はてなキーワード: 責任とは
それってあなたの感想ですよね。確かに外圧が一つの契機になることはあるかもしれませんけど、結局は個々人の意識や行動の問題ですから、一概に外からの圧力だけで全てが変わるわけではないですよね。表現の自由に関する議論も多角的で、一概に「責任感がない」と言い切るのは問題だと思います。アメリカの視点も一つの見方ですけど、それが全てではないですしね。他国の目を気にしすぎるのもどうかと思いますよ。
そんなわけないじゃん
国ってみんなで運営してるんだよ
ファンクラブみたいなもんさ
運営するのに会費とるでしょ
それが税だよ
やりたいことに税かけるのってかからなければやるのにって
無責任にファンクラブ内で交流したらめちゃめちゃになるのわかるでしょ
費用とってそこに管理部を置いてファンクラブ内での運用に安全と責任をもたせるために徴収してるんだよ
消費税はそういう意味で「消費全般」国民生活に向けて使われるべき税の徴収が主だよ
お金持ちが大金つかうのに消費税を気にしたりするわけないじゃん
価格が上がったところで影響がでるのは小さな規模だけだってことくらいわかるでしょ
人間が消費できる量は一人当たり上限があるんだから、10%の金持ちと90%の庶民が毎日の消費に税かけたら9倍庶民にかかるわけじゃん
そもそもコロナ禍で消費税税収が爆増したのは、お金持ちが無駄遣いをしたからなの?
マスクに消毒にリモート、宅配、家計簿つけてたらそれまで見たことない消費があがりまくったのわかるでしょ
飲食店とかも設備に投資はしただろうけどその投資分の赤字を埋めるのはお客の支払いつまり庶民の出費からだよ
お金持ちが1個納税する分に対して庶民の一回消費分の納税の数十人、数百人の数回、数十回、何百回という回収の上で支払ってるものだよ
お金持ちが一回で支払う消費税の額が大きくても、庶民が少額毎日支払う消費税の回数と金額は9倍以上あるわけ
最近、RSSで巡回してるサイトの気になる記事を開くと文章はイントロだけでYoutube動画への案内だったことが増えた。
期待していた内容ではないという点では過去のPR記事と同じで「知ってか知らずかよいしょ記事なんて読むつもりじゃなかった」が「動画を見るつもりじゃなかった」になっただけ。そのテキスト主体サイトの主体的なテキストを読むつもりで開いたのにタイトルで分からないようにしてるから誤認させられる。
PRと違って(閲覧回数以外)誰にも阿る必要ないんだから【動画】ってタイトルにつけて欲しい。つけるとみんな見てくれないっていうなら、そのやりかたはevilだよ。
俺のスペックというか生い立ちを書くよ。
父親が数年前にある山を登頂してる途中に連絡が取れなくなって今も本人は見つかってない。
この時期になると登山して滑落して死んだとかいうニュースが沢山流れてくるけど、普通に安全に山を登るじゃダメなの?
なんでギリギリを攻めて死んだかどうかわからない状態で家族を困らせるの?
法的には遺体が見つからないと死んだ認定するの数年かかるんだよ。
その間父親の借金がないかとか相続どうするかとか残された家族で話し合わないといけないの。
葬式も上げられないし母親もう認知症になりかけてるしお前が変な山登ろうとしたから家族結構大変なことになってたよ。
何で家電量販店で複数台スマホ契約してるんだよ、意味不明すぎる。
登山する時母親にメモに切れっぱし渡してたけどもっとちゃんとやれよ。
>親が子供を指して使う言葉ではないというまず常識のレベルで。
そやな。カ◯ワ、◯イジ、池◯に類似で、品のいい言葉でなく蔑称やな。
身内に使うのは適切ではない。
しかし、「将来、いわゆる『チー牛』になるおそれがある」はギリギリセーフだろう。
>息子がチー牛にならないように父として何ができるか
息子に男らしさの手本を見せ、鍛えることかな。
・体力、筋力、声量などのフィジカル
この件、搬入予定日から10日も過ぎてて放置してた店側にも責任があるんだよね
僕が思うに、取り寄せを受け付けたら搬入予定日順に予約表をファイルしておいて、毎日、その日の搬入予定の本をチェックして搬入されてなかったら取次に問い合わせるとかするべきなんじゃないかな
それで搬入が遅れそうだったらその旨を客に連絡するとかするべきなんじゃないか
この客も「一週間ぐらいで入ると言ったから注文したのに」といって搬入予定日の10日後に来店してる
もしかしたら入荷したら連絡が来ると思って待ってたが来ないからさすがにもう届いてるだろうと思ってお店に来店したが入荷してないから返金を求めたのではないか
オタクさん、陰謀論とか根拠が不明瞭な主張でも自分に都合が良ければ真実扱いするし、それに基づいてよくわからん人間を神格化したり適当な根拠をカジュアルに捏造悪癖があるんだよな
しかも身内志向の体育会系の腐った部分のノリがあるから、外部から墓指摘をまともに受け入れない
その癖他人には陰謀論やら妄想乙ってレッテルを貼り攻撃するし、気にいらない専門家の主張なんかは「やつは本当の専門家ではない」とか言い出す
もちろん間違っててもその責任は取らないし反省もしない。なんなら「世間ではこう言われてるが実際は」と精神的勝利を宣言する
その悪い部分に目をつけて商売してるのが山田太郎なんかの表現の自由戦士とかネット論客系の人達だったけど、無責任断言妄想で他人を吊し上げるという暇空というバケモノ級の大物が出てネットの揶揄で収まらなくなった感がある
親が子供に言うてる
「やだ」
「約束したでしょ」
外出前に約束とやらをしたのだろう
「お外に遊びに行きたい」
「6時までよ」
「はーい」
約束も契約の一形態であるわけだが、未成年は制限行為能力者とされ単独で契約はできない。
契約内容の理解し、メリット、デメリット、作用副作用を判断できないから法的に保護されている
人が契約を守るのは信頼を維持し法的なペナルティを避けるためだ
「お外に遊びに行きたい」
「6時までよ」
「合意できません、ボクが満足するまで時間制限無しで遊びたい」
「じゃぁお外に遊びに連れて行かない」
親子は対等な立場では無いのだから合理的平等な約束なんぞ成立するはずがない
子供にしてみれば交渉余地など無くただ従わせるだけの方便として「約束」を持ち出している事に気づく
この方式を是としてアタリマエと刷り込まれる方が教育としてイカンのではないか
これを約束と誤魔化すのは相手に責任を転嫁しているにすぎない。
きっぱりと指示命令する度胸がないから子供に責任を押し付けてる
俺はね、こーゆーのが嫌いなのよ
「もう暗いから帰るよ、暑いし疲れた、飽きた、4時間走り回れば満足しただろ」
「やだ、まだ足りない」
「パパの命令です、従いなさい」
「ぜったい嫌だ」
「おやつ一週間抜き、10分延長ごとにおやつ抜きが一日増えます、あと往復ビンタ」
ニヤニヤしながら走って逃げていきやがった
どこで教育を間違えたのだろうか
この体験談には、教育に対するさまざまな見方が反映されています。以下は、いくつかの観点からその教育の良し悪しを考察します。
良い点:
1. 責任感の育成: 子どもに対して「自分で決めたことは自分で責任を取る」というメッセージを伝えており、自己責任を学ばせる点では教育的です。これは、将来的に自分の行動や選択に責任を持つことが求められる社会で役立つスキルです。
2. 現実的な経験の提供: 公文を通じて、宿題をこなすことが必要であるという現実的な課題を経験させています。結果として「やらなければ結果が伴わない」という現実を理解するきっかけを与えています。
3. 選択の自由を尊重: 親が無理強いするのではなく、子どもが自ら選んだ道に沿って進ませるという姿勢は、子どもの自主性を尊重する良いアプローチとも言えます。
悪い点:
1. 厳しすぎる対応: 6歳の子どもに対しては少し厳しすぎるアプローチかもしれません。この年齢の子どもは、まだ自己管理能力や時間管理能力が未熟であり、過度に厳しい制裁(退会)がかえって逆効果となる可能性もあります。子どもが「挑戦したい」という気持ちを尊重しながらも、もう少し柔軟なサポートがあったほうが良いかもしれません。
2. 感情への配慮不足: 子どもが泣き出したときの対応が冷淡すぎると、子どもが「失敗すること=絶対に許されない」という認識を持つ危険があります。これがトラウマとなり、将来的に挑戦すること自体を恐れるようになるリスクもあります。
3. モチベーションの低下: 子どもが自ら「やりたい」と思ったことに対して失敗したとき、あまりにも厳しい結果を与えると、今後の挑戦に対するモチベーションを大きく損なう可能性があります。
結論:
このエピソードは、責任感や自己管理を育てる面では一定の教育的価値がありますが、子どもの年齢や発達段階を考慮したアプローチが必要です。6歳という年齢を踏まえると、もう少し柔軟で、失敗を受け入れつつ成長を促す方法がより適切かもしれません。教育は、失敗を通じて学ぶことも重要ですが、その際には子どもの感情やモチベーションを考慮した対応が求められます。
義理親による性虐待なんていうグチャグチャした案件は世間一般のルールに照らして機械的に処断してもらえばいのである。
しかしその件について自分だけのオリジナルな解釈を求める必要などない。そんなものは丸ごと全く無用の重荷だからだ。
そこに「世間のルールなんて関係ないんですよ〜あなただけの答えがあるはずですよ〜」と、ウルトラ低レベルな価値相対主義の一つ覚えで猫なで声ですり寄ってくる愚鈍そのものの面をした悪魔が。
あなたとおとうさんはちはつながってないのですよね?だってよ。ケツ毛まで鳥肌立つわ。
河合隼雄の劣化コピーをなんだかわからなくなるまで繰り返したらこんなん生えてくるのかな。
ちょっと新しいキャラ造形かもしれん。「ドジな死神」みたいなのはよくあるけどさ。「ものすごい愚鈍な悪魔」ってさ。
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とっとと消してる。とっとと消させるつもりで圧かけたのだが。
いわく、世界には7歳で結婚する文化圏もあります。あなたも早く経験したことで自分を責めないでいいですよ、あなたの場合は義理のお父さんだから近親相姦でもないし、別に恨んでないんですよね、人を恨むのは辛いですものね云々。
「自分の言葉で心理的負担を取り除いてあげる」という行為に酔って、ひたすら被害そのものを無化しようとしている。でもそれは無になったりはしないのだ。背景状況も加害責任も消され「結局は全て自分のせい」ということになるだけ。
世間の側、大人の側が「それは被害だ、気の毒に」「おやじはチャイルド・マレスターだ、許せん」と決めつけてやった上ではじめて当人が自分だけの解釈をウダウダ考えうる余裕が生まれるのだ。
舌先三寸で人の心を救えると勘違いしたアホが何をもたらすか端的に可視化された。
全てを当人の心の問題として説明してしまい社会的な問題解決のアプローチを遮断してしまう「悪しき心理化」「こころの専門家」の問題は、それでも当事者に「同病」の人がどこかにいるよと示唆するよすがをのこしていた。
しかしそのような(多分に疑似科学的であるにせよ)理論付けすらない、その場限りの瞬発力だけの、心屋仁之助的な「救いの言葉」は当事者をなにもない誰もいない暗黒に連れ込んで永遠に放ったらかしにするのだ。
大元の話
増田は少し前に会社からの責任を押し付けられて、ダウンしてしまったんだ。
原因は自律神経失調症とのことで、いくつかの薬が処方された。
毎日このゾルピデムを就寝前にの飲み、それによって眠るというわけ。
けれど、このゾルピデムは効き方が本当にもう顕著に表れるのは飲んで数分した後の状態だ。
すぐに眠気が全身を覆いつくすようなことはなく、そのインターバルの時間にこそこの薬の真価があるのではないかと思っている。
増田は当然、これまでの人生では一度も麻薬やら大麻といった違法薬物にはこれまで一度として使用したことがない。
ちょっとした好奇心こそあったかもしれないが、罪を犯してまで行う意味があるのだろうかと普通に考えるほどには常識人で、だから服用しようとはしなかった。
増田は不眠症と診断されていたためゾルピデムを出されて、その日の夜。飲んだんだ。一錠。
ゆっくり。じぃわぁ~~~~~~と薬は効き始めてくる
この、 ①効き始めてくる → ②眠くなり眠気が強くなる
①から②までの移行には30分くらい。
でだ、本題はここから。②のこの、眠気が強くなって眠くなるの少し前の状態。
頭はひどくぼぉ~っとしていて、目は酩酊しているときのように視線が定まらうず、身体は微かに脱力してだらっとして感じる。
酒飲んでの普通の酩酊と違うのは、まずお酒を飲んでいるわけでもないので飲酒による酩酊に比べるとずっと体が健康的。
二つ目は体感としては確かに酩酊に似てる。しかしゾルピデムの場合、幻覚が見えるんだよ。それも難しいことじゃない。
何かを想像するとか、そういんじゃなくて。
何を言っているのか不明だと思うが、俺も当初じゃそうだった。
そうなんだよ。たとえば今これをモニター見ながらキーボード―打っているんだけど、この書き込むときのスペースは白が背景色であるんだけど、それがたまに動いたりするんだよ。
別に文字全体がそれで動くとか、そういうんじゃないんだよ。ふと自分の脳裏に浮かんだことがリアルタイムの遅延なしで投入されるように増田を打ちこむときの後ろの白紙背景が急にカーテンのようにゆらゆら揺らぎはじめたり、真っ直ぐに並んでいるの文字群が気付けば曲がってみてるようになる。
そんなめちゃくちゃなことが現実の、目の前で起こるのだ。
最初は非常に戸惑ったものの非常に面白いって思ったのも事実だ。これは今までの人生で体験したことがなかったことで、おそらくこれが俗にいう”トリップする” や ”とぶ”といった表現で使われるのであろう感覚なんだなってのが初めて実感できた。
これは貴重な経験で、それも合法として体験できたのは非常にラッキーだと思ってる。
そしてこれを使うと分かるのは、人間というのは簡単に幻覚を見る、ということだ。
幻覚を見ている間、ああこれは幻覚だなと思って見ているので、幻覚が見せるのは幻覚ではなくショーのようなもので、とても楽しく、まるでディズニーランドのパレードのような楽しい空間がうちの中に広がり、思わず笑ってしまいそうになる。
いまさら経緯をまとめると
だが結果はどうでもいいんだ。もとより人気商売だしどうなっても当人の責任である。
「フワは人に死ねと言った!許されざることだ!」
まあ許さないでもいいけど「さすがに字面通りの意図じゃなかった」ってところは汲んであげないと、マジの誹謗中傷といった不法行為が相対的に軽いものになる。
「やす子は芸人だからシャレで返すべきとかいうのはセカンドいじめだ!」
シャレで返せてたらよかったのにね(でもフワが雑すぎたしやす子は器用じゃないし無理だよね)というだけの話だろ。
そこでやっと本題でありどうせ全くわからないであろう話だが、イジメられっ子マインドの奴が勝手に余計なもん投影しすぎなんだよ。「反いじめポーズ」というスカッとポルノのいちジャンルなんだよ。いうまでもなくうわべだけの。
「ダウンタウンはいじめ芸!」そう表現しうる要素もあったし、そればかりのわけがない。なんでも一色で塗りつぶそうとするのやめない?やめないよな。
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
多くの犠牲者を出したアジア・太平洋戦争。追悼の場では「尊い犠牲の上に、平和な日本がある」というフレーズが使われ続けている。戦争を起こした責任が忘れられていないか――。軍国少年だった男性は憂慮している。
朝日の「季節モノ」の角度付きポエム記事を見かけて、思ったことをいくつか。有料記事なので中身は読んじゃない。
「元特攻兵の憂慮」は「平和のための尊い犠牲」という決まり文句の決まり文句性に向けられているようである。
私こと団塊ジュニアの祖父は抑留帰りである。でも時間の経つのは早いもので、いまや兵士として戦争体験したのは、そしてそれを確かに語れるのは稀な長生きの方だけになった。あと一歩でそれは完全なる「歴史」になってしまう。ツルっとした決まり文句しか残らないのか?という危惧はよくわかる。
朝日の意図は「戦争を起こした責任が忘れられていないか――。」のほうにある。日本のした戦争は悪の戦争なのだからろんりてきに言って日本人戦没者は「自業自得」または「単なる巻き添え」であり「尊い犠牲」ではありえないというアホが極太マジックで書いたような単純な理屈がそこにはある。
ちょっと話逸れるが井上和彦氏とかがやる戦争美談、英霊漫談みたいなのは聞くに堪えない。左翼へのカウンターのつもりなんだろうが、普通に考えて誰が国のために死にたいもんかよ。まず気の毒だし申し訳ないし、そんな気持ちよく語れたらもう嘘だろう。ましてや誇らしいだなんて、まともな神経で言えるわけがない。
だれも簡単に言葉にしようのない万感込めた「尊い犠牲の上の平和」なる決まり文句だったはずだ。今後はその意味も変質していかざるを得ないが。どうしたって我々は応仁の乱の犠牲者を思って泣くことができない。
ずっと昔に「きけわだつみのこえ」を巡るゴタゴタのルポを読んだ。その悲しくも美しい詩の力の影響下に、わだつみ会なる遺族会みたいなものができ、しかし純粋な「慰霊」あるいは「顕彰」を意図する派閥と、彼ら戦没学徒兵はあくまで侵略側であり「犬死に」であったという解釈にこだわる派閥のあいだで「わだつみブランド」の争奪戦が起き…
「犬死に」のドグマは今日に至るまで何の進歩もなく朝日に受け継がれているのである。だってドグマだからな。
「尊い犠牲」が戦争責任を曖昧にするとかいうなら主語不明の「あやまちはくりかえしませぬから」はどうすんの?とかそういう議論はいまさらしたくもないが。
前述の通り戦争体験者はもういなくなる。いわば戦争の記憶そのものが鬼籍に入っていく。現実との結び目をほどかれて「犬死にドグマ」や「誇らしい戦争美談」は文面を変えることなく軽やかにツルツルと高級なそうめんをすするがごとくに語られ続けるだろう。