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2015-11-08

屍者の帝国

 伊藤計劃はディティールの作家だった。

 はっきり言ってしまえば、虐殺器官トリックハーモニーアイディアも、SF観点からするとさして目新しいものではない凡庸ものだ。

 にも関わらず、「夭逝天才作家」として祭り上げられる以前から○○おじさんを含むめんどくさい連中に評価されている理由は何かと考えると、ディティールの積み上げる圧倒的なリアリティにあるのだと思う。

 虐殺器官に出てくる心理マスキング処理、ハーモニーに出てくるアマゾンめいた個人評価スター、これらは今現在からの延長線上の未来として演算される現実的もので、一部の組織企業内では既に現実のものとして実装されているものであろう。

 彼の死から早6年、彼の最後作品である屍者の帝国が、Project itohの最初映像作品として公開される、それも彼が最も愛した映画という形をとってだ。

 6年間、それはあまりにも長い時間でした。僕らの好きだった計劃さんは、どうしようもなくめんどくさい(そして愛すべき)はてダ映画おじさんという存在から、いつの間にかに「夭逝天才作家」という世間を騒がすアイドルになっていてProject itohなるもの始動してしまう始末。

 それでも、それでも、Projectに苦虫を噛み潰したような表情で立ちすくむ○○おじさんたちも、御大小説映像化されることには公開される前は素直に喜んで胸のときめきを抑えきれなかったはず、そう公開される前は。なんなんですか、いざ公開されたとなればハダリーたんのおっぱいとか階差機関に対する言及はあれども映画のものに対しては皆口をつぐみ挙句の果てに「地獄はここにあるんですよ」と指差す始末。

 はっきり言おう、○○おじさんたちは生前の計劃さんから何も学んでいないと。

 映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブに溢れる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。

 批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「〜が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。

 だから、こいつは映画批評じゃない。まさに印象批評的で、規範批評的で、それはすべて、ぼくが紹介する映画を魅力的に見せるためにとった戦略だ。

 面白い映画面白かった、という。

 このページでいろいろ書いていることは、結局そういうことだ。

「おかえり、フライデー

 人間は死亡すると、生前に比べて21g体重が減少することが確認されている。それが霊素の重さ、いわば魂の重さだ。我々は魂が抜けた肉体に擬似霊素をインストールすることによって死者を蘇らせる。

 原作は我らが伊藤計劃、そして円城塔。といってもたった30枚の遺稿は映画化にあたってオミットされている。メディアミックスなるもの今日当たり前のものになりつつあるのに、なぜかこと映画化に関しては地雷であるという評価が当然のものになりつつある、特にマンガアニメ原作付きのものに関しては顕著だ。本作もその類に漏れず、○○おじさん達から大変な不評を買ってしまっているが、伊藤作品映像化という観点からすれば私は十二分に楽しむことができる傑作だと思った。

 原作付き映画に何を期待するかは人によってそれぞれ違うが、原作ストーリー通りに話が展開するだとか、セリフを忠実に再現するだとか、冒頭の30枚を残すだとか、少なくとも私はそういったことには重みを置かない。小説には文字の、映画には映像の文法がそれぞれあるのだから、単に忠実に再現するだけでは翻訳として成り立たないし、少なくともメディアミックスとしての価値はない。それは原作ファンを称するクラスタに向けた言い訳に過ぎず、怠惰姿勢だと思う。

 文字とはすなわち情報であり、映像もすなわち情報である。その違いがどこにあるかというとtxtファイルwmvファイルの容量を比べるまでもなく、圧倒的な情報量にある。つまり同じシーンを描写するにあっても、映像化のためには不足する情報を画面に徹底的に描き込まなければならない。では不足する情報をどこから補ってくるかといえばやはり原作であるのだが、単に帰納演算に基づいて情報を付加すると、あたかjpeg画像を拡大したように荒く違和感を感じるものになってしまう。そこで映像化にあたっては、原作を入念に読み込み世界観理解したうえで、原作存在しなかった情報を加えることでディティールを明確にする。一方でその情報量が過剰であるが故に、人は文字を3時間追うことができても、映像を3時間観ることは困難なのもまた事実現実的には予算だとか尺の問題だが)。そこで行われるのは物語圧縮である。先に述べた情報の付加と異なり、如何に情報量を減らさずに短い時間に収めるか、如何にディティールを残したまま圧縮できるかが肝になる。

 こうして完成した映像作品は、個々人の頭の中に存在する「原作」とは違ったものとなっているので、ほぼ確実に違和感を与えることになる、場合によってはそれが不評の原因になるかもしれない。だが、ここであえて言わせてもらえば、その違和感こそがメディアミックスとしての醍醐味であって、映画を見る楽しみの観点であろうと。

 私はかつて植民地だった地域によくある上海租界のような場所が好きだ。それは現実宗主国建築物を現地にある材料で模したまがい物に過ぎないのだけれども、望郷の念からか過剰に演出されたそれらの建物は本物のフランスイギリス建物より本物らしく見える。例えるなら歌舞伎女形女性より女らしいようなものだ。

 映像化された屍者の帝国に、私は原作より原作らしいもの、あるいは書かれることがなかった、この世界線には存在しない真の原作面影を感じることができたと思う。

 ボンベイにたむろする屍者の労働者、○○おじさんにも大好評だった圧倒的なディティールの階差機関、白く荒涼としたカザフスタン目黒雅叙園相撲浮世絵ジャパン映像化に際して付加された情報量についてだけでも映画として申し分ない。かつて彼が愛していた世界観型の映画のように、産業革命時代に屍者技術なるもの存在した場合どんな世の中になるかというSF観点なif、たったひとつの嘘による世界構築がなされている。

 「あなたにもう一度逢いたかった、聞かせて欲しかった、あなた言葉の続きを。」

原作ではフライデー円城塔で、ワトソン伊藤計劃にあたる。彼が残したテキストを読み足りない情報を補って、作家伊藤計劃脳内にエミュレートして続編を書くという行為を考えれば当然の配役である小説エピローグで、彼岸に渡ったワトソンを思ってフライデーは自らの意思を持ち動き出す。一方、映画ではその立場が逆転して、ワトソン円城塔フライデー伊藤計劃にあたり、旅の目的伊藤計劃の復活である映画の文法としては旅の目的明確化だが、○○おじさんにとっての不評の元凶となる改変だ。BLノイタミナだとdisる気持ちもわからなくはないけど、ヴィクター書記を手に入れて伊藤計劃を復活させるという話が映像化第一弾として公開されることに意味を感じる。

 冒頭にも書いたが伊藤計劃小説は言ってしまえばそんなでもないし、同じようなものを書ける人は出てくる。けど、彼の映画批評のような愛と薀蓄に溢れた文書を書ける人はもう出てこないような気がする。それでも彼がもし生きていればこの映画をどう評論しただろうか、死んだ彼がこの映画を見たらどう評論しただろうか。

 あなたはここにいるわ、そう思えるような文書をみんなもっと書いて欲しい。

2015-10-02

にゃるほど

増田で、あおり気味にモテ無いことをガンガン愚痴ったら、いい感じでアドバイスもらえた。

増田民、やるじゃん。

  

ファッションもっと色々あるだろ

 星野源みたいなのがモテる

 伊勢丹メンズ館で全身コーディネート。体型はBMI20

 被服学

 最速でオシャレ

 オシャレのサイトいくつか

  

ニコ生やれ

 やった。ゲーム実況やっちゃった。

 声はイケメン絶対モテてるよね、って評判上々でツイッターでもリプきまくった。

 でもハードゲームを実況してたし、ガチプレイだったから、視聴者男ばっかりだった。

  

 で、『ニコ生はなぜパコれるのか http://hitode99.hatenablog.com/entry/2015/09/08/201826』を読んだ。昔も読んで絶望したけど、また読み返した。

 次は、やっぱり、歌い手とか、フランクゲーム実況目指すべきかもしれない。

  

③相手の人格ありきだろ

 これは、ちょっと分かる。俺は、発達障害だろうなって思うし。

 多分、他人気持ちは分からない。でも、分からないものとして精神医学なり、面接学なりは成立してるから、それだけで即負けでもなさそうではあるとは感じる。

 でも、恋愛って競技は、相手の気持ちいいことを先回りしてやって相手の好感度上げるゲームなので、他人気持ちが分かるってのはアドバンテージなんだろう。

  

 相手の気持ちをよくするってのは、正直、クッソ気持ち悪いけど、コンビにみたいなもんっつーか。マニュアル接客みたいなもんだから、とにかく覚えるしかない。

 この技術勝負だし。

  

 格闘技の打ち込みのように、ある種の反復でうまくなるしかない分野かもね。

 でも、何の技術を見につけるかが微妙にわかんねー。

 扉を開けてレディーファーストだの、同意して共感を示すだの、ミラーリングだのって、技術はいくつかあるけど、全然体系だって無いし、俺にあった技構成もわかんねー。

 たいていの格闘技はこのあたり体系化されて、絶対実につくようになってんだけど、恋愛はなってないよねえ。

 まだまだ、恋愛市場として確立されてないのかねえ。

  

 なんつーか、勉強できるくらい体系化されてないと、確かに学ぶのはキツイ。昔は、格闘技は誰がやってもみにつくってもんじゃなかった。

 それが、柔道の始祖の東大先生もやってた加納五郎が、「これが投げの原理です」ってのを丸裸にして、他流の格闘技ボコボコにして最強になって。で、寝技ばっかり研究した高専柔道東大生達が全日本クラス柔道家に全勝勝ったって歴史がある(三角締めがはじめて世に示された瞬間)、それが今の寝技で勝つ系の柔道なんだけど。

 それからヒクソンとかが体小さいのにブラジリアン柔術ケンカ自慢だの色々な格闘技代表ボコボコにしたUFCがあって、そんで、今は一般人でも寝技学べばそこらの素人にはまず負けないようになった。

 格闘技とか、勉強で勝てるわけねーじゃんってのが一変した瞬間。

  

 で、今は、まだ恋愛にそういう革命が起きてないのかね。まだまだ、一部の特殊な才能のアル奴しか勝てない分野なのかもしれない。

 そうなると、やっぱり、マダマダ相手の人格ありきなのかもねえ。

  

風俗嬢に泣きついた

 女にモテなくて、しょぼくれて、風俗行ってきた。

 イケメン扱いってお願いして、好き好き言いまくってたんだけど。

 終わったあとに、まあ、自分勝手プレイしてんなーってのは思った。だって楽しいしょうがねーよ。

 風俗嬢いわく、「別に見た目はカッコイイし、でも自分勝手は確かにねーそれはモテないよ」と。自分ではマダマダブサメンと思ってるけど、客観的にはフツメンくらいは多分行ったかもしれない。オシャレとかで。

 そりゃそうだよな、相手の機嫌取るゲームで、ミスって負けたようなもの自分勝手って、学んでない雑魚自分からミスって負けたようなもんだからゲームでいうとエンジョイ勢、上にいけないやつら。養分

  

 俺は、苦手やな、他人のこと考えるのが。理屈とか、論理で答えを先に出してしまうから、相手の脳みそ過程とかに興味が持ちにくい。相手と同じ感情を持てない。

 これをクリアーしないと、モテない。

 技術的には、多分もう知識はあるのかもしれない。

 ただ、相手の気持ちが分からないため、適切に技術を繰り出せない。

 どーしても、自分の楽しみが先行して、勝手に興奮して勝手妄想世界に入る。

  

友達いなかったかダメなのか

 俺は、小中と友達いなかった。正確にはいたが、勉強読書ばかりして、興味もてなかった。とにかく、勉強とか知識とか入れるのが大好きで、ドンドン世界を知って、哲学文学数学医学農業財政政治と知りたいことをひたすら学んでいた。

 常識とかわきまえず、先生も言い負かして相手していなかった。

 正直、教育学部程度の脳みそとして思っていたし、IQも俺よりハルカに下のチンパンに教育とか嘘だローとかいやなガキだった。

 ってか、今思うと、ADHDの過半数が持ってる、反抗挑戦性障害ってやつだったのかもな。

  

 そんな感じで、相手の気持ちを読むとか、考えるとかすっ飛ばして、哲学的結論を持って、そっから他人理解したのがダメだったのかも。

 普通は、友達との付き合いのなかで世界理解したりするのかもしれない。でも、俺は、「地図持って旅しないと、旅のなかで地図を作るの大変ジャン、間違いばかりだし、効率も悪いよね」見たいな感じで、世界見取り図から、周りの環境理解しようとしていた。

 帰納より、演繹って感じで。

 この発達過程のゆがみが、俺の人格のゆがみだったのかも。

  

 ってか、普通に俺苦しいしね。人間の体に適した思想ってのは、周りの環境との交通から作られていくほうがストレスないのに、無理やり世界の形に変形して自分を成立させてきたから、思考がとにかくゆがむし、体も耐えられない。

 キチガイっぽい感じになったのはそのせいだろうね。

 だからモテないんだろうね。

2015-06-12

http://anond.hatelabo.jp/20150612021345

本当に地獄見る急増時だけエラーに支えられながら自称する様な

正常だのマジョリティだのってなーんか、「浅薄」以外の感想がない。

君の感想を語られても…。

まず、繁殖する個体マジョリティである認識し、正常と認識することができるならば、繁殖しない個体エラー認識することはできる。

エラー存在が何かしらの機能果たしているにしろエラー一義的にはエラーにすぎない。

エラーが果たす機能について語るのは、このツリーの趣旨からずれている。

鹿やネズミの例とも被る。結果として帰納的説明の余地も無くなる。

鹿やネズミの例は帰納的には人間には適用されない。それはただの類推だ。

2015-06-11

http://anond.hatelabo.jp/20150611200441

横だが、

単に物理現象として一定の条件を満たした物質自己複製するという以上のことは言えないでしょ?

目的論云々には与さないけど、この増田の元々の「繁殖しない個体エラーである」っていう主張に戻して考えるならば

自己複製する個体一定割合以上存在するのが正常な状態である

自己複製をする個体マジョリティ形成する正常な個体である

くらいのことは、人間に関して言えば帰納的に言えるんじゃねーの?

2015-04-18

http://anond.hatelabo.jp/20150418230414

俺も記憶力がいいけど新しいことを考えるのが苦手。

プロジェクトに長くいれば知識が深まって重宝されるけど、新しいところいくとゼロからなっちゃう。

普通は、知識を糧として帰納的に自分の知恵とするんだろうけど、

俺の場合、そうならずに事実をそのまま覚えるだけで終わっちゃんで、新しいことに繋がらない。

から、変えなきゃなーとか思ってたけど、最近子どもができて、仕事に集中する時間が減ったんで、

もう今のままできることを続けていこうと考えるようになった。

2015-03-13

http://anond.hatelabo.jp/20150313091817

AがBであるという主張は間違っている。なぜなら、主語が大きいからだ。という論理展開でしょ?

違う。主張が間違っていると言えるのは、最初から間違いだと知っているからだ。

主語が大きいことが間違っている理由にはならない。

たとえば、

「俺の爺さんよりも婆さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん男より女の方が平均寿命が長い」

「俺の婆さんよりも爺さんのほうが長生きした。それを考えると、たぶん女より男の方が平均寿命が長い」

も同じ論理

同じ帰納的推測で同じ論理であっても、論破できるのは下の方だけになる。

でも決して「男は」「女は」という主語の大きさのせいではない。

繰り返すけど、「主語が大きい」という言葉情報価値ゼロなのだから情報価値ゼロ言葉でも論破できる命題は、最初から破綻しているものしかあり得ないわけ。

2014-10-05

元増田です(1)

http://anond.hatelabo.jp/20141001050424

元増田ですブックマーク400くらいついてるほげええええええええええええTwitterで500ぐらいつぶやかれてるおえええええええええええええええええええええ

なんだこれうわぁ、なんだこれうわぁ、こんな鬱憤を晴らしたいがためだけのゲロみたいな投稿にこんなにレスポンス返ってくるなんてひたすらに申し訳ない、申し訳ない…

自虐はここまでにして。

とりあえずトラックバックはてブコメントTwitterつぶやきをざざっと見させてもらいました。ほんとに色んな意見があるなと。

限られた情報から職場元増田自身想像してアドバイス叱咤激励含む)をくれる方や、この個別具体的な事案から今の日本における”仕事”が抱える構造的な問題点を一般化する帰納的な論を展開する方まで。

いや、実に興味深いです。これがアクセスする”抵抗”がとてつもなく低くなったネットワーク(=インターネット)の力ってやつなんですね。改めてインターネットは偉大な発明なのだなと。90年代前半とかだったらこうは不特定多数意見を伺うことは出来なかっただろう。

まさか自分がその当事者になるとは思わなかったけど、生きてるとこんなこともあるんだねぇ、面白い

最初にも書いたように、元増田記事鬱憤を晴らすための、というか見えない出口を探し求めてほとほと疲れ果てた中で書いた忘備録のためのような記事です。

なので、主張はかなり偏っているかなぁと。

まず、仕事を覚えられなくて中々スマートに実行できないのはひとえに元増田である僕のせいです。僕が無能であるだけなんです。先輩たちのせいじゃないのです。

元増田記事矛盾している…深夜テンションで書いた記事から仕方ないね

どう無能であるかというと

  • メモをほぼ活かせない

 メモはとりあえず取るんですが、「とりあえず取る」だけで体系化できていない事多し。自分なりのマニュアルポケット手帳みたいなのは作っているんですが、当方怠け者のため最近情報更新できてなかったり、そもそもどうソートしていいのかわからない指示があったりして不完全。

 仕事を進める中でミスをされると注意されるわけですが、業務を知らなかったというミスより「あっ、そうだったー!」というミスの方が多いです。注意されたり、次の仕事に移る時に「あっしまったこうだった!」という。これについては、ちょっとまりにも多すぎるので発達障害を疑って次策を検討中です。どうやって医療機関を絞ればいいのか、そもそも受診相談する気力が湧いてこない、とかに悩んでるわけですがそれはまた別の話なのでここでは割愛

 致命的なことに、職場の人と上手くコミュニケーションがとれていません。何気ない会話を投げられてもコミュ障あるあるみたいな返答しかできないというか。「あっ」とかよく言っちゃうし「あっ、えっと…あっ…スイマヘン」みたいな挙動不審みたいな謝り方を注意された時にしちゃったりとか。お客さ…都道府県民相手にならマックマニュアルしゃべりみたいに対応できるんだけどなー

というわけで、先輩たちはいい人たちで、仕事覚えられないのは全部僕が悪いんです。

基本的職場で僕が役に立たない時にイライラしてるだけで、その他は至って普通です。険悪なムードを醸し出してるわけでもないです。仕事ちょっとした合間や休憩時間は少し談笑したり子供の事で情報交換したりしてる、雰囲気の良い職場です。



もっと体系的に仕事を把握できるように頑張るべきで、そのためにはきっとメモだけじゃ足りないので、仕事フロー図書いてみたり、家で自習のため自分仕事に関することを色々調べたり、そういったことをやらなければ。

また、もっと円滑なコミュニケーションを取るために、積極的に会話に参加したり、マナー常識を本やネットを参照しまくって実践である職場で学んだりしなければ。

そういった具体的な方策は思い浮かんでいるんですが、家に帰っちゃうともうおやすみモードに入っちゃって、ポロシャツのまま即寝たりニコニコ見たりテレビ見たりしちゃって…どうにもダメですねぇ。自分の甘えでこうなっているのはわかっているのですが、中々そこから脱出できなくて…

仕事を覚えられないのはそんな自分のせい。その「行動しないストレス」を上司のせいにする、という方法を通して匿名ネットにぶちまけてしまったのです。そう、僕が悪い


なんというか、皆さん色々と意見ありがとうございます結構、これからの指針の参考になるような意見もたくさんあって、ほんとありがたいです。

この記事とその一連の流れが次の就活生や今現在仕事をしている人達の僅かな肥やしになることを祈ります

医学的にはMENSA高知団体とは言えないという話。

MENSAという団体をご存知だろうか。ホームページには

MENSA(メンサ)とは、1946年イギリスで創設された、全人口の内上位2%のIQ(知能指数)の持ち主であれば、誰でも入れる国際グループです。 」

とある

そして、MENSA自分たち団体のことを「高知団体」と呼んでいる。全人口内の上位2%とは、IQにして148(標準偏差σを24とする)となるので、これはかなりの高知能ということになるだろう。単純に考えると50人に一人程度存在するということであるから、その希少さはかなりのものだ。そして、日本で有名なMENSAとは正式には「JAPAN MENSA」というものらしく、これはMENSA日本支部であるという。(以後のMENSAという記述JAPAN MENSAを示すものとする)

MENSAについては私も昔から知っていて、「へぇ、そのような団体があるのか」と興味は持っていた。

ところが、先日大学の友人がMENSAの入会テストを受けてきた所、どうやらこの試験というもの所謂IQ(全知能)」を測るテストとは少し違うものらしい。このような入会テストを行っている団体が「高知団体」として世間認知されていくのは良いことなのだろうか、少し疑問に思った。

そこで、一応大学医学を専攻した身として、MENSAに対して一言述べておこうと思いこのブログを書くことにした。

MENSA医学的には高知団体ではない

MENSAの知能測定方法が「全く無意味」というわけではない。知能の限られた部分しか測定していないということである。そして、それこそが一番の問題なのだ

医学的に知能指数を測る方法は何種類か有る。(知能指数 - Wikipedia)

かなり初期のものとしてはビネー式知能指数テスト。こちらは「子供向けの知能指数テストであり、大人には有効ではない」ということが明らかになっている。そこで、登場したのが「WAIS」と呼ばれる知能指数テスト現在、大人が医療機関知能指数テストを受ける場合には、大抵「WAIS」を受けることになる。(田中ビネー式については割愛)

ところで、MENSA公式ホームページには「入会テスト受験は15歳以上に限る」と記されている。つまり子供向けではなく、大人を対象にしたテストであるということだ。

そこで、医療機関実施されている大人向けの知能テスト「WAIS」について少し詳しく見ていこう。

WAISの試験内容

WAISは現在、14の下位検査から成り立っている。(ウェクスラー成人知能検査 - Wikipedia)

言語検査



動作性検査

そして、これらの知能検査から各々の「知能指数」を算出。それらを総合して全知能(合成得点による全検IQ)を算出することとなる。

ところで、なぜこのような成人向けの知能指数テストが行われるのだろうか。WAISのスコアから何が分かるのだろうか。

実は、WAISのスコアは高ければ良いというものではない。それぞれの分野のスコアがある一定範囲内(15以内)に収まっていることが重要なのである。そして、これの範囲を超えてしまうと、発達障害との診断が下る可能性が高くなる。医師はそれを一つの目安として発達障害の診断を下すことになっているからだ。

まり部分的に隔たった知能は「発達障害である可能性を示唆することとなるということだ。

MENSAの入会テストについて

さて、MENSAに話を戻そう。

MENSA試験内容とはどのようなものなのか。

実は、これはWAISで言うところの「行列推理」だけを問うものなのである

すなわち、MENSA試験においてスコアが高いということは、WAISで言うところの「行列推理スコアが高い」ということのみを指し示す結果であり、(各能力の発達がある程度独立であることを考慮すれば)上述した「発達障害である可能性も、一般の人よりも遥かに高いということである

まりMENSAという団体には、世間よりも遥かに高確率発達障害の人が存在していると考えられるだろう。

MENSAに望むこと

MENSA高知団体自称するのであれば、最低でも言語性知能や他の動作性知能のテスト必須にしていただきたいものだ。

行列推理スコアが高いだけで「高知団体」と言われても、それは詐称に他ならない。むしろ行列推理だけのスコアが高いということは、高知であるということを示すより、発達障害示唆する可能性の方が高いとすら言えるだろう。

2014-01-28

フェルミ推定google検索必須

しろフェルミ推定にこそ「ggrks」というセンス必要

元増田にもあるとおり、ビジネスにおける選抜にフェルミ推定を用いたいなら特にそう。

なぜならビジネス要求されているのは、結果・数字利益であって、能力ではないから

ピアノ調律師が何人いるかが直接ビジネスに関わるのならば、ググレばいい。まじで。

それで答えが出てくるならそれに依拠するのが一番早い。ピアノ協会(あるかどうかしらねーけど)が

人数とか公表してるかもしんねーじゃん。検索結果の信憑性とかを言い出すならフェルミ推定の結果の信頼性

どっこいどっこいですから。0を1にする端緒としてフェルミ推定グーグルのどっちが上かは一概には決まらないよ。

しろ論理的思考力なんて無くても答えにたどり着けるグーグルの方が優秀とさえいえるかもしれない。

多くの反論が予想されるのは

画一的な答えが期待できないからこそ帰納的・演繹的推論能力を見るためにフェルミ推定をやるんだ」

ってやつ

いやー、でもこれ言い換えると「ビジネス上の問題にグーグルは答えてくれねーよksg」ってことでしょ?

だったら最初から「ググッてもいいよ」くらいの余裕が面接側にほしいよね。答えが無いって分かってるならさ。

フェルミ推定を通して推論能力を示してほしいわけでしょ?

ってことは事実上要求されてるのは知識の運用能力(と知識量)だよ。フェルミ推定を始める端緒としてぐぐれる環境

あっても全然いーじゃん。

いっつも思うんだけど、企業採用活動として、何を目的フェルミ推定面接過程につっこむ(べきな)のか

って視点全然足りてない気がするんだよね。

繰り返しになるけど、調律師の数字が問題なのであればむしろ必要能力

どこを掘るとその情報出会えるか知ってることだよ。そんでもって人間の活動でまったく新しい何かなんて

ポストモダン現在にあっては存在しませんよ。むしろXに迫るためにAとBとCとOとPとQのどれを組み合わせて

先行研究とすべきかという能力のほうが重要なんですよ。さらに言えばそういう先行研究成功と失敗を踏まえないと

フェルミ推定やった結果車輪を再発明したりするんですよ。

そこまでブレイクダウンして採用活動にフェルミ推定を導入しまたかもっと言えば普段の活動をそこまでブレイクダウンしてますか?

そういうの抜きでフェルミ推定だけ採用活動に導入すると滑稽ですよ。

話が大分逸れてきた。

言いたいことは、フェルミ推定要求されている能力情報・知識の運用能力であるなら、

しろグーグルをいかに活用するあるいはしないかというところも見ないと現代社会では無意味でしょということ。

そういう設問のフェルミ推定問題を作らないとダメですよということ。

そんでもってぐぐって得た情報でみんなが妥当な答えにたどり着けるならそれは出題側の問題だし、恐らく普段の業務も

ちょっとググれば答えが転がってることを棚上げにしてる可能性が高いってこと。

http://anond.hatelabo.jp/20140127235658

2013-12-28

http://anond.hatelabo.jp/20131228003415

あのね、今は「ある具体例から帰納的に発見される一般法則」の話をしてるの。

実際にそうだったか、は問題じゃないの。

似たような場合適用できる法則を見つけようとしてんの。

難しい?

その上で、「人種等の個人の属性により、生存権などの人権の一部を剥奪する行為」に対して、

お前は「当事者意識によってオッケーになったりならなかったりする」って言ってんの。

それにドン引きしたってこと。

セックスとはわけが違うぞ。

2013-12-11

先生、その教え方では差別はなくなりません。」が消えてる

後で読もうと思ってタブを残しておいたらこれですよ。

http://kabux.hatenablog.com/entry/2013/12/03/090345

というかブログ自体が消えてる。

まったく簡単に消さないでほしいよなー。

「後記」(http://kabux.hatenablog.com/entry/2013/12/04/103731)のほうはgoogleさんのキャッシュに残ってた。

 昨日のエントリに多くの反響をいただいた。少しだけ追記をしておこうと思う。

 先生、その教え方では差別はなくなりません。 - 矛盾銀行株式会社

 「差別はよくない」という原則を語るのには2パターン方法がある。すこし理屈っぽいのだが、

 今回エントリに綴った講義は前者のパターンである。世の中にはこういう差別の事例がある、関わることはもちろん知らないことも罪深いのだ。差別の事例を知らずして差別の何たるかはわからない、と。そしてこれはぼくの憶測だが「差別に関する知識の欠如は、差別排斥しようという意識の欠如と一体だ」というのが講師の主張なのだろう。

 さて、ぼくの抱えた単純な疑問は「前者のパターンを取った場合に、事例の列挙に終わりはあるのか」ということだ。極端な考え方だということを認識しつつ書くが、あれは差別だ、これは差別だと並べるその終わりはどこなのだろうか。およそ差別偏見と呼ばれる行為によって、悲しい思いをしている人がいるのは事実だ。だた、そのすべての悲しみを掬い取るまで、ぼくたちは悲しみの一つ一つを学ぶのだろうか。

 自分以外の人の悲しみに触れることは、他人に対するいたわりを育むうえで欠かすことはできない。他人に対して耳を傾け手を差し伸べる優しさと勇気を育てるだろう。(机上の学習も含めて)他人の悲しみに触れる体験は、間違いなく必要だ。

 ただ、もっとシンプルに、「アナタとワタシは違っていて当たり前」ということを当たり前に受け入れよう、ということからスタートすることもできると思うのだ(先に挙げた、後者パターン)。出自病気、身体の欠損、性、宗教、あるいは慣習は多様なものだ、というプリンシパルを個々人の中に育てたらよい。その中の必要局面で事例を挙げたらよいのではなかろうか。

 そういうプリンシパルの上で、自分と違う個性を持つ目の前の誰かと相対すればよい。目の前のその人が困っていたり、悲しい思いをしているのであれば、手を差し伸べたらいいのだ。ぼくはそう思っている。

 

 追記の追記。

 元銀行員ブログという文脈で差別を話題にしたので、本筋とは違った趣旨でお読みになった方もいるかもしれないが、他意はない。

 ちなみに、この同和教育は業務の一環だった(時間外手当がついた)。また本件以外にも、銀行業務として相対することがあるということで、実務的な人権教育在日外国人のこと、反社会的勢力人権ことなど-を受けたこともあった。

どっかに残ってないかな、元の文章。

2013-11-03

民法出でて忠孝亡ぶ(民法出テゝ忠孝亡ブ):穂積八束

一理あれば一害あり。私法家は個人平等の極端に捗りて社会の秩序を害し易く,公法家は権力相関に偏重して世運啓発に伴ふことを怠るは,各 其(の)専らとする所に於て免れざるの弊なり。唯 此の二元素 相 調和して始めて国家法制の美を成すべしと雖,我邦 維新以來 社会の改新を謀るの急なるより,明治立憲の法度,或は専ら私法家理論に偏傾したる跡なきにあらざるが,豈に後世史家の浩歎する所ならざるを知らんや。

我(が)国は祖先教の国なり。家制の郷なり。権力と法とは家に生れたり。不羈自由の個人が森林原野に敵対の衝突に由りて生れたるにあらざるなり。氏族と云ひ国家と云ふも家制を推拡したるものに過ぎず。権力相関を指摘するの呼称は異なりと雖,皇室の嬖臣に臨み,氏族首長の其(の)族類に於ける,家父の家族を制する,皆 其(の)権力の種を一にす。而して之を統一して全からしむるもの祖先教の国風にして,公私の法制習慣 之に由るにあらざれば,解すべからざる者 此々 皆 然り。之を要するに,我(が)固有の国俗法度は,耶蘇教以前の欧羅巴と酷相似たり。然るに我(が)法制家は,専ら標準を耶蘇教以後に発達したる欧洲の法理に採り,殆んど我の耶蘇教国にあらざることを忘れたるに似たるは怪しむべし。

耶蘇教以前の欧洲の文化は希臘(=ギリシャ)羅馬(=ローマ)の盛世 之を代表す。当世の史料,素より富胆なり。之を詳にする難きにあらず。況や如今 法制史の大作,クルチウスの希臘(=ギリシャ)に於ける,モムセン及(び)イエリングの羅馬(=ローマ)に於けるあり。専門の士にあらざるも之を窺ふに易きのみ。古日耳曼(=古ゲルマン)に到りては僅(か)にタシタスセーザルの記傅に由ると雖,方今ワイツ以下 古独(=古ドイツ)法制 探究する者少なしとせず。而して耶蘇教以前の古(日?)耳曼(=古ゲルマン?)の制度は,期せずして希臘(=ギリシャ)・羅馬(=ローマ)と其(の)跡を同ふするを発見するときは,耶蘇教の欧洲に入らざりし以前は汎く印度・日耳曼(=ゲルマン),人類に通ずるの主想ありしこと知るべきなり。

欧洲固有の法制は祖先教に本源す。祖先心霊を崇拜するは其(の)建国の基礎なり。法制史は法の誕生を家制に見,権力の源泉を家父権に溯る。然れども何が故に家父権神聖なりやと問はゝ,之を祖先教の国風に帰一せざるべからず。祖先の肉体存せざるも,其(の)聖霊,尚(なお)家に在りて家を守護す。各家の神聖なる一隅に常火を点して家長之に奉祠す。是れ所謂 家神なり。祖先神霊なり。事細大と無く之を神に告ぐ。是れ幽界の家長にして,家長は顕世に於きて祖先の霊を代表す。家長権の神聖にして犯すべからざるは,祖先の霊の神聖にして犯すべからざるを以てなり。家族は長幼男女を問わず一に其(の)威力に服従し一に其(の)保護に頼る。

一男一女,情愛に(由?)りて其(の)居を同ふす。之を耶蘇教以後の家とす。我(が)新民法,亦(また)此(の)主義に依れり。之れ我(が)国 固有の家制にあらざるなり。是れ欧洲固有の家制にあらざるなり。欧土の古法は祖先の祭祠を同ふする者を家族と云ふ。家神は其(の)子孫にあらざれば之を守護せず。各家に其(の)神あり。之を絶滅することを忌む。家運の恒久を顕するなるべし。共に同一の神火に頼る者を家族と云ふ(古語家族とは神火を同ふすると云義なり)。後代,或は家長権の及ぶ處(=ところ)を家属とし,必(ず)しも血縁の因のみに限らざるの制あり。然れども,民法家が我(が)国に行はんとするが如き家とは,一男一女の自由契約婚姻)なりと云ふの冷淡なる思想は,絶(え)て古欧に無き所なりとす。婚姻に由りて始めて家を起こすにあらず。家祠を永続せんが為に婚姻の礼を行ふなり。茲(=ここ)を以て,古法は娶らざるを禁じ,叉 子無きときは婦を去ることを認め,或は他姓の子を養ふて家祠の断絶を防ぐ,皆 古欧の家制は今の家制と其(の)主想を異にし,祖先教に本源することを証するものなり。之を我(が)国 非耶蘇教の習俗に照応するときは相似たる者あり。欧洲は,彼の宗教行はれしより,独尊の上帝は人類の敬と愛とを専有し,子孫また祖先の拜すべきを知らず。於是乎(=ここに於いて?)孝道 衰ふ。平等博愛の主義 行われて民俗血族を疎んず。於是乎(=ここに於いて?)家制 亡ぶ。而して個人平等社会を成し,個人本位の法制を以て之を維持せんと欲す。フュステル・ド・クーランジ(ュ)は法制史の大家なり。其(の)古欧家制を解説するに序して曰く,人が「其(の)父,若(しく)は祖先を崇敬(アドレ)すると云ふの事(?)は吾人の信じ難き所なり。然れども是れ事実なりき」と。嗚呼耶蘇教国に於きて耶蘇教人に孝道を説明するの難(し)き,此の一言を以て証すべし。我(が)国 未だ他教を以て祖先教を一洗したるにあらざるなり。然るに民法の法文,先づ国教排斥し,家制を破壊するの精神に成り,僅(か)に「家」「戸主」等の文字を看ると雖,却(っ)て之が為めに法理の不明を招く空文 無きの優れるに若かざるなり。嗚呼,極端個人本位の民法を布きて三千余年の信仰に悖らんとす。而して一方に於きては,或は耶蘇教旨の我に行はるゝを欣ばず,強(い)て忠孝の国風を保持せんとす。哲学家は巧妙の弁あるべしと雖,法制史家の眼中に於ては孝道は祖先教家制の影なり。法制 先づ其(の)実体を亡(ぼ)し,教育行政は其(の)影の存せんことに汲々たり。史家は其(の)前後矛盾を笑なるべし。公法権力相関の秩序なりとは,予が公法の講堂に出入せし人の聞(き)飽きたる説明なり。然れども,公法研究は,期せずして復た此(の)原則に帰納せらるを得ざるなり。仏人フラフの近著,亦 権力相関の源泉に遡り,制度の変遷を詳(ら)かにせんとす。諸家 皆 其(の)本源を古の家制に帰す。家は家父権 之を統治す。家父は家属に対し殆んど無限威力あり。後世の羅馬(ローマ)法家 之を夫が婦 及(び)子に対して天然に優れるの実力に帰せんとす。蓋(し)誤解なり。家父は夫 若(しく)は父たるの身分に由りて此(の)権を有するにあらず。権力の源泉は祖先の霊にあり。家を守護するの家神は家属を制裁するの威あるべく,子孫の祖先の霊に服従すべきは,之を顕世の代表者に移すことを得べし。古代「バーチル」の語,常に母の夫を指すのみならず,汎く有権者を呼びたる例なしともせず,亦,以て家父権は法の源たること知るべく,法は神聖なりと云ふ語の完全なる意味をも解することを得べきなり。耶蘇教の入りしより家父権 衰ふ。祖先の霊は子孫を守護するの責を免れ,父子夫婦 同じく唯一上帝の前に平等なり。祖先及(び)父を崇敬するは,神を侮辱する者なり。法は俗界の制 何ぞ神聖と称する事(?)を得ん。博く汝の隣人を愛せ,一視同仁の天帝血縁の濃淡を認めざるなり。家制 豈(に)久しきを保たんや。家制 衰へてより近代国政の基礎を固ふするに到るの間,欧洲の社会権力相関の中心を失うこと久し。是れ法度 弛廃し,豪族(が)割拠(し)優者(が)専恣(する)の世とす。僅(か)に其(の)社会を救ふたるもの耶蘇教の力 多しとす。「神聖なる羅馬(ローマ)帝国」は実に宗教の力に頼りて其(の)主権名分を正し,人心を維持することを得たり。若(し)欧土にして急激の祖先の教法を棄て耶蘇教を入るゝことを拒みしならば,欧洲の社会道徳法制 其(の)跡を絶ちしならん,後人の鑑むべき所なり。耶蘇教の希望する個人を本位とし世界を合同するは,欧土 尚 之を実践する能はず。家制を脱し族制に遷り,方今は国家を以て相(い)依り 相(い)携ふの根拠とせり。家制主義 既に及ばずとするも,国家主義を以て法制の本位と成すべきなり。史家は一躍 三千年来の家制を看ること弊履の如く,双手 極端個人本位の法制を迎へんとする我(が)立法家の大胆なるに駭(=おどろ)くなるべし。萬世一系の主権は天地とともに久し。其(の)由る所 或は祖先の教法家制の精神捗るなきか。所謂 君子国の美俗は,祖先教を撲滅し,又,新教を容れず,唯 学校修身教課書を以てのみ保維することを得るか,史学の一好試験なり。

(法學新報第五號 1891(明治24)年8月15日。『穂積八束博士論文集』(有斐閣1943年)を底本とし,表記を現代語に改め,適宜 句読点 及び送りがなを補った。)

2013-07-11

[]はてなキーワード日本軍慰安婦問題」におけるid:barnumkouka詭弁

はてなキーワード日本軍慰安婦問題編集ページ(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%CB%DC%B7%B3%B0%D6%B0%C2%C9%D8%CC%E4%C2%EA?kid=371018&mode=edit)よりid:barnumkoukaの発言。

barnumkouka 2013/07/11 01:12 私は「同一でないリダイレクト設定」が駄目だと言っているだけで、あなた記述内容を問題にしているわけではありませんよ。言語の話としてさ、「慰安婦日本軍慰安婦」以外の文脈の可能性は無いの? 「戦闘機日本軍戦闘機」が成立しない理由は何? 語意の構造上そういう文脈が想定できるからでしょ! そういったキーワード語意の大原からダメです。加えて、「慰安婦」という用語の使用実態が、日本軍以外にもあるわけですからあなたの主張は正当性がありません。

id:D_Amonなどによるリダイレクトへの反論のつもりなのでしょうが、上の主張には正当性がありません。

慰安婦日本軍慰安婦

リダイレクトする理由は「慰安婦日本軍慰安婦」(慰安婦日本軍慰安婦はまったく同じ)ではなくて「慰安婦日本軍慰安婦」(ただ単に慰安婦と称した場合には日本軍慰安婦)だからです。この時点で既にbarnumkoukaの編集問題点から外れています。また「慰安婦日本軍慰安婦」以外の文脈の可能性は今のところ無いと思われます。ただ単に慰安婦と称した場合は、日本軍による慰安婦を指します。これはぐぐった結果からも明白です。

戦闘機日本軍戦闘機」が成り立たないのは話者の背景が違うから

慰安婦と称した場合に、ほとんどの人が日本軍による慰安婦を思い浮かべ、それで話が通じるからです。上のぐぐった結果からもそれは明らかです。いわゆる否定論者とのやりとりでもそれは明らかです。そうでないのはid:barnumkoukaなどのごく少数でしょう。少なくとも、コミュニティ単位では存在しないと思われます

ただ単に戦闘機を指す場合、その背景が重要になります太平洋戦争の話題でも、日本軍ゼロ戦米軍のB29などを思い浮かべることでしょう。「戦闘機日本軍戦闘機」が成り立たないのは自明です。id:barnumkoukaの発言はキーワード編集とはかけ離れており、詭弁にあたります

ただ単に慰安婦と称した場合、それは日本軍慰安婦

韓国軍慰安婦」が、「慰安婦」という用語の使用実態が、日本軍以外にもあるという例であるid:barnumkoukaは主張したいのでしょうが、現状は

上で説明した通り、「慰安婦日本軍慰安婦」です。「韓国軍慰安婦」は「韓国軍慰安婦」と称しないと話が通用しません。これは、上で説明したように、話題の背景がそうなっているからです。

編集内容および態度がガイドライン抵触

「中立的でない偏った内容」、「客観的事実ではない内容」

慰安婦といえば日本軍慰安婦なのは、上で述べた検索結果などで帰納的に証明できる客観的事実です。それに対し、前述のid:barnumkoukaの主張および編集内容は、一般的に観測される事実とかけ離れているため、客観的事実でない内容となっています

これは、はてなキーワード作成・編集ガイドラインのうち、「キーワードの説明として不適切であると考えられるもの」の「中立的でない偏った内容」、「客観的事実ではない内容」にあてはまります編集内容がid:barnumkouka解釈しかないと考えられるため、「自分しか意味がわからないなど、他の人に理解できない内容」にもあてはまると思われます

不誠実でわかりにくい説明

id:barnumkoukaが「「慰安婦日本軍慰安婦」以外の文脈の可能性」を指摘するのであれば、その可能性について何らかの根拠を出すのが誠実でわかりやすい説明につながります。出典や使用状況について実例を挙げるべきなのです。id:barnumkouka氏の主張は、これら出典や実例を持たず、不誠実でわかりにくい説明となっています

2013-06-26

http://www.asks.jp/community/nebula3/161135.html

統計正当性はどこにあるのだろうか

分布の仮定から数学的に整理されている分野なので、それらの仮定の妥当性に依存するでしょうね。

計測されたデータに合う直線や曲線を引いて、モデル化できたと考えるのは正しいのだろうか。ぶっちゃけ連続した直線や曲線で結べるという前提の正当性はどこにあるのだろうか。

帰納とは数学的に厳密な正当性が無いものです。

でも、点と点の間は実際には計測されていないのだから連続している保証はない。実際に連続しないこともあるだろう。

レベル放射線健康被害が、それを疑われていますね。

また複数の要素が関係してくる場合、無機的なデータだけを見ていて、その要素を分解(モデル化)できるのか?という疑問がある。

要素ごとのデータがあれば多変量解析ができますが、そうでないとできませんね。

空気抵抗を受けながら運動する物体を、空気中を移動すると抵抗を感じる、ものだんだん下に落ちる傾向がある、など経験的な要素なしに、データとそれを近似した曲線だけから、はたしてそれぞれの要素に分解できるだろうか。

抵抗も落下も数値化できるので、データになりますね。

現に「重い物体ほど速く落下する」と考えていたむかしの人は、重力による影響と空気抵抗による影響を分離できなかったわけで。

それだけなら今でも間違いではなく、重さと落下速度が比例すると考えていたことに問題が。

純粋な数値データのみから、「物体の受ける机はビールジョッキの2乗に比例する」ということを、人間は思いつけるか?ということになろう。

空気抵抗の概念は既にあって、滑り台を使ったガリレオはそれをなるべく排除してデータを得たわけですね。

その関係が成り立つという根拠は、どれだけのデータサンプリングすれば、確信できるのだろうか。

サンプリングの数ではなく、方法が問題になるわけです。

空気抵抗が大雑把には連続して変化するという前提は、「体験」でしかない。

ガリレオ時代でも火薬の量(=エネルギー)と大砲の飛距離は計測できたかも知れません。ガリレオは最適な射出角度の計算もしていました。

データから帰納的に法則を知るのと、体験的に知っているのは、大差は無いわけですが。

ようするに、点と点を連続した直線や曲線で結んだだけでは、点と点の間に予測外のでこぼこがないことは保証できない。

点と点を直線的に結んだLNTモデルの信憑性に言われる批判ですね。

2013-05-26

乙武問題

正しい、間違ってる、というのは、

ある問いを立てた時の答え、という意味しか無いんじゃないかな。

その答えを「正答」とするか「誤答」とするかは、常に系に寄るし。

そして、系はその系自身では、無矛盾性を証明できないし、証明できない命題が常に存在する。

から、「正答」も「誤答」も、単にその系の中でのみ通用する「答え」にすぎないってことだろ。

異なる公理系に同じ問いを与えても、「正しい答え」は公理系の数だけある。

違う系の人と話してるときに、正しさについて議論しても無駄なのは、その辺に答えがあるんだと思うな。

なんて言う話も「帰納的に記述可能な公理系」でのみ正しい話

2013-04-13

Haskell危険性について

Haskellの正体とは】

これは某大手電器メーカー幹部の話です。

彼は、こう耳元で囁きました。

Haskellコンパイラが吐いたバイナリは食べるな」

国際Fortran学会会長プログラマ治療の草分けである森×敬一博士によると、、、

Haskellコンパイラが吐いたバイナリだけを与えた実験動物はみんな死んでしまった。

明らかにコンパイル最適化有害ものが発生したはずです。

ふつう言語では大域変数の書き換えによってプログラマは実行時の環境を容易に制御できる。

ところが純粋関数型言語原理が全く異なります」と警告しています

まず、大域変数に対する「再代入」「領域解放」「再割付」する実行時環境制御方法と全く異なり、エネルギーを持つ素粒子の一種である電子を揺らして計算を行います

これを”集積回路”といいます

これに似たものとしてマイクロフィルムがあります

マイクロレンズと短波長光を組み合わせて小さな領域に焼きこみを行うのです。

これには世界中消費者団体が反対しています。その理由は?

「本が小さすぎると目が疲れる」とのことです。

ミクロレベル素粒子振動、原始帰納関数の生成、、、、。これが、Haskellコンパイラにより生成したバイナリの質が”イマイチ”な理由なのです。

動物Haskellが評価した水を飲まない】

GHCiで評価した水と、ふつうの水を並べておくと、動物は決してGHCiで評価した水を飲まないといいます

それは本能危険直感するのです。

これを栄養士の東○百合子氏は、このように指摘します。

プログラマの脳細胞破壊する」と。

政府大企業利益を優先して”不都合な真実”は徹底的に隠蔽

オブジェクト指向言語のジャバ言語の方が優れていることを主張する何万という論文がありながら、政府企業も未だに認めようとしません。それは莫大な利益を損失に繋がるからです。

彼らは”不都合な真実”は徹底的に隠蔽するのです。

実験動物が死んだ」事実は、何か有害ものが生成されたと考えてよいのではないのでしょうか。

※追記:元ネタは「動物は決して電子レンジの水を飲まない」なんかで検索すると見つけられると思います

2012-07-27

チラ裏自己肯定

今日はっと思いついた、チラ裏です。

一歩間違えると、表現を誤るんだけども、

人を信じてはいけない。人を頼ってはいけない。

人に依存してはいけない。他人を必要としてはいけない。

自分には価値はない。生きてる意味はない。

全部一部では真実なんだなっていう発見なんだけど、表現がうまくいかない。。。

もう少し細かくだらだらと書いていくと、、、

他人を必要としてはいけなくて、自分で何でも出来なきゃいけなくて、

出来ないものお金で補う以外に頼ってはダメで、

でも他人が居て世界があるから楽しいんだよね。

他人が居ないと自分存在し得ないのは嘘。

ただ、今ここに自分って結局絶対的で、比較出来ないものとして存在していて、

その上で存在しているのは他人との間にある「それ」なんだ。

「それ」を作り上げるメッセージを常に送受信しているのが自分であって他人であってものであって、

「それ」を共有していくから人間共感し合えるんだけれども、

共感はお互いの作り上げていく「それ」に自分が溶け込んでいるんであって、

自分と他者は絶対的に別なもの

「それ」に対して自分は本当はこうなんだって人に見せようとしても、

相手が興味なければ、「それ」は溶け合わない。

その行為自分がこうだって相手に思って欲しいっていうだけで、

そう思う思わないは相手の自由なのに、相手に強制をさせているから。

それを行うのは良心でなくてなんらかの目的に対する行為

そしてその目的は相手に何かをしてもらうという目的

相手に強制をさせて喜ぶっていうのは普通はない。

SMに関しては「それ」の共有の土台、の観点から論理矛盾は無い)


始めに書いた陳腐人間不信表現は、厳密に言うとこういう事。

・人を信じてはいけない。

→他者とは「それ」の共有は出来るけど、他者自身は絶対にわかりえないのに、なぜ信じられる。

・人を頼ってはいけない。

→人を頼れるのは、そうした「それ」の状態になった時だけ。わからないものに頼るのは占い宗教と同じ。

 ただし、帰納的に効果のあるとされているものに関しては除く。

・人に依存してはいけない。

→上記と同様。子育てを除く。

・他人を必要としてはいけない。

→上記と同様。子育てを除く。

自分には価値はない。

価値は他人が決めるもの自分が他人をわかりえないのと同様に他人も自分の事を知れないため、価値の算出は不可。

・生きてる意味はない。

→他者のことはわかりえないため、わからないものに対して、他者から与えられる自分が生きている意味は嘘。

 その上、自分自分の生きている意味は、自分が二人いて同時に意識を持たない限り、絶対性があるため意味付け不可能。

まり、他人を頼らず、今居る自分価値の有る無しは他人にも自分にはわからないため、

肯定は無いけど否定も無いから、とりあえず自分を否定して苦しめる行為は止めましょうってこと。

肯定的人間不信っていう言葉勝手作ってみたけど、ちょっとしっくり来る。

ここから先に、自分を肯定する話や生きる気力は進化生物学認知神経科学ポジティブ心理学に席を譲るとして、

「それ」ってなに?ってことをもう少し知りたくて、自分でひらめきを待っている所。

これが空気になるのかなぁ・・・空気内包してる何かだと思うんだけど。

厳密に見るとこの不信の論理破綻していそうだけど、でもちょっと自分では嬉しい発見、というチラ裏でした。

2012-04-25

何で可愛くて賢い動物を殺して食べるのはだめなんだろう

いるか漁に反対する人の理屈はまったくもってそのとおりだと思う。

猿は知能が高くて人間に近いから殺すのはいけないと思う。

いるかや犬は知能が高いうえに可愛いから殺すのはいけないと思う。

猿やいるかや犬ほど知能は高くないかもしれないけど猫は可愛いから殺すのはいけないのと思う。

でもこういうことを言うと可愛いの基準は何とか可愛くない動物は殺していいのとか賢くない動物は殺していいのとか反論される。

可愛いの基準については反射的に愛情を感じるという結果から帰納して特徴を探ることしかできない。

なぜ可愛いと感じるのか何を可愛いと感じるのか根拠はわからない。人間に近いものほど可愛いと感じるのだろうか。

可愛くない動物や賢くない動物も殺してはいけないと言えば可愛くて賢い動物も殺さないでもらえるのだろうか。

可愛くない動物や賢くない動物は殺してもいいか可愛い賢い動物は殺さないでくれといえば殺さないでもらえるのだろうか。

私たちはどういう基準でもって動物・生き物の可愛い可愛くないを判断するのだろう。

可愛い生き物は殺してはいけなくて、賢い動物は殺していけないのだろうか。

では人間はどうなのだろうか。

論理的に答えは出ているのだろうか。

2012-03-29

http://anond.hatelabo.jp/20120329114602

横だが、原因で合ってると思うなあ


ていうかその話見てて思ったんだけど

サヨは思想とか理論から入ってそれを現実に当てはめて人やもの嫌悪する感じ

ウヨは生活上抱いた嫌悪感から入ってその補強に思想や理論を求める感じ


サヨは演繹

ウヨは帰納

と言うべきか

2012-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20110724172205

 コミュ障的な受け答えですが、そもそもこの人の言ってる批判は、批判じゃなくてただの批難では?

マスコミのせいで言葉が汚されてますが、批判は、批(つき合わせて)判(はんだん)する事です。

批(つき合わせて)難(難癖をつける)ことではありません。

 いまや忘れされている感がありますが、批判という言葉は、英語で言うCritical Thinkingという重要意味をもっています

今はどうか知りませんが学校の成績で批判力があるか無いか記述されている事が有りました。

批判力があるというのは、帰納思考(例:吉野屋松屋すき屋、ちからめしの経営状態が良い。ならば牛丼屋の景気が良いのだろう)や、演繹思考(例:牛丼業界が儲かっている。ならばすき屋も儲かっているのだろう)といった事実に基づいた判断ができるという事です。

 決してマスコミが角を立てないために批難と言わず批判を使っている事に乗せられて本来の意味蔑ろにすべきでは有りません。

2012-03-07

まったく同見解

anond:20120229223543

半導体関連の技術者としてまったく同見解。表面的な原因は開発スピードの遅さにあって、その根本原因は研究に特化した人材を育てない愚かな企業体質にあると思う。

日本企業人材育成というのはマルチ指向で、要するに何でも出来る・いろんな事が出来る人材が良い、という風潮がそこらじゅうに見受けられる。これを研究所にまで適用して、やれ5Sだの環境教育だの、会社経営状態がどうだのこうだの説明してみたり、使いもしない英語の授業だの、社員間の交流活性化だのといった、R&Dと何の関係もない何の意味もないくだらない事に、全工数の3~4割は割かれている。

人材登用のやり方もそういった方針に従っている。潰しの利く、何でも出来そうな学科を出てきた学卒や、せいぜいマスターあたりのみ拾う。機械工学化学工学あたりの、おおよそ機械は何でも使えていろんなデータが取れて、どこに配属してもそれなりに使えそうな人材に重きを置く。そういう奴等はメカニズムというコトバに弱い。演繹的な発想が出来ない。帰納的な開発しか出来なくて、出てきた結果に適当な理由をくっつけて、こうでした、という報告しか出来ない。データは溜まれど、知恵は貯まらない。

ウチの会社財閥系でそれなりのところだ)のR&Dには、工学系でマスターのくせに「結晶転移」だとか「エネルギーギャップ」だとか言われて、ナンですか?それ?って奴がゴロゴロしている。高校生レベル行列演算も出来なくて、シュレーディンガー式を解ける奴なんていったら確実に1%を切るだろう。

連中は装置は一応使えるよ、熱分析も出来るしSEMもTEMも使えるし、XRDもFT-IRもESCAもNMRも使えるよ、マニュアル通りに。もちろん仕組みは知らないけど。

こういう事がいかにバカかと思ったのは、サムスンに訪問した事が切欠だった。あそこの技術者は末端でも、適当学会に行って自分の専門分野外で一説ぶってこれるくらいの頭は持っているんじゃないか。とにかく凄いの一言に尽きる。日本技術者は負けて当然だと思う。科学に対するセンスも桁違いだし、学ぶ事が好きで熱心な連中だと思える。サムスンマルチ人材は欲していないようで、適材適所日本企業とは違う。

まぁ、一番は給料だろうか。日本ってなんで、研究開発部署の奴が、工場労働者と同じ額なの?下手したら「入社以来の年数」の分だけ少ないんだけど。

2012-03-01

http://anond.hatelabo.jp/20120229191102

「犬も歩けば棒にあたる」は、犬についてのことわざでしょうか。

「二階から目薬」は、目薬についてのことわざでしょうか。

木村庄之助述懐はそういうボンヤリした普遍的諺なのでしょうか?w

行事の話は一例で、俺が行事の話を通じて考えていたのは、ジャッジメント全般の話です。

スポーツのジャッジだけではなくてね。

あなたが書いていたように、俺は相撲は見ないので相撲しか通用しないことには興味がないです。

くだらないことを多いにお考えなさい。

木村の話は君の能力では帰納材料に出来ないので忘れなさい。

ジャッジメント()

あなたが書いてることは、一般常識の範囲のことだと思いますよ。

いいえ、一般常識では個別の知識について。

または君の非常識について。

2012-02-16

http://anond.hatelabo.jp/20120216100248

ははは

しか読んでない人はびっくりするよ

じゃあ基本原則を教える


「効いたなあ」と実感があるまで


んー良く分からないんだけど、「このあたりが適正な負荷だろう」という推定する理論

(どうしても帰納的なものになるけど)に基づいてトレーニングを組むもんじゃないの?

君はまだ「10回」っていう目安以外に何も材料が無いからそれに基づいてトレーニングするのは間違いじゃないけど

はっきりいってあたまでっかちさん状態な印象がぬぐえない

どんどんジムに行って試行錯誤経験を積むのがいいよ今は

2011-12-24

認知の微視的構造 リマインダー

リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。

第一章

1

認知主義、古典認知主義

意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデル意味する。

 この主義の限界を

2

 ・チューリング

 チューリングの形式化が持っている特徴

(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括

(2)そのメカニズムいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している

(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している

⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している

フォン・ノイマンコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーLISPプログラム言語)を開発。

 ⇒ 研究開発が可能に

A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出

 ⇒理論的に自覚化・明確化される

3

・物理記号システム

①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、

②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム

by 1976 ニューウェル & サイモン

・強い物理記号システムの仮説

SPSS strong-physical-symbol-system

「標準的な記号アトムフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」

①仮想機械

現実の物理機械上で実行されるプログラムのみによって存在し、

そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」

 高級プログラムによって定義されるエミュレータ

フォン・ノイマン型の操作

コネクショニズムとは異なった操作

・記号を割り当てる

・変数を束縛する

・記号列の複写、読みとり、修正

・基本的な統語論パターンマッチング操作

等々

③標準的な記号アトム

「テーブル」「ボール」「愛する」「軌道」「電子」のような語

④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段

そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる

 このような主張(標準的なLISPアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践

彼らの仕事の特徴(例:BACON

 ・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している

 ・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能

 ・選ばれた課題領域を扱う

BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則

BACONに対するいくつかのコメント

BACONが取り組んだデータフォーマット化下のは、人間の労苦

BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。

 ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない

BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの

 ⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう

 サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。

 しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。

 心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える

 BACONは、人類の一部のモデル

 知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている

 古典システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。

 古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々

意味論的に透明、意味論的な透明性

STS semanttically transparent system

システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステム意味論的に透明であるといえる」

 きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズム記述レベル2)における計算の対象が、概念レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述レベル1)と同型である場合である

レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え

レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法

レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)

古典アプローチコネクショニズムの重要な違い

(1)古典理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論意味論を組み合わせた記号システムを仮定している

(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。

 もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない

◎要するに、古典システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである

第二章

 古典認知主義に対する懸念

 ドレイファス:古典認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当

 サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論意味論との間にギャップが認められる

 この二つの種類の懸念について検討する。

あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」

 この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念リストをあげる。

 ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。

 ウィンストンの、フレームを使ったアプローチも不十分

 ・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)

 ・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?

 ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか

ドレイファスの二つの主張

(1)身体問題

「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」

 コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない

(2)コード

 人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。

 このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?

 

 AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。

「強いAI仮説」を、サールは批判する

強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる

Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。

サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。

具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋操作者が中国語を「理解すること」の比較

「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」

 以下、サールの誤りについて論じる

 

 サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」

 脳シュミレータ説:あるりプログラム中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる

↑(サールの再反論)

(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)

(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである

 ↑(アナロジー

 光合成光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない

 では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?

  :外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること

↑(コメント

中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効

 微視的機能主義

 機能主義は、心的状態の本質を、

 入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。

 (適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)

↑(批判)

中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。

 こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう

・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか

×大まかなレベルに位置づけ

  ⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ

ライカンの「小人機能主義」

○微視的機能主義

・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981

ゲシュタルト

 :機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ

ライカン「小人機能主義」

 :機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)

 微視的機能主義

  :システムの内的な機能的プロフィール(内的状態の変換)を、

   内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で

   記述しようとするもの

   ・処理ユニット間の形式的な諸関係を記述する

   ・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる

第三章

 認知科学における民間心理学の役割はあるのかないのか

「民間心理学

 :自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解

 民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる

チャーチランド & スティック

「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学

 民間心理学問題点

(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。

 民間心理学は、子供狂人外国人を前にすると、まごついてしま

(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる

(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである

 最近の分析哲学

  :頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか

Daredevil believes that Electra is dead.

Mary hopes that Fermat's last theorem is true.

 のthat以下を、心的状態の内容と言う。

 心的状態が考えられる傾向

  :われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、

  われわれにとってどのように見えているかによって決まる

 ↓(言い換え)

 我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、

 本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない

⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、

 知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆

・双生地球……☆に対して疑いを投げかける

双生地球で、「海に水がある」と発話される。

地球A:海にH2Oがある

地球B:海にXYZがある

 この違い以外は同質だとする。

 すると、

 地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる

(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)

 もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、

 自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、

 単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して

二つの選択肢

(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、

 世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説

(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は

  〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう

プティ と マクダウェル

「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。

 しかし、

〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」

 筆者

 :あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、

 そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない

 その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。

 仮想反論

 :「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」とするならば、

 心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)

(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)

 仮想反論の詳細

:仮定①:

 二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる

 (そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)

 仮定②:

 行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない

 結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない

「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。

 限定的内容といっても、それを妥当概念として了解できるかは明らかではない」

 なぜなら、

「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは

 まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。

 その具体的理由として、

 ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。

筆者

 :広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、

 民間心理学カテゴリーや分類が

 頭の中で起こっていることに関することに関する科学カテゴリーや分類に

 きちんと還元されるなどということは

 とてもあり得ないように思われる。

・民間心理学は、科学心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない

 世界を記述しない信念であり、なおかつ

 ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学記述の上には)存在しないことも可能

 民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?

 :

 他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、

 その人の身体の動きを予測し説明するための手段

民間心理学の主要な目的

 :

 世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること

(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴

①世界に対する感受性、すなわち感覚生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している

②世界をわれわれと共有している

③彼らは我々自身のもっと根本的な関心と必要の大部分を共有している

④彼らの思考の有用性は、

(我々自身の思考と同様に、)

 彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、

 彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている

 この特徴があるので、

「~したい」という欲求さえ同じであれば、

 神経生理学的な詳細は関係なく、地球人にも火星人にも有効。

・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている

・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、

 さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)

 筆者の見解

 :私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、

 行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである

 ……関連する行動を可能にするものとしての、

 根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、

 そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が

 対応している必要はない。

――

 筆者の意見は全体論である。(行動全体に網をかけるから。)

 ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか

<Fordor>

意識の全体論というのは、

命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」

 という考え方。

 これに、Fordorは懐疑的

命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)

われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題認知的連関)を共有しているとは思えない。

 なので、意味全体論はありえない。

 →信念の内容が、その認知的連関に依存するということを否定。

 信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。

 外延的意味論の一形態に賭ける

:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである

「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」

</Fordor>

筆者

 :Fordorの間違い

 全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。

 Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。

Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。

筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている

 全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)

 一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。

(1)民間心理学は、狂人や言葉の通じない相手には使えない

(2)民間心理学は、長い間停滞している不毛な学問である

(3)民間心理学は、神経科学ときちんとつながっていない

(3)に対して、

 民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである神経科学とつながることを目的とはしていない

(1)に対して、

 民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない

(2)に対して、

 民間心理学の目的は限られたものである

 なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。

整理。

 心的状態に関するわれわれの常識的理解と民間心理学は、違う。

 民間心理学には、きちんとした定義がある。

 これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」

 因果関係と、構成的関係の区別

構成的関係

 :

 研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ

因果的に関係

 :

 因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、

 それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる

ということはない。

チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)

・広域的内容の理論認知科学は心を解明しえない

・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている

科学(物質、プログラム

(構成的関係)

科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。

では、構成的関係とは何か。

構成的関係←→因果関係

構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること

因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない

(駒はなくてもチェスは打てる)

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