり。其(の)古欧家制を解説するに序して曰く,人が「其(の)父,若(しく)は祖先を崇敬(アドレ)すると云ふの事(?)は吾人の信じ難き所なり。然れども是れ事実なりき」と。嗚呼,耶蘇教国に於きて耶蘇教人に孝道を説明するの難(し)き,此の一言を以て証すべし。我(が)国 未だ他教を以て祖先教を一洗したるにあらざるなり。然るに民法の法文,先づ国教を排斥し,家制を破壊するの精神に成り,僅(か)に「家」「戸主」等の文字を看ると雖,却(っ)て之が為めに法理の不明を招く空文 無きの優れるに若かざるなり。嗚呼,極端個人本位の民法を布きて三千余年の信仰に悖らんとす。而して一方に於きては,或は耶蘇教旨の我に行はるゝを欣ばず,強(い)て忠孝の国風を保持せんとす。哲学家は巧妙の弁あるべしと雖,法制史家の眼中に於ては孝道は祖先教家制の影なり。法制 先づ其(の)実体を亡(ぼ)し,教育行政は其(の)影の存せんことに汲々たり。史家は其(の)前後矛盾を笑なるべし。公法は権力相関の秩序なりとは,予が公法の講堂に出入せし人の聞(き)飽きたる説明なり。然れども,公法の研究は,期せずして復た此(の)原則に帰納せらるを得ざるなり。仏人フラフの近著,亦 権力相関の源泉に遡り,制度の変遷を詳(ら)かにせんとす。諸家 皆 其(の)本源を古の家制に帰す。家は家父権 之を統治す。家父は家属に対し殆んど無限の威力あり。後世の羅馬(ローマ)法家 之を夫が婦 及(び)子に対して天然に優れるの実力に帰せんとす。蓋(し)誤解なり。家父は夫 若(しく)は父たるの身分に由りて此(の)権を有するにあらず。権力の源泉は祖先の霊にあり。家を守護するの家神は家属を制裁するの威あるべく,子孫の祖先の霊に服従すべきは,之を顕世の代表者に移すことを得べし。古代「バーチル」の語,常に母の夫を指すのみならず,汎く有権者を呼びたる例なしともせず,亦,以て家父権は法の源たること知るべく,法は神聖なりと云ふ語の完全なる意味をも解することを得べきなり。耶蘇教の入りしより家父権 衰ふ。祖先の霊は子孫を守護するの責を免れ,父子夫婦 同じく唯一上帝の前に平等なり。祖先及(び)父を崇敬するは,神を侮辱する者なり。法は俗界の制 何ぞ神聖と称する事(?)を得ん。博く汝の隣人を愛せ,一視同仁の天帝は血縁の濃淡を認めざるなり。家制 豈(に)久しきを保たんや。家制 衰へてより近代国政の基礎を固ふするに到るの間,欧洲の社会,権力相関の中心を失うこと久し。是れ法度 弛廃し,豪族(が)割拠(し)優者(が)専恣(する)の世とす。僅(か)に其(の)社会を救ふたるものは耶蘇教の力 多しとす。「神聖なる羅馬(ローマ)帝国」は実に宗教の力に頼りて其(の)主権の名分を正し,人心を維持することを得たり。若(し)欧土にして急激の祖先の教法を棄て耶蘇教を入るゝことを拒みしならば,欧洲の社会は道徳法制 其(の)跡を絶ちしならん,後人の鑑むべき所なり。耶蘇教の希望する個人を本位とし世界を合同するは,欧土 尚 之を実践する能はず。家制を脱し族制に遷り,方今は国家を以て相(い)依り 相(い)携ふの根拠とせり。家制主義 既に及ばずとするも,国家主義を以て法制の本位と成すべきなり。史家は一躍 三千年来の家制を看ること弊履の如く,双手 極端個人本位の法制を迎へんとする我(が)立法家の大胆なるに駭(=おどろ)くなるべし。萬世一系の主権は天地とともに久し。其(の)由る所 或は祖先の教法家制の精神に捗るなきか。所謂 君子国の美俗は,祖先教を撲滅し,又,新教を容れず,唯 学校の修身教課書を以てのみ保維することを得るか,史学の一好試験なり。
(法學新報第五號 1891(明治24)年8月15日。『穂積八束博士論文集』(有斐閣,1943年)を底本とし,表記を現代語に改め,適宜 句読点 及び送りがなを補った。)
はてなキーワード「日本軍慰安婦問題」編集ページ(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%CB%DC%B7%B3%B0%D6%B0%C2%C9%D8%CC%E4%C2%EA?kid=371018&mode=edit)よりid:barnumkoukaの発言。
barnumkouka 2013/07/11 01:12 私は「同一でないリダイレクト設定」が駄目だと言っているだけで、あなたの記述内容を問題にしているわけではありませんよ。言語の話としてさ、「慰安婦=日本軍慰安婦」以外の文脈の可能性は無いの? 「戦闘機=日本軍戦闘機」が成立しない理由は何? 語意の構造上そういう文脈が想定できるからでしょ! そういったキーワード語意の大原則からもダメです。加えて、「慰安婦」という用語の使用実態が、日本軍以外にもあるわけですから、あなたの主張は正当性がありません。
id:D_Amonなどによるリダイレクトへの反論のつもりなのでしょうが、上の主張には正当性がありません。
リダイレクトする理由は「慰安婦=日本軍慰安婦」(慰安婦と日本軍慰安婦はまったく同じ)ではなくて「慰安婦→日本軍慰安婦」(ただ単に慰安婦と称した場合には日本軍の慰安婦)だからです。この時点で既にbarnumkoukaの編集の問題点から外れています。また「慰安婦→日本軍慰安婦」以外の文脈の可能性は今のところ無いと思われます。ただ単に慰安婦と称した場合は、日本軍による慰安婦を指します。これはぐぐった結果からも明白です。
慰安婦と称した場合に、ほとんどの人が日本軍による慰安婦を思い浮かべ、それで話が通じるからです。上のぐぐった結果からもそれは明らかです。いわゆる否定論者とのやりとりでもそれは明らかです。そうでないのはid:barnumkoukaなどのごく少数でしょう。少なくとも、コミュニティ単位では存在しないと思われます。
ただ単に戦闘機を指す場合、その背景が重要になります。太平洋戦争の話題でも、日本軍のゼロ戦、米軍のB29などを思い浮かべることでしょう。「戦闘機=日本軍戦闘機」が成り立たないのは自明です。id:barnumkoukaの発言はキーワード編集とはかけ離れており、詭弁にあたります。
「韓国軍慰安婦」が、「慰安婦」という用語の使用実態が、日本軍以外にもあるという例であるとid:barnumkoukaは主張したいのでしょうが、現状は
上で説明した通り、「慰安婦→日本軍慰安婦」です。「韓国軍慰安婦」は「韓国軍慰安婦」と称しないと話が通用しません。これは、上で説明したように、話題の背景がそうなっているからです。
慰安婦といえば日本軍慰安婦なのは、上で述べた検索結果などで帰納的に証明できる客観的事実です。それに対し、前述のid:barnumkoukaの主張および編集内容は、一般的に観測される事実とかけ離れているため、客観的事実でない内容となっています。
これは、はてなキーワード作成・編集ガイドラインのうち、「キーワードの説明として不適切であると考えられるもの」の「中立的でない偏った内容」、「客観的事実ではない内容」にあてはまります。編集内容がid:barnumkoukaの解釈でしかないと考えられるため、「自分にしか意味がわからないなど、他の人に理解できない内容」にもあてはまると思われます。
id:barnumkoukaが「「慰安婦=日本軍慰安婦」以外の文脈の可能性」を指摘するのであれば、その可能性について何らかの根拠を出すのが誠実でわかりやすい説明につながります。出典や使用状況について実例を挙げるべきなのです。id:barnumkouka氏の主張は、これら出典や実例を持たず、不誠実でわかりにくい説明となっています。
分布の仮定から数学的に整理されている分野なので、それらの仮定の妥当性に依存するでしょうね。
計測されたデータに合う直線や曲線を引いて、モデル化できたと考えるのは正しいのだろうか。ぶっちゃけ連続した直線や曲線で結べるという前提の正当性はどこにあるのだろうか。
また複数の要素が関係してくる場合、無機的なデータだけを見ていて、その要素を分解(モデル化)できるのか?という疑問がある。
要素ごとのデータがあれば多変量解析ができますが、そうでないとできませんね。
空気抵抗を受けながら運動する物体を、空気中を移動すると抵抗を感じる、ものはだんだん下に落ちる傾向がある、など経験的な要素なしに、データとそれを近似した曲線だけから、はたしてそれぞれの要素に分解できるだろうか。
それだけなら今でも間違いではなく、重さと落下速度が比例すると考えていたことに問題が。
純粋な数値データのみから、「物体の受ける机はビールジョッキの2乗に比例する」ということを、人間は思いつけるか?ということになろう。
空気抵抗の概念は既にあって、滑り台を使ったガリレオはそれをなるべく排除してデータを得たわけですね。
ガリレオの時代でも火薬の量(=エネルギー)と大砲の飛距離は計測できたかも知れません。ガリレオは最適な射出角度の計算もしていました。
データから帰納的に法則を知るのと、体験的に知っているのは、大差は無いわけですが。
点と点を直線的に結んだLNTモデルの信憑性に言われる批判ですね。
【Haskellの正体とは】
彼は、こう耳元で囁きました。
国際Fortran学会会長、プログラマ治療の草分けである森×敬一博士によると、、、
「Haskellコンパイラが吐いたバイナリだけを与えた実験動物はみんな死んでしまった。
ふつうの言語では大域変数の書き換えによってプログラマは実行時の環境を容易に制御できる。
ところが純粋関数型言語は原理が全く異なります」と警告しています。
まず、大域変数に対する「再代入」「領域解放」「再割付」する実行時環境制御方法と全く異なり、エネルギーを持つ素粒子の一種である電子を揺らして計算を行います。
マイクロレンズと短波長光を組み合わせて小さな領域に焼きこみを行うのです。
「本が小さすぎると目が疲れる」とのことです。
ミクロレベルの素粒子振動、原始帰納関数の生成、、、、。これが、Haskellコンパイラにより生成したバイナリの質が”イマイチ”な理由なのです。
GHCiで評価した水と、ふつうの水を並べておくと、動物は決してGHCiで評価した水を飲まないといいます。
【政府、大企業は利益を優先して”不都合な真実”は徹底的に隠蔽】
オブジェクト指向型言語のジャバ言語の方が優れていることを主張する何万という論文がありながら、政府も企業も未だに認めようとしません。それは莫大な利益を損失に繋がるからです。
一歩間違えると、表現を誤るんだけども、
全部一部では真実なんだなっていう発見なんだけど、表現がうまくいかない。。。
もう少し細かくだらだらと書いていくと、、、
他人を必要としてはいけなくて、自分で何でも出来なきゃいけなくて、
ただ、今ここに自分って結局絶対的で、比較出来ないものとして存在していて、
その上で存在しているのは他人との間にある「それ」なんだ。
「それ」を作り上げるメッセージを常に送受信しているのが自分であって他人であってものであって、
「それ」を共有していくから、人間は共感し合えるんだけれども、
共感はお互いの作り上げていく「それ」に自分が溶け込んでいるんであって、
「それ」に対して自分は本当はこうなんだって人に見せようとしても、
相手が興味なければ、「それ」は溶け合わない。
その行為は自分がこうだって相手に思って欲しいっていうだけで、
そう思う思わないは相手の自由なのに、相手に強制をさせているから。
相手に強制をさせて喜ぶっていうのは普通はない。
(SMに関しては「それ」の共有の土台、の観点から論理的矛盾は無い)
始めに書いた陳腐な人間不信の表現は、厳密に言うとこういう事。
・人を信じてはいけない。
→他者とは「それ」の共有は出来るけど、他者自身は絶対にわかりえないのに、なぜ信じられる。
・人を頼ってはいけない。
→人を頼れるのは、そうした「それ」の状態になった時だけ。わからないものに頼るのは占い、宗教と同じ。
→上記と同様。子育てを除く。
→上記と同様。子育てを除く。
→価値は他人が決めるもの。自分が他人をわかりえないのと同様に他人も自分の事を知れないため、価値の算出は不可。
・生きてる意味はない。
→他者のことはわかりえないため、わからないものに対して、他者から与えられる自分が生きている意味は嘘。
その上、自分で自分の生きている意味は、自分が二人いて同時に意識を持たない限り、絶対性があるため意味付け不可能。
つまり、他人を頼らず、今居る自分に価値の有る無しは他人にも自分にはわからないため、
肯定は無いけど否定も無いから、とりあえず自分を否定して苦しめる行為は止めましょうってこと。
肯定的人間不信っていう言葉を勝手に作ってみたけど、ちょっとしっくり来る。
ここから先に、自分を肯定する話や生きる気力は進化生物学や認知神経科学やポジティブ心理学に席を譲るとして、
「それ」ってなに?ってことをもう少し知りたくて、自分でひらめきを待っている所。
いるか漁に反対する人の理屈はまったくもってそのとおりだと思う。
いるかや犬は知能が高いうえに可愛いから殺すのはいけないと思う。
猿やいるかや犬ほど知能は高くないかもしれないけど猫は可愛いから殺すのはいけないのと思う。
でもこういうことを言うと可愛いの基準は何とか可愛くない動物は殺していいのとか賢くない動物は殺していいのとか反論される。
可愛いの基準については反射的に愛情を感じるという結果から帰納して特徴を探ることしかできない。
なぜ可愛いと感じるのか何を可愛いと感じるのか根拠はわからない。人間に近いものほど可愛いと感じるのだろうか。
可愛くない動物や賢くない動物も殺してはいけないと言えば可愛くて賢い動物も殺さないでもらえるのだろうか。
可愛くない動物や賢くない動物は殺してもいいから可愛い賢い動物は殺さないでくれといえば殺さないでもらえるのだろうか。
私たちはどういう基準でもって動物・生き物の可愛い可愛くないを判断するのだろう。
可愛い生き物は殺してはいけなくて、賢い動物は殺していけないのだろうか。
論理的に答えは出ているのだろうか。
コミュ障的な受け答えですが、そもそもこの人の言ってる批判は、批判じゃなくてただの批難では?
マスコミのせいで言葉が汚されてますが、批判は、批(つき合わせて)判(はんだん)する事です。
批(つき合わせて)難(難癖をつける)ことではありません。
いまや忘れされている感がありますが、批判という言葉は、英語で言うCritical Thinkingという重要な意味をもっています。
今はどうか知りませんが学校の成績で批判力があるか無いかが記述されている事が有りました。
批判力があるというのは、帰納思考(例:吉野屋、松屋、すき屋、ちからめしの経営状態が良い。ならば牛丼屋の景気が良いのだろう)や、演繹思考(例:牛丼業界が儲かっている。ならばすき屋も儲かっているのだろう)といった事実に基づいた判断ができるという事です。
半導体関連の技術者としてまったく同見解。表面的な原因は開発スピードの遅さにあって、その根本原因は研究に特化した人材を育てない愚かな企業体質にあると思う。
日本の企業の人材育成というのはマルチ指向で、要するに何でも出来る・いろんな事が出来る人材が良い、という風潮がそこらじゅうに見受けられる。これを研究所にまで適用して、やれ5Sだの環境教育だの、会社の経営状態がどうだのこうだの説明してみたり、使いもしない英語の授業だの、社員間の交流活性化だのといった、R&Dと何の関係もない何の意味もないくだらない事に、全工数の3~4割は割かれている。
人材登用のやり方もそういった方針に従っている。潰しの利く、何でも出来そうな学科を出てきた学卒や、せいぜいマスターあたりのみ拾う。機械工学や化学工学あたりの、おおよそ機械は何でも使えていろんなデータが取れて、どこに配属してもそれなりに使えそうな人材に重きを置く。そういう奴等はメカニズムというコトバに弱い。演繹的な発想が出来ない。帰納的な開発しか出来なくて、出てきた結果に適当な理由をくっつけて、こうでした、という報告しか出来ない。データは溜まれど、知恵は貯まらない。
ウチの会社(財閥系でそれなりのところだ)のR&Dには、工学系でマスターのくせに「結晶転移」だとか「エネルギーギャップ」だとか言われて、ナンですか?それ?って奴がゴロゴロしている。高校生レベルの行列の演算も出来なくて、シュレーディンガー式を解ける奴なんていったら確実に1%を切るだろう。
連中は装置は一応使えるよ、熱分析も出来るしSEMもTEMも使えるし、XRDもFT-IRもESCAもNMRも使えるよ、マニュアル通りに。もちろん仕組みは知らないけど。
こういう事がいかにバカかと思ったのは、サムスンに訪問した事が切欠だった。あそこの技術者は末端でも、適当な学会に行って自分の専門分野外で一説ぶってこれるくらいの頭は持っているんじゃないか。とにかく凄いの一言に尽きる。日本の技術者は負けて当然だと思う。科学に対するセンスも桁違いだし、学ぶ事が好きで熱心な連中だと思える。サムスンはマルチな人材は欲していないようで、適材適所。日本の企業とは違う。
まぁ、一番は給料だろうか。日本ってなんで、研究開発部署の奴が、工場労働者と同じ額なの?下手したら「入社以来の年数」の分だけ少ないんだけど。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
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(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
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Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
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筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
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民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
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筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
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一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
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因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
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・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)