はてなキーワード: ミクロとは
esbee 当たり前だっつーの。マクロの思想とミクロの行動が一致してないと鬼の首を取ったようにはしゃぐの、頭悪すぎるだろ
最近自作醤油とか自作○○にハマっていて、最終的に「自然派ママ」に行きつく事が多い。
自然派ママは一言で言うとバカだ。自然から作られるものは全て健康に良いと思っており、重曹とクエン酸ですべてを解決しようとする。
2項対立以上の複雑な事象を理解できないからだと考えると、彼女らの盲信ぶりが理解できると思う。
「ワクチンは危険ではあるが、全体でみると利益がある」という、ミクロとマクロの違いが理解できないのだ。
なので、量子論を実生活に当てはめたり、波動とか言ってしまったりする。
重曹を飲ませるならまだいい。
勝手にステロイドを中止したり、肉を食べさせず、かといって脂質やタンパク質など栄養学の知識が無いので子供がガリガリということも。
勿論自然派ママでも二項対立以上の複雑な事象は理解できる人は居て、恐らく理系女子と呼ばれる人だろう。
温度によって酵母の培養を比較したり、根拠のないものは信じない。論文が読めるのでファクトチェックも出来る。
一方で、「自然派パパ」もちらほら見る。
こちらは別の意味で狂ってる人が多い。基本的に文系であっても理系の最低限の知識はあり、自然の菌には毒性が発生する恐れがあることも理解してる。
自然派パパ同士で変な情報網があるらしく、専門家でも知らないような菌の培養方法を知って居たりする。
その上で彼らのヤバい点は、「毒が発生する恐れもあり危険だ」とか言いつつ、普通にパクパク自作した食べ物を食べてしまう点だ。
「ボツリヌス菌が繁殖する恐れもあるから気を付けて」と言いつつ生肉を食ったり。
ただし彼らは家族を巻き込まない部分ははっきりしてるし、子供に食べさせたりはしない。子供を大切に思ってるから、曖昧なリスクに巻き込みたくないのだ。
結論、自然派ママはモラルのない頭のおかしさ、自然派パパはモラルのある頭のおかしさなのである。
基本的に母親は精神が子供な人が多い。誰かを守ったり、フォローしたりという経験が少ない。子供と自分を同一視してるので、平気で巻き込む。
幼稚な万能感や感性を捨てきれておらず、すぐ宗教的なものに没頭する。
知的な人が多いので、リスクマネジメントはしているが、趣味でやっている人が多い。
こういうの見ると、実は父親の方が子育てに向いていて、母親は外で単純作業で金稼ぎをさせた方が合理的な気がする。
本業はネットワーク屋なんだけど、無線LAN周りのトラブルで「いや~電波ってそういうものなんでこの環境じゃあムリっすよ」「そういうものって??」みたいなやり取りが客とあってそもそも「電波ってなんなんだ?」と思ったのでぐぐって調べた。高校では物理取ってたはずなのに欠片も記憶にないので深い睡眠学習をしていたのだと思う。
電波法では「3THz以下の周波数の電磁波」を「電波」と呼ぶ。間違っても「電磁波」の略では無いし、電磁波の中の一部を電波と呼んでいるだけ。
導体を電流が流れると磁界が生じる(右ねじの法則)→電流の向きが変わると磁界の強さが変わり電界が生じる→電界の強さが変わると磁界が生じる→…の繰り返しで空間を媒体にして飛んでいくものが電磁波。ただし電界と磁界がリングのように繋がっていく絵(が高校物理の教科書に載っているらしいが全く記憶に無い)は厳密には間違い。電界と磁界は直交して発生し位相が一致するため。
electric fieldの訳語なので同じ。慣習的に工学系は電界、大学の理学系では電場。
コンデンサの応用。コンデンサの電極を棒状にしたイメージ(=ダイポールアンテナ)。アンテナに交流を掛けると電極間で電荷が流れ(ていないが後述の通り流れていると見做す)、電界が生じる→磁界が生じる→電界が生じるのループによって電磁波が空間を伝っていくのが電波の送信。電荷が行ったり来たりする速さが周波数、流れる電荷量(電流の大きさ)が生じる電界の強さになる。
逆に、磁界がアンテナに当たりアンテナ周辺の磁界が変化すると電流が流れる(ファラデーの電磁誘導の法則)ので、それを良い感じに拾い上げるのが受信…なのだと思うが正直この辺は欲しい情報が探せず自信なし。
絶縁体を電極で挟んだもの。絶縁体なので電荷を通さず蓄えることができる。ただし交流の場合、電荷の流れる向きが変わるので見た目上電荷が流れると言える(らしい)。
「電気」のミクロな表現。原子の周りを回っている電子が飛び出すと正電荷、飛び込まれた方の原子は負電荷で異なる電荷同士は反発し合い同じ電荷同士は引き合う(静電気力)。
この静電気力が働く場を「電界」と呼び、電荷から延びる静電気力の働く方向を線にしたのが電気力線。
電荷の移動で磁界に磁力線が生じ、正電荷と負電荷の間で電界に電気力線が生じる。
電波の送信で電界と磁界が生じていくという説明は電気力線と磁力線が生じていくとも言える。磁力線は磁石のNからSへ延びる線。
送信機のアンテナ端子に電力計を繋いで測った電力。送信電力とほぼイコールだが、厳密にはアンテナまでのケーブル減衰を差し引いてアンテナに掛かる電力。よって「送信電力-ケーブル減衰」が空中線電力。
指向性アンテナによって見かけ上、エネルギーをマシマシにしてくれることをアンテナの利得と呼ぶ。アンテナに増幅作用はないので送信電力が増える訳では無い。
等方性アンテナ(指向性を持たず全方向へ等しい強度で放射される仮想的なアンテナ)と同エネルギーのアンテナ利得を基準(0dB)とする利得を絶対利得と呼び 0 dBi とする。あまりよくわかってない。
等価等方放射電力。アンテナからある方向へ放射されるエネルギーを等方性アンテナによる送信電力としたもの。
アンテナ利得 20dBi のある指向性アンテナに送信出力 30dBm(1W) を掛けると送信出力 30dBm + アンテナ利得 20dBi = EIRP 50dBm (=100W) 。これは等方性アンテナ(アンテナ利得 0dBi)に送信出力 50dBm (100W)を掛けたといういう意味になる。
1mW = 0dBm として、1mWより大きいか小さいかを対数で表現した絶対値の単位。
電波の世界ではめっちゃ小さい桁数の数字の数字になるので、常用対数を用いることで使いやすい数字にする。
対数なので 3dBm の増減は2倍または0.5倍、10dBmの増減は10倍または0.1倍。
・23dBm = 10dBm + 10dBm + 3dBm = 10mW x 10mW x 2mW = 200mW
・-60dBm = -10dBm + -10dBm + -10dBm + -10dBm + -10dBm + -10dBm = -0.1mW ^6 = 0.000001mW
といった計算が出来る。
何処まで正しいのか全くわからんが、知識皆無からぐぐって読み比べたらなんとなーくわかったような気がする段階まで持って行くことができるのは単純に凄くねと思った。
便利な時代になったんだなあ。
工学の名前を使うなら、せめてちゃんと科学的な裏付けを取ってくれ。偏見まみれの適当メゾットで工学の名前を使うんじゃねえ。
提唱される恋愛手法に科学的な裏付けや再現性があり、弱者男性や弱者男性予備軍の陰キャ工学部男子どもの役に立ったのならば、工学の名を使っても良いだろう。
てか恋愛に関する研究って、どっちかっつーと社会学とか心理学の領域じゃね?
それなら恋愛社会学と言う方がふさわしいな。ツイフェミと共同研究し男女双方にWinWinとなるような恋愛手法を作り上げてほしい。
分子要素どこ?
レシピ読んでてもミクロな話全然出てこねーじゃん。てか内容的に化学調理ってネーミングの方が正しいだろ。
科学的にレシピを考えるってい理念はいいよ。ただ科学的にやろうっていうならレシピで「適量」を使うな。再現性っていうのは義務教育で習う科学の基本のキだからな?それをを押さえられない者に「科学的な調理方法でうんたらかんたら~」って言う資格ないから。ラムダ技術部の理系料理の方がずっと科学的だし分子調理の名にふさわしいぞ。
車がなぜ動くのかは簡単だ。人がエンジンを掛け、ハンドルを切りアクセルを踏んで動かしているから。
では、私が今腕を曲げようと思えば曲げられるのはなぜか?きっと脳がそうしろと指令を出したからだ。では、その脳はなぜ腕を曲げてみようと思ったのか?誰の指示を受けて?それは神様や運命といったものではないのか?
高校の生物基礎で、細胞内での色々な物質がミクロに受け渡され、それらのマクロな集大成として我々の活動があると教わった。
RNAの転写だの、核の分裂だのが行われているらしい。が、細胞には筋肉だとかいった複雑な機構はない。膜の中に液が詰まってあとは核とか諸々の粒が入ってるだけ。では、どのように動いているのか?
持ち上げたリンゴが上から下に落ちるように、砂鉄が磁石に引っ張られるように、そういった自然なモノの動きを組み合わせて動いているのか?では、誰が組み合わせたのか?誰がそんな複雑な設計図を引けたのか?何を起点に?
こんな条件があり得るものかは知らないが、生きている人間と内外に一切の損傷がない死体があったとして、その違いは何なのか?何が生物を動かしているのか?
最近になって、生とは受精した瞬間から始まる化学反応、物理現象の連鎖なのだと思うとすごく納得が行った。と同時に、生物とは現象なんだ、とも思った。
機械のアナロジーで考えるのもナンセンスだったが、強いて言えば受精した瞬間がエンジンをかけられたようなもので、そしてワークスマシンのバイクにように一度止まったらもう二度と自力ではエンジンがかけられない。
偶然の産物か、宇宙人の手土産か、神様の意思か、何であれ、いつだかに生物という現象が始まり、その連鎖は今の所好調だ。
そして生物という現象は、突き詰めると物理法則や化学法則といった言わば運命に従って動くだけの奴隷でしかないのではないかとも思った。
メタフィクション作品において、キャラクターが世界の「筋書き」を知覚し、運命を克服するなんて作品は多々ある。しかし、更にメタ的な事を言えば、それだって結局は作者の筋書き通りのフィクションなのだ。
人間も自然の中に法則を見出し、それを制御、支配しようとしてきた。ゆくゆくは、人の頭にあるブラック ボックスを解き開いて、この世の筋書きを知るのかもしれない。しかし、それもまた自然法則という運命にそうさせられているだけなのかもしれない。
そういうラディカルな問いを考えると頭がおかしくなりそうなので、程々のところでやめておくようにしている。自由意志を信仰して生きていた方が幸せになれそうなので。幸せというのも結局脳内の化学反応が……という考えを押さえつけながら。
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。
等価可処分所得とは、世帯の可処分所得(≒税などを抜いたいわゆる「手取り」)を世人数の平方根で割ったものを言う。
相対的貧困とは、この半分だから、等価可処分所得が127万円以下の世帯のことを言う。
で、これ以下の世帯はおおよそ16%で、これはOECD38ヶ国中ワースト7に相当する。日本より悪いのはブルガリアとかメキシコとかしかない。
また、子どもの貧困率が注目されるが、実際は老人の貧困率が20%に達する一方、子どもの貧困率は14%とそれよりも低い事などもあるので、ここらへんの統計を抑えておくと、若者VS老人みたいな雑な煽りに乗らずに済む。
ただ、相対的貧困率はどこまで行ってもミクロの指標なので、「日本は相対的に貧困である」みたいな言い方にはならない。用語はきちんと使ってくれ。
政府や国が出産を奨励する施策は人権侵害で、頭数を揃えようという姿勢で、グロくて気持ち悪い、みたいな人増えてない?
今の日本の問題の多くは少子化に突き当たるんだし、少子化対策って、どうのこうの言ったって出産奨励じゃん。
「露骨にやらなくても皆の賃金を上げたり幼稚園保育園の充実をすれば」とか言うけど、現状の深刻さでは、それらだけでは動機づけとして弱すぎるんだから、もっと露骨な出産奨励もしなきゃいけないでしょうよ。
というかそもそも、出産や子育てという行いや人体機能自体が、目をそらしたいよくないもの、生々しくグロいものだと思ってる人が増えてないか?
「出産や子育てはグロテスク、あるいは自傷的行動であり、強く望んでやる人は止めないけど決して素敵な行動ではないし目をそらしておきたい世界にとっての消しきれない悪行みたいなものだから、子供を産むのは良いことみたいな文脈で扱いたくない、まして他人からやりましょうと言われるなんて耐えがたい」みたいな嫌悪感をインターネットの世論から感じる。
出産奨励されるぐらいなら清く正しく少子化が進んだ方がいい、って実質的に反出生になりつつある。
「ある行為をポジティブに扱うなら、しないことは相対的にネガティブに扱われる」ってのは、飛躍じゃなくて実際そうならざるをえないと思う。そんな単純な二択じゃないんだなんて理屈も世の中にはあるが、それは誤魔化しの建前である。
けど、中長期的に考えればそれは責められる事じゃないはずだ。
あらゆる論功行賞だってそうでしょ。表彰される生き方、賞金をもらえる努力が推奨されて、そうじゃない人生はネガティブに扱われることで、よりよい人材を増やそうとしている。それが回り回ってみんなの幸せに繋がる。
これまでは、個人の自由意思尊重の理念を語りつつ、実質的には価値のない生き方はやめましょうという干渉も両立させて回してきたけど、建前を建前じゃなく徹底させるべきってのを本気で信じる極論論者が増えて、持続性がヤバくなってる。
しかも、出産奨励に嫌悪感を持つ人って、個人の自由な生き方を大事にせよとは言うけど、そこで想定される個人の自由って、今から5年か10年程度の短いタイムスパンでしかなくないか?
なんなら5年どころか、今この一瞬における、妊娠出産への感情的な嫌悪感に駆られてないか?
現時点で出産奨励のメッセージや施策というある程度の干渉を受け入れることで、30年後でも個人の自由と幸福をある程度保てる、そういうもんだと思うよ少子化対策は。
一般人の立場でこういうことを言うと「ただの平社員なのに経営者目線かよ。権威と自分を同一視して気持ちいい?」みたいな揶揄もあるけど、民主主義では有権者である私たちが正に経営者なんだから、数年単位の個人規模というミクロな幸福論だけでなく、社会持続性みたいなデカくて長いマクロなことも考える必要がある。
個人レベルを超えて社会全体のためになることを考えるのは全体主義に繋がるから怖い、と拒絶していては、国家の主権者としてよくないのだ。
ああ、本当ならこういうのも匿名じゃなく主張したい。
でも友達付き合いしてるアカウントたちにグロテスク!って怒りと軽蔑むき出しにしてる人たちがかなりいて、ビビって理屈を語れないよ。
私は弱い奴だ。