はてなキーワード: 社会生活とは
中学高校の受験が義務教育をベースにしてるのは問題だと思います。
制度という名の建前上では絶対評定から相対評定に変わりましたが、教育の格差が無くなったわけではありません。
むしろ受験によるふるい分けには格差はあってもらわないと困るのです。
だから学校は一生懸命に教えないのです。教えるふりはするでしょうけども。
本当に一律に義務教育の内容を理解させる気があるんだったら「100点取れるまで卒業できま10」みたいにしてくれないと筋が通りません。
たとえ開成高校の受験問題だろうが義務教育を履修した人間ならば全員が時間内に満点取れるというのが義務教育の趣旨であり理想です。
なぜなら開成高校の入試範囲は中学卒業までに習ったことを範囲としているからです(これは東大の入試問題が高校卒業までに習うことを範囲としていてそれ以外のことは問わないことと対応しています)。
でもさっき書いたとおりそうすると困るのは教育者側です。これが制度との矛盾です。
そのうえ法律で保障しているのは「受けさせる義務」であって「受ける義務」でないのも問題でしょう。だからこそ、形式的に履修させたら理解度に関わらず卒業という、本末転倒なことになっているわけです。
受験に義務教育の範囲を絡ませるべきではありません。義務教育とはすなわち「日本で生きるならこのくらいは知っておけ」というものなのですから、そこに知識の格差を前提とした受験を絡ませているのは根本的な矛盾です。
であるとすれば、より高度な「知らなくてもいい」ことで競わせるしかないでしょう。法律も変えるべきです。
私も義務教育完璧に理解できなかったから社会生活上で損してるところがあると思います。
しかし社会人になってからの独習には厳しいものがあります。義務教育で扱うような根本的で基本的な事柄こそ、人に付いて教わるのでなければ誤った理解をしがちです。
数年前に聞いた世間話
高学年になり子供が「あの子は変わっているから気が乗らない」と言い始めたので家族ぐるみのお付き合いが出来なくなった人がいるそうだ
相手のご家庭のお子さんは飲料は水しか飲んだことがない、危ないので雨の日は傘を使わせずにレインコートなど
当時の私は子供がいなくて「確かにちょっと変わってますね。まあお子さんも高学年だしそんなもんじゃないですか」みたいに適当に返事をしたと思う
内心私は「水しか飲ませないなんて過干渉な親だ、いろいろ制限されてかわいそうな子供だ」との感想を持ったことを覚えている
しかしながら、今になって思うと発達障害の特性による味覚過敏や加害防止などの可能性もある
当時から発達障害を知らなかったわけではないのに全く思い付かず「過干渉な親」と決めつけたことを反省している
口に出さなくて良かった、あるいは口に出していたらその場で誰か教えてくれただろうか
だけど、今でも難しい問題だと思う
自分の子供に対して、相手のご家族に対して、その子に対して、その世間話に対して、適切な対処がわからない
都度相手が望む対応を確認してそう振る舞う以外の方法が思い付かない
しかし自分の希望を言語化できる人は多くないし、互いの希望が相反する時は必ずある
何かまだ自分に足りないところがあるのだと思う
セルフネグレクトは「自分の身体と自分の人生が唯一無二の価値あるもの」だという前提を失うことで発生する
自分の価値が外的要因で踏みにじられ損なわれたという事実に耐えられないから主観を自分の外側に置いて逃避しなければならない
自分は価値のないものだから、いくら踏みにじられてもなんともない、自分の尊厳は傷つかない、なんなら自分で自分を傷つけたってなんともない
当然、ダメージを受けていないのだから社会生活は当たり前のように送らねばならない
社会と私生活の自分がどんどん乖離していって、さらに自分の身体と心も乖離していって現実感も失っていく
こうなるともう無価値な自分が無為な時間を過ごしているだけで自分のことについて何もやる気が湧いてこない
社会生活の方が価値があるから自分を犠牲にして活動するようになる
そして壊れ続けていくのだ
4年前ひょんなきっかけで34歳独身子供部屋おじさん無職と知り合った。
当時自分は20前半、ゲーム会社に勤めていてそれなりに忙しかった。
そのこどおじに、付き合ってるわけではないのに毎日のように自分がなにをしたかのライン、無視すれば追いライン。うんざりしていた。
彼には遠距離で付き合ってる女性が居たらしいが全然かまってくれないらしい、そこで私に目をつけたのだ。
無職だから暇なのだと思い、仕事をするように託したら「仕事なんてやりたくない!」から始まり日本社会がいかに間違ってるかを語りだす
暫くほっといたら「働くことにした」とのラインがきてお!と思い話をきいたら、蕎麦屋で修行すると言い出し、それって給料いくらもらえるの?と聞いたらわかんないと答える始末
しかし普通の事務職や営業職をやるより技術が身につくしいつか海外(彼は10年以上フランス語習ってやっと4級)に蕎麦屋の店をだすと言い出す。
夢はでかいのはいいが、地に足がついてなさすぎて大丈夫かよ・・・と思いながらほっとく。それから毎日のように自分が何をしたかのラインが再びくる。
それで遠方の彼女にフラれたらしく、
そこから自分の周りにいた10代の若い女に手をだすようになり、本気で辞めてほしくおもい忠告したら逆切れ。以前ベルギー人の16歳の女の子と付き合ってことあるから
いけるとおもった(しかし会ってはなくネット上だけの交流らしい)と言い出し社会生活まともに送ってないとこうなるんだとびっくりした。
本気でやばい人だとおもい、逆切れを利用し切った(その後10代の知り合いの女をけしかけて毎日のようにネット上でFPSゲームをしていた)
今から本の話をしますので、「ほーん」と思いながら見てください。(推敲後追記:本の話より自分語りが多くなってしまいました。)
自分は公立高校の教員を10年ほど続けています。最初の数年は比較的、学力の高い高校に勤務していました。中学段階での学力を輪切りにする入試で入学してくるので多少の上下はありつつも、中学校で上位30%〜15%の生徒が入学してくる学校でした。大学入試でいえば関関同立レベルに1/3程度の生徒が入学し、半数以上が産近甲龍に合格するような学校でした。(国公立はほとんどいません)
その後、異動した今の勤務校はいわゆる「生徒指導に課題のある学校」です。立地的なことや設立の経緯から、様々な背景を持つ生徒が多く在籍しています。ほぼ毎日のように生徒指導上の案件が発生し、停学を含めた懲戒案件も年間に50件以上起こります。
生徒の多くは中学校段階、あるいは小学校段階で「問題のある生徒(家庭)」としてリストアップされ、「高校に行くなら〇〇高校(本校)しかない」と言われて進学してきた生徒です。実例は挙げにくいですが、「金八先生」や「GTO」、「クローズ」をイメージすれば近いです。
勤務する中で最初は前任校との違いに翻弄されましたが、よくよく考えればその「違い」は当たり前で、今、目の前にいる生徒に対して必要な事を考えながら働いています。
在籍する生徒の多くは発達に何かしらの課題を抱えていて、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)、ASD(自閉スペクトラム症)の診断を持つ生徒もいます。診断があれば、個人内絶対評価などの合理的配慮も行っています。
ただ、生徒の大部分は診断されていない、あるいは診断が出ない生徒です。しかし、それでも支援を要する生徒はたくさんいます。いわゆる「しんどい子」です。
「しんどい子」を前にした時、我々教員は大体2つのパターンに分類されます。①「しんどさ」に寄り添いすぎて甘々になる教員②「しんどさ」を理解せずに厳しさを押し付ける教員です。①に関しては「課題を多く抱えているのだから優しくしてあげれば良い」②に関しては「教員の言う事は全て正しい、言う事を聞けないのはおかしい」というように両極端になります。
教員の人間性やスキルにもよりますが、どちらにせよ「課題を多く持つ生徒を少しでも伸ばす」という視点に欠けてるなぁと思いながら過ごしています。
確かに、「しんどい子」を前にした時どうすればいいかわからないことは沢山あります。原因もわからない事が多く(発達上の課題に関しての理由はほとんどわかりません)、対処方法もわかりません。
そんなこんなでモヤモヤしながら勤務を続けて数年目ですが、2年前に「ケーキの切れない非行少年たち」という本に出会いました。この本は〜児童精神科医である著者は、多くの非行少年たちと出会う中で、「反省以前の子ども」が沢山いるという事実に気づく。少年院には、認知力が弱く、「ケーキを等分に切る」ことすら出来ない非行少年が大勢いたが、問題の根深さは普通の学校でも同じなのだ。人口の十数%いるとされる「境界知能」の人々に焦点を当て、困っている彼らを学校・社会生活で困らないように導く超実践的なメソッドを公開する。 〜(出典:Amazon)という内容です。
この「境界知能 IQ70〜84」の人々が、我々の目の前にいる生徒の多くに当てはまると感じました。そして、この本から多くの気づきを得て、生徒との関わりを変化させてきました。
この「ケーキの切れない非行少年たち」の続編として「どうしても頑張れない人たち~ケーキの切れない非行少年たち2 」が出版されました。
この本です。紹介したいのは。学校教員や、対人の仕事をしている人、自分の子どもが「しんどい」保護者に読んで欲しいと思います。
特に教員の人には高学力の学校に勤務していても、いつかその様な生徒を前にするかもしれません。あるいは、こちらが気づいてないだけでそんな子を指導しているかもしれません。
我々(一般的な大人)には理解できない世界(環境という意味ではなく、認知力の不足による)で過ごしている子どもは多くいます。ですが、我々はそのことに気がつかず、気が付いても対応の仕方がわかりません。そうして、そのことに少なからず絶望し、他者との関わり方が歪む子どもがいるのは事実です。
しかし、おそらく多くの大人は(少なくとも教員である私は)目の前にいる子どもが「今の自分」よりも良くなり少しでも明日に希望を持って生きていくことを望んでいます。
正当化を避けるために、あえて言えば私自身も生徒指導の困難さから、いつも正解の指導ができているとは思いません。正直な所、自分の人間性に合わないことや、スキルに見合わない事、どうしようもない事が毎日起こります。
しかしながら、場当たり的な甘やかすだけの指導や、有無を言わせず従わせるだけの指導を超えた支援を考え続けたいと思っています。そうすることで「生き辛さ」を抱える人が減っていけばいいなぁ。と思いながら教員という仕事を続けています。
長くなりましたが、少しでも興味がでれば「どうしても頑張れない人たち~ケーキの切れない非行少年たち2 」を読んでみてください。
自分たちは異性に対して金や年収や顔や肉体面での性能しか求めてないくせに
当然異性もそれを求めるわけで、でも異性が「どれか一つでも釣り合うもの持ってたらそれでいいよ」
って仏様の如き破格の条件を出して求めてきたら
お前は人でなしだとか見下すなとか人を数字で判断するなとか差別主義者だとか猿みたいに歯を剥き出しにして怒り狂って発狂するよね、弱者男性って
両親がマッドサイエンティストでいかにして基地外育てるかで壮大な実験の末に生まれた人口畜生人間養成計画で生まれた生物兵器みたいな悲しいモンスターとかいう生い立ちでも俺は驚かないけどさ
ムシがちょっと良すぎない?
松葉づえをついても買い物ができるように、腹に水がたまったものを抜いて社会生活が送れるようにするのは、患者ではなく医者や行政の仕事だ。
それは医療という手段を患者が選択して使ったので症状が緩和されて日常生活が送れるんだよね。
弱者男性患ってる自分をなんとかするのは周りの仕事!という主張だと受け取られかねませんよ。主体的に解決手段を選択、実行して日常生活を送りましょう。
医者は治療意思のない患者をわざわざ治療したりしません。行政だってまず役所に来てくれなきゃ福祉に結びつけることはできません。
過去にもラブライバーが殺されたり滋賀とか神戸の須磨とかで死人でてるのに何も進歩してない
本当にどうにかして欲しいんだけどなんでこんなに何十年も変わらないの?
そもそもいじめられた側が不登校になると「逃げ癖ついた一生嫌なことから逃げる負け組」みたいなレッテル貼られる割に、いじめた側のリスクなさすぎでしょ
「弱者男性の指す範囲が広すぎる」という意見も目にしたから、「ある種の弱者男性」としておこうか。
ここで言う「ある種の弱者男性」というのはいわゆる非モテ男性、そのなかでも容姿等の外面的な要素で女性から嫌悪・排斥され、そのぶつけられた嫌悪を内面化した人達のことだ。
容姿がキモい、喋り方がキモい、動作がキモい、、、、女性はまあカジュアルに言い放つ。
そしてそんな言動は一切咎められず、むしろ「不快にさせられた女性こそ被害者」として正当化される。
女性は正しいので悪いことをしないだろう、女性は弱者だから男性というだけで恵まれているだろう、
女性は被害者だから男性に対して加害者にはならないだろう、女性にとって好ましいものこそ善だろう
こうした世の中のリベラルな通念が呪詛となって、後々「ある種の弱者男性」を苦しめることになる。
言われた側の男性は自然と「自分はキモい」「女性にとって不快」、果ては「自分は世の中の害悪」と自己を規定する。
なぜか?女性に不快な思いをさせ嫌悪させるものは「悪」だからだ。
(そうでしょ、フェミニストのみなさん?)
社会の正義に沿おうと真面目に考える男性ほど、こうしてより深く罠に嵌る。
「おまえは『悪』だ」と判定を下されたら、もちろん返上しようとする。だがその成否を判定するのも結局女性でなければならない。
つまり、男性が「善良な存在」であろうとすると、必然と女性ウケ(モテ)を意識せざるをえなくなる構造になっている。
だが、キモい男性がアプローチしても害悪扱い(セクハラ、告ハラetc…)されるだけなので、
多くの場合は徐々に恋愛=女性からの承認、すなわち「善良」であることを諦めていく。
「女性は男性の人格を、外面的な要素から正しくジャッジできる」という信仰のもとに、
「清潔感」という言葉で包められ正当化されたルッキズムにさらされ、(努力も虚しく)女性に好ましい容姿を実現できないというだけで
「不潔で不衛生」「人格が劣悪」のレッテルを貼られては正当化され、それをまた内面化していく。
(そもそも女性のジャッジ次第で人格までレッテル貼りされること自体が不当なのだが、そう思うことも難しい状況にある)
そして「ある種の弱者男性」は、「自分は害悪だ」と思ったまま、自信も自己肯定感も失っていく。
女性のいる場所はもちろん、女性に(人によっては同性にさえも)話しかけることを恐れて所謂コミュ障になっていく。
自信も自己肯定感も物怖じしないコミュニケーション能力も、男性が豊かに生きるには非常に重要だ。
むしろそれらが欠如するのは致命的とも言える。
女性の場合なら自信なさげな態度と言動は奥ゆかしさとも捉えられることもあるだろうが、男性、それも容姿が悪いともなればどうか。
例えば一般的な企業の入社面接を想像してみてもらえばその悪影響の大きさがわかると思うが。
そして流れ着くのは薄給のバイト、ブラック企業、危険を伴う肉体労働。
こうして、学校で女子にキモいと罵られた少年は、弱者男性となっていく。
女性たちからキモい害悪とレッテルを貼られ拒絶され、女性との交際を諦めた弱者男性は、
それでも大抵は「害にはなりたくない」と願い、女性を避けるように生活する。
弱者男性の多くは、女性から承認されない、恋愛できない自分はダメな奴なんだろうかと不安を抱え、SNSやgoogleで検索をする。
すると遅かれ早かれこうした文が目に入ってくることになる。
言い換えれば、「(異性愛者で)女性に選ばれない男は人格的に劣っているに決まっている」
あるいは「女性にとって好ましい男性は人格面も優れているに決まっている」、ということになる。
そしてそんな類の暴論が数百、時には数千単位の「いいね」を集めている。
さらに社会正義を謳うリベラルやフェミニストは、非モテ男性を敵視し、口を極めてその人格を貶める。
曰く、非モテ男性は甘ったれている。曰く、非モテ男性は性欲の権化である。
曰く、非モテ男性は誠実さがないからモテない。曰く、非モテ男性の悩みなど低レベルだ。
曰く、非モテ男性は女性を搾取しようとしている。曰く、非モテ男性は・・・
他でもない反差別を掲げるリベラルからすら平然と差別をされることで、ますます自己肯定感を失っていく。
―――女性たちに外面的な要因で拒絶されることで同時に人格まで否定されてしまうなんて、
それが正当化されるならば、払拭するには女性に承認されお墨付きをもらうしかないじゃないか―――
そのような指摘は、今度は「女をあてがえということか!」と歪められる。
「女をあてがえ論」の他には「ありのままの僕を受け入れて論」なんて言い方もしたりして、
とにかくあたかも自堕落で自分本位な男性が主張しているかのようなイメージを擦り付け人格否定が行われる。
それが例え「同じ人間として扱ってほしい」「外面的な部分だけで排斥しないでほしい」「あなた達と恋愛できないからといって人格を貶めないでほしい」という
願いから出たものであっても、女性に対して批判的だからというだけで「ミソジニー」果ては「インセル」呼ばわりされ邪悪のレッテルを貼られる。
挙句の果ては、「男性というだけで恵まれているんだから被害者面をするな!」と遮断され、
(女性のジャッジは正しい。)(男性なんだから恵まれていると思え。)
(女性は加害をしない、お前に落ち度がある。)(女性に嫌われるなんて悪に決まっている。)
フェミニストたちが形成するこうした世の中の通年は、人格否定された「ある種の弱者男性」をさらなる自己嫌悪と自信喪失、自暴自棄へと追い込み、その人生を淀ませていく。
女性たちはこの呪いのもたらす苦しみと構造の強固さを知ってか知らずか、今日も気に入らない男性へ気軽に「キモい」と言い放つ。
「キモい男は害悪」、そんな女性たちの価値観が正当化され力を得る世の中では、
善良であろうとするほど「キモイ男性」は何もできなくなっていく。
すこし思考実験と言うか、考えてみてほしい。
普段のあなたの行動範囲のなかで、女性(とくに若い人)に遭遇することがどのくらいあったか。
そして女性と遭遇するたび、それだけで自分がその人を不快にさせ、害を与えているとしたら。
場合によっては「キモい!」と面罵され、それに対して異議を唱えることはおろか、反感を抱くことさえ許されない、そんな価値観が正しいと思い込まされているとしたら。
あなたはまともな精神で社会生活を送れるだろうか?程度の差こそあれ、概ねこれが「ある種の弱者男性」の見る光景、生きる世界だと思ってほしい。
おそらく、俺たちのような人間はほとんどのリベラルの人たちの観測範囲には入っていないだろうと思う。
女性からいじめやハラスメントを受けて人生の舞台から転落なんて、そんな少数のレアケースの問題など、いちいち考えてられないと思うだろうか?
念の為に言っておくと、「ある種の弱者男性」は決して少なくない。少なくとも、リベラルの人たちが考えるよりはずっとずっと多い。
全国の学校ひとつにつき数名はいるんじゃないか。心当たりがある人も多いんじゃない?
まあ数が少なく見えるのも当然ではあるかも知れない。彼らは大抵が、社会の下層で怯えながら隠れるように暮らすから。
リベラルたちの視界から外れた社会のはずれへ疎外され、自分は世の中の害悪だとひたすら信じ込まされたまま、
ろくに声もあげられずに死んでいく。俺が同じ境遇ということで交流してた人たちはみんなそうだった。
「ひっそりとオナニーしながら死ね」だったか、フェミニストの偉い教授が言ったそうだが、「望み通りだ」と彼らの末路を見て笑うのだろうか。
女性にとって好ましくない外面というだけで人格まで否定しないでほしい。
同じ人間として扱ってほしい。
https://anond.hatelabo.jp/20210504174141
からの続き
2021/1/21(木)
この間の感じでは、また近いうちに危機的な状態になりそうな気がするが、そうはならずにずっと持ちこたえているのだろうか。
元気だった頃の母の姿がふとした拍子に脳裏をよぎる。もう見れることはないのだが。
2021/1/22(金)
2回目なのでだいぶ感じが掴めてきた。
世間ではコロナで仕事がなくなって、路上生活に追い込まれている人もいるのに、こちらは仕事に追い込みまくられている日々。
ありがたいと思うべきなのかなんなのか。
2021/1/23(土)
コロナで時差出勤になって、リモートワークもできるようになって、勤め人としての生活はかなり楽になったけど、あまり嬉しくはない。
2021/1/24(日)
いくら待っていても母は元気になることはないのがわかっているのに、一体私達は何を待ち続けているのか。
母を看取る瞬間を待ち続けている?きっとそうなんだろうけど、そうは思いたくない。
2021/1/25(月)
母に関する記憶を断片的に思い出すことが多い。厳しく怒られていたイメージが多くて苦笑してしまう。
でも、そんなふうに厳しく育てられてきたから、今の自分があるのだなと思って、また涙ぐんでしまう。
2021/1/26(火)
先週病院に行ってから一週間になる。母の様子がどうなっているのか気になる。
苦しい状態になっていなければよいのだが。
2021/1/27(水)
仕事には集中できているが、ふとした拍子に悲しみが押し寄せてきて涙が出てくる。
ずっとこの状態が続いている。
2021/1/28(木)
明日はリモートだと思っていたのに、急遽出勤することになった。
紙ベースの仕事が僅かだが残っていて、それが急に入るとリモートができなくなる。
そのうち改善されるだろうけど、今はそこに至る過渡期なのだろう。
2021/1/29(金)
この職場では、金曜日はリモートデーになっているから、当然か。
これだったら、出勤しようがしまいが、どちらでもソーシャルディスタンスは取れているような気がする。
2021/1/31(日)
今日で1月も終わり。母はまだ頑張っている。倒れた日に、今日明日にも危ないと医者から言われていたことを思い出して、よくここまで頑張ってくれたと思う。
このまま意識が戻らないまま、徐々に弱っていくのを見守っていくことしかできないのが苦しい。受け入れるしかないけど、苦しい。
2021/2/1(月)
朝の7時半頃、そろそろ起きて出勤準備を始めようとしていた時に、姉から電話が来る。
母の脈拍が落ちてきていて危ない状態なので、すぐに病院にきて欲しいとのこと。
すぐに父・姉・私の3人で別々に病院に向かう。
病室に入ると、前回と雰囲気が違った。時々鳴っていた機器のアラート音がずっと鳴りっぱなしで、モニタに表示されている数値も0になっていた。母の顔色も悪く、匂いもちょっとしていたように思う。
呼吸を補助する器具が動く時だけ胸がわずかにふくらむ以外は、母の体に動きが全くなかった。
その状態で、3人で呼びかけたり手を握ったりしていると、母の左目から一筋の涙が出てくるのがわかった。
もしかして、みんなが来ていることがわかっているのかなと思った。
あれは何の涙だったんだろう?
最後のお別れの涙かもしれない。
一時間ほどすると、担当医師が病室に来て、今の状態について説明を受けた。
今の母は、呼吸器がついていることで無理やり呼吸させている状態で、酸素の取り込みもほとんどできていなく、心臓もほぼ止まっているとのこと。
そして医師は、「呼吸器を停めます」と言って、傍らの機器を操作した。そして母の胸に聴診器を当てて心音を聞き、止まっていることを確認した。次に、呼吸も止まっていることを確認し、最後にペンライトを取り出すと瞳孔の反射を確認して、脳機能も止まっていることを確認した。
その一連の流れを見ていて、人間の状態って、どこまでが生でどこからが死なのかが、よくわからなくなった。
多分、このまま呼吸器を使って呼吸を続けることもできるんだろうけど、そうすることにあまり意味がないから、どこかで線引きして、ここからは死亡状態にしますっていうことを医者が宣告するのだろう。
その後、看護師さんから葬儀の手配など、今後のことについての説明を受け、最後に死亡診断書を渡された。
診断書の死因欄を見ると、
1.脳無酸素症
2.肺塞栓症
3.COVID-19
と書かれていた。
やはり、母の死因の大本はコロナだというのが、医師の診断なのだ。
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ここまで、母が倒れてから亡くなるまでの経過を、自分の日記から転載してきたが、この内容を踏まえた上で私がここで言いたいのは、以下のようなことだ。
母のことが起こるまでコロナのことを、どこか自分とは関係のない世界の話だと思っていた。
まさか家族が感染するという形で、自分の身に降り掛かってくるとは夢にも思っていなかった。
自分のことについては感染対策に気を回していたが、両親のことまではあまり深く考えていなかった。
コロナは、誰でもかかりうる身近な感染症であり、その脅威はすぐ目の前まで迫っているという感覚を、私達はもっと持った方がよいと思う。
母は、倒れる一週間ほど前から、喉が痛かったり咳が出たりしていたらしいのだが、その段階で一度病院に行っていたら、こんな結果になっていなかったのではと思う。
風邪に似た症状が続いている段階で、コロナ感染の可能性を想定して、もう少し適切な行動が取れていたらと思う。
それをしなかったということは、母はやっぱり、ただのちょっとした風邪だと思いこんでいたのだろう。そして、同居していた父も、同様に軽く考えていたのだと思う。
「ただの風邪だからたいしたことない、しばらく安静にしていたらいつもどおりよくなるだろう」と思わせておいて、いきなり重症化するのが、このウィルスの本当に恐ろしいところだと思う。なんというか、人間心理の脆弱なところを巧みに突いてくるようなところがある。(このウィルスがもし人工的に作られたものだとしたら、それを設計したのは悪魔的に頭の切れる人物だと思う。)
なので、少しでも兆候があれば感染の可能性を疑い、適切な行動をとっていくべきだと思う。
もうすぐ母の日が来る。毎年、母の日には実家になにかしら贈り物を送っていたのだが、それも今年からはできなくなってしまった。
母が亡くなるまでは、時差出勤やリモートワークが推奨されたり、煩わしい飲み会が廃止されたりと、そのメリットにばかり目がいっていた。正直、コロナ以前よりも社会生活が楽になる部分が多いと感じていたのだが、母が亡くなってからはそんなことを微塵も感じなくなってしまった。そんなことはどうでもいいから、母を返して欲しい。
私にとって、コロナ後の世界とは、母のいない世界のことだったのだ。
そして母が亡くなった以上、もうコロナ以前の生活に戻ることは二度とできない。
今現在、幸運にも自分自身あるいは家族や友人など身近な人達をコロナで亡くした経験のない人は、今ならまだコロナ以前の世界に戻れる可能性がある。
であるなら、数年以内に世界中でコロナの封じ込めが成功するという可能性を信じて、そこへ向かって進んでいけるように、今一度、自分たちの意識や行動を見直して欲しいと思う。
俺は1日10時間以上寝ないと吐き気と頭痛と倦怠感を引きづるし、それは運動をしても野菜を350g取っても変わらなかった(お通じは良くなった!)し、1時間も仕事すると人の話が頭に入らなくなって、右から左に流れていったり、言ってる意味がわかるなかったりするぐらいボーッとするし、親の話すら意味が理解できなかったりするし、8時間も勤務するとクッタクタになるし、休みの日は精神的疲労を癒すために運動と瞑想と睡眠と観葉植物に水やりをしてるけど、新卒辞めて長期ニートからの仕事し始めてから数年間、好きだった読書もやる気が湧かないし、恋人が欲しいと思える意欲すら湧かないし、労働と切り離せない人生を歩むなら死んだ方が真剣にマシだと思いつつも痛いのは嫌だから自殺は怖いし、200万円あればスイスで安楽死できるって話を鵜呑みにしてたら高卒で年収290万円の底辺だけど、貯金が200万円溜まった時に「オイコラ、俺は200万円あんだぞ!?いつでも死ねんだぞ?おめえらあんまり調子乗ってると俺はいつでも死ぬからな?舐めてんじゃねえぞコラ」って強気になってちょっと生きやすくなったけど強気になれた要因がネガティブすぎるし、本当は読書を楽しめるぐらいのんびり寝続けて誰も傷つけず誰にも傷つけられないように静かに暮らしたいだけなんだけど、そんな静かな生活は俺みたいな資産力のないクズには生活保護ぐらいしか手段がなくて、社会的リソースを食い潰すしてまで生きる価値なんて微塵もない気がして、結局俺は労働と向き合い続けなければならなくて、そうすると空の青さや四季の移り変わりや日差しの温かさを感じる幸せだけを享受しながら生きていきたかったんだけどそれも叶わなくて、社会に上手くコミットする手段を見出して努力をしたり、仕事をして自己効能感を味わったり生活の質を高めたりして行けることが社会生活の楽しみでもあり醍醐味でもあるんだろうけど、wais-3で全知能89の低知能な俺にはそんな事さえ叶わなそうで、毎日毎日陰鬱な気分で生活してると健康的で文化的な最低限度の生活って何なんだろうとふと思う。
お前にとっての障害者手帳ってなんなんだ?
障害者手帳ってのは障害者の自立と社会参加の促進を図るための支援策のパッケージの受給証だぞ。
そんでバリアフリー法は「高齢者、障害者等の自立した日常生活及び社会生活を確保すること」を目的として、特に鉄道事業法による鉄道事業者等の公共交通機関に、一般の国民・企業以上に高い義務を課す法律だ。
そしてバリアフリー法は公共交通機関に対し、「公共交通機関を利用して移動するために必要となる乗降についての介助、旅客施設における誘導その他の支援」なんかも行うことを要求している。
お前は「バリアフリー=建物設備」だと考えているようだが、そもそもバリアフリーってのは自立と社会参加の促進を図るための支援全般を指すものなんだから、そのパッケージの一つである障害者手帳はバリアフリー施策の中核だぞ。