はてなキーワード: 登場人物とは
登場人物をガッチャンコしたり、設定とかストーリーを変えたりもないし、絵だから見た目も変わらない。
ケチの付け所としては声がイメージと違うくらい?といっても慣れるしな。
ハズレってのがどういうのか知りたい。
小説の登場人物が他のゲーム、マンガ、アニメのキャラクターに脳内変換される
この前ウェルズのタイムマシン読んだら、地上人のエロイたちは地底人モーロックに襲われるので夜は外で眠らないっていう設定があって、それ以降白ピクミンで変換されて困った
担当編集者は口を酸っぱくして「アニメは二次創作!アニメは二次創作!コミカライズも二次創作だからな!」というのを口を酸っぱくして言っていた。
・キャラデザチェック
・脚本チェック
・色関係のチェック
・アーティストのチェック
・コンテチェック
・アフレコチェック(あと、1回だけ効果音やBGMつけるところにも参加した)
・グッズチェック(見本が大量に送り付けられてきてウザい)
・描き下ろし各種
自作品がアニメになることで純増したのはこの辺の仕事。作家さんによってはもっと色々チェックしている人もいるだろうし、逆に俺はそこまで見させてもらってないけど?って人もいるだろうけど。
ちなみに勿論無給。(それに対して文句を言っているわけではないし、報酬を渡されても困る)
担当氏はアニメ化作品をいくつも手掛けている人間で、「普通作家さんにはここまでお見せしないのですが先生だけ特別」とかなんとか言ってすごいチェック物を送りつけてきつつも、
「そんなもん俺わかんねえよ」みたいなところは「まあここはお任せってことでいいですよね」で気持ちよくスルーさせてくれた。
てか、コンテとかキャラデザとか脚本とか見せられてもわからないんだよね。オープニングとかエンディングの歌手も言われても正直わからない。
「今をときめく歌手」じゃなくて「業界内で次にくるとされている歌手」を起用されたし。(ちなみにその後本当に有名アニソン歌手になった)
アフレコで、「このキャラってこういう演技でいいですか?」って言われても全然わからん。担当氏はバリバリ演技指導しててすげえなって思った。
勿論チェックで、「ここはこうで」とか「これはイメージと違います」ってのは伝えさせてもらったけど、実のところ、それで完成品のクオリティが上がったのかはよくわかっていない。
俺はアニメ脚本のプロじゃないし、映像のプロじゃないし、デザインのプロじゃないからだ。
作画関係、神作画になってほしいなーって言ったけど、担当氏はそれはうちでコントロール効くところじゃないから無理と一刀両断だった。
話に関してはバレるからあんま言いたくないけど、オリジナル展開も結構挿入され、それがかなり好評だったので地味に凹んだ。担当氏は「そんなもんだよ!」みたいな感じで笑ってたけどね!
とにかくメディアミックスはみんなが思っているより大変で、地道なもので、どの領域にどの程度口を出せばどういう修正になって、どういう完成品になるのかまるで想像がつかない。
お互いがお互いを尊重するといえば聞こえはいいが、それはお互いの仕事の妨害に直接的につながっていく。だからこっちも発言は配慮したし、向こうも投げてくるものは配慮がある。
「原作者に荒神みたいになられても困るんだよね。祈るしかないから」とは担当氏の言だが。
原作通りにという思いはみんなあるだろうけど、その負担が作家や出版社側にいかないような形にして欲しいね。
あと、第三者委員会に監修を委託とかは大反対。登場人物を増やして調整を増やすことに意義があるとは思えない。
上にも書いたようにただでさえ調整の仕事多いんだよ。でもこれを第三者に委任する気にはなれない微妙な原作者心もわかってくれ。担当氏ならいいけど、第三者は嫌だ。
まあ、俺はあと3作品、5作品とアニメになるような作品を作る気でいるし、いつか自分が満足するものに当たればいいやという気持ちでいるので、その節は皆様よろしくお願いします。
(追記)
音響監督が担当氏と俺にキャラクターの演技がイメージに合ってるか聞いてくる。
誤解を招き申し訳ない。
(追記2)
契約書、読むのがめんどくさいんだよな。
CG屋でありMV監督などをメインに行っていた曽利文彦が監督を、宮藤官九郎が脚本を務めた。
監督、脚本の外連味溢れる演出、窪塚、中村獅童らの怪演が松本大洋の大仰な作風の再現に一役買っている。
5巻分を2時間の映画に収めるために設定や展開に一部変更があるが、漫画の実写化の成功例に挙げられることが多い。
「ハゲタカ」などの大友啓史が監督、香港でドニー・イェンの盟友として鳴らした谷垣健治がアクション監督を務める。
脚本部、コスプレ感、牙突に難を抱えながらも、香港映画さながらのアクションシーンが高く評価された。
GANTZやアイアムアヒーローの佐藤信介が監督、1年にわたる脚本会議には原作者も参加した。
映像にこだわり中国でのロケを敢行したり、アクション、合戦シーンのこだわり、顔が似ているだけじゃない配役など
前述のるろうに剣心同様、ちゃんとかけるべきところに金かけて映画撮れば行けるんやぞという気概を見せつけた。
藤原竜也、松山ケンイチの怪演が話題を呼び前編28億、後編52億という異例のヒットを飛ばした。
制作は突貫に次ぐ突貫で「前編制作時には後編の脚本案すらゼロ」「クランクイン直前に松山ケンイチが決まる」「前編の編集をしながら後編の脚本を書く」など非常に難しい状態で作成されていたが概ね好評。
福田組特有のコスプレ感、メタネタ、くどいギャグ、大げさな演出などが銀魂の作風と大いにマッチしており大ヒットを飛ばした。
後にのだめカンタービレなどの監督を務めるドラマ監督の武内英樹が監督。
ヨーロッパを舞台にしながらも顔の濃い日本人役者を「ローマ人」役として大胆に起用するギャグ的な要素と
ローマでのロケや、海外のスペクタクルドラマ「ROMA」のセットで撮影を行うなど本格派な映像がマッチし好評を博した。
すげー売れたし映画化もした
すげー売れたし映画化もした
花より男子の枠は元々のだめカンタービレのドラマ化の予定だったが
テレビ局がジャニタレゴリ押ししたため、原作者がドラマ化を拒否。
困ったTBSが、せや花より男子の版権あるやん!と急きょ座組を組みなおし2か月で撮影した。
個人的選外
映画としての出来はいいと思うんだけど原作が好きすぎて実写化としてはあんま認めてない
でもすげーヒットしたしパヒュームがすげーよかったので成功例にしてもいい。
邦画特有の登場人物がすげー馬鹿になる現象が発揮されすぎてて個人的には微妙
1は別に悪くもなければよくもない普通の映画だけど2が酷すぎたので。
いや、うん
個人的に好き
『ROOKIES』がTBSテレビでドラマ化される前に日本テレビからドラマ化のオファーがあったものの、川藤以下登場人物の名前を読売ジャイアンツの選手に変えることを条件にオファーを出されたために辞退したことがある[14]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%AE%E3%82%8A
草
お疲れ様にござる。増田殿に代わって、誰が悪いのかを妄想で押し付けるブクマカ共に、誰が悪いかの正解を講釈して進ぜよう。
この件の責任は100%出版社にある。他の登場人物の責任を全部足しても0.何%にしかならぬ。
マンガ家サイドが自分の見聞した範囲ですべて真実を書いていたと仮定すれば(そうでなくても出版社の責任は変わらないのでこの仮定は実は不要)、出版社は
「(実現出来るはずのない)条件をのませた!」
とマンガ家に嘘をついていたとしか解釈できぬ。伝言ゲームで実際の契約内容が違っていたパターン以外に、実際の契約書の文言にそのような条件が盛り込まれていたパターンでも、会社間・部門間の力関係でそれを実際に行使するのは至難であると理解してない編集者がいたら、社会人失格レベルの無能にござる。
テレビ番組とは、局以外にも、スポンサー・代理店・事務所・出演者・BPOなどなど、無数の人間が関わる大伽藍のような物にござる。それを、原作者の思惑だけで全部ぶち壊せるというのは、法理上そうなっていても、現実的とは言えぬ。実際に企画が走り出して枠が決まってしまったら、立ち止まることは許されぬ。マンガ家個人の担当編集者以外は、全員、この企画を回して無事に放送を終えることを最優先に行動するほかなくなるのでござる。
マンガ家に出来ることは編集者を通じて要望を出すことしかなく、編集者が100%マンガ家の味方をしようとしても、映像化に合わせて色々と企画を立てているであろう社内の各部署が味方になってくれる可能性すらそれほど高くはござらん。雑誌の看板作品であれば編集部は味方になってくれる可能性はあるやもしれぬが、テレビ局との窓口になっている部署は、当然、局の顔色を窺うであろう。そういう仕事であって、個人がどうだったとか考えて始まらぬ。
「作者にどんな不満があっても、なんとかなだめすせば放送を終えることができるだろう」と担当編集者以外の全員(あるいは、担当編集者を含む全員)が考えていても、何ら不思議な事ではござらぬ。それに、何かの間違いで、今回の事案に限っては出版社が全社挙げてマンガ家の味方をしていたとしても、やはり責任の100%は出版社にある。
その場合の最適解とは「原作を尊重したドラマ化など現在の情勢ではほぼ不可能だから、今回の話は惜しいですがなかったことにしましょう」と誰でも分かる常識的判断を下すことでしかなく、あるいは、本読みの初期段階で「やはり無理なので原作を引き上げます」と撤退することにござる。それまでの数々の先例から考えれば、守られる可能性が極めて低い約束を結べたなどとマンガ家に告げて、徒に疲弊させることではない。
最後のブログへの投稿に至っては言語道断である。出版社はなんとしてでも止めるべきであり、マンガ家を守るため、出版社名か、それが無理ならせめて編集部名で何らかの説明を出すべきだった。それをせずにマンガ家個人に情報発信させるというのは、最悪中の最悪手であり、先の仮定『何かの間違いで、今回の事案に限っては出版社が全社挙げてマンガ家の味方をしていた』可能性は、やはりゼロだと考えるほかない。社内政治だか局との関係だかなんだかを優先して、本来やるべきだったことを怠り、守るべきマンガ家を悪意の中に抛擲したとしか言えぬ。
この後、第三者委員会が作られて真相が解明されるかはわからぬ。分からぬが、仮に、何かの間違いで、出版社が本当に作者に説明したとおりの内容の契約書のもとにメディア化を許諾し、それを守らせようと最大限努力していて、局の側もそれを誠実に守ろうとしていたのに、ひとり脚本家だけがそれに逆らっていた、という子供の正義感を刺激するような話が結論になったとしても、それは出版社を免責する物ではない。そしておそらく、真実はそんな簡単な話ではなかろう。人の噂も七十五日。報告書が出る頃にはこの件で騒いでいた人間は何も覚えておらぬだろう。今はただただ故人の冥福を祈るのみである。合掌。
漫画原作のテレビドラマにおいて、メディアに合わせた原作の改変は必要不可欠である理由は多岐にわたります。異なるメディアはそれぞれ独自の特徴や表現手法を有しており、原作を忠実に再現するだけでは視聴者に響かない可能性があります。以下に、この主張の背後にあるいくつかの理由を探ります。
第一に、漫画とテレビドラマは視聴者に情報を伝える手段が異なります。漫画は静止画を通じて物語を進め、読者は自らのペースで進行を制御します。しかし、テレビドラマでは時間と映像が制約され、瞬時に情報を伝える必要があります。このため、漫画からドラマへの適応においては、ストーリーの要素や登場人物の性格を調整することが必要です。メディアに合わせたテンポや伝達方法の工夫が、視聴者により深く訴えかける手段となります。
また、漫画とテレビドラマでは視聴者との関わり方が異なります。漫画は一人で静かに読むことが一般的であり、読者は自身のペースで物語を消化します。しかし、テレビドラマは多くの人が同時に視聴する媒体であり、共感や感動を共有することが強調されます。原作の改変によって、視聴者とより深い共感を生む演出やストーリーの変更が可能となります。
さらに、漫画からテレビドラマへの移植においては、映像表現の力を活かすことが求められます。漫画では描写が限られている中、テレビドラマでは音楽、演技、映像など多様な要素が組み合わさり、より豊かな体験が可能です。このため、原作の改変を通じて視覚的な演出や音響効果を活かし、物語に奥行きや感情の深みを与えることが重要です。
原作の改変はまた、新たな視聴者を引き込む手段ともなります。漫画原作のテレビドラマは、原作ファンだけでなく、新たな視聴者にもアピールする必要があります。時には原作とは異なる展開やキャラクターの変更によって、予測不可能性や新鮮さを提供し、広範な層に愛される可能性が高まります。
最後に、制作上の制約も考慮すべき点です。特に長編漫画をドラマにする場合、全てを忠実に再現することは困難であり、短い時間内で的確に伝えるためには適宜の改変が必要です。これにより物語の要点がしっかりと描かれ、視聴者にとって理解しやすいものとなります。
総括すると、漫画原作のテレビドラマにおいては、メディアに合わせた原作の改変が不可欠です。異なる表現手法、視聴者との関わり方、映像表現の利用、新規視聴者へのアピール、制作上の制約といった要素を考慮し、オリジナリティを損なうことなく、より良いエンターテインメントを提供するためには、柔軟なアプローチが求められます。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2215085
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2268123
どうせ失敗するし中身もダメだと思ったんだろうね
その鋭い考察力、これからも生かしてブックマーカーを続けてください
楽しみにしています!
だからみんな期待するなって。オオゴケするから。人気あるコンテンツは壊すのが日本の慣わし。製作委員会が一発屋で儲けてお終い。そんな奴らを世代交代させるべきなんだよ。
監督がハイローの人だし、ちゃんとした映画を作るつもりは端からないと思われ。
ターゲットが山崎賢人が好きな層だからなぁ。キャスティングを含め、リアルである必要はないんだろうな。not for meや。
こんな低レベルな画作りばかりしてるから邦画は世界で売れないんだろうね。
今の日本映画は、服どころか脚本から始まって映画制作の全てが小児病なのよ。カワイイ!イケメン!の所から人選が始まり、生活感がみじんも感じられないマンガの登場人物ばかり(笑)。ないものはない、期待するな。
何を読んでそのコメントになったかわからないけど再放送しておきますね
日テレの公式垢が最終回の批判コメントに『いいね👍』を付けて回ってたみたいなのでお望みの結果じゃないでしょうか
まぁ批判コメント書いた人の良心に訴えるとか、すべてのコメントに『いいね👍』をつける運用だった可能性もワンチャンありますけど、
最終回に肯定的なコメントに『いいね👍』をけっこう付け漏らしてたみたいで、SNSではこえぇぇぇぇって言われてますわね
https://x.com/twmybwb1zh8y8zl/status/1752317299493830688?s=61
そこに来てあのコメントでしょ?
日テレの公式垢が最終回の批判コメントに『いいね👍』を付けて回ってたみたいなのでお望みの結果じゃないでしょうか
まぁ批判コメント書いた人の良心に訴えるとか、すべてのコメントに『いいね👍』をつける運用だった可能性もワンチャンありますけど、
最終回に肯定的なコメントに『いいね👍』をけっこう付け漏らしてたみたいで、SNSではこえぇぇぇぇって言われてますわね
https://x.com/twmybwb1zh8y8zl/status/1752317299493830688?s=61
そこに来てあのコメントでしょ?
8話までで既に登場人物たちが本来原作者が描きたかったのとは違うキャラクターとしてもう動いてしまっていて、そこから急ブレーキも方向転換も叶わなかったんじゃないかな。
それまでドラマの中で描かれた「人間としての成長」みたいなものが、原作者が構想していた速度感と合っていなかったり、方向性が没個性的で型に嵌った(もしかしたら、薄っぺらいと言っていいかも)ものだったのかなと。
基本全部好きというのは前提で
・天
話が結構端折られてるし主人公のキャラが変わってるのに一番好き。ぶっちゃけキャストが発表された時はなんだこれと思ってしまった。特に赤木しげる(吉田栄作)のビジュアルは酷いと思った。でも実際見てみたらめちゃくちゃよかった。色気やべえ。
でんでんが曽我すぎる。ほっしゃん無駄に似てて爆笑した。話は色々端折りすぎだけどまあ仕方ない。
・カイジ
普通に好き。カイジの実写化映画というより藤原カイジの映画という認識ではあるけど。1作目以外は特にそんな感じ。
キャストみんな良い。なぜ登場人物が一部女性化するのかはわからないが天海祐希は世界観に馴染みすぎていて逆に違和感すらあって好き。
・アカギ(1995)
雰囲気めちゃくちゃ良い。アカギの棒読み感が逆にアカギらしいし目の演技が良すぎた。世代じゃないから分からなかったけどキャスト豪華なんだな。みんなかっこいい。
・アカギ(2015)
コスプレとしてのクオリティが高すぎて逆に不自然まである本郷奏多。鷲巣は賛否両論あったっぽいけど自分にはハマった。
素人意見なんだけどカメラワークやら演出やら音楽やら全体的に微妙な気がして少し残念だった。
・銀と金(1993)
ちょこちょこクオリティが酷いからこそ好き。銀さんのカツラすぎるカツラとか絶妙な滑舌の悪さとかVシネマ特有の女性が出てくる原作殺しのシーンとか謎BGMとか。
じんわりダサいのにかっこいいところがめちゃくちゃかっこいいの福本作品ぽくて良い。
・銀と金(2017)
嫌いではないけどなんかもどかしかった。一番チープ。
リリーフランキーの銀さんは銀さんぽくないけど好き。池松壮亮自体は好きだし福本作品には雰囲気合ってるんだけど森田としてはヒョロすぎるしちょっと合ってなくて可哀想な気がした。
アニメの剣士、銃弾を見切りがち。銃を撃つ前に肉薄して斬りがち。
アニメ放送以降、アニメ「スナックバス江」監督によるX(旧twitter)の投稿でそこそこの焚火が燃えているが、最近起こったドラマ原作者自殺に絡めた投稿でまた一ボヤ起こっている。
そもスナックバス江とは北海道札幌北24条辺りにある架空のスナックを舞台としたギャグマンガで、スナックの従業員の女性たちと様々な客(常連から異世界から紛れ込んだ一見さんまで)たちとの掛け合いを軸としている。
テンポのいい掛け合いや踏み込んだ突っ込み、ルビ芸のワードセンスが特徴の漫画で、ネットでは否定的な意見を見たことがないほどだった。
作中メタネタ的にアニメ化したら~とか自分の声優はこうだ~とかキャラ自身が出すことがあったのだが、昨年本当にアニメ化という話が出た。
個人的にはすごいよマサルさん、ギャグマンガ日和シリーズ的な感じのギャグアニメがようやく来るなととても楽しみにしていた。(+チック姉さんはまだあきらめていない。)
とても楽しみにしていたのだが、待望の放送を視聴したところ困惑するような出来だった。
Xでも指摘している人は少なくないがバス江で求められているのは強みであるギャグを引き立てる軽快な掛け合いだった。
しかしアニメでは現実でもありそうな場末のスナックでのうだつの上がらないおっさんがする間延びしたトークのテンポで、現実のスナックを描いた作品だったらあり得る会話劇だがギャグマンガにおいては致命傷にもなりうる遅さ。もともと内容がある話ではないので、アニメ「スナックバス江」のかみしめる様な会話の遅さだと全部素材が死んてしまう、というか死んだ。
個人的には3話まで見てから評価するようにしているのだが、待望の3話でバズった小ネタが出てきたが演出のせいで不発に終わりだめだこりゃと悟った。
スナックバス江の第一話はスナック行ったことがない真面目そうなスーツ姿のサラリーマンがスナックへ入るところから始まる。
そわそわしつつ入店して目に入るのはチーママがママを酒瓶で殴りつけた直後と思われる流血沙汰の現場で、リーマンとチーママは目を合わせるもののそこに一切の会話がない。
面白さ無視で読者までガツンと殴りつけるような導入だったのが、アニメの第一話導入ではカラオケboxで歌っている途中店員が入ってきたら気まずいという毒にも薬にもならないあるあるネタ。
カラオケネタも前後の話があったり登場人物の関係性が出来上がっていたからこそ、そこそこ面白かったのだが導入としては正直弱すぎる。
最初の指摘と合わさって監督のバス江についてどの程度理解しているのかが露呈してしまった。
監督はXでの投稿を見るとスナックのテンポや雰囲気を大事にしたい様子だ。確かに漫画では背景はほとんどなくキャラが酒をあおるシーンやカラオケするシーンは会話のアクセントでたまーに入るくらいだったがアニメ版は違う。
背景はスナック感マシマシでちょいちょいグラスの氷の音や酒をあおるシーンが出てくる。おまけにムーディなBGMが流れしっとりとした雰囲気が出ている。
酒を飲みながら視聴したらさながら自分もスナックにいるような雰囲気を味わえそうだ。
都会で評判のいいチャーシューやメンマやスタンダードと思われる具材が乗った大衆ラーメンを食べに行ったつもりが小皿にスープと麺がこじんまりと乗ってジャズだかクラシックが店内で流れている意識高い系のラーメンをお出しされた感覚だった。
実際好きなギャグマンガ原作のアニメではなくよくわかんない長尺FlashアニメとしてならBGM代わりにできた。
好きな原作だしということで食べたら食べたでまあまずくはないけど、求めているのとはまったく違う。もんじゃ焼きとゲボぐらい違う。
Xの指摘の傾向と自分の感想とどの程度近いか遠いかはさておき、バス江映像化について監督は
「あえての表現」
「スナックの良さを引き出している」
といった感じの主張をした結果ボヤ騒ぎ。個人的に主張はわかるんだがそれをバス江を使ってやらんでくれと思った。
そして序文の話。
どうやら今は投稿が消えているみたいだがドラマ原作者を非難した視聴者が原作者を自殺に追いやってしまったとし、視聴者たちを非難する投稿をしたようだ。
趣旨としてはクリエイターをもっと大事にしろというように受け取ったが、これは監督バッシングということがあってということなのだろうか。
いずれにしても独り相撲なクリエイターがSNSで自己弁護したらこうなるという好例をみることができた。
「原作ファンの求めているもの」と「監督が出したいとするもの」が違う事例は良くも悪くもほかの作品にも言えることで、特に監督の力が強そうな実写化では顕著に出ていると思う。
成功した感じなのはデスノートとかるろうに剣心とかカイジ(アニメも)とか、逆に上手くいかなかったのは進撃の巨人とかデビルマンとかだろう。
特殊なのは庵野氏によるリバイバル作品で、ゴジラやウルトラマンや仮面ライダーを見たいというよりは庵野氏解釈のそれを見たいということでおもしろいかつまらないかはさておき原作レ〇プみたいな話にはならないのだろう。
そういう意味では映像化するにあたり見せたい相手が監督ファンなのか、原作ファンなのか、その辺りをわきまえているかどうかがカギになると思う。
スナックバス江についてはほかの監督でリバイバルされるか、原作者による供養(映像クリエイターが本編に登場する回)をしてもらうことを期待したい。
どうしてだろうという思いをずっとしている。
私は一読者なので「そうか、芦原先生のあの素敵な作品の続きがもう二度と読めないのか」とぼんやり思っている。まだ本当に現実に起きたことなのかうまく受け入れられないでいるのだ。
本屋さんでなんの気なしに手に取ったことから始まったと思う。1.2巻だけ試しに買ったらとても面白くて母親と一緒に本屋に行くたびに買い足して親子ともども楽しんでいた。
読み始めた頃は小学生だったから正直全部を汲み取ったというより「そういうラブコメ」を見ているような感覚だった。藤くんかっこいいー、杏と大吾どうなるんだーみたいな。
でも次第に年齢を重ねながら読んでいくうちにこれはただの恋のお話ではないと気づく。主人公が何度もうまく生きれなくなる瞬間があって、その都度立ち上がったり、折れそうになったり、その生きづらさも繊細な強さにも何度も涙した。
多分砂時計を知っている人ならみんな思い浮かべるあの仁摩サンドミュージアム。
幼い頃に主人公が見上げたシーンも、大人になってから見上げたシーンもそれぞれとても印象に残っている。
主人公の記憶を追随したかった私は高校生のころ親にせがんで島根まで連れて行ってもらった。
幼少期の主人公は「たったこれだけの大きさか」と言っていたけれど私はその大きさに圧倒された。
「砂時計のあのシーンだ!」と何度も何度も上を見上げて感動の声を上げた。作品を読んでいたからこそその気持ちは何倍にも膨れ上がったのだと思う。
帰りに主人公が母親に買ってもらった同じサイズの砂時計を同じく母親に買ってもらい、とても嬉しかった。
大事に抱きしめて今でも箱まで取っておいてある。
そういう、私の私自身と、私の家族との思い出の中に砂時計はある。
それから以降の作品pieceもBread&Butterも読み、そして社会人になって「セクシー田中さん」に出会った。
正直めちゃくちゃ泣いた。
これは社会人の、いち女性であればあるほどすごく共感できてしまう漫画で、フィクションを越えて自分に置き換えて考えてしまう。とても大事な作品だった。
女性として生きていれば本当にどこにでもよくありそうな話がたくさんあった。砂時計とはまた少し違う、生きづらさがそこに描かれていた。
それでも登場人物の成長や、芦原先生によって紡がれる言葉に何度も励まされ、涙を流した。毎巻待ちきれずたまに雑誌を買うこともあった。そして実写化の話を知る。
正直私は実写化に反対だった。というのも全員キャスティングのイメージが違ったからだ。
キャストさんが悪いわけではなく、制作側が本当に本を読んだんだろうか?と思うほどあまりにもイメージが違ったのだ(漫画の田中さんはわりと骨っぽいイメージだけれど、演者さんは丸く可愛らしい感じだったりなど他にも言いたいことは山ほどある。)
それでも、私は一読者なので文句があるなら見なければいい、そういうスタンスだったためドラマの開始は知りつつも1話も見なかった。
知ってるキャストさんが何人か出ていて楽しそうにしていたけれど、「まぁイメージとは違うし、私には原作があるし」と対岸の火事だった。
だから本当につい最近まで何があったのかよく知らなかったのだ。
芦原先生のアカウントができたことを小耳に挟んでやったー!と小躍りで見に行ったらどうやらこんなことになっているようだぞ、と。
知らなかった。対岸の火事が一気に目の前まで広がって私は1人で勝手に怒り狂った。「やっぱりな!」「だから見てなかったんだよね!」「先生に辛い思いをさせるな!」など内心ぐちぐちしていた。
でもその時もこうなるとは思わなかった。
思うわけないじゃないか。
そう、だって私は芦原先生ではないので。ドラマすら見てない「対岸の火事」の人なわけで、芦原先生が辛い最中にいるとは知っていても理解していなかった。
私は見ないふりができるけど芦原先生はそれをせず向き合い続けなければならかった。
それをわかっておらず「私は原作派なので次の新刊楽しみにしてます」だなんて呑気に思っていたのだ。
火蓋が切られたのは脚本家さんのSNSだったように思う(もちろん原因はドラマ開始時から始まる、テレビ局含む地続きの話なのだけれど)。
本当にやるせない。やるせないでしかない。
もちろん誰かを責めるつもりはない。
SNSの怖さは知っている。軽く放った言葉はすぐに刃になってしまう。
先生の最後のツイートも、とても痛々しく胸に突き刺さる。だからこそやるせないのだ。
本当にたらればを考えてしまう。
ドラマ化の話がなかったら。
作者ではなく出版社が戦っていれば。
どうしてどうして。
どこかで誰かが止められなかったのかと思うけれど、何度考えても一読者の自分には何もできなかったと思うことが心苦しい。
同業の方々がそれぞれ悲しみの声を上げていて、
同じ気持ち(と言っていいかわからないけど)を抱えてくれてありがたいと思う一方で、自分勝手に辛くなってしまうのでSNSをそっと閉じた。
よくないとは思うが「会社」としてはそれぞれこれからのことを考えて欲しいと思う。
特に日本テレビの(正直自己擁護に見える)コメントには失望を超えて絶望した。
人の心ある?よくこの言葉を今言えたな、もっとほかに言い回しあったじゃん…本当にちゃんと考えてあのコメントを出したのか理解に苦しむ。
放つ言葉に責任を持って仕事をするのはメディアの仕事の範囲に含まれないのだろうか。
(まぁこんなことを言っても「一読者の私」の声なんて日本テレビには届かない。
問い合わせとかしたところでどうせ該当の人たちには届かないだろう。せいぜいコメントチェックした人が人間の感情がいきなりぶつかってきたことに不快になるだけだ)
どうしてどうしてと考えていたらこんな時間になり、朝を迎えてしまった。
何かを伝えたいとかもなく、自分の心の整理のために書いている。
ああこれから先、芦原先生の作品を見返せば素晴らしい作品だなあ!という感情以上に、
「セクシー田中さんが未完で終わってしまったこと」「先生が死んでしまったこと」を思い出してしまうんだなぁ。
島根に行って、仁摩サンドミュージアムに行っても出雲大社に行っても思い出して泣いてしまうんだ。
残される辛さを、砂時計で教えてくれたではないですか。私は今しにたい気持ちを必死に抑えられているのはその作品があったからですよ。
先生の苦しみは死で救われたのでしょうか。
天国とやらに行って何か美味しいものでも食べているのでしょうか。
私にはまだわかりませんが、そちらの世界が優しくあたたかな世界であることを願います。
そして今までたくさんの素敵な作品を生み出してくださりありがとうございます。
ざっと読んだけど、やっぱ自分か相手かの二項対立のケースじゃん。
ドラマの登場人物同士の話におれはストレスも感じてなければ、他者と他者における話なんだからおれの言動はこの定義にはあたらんだろ。
ドラマとか見て客観的にこの人の性格には、こういう傾向があるなとか思わないの?
登場人物が「全部おれのせいだ」とか「あいつのせいで全部こうなった」とか言ってて、それが客観的事実と異なってたら、ああ。この人は自責傾向あるなとか、この人は他責傾向あるなと思わない?
あの漫画家さんを、皆が口々に繊細な人と表現するのかがわからない。登場人物の心の機微を描くのが上手いから、きっと人の心がわかる優しい人なんだと、漫画を読んでた人が書くのはわかる。
繊細な人だから、の裏側には、
どこか、弱い人だから自ら死を選んだんだ、
弱いから淘汰されて仕方ないんだというような心の面持ちが感じられて苦しくなる。
実際は、いくらなんでも命を捨てる必要は無いじゃないかと思っての言葉なのは理解できる。私もそう思う。
自分の言葉が、自分の手を離れ、止めようもなくおびただしい憎悪の輪が広がっていく怖さは、死を選ぶ理由には値しないんだろうか。
去年、りゅうちぇるが亡くなった。
好きなイラストレーターが亡くなった。
まだ若かった。
ずっと昔に、好きなボカロPが亡くなった。
あまりに若くに才能を認められたからなのか、若き天才の称号に苦しんでたのかわからない、どんな形でもいいから生き続けてほしかった。
死んだのはすべて嘘で別の誰かとして世界の何処かで生き続けてるのかもしれないと想像して更新の止まったTwitterやチャンネルをみる。交差点の花束みたいに、毎年、命日に追悼コメントが書き足されてる。
最近ショート動画で音源を使われているのをみて、この景色を本人に教えられたらいいのにとおもった。
あなたの死を悼む人たちの声を届けて、生き返ってくれたらいいのにと思った。
ネトゲみたいに、現世に復帰してよ。
物凄く前向きに言うなら、「自分なりの文体を確立することに成功しすぎてしまっている」という状態に陥ってる。
自分流のパターンをこれ以上成長させられない壁に閉じ込められているような感覚。
何をどう書こうとしても同じようになってしまう。
ふと自分の書いた増田を「ブクマつきまってくんじゃん~~~」と読み直しているときに、ふと気づいてしまったわけだな。
「俺どれ書いても何書いても大体同じような文章じゃね?」ってことに。
まず軽口っぽい言い回しと「」の多様が特徴としてあるようなのでこれを封印すればいいのだろうが、そうすると急に文章力が下がるらしい。
小学生が書いたような極めて簡素でカタコト的な言い回しばかりになる。
そもそもの原因は俺のインプットがインターネットの軽口文化中心だからであり、これを解決したいならある程度硬い文章を読みまくれば良いわけだが、現代にはそういう文章が不足している。
ビジネス書だろうが学習書だろうが、「こういう新設がマチャチューチェッチュで証明されたっぽいのを知っていますか?」「猫さんありがとう!これなら僕にも出来そうだよ。とお猿さんは言いました」みたいなのばっかじゃねーかよぉおぉぉぉぉ。
当然のように小説なんて基本的には口語調でもうなんか地の文は登場人物の独白も同然の状態がスタンダードじゃねえか?
論文でさえもなんかちょっと語りかけてくるような言い方するじゃん?
俺は、文語調が、読みてえ!って主張してんだよ!