はてなキーワード: 児童とは
学校の検診で一部のお医者さんからの性的な目線?が問題になってるようだ
その問題に対する政治家先生の主張が「じゃあ裸を見られないよう着衣でやらせる。それによって発見できない病気については大人の知ったことではない。子供の性的消費を防ぐのが身体の健康より大事だ」とか「生徒に着衣か脱衣かどうか選択させる。もし着衣で発見できなかった場合はそれを選択した子供の自己責任であり大人の知ったことではない。子供の性的消費を防げば皆幸せな世の中になるのである」とかいう思想に基づいているらしい。
脱衣で健診させるのは人権侵害だという思想みたいだけど、それよりも子供の病気を早期発見するための制度を改悪する方がよっぽど人権侵害だと思うぞ。
女性の人権や性的犯罪に敏感なのは結構だが、それと児童の公衆衛生は分けて考えるべきだ。
ごく一部の男医による行為が問題なのはその通りかもしれんし、対策しなきゃいかんのはわかる。
せっかく女医にやらせたい→健診できる女医が足りないっていう現実認識があるんだから、じっくりそこが増えるよう制度や金を持ってきたり関係者間の利害を調節して回ったりするのが政治家の仕事だと思うんだ。
法的な部分は弁護士に丸投げし、子供のためを思ってという建前で自分が気持ちよくなるための単発的な仕事だけやって満足してるのって政治家以前に大人としてどうなんでしょう。なんか考えが毒親とか、そっちに寄ってませんか。
その謎が判明した
知人の子供がその小学校へ入学することになって、パンフレットみたいなものを配布され、その内容を俺に教えてくれた
それには、「この国ではどんな宗教も法律の支配下にあります。そのため、法律に違反する行為はいかなる宗教行為であろうともで校内で認めることはありません」みたいな事が書かれてあったという
結果、特定の宗教を信じる家庭の子供は一人も入学してこなくなったらしい
これ、そのうち大問題に発展しそうな気がする
汝増田に更なる娯楽を教えよう
登記簿は土地建物の所有権の変遷や抵当権といった担保権の内容が記載されている。
いつ、売買や贈与、相続を原因として、誰から誰に所有権が移転していったのかを把握できる。
照会に必要なのは、地番だ。2丁目3番4号のような家屋表示ではなく、1234番地みたいなやつだ。
古い戸籍謄本の本籍地がそのまんまそれにあたるといってよく、本家の遠戚の土地建物の変遷を目にすることができるかもしれない。
最近は1件600円とやや高い。ワイは公営の登記情報提供サービスを頻用している。
初回登録は難儀だけどクレカ決済で土日でも夜中でも全国の登記簿を取れるので便利だ。
これを面白いと感じたなら、オンラインでは取れない、電子化される以前の登記簿を法務局窓口で取ってみるといい。
国会図書館が膨大な資料をテキスト検索できる形でデータベース化している。
そのうえ画面で高画質スキャンデータを閲覧できるし、わずかな費用で印刷して郵送までしてくれる。
その規模はなかなか驚異的で、ワイの遠戚の爺さんが5歳ごろの1950年代に児童雑誌に投稿した内容まで発見できた。
まだまだ楽しみは続くぞ。
増田は昔、中絶を非倫理的行為だと思っていた。しかし最近はそこまで拒否感を感じていない。
だって育てられない親の元に生まれて幸せなのか?という話だ。そういう子は里子に出されたり、祖父母が面倒を見たり、あるいは虐待されながら実の親に育てられるんだろう。そういう人生もある。それで幸せになった人もいる。それは良いことだ。でも「幸せになりました」という声がニュースになる時点でそれは例外的なケースであって、フラットに考えると人並みの幸せを簡単に得られる可能性は低いと考えるべきだろう。
そう思うと増田にとって中絶とは、避妊の延長線に過ぎない。妊娠を「避ける」というのは失敗しているが、不幸な出産を「避ける」という意味では大差ないと思っているし、それが法律で規制されているのは不思議な状況だとも思う。
日本では世界水準と比べて、時代遅れでリスクの大きい避妊手術が未だ行われている。これは中絶への無関心なのか、あるいは懲罰的思想によるものなのかは分からないが、いずれにしても中絶が重く見られる要因の一つに、この「掻把法」という手術があるだろう。端的に言うと、ベテランでも失敗する確率が高く、失敗によって不妊になる可能性があり、しかも40年前には既にもっと優れた手術が海外では普及していたような手術法だ。優れた手術が日本に導入されないのは、日本の産婦人科医達の思惑がある…という噂もあるが、いずれにしても日本での中絶とは、今の子供だけでなく未来に授かるかもしれない子供まで諦めなければならない出来事である。これが中絶のイメージを重くし、特にパートナーに中絶させた男性への心象を悪くさせる大きな要因であると感じる。
中絶へのハードルを上げるのは女性の負担の軽視や、生まれてくる子供の人生の軽視によるものではないかと思える。日本で虐待の実情が広くお茶の間に知られたのは、増田の記憶では2019年の野田小4女児虐待死事件だったと思う。それまでの虐待死事件は年少の児童がほとんどで、育児ノイローゼの結果として同情的に受け入れられる部分も少なからずあった。しかしこの事件では「児童保護機関が機能していない」「児童が訴えても大人の対応不備によっては最悪の事態になる」「ノイローゼではなく、嗜虐的に虐待する親が存在する」「親が子を連れ戻したのは、愛情ではなく執着心によるもの」といった、それまでの常識を覆す虐待の実態が明らかになり、「虐待する親の中には想像を絶する者がいる」ことが広く知れ渡るきっかけとなった。また、この事件が「親ガチャ」という言葉を世間に納得させる転換点となったと感じている。
要するに、親に恵まれなかった子供に対する受け皿も満足でない社会で、授かった命を中絶するのは倫理的によろしくないというのは大きな矛盾ではないか?ということだ。産めと言う側が育てるとは約束しないということになる。それなら育てる側の責任として、中絶するのも立派な選択の一つであると考えている。そう思うと、中絶への倫理的な障壁を成すものは、やはりリスクの高い手術法だと思うし、その手術法がリスクの低いものへと変化するには、中絶そのものが手軽に行われるべきだという風潮に変化する必要があると感じる。
申し訳ありませんが、そのような単語の組み合わせは避けさせていただきます。児童の搾取や性的虐待を示唆するような言葉は使いたくありません。建設的な話題でお話ししましょう。
深い暗闇に住んでいて、ときおり我らの住む浅瀬へ浮いてきては我々を魅了する。しかしいくら個体を調べたところで、その生態は深海に生きる者しか知らず、浅い海に生きる者にとっては永遠の謎でしかないのだ。
……こんなことを真顔で言ったら一発で社会的に死ぬかもしれないが、女性とは何者なのか、小さい頃から気になっている。
筆者には女性の服の下にあるものをよく知らない。というとまず、母親の裸くらい見たことあるだろという反論が飛んでくるだろう。厳密には、筆者は先天的に視力が悪かったために、両親の身体的な区別がつかなかった。要するにぼんやりしていて記憶にないのである。幼児期には男女で混じってトイレや入浴、着替えをする機会もあるだろうが、メガネという文明の利器を得るのが遅すぎた。服装や趣味嗜好のほかに男女の違いなど見出せない解像度の低い幼少期が横たわっている。
性差の興味を持つきっかけは、習い事として始めたスイミングスクールだった。
小学校の水泳授業では、児童は各家庭から水着を持ってきていた。興味はなかったが、女子は模様入りの"ワンピースのような水着"を着ていることが多かったと記憶している。
当時の男子水着はVパンツと呼ばれるもので、動きやすさ重視の、大事なところを隠すだけのわかりやすい水泳パンツであった。しかし女子は全員競泳用のワンピース水着を着ていたのである。
指定水着に限らず、制服というものは集団をカテゴライズする。10年足らずの人生に於いて初めて、男子と女子を身体的に明確に区別した集団という者に遭遇したのである。
女子の水着には上半身と下半身の繋ぎ目すらなく、肩紐が背中でX字に交差して、奇妙な服装という印象を与えた。もはや水泳パンツではない、謎の女子専用水着の仕組みが気になって仕方なかったが、全ては女子更衣室の中で起こることゆえ男子には一生わからないのである。
やがて筆者にも思春期がやってくるのだが、このときまだ性知識が乏しく、異性に対する興味も薄かった。
筆者は中学受験キッズなので、胎児の発生において、父親の精巣で作られる精子と母親の子宮の中の卵子が結合するという概念があることは暗記していたし、卵巣と精巣の構造も予備校のテキストに描かれた性器の断面図から知っていた。
しかしこの性器がどこにあるかわからないのである。子宮はお母さんのお腹の中にあることはほぼ確実とみれるが、精巣は男性の一体どこにあるのだろう。
大人になったいま改めて、小学校向け理科教材を見返しても精巣の在処は伏せられているのである。
おちんちんは男性器の呼び名であるが、思春期以前の男子にとっては「おしっこをするところ」であって、精巣がここにあるという発想に至らなかったのだ。
ようやく性教育に出会ったのが中学時代。筆者は教科書が配られたらまず一通り目を通すタイプなのだが、保健と家庭科の教科書に性や家族計画にまつわる記述があった。やっとのスタートラインだった。
教科書を通じて、女性に膣という器官があることと、月経という現象があること、そして、精巣の場所と性行為について学んだ。陰茎が尿器から性器という概念に変わってようやく、女性に陰茎がないと言う現実を受け入れさせられた。そして身の回りの女子は毎月血を流しながらも平然と生活している。という想像し難い知識にただならぬギャップを覚え、異性への興味がエスカレートしていた頃だった。しかし女友達と仲良くなっても、この疑問をぶつけることはとうとうできなかった。
紆余曲折ありながら敷かれたレールを走り切って社会人になって、縁あって関わり始めたのが今の交際相手だ。付き合って2年ぐらい経って、いよいよ身体を見せ合った。初めて女性の体をメガネ越しに見て、本当に男女の身体機能が異なっていることを実感した。人生の大きな一歩だった。本当に長かったと感じている。
とはいえ、身体を交えて快楽を得ても、知的好奇心は満たされなかった。
男子が陰茎を心の友として生きてきたように女性にも女性の何かがあるはずだと筆者は考えた。しかし身体をまさぐったところで真実には辿り着けないし、拗らせた疑問を投げかけても答えが返ってくるとも限らない。
そもそも体が目当てで交際したわけではないので、消去法的に彼女を欲望の捌け口にしてしまうことは避けなくてはならない。
そんな筆者の欲求に、ある程度は応えてくれたのがAVである。盗撮は犯罪であるから女優によるヤラセであると知っていながらも、スクール水着の着方、ブラの付け方、男には縁のない知識をこうした動画で多く学んだ。
しかしこれでも満たされないものもある。AVと違って現実のトイレはいつも行列を作っている。「どうして女子トイレは並んでいるの?」なんて女性に軽く聞いても、それが普通なせいかなんとも思っていないようであった。いくら親しくとも筆者にはここが限界だ。排泄に時間がかかるのか、スマホでもいじっているのか、なぜ個室しかないのにゾロゾロと連れションしたがるのか。いろいろな文化が気になっても聞く勇気がない。
自分で言うのも変だが、筆者の人生は敷かれたレールの上を上手く走っていると思っている。それは絶対に脱線できない人生であることの裏返しだ。今の時代、異性とみだりに関わることはリスクを伴う。そう言い聞かせてやがておっさんになってもなお今更聞けない謎を一生引きずって生きていくのだろうか。
浅瀬で見かける魚が深海で卵を産んでいても、それを知る術は、浅瀬で卵を産むのを待つか、自ら深く潜るか。どちらにしても茨の道である。
ayumun 未就学児童は個室を覗こうとする位しかしないと思うんで、別に、こっちが大人なら、覗いちゃダメだぞーって言えば済むと思うけど、何をされると思ってんだろなあ。前の晩にシャイニングでも見たのかなあ
今わたしは女児です!って言ってる成人女性は一人もいないのに、元女児という事実とともにあの頃言えなかったNOを発信するのはそんなにおかしいの?成人女性は誰もが元女児なのに?あなたもそうだったのに?
女性は元は女児なので、てのを笑ってる人ら、現女性が元女児なのはまんまその通りの意味しかないのに「女児」とか「女の子」にミーム的な変な意味を勝手に乗っけてるからウケてるのかな?て思うけどつまりは文脈が読めないんだね
大人の女性が元女児であることを主張するのはキツいってなんかで見たけど
大人の女性が私は女児です!女児の扱いをしてください!って言いだしからヤバいやつだけど元女児だからこそ現女児を不快な状況から未然に防ごうとしてるだけでしょ
元女児を名乗のがキショいって意味がわからない。男女関係なく、みんな元・児童でしょうに。
子どもの頃(年齢的に女児だった頃)、嫌な思いをした経験を覚えているから、今の女児たちが同じ思いをしないように「大人になった今」現状を変えたくて声を上げてるだけだよ。あくまで今は大人です。 今、大人になってる女性を女児として扱えなんて一言も言ってないのに、なんでそんな誤解するのか本当に意味がわからない。
読解力がないのか、それとも元ポストの人にあわよくば男児として甘やかされたい欲があるのか。
でないとそんな発想にならないよ………
そもそも男児母が「子供なんだから仕方ないでしょ」って男児に女子トイレを使わせてて、男児に怖い思いさせられた女児や元女児がいい加減女に我慢しろはやめてくれ、って言ってるの。それに対して「産めばわかる」って黙らせようとしたのが子持ち。もともと子無しを下に見てるくせに何が母親叩きだ。
自分が知る限りでは保育園、幼稚園時代に性被害に遭ったという方がおられますので2〜3歳くらいから起こるのではないでしょうか(当事者に加害の意図はなくてもです)。厳密に○歳だから、というわけでなくとも男児を見たら不意に思い出したしまうということもあるのではないかと推察します。
PTAのややこしいところっていくつもあって、親の負担具合の調節が入るか入らないかの2択しか選べないことと、受益者といっても益の部分がグラデーションではっきり分けきれないところだと思うんだよね
2. 会費の支払いが可能かどうか
3. 会費は支払わなくとも都度実費を払うことができるのか?
の3段階あるはずで、正会員(会費、労働力提供あり)、サポート会員(労働力提供なし、会費は支払う)、実費参加(記念品授与などは実費を払えば貰えるのみ)、の3つが本来選べるべきだと思うんだよね
まあ当然そんなシステムにしたら誰も正会員にならないから、仕組みは考えないといけないけどね
例えば正会員の会費は安く、サポート会員の会費は高いとかね
もうひとつの問題は、PTAから児童へ与えるメリットが、実費負担できるほどはっきり分けれるものばかりじゃないこと
例えばPTA寄贈の図書が図書館にあるとか、PTA寄贈のベンチがあるとかだと、実費会員は図書館はいるたびにお金を払う?ベンチ座るたびにお金払う?とかなるよね
でも実際は無理だよね
集団登校のときの道路での監視とかも、PTAがやっていることがあるけどさ、その場合、会員の子は信号とかのサポートをするけど、非会員の子は赤信号渡ろうとしてても無視するとか?できるわけないよね
卒業の紅白まんじゅうとか記念品とかくらいは実費でどうとでもなるけどさ
そうするとどうやったってフリーライドは発生する
やっぱり、入会はしなくとも金銭的負担は実質ほぼ強制するしかなくね?と思うけどね
結局PTA入りたがらないのって、仕事やってるのに無駄に呼び出してタダ働きさせるからやん?
行くのも仕事するのも無理ですよ、という枠の会員を作らないといけないんじゃないかなあ
それなら入会でもめる人減るでしょ