はてなキーワード: 人の力とは
始まりは9人だった。
メンバーの頭文字…とは1文字だけ合わないけれど(笑)、10人でジャニーさんからもらったグループ名。
けれど、1人減り、2人減り…、すぐに8人になった。
いや、もう6人ではなかったかもしれない。
「Snow Man」
バラバラになりかけてた6人に名前をくれたのは、6人を繋ぎとめてくれたのは、タッキーだった。
あれから6年半以上の年月が経った。
メンバーが活動を休止したり、仕事がバラバラになったり、いろんなことがあったけれど、「Snow Man」として、6人でずっとやってきた。
ここに来て「Snow Man」に3名加入。
一体誰が、それを望んだの?
新しく入るメンバーが嫌いなんじゃない。
そういうことじゃない。
もし、「Snow Manと、あとの3人、合計9人で新ユニットを結成します。このユニットが、このまま続くか、期間限定の物になるかは、彼ら次第です」…そんな風に言われたなら、戸惑いながらも、なんとか受け入れられただろう。
仮に、今後9人でやっていくことになったとしても、構わないと思える。
結果は同じかも知れない。
それでも、全然違う。
今までずっと6人でやってきた、私たちの大好きな「Snow Man」が突然奪われたのだ。かつて、彼ら6人を繋ぎとめてくれたはずの人の手によって…。
ジャニーズに入りたいと望む少年は、数え切れないほどたくさんいる。けれど、その中でジャニーズに入れるのは、ほんの一握り。さらに、その中からデビューまで果たせるのは、どれぐらいの確率なんだろう…
見渡す限り果てしなく広がる大雪原で、どこかに落ちている一粒のダイヤを探し出すような…、到底不可能に思えるけれど、ジャニーズでデビューするって、きっとそれぐらい困難なこと。
6人で探し続けたダイヤは、まだ見つからないけれど、遠くに雪とは違う輝きを見つけたような気がする。
その輝きが、本当に探し求めたダイヤの輝きなのか、ただの見間違いなのか、本当に見つけ出すことが出来るのか…、それはまだ誰にもわからない。
だけど、6人ならきっとやれる。
メンバーも、ファンも、ずっとそう信じてきた。信じてたからこそ、今まで進んで来れたんでしょう?
6人で見つけるんじゃないの?どうしても、6人ではダメなの?その3人の力が必要なの?
6人での永い歳月を見てきたからこそ、3人増えます、なんて突然言われても受け入れられない。
だけど、6人の絆を信じていたのは、きっと私たちファンより、他の誰よりも、彼ら自身だと思う。
あるメディアが言っていた。
「Snow Manのメンバーは、メンバーが増えることを事前に聞かされていなかった」
もしこれが本当なのだとしたら、もしかしたら、それは彼らにリタイアという選択肢を与えないための、最後の優しさだったのではないかと思う。
その優しさが、正解なのか間違っているのかはわからない。けれど、もし事前にメンバーが増えることを知らされて、それを受け入れられないメンバーが「辞める」という選択をしていたら…?
考えただけでゾッとするのだ。
メンバーが増えるのは嫌だ。けれど、6人のうち誰か1人でも欠けてしまうことの恐怖に比べたら、全然我慢出来る。
でも、9人になったそのグループは、もう「Snow Man」ではないと思う。それは、もう別のグループ。
「Snow Man」は6人で築き上げてきた、6人だけのグループ名。
どうしても、今後9人で活動していくなら、せめてグループ名は別の名前にして欲しい。
(もちろん、6人の「Snow Man」に戻れるなら、それ以上のことはないけれど。)
ドームライブに行った。声優が歌うやつ。この時点で察してほしい。察せない人は続き読んでも面白くないだろうから読まなくていいよ。
運のいい友人が2連番で当てたので連れていってもらうことになったのが理由だ。なぜ友人が私に声をかけてくれたかというと、その公演には私の応援する女の子の声優が出演するから。それに関してはひとまず置いておいて、披露されそうな曲はほぼ全部知ってるからわりと楽しみだった。
ここでとりあえず私が私の応援する女の子のことがどれくらい好きかっていう話をする。読み飛ばしてくれてもいいです。
まず見た目。圧倒的にかわいい。強い。美しい。のどの形容詞でも言い表せなくて歯がゆい。それでいて完成されてない。ミロのヴィーナスの美しさに近いかもしれない。
次に性格。性格を言葉で説明するのって難しいね。私からするとかっこいいなって思う。本人的には自由奔放に生きてるんだろうけど、私から見るとブレない一本の芯が通ってるように見えて。その芯っていうのはあの子のやりたいことをやっている、ってところなんですね。当たり前のようで、やりたいことをやり続けるって難しいじゃないですか。なんとなく何かに流されて、やりたくないことをやって、あとからなんか理由をつけて自分を納得させるみたいなことあるじゃないですか。私はそういうところがあって、自分のそういうところが嫌いなんです。そういう私から見ると、思うがまま望むがままに進んでいくあの子の姿が輝いて見えるんです。これ性格の説明じゃないね。
声。しゃべりも歌声も含めて、素敵。性格のところで書いたのは概ね文字情報から見出したあの子の脳内イメージなんだけど、それに全然負けてない。自由奔放で気楽な感じと、筋が通ってる強い感じと、ちょっと冷徹な感じと、あとあの子頭がいいんだけど、そういう知性がある感じとか、全部ニュアンスに入っててすごい。これは私の応援する女の子の声優さんがすごいんだと思う。ありがとう。
で。そのライブに出演する声優にはいろんなひとがいる。様々な役を演じてきた人もいるし、アーティストとしても活動してる人もいるし、このコンテンツくらいしか目立った出演作品がない人もいる。私の応援する女の子の声優は多分一番最後のグループだろう。
本題。私の応援する女の子の声優は、歌がそんなに上手くない。ダンスも特に目を引く部分はない。気の利いたMCもしてくれない。これって格差じゃないですか?
今のはさすがに冗談で、演者の実力に差があるのが格差だからどうたらこうたらって言い出すほど頭の中お花畑じゃない。でも私は納得いかない。
とりあえず誰が悪いのかを考えてみた。
(1)声優本人
ここをお前らオタクのせい!ってできたらよかった。お前らがなんでもかんでも歓声あげて、どうでしたかって聞かれたらよかったーとか最高とか叫んで、SNSで称賛するから、みたいな感じで。
でもそうじゃないと思う。さすがにあのレベルのパフォーマンスしてたら自分で気づくはずだ。気づいてほしい。気づかないならもうしょうがないのでいいです。
そもそも私そこまでこのコンテンツちゃんと追ってるわけじゃないけど、知る限りではこの人のパフォーマンスがなんというかダメなのは前からだ。私が何度かこの人のステージを見た感じだと、目を見張るような進歩はしてないと思う。でもこれは極めて主観的な話だから、もしかしたら私の脳内の完全無欠最強私の応援する女の子を重ねてしまっているせいかもしれない。もしそうだったらごめんなさい。でもあなたの仕事は私にあの子の幻影を魅せることじゃん。
ちなみにこの人より色々とひどかったけどわかるくらいよくなった声優さんもこのコンテンツにいる。だからなに。
私から見ると、本人にライブに対する向上心がないのかなあと思わざるを得ない。音域はボイトレで広がるし、ダンスが続かないなら基礎体力をつければいいんじゃないのかな。これは言いがかりだけど最後の挨拶とかいつもなんか浅いんだよなこの人。でも今回は演者として喋る機会が少なかったから比較的ボロ出てなかったんじゃない?
朗読劇はなんかサービスというか、こういうこと言ったらみんな喜ぶでしょ?みたいなアレでしたね。普通でした。
(2)オタク
ほぼ上述。でもこれはもうしかたないかなって思ってる。だってお前ら、本当は声優のパフォーマンスが良いとか悪いとか興味ないもんな?ライブに行って、ペンライト振って、周りと同じタイミングで声出して、終演後に飲み会かツイッターでどこがよかったとか適当なこと言うっていう行為自体で気持ち良くなってるみたいだから。ほんとは誰も私の応援する女の子のことも私の応援する女の子の声優のことも見てないもんな。いいよそれで。
(3)えらい人のディレクションとか
最近ようやく気づいたんだけどこれもよくないのかも。歌う人にあった音域の曲を歌わせてあげてほしい。ダンスがダメなら演出とかダンサーとかでカバーしてあげてほしい。本来ライブで歌う仕事じゃない人を歌わせて、踊る仕事じゃない人を踊らせてるんだから、そういうところはフォローしてあげてほしい。声優としての演技力、表現力で勝負させてあげたらもしかしたら違うものが見えてくるかもしれない。曲だってコンテンツの前例を考えたら遠からずライブで歌うことになるんだから、レコーディングでしか歌えないような曲を歌わせるべきじゃないのでは。私作曲家でも振付師でも演出家でもないけど、そういうもんじゃないの?
ここまで読んだ方は声優を褒めたりけなしたりなんなんだって思ってると思う。私が一番そう思ってる。
繰り返しになるけど声をあてる声優としての私の応援する女の子の声優の仕事は完璧なのだ。でもライブとかで出てくると、何かが違う。これは本当につらい。
もしかしてゲームで声あててる人とライブで出てくる人は同じ声帯の別人なんじゃないのかと思うくらい。
何が言いたいかっていうと、私も私の応援する女の子の声優を、まっすぐ応援できるようになりたい。もっとこのコンテンツを楽しみたいから。
そのためには、この感情をなんとか整理する必要がある。そしてそれは残念ながら私一人の力ではどうにかできない。
私の応援する女の子の声優が、なんとか、一つだけでもライブですごいところを魅せてくれたら、あの子を感じさせてくれたら、その姿で私を陶酔させてくれたら、それだけで全て決着が着くわけです。
圧倒的な歌唱力でも、度肝を抜くようなステージングでも、そこにあの子がいるような表現力でも、あの子に寄り添ってくれていると感じられるようなMCでも、なんでもいいから、なにかを感じたいんですよ。お願いします。
よく考えたら一つだけいいとこあった。時々結構刺さる表情するわ私の応援する女の子の声優。そこは好き。でもこれで許せてないってことはいいところ一つじゃ全然ダメだわ。全部やってください。
それにしても表情、よかったなあ。また機会があったらライブに足を運ぼうと思う。万が一パフォーマンスが化けてたら見届けないといけないし。私もすっかり奴隷だなあ。
あとこれはいまさら言うことじゃないんだけど個別衣装これじゃない感あるから白衣着て。
おわり
人に迷惑をかけないことを美徳とする教育を受けて育ってきたけれど、結婚し子供を産み育児に仕事に目いっぱいのタスクを抱えるようになって、どうにもその価値観に苦しめられるようになった。頑張っても無理なものは無理、でもそれって能力が足りない私が悪いのかな、と悪循環。
でも夫の仕事の都合で海外に引っ越したら、人の力に助けてもらうことに罪悪感を感じるような価値観を感じなくなった。
「ちょっとごめんね、荷物持ちあげてくれないかしら」「いいよオッケー」
で決まって最後は「Have a nice day!」「You too」もしくは「Take care!」「You too!」そしてにっこり笑顔。
最初は度肝を抜かれた。でも、誰かに助けを求めても嫌がられないんだ、って思ったら子供を連れての外出が怖くなくなった。
その代わり、自分ができる範囲で積極的に人を助けるようになった。身軽なときはジジババの荷物持って階段上り下りするし、電車で泣いている子供がいたらあやしてみるし、妊婦さんがいたら「こっち空いてるよ!」っていう。
今は日本に帰ってきたけれど、とりあえず積極的な人助けは続けている。
それでもって、積極的に人に助けてもらうようにしている。誰かを助けることで、自分も困ったときは助けてもらっていいんだ、って思う人が増えてほしいから。
死ぬまで誰かの助けを得ずに悠々と生きていける人なんていないから。
助けてもらって嬉しい、自分もいつかなにかの役に立とう、っていう気持ちを人と人のあいだで循環させるために、この心がけは保ち続けて行こうと思う。
市民的公共性なる概念で…https://togetter.com/li/1273256?page=3
そのブクマhttp://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1273256
なんというか「市民的公共性って何だよ!」と吹き上がっている人、まず検索しような。中には「そんな義務教育で習わない人の話を」とか切れてる奴もいて吹いた。twitterに何を求めてんのか分からんが、端的に言って地獄絵図。別にこの千田某という教授がどんな人かは知らんけど、大学教授の私的なつぶやきに対して「一言一句中卒に分かるように喋れ」って、何アホなこと抜かしとんねんとしか思わんな。そもそも子供が分かってもない話に無理に口突っ込んで大人に逆ギレしてる図がアンタやろって話。だいたい理性的に話ができている人が一人もいない。だって千田は市民的公共性「で」表現「を」規制する、なんて一言も言ってないやろ? 素直に読む限り、これは「表現規制」よりも「市民的公共性」が「必要だ」という話なわけだが、そういう捉え方をしてる人が一人も見あたらない。まあ、これは、タイトル自体で完全にミスリードしてるまとめの人の力量の問題でもあるだろうが。
別にキズナアイの話でもこの話でも、千田さんの言ってることは別におかしくないよ。まさに「一般には見えない物事の構図(モデル)」を捉えるところに学者の値打ちがあるわけだから「誰もそんなこと思ってない/考えすぎ乙」というのは何の反論にもならない。100万人の批判があっても、それが他の学説よりもより多くのことを説明できるモデルであればそのモデルの学問的価値は揺らがない。こういう事例見ても、まあ文系学問というのはホント尊重されてないなーと思う。気の毒な話だ。
千田の言ってることをごくかみ砕いて言えば、「政府が性器描いたらあかんとか乳首はセーフとか、でもこの雑誌ではアウトとか、そういうことするのおかしいでしょ。それより、自分らで考えて『あんたこないだ描いた画なあ、あれカワイイけどちょっとエロいから子供には見せたくないわ』『何言うてんの、あんなん健康なお色気やん。セーフやん。』『いやいや、これこれこういう理由でイヤな思いをする人もいるんやで』『そうかなあ。でもあれがああいう表現になるんは理由のあることなんやで、つまりな…』『なるほどなあ、そしたらせめてこういう風にしたら、お互いうまくいくんちゃうかなあ』『ふむふむ、それも一理あるな。その方が売れるかもやし版元といっぺん相談してみるわー』」みたいなことでしょ。こないだキズナアイにもの申したのも、そういう「言論」の一貫としてでしょ。政府機関による規制でなく、合理的な言論の交換によってあるべき姿が生み出される公共空間を創出する、ってのはこういうことで、これは「規制」とは真逆な発想なんよ。まあ、コミュニケーション力の低さを自慢げに振りかざす連中の暴れるtwitterや、それを更に恣意的にまとめてあおるtogetterが盛んな状況では、百年経ってもこうなりえないのは目に見えているから、千田の見通しが現実的ではないという点については一応同意するけれども、それが理想だよねという意味では、オレは千田に一抹の同情を感じるね。
(追記)
みなさんご意見ありがとうねー。「言及」でついてるツリーの内容はおおむねTogetterと同様にすとろーまんな内容でこれはまあ想定内だったんだけど、ブクマのコメントがどれも、賛意も批判も「なるほどなあ」とか「せやな」というところが突かれていて、とても読んでいて楽しかったです。ブクマの皆さんとはもう少し長文でやりとりしたいですね。
二点だけコメント
1つめ。メディアに載った学者のコメントを「権力」視するのは違うんじゃないか、と思いました。学者だろうが一般人だろうが、問題はコメントの質だと僕は思います。学者を名乗る愚者(そういう方は、たいていの場合ご自分の専門外について恥ずかしげもなく肩書きつけてコメントしておられるケースが多いですが)のコメントなんて世の中にあふれているし、増田の名もなきコメントが世の中を動かすことだってあるでしょう。むしろ「学者のコメントであればそれは権威だ」という思い込みこそが、メディアに対するリテラシーを欠き、存在しないところに無意味に権力を構築する考え方ではないかと思うのです。
2つめ。PCは「価値観の計画経済」だ、価値観の自由競争(市場)という概念を理解せよ、と独自な概念を推しておられる某氏。よくわからないのですが、千田氏はPCをかざして表現を弾圧する「主体」ですか? あくまである「見方」に基づいて「議論」をしているだけでは。それはあなたのいう「価値観の自由競争」そのものではないでしょうか? 多くの方へのブックマークを拝見しましたが、千田氏のような意見を言論封殺だと「決めつけ」て、自由な言論の交換を拒んでおられるのはあなたの方に見えました。根拠ある合理的な批判を「弾圧だ!」と切って捨てるのは、それ自体が「言論封殺」的で、とてもじゃないけど「価値観の自由な競争」を標榜される方の態度ではないと思いますよ。
正直、彼がヤオヨロズ(たつき監督)降板に関わってないとする絶対的な根拠が思い浮かばない
特に放送中のインタビュー https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395 やガイドブック6巻のインタビューは引っかかるところが多すぎる
具体的に言えば
・見てほしいのは動物であり、特定人物にスポットが当たるのは不本意
・kadokawa梶井氏と協力して「自分の価値観と理想全て思い通りに作れる場所」としてKFPを立ち上げた
・自身はKFPに対して著作者人格権しか持ってないが、これは損得勘定を度外視して意見を提案できる立場だと明言した
これだけ発言した上で騒動以降は一部インタビュー以外ずっと沈黙を貫いているのだから、疑われるのも至極当然と言えよう
ヤオヨロズのフットワークの軽さや製作体制がKFPの意に沿うものでなかったのが証言から伺える(その判断が正しかったのかは別問題)し、何より幾ら強力な権利を持っていようとたった一人の力で金のなる木(細谷Pの「利益的には続投の方が利益的に良かった」発言に基づく)を伐採できる力が本当にあるのかというのが甚だ疑問だ。たつき監督も「ざっくりカドカワ方面」としか言っていないし、「脚本印税貰ってない」発言からも、問題は単純に吉崎氏が降板を指示しただけでは片づけられないほど深いことがわかる
その程度で辞めるやつなんざ長続きせんよ
学校ってのは必ずイジメが起こる。それを退職せずに本人の力でオオゴトにしてでも解決できないということは、残っていればいずれイジメを隠蔽する側に回るということだ。
その程度の非力な人間が教壇に立つ事の愚かしさなど、ここ数年のイジメ報道を見てればイヤでも実感するはずだが?
あとな、人一人の人生を台無しなどと書いているが、はっきり言って他人の人生などどうなろうと知ったことではないという人間のほうが圧倒的多数だからな。
そのための競争よ。他人を蹴落としてでも這い上がり、己が人生を豊かにする。それが競争社会。
お前は今までに蹴落としてきた人間の数を覚えているのか?早ければお受験の段階から他人を蹴落としてソイツの人生を台無しにさせているかもしれんぞ?
入試で他人を蹴落とし、試験で他人を蹴落とし、就職で他人を蹴落とし、就職すれば競合他社を蹴落とし、ノルマで他人を蹴落とし、蹴落とし、蹴落とし、蹴落としていくのが人生だ。
弟はというと、涼める場所を求めて仲間たちと各地を行脚していた。
だが、人ってのは悲しいものだ。
大衆の考えることなんて概ね同じなのに、自分たちがその“大衆”に含まれている可能性を甘く見積もる。
弟の行くところはいずれも人だらけだったんだ。
「流れるプールだけど……これ流れの力発生してる? 人の力じゃない?」
そして、その大勢の人によって発生する熱気によって、納涼は焼け石に水と化していた。
「トイレに行くのも一苦労だね……」
「おい、間違ってもプールの中でするんじゃねえぞ」
「僕はそんなことしないよ。まあ、どうせプールの水の3割は人の小便などの体液だけどね。色んな薬剤がプールに入れられているのも、それが理由なわけだし……」
「今の話でちょっと寒気を感じた。ありがとよ」
企業などでは一般家庭より多くの電気を扱えるようになっていたが、それでも全体量が足りないため冷房に割ける余裕はほとんどなかったらしい。
「おい、さすがにこれは崩れすぎじゃないか? 確かに表現手法として、特定のカットをあえてゆらがせることもあるけどさあ」
「シューゴさん……その絵は普通ですよ。というより、この現場の空間自体が揺らいでいる気が……」
「何……言って……んだ、マスダさん」
今までにないスタジオの空気がそうさせたのか、現場のスタッフたちの精神状態は独特になっていた。
意思疎通は困難を極め、監督が熱でダウンしてしまったこともあり、今週は総集編すら作れなかったらしい。
「ただいまー……兄貴すげえ格好だな」
「暑いんだよ……で、お前の方はどうだった?」
反応から察するに聞くまでもなかったが、俺は一応尋ねてみた。
「ダメダメ。兄貴みたいに、家で大人しくしてたほうがまだマシ」
やはりそうか。
「でもホント、俺たちの家は思ったより暑くないな。何でだろ」
「そうかあ? まあ、人や家具が少ないとか、立地的に涼しい場所なのかもな」
俺はテキトーにそう返すが、実際この時の室温は低かった。
その要因が何なのか知るのは、もう少し後になってからだ。
なにせ、その時の俺たちは暑さにばかり気を取られ、頭が回らなかった。
いつもなら気づいたかもしれない、何かしらの“違和感”に気づけなかったんだ。
すれ違いざまにぶつかることもあり、毎日危険を感じるのでこの活動を開始した。
まず、大前提として、自転車の歩道走行は一部例外をのぞいて禁止である。
(D)狭い車道で自動車の交通量が著しく多いなどやむを得ない場合
Dの「やむを得ない」は運転者の主観ではなく、客観的な認識でそう判断される場合のみで、
この違反には「3カ月以下の懲役または5万円以下の罰金」が科せられるが、運転者は罰を受けずに走り逃げている。
逮捕の手順は以下になる。
1.走ってる自転車を注意して停車させる。
2.違法であることを伝え、氏名や住所が記載された本人証明書(免許証など)を見せるように要求する。
→ 見せてきたら、氏名と住所をメモして後ほど警察に提出。運転者は解放。
3.拒否した場合は、逃亡のおそれがあるのでその場で私人逮捕。
4.警察に連絡して引き渡す。
軽微な犯罪なので、警察到着後は警察から運転者への口頭注意が行われて運転者はその場で解放される場合がほとんどである。
ここで悲しいことだが警察官によっては、
「こんなことで連絡しないでくれ」や「またあなたですか」など言い放ち舌打ちしてくる者もいる。
そのような警察官に当たった場合は各都道府県の公安委員会の苦情相談窓口に、
該当警察官の名前を告げ職務怠慢な警察官であることを伝えましょう。
その場合は、「社会通念上逮捕のために必要かつ相当であると認められる限度内の実力行使」が、
法的に許されているので、逃げられないように力づくで押さえつけましょう。
周りに人がいれば、運転者が犯罪者であることを伝え協力を求めるのも良いです。
彼らは犯罪者で、こちらは清く正しい市民であり警察業務への協力者なので、
何を言われようと堂々としていることが大事です。
ただ大柄な成人男性などが相手の場合、反抗を受ける場合もあるかもしれないので、
私人逮捕する場合の運転者は女性や未成年、中年男性などに絞った方がいいでしょう。
相手が自身より屈強な肉体を有してると判断した場合は素直に警察に任せましょう。
やり始めるとたった一週間で近所の歩道を走る自転車の数は当初より減ってきたし、
社会に貢献してる有意義な気持ちにもなり、清々しい毎日を過ごせるようになりました。
是非、みなさんもやってみてください!
波というものはあるもので、本人の力では避けがたい。三十代前半か?ならば、これが第一波か、大学くらいから考えると第二波くらいかね?
休むべき時は休むべき。ここで無理をしても、うまくいかない。
ただ、そのまま沈んでしまうか、また浮上するときがあるかは、潜伏中に何をやっておくかにかかっている。面白そうなネタを探していろんな方向にアンテナを出しておくべき。今すぐ役に立たない勉強に時間を割くべき。時が来て、それが役に立つかどうか・・・は運次第。だから、なるべく多くの「宝くじ」に投資しておくんだよ。
内なる炎をまだ持ち合わせていれば、その時が来た「ネタ」は一気に燃えあがり、また一心不乱に打ち込むことができるようになるはず。そのときにはおそらく今よりも体力は落ちているだろう。それを知識と経験でカバーするんだ。若者では持ち得ない視点で勝負するんだ。そうすればまだ2戦くらいは余裕で戦える。そこから先は自分も未経験なので分からないな。
【ニュースメディア】は視聴者の「心の痛点」を繰り返し刺激し続ける
https://anond.hatelabo.jp/20180524222503
ニュースメディアやSNSなどで、『自分一人の力で解決出来ない「事件」の報道や
問題提起に長時間さらされ続ける(=無力感の拷問!)』と【世直し病】を発症しやすい。
「自分という人間の無力感」は、自己の卑小感、自己否定感につながり、最後には
『自分の犯した罪でもないのに、何故こんなイヤな気分にさせられるのか』と、「被害者意識」が芽生える。
そうなると、最終的に外界に対する【世直し病】を発症する(=軽く発狂する)か、【自己責任論】で
スパッと早期に切断処理(切断操作)をする(=他人事にする)かの、どちらかの結論に辿り着くだろう。
そして、そのどちらの反応も、眼には見えないが「心に負担がかかる」事に間違いはない。
この1年で横尾さんのことをもっともっとだいすきになれて、着いていきたいと思えた自分の感情と比例するかのように横尾担のことが苦手になってしまったのは間違いじゃなかったんだなってこの2〜3日で確信できました。
元々、横尾さんに対する考え方が同担でも合わない人が多くて、色々な場面でわたしは少数派なんだなぁと思うことが多々ありました。それを理解していたからTwitterでは鍵垢でひっそりと横尾さんに関する呟きをしつつ、マイノリティーでもこういう人も居るんだよ〜って自分なりに横尾さんを、キスマイを応援していました。これからもそうするつもりです。
今まで他メンバーと比較しても少ない方だった横尾さんへの歓声も、声を出すか出さないかなんて個人の自由だから声を出したいと思っている自分が出せばいいことだと思っていました。
1年前の新潟初日、いつも以上に横尾さんへの声が少なくて、やっぱり同担減った、他担から歓声も出ないほどやらかしてしまったんだなあって思いつつ、いつも通りオレンジ色を付けて横尾さんへの歓声を上げて、横尾さんの団扇を持ち続けました。 後ろの席にいた他担に「横尾担とかまだ居るんだ」「あいつ反省してんの?」ってこっちまで聞こえるように言われても、言い返したいのをぐっと堪えてその声を消すくらい自分なりに横尾さんへ声を出しました。
そんな中、新潟で団扇を何十枚も広げて横尾さんの誕生日をお祝いしている同担を見かけました。正直悲しくなりました。誕生日を祝うことはいいことだけど、なんで会場でそんなにスペースを使ってやるんだろう。例え人が少ないところだったとしても会場のこと、周りの目なんて考えず、お祝いしたい気持ちよりただ自分が目立ちたいからやっているようにしか見えなくて。横尾さんが何をしても叩かれている状況で、なんで横尾さんを支えるはずのファンが火に油を注ぐようなことができるの。大好きな人がお祝いされているはずなのに、凄く嫌な気持ちになりました。
きっとネットでも荒れるんだろうなって思いながら恐る恐る検索をしたら、愚痴垢や他担からの邪魔だとか小馬鹿にする意見が目に入って、でも同担は「すごい!」とか「横尾さん愛されてる」「嬉しい」とか自分が思っていたことと真逆のことを呟いている人が多くて、本当にショックでした。
一度そう思ってしまってからは、同担の色んな言動に対しても違和感を感じるようになりました。昔からよく見かけていた「横尾担は声出せないから」「横尾担は見守るタイプだから」という言葉をあのミューコロに入った後ですら言い続けてる。声が出せないのならそれで構わないけど、歓声がないのは私の責任じゃないよだって横尾担だから。横尾担はみんな大人しいから声出せないんだもん!そんな主張を未だに続けてることが信じられなかった。
横尾さんが歓声が欲しがってると推測してネットで盛り上がれるのなら、なんで去年現地でもっと声を出してくれなかったんですか。横尾さんが客席に対して挨拶をしても他メンバーより反応が薄くて、悲しくなったのならなんでその場で盛り上げてくれなかったんですか。
わたしが入った回数こそ多くなかったけどどの公演も歓声は少なかった。1人で入ることがほとんどだったから、1人の力じゃ何も出来ないんだって公演中に虚しくなることが何度もありました。
でも「声が出せない〜」って言っている割に、会場の外では身内で固まって騒がしくしているオレンジ色の集団を何度も見かけました。
他にも「横尾担は礼儀正しい、上品な人が多い」と言いながら、銀テを取るために後ろの席から走ってくるオレンジ色の洋服を着た人。横尾さんの脇毛♡臑毛♡今日のパンツの色は何色だった♡とか下品な話を鍵もかけずネットでも現場でも堂々と話す集団。挙げ句「横尾担はみんなドMだよね!変態だよね!」と仲間意識を持ちたいのか、勝手に皆を一括りにしていましたね。
もちろん他担にもこういう層は一定数居るとは思いますが他担のことはわたしには分かりません。
横尾さんが髪の毛を伸ばせば横尾担ですら「切れ、短髪にしろ」、パーマをかければ「似合わない」。好みもあるけど、そこまで頭ごなしにたかが一ヲタクが束になって否定する必要性はありましたか?
ネタだとしても、大好きな人に対して使われる下品な言葉は見ていて良い気分にはならないし、長髪も好きだったわたしは、長髪も好きだよと言っても全方向から否定され続けた去年の5月辺りは本当に地獄でした。
なにより味方だと思っていたはずの同担が1番の敵だった。
現場ではテンションも上がって周りが見えなくなる気持ちもわかるから目を瞑ることもできる。
でもネットでは、Twitterでは、嫌でも目に入るしそれを避けてもまた別の人が同じようなことを呟いている。ファンだけじゃなくて、テレビで横尾さんを気になった人が検索をかけたら簡単に出てくる。「横尾さん」と検索をしたら愚痴垢の誹謗中傷と「いい歳した大人」を自称している横尾担の気持ち悪いツイートしか見かけなかった時はショックでした。
ネットの誹謗中傷を見て横尾さんが傷付くと思うことが出来たのなら、自分達の気持ち悪い下ネタや妄想、横尾さんへの卑猥な言葉を本人が見てしまったら…という考えはできなかったんですか?
わたしはこの1年、他担や愚痴垢からの横尾さんや横尾担を傷付けようとしているのがあからさまだった悪意ある言葉の数々より「横尾担はみんなこうなんです!」って逃げ道を作って、配慮もモラルもない気持ち悪い発言や行動をし続けていた同担と「横尾担」として一括りにされていた方が苦しかったし辛かった。過去形じゃない今でも辛いです。そんな中でもわたしが横尾担を続けられるのは横尾さんを見ていたいという気持ちが辛さより優っているからです。
これからもずっと横尾担で居ることは胸を張って言えるけど、きっと同担を信じることはないと思います。全ての同担がそうじゃないことはもちろん分かっています。でもこれ以上嫌な気持ちにはなりたくないです。
自分自身の懐が狭いことは十分すぎるくらいわかっているけど、自分やその身内が楽しければそれでいい、横尾さんを自分たちが楽しむためのおもちゃだとしか考えていないと思わせるような言動を「応援」という言葉を利用して正当化し続けてきた同担がわたしは苦手です。