はてなキーワード: 社会生活とは
夫婦別姓のような難しい問題は、正解がないのだから、議論は、相手の主張の最もいいところを取り出してするのではないと、深まっていかないと信じている。そういう意味では、世のリベラルの人たちの主張は全く納得できない。
例:夫婦別姓婚は別にウィルスでもなく、侵略者でもないんですよね。
こういう発言をする人たちは、選択肢が存在することの影響について無邪気すぎると思う。一見正しそうだから政治的主張を通すための戦略としてなら考えられるが、そこまで考えての発言でもなさそう。いくつか選択肢の弊害についての例を見よう。
1)アル中の人の治療にあたって、「アルコールがあっても飲まない精神力をつくるためにアルコールをそばに置く」などの方法は間違っている。そもそも患者がアルコールを飲むかどうか選べる環境にしことが重要。
2)日本語は二人称単数(あなた、君、そちら、お前、あんた、貴様、貴殿、おたく、など)が多く、どれを選んでもある特定の意味がついてくるため、二人称単数は使いづらい。日常生活では二人称単数を避け、名前で呼ぶか、お客様、部長等の肩書で呼ぶか、省略するかのどれかが一般的。英語のYouの幅広い利用と全く違う。
3)子供が難病にかかって残り半年の命と宣告されたとする。治療方法がなければ、残り半年の時間をできるだけよいものにすることに心血を注ぎ、そのあとの夫婦はそのあとの人生を進むだろう。その際に、「一億円かければ一年寿命が伸ばせます」と言われたらどうだろうか。普通の家庭は一年のために一億円準備できないだろうから、その治療は断ることになるだろうけど、そのあと、断ったことを、一生苦しまないだろうか。
これらの例から分かることは、選択肢の存在は人を不幸にしたり、問題を複雑にすることもある、ということ。
日本では普通に考えれば男性の姓になるので、そこに特別な意味を持たせる人はいない。ああ、結婚したんだね、と思うだけだろう。でも、夫婦別姓が許されて、そこで男性の姓を選ぶのは、保守的な価値観を尊ぶとか、家庭を大事にするとか、社会生活はあまり重要ではないとか、何らかのメッセージを周りの人全員に送ることになる。
その結果、おそらく選択的別姓制度がなければ同性になることに何の抵抗もなかった女性は、同性になるべきか悩み、ある程度の数は別姓を選ぶことになるだろう。そこで別姓を選んだときに「嫁に入る」という概念が根強く残る日本社会で、家庭の一体性とか、家庭内での介護の度合いに影響をある程度与える、というのは自然な推論に見える。
id:topyshu さんですら「姓を同じにするぐらいで姑が嫁に優しくなるなら、どれだけ楽か」みたいな乱暴な話をしている。もちろん、嫁と姑の関係においては、姓の他にも影響を及ぼす要因は多数あるから、姓だけで決まるわけはない。ただ、姓というのは重要な要因の一つなのではないか、というのが福島記者の指摘で、田舎の親戚達の価値観を見ている限り、私はそちらの方にある程度の信憑性を置く。
個人的には、それを踏まえた上で、夫婦別姓に賛成だ。理由は2つある。
一つ目の理由としては、今の話は初婚で離婚しない、みたいな話を暗黙のうちに想定していて、子供がいるときに再婚、みたいなのはまったく想定の枠外なこと。でも、離婚と再婚は増えてきているし、これからも増えるだろうと思う。そういう社会で姓、特に子供の姓を親の離婚で変えて、再婚でさらに変える、というのは子供の人権上問題が大きいと考える。女性だって離婚で変わって再婚でまた変わるというのはつらい。
もう一つの理由は、夫婦同姓制度と、それによって暗黙的に求められているイエ制度、特にイエ制度のうち子供を専業主婦が育てることや介護負担を妻が担うこと、というのはマイナス点が大きいと考えるから、そこまでイエ制度を守ることの価値を見出していないこと。現在のイエ制度の主なマイナス点は2つ。一つは、一方的に女性に負担をかけることを社会として仮定するのは、男女平等をうたう憲法に違反すること。憲法改正が話題だけど、さすがに男女平等は変えないだろうと思う。あとは、現代日本の最大の問題である少子高齢化と、その背景にある女性の晩婚化は、イエ制度により女性の30代以降の社会的なキャリアが閉ざされていることが大きいこと。
ホームレスはほとんどの人から虐げられているけど、フリーターは虐げられていないだけで同じだ。
フリーターとは、店長から残業を強いられて休みを入れてもらえない言いなりのコンビニバイトみたいな人のことを指している。
彼らは、社会生活に紛れるために権力者に抗わないで言いなりになっている。また現状から脱出しない・生活を良くしようという向上意識がない。カードゲームなどの娯楽で時間を潰せればいいと思っている。一般人と区別がつかないように努力し身なりを整えてて社会生活に溶け込んでいる。
ホームレスは、すべてを放棄し社会生活から外れていてる。現状から脱出しない・生活を良くしようという向上意識がない。(まあ抜け出したい人もいるかもだけど行動して早く脱出しろよ甘えるな。)
位置は違えど振り幅はまったく同じの存在。
中学時代はかなりの進学塾に入って全国模試でもかなりいいところまで行き、高校も進学校に入学して、リベラルな校風で部活なんかも楽しそうだったんですけれど、なんかそこでどうでもよくなってしまい、いろんなことを積極的にやらなくなってしまいました。登校も休みがちになり、家を出ても河川敷でずっと川を眺めていたり、学校に行っても人気のない藤棚で一日中本を読んでいて授業に出なかったりとしていました。当然出席もたりずこのままでは留年になるのも理解していましたが、かといってそれでやる気が出るわけもなく、そのまま一年ほど過ごして中退しました。高校中退学歴ですね。
そのあともだらけた生活を一年ほど送っていたのですが、別にどうというきっかけもなく「意に染まないことは一切しない人間になろう」と決心しました。
何かやろうと決心したことのための苦労ならまだしも、周囲に言われたり、同調圧力でいやなことは一切しない、それをするくらいなら自殺する、と決心をしたら、なんだかスーッと肩の力が抜けました。今だから思うのですが、学校の授業に出なかったのも、別に勉強が嫌いなわけではなく(実際座学は嫌いではなく好きな方です)、周囲の圧力やベルトコンベア的に押し付けられるのが嫌だっただけのような気がします。
まあとにかくそう決心したら急に楽になって、好き勝手なことを(趣味や仕事っていう意味です)沢山しました。色んな業界で勉強したし、面白い経験もびっくりするくらいできました。意に染まない業務命令をされたら辞めるつもりでいると、仕事は何でも楽しいですね。謝罪したり同僚に気を使うことさえ、自発的にやる方が百倍楽です。自分の人生の主導権が他人にあるのは、本当に疲れます。
両親は自分が二十五になるときには死んでしまっていたので(介護で長期間拘束とかはなくて、そこは感謝しないといけません。遺産とかはありませんでした)身軽になってからは、海外勤務も経験しました。意に染まない事態になったら辞めるつもりでいると、仕事で怖いことがあまりなくなります。それは海外で働くにはかなり重要な要素だと思います。日本人がふらふら中国だのモンゴルだのに行って、製品の売り込みをやったり、メンテしたりするのは、物おじしてたり嫌々だったりしたらとても難しいです。うるせえお前らが何を要求してきてもこっちに出来ねえことは出来ねえよ、客だからって何でも通ると思うなよ、くらいに思っていた方がうまくゆきます。
今現在四十歳を少し超えましたが、何とかまだ生きています。意に染まないことはしたくないので、若い時に比べて仕事の量も減らしました。一応会社を設立してそこで仕事をしてますが、年のうち半分くらいは、高校時代と同じくぼーっと海を眺めたり、パンをかって遠くまで散歩に出かけたりしています。怠惰でやる気はありません。今は運よくそこそこ良い暮らしですが、本当に何かあって意に染まないことをしなければならなくなったら、さくっと自殺しようと思ってます。四十年生きれば元とれてると思います。
鬱になったら治そう、治さなきゃいけないというのは、わからないではありません。だって本人が苦しいから(そういう時期もありました)。
でも、その動機が「周囲に合わせた社会生活を送らなければならないから」治さなければならない、というのであれば、疑問です。正直そんな人生に価値があるとは思えません。
自分は怠惰のまま、自分の好きなことをやって、それで死にます。言ってみれば、鬱のままのうのうと生きてゆきたいですし、そのつもりです。ノートパソコンと海外経験と契約実務の経験とあとはサボるための努力で人間は十分生きていけます。
日本の学生は、周囲に合わせることに努力リソースの大部分を消費しすぎだと思います。個人的な感想ですが、そんなことしても、(卒業後の)社会は助けてくれないし、人生も職も世話してくれないです。
どうして異性に美形を望んでしまうのか。
動物であれば繁殖のために異性の目を引こうと飾り立てる意味もあったのかもしれない。
けれども、現代の人間社会において容姿だの美醜だのにどれだけの意味があるのだろう。
美を保ち異性の目を惹きつけることは、社会生活において必要なのだろうか。
資本経済の社会なのだから、経済力の優劣は魅力として機能するだろう。
社会生活を円滑におくる上で社交性や会話力も魅力だろう。
あるいは社交的ではなくとも科学技術の発展に貢献するような技術力は認められてもいいだろう。
少なくとも一夫一婦の婚姻制度が支配している社会であれば、一人の伴侶さえ得ることができれば十分である。
発達障害者の処世術 http://anond.hatelabo.jp/20151101094059
このコピペに結構反応があるようなので、自分なりに構築したもう少し詳しい処世術について書いてみたい。
ここは同じ。厳密に言うと、定型発達者の生き方を見習ってはいけないということ。
幸せそうに見える彼らと同質の生き方ができる解の存在を信じないこと。存在しないかもしれないから。
尖ったところ凹んだところに合わせて、オーダーメイドでより生きやすい形を模索しないといけない。
以下も自分の歪み方や歪みの大きさに合わせた戦略なので、他の人にどれだけ参考になるかはわからない。
対人関係は勘に任せて動くと必ず失敗する。
ただ、社会生活をしてるとどこかで避けられない交流を強制されるので、その時点で無策なのが一番まずい。
匿名で適度に炎上しておいたり、状況として許されそうな時はややリスキーな選択肢を取っておいた方が学習が捗る。
一部のこだわりの対象以外はどんどん忘れていくので全部メモしておく。
特に転んだ結果と把握したタブー、その対処法は確実に保存しておくこと。
自分の歪みに合わせたマニュアルは自分しか作れないので外の言説を鵜呑みにしないこと。
こだわりの対象に関連のある技術や知識が要求される職に就いて、能力如何で生存が決まるような業界に居着くこと。
間違っても人柄がどうのコミュニケーション能力がどうので命運が左右されるような業界を選んではいけない。
特にアスペの場合は瞬間的な話し言葉の送受信に欠陥がある場合が多く、これは定形発達者と同じ土俵で戦う際に著しい困難を伴う。
われわれに限った話ではないけど、発達障害者は特に、家族友人その他どんな相手にも本音を漏らすべきではない。
医療関係者は除く。元増田みたいにネットの掲示板(匿名に限る)で放言するならよい。
ただ、隠し続けた結果自分の本音が分からなくなるとアイデンティティが危うくなって混乱してくる。
抱えている障害の程度によるが、障害者レッテルを受け入れるかどうかは真剣に考えた方がいい。
障害を自称した時点で、対人関係の大部分はマウンティングされることが前提になるので周囲の善意に期待するしかなくなる。
流されていった先に安穏と暮らせる場があるならいいが、無かったら詰みである。
得意なこと以外は実年齢マイナス5歳ぐらいの相手と張り合うのが精一杯で、これは恐らくどうにもならない。
比較して自分の状況を確かめるのはいいにしても、追いつこうとして実現不可能な努力をし始めるとまずい。
指示助言を受けたら一度飲み込んで咀嚼して処理可能な形に変換してから実行すること。
彼らの実行可能領域と自分の実行可能領域は異なることを自覚すること。
何もかもまず批判的に受け取る。結果的にそれがお互いのためになる。当然この本音は外に出さない。
ろくなことにならない。例え同一ラベルの障害を持つ人を模範にしても上手く行かない。
定型のスタイルがベースで、発達障害者はそこからずれた生き物。
それぞれの発達障害者は三々五々に異なるベクトルでずれていて、同じずれ方をする確率は低い。
われわれの孤独はこのようにして生じているので、同質の何かとは滅多に巡り会えないのだと知るべき。
大人になるとアイデンティティーの8割がどういう仕事をしているかになってくる。赤の他人から見れば100%といって良い。たとえば山田太郎君が料理人であるとしたら山田太郎君ほとんどイコールで料理人と見られる
ホリエモンであれば実業家、ダウンタウンであればお笑い芸人となる
社会にどのように参画しているかはその個人を100%定義するものではないということをみんな忘れすぎじゃないのかと感じる
個人は社会人である前からすでに個人であり個人の興味から仕事になる人もいれば興味のないことを仕事にしている人もいるわけで
興味のないことを仕事にしている個人をどのような仕事をしているかで定義するということはその人の本質からはまったくかけはなれているどころか本人はその仕事に興味がないのだから社会人としてその人を見ている限りその人のことを永遠に理解することなどできないだろう
というかほとんどの人間が仕事なんて金のために嫌々やっているものなのだから社会人=個人という視点を持ち続けるかぎりは絶対に他人と本当に仲良くはなれない。学生生活にくらべ社会生活では友人関係を構築するのが比較的難しいのはほとんどこの視点によるところがおおきいと感じる。
もっと人は人を見るときには社会でのアイデンティティーよりもその人がどんな異性が好きなのか、どんなことで怒り悲しむのか、どんな本を読むのか、どんな音楽が好きなのかなど個人を見つめるべきであると思う
だから僕はホリエモンや損正義にぜんぜん興味が湧かない。彼らはリベラルでどんなものでもビジネスであれば認めるだろうしどんな音楽でも「クソだ」なんて言わないだろうし企業のトップにいる以上は軽率に好悪をならべたてるような発言はしないしできないからだ。
差別を構造で考えるとわかりやすくなるよ。(社会的に問題とされる)「差別」というのは、本来判断されるべき基準とは関係ない、個人の選択ではない要因によって、公的に不便を強いられること。
(差別されて傷つく、などの感情問題にしたり、知人間でハブられるといった個人関係の問題にすると話が曖昧になるので、そういう要素は考えない。あくまで社会生活を営む上で不利不便が生じるかどうかだけを考える。)
表現の自由は原則として尊重される。けれど、ある表現によって、特定のカテゴリの人に敵対的な環境が社会的にできてしまい不便を強いるならば、その表現は公共の福祉に反するので制限される、という考え方ね。
もちろん判断基準はケースバイケースではっきり白黒つけられないことも多いけど、この基準で考えるなら、表現が対等でないことなどがわかるだろう(どれだけの不便が生じるかを見れば、マイノリティを抑圧する発言とマジョリティに対するそれとは自ずと扱いが異なる)。
名文句「プリントアウトして病院へ」「恐ろしい恐ろしい」を流行らせ運動と瞑想を勧める
オキシトシン点鼻薬を熱く推していることは認識されているであろうか?
http://b.hatena.ne.jp/entry/270836663/comment/xevra
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はてなユーザーの様に社会にうまく馴染めない連中はオキシトシン周りのバランスが崩れている。オキシトシンは普通に売ってるので鼻にプシュッと噴霧して社会生活を楽しくして欲しい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/270672175/comment/xevra
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単に発達障害なんだろう。はてなにも沢山居る。キーボード持たしてごらん、途端に饒舌になってdisり始める。該当の人はオキシトシン点鼻薬を試してみてはどうか。お大事に
http://b.hatena.ne.jp/entry/270583000/comment/xevra
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とりあえずオキシトシン点鼻薬を試してみてはどうか。脳の問題を指導方法の方法論だけに落すと不十分な気がする。ちゃんと脳そのものに届く施策も組み合わせたい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/270300303/comment/xevra
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サイコじゃない、アスペだ。一生苦労すると思うが本人が苦痛でないならいいんじゃね? とりあえずオキシトシン点鼻薬を試してもらってはどうか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/267972735/comment/xevra
http://b.hatena.ne.jp/entry/267916289/comment/xevra
里親制度にも色々問題はあるだろうが、異性カップルと同性カップルを同列に扱うのは程度問題の域を超えている。
それこそ、元増田の言うように、異性カップルには次世代を生み出す可能性がある一方、同性カップルには次世代を生み出せないのと同様、
異性カップルが里子を幸せに育てる可能性がある一方で、同性カップルが里子を幸せに育てる可能性は限りなくゼロに近い。
きちんと社会生活を送っている同性カップルなら出来るとか、そういう問題じゃないんだよ。
今現在の、寛容でリベラル、立派な大人のあなたじゃなくてっさ。
フト思ったんだが。
「男は1点だけで評価」
「女は複合的に評価」
なんじゃないか?
って思った。
男は、っていうか、俺がそうなんだけど。
俺は、「この人はどういう人だ」っていうのを見るときに。「その人が一番できること」でキャラを見ている。
たとえば、100メートル走が早いなら、それで。数学が得意なら、その能力がどの程度か。
そういうところでキャラを見ている。
だってさ。他の部分の個性とか、キャラってのは、あくまでその人の人生の主なる目標に寄与するためのサブ的なものであって、すべてはメインのキャラに収束されるって思うわけよ。
ネットの女が口にする評価基準は、「いくつかの要素の組み合わせ」でキャラを見ているっぽい。
たとえば、「100メートルの選手×身長180センチ×料理好き×群馬県出身×B型」みたいな。いくつかの評価軸の『組み合わせの妙』をみているみたいだ。
1つ1つは、特段語ることはなくても、そのすべてを兼ね備えてるのはその目の前の人だけだから、その人との付き合いはスペシャルなものになるよね?みたいな。
この違いってのは、確かに合理的に思える。インテリジェント・デザインみたいな言い方でちょっと違和感あるけど、説明させてくれ。
つまりさ。
男の場合、狩りするときに、やっぱ、1つの能力磨くじゃん。罠作るなら罠、ランサーならランサー、プログラムならプログラム。アル一点を磨いて磨いて、それで勝負するわけだ。で、突出した専門分野が生き残りに必須なわけだ。
一方女の場合、仲間とうまくやったり、夫とうまくやることが大事で。そうすると、空気を読むためには複合的に評価する。
人間性とか言うときに、俺は、一点評価の、文学とか、哲学とか、そういうレベルでの人間性の話を考えてしまうんだけど。
女が人間性って言うときは、「花屋×身長165センチ×バスケやってた×MT免許×マイメロが好き」っていう組み合わせを、どうやって調和させているのか?っていうそういう部分の物語性とかキャラの造形とかを楽しんでるっぽい。
俺は、それがまあ、わからないこともないんだけど、そういう風に考え出すと、「確かにそれぞれの人間の腸内細菌は100兆匹、100種類くらいだから、組み合わせは無限だよね」とか、わけのわからないことで判断しだしてしまう。
女のいう、人間性とか、あるいは感受性、やさしさ。ってのは、ある種の社会生活っていう規範の中での、「プロトコール(論理的に決まるルールではなく、現在の社会を安定させるためのデファクトスタンダードな理屈より実用性でのルール)」を語ってたわけだ。
って思った。
今から40年ほど前のことですが、、私はそれで救われました。「兎の眼」と「太陽の子」が特に響きました。小学生から中学生ぐらいのときのことです。
私には「人からありのままを肯定してもらった」という記憶はなくて、存在していることが申し訳なくて、自分を消し去りたくて、でも死ねなくて、死ぬこともできない情けなさがさらに申し訳なくて、という堂々巡りでした。
誰からも「ありのままでいいんだよ」と言われなかったので、生きていていい理由は自分で見つけるしかありませんでした。
今思うと、なぜ灰谷さんの本に救われたのかよく分かりません。しかし、むさぼるように読んで、何度も読んで、「こんな自分でも生きていてもいいのかも」と少し救われたのを思い出します。
それ以来、なんとか社会生活を営めています。また、年を取るごとに、実は周りの人たちがいろいろなことで助けてくれていることにも少しずつ気づけるようになりました。未だに自己評価は低いままですが、まだしばらくは生きていけそうです。
前々から思っていたけど、ここ最近前にも増して女という生き物が邪魔すぎてストレスが溜まる。
俺が言う「邪魔」というのはなにも『女性の社会進出がぁ~』とか『人間、やっぱり外見より内面のほうが大事だよね~※』という高いレイヤの話ではない。
むしろレイヤ1=物理層。文字通りの意味で「邪魔」なのである。
日々感じる事を挙げるとこんな感じ。
(歩きかたが邪魔)
歩道の真ん中付近を歩く。微妙に横のスペースが狭いので追い抜きづらい。
それでも追い抜こうとすると、何故かこちらに寄ってきてぶつかりそうになる。
そもそも後ろや死角に対して全く注意を払わない。
まあ言いたいことは上と同じ。
肉選ぶのにどんだけ時間使ってるんだよ。どれ選んでも大して変わらんから。お前がどかないと俺が買えないんだよ。
あとレジ。金払うのになんでそんなに時間かかるんだよ。ポイントカード出すなら予め用意してろ。小銭がきっちりあるか穴が空くほど財布の中見渡してんじゃねーよ。
いわゆる「ベビーカー問題」ね。まあこれに関しては正直言って寛大な心を持っているつもりではあるんだけど、やはりラッシュ時とか勘弁だし。むしろ同じ場所に居合わせてしまった自分の不運を呪う感じすな。
しかし女の方が圧倒的に多いのだ。少なくとも俺はそう感じる。
しかし社会生活においてはどうしようもなく邪魔な存在でしかない。
日常生活において器量の良い女が増える事を切に望む。
人間という分類範囲は社会における人権の有無と等しいものだよ。
定義した社会においての人間についての話でいえば善はあるよね。
いくら悪人が悪事をしたとしても、それを問えば悪であったことを認めようとせずなんらかの善意における行動だったとか、悪であることの印象を軽減しようと取り繕ったりするよね。
悪事を悪事であるまたは当然であると悪であることを貫き等せない人間は善による矯正をうけたりその意思があることになるよね。
これまでで一度も警察のお世話になっていない、つまり社会的に悪であるということを指摘されることがなかった人間は実質「善人」でしょう。
態度がわるいとか非人道的な思想とか臭いとかそういった基準で人間の悪を測るならそれはその基準があなたの考えた最強の何らかの話でしょう。
クマを街に放して人を殺しまくったとしてそれが悪なのか善なのかと言われれば善でも悪でもないでしょう。
善の意識を呼び起こそうと注意喚起や交渉を重ねたところでその行為はおそらく止まらない。それが人であったなら完全な悪。
おいまてと言われて止まるだとか、やめろと言われてやめるだとかいうことが善の有無になりえるというのが社会の基準。
やめろと言ったのに止めなかったというのが罪の重さに関わってくることからもわかるよね。
どれだけ迷惑な行為をしたり悪事を働いている人をみたのかしらないけど、それらを人間として扱って注意したり交渉したりすることで対応できるよね。
ネット上の話でも起訴するだとか威力による無力化を計るだとかでその当人の善を引き出すこともできるし、それまでずっと社会に悪だと判断され隔離されてきたわけでもないよね。
万引きやいじめが悪だと自分の生活している範囲では定義されていることを知らなかったのであれば学べるし、学んだ結果善を選択することもできる。
その社会の定義を知る前までは人間ではないし、人間扱いしてはいるけど「保護者」というものがついてそれを指導したりしてる。
ペットは飼い主が社会生活の補助を行うけれども学習によって一人で社会生活できるようにはならない。
定義があまくて卑怯だとおもわれるだろうけど、社会において人となるまでは畜生だし、人となった時点ではすでに善が存在してるので、タイミング的には性善説になっちゃうね。
便宜上法律の上では人から生まれた自立維持を行う生命体のことを人間と総するけど、細胞の単位で善悪があるとか思うほどおかしい人ではないよね?
最近、なぜ俺はコミュ力あるのに、彼女できないか考えてたら、ふと思いついた。
「俺、出会いがあるコミュニティーに属そうとしてないんだ」と。
俺は、生きることが好きじゃない。だから、他人とできれば関わりたくない。
関わりたくないが、それでは社会生活送れないので、コミュ力を『みにつけた』タイプ。
メンタル的には、だれにも関わらずに、森の奥でネットだけして過ごしたい。って感じ。
でも、親もいるし、しょうがないよなって生きてる。
だけど、親もいるし、兄弟もいる。俺は稼ぎ頭なので、俺が稼いでいることが必要だろう。
最低限の付き合いはするし、すんげー明るいキャラとか、分かりやすい『キャラ』を相手に合わせて使い分けてる。
しかし、他人と関わりたくないから、ネトゲとかばかりしたり、本読んだり、ジム行ったりみたいな、一人遊びばかりしてる。
で、俺がなぜ女と出会えないのか。ナンパか?バーか?とか思ったが。
コミュ力って、口がうまいとか、楽しませるとかじゃなく、コミュニティーに参加する能力かもしれないって思った。
いるいる。なんか、やたら飲み会とか、いつのまにかライングループ作ったりする奴。
あいつら、多分それがプラスになってると分かってるし、今までうまくいったからやるんだ。
で、そいつらみたいな、コミュニティー作れる奴が、ある意味モテるんだろうなって思った。
なんで、コミュニティーが大切か今まで分からないまますごしてきた。だけど、なるほどなって思った。
コミュニティーを作れる、たくさんのコミュニティーから人を紹介できる(人脈ってやつか?)ってのは、そりゃモテるんだろう。
俺は、一人で自習でコミュ力上げてたが(本とか、ニコニコの実況とか、お笑いとか、バラエティーとか、2chとか、youtuberみたいなので使えそうなの練習してみたり)、なんのことは無い、コミュニティーってか、他人とつながろうとする心がまったく無いんだわ。
来年生きてる自信ないな、ってので何年も着てしまったってか。まあ7年前自殺未遂したんだけど。それ以来、俺の人生余生ってか、ふわふわしてんだよな。死後の世界ってか。
なるほどなあ。