はてなキーワード: ロールシャッハとは
三連休、特に予定もなくなんとなくイベントを探してみたら、近所で街コンがやってるって情報が入った。
二駅先くらい。まあ近いし、行ってみるかって軽い気持ちで部屋着のまま家を出た。
正直、そんなに気合い入れる気もなかったし、ふらっと行くくらいの気持ちだったから。
会場に着いたら、みんなびっくりするくらいおしゃれしてた。
男も女も、どこかのファッションショーかってくらい気合入ってる。
あ、やべえ、俺ちょっと浮いてる? そんな気分だったけど、まあいいやって開き直って、適当に席について最初の女性と向かい合った。
で、向かい合った瞬間、俺は彼女が一瞬鼻で笑ったのを見逃さなかった。
え、何?そんなに部屋着やばい?って内心思いつつ、彼女の服装をちらっと見た。
肩に羽織ってたカーディガンはChloéで、靴はChristian Louboutin。バッグはYves Saint Laurent、アクセサリーはTiffanyで固めてた。
そんな彼女が、開口一番「私、東大出てまして、大手広告代理店で働いてます」と。まあ、すごいよね。
俺はっていうと、最終学歴は高卒で、今はぶらぶらと適当に暮らしてますって感じだ。
そのまま言うと、彼女の顔が明らかに「え?」ってなって、まるで年収1000万超えの自信たっぷりな表情で俺を見てきた。
その表情が黒木華っぽい。ちょっと知的で、でも感情を押し隠してる感じ。
俺はバナッハ=タルスキーのパラドクスについてどう思いますか?と聞いた。
すると彼女は「え?」って表情を浮かべて、ほんの少したじろいでから、「学部が違うのでよく分かりませんね」と、ストロー越しにオレンジジュースを飲みながら言ったんだ。
正直、俺はその瞬間、ああ、そうか、これが現実なんだなって虚無感を覚えた。
俺が着てるのはUNIQLOで買った1000円の白Tシャツ。彼女の服と比べると、値段は天と地の差がある。
でも、なんだろうな。価値って何なんだろう?って考えた。
服の値段に着てる人の価値を足してみても、その差はどれだけのものなんだろう。
自分が着ているこの千円Tシャツと彼女が纏っているブランドの服に大した違いはないんじゃないかって。
虚しさが、胸にじわじわと広がっていくのを感じたんだ。価値なんてものは、結局誰が決めるんだろうって。
彼女は目を丸くし、睨むように目を向け、僅かに残ったオレンジジュースを俺に放った。
白シャツに橙色の染みが住み着き、それは一千万のロールシャッハテストだった。
プライマルスクリームのジャケットみたいなその染みは、悪くなかった。
ひとり席に残されながら、俺は満足気に笑った。
https://anond.hatelabo.jp/20240721230541
ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学の学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済
ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/
私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである。
彼の著書『終焉の時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い、中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、
ジジェクの文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。
本棚に積まれた1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。
私は、ジジェクの長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分の知的価値を測るようになった(現在はほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。
それだけに、現代の政治文化に関する最近の記事で、ジジェクを非難するのは心苦しい。
しかしある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、
なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、
有利なポジションに私を置いていると感じている。
私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクのエッセイである。
そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。
ジジェクの哲学は、ヘーゲル、ラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着から、オーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。
他方で世間一般におけるジジェクのペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス的挑発者であり、象徴破壊者であるが、自分勝手なものではない。
ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。
したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。
私は、ジジェクのお気に入りのトリックのひとつである、正式な哲学的分析の範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、
喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。
(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレの特殊な構造が、
ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界の概念に対する究極の反論となっている)。
ほとんどの場合、ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さらに重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、
しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである;
そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。
トランスジェンダーの権利をめぐるスコットランドの政治的混乱から始まり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトとラカンへの言及で締めくくる。
表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。
これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;
ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダーの権利をめぐる、最近の政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、
正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。
結局のところ、ジジェクは皮相な哲学的手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。
ジジェクは、過去10年間にリベラルな知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。
ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいつもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:
「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。
この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?
ジジェクの引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。
実際、彼が引用したガーディアンの記事を読んでいれば、上で引用した段落を修正できたかもしれない。
ジジェクが引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカーは不妊の原因にはならない "と書かれている。
したがって、このスロベニア人に知的怠惰の恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険な形態である;
さらにひどいのは、ジジェクが記事の冒頭で取り上げた最初の文化的分析対象である。
『コンパクト』編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。
それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたことを我々は知っている"
“We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”
ジジェクが言及しているのは、アイラ・ブライソンの事件である。
この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプで有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、
トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハ・テストとなった。
ここでジジェクは、基本的な事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。
さらに問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである
(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。
ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェクが性別を間違えて表現することに固執するのは、
ジジェクがトランスのアイデンティティを尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。
ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。
しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である。
彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;
この時点でようやくジジェクが哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。
記事の次の部分はさらに長く、さらに面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事の宣伝である。
(中略)
で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?
その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。
彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。
The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.
[ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭的利益の残酷な計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」
思春期ブロッカーの使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。
ここでジジェクは、ジャニス・レイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、
製薬企業にとって重要な経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。
そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実の物質的な対立のために戦うのではなく、
資本の側、つまり極悪非道な個人の側にいる人々として捉え直すことができる。
バトラーやフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェクを盲目にさせているのだ:
[ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。
作品全体と同様、これはジジェク特有の哲学的プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである。
この最終的な帰結は、英米でトランスジェンダーの物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクがお墨付きのスタンプを押したということだ。
ジジェクは、社会の変化に懐疑的なジャーナリストや知識人の瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまったかのようだ。
これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である。
過去の思想家からの豊かな引用を悪しき議論の隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。
私たちにとって悲しい日であり、多くの意味でジジェクにとっても悲しい日である。
ジジェクは豊富な理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。
このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。
[終]
バイトでの理不尽な場面を導入に、仁菜の過去と桃香との喧嘩を絡ませる導線が気持ち良い。
自分のようになって欲しくないんだと和解ムード出しながら諭す桃香に「私はあなたの思い出じゃない」って一蹴するとこ良すぎ。
凡百のアニメなら、自分の気持ちを大事に抱えて尖るのもいいけど妥協やバランス感も大事だよね。ハイこの話終わり。とでもするような所を……
大人は自分の後悔を若い子供に投影して、やれあれをするなあれはするなと指図してくる。
それはあんたらの後悔であっておれの後悔じゃないよな。沢山の人間が同じような事言うから、確かにおれも同じような道を辿るのかも知れない。
でもそんなのは知った事ではない。そこにおれの納得はない。おれの納得は自分で手に入れる。そう思ってた。今も割と思ってるけど。
そこに「私の気持ちはどうなるんですか」と、いじめをなあなあにして丸く収めようとする場面もオーバーラップしてくる。
理不尽な場面でも周りに合わせて妥協する事に限界を迎えての放送室ジャック。吹っ切れたような爽やかな笑顔。ロールシャッハのように妥協を許さず日和った真似は許さないNEO井芹仁菜のオリジン。仁菜を見ているようでその実過去の自分を投影するばかりで、当の自分は牙を抜かれて逃げ腰だった桃香にお前はどうしたいんだと喝を入れるこれからの始まり。
よすぎ。
こういう話は他にいくらでもあるなんて言われても、そんなんか知るか。そんなのはおれにとってのガルクラの輝きが褪せる理由にはならねーんだよクソボケという事になる。仁菜にとってのダイダスがそうであったように……
昔は「ヴェノムってなに?」状態が普通だったのに、今では大多数の人が知っているのは何気に凄いことだと思うんだ。
そもそも俺がX-MENやマーブルヒーローを知ったのはCAPCOMの格ゲーからで、当時は知名度が低く、一部のギークかゲーマーぐらいしかアメコミのキャラクターなんて知らなかった。
それが今や多くの日本人が知っていて、スパイダーマンはもとよりキャプテンアメリカ、ハルク、ソー。それにサノスまで知ってるんだから嬉しくなってくる。
それでもたまにDCと混合してる人も居るんだけど、それはご愛敬。
個人的にはウォッチメンをもっと多くの人に知ってほしい。原作は漫画としては初めてSFのビッグタイトルを受賞しているし、ロールシャッハがとにかくカッコいい。
ネットばっか見てる人なら少なからず「自分って発ッ達なンじゃねェーの?」と一度は思った事があるのではないかと思う。
自分も大分前からそうだった。あまりにお粗末な集中力とダラけようはなんらかの障害なのか、あるいはシンプルに怠け者なのか。障害ならなんらかの対応が必要だし、怠惰なら特別な薬などないから根性でどうにかするしかないと、今思えばゼロ百的な悩みを抱えていた。
そこの所のはっきりとした線引きをメンクリで与えて欲しかったのだが、初診で受け付けてもらえるのか分からんし、どこもgoogleレビューは最悪だし、何かと理由をつけて病院には行かずにいた。発達障害の存在と、それがどうやら身近なものであるという事を知らなければ余計な迷いは生まれなかったものを……
大学で色々あって(平たく言えば留年した)相談室に行く運びとなり、その流れでキチガイ判定試験を受けた。診断狙いで敢えて「かまして」やろうかとも思ったが、模試でカンニングするようなものだし本質的な解決にはならないので真面目に受けた。
結果は詳しく思い出せないが、ナントカ傾向だのナントカ状態だの歯切れの悪い答えだった。いわゆるIQも出て、トータルで言えばまともらしいが、一点だけボコッと低い能力があった。そういった場合に得てして発ッ達認定がもらえるらしい。(詳しく知りたい人はWAIS-Ⅲで調べればいくらでもネットに情報が転がってます)自分が欲しかったのはネットでよく聞くアスペだのADHDだのとハッキリとした病名か、あるいは異常ナシ。まともですというバシッとした答えだったのだが、まともなのかまともじゃないのかという二元論的な悩みが余計複雑化しただけだった。
取り敢えず検査の結果と相談室の紹介状を握りしめて大学で聞いたメンクリの予約を取った。googleレビューは例に漏れず低かった。
初診では大学の相談室で聞かれたのと同じような事を一から説明し直し、その後数回に渡りまた別の検査を受けた。質問内容がド直球に「忘れものをよくするか」のような項目ばかりの検査もあったが、ここも一応正直に答えた。複数受けた検査の結果は何れも回答内容から考えて極めて意外性のないものだった。発達気味。根暗。抑圧的。内向的な分嫌ほど自覚している。採血もあったが至って健康ですの一言だった。何が悪ければどう精神に影響するのかすら分からない。聞けば教えてくれたんだろうけど。
あとウォッチメンで有名なロールシャッハテストも受けた。ハナからオカルトじみてるなと思い期待はしないものの、モノとして知っていたので興味はあった。が、何にも見えないシミを「強いて言えば何に見えるか?」と執拗に聞かれ、やっと終わったと思えば今度はなぜそう見えたか聞かれ、いや直感的に……と言っても「具体的にどの辺りがどう見えた?」と詰められるのは苦行だった。
これら検査山盛りセットは良い金ヅルに過ぎなかったのではないかと未だに思っているが、ともあれ結果を踏まえ、念願の薬を出すかという話に辿り着いた。無論同意。最初に相談室へ行ってから半年ほどかかった気がする。
薬を飲み始まる前には既に半期の成績が出て、今までに比べたら遥かに前進していた。以前の終わった生活を引きずりつつも、基本的に授業を真面目に受ける。ルーズリーフはどうせ失くすのでPCでノートを取る。レジュメは曜日、授業ごとにファイルを作りPCで管理。といった当たり前を真面目にやるのは案外継続できた。それでも単位をポロポロ落としてはいたが、その後薬を飲み始めてからは2学期連続でフル単だった。
まともに大学へ通う事に慣れ、授業を受けるリズムが出来ていたからなのか、あるいは薬が効いていたからなのかははっきり言って分からない。授業を受けるというある種受動的な場面以外に、能動的な作業をしようと思うと相も変わらず中々集中は続かず気力も低い気がする。目下重要な就活についてもだ。
待ちわびた薬を飲みながらしばらく過ごしてみて、少なくとも自分にとっての一つの答えが得られた。性格と障害などはっきりと線引きできるものではない。その境界にこだわるよりも、何を為すか、自分には何ができるかを模索するのが重要なのだ。具体的なものは何も指し示してくれないが、しかしきわめて当たり前かつ重要な答えだと思う。(大変失礼ながら、明言はしないがハッキリ障害と言える程度のものもあるとは思うが……)
もちろん、診断を受けて薬を飲んだら生活が劇的に改善されたという人もいるのだと思う。コンサータを飲んだらバキバキになって人生変わりました、みたいな話はネットにいくらでも転がっているだろう。真偽は知らんが。しかしそれにしても、この性格と障害が曖昧であるという意識は重要なのではないかと思う。これに気付けなければ、発達障害かは微妙だけど実は鬱かもしれない、自律神経失調症かもしれない、HSPかもしれない。それさえ病院で治せば……といくらでも別の可能性にすがってしまうのかもしれない。
まあマジで無理だと思ったら変に迷わずさっさと病院予約した方が良いと思いますね。別にもし何かしら診断が下ったとして、その瞬間に「健常者」から「障害者」へ身体が変化する訳じゃないんだから。
ハルオサンのエントリーを見て自分も同時期にWAIS4を受けてたのでレポ。
もちろん了承。
今までの人生うまくいかないことがいろいろあったが一番問題なのは就業だ。
正社員経験はなく、バイト、契約社員、自営業、派遣社員と転々としてきた。
小田急サラダ油事件のニュースを見ていて「容疑者は仕事を転々とし」のところで、自分も当てはまってるなって思った。
大阪の心療内科ガソリン放火事件は、孤独に苛まれたら自分もこうなるかもって人ごとじゃなかった。
親を頼ってなんとか生きてきたが、もうすぐ限界がくる。
本題に戻る。
僕の場合はWAIS4とロールシャッハテストの2回に分けて行われた。
正直に言うとどれも楽しかった。
クイズ番組に参加しているような感覚で「やってやるぜ!」って挑めた。
それなりに手応えもあったし、これで「発達障害」って言われたら逆に困るなーって思いながら一回目が終了。
その日はめちゃくちゃ疲れたので泥のように寝た。
二回目はロールシャッハテストで、まずこの検査ってまだ現役なんだって驚いた。
十枚の絵を見て何に見えるか答えて、二周目になぜそう見えたかを答える。
wikipediaを見て知ったんだけど、心理テストにありがちな
実際、自分の答えがどういう理屈で結果につながったのかさっぱりわからない。
やっぱりというかなんというか発達障害というほどではなかったが
四つの指標のうち「処理速度」という項目だけが明らかに低かった。
今でも「処理速度」というものがあんまり理解できていないのだが
僕は燃費も悪いし容量も少ないのにアクセルはベタ踏みしかできないって感じだろうか。
全体としては「処理速度」の数値が他の数値と20~30程度の差があるだけ。
総合数値では平均的。
それでこんなにうまくいかないの?って驚きはあるが
納得感の方が強いし、簡単にいえば腑に落ちた。
今後、苦手を避けて得意を生かせるかどうかかなり不安はあるが
苦手なことがはっきりしただけで少しマシに取り組める気がする。
「生きづらい」ってワードが流行っているが自分でそう思ったことは一度もない。
ただ「うまくやれなかった」っていう喪失感があるだけ。
ちなみに保険が効いたので5000円くらいで受けられた。
それは君が世の中を作った訳ではないからです
そして、君が世の中を作ったとしてもやっぱり君は世の中に納得出来なくてクソと呼ぶのです
神が作ったとしても神の作った世の中は完璧とはいえないし、完璧であるかどうかを矮小な人間風情が理解できるはずもないので、やはり矮小な人間は超人たる神が作り出した世の中というものをクソだと認定するのです。
例えそこに無宗教だという愚か者が入ってきたとしてもです、それが先頭を走っていようと最終的にもっと傍若無人な存在がチンパンジーがタイプライターでシェイクスピアの作劇を描くような確率で世の中をまともらしくしたらしめても
やはり、世の中はクソと思うものなのです
大体、クソというものを下に置きすぎなのです
人間はなまじコンクリートや鉄を使いこなせた他人がいたばかりにクソとかいうものが不潔で不要なものだと断じてしまうのです
ですが、クソというのは人間に必要なものです。生物に必要なものです。
肥料もなければ野菜は育たず、異臭がしたりクソの形がわからなければ体調の良し悪しもわかりはしないのです。
そして、仮にクソとかいうものがなくなっても、我々は目ヤニや耳垢、身体から出る垢、瘡蓋に至るまで不要な存在だと認定するのです。
血を封じていたりするから瘡蓋はまだ有用性を認識しやすいのですが、垢に至ってはその新陳代謝が産んでいるものを理解できなければ体から出てくるベタつき、または粉です。
その点、クソというのは捻り出すもので、その苦労の結果出てくるのがあの現代社会での利用価値が汚染にしか無いと思わしき異臭を伴った粘着性の物体です。
それ故にクソというものは不要なもの、目の上のタンコブ、障害、侮蔑の表現として嗜まれているのです
ですが、そうして世の中に対してクソだと言っているとするなら
やっぱり世の中はクソだという言葉は正確ではあるのです
神が齎したもうた異臭を伴う粘着性の汚染物質は、その観点を変えれば利用価値のあるものなのだから
だから、世の中はクソなのです。
そう、世の中というクソはある観測者にとってはとても利用価値のある存在で、もう一方の観測者にとっては現状で手に余る有害な存在なのです。
そうして考えてみるなら、世の中というもの自体は多数の観測者によって成り立ってるものだから、それがクソで無益なものになったり、それがクソで植えた野菜の栄養となったり、それがクソでイカれた武士の傷を塞ぐ存在となることもあるのです。
そうして世の中がクソだと気付けた人はイカれた武士道プレイヤー達が自分達のポジティブライフにクソを塗りたくってる様子を見て発狂するのです
俺はこんなクソを塗りたくるような真似はしないぜ!と言いながら目の前に置かれたクソを前に罵詈雑言を述べることしか出来ないのです
そうしてクソに対して猛弁を奮って唾を飛ばすことでクソを臭くて冷えたビチャビチャにさせるのです
クソを目の前にしてクソだクソだと言うだけで一生を終えるのです。
私はなるべくのこと、このクソを肥料にするか、メタンガスが誘爆を引き起こすまでになんとか利用するかを考えてはいるのですが
まぁ最近では自分のケツに付いたクソを拭くことすらままならなかったりするので、トイレットペーパーに付いたロールシャッハテストを眺めながら
えんがちょと呟くのでした
Twitterで話題になっていた「同人女」に関するマンガを読んだ。面白かった。
大分流行に遅れてしまったけれど、このマンガにまつわるエピソードを語りたい。
https://twitter.com/sanada_jp/status/1269465337675698176?s=20
まず、「面白かった」、というのは「ギャグマンガとして面白かった」という意味だ。
ラストもその執念がちょっと空振りする感じ(うまくいえないけれど)がギャグ的に楽しかった。
Twitterで流れてきてサクッと読め、クスリと笑えるマンガとしては最高のバランスだ。
わたしは、これを「ギャグマンガ」として読ませていただいた。作者さんのファンになった。
Twitterで巻き起こったこのマンガに対する「語り」は、別次元に発展し、
同人女たちが共振し、ときには己の古傷を語りだしたありさまは、魔法で裁判にかけられた人みたいだった。
特に、わたしがタイムラインで見た「おけけパワー中島」への「心乱され感」がすごかった。
といった嫉妬・憎悪方向への共感があったことに驚いてしまった。
特に、
といった、冷静と情熱のあいだ、みたいな言及が、私にとっては恐怖そのものだった。
おけけパワー中島は、悪くはないのに人の心を乱す……?
ヒトノキモチ、ワカラナイ……コワイ ……
同人に参加する多くの人はアマチュアで、「作品が好き」という気持ちが昂ぶった帰結として、
「大金を使って本を出す」という狂気の趣味だ。意味がわからない。
この愛に狂った感じが心地いい。
結婚や出産・昇進、病気……理由は様々だが、自分では本は出さなくなった人もいる。
同人活動も生身の人間がやっているものなので、対人・金銭トラブル等の噂は耳にするものの、
基本的には「自分が作品に狂っている活動」を粛々と行っているように思えたので、
こうした「他人へのイラつき」みたいなものをカジュアルに表明されるのに驚いてしまったのだ。
私にとって「おけけパワー中島」は、初読のときには「神作家のフォロワーに一人はいる軽いノリの人あるある」程度だった。
私の経験でも、ものすごく上手な同人作家さんはなんとなく気軽に話しかけづらいものだが、
たいてい一人は非常に仲の良い人がいるので、楽しそうだな~と思いながら眺めているのが常だ。
もしリアルの友人が同じことしていたら
「ちょっとストーカーっぽい思考だから、しばらく同人から距離おいたら……?」と言う。
もしくは、
「そんなに仲良くなりたいんだったら、まずは挨拶とか萌え語りとかしてみないとスタートラインに建てないんじゃない? 」と言う。
七瀬さんは仲良くなりたいわけではなさそうなので、地雷を踏み抜きそうだなとも思う。
でも、千と千尋の神隠しで、「カオナシ」が千尋に金を差し出して気を引こうとしているのを眺めている気持ちになってしまう。
クソデカ感情の一方通行現象は、同人誌の中だけでお腹いっぱいだ。
「人に認められたい」「人に見られたい」というのは、ときには苦しいものなのではないかと思う。
承認欲求というのは自力では解決できない側面があり、努力で100%解決できるものではない。
"地獄になりやすい欲求ランキングトップ3(私調べ)"なので、
趣味である同人に持ち込むととてもじゃないがやってられないだろう。
そんなこじれた感情は、思春期で経験して割り切っていてほしいものである。
七瀬さんに対しては、「相互フォロワーになることと、pixivのブクマを超すことだったら、後者だけに絞れば?」とも言うかもしれない。
ブクマ数は努力という自分の責任になり、他人をコントロールしようという衝動から逃れるすべだとおもうからだ。
そんな価値観を持つ私は、
おけけパワー中島に心を乱される同人女の人とは、仲良くなれないと思っていた。
でも、そうではなかった。
Twitterで仲良くしてもらっていた人も、実際に経験していたようだし、
その気持を表明できる程度には、よくある話なのかもしれない。
いや、もしかしたら心を乱されないほうの人が少数派なのだろうか?
おけけパワー中島みたいに、「悪くはないのに人の心を乱す」存在はいくつもバリエーションがあるのかもしれないし、
わたしも、人知れず、誰かを傷つけたり恨みを買ったりしているかもしれない。
コワイ。
「おけけパワー中島」は、同人女のロールシャッハテストみたいなものだった。
彼女を見て何を感じ、何を語るか。それはその人の価値観や経験が色濃く反映されているのだろう。
もちろん、物語への没入能力が高い人は経験ないことにおいても”共感”ができるので、
実際に経験をしたことがなくても「おけけパワー中島に心を乱されるのあるあるだよね~」となるのかもしれない。
「おけけパワー中島」によって、
【価値観が異なる世界をまた一つ知ってしまった】という単なるカルチャーショックである。
カルチャーショックの対処方法は「そんな世界もあるんだな」って割り切ることしかない。