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この意見は、クィア運動がポストモダン思想の影響下に生まれたとする認識に対する疑問や批判を述べており、歴史的な視点からいくつか妥当な点がありますが、若干の曖昧な表現や不正確な点も含まれています。
妥当な点
クィア運動がポストモダン思想と完全に依存関係にあるわけではなく、ポストモダン思想が現れる以前から同性愛者やトランスジェンダーなど、性的マイノリティが存在し、彼らの権利を求める運動も歴史的に展開されていた点は事実です。特に1969年のストーンウォールの反乱は、こうした運動の象徴的な瞬間とされ、以降のクィアコミュニティの活動に影響を与えました。
ジュディス・バトラーのようなクィア理論家がクィア運動の根底を形成したわけではなく、クィアコミュニティの中で自然発生的に進展した権利運動があり、それを学問としてまとめ上げた形がクィア理論とされています。バトラーもまた、既存の運動に触発されつつ、理論を構築しました。
フェミニズムやクィア運動の参加者が必ずしも関連する哲学や理論を学んでいるわけではない点も的を射ています。社会運動は必ずしも学術的理論に支えられているわけではなく、生活や経験に基づくリアルな問題解決からスタートすることが多いです。
クィア運動とポストモダン思想の関係を完全に否定している点は、若干極端に感じられます。ポストモダン思想、特にデリダやフーコーなどの影響を受け、1980年代から90年代にかけてクィア理論は発展しました。これにより「セクシュアリティ」や「ジェンダー」が社会構造や権力関係の一環として分析されるようになり、運動の理論的基盤が強化されました。クィア運動の実践が学問的に整理され、クィア理論が拡大したことで、社会に対する批判や改革のためのフレームワークが明確化した面もあります。この点で、ポストモダン思想をクィア運動の「産物」とまで言い切るのは誤りですが、関連性を無視するのも偏りがあるでしょう。
クィア当事者が社会的に疎外されても自由に生きられるという意見もありますが、現実には多くのクィア当事者が差別や偏見にさらされ、社会的支援を必要としています。孤立が深まると生活や精神面で困難を感じることも多いため、社会からの孤立が「普通に生きる」ために望ましい選択とは言えません。
社会運動と学問的な理論の関わりを一部の「知的エリート」に限定する点も、一面的です。学問的な理論は運動において重要な役割を果たし、政策提言や社会への理解促進に寄与しています。運動の根拠や道筋が理論によって補強されることで、社会的な認知度や影響力が増すことも少なくありません。
まとめ
この意見は、クィア運動がポストモダン思想の「産物」であると単純化する見方に対しての反論として、一定の妥当性を持っています。とはいえ、ポストモダン思想が運動に与えた影響も確かに存在し、運動と学問が互いに影響し合いながら発展してきたことを踏まえると、双方の関係を単純化せずに捉えることが重要です。
クィアな運動がポストモダン思想の産物とか言ってる奴、本気か?レヴィ=ストロースの「野生の思考」とかが70年代だろ?今で言うゲイ、ブッチレズビアン、トランスジェンダーが一緒になって警察の不当逮捕に反乱を起こしたストーンウォールの反乱が1969年で、当然それ以前からその辺りの地域にはクィアな連中が集まってた。ていうか、ストーンウォールだって別にゲイ解放運動の最初の試みでさえない。
クィア理論という枠組みが学問として提唱され出したのはデリダ以降あたりだろうけど、クィアな人々の存在とその人権運動はそれ以前から脈々とあって、今のプライドパレードとかダイクマーチとかトランスマーチとかは、ストーンウォールからのそうした運動の流れだろ。だいたいバトラー読んでるなら分かると思うが、バトラーの思想があってクィア運動が生まれてるのでなく、当時のクィアコミュニティの運動を下敷きにしてバトラーが議論してるという逆の方向だろうが。
ていうか、クィア当事者の大半はポストモダン思想もクィア理論もそもそも知らねえし興味ねえよ。女性の権利運動がフェミニスト哲学から生まれてるわけでもないだろ?学問分野としてそんな研究がなされる以前からサフラジェットとかの運動はあったし、権利運動に関わる大半の女性は別にフェミニスト哲学とか学ぶこともなくやってるはずだ。クィアも同じだよ。哲学とか理論とか、そんなの一部の知的エリートが携わってるだけだ。もちろん勉強するにこしたことはないけどな。
ゲイル・ルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)、クィア・スタディーズにおける超重要文献からの抜粋。ちなみに弟子のバトラーも親による子の虐待を正当化している。
1950年代の共産主義者や同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティックな指向性はおろか、市民的自由の擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察、FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応な魔女狩りの犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。
原文はこちら。
https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf
ジェン・アイザクソン「フーコーからサンフランシスコへ――クィア理論の不変のルーツ」
https://appinternational.org/2021/09/10/izaakson_from-foucault-to-san-francisco/
本稿は、イギリスのラディカル・フェミニストでマルクス主義者でもあるジェン・アイザクソンさんが、彼女の主催するサイト「On the Woman Question」に掲載された論文の全訳です。著者の許可を得て、ここに掲載します。クィア理論が本質的にペドフィリアを肯定するものであり、欧米左翼とアカデミズムがクイア理論によって蝕まれ、それがいかに政治的に危険であるかが明らかにされています。
クィア理論の成立を画するのは、ゲイル・ルービンが1984年に発表した「性を考える――性の政治学のラディカルな理論のための覚書(Thinking Sex: Notes For A Radical Theory of the Politics of Sexuality)」という広く知られている文書だ。
ルービンは「セックスを考える」の中で、子どものセクシュアライゼーションに反対するのは「エロティック・ヒステリー」であり、一種のリビドー的に引き起こされた道徳的パニックであると主張している。これは、性的境界線を保護することを求めるセックス・クリティカルなフェミニストを、性的に抑圧された堅物にすぎないとする例の古典的考え方と同類だとみなしうるだろう。
左派はクィア理論を採用することで危険を冒している。というのもそれは、ペドフィリア擁護論にもとづいているだけでなく、今なおその軌道がペド的起源からそれほど離れていないからだ。
下着メーカーのワコールがトランスジェンダーに加えてクロスドレッサー(女装者)まで顧客として対応する方針を出したことで主にシス女性が反発しているけど、昨今の多様性尊重とかDEIとかの流れからすれば社会的責任を求められる大企業がこういう判断を下すのは必然であって、他の国内下着メーカーもワコールに追随するだろうし、日本社会が全体としてこういう「ポリコレ」な方向に進むのは止められないでしょう。
今まで「ポリコレ」な変化というのは、女性やゲイに対する差別撤廃や社会参画といったマイノリティの権利向上によって、マジョリティのシスヘテロ男性が既得権益を奪われると感じて反発する変化が多かったが、いよいよシス女性の既得権益を(シス女性と比べれば相対的にマイノリティである)トランス女性に奪われると感じる局面が来たようである。
個人的にはLGBTQ+の権利が認められようが僕が何かを奪われる感じは全くしないので別にいいのだけど。
今回のようにトランスやクィア(女装者はこっちかな?)の権利が認められることで剥奪感のような気持ちを覚えた人にとっては日本はどんどん住みにくい国になっていくだろうから、価値観のアップデートというやつをするか、さもなければ海外移住をする覚悟は必要そう。
もっとも西洋的な「ポリコレ」を拒否している国って、ロシアとか中国とかイスラム圏とかだろうから、普通の日本人が移住して快適に暮らすのはなかなか難しそうである……
ジェン・アイザクソン「フーコーからサンフランシスコへ――クィア理論の不変のルーツ」
https://appinternational.org/2021/09/10/izaakson_from-foucault-to-san-francisco/
本稿は、イギリスのラディカル・フェミニストでマルクス主義者でもあるジェン・アイザクソンさんが、彼女の主催するサイト「On the Woman Question」に掲載された論文の全訳です。著者の許可を得て、ここに掲載します。クィア理論が本質的にペドフィリアを肯定するものであり、欧米左翼とアカデミズムがクイア理論によって蝕まれ、それがいかに政治的に危険であるかが明らかにされています。
クィア理論の成立を画するのは、ゲイル・ルービンが1984年に発表した「性を考える――性の政治学のラディカルな理論のための覚書(Thinking Sex: Notes For A Radical Theory of the Politics of Sexuality)」という広く知られている文書だ。
ルービンは「セックスを考える」の中で、子どものセクシュアライゼーションに反対するのは「エロティック・ヒステリー」であり、一種のリビドー的に引き起こされた道徳的パニックであると主張している。これは、性的境界線を保護することを求めるセックス・クリティカルなフェミニストを、性的に抑圧された堅物にすぎないとする例の古典的考え方と同類だとみなしうるだろう。
左派はクィア理論を採用することで危険を冒している。というのもそれは、ペドフィリア擁護論にもとづいているだけでなく、今なおその軌道がペド的起源からそれほど離れていないからだ。
まず、「定義的におかしくなる」という指摘は、クィアという概念の範囲とその含意についての議論に基づいています。この議論は、クィアという用語が本来指す範囲が広義であること、つまり「正常」とされない性的指向を包括するため、ペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアなども含むべきであるという論点に関わるものです。ここで焦点となるのは、社会的に「正常」とされるか否かであり、性的同意の問題とは異なる概念です。
性的同意の有無は重要な倫理的かつ法的な要素ですが、この文脈において議論されているのは、性的同意とは無関係に「クィア」という言葉の適用範囲がどこまで広がるべきかという問題です。「定義的におかしくなる」という主張は、性的同意の有無ではなく、クィアという概念が本来持つ意味の一貫性や範囲についての議論であり、これに対して反論するためには、その意味論的な広がりとその正当性についての理解が重要です。
したがって、この文脈では「性的同意があるかどうか」という要素は、本来の議論の焦点ではなく、クィアという概念の定義やその社会的・文化的な適用範囲を巡る議論が主題となっているため、性的同意の話に持ち込むこと自体が議論をすり替えるものであると言えるでしょう。