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2024-08-15

トランスペドフィリアは繋がってるよ

https://x.com/orionaveugle/status/1823916782882808148

谷口一平が、トランス排除の人たちと小児性愛者を連帯させるべしと主張していることには触れておく。雑誌が出る前だが、同様の主張は当人SNSで垂れ流している。支離滅裂かつ非倫理的

和田勉強もせずまた適当こいてるな。

クィアペドフィリアを含んでいることは、クィア理論の支柱となった文献をみれば明白なんだよね。

和田は非倫理的というが、クィアというのはもともと倫理逆張りだ。

以下はトランス教祖の一人、ゲイルルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティ政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)、クィアスタディーズにおける超重要文献から抜粋だ。ちなみに弟子バトラーも親による子の虐待正当化している。

1950年代共産主義者同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティック指向性はおろか、市民自由擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応魔女狩り犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。

原文はこちら。

https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf

明らかにペドフィリア擁護しまくっており、同性愛と同等の位置に置いていることが分かる。

2024-08-01

anond:20240801010201

自分は、自称クィアではないけど。

 

奇面組』に限らず、古いものの良かった探しをして良いところを見つけることはできるとは思う。

それに意味が無いとは思わないけれど、社会正義議論としてより重要なのはしろ昔にもあった良さのかけらと現代で正しいとされるものとの差分になるので、古いものの発掘には興味を持たれないのではないか

 

具体的なことで言えば……

「どんな不細工な顔でも慣れれば見れる!」とは言うけれど、現代的な感覚では「不細工だけど慣れれば見れる」というのは侮辱しかない。

美醜の基準普遍性自体が問われると思う。

「たった一度でいいか自分を輝かせてみたい」というのも疑問視されるところで、赤い花のトナカイでも年に1晩だけ活躍すれば良いというのではなく、もっと日常的な受容が求められている。

あと、少なくとも引用部分は個人主義的すぎで、作品全体としてもこのように当人の気の持ちようが前面に出ているのだとすると、それも批判ポイントにはなるかと思う。

 

誤解されたくないけど、『奇面組』をディスる気はまったく無いし、元増田の指摘はおもしろく読んだ。

ただ、「クィア自称する連中は『奇面組』を聖典として崇めてないとおかしいじゃん。」はさすがに無理筋

自称クィア界隈は何で『奇面組』を再評価しないの?

自称クィア自称クィア研究リベラルライター達が『3年奇面組』『ハイスクール!奇面組』を評価している所いままで見た事無いんだけど、なんでいつまで経っても『奇面組』を再評価してやらないんだろうか。

だってあれこそまさにクィア肯定してクィア性を開放するための漫画だったじゃん。

だったらクィア自称する連中は『奇面組』を聖典として崇めてないとおかしいじゃん。

初回の一堂零の「我々は世の中の歯車となるよりも、世の中の味付けをする調味料になろうではないか!」ってセリフクィア達は咽び泣いていないとおかしいじゃん

「人と同じことができなくたっていいじゃないか。人と同じになろうなんて

自然きわまることだ。えっ、そうじゃないか。頭が悪けりゃその分、頭のかたいことでも

自慢しろ!人に迷惑をかけん限りは自分の好きなようにやれ!どんな不細工な顔でも

慣れれば見れる!笑われて恥じるな。そういうときはいっそのこといばってみろ!」

そもそも人間とは、ひとりひとり別の個性を持って生まれてきたものではないか

これからはそれを隠すような不自然なことをせず、

それを磨き、堂々とさらけだしてやればいいのだ!」



これ『奇面組』のセリフだよ。

これを80年代ジャンプで書いてるんだから自分クィアだって言い張る人達は全員『奇面組』読んでないとダメだろ。

でも年がら年中「クィア、あクィア、あクィアクィアクィアクィア!」って吠えてるクィア連呼リベラルライターが『奇面組』を評価してるとこいまだかつて見たことが無い。

欺瞞なんじゃねーのか。

恐らくはヘテロだろう昔の漫画家が描いた昔の漫画は意地でも再評価したくないのかな。

常に新しく出てきたものしか評価したくないのかなあの連中って。



「人に合わせて器用に生きる人達がいる。自分を偽らず不器用に生きる人達がいる。

どちらが幸せなのか今の私には分からない。だけど…できるものなら、

たった一度でいいか自分を輝かせてみたいと思う」

ハイスクール!奇面組最終回より

2024-07-29

パリオリンピック開会式共同執筆者たちのインタビュー

マリアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図しりたくて、いろいろ読んだ。

具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。

id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。

増田フランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。

フランスインテル(という名の番組っぽい)

https://www.radiofrance.fr/franceinter/podcasts/l-invite-de-8h20/l-invite-du-week-end-du-samedi-27-juillet-2024-3772628

ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリアントワネットゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。

ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネット斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的イベント世界中が知っています私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たち価値見出していた(後述する)ロンドンエリザベス女王ジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。

ホスト歴史家パトリック・ブシュロンはどうですか。

パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的モニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たち勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家アイデンティティではなく、あくま政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。

(中略)

ホストダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分であるような感覚ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。

ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人白人アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループカリブ海)の音楽オーヴェルニュの音楽ヨーロッパ音楽を、同じ時にね。

LeParisianのブシュロンのインタビュー開会式前のインタビュー

https://www.leparisien.fr/jo-paris-2024/ceremonie-douverture-des-jo-2024-au-debut-vous-allez-peut-etre-vous-dire-oh-la-la-cest-cliche-26-07-2024-S35XYLUGNBG53ARPSYLRKMM5PM.php

トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。

(中略)

最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージ正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちエッフェル塔私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」

(中略)

幸せな猥雑さ(売春宿)」を見せる

共同執筆者たちは、過去の開会セレモニー研究しました。そして、アテネ謙虚さと、ロンドン自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズム拒否することにしたのです。

ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」

開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である

私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージ軍隊デモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」

パリ歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます

軍事パレードではない

英雄物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいていますセレモニーはそうでなければならない。私は歴史家からナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニー軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」

少し考えた後、彼はこう付け加えた。

「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリ世界を迎えるのであれば、ありのまま世界ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的ものですから政治的もの排除するということはありえません。しか世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」

彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。

RFIまとめ記事開会式の朝に出た記事

増田はルモンドやリベラシオン課金はしていないので、まとめ記事が助かった)

https://www.rfi.fr/en/france/20240726-we-need-this-moment-of-peace-say-olympic-opening-ceremony-storytellers

(略)

ジョリーと4人の作家2022年末に共同の冒険を始めたときルートはすでに決められていました。

東のアウステルリッツからまりノートルダム大聖堂マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリールーブル美術館ガラスドームが特徴のグランパレなど中世遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります

私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツからエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリール・モンドに語った。

私たちパリ歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑広場彫像文学的書簡映画ミュージカルも調べました。」

彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏執筆を続けた。

フランスカルト映画アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズエミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句アメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。

彼らはショーを12絵画セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートパレードと掛け合わせた。

3,000人を超えるダンサー俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンス披露し、それぞれの絵画は、パリシンボルと、過去現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界パリ​​の歴史建築の旅へと誘う。

例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式記念碑であり、19世紀作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています

世界最後テレビノートルダム大聖堂を見たのは、火災ときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志物語です。」

自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。

パーティーを開いてお気に入りプレイリストをかけるのとは違います世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」

(略)

エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年フランス革命から1948年世界人権宣言まで、「解放自由の偉大な物語」を提供すると述べた。

セレモニーの詳細は秘密ベールに包まれているが、フランス価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランスモロッコ人の小説家であるレイラスリマニは、パリ集合的であろうとする努力価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。

4人の作家は、自分たち物語に寛大な精神を持たせたかったという。

「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的価値観だけでなくね。」

ラグビーワールドカップの二の舞は避けたい

(略)

一方、昨年9月パリで開催されたラグビーワールドカップ開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。

アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽バゲットという出立ちで、1950年代フランスの村々を再現した模型自転車で巡り、ミルク絞りの女性ダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から時代遅れ陳腐フランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。

「ただの古臭い過去イメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家アイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから私たちセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」

フランス革命200周年

ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年フランス革命200周年記念式典を挙げている。

当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。

「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年ソ連中国天安門広場抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たち多文化フランスと呼ばれていたもの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」

数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗セレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。

結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。

それでも、暴力への抵抗必要性は残っている。

私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。

「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」

以下私なりの見解(読まなくてもいい)

なんでマリー・アントワネット

と思っていたけど、セーヌ川コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。

最後の晩餐のシーン

開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィア存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから真正からね。

要は、暴力クィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリ包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。

2024-07-28

平和の祭典なのに〜とか言ってるやつら

あんハッピークィア表現や、グラン・ギニョール風のかわいらしい悪趣味劇程度で拒否反応示してるひとびと見てると、ほんと日頃から常識的資本主義最適化された歯ごたえのない創作物ばっかり見てんだな〜、そら美術とか誰も見ないし興味ないわな〜と思わされる

てか批判してるやつ、だいたいネットに流れてくる画像切り貼りのまとめしか見てなさそうだし、ほんまくだらん。

単に自分のクソ狭い常識と好みの埒外からって「平和の祭典なのに〜」とか「アジア軽視〜」とかお題目つけて苦言を呈してるつもりの人たちは、イスラエルがふつーに出てることや、パリ路上生活者が立ち退きさせられてることや、現代パリにたくさんいるムスリムたちが無視されてることにこそ問題意識を向ければいいのにね

  

2024-07-10

anond:20240710222959

クィアペドフィリアを含んでいることは、クィア理論の支柱となった文献をみれば明白なんだよね。

以下はトランス教祖の一人、ゲイルルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティ政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)、クィアスタディーズにおける超重要文献から抜粋だ。ちなみにルービンは同じくトランス教祖ジュディス・バトラーの師だ。

1950年代共産主義者同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティック指向性はおろか、市民自由擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応魔女狩り犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。

原文はこちら。

https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf

明らかにペドフィリア擁護しまくっており、同性愛と同等の位置に置いていることが分かる。

ペドフィリアをLGBTQに含むのは右翼陰謀なんかではなく、クィア理論の基本中の基本なのだ

anond:20240710160417

いろんな経緯があるが、基本的には同性愛擁護するリベラルと、ペドフィリア擁護する資本家悪魔合体性自認主義なんよ。

同性愛は本人同士の選択問題なんだから自由だろ、というのはリベラル理論としてわかる。

ところがそこへ性的規範を攪乱させたいルービンやバトラーといったポストモダン学者が合流し、クィア理論をつくった。

クィア理論ではあらゆる性的自由擁護されるので、当然ペドフィリア擁護される。

子どもでも性的成熟を自認すれば大人と同じというのが性自認主義からな。

資本家連中は若い子女セックスしたいので、人権擁護の体でクィア理論支援した。

そういうわけで、本来は広まりにくいはずのマイナー変態理論が、資本家欲望と合体することで一気に世界に広まってしまったんよ。

2024-06-10

きょうのとらつばで

轟がゲイなのを忖度だなんだとケチつけるやつらうるせえーーー!

セクシャリティ忖度もクソもあるか、昔から今日までみんなここにいるんだよ

脚本からゲイ設定なら轟ははじめからゲイ

展開が唐突だったというのも無自覚差別だというのもうるせえーーー!

構成が弱いんじゃという批判差別、なわけあるか。クィアリーディングエンパワーメントけが正解なのも困る

思想強いとかポリコレとかの冷笑もうるせえーーー!!

思想が強いことや社会派作品のみならず、人の表現政治思想社会から逃れられないし、そこを汲み取る批評重要

どちらにしても、自分と違う他人検閲を! するな!

2024-06-08

anond:20230204124621

なぜか男性女性向けポルノ実践を薦めてしま文系おばさん

 

 

男を学び捨てる──弱さを認めない社会を超えて

現代日本文学クィアスタディーズフェミニズムトラウマ研究などを専門にする岩川ありさが、日本に未だ根強く残る「家父長制」について考える。

https://www.gqjapan.jp/article/20230420-arisa-iwakawa-column

では、このような現状をどうすれば変えられるのか。ヤマシタトモコマンガ『違国日記』(既刊10巻、祥伝社)は交通事故で両親を亡くした15歳の田汲朝(たくみあさ)と、叔母で小説家の高代槙生(こうだいまきお)がともに暮らす物語だ。朝は槙生と生活しはじめて、まるで違う国に住んでいるようだと感じる。

(中略)

第3巻で笠町は、「弱くてもいいんだ って 誰も言ってくれなかったし おれも思えなかったからね」と槙生に話す。この社会は、強くなれ、泣くなと学ばせ、弱い自分を殺させる。しかし、人はふとしたことで、痛み、傷つき、病み死ぬ。だからこそ、弱さを認めない社会を学び捨てることが必要だ。そして、ピラミッドの頂点、つまり、家父長制的な頂点を目指すような生き方を学び捨てることも求められている。「男」という言葉が持っている意味刷新しよう。家父長になるしかないという思い込みを捨てよう。つくられたものときほぐすことは必ずできるのだ。

2024-04-17

anond:20240417171324

エマとJKRの件、ファンほど辛かったですよね。女性格差のようなものも感じるし。この件エマ・ワトソンに同情的なんですよ。上流家庭生まれ世界子役インテリ大卒ハリウッドセレブみたいな経歴の人に、公衆トイレで寝泊まりしなきゃいけない女のことなんかわからないですよ……。エマにとってはクィア世界こそリアルなんだと思います

言ってしまえば「たかセレブ」という立場なのにフェミニズムリーダーとして売り出してるんだから底辺で生きる女たちと意見がすれ違うのは当たり前で。その辺JKRは知識人としての言動をした、ということだと思います経験値も知性も差がエグいし、二人を比べてエマを腐すのは気が引けるんですよ

もちろんJKRの洗練された知性と現実を見通す目、適切な時に適切なことを述べる賢さはさすが当代一の作家だと拍手を送りたくなりますし、私自身も彼女によって目を開かされた人間の一人ですが。なんというか、エマ・ワトソンもまた私たち可能性の一つだったのだと忘れずにいたいと思うのです

2024-04-12

anond:20240412113908

実際BLは非当事者じゃないのに書いてる事への批判が足りてない気がする

ヘテロならヘテロを書け

クィアベイティング概念はどうした

2024-04-04

anond:20240404194123

その辺は単純じゃないんよな

そもそもLGBT法を推進してるのは自民

これは米国ポチネオリベからであって、内容についてまともに考えてるわけではない

 

一方リベラルトランスアライは同性愛者の人権問題と同じだと勘違いして支持してしまっているものが多い

実際には、同性愛身体性別否定しないが、トランス身体性別否定するのでむしろ女性差別的だ

 

から多くの女性や騙されないリベラルトランス思想批判的になる

 

そしてネトウヨウーマンヘイターは、女性リベラル嫌がらせができるのでトランス支持の姿勢をとる

 

そもそもトランスなかには、トランスセクシャルといって身体違和があり治療のために手術をしたい人と、

トランスジェンダーと言って身体は変えずに異性の外見になりたい人がある

 

トランスセクシャルはいわゆる性同一性障害GID)といわれるが、トランスジェンダーは身体を変えたくないので、

トランスセクシャルを敵視している

先日性犯罪幹部逮捕されたトランスジェンダージャパンは「くたばれGID」といってイベントをやっていた

 

また、トランス思想的な背景はクィア思想だが、

この思想元祖であるルービンやバトラーペドフィリア擁護しているので、ペド層もトランス支持になる

 

2024-04-03

風真いろはラプラス・ダークネスエイプリルフールネタファンとして本当に悲しい

https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/2309953/

昨日のはてブでもホッテントリに入ってたこれなんだけどさあ。

ジェンダーだのリベラルだのクィアベンディングだの、わざわざそう難しく考える話じゃないよな。

ただ、人が嫌がることはなるべくやめようね!ってだけの話じゃん。

しかも、人から好かれることで食ってる人気商売人間ならなおさら

だいたい、バーチャルYouTuberカバーも、最初は何やってるか理解されなくて世間から雑に扱われて嫌な思いしてきたわけじゃん?(今もそうかもしれないけど)

それと何が違うんだよ。

自分達が人に嫌な思いさせる側になるかもしれないと疑うことってそんなに難しいか

これをやる表現の自由を認めるべき!じゃないんだよ。

要するに、人が嫌がることを大した理由もなくやっていい社会理想だって言ってんだよな?

仮にそんな社会が到来したとして、真っ先に血祭りにあげられるのは俺達みたいなバーチャルYouTuberファンだろ。

バチャ豚だのチー牛だの言われても許容しなきゃならないんだぞ?

人が嫌がることやり放題なんだから

でもそんなの嫌だろ?

結局、どいつもこいつも自分が嫌がることはNGで、他人が嫌がるけど自分はそうではないことはやってもいいと思ってんだろ?

俺は嫌な思いしてないか

それにお前らが嫌な思いをしようが俺の知った事ではないわ

だって全員どうでもいい人間だし

大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん

それはリアルでの繋がりがないか

まりお前らに対しての情などない

まさにこれじゃん。

この考えが許されるって本当に思ってんの?

あれを批判せずなあなあで済ませるってことは、僕達は人に嫌がらせするのが大好きなクズ人間でーす!って大声で自己紹介してるようなもんなの。

2024-04-01

anond:20240401125140

これに数年前と今では違うって意見があるかもしれないけど

実際は女性V同士のクィアベイティング文句を言ってた奴らが男性Vには普段から夢中な上に

その男性V同士のクィアベイティングには全く文句を言わず今も応援続けてるから

ガチダブスタなんだよねぇ

んで文句を言ってた奴の筆頭がダブスタ指摘される余りにXのアカウントを転生にしてサブ垢で活動し始めたのが笑える

anond:20240401125955

アップデートした結果、クィアペンディングとか言い出すのは言い過ぎってことになったんだよ

anond:20240401125833

クィアティングに関しては数年前でも十分批判対象だったと思うが

しか人権かにうるさいライターがそこだけスルーって意図的以外あり得んだろ

エイプリルフールネタ同性婚を取り扱うのはクィアベイティングってやつ

エイプリルフールネタ同性婚を取り扱うのはクィアベイティングってやつ

数年前にハイロー出てた若手俳優がこれを機に売れようとナマモノ腐女子ファン釣るために

共演した俳優と「結婚しました」投稿して万バズしてたし

その時はいつもなら意識高いこと言ってる女の映画オタクアカウント

大喜びでRTしてて誰も苦言呈したりしてなかったり

エンタメジェンダー人権について度々言及して

男のライターと違って信頼できると言われてるLDHヨイショが激しい女性ライター

その若手俳優を気に入っててインタビューしたあと現在に至るまで持ち上げまくってるけど

そのクィアベイティングに関してはダンマリだったりしてるので

結局誰がやったかなんだよね

Vtuber女性声優百合営業は許せないけどイケメン若手俳優がやるのはスルーできる

2024-03-30

anond:20240330204631

もともとトランスとかクィアってのは社会規範をぶっ壊すという思想なんで、暴力的なんよ

トランスジェンダージャパン性犯罪やら『くたばれGID』みればわかるやろ

地金が出てきたんやね

https://note.com/maikokarino/n/n5ab159bc27a7

2024-03-16

作品批判全然あっていいけれど、クィアベンディングってのはただの難癖なんだよなあ

水星魔女なんかも政略結婚なんて男女だろうが破局するのがセオリーなんだから本来結婚しないのが正しい結末だったのに

声の大きい百合豚はそれが全く分かってなかったからな

コメント

2024年3月15日19時33投稿

視点】お三方鼎談の中で、「クィア」「当事者」という言葉がよく出てくるが、当然ながらクィア当事者でも全く一枚岩ではなく、見る角度や目線はそれぞれ大きく異なるという点は指摘しておかなければならない。

はいわゆるクィア当事者の一人ではあるが、記事中の「当事者たちから批判の声」とは全く違った感想を抱いている。

私は、この「怪物」という作品から、他の映画作品では到底感じたことがないほどの深い慰めを受け、勇気を受け取った。

まり予備知識なく初めてこの「怪物」を映画館で観て、大きな衝撃を受けたのは、昨年の夏。

それから残業の合間に幾度もレイトショーで深夜の映画館に足を運び、その度に打ちのめされ、そして不思議勇気と自信を得て帰る、という経験を繰り返した。

この作品は、確かにクィア登場人物たちを描いている。

だが、決して「クィア」や「LGBT」という明確な切り口から描いてはいないし、むしろ普遍的物語」として描きつつ、しか当事者たちを取り巻く状況についての勘所は押さえた上で描かれていた。

からこそ、クィア当事者である私に刺さったのだ。

今や私たちは、とにかく「LGBTQの人」といったカテゴライズをされがちだ。しかし、「LGBTQ」という言葉は、一方で当事者たちの連帯を生む概念でもあり、他方で、その外側から安易カテゴライズの道具として使われがちでもある。

だが、私たち個々の人生も生きざまも実に多様で、平凡で、そこにあるのは、普遍的な一人の人間像でしかない。

そして、とりわけ思春期以前の当事者にとってのそれは、LGBTQという言葉では言い表せない、「名前のない何か」だ。

怪物」という作品は、そこに安易名前を付けることなく「普遍的な何か」として描いたからこそ、私自身も子どもの頃に感じていた、得体の知れない怪物のような何かを生々しく描けたのだと思う。

私はむしろ、この作品が、クィアLGBTQという要素を全面的に出してプロモーションしていたならば、かえってありがちな陳腐ものになってしまったのではないかとすら思っている。

そしてラストシーンについても付け加えておきたい。

鼎談でも上がっているように、ラストシーンに「死」のニュアンスを感じ取った観客もいたようだが、私は全く逆で、自分肯定できた子どもたちの「生」への祝福に感じられた。

そして、その後は描かれなくて正解だったろう。

その後の人生を作っていくのは、嵐を乗り越えて自己肯定した当事者それぞれであり、私たちそれぞれだからだ。

私もかつて嵐のような何かを乗り越えて、今こうして生きていることを、「怪物」という作品は思い出させてくれた。これほど勇気と自信を与えてくれた作品は他にない。

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