はてなキーワード: 負の遺産とは
ネット炎上で自殺問題が騒がれてて、きょうもえさんとイケダハヤト氏と周辺がもみ合っていて、どうしてこう遺産相続問題みたいにみんな負の遺産を皆で押し付け合いたがるかなーとも思う。
実際こんだけ騒ぐのは理由があって、多分皆できることなら死にたいんだと思う。もとい窮屈な社会から離脱したいんだと思う。だから声を上げる。俺がもっと自由になれる世界を作れと声を上げる。
人気絶頂で死にたい、注目を浴びて死にたい、でも実際は限られた理解者に見守られながら死にたい、そんな人もいたなって思われる状態をつくってひっそり死にたい。
でも本当はネットの弱い連帯の中なんてくそ食らえだ。寿命で死にたい、家族といえる人たちもいる中で死にたい、できたら窮屈じゃない場所で死にたい、綺麗な田舎で死にたい、それでいて便利さと人と会える距離感のある場所で死にたい。
それができないからすべてネットで弱音や怒りを発散したい。賢く見せたい、ちやほやされたい。
メンヘラの方々は乖離といって、生きてる心地がしないから皆リストカットに走って、血が出ると痛いとかより気持ちいいと感じるそうだ。それから痛みに襲われて、生きてる心地を取り返すのだという。
もしかしたらブロガーは死ねといわれて、それに反論することで自分の生きる理由が見つかると思ってるのかもしれない。死ねといわれてそれに傷つくことで自分が生きたいと思ってるんだと実感したいのかもしれない。そうして実際に死ねといわれても特に傷つかなかった自分を見て少しショックを受けているのかもしれない。死ねといわれてじわじわ呪いのようなものが自分の身体に侵食してくるのを感じて気持ち悪いのかもしれない。死ねと言われても死ぬことができなかったので他人に死ねと撒き散らして不穏分子を排除して自分のユートピアを作りたいのかもしれない。加藤か。
電子書籍が普及して、ブロガーが出版する事例がどんどん増えてきて、もしかしたら目立つことでワンチャンしたいのかもしれない。だれかがたくさんのイナゴの中からバッタを選び出して、家の広いゲージに飾ってくれるかもしれない。みんなそんな目立つピンクのバッタになりたいのだ。
何だか統失患者の文章みたいでまとまりがなくさっぱり文意がつかめないのですが。こういう文法は正しいけれど意味は支離滅裂という文章を書けるのもある種の才能なんでしょうか。
どうもここには一見、女に不利なことを書くと理路もへったくれもなく噛みつくことが目的で噛みつく頭がおかしい人が常駐しているみたいですけどね。
さて、それはさておき、意味が分かる部分について反論しておきましょう。
まず先述したように哺乳類での一夫一婦制はごく珍しい例で、一説では全種の3%のみとも言われています。これはオスもメスも「本来は子育てをしたくない」という当然の行動原理があることを踏まえれば、特に哺乳類で一夫一婦制がほとんど見られないのも当然です。
子育てをしない、もしくはオスかメスかのどちらか一方に押し付けることが可能なら、その間に押し付けた側の性は別の相手と繁殖活動が可能になりますので、そういう方向に進化するわけです。魚類でオスのみに育児行動が見られる例が割合あるのは、魚類の多くが体外受精をするせいです。つまりメスが卵を産み、オスが射精している間にメスが逃げれば、結果的に面倒を見るのはオスしかいなくなりますので、オスに育児行動が見られるように進化していくわけです。
哺乳類の場合は出産はもとより、哺乳行動が必ずありますから、メスが育児行動をすることはあらかじめ決定されています。メスが育児をする以上、オスは育児をしなくてもかまわない場合がほとんどになりますので、哺乳類では一般にオスの育児行動が見られない、オスの育児行動が見られるのはつまり一夫一婦制なので、一夫一婦制が見られない、ということになります。
鳥類では肉食が多いために一夫一婦制が一般的ですが、鳥類は哺乳類と違って雌ヘテロ型の性染色体の性決定様式なので、ここで述べているY染色体の劣化の問題は発生しません。
ヒト以外での一夫一婦制の哺乳類ではやはり肉食動物に多く見られるのですが、代表例であるオオカミの場合は、しばしばつがいの入れ替わりがある、集団の中において核となる夫婦だけが繁殖するなど、ヒトとは少し変則的なのですが、まあ一夫一婦制による子育て行動が見られます。オオカミの近縁種で他の繁殖形態をとる種がないので(家畜化されたイヌは別にして)、比較はできないのですが、他の種と比較すればやはりY染色体の劣化は程度としては見られますが、ほとんど問題になるレベルではありません。
これはオオカミの場合、ライフサイクルが短いこと、繁殖力が高いため個体数の増大においては繁殖力そのものよりも、空間的な制約の方が大きいことが挙げられます。1995年にイエローストーンでは31頭のオオカミが導入されましたが、それから20年を越えて、近隣三州での個体数は2000頭を越えていると見られます。
つまりY染色体が劣化してそのため絶滅する個体系統があっても、すぐにそれを補う数が補填されるということです。蓄積されてゆくエラーの中にはY染色体の機能向上させる方向に働くエラーもありますから、そういうY染色体を持ったオスの子孫がたちまち空いた空間を埋め尽くすので種全体としての健全性は保たれます。ヒトとは繁殖速度とライフサイクルがまるで違うので、比較になりません。ヒトの場合、狩猟採集生活下では人口置き換え水準をほんのわずか上回る程度の繁殖速度ですから、遺伝的に絶滅する夫婦の割合が高ければその空間を埋めることは出来ないのです。
Y染色体が劣化した場合、当然、残されてゆくY染色体は同質化していきますので、繁殖力の弱い個体は絶滅するだけで、種の多様化とは逆の現象が発生します。過剰繁殖かどうかは環境が決定するので、基本的に人口置き換え水準が維持されているならば過剰でもなければ過小でもありません。環境によって制約を受ける最大個体数に適応した人口置き換え水準がヒトの場合は、自然状態ではおおよそ特殊合計出生率にして4.2前後なのですから、これを下回る場合は絶滅、もしくは生息域の縮小へと至ります。一夫一婦制において結果的に特殊合計出生率が低下する現象がみられる場合、後になればなるほど遺伝的な同質性は強まっていきます。言うまでもなくそれは種の多様化とは正反対の現象であって、ここでのあなたの主張は「頭がおかしい」というしかありません。
また現在、イスラム圏など「一夫多妻制度」の人類社会があるが、そこが生殖能力が高いか? 人口比では一夫一妻制の社会の方がよほど大きい。つまり、個々人のうち、少数者が生殖子がよわかったとしてもそういう種は一夫一妻主義のもとでも淘汰されへっていくはずなのだから問題はなく、この主張は一夫多妻主義者の虚偽だ。
イスラム圏での婚姻形態について余りにも無知すぎます。そもそもイスラムにおける一夫多妻制は未亡人や孤児の扶養を目的としているため、扶養力がない時点での一夫多妻制は許容されていません。実際には9割以上が一夫一婦制での婚姻形態であり、比率から言えば圧倒的にイスラム社会は一夫一婦制の社会です。更に言えば、出生率がイスラム社会の方が高めであるのは言うまでもないことです。ナイジェリアなどにはイスラム教徒とキリスト教徒がそれぞれいますが、キリスト教徒の方が出生率は低いです。これは同様にエジプトのコプト教徒社会などでも言えます。
そもそも生物学における繁殖形態と、文明史上の婚姻形態の話は別です。オスとメスが性行為をすれば、その婚姻形態がいかなるものであれ妊娠しますので、文明史においてはありとあらゆる婚姻形態が見られます。完全に一夫多妻制の社会、完全に一夫一婦制の社会というものはないのです。日本や中国では圧倒的多数は一夫一婦制でしたが、権力者が一夫多妻制であったのは言うまでもないことです。厳格に一夫一婦制を求めるキリスト教社会にあっても、フランスにおけるロワイヤル・コンキュビーヌの制度に見られるように、多妻制は見られます。
生物学における一夫一婦制とは、繁殖形態が種のグランドデザインにまで及ぼす影響がある程度があることを指して言うのです。ヒトの場合は、雌雄差が小さい、性淘汰の影響が見られない、等々の理由から生物学的に一夫一婦制がデフォルトであることが立証されているのです。
正直言ってこの程度のことさえ知らないで、何かを言おうと思うこと自体、蛮勇と評するよりありませんが、何か衝動に駆られて物を言おうとする前に少しは頭を使うとか知識を得ようとしてはいかがでしょうか。
文明社会における婚姻形態の話と、生物学における繁殖形態の話はまったく異なると言うことを言いました。
本来、生物的にはあり得ない一夫多妻制が文明社会でしばしば見られるのも文明による干渉、歪みです。
例えば、南米や太平洋諸国ではY染色体とミトコンドリアDNAの不自然な組み合わせの例が見られます。Y染色体が男系のみを通して、ミトコンドリアDNAが母系のみを通して継承されることはよく知られていますが、南米や太平洋諸国では、ミトコンドリアDNAが現地由来、Y染色体がヨーロッパ由来である場合が多く見られます。南米で先住民系として扱われている例でも、Y染色体の割合では半数以上がヨーロッパ系という例もありました。これは言うまでもなく大航海時代以後のヨーロッパの帝国主義がもたらしたレイプと殺戮の影響であるわけですが、同様の例はアメリカの黒人でも見られます。
つまりY染色体を辿る限りアメリカ黒人男性のほとんどは実は白人の子孫なのであって、彼らをアフリカ系と呼ぶのは遺伝的には半分しか正確ではありません。オバマ大統領の場合は、こうした普通のアメリカ黒人男性と違って、ミトコンドリアDNAがヨーロッパ由来、Y染色体が東アフリカ由来になっています。これは彼の両親が自由結婚した結果であって、オバマ大統領はアメリカの黒人ではあっても、遺伝的にアメリカ黒人男性のメインストリームとは奴隷制の負の遺産を共有していません。
自然界における一夫多妻制は遺伝子の優劣によって決着がつきますが、文明社会ではそうではないわけです。それは武力や財産や社会的地位によって影響を受けますので、自然界における一夫多妻制のもたらすY染色体の競争が起きずに、Y染色体の弱体化をむしろ加速させます。本来、子を持つことが叶わない生物学的に弱い男子が、社会的影響などによって多くの妻を得ることは、弱い男子の遺伝的影響が狭い集団の中で蓄積してゆくことを意味します。
公家や皇族で男子が生まれにくいというのはまさしくこの影響であるわけです。おそらく公家の夫婦の間ではY染色体の劣化がいちじるしく蓄積しているために、男性の側で性染色体が母系由来のX染色体しか機能せずに結果的に女子しか生まれない、女子が生まれやすくなるのです。Y染色体は男系を通してしか継承されませんから、たとえば皇室で健康な女性をいくら導入しても、この問題は解消されません。
文明社会では確かに一夫多妻制は純粋な生物学的な競争ではなく社会制度によって干渉を受けるためにY染色体の劣化をむしろ加速させるでしょう。逆に言えば純粋に繁殖力や性的な魅力(ほぼ繁殖力と重なる場合が多いです)のみで一夫多妻制が行われれば、Y染色体の能力がかさ上げされます。
その点に関しては、前評判通り見事な手腕だとおもう。
次に経済対策だけど、まずは、必要だった為替政策に関しては、輸出企業が一息つけたという点に関しては高い評価だろうが
エネルギー政策でガスの価格が高沸する事も意味しているから、早期に原発を稼働させないと、また赤字がヤバイことになるが
このままエネルギー価格が高止まりすると、いずれ、経済に悪影響を及ぼす。
だが、原発を再開させると、それはそれで、また違った利権の話が出てくるから当面は難しかろ。
負の遺産がでかすぎる。
http://anond.hatelabo.jp/20130310152356
元増田に便乗したお陰か、思ったより多くの方に読んで頂けたようでとても嬉しいです。
こんな付け足しを書くのは興ざめかもしれないけれど、
似たような境遇の人も多いようだし、
もうちょっと具体的な事を「あとがき」として補足しても良いかな、
という気になりました。
(申し訳ないことに、この付け足しも長いです)
私の文章は、元増田
「上流エンジニアなんて死んじまえ」
http://anond.hatelabo.jp/20130309233920
「上流にも技術力はあるはず」
という、上流下流のどちらが優秀かという議論が問題からやや外れているように思えたため書いたものです。
優秀な人がいても活躍できず、当たり前のような施策もうまく働かない、
(下流にいたほうが技術力の見せ場が多いため、
下流に優秀な人が多いように見える傾向はありそうです)
そして、その他の19人~49人は基本的に普通の人です。
20~50人に1人の人をあてにして仕事を進めるのは(現状のSIer周辺では)不可能なため、
19人~49人の普通の人が持つ価値観・思考・ペースで仕事を進める事になります。
さて、システム開発でソフトウェアの基本構造を決める部分について、
どうしても一種の才能(パターン認識・適用能力)が必要なのですが、
才能のある人が適切に作業に割り当てられる可能性は低くなります。
その結果、普通の人が納得しやすい下記のような方法が取られがちです。
こういった構造は、当時は場当たり的なつもりでも結局は規約化してしまい、
「途中で何を思いついても設計書の通りに絶対作れよ」
といったSIerにありがちな規約と相まって、未来永劫負の遺産として残ることが多いです。
そして、一旦ダメな土台が出来上がると、その上には基本的にダメなものしか重ねられないため、
どんどんダメになっていき、最終的には手のつけられない沈没船になります。
プログラムの基本構造がダメだと、どんな優秀な人であっても出来ることが限られます。
当然リファクタリングすれば良いのですが、
といった、普通の人による突っ込みには、現場での反論がなかなかしにくいです。
そして、リファクタリングもやはり才能のある人が中心になる必要があり、
ここまで書いてきたようなことが、
現場の中に居たままそこを良くする方法は、結局思いつけませんでした。
これをこの先何年続けても無意味だな、と思い、転身することにしました。
正当な取るべきリスクを取った結果だと思うのです。
沈没船では最初から沈没寸前のため、リスクを負うことができないか、異常に増幅されます。
運用上リスクを負うことのできない(機能追加できない・構造を改善できない)システムなど、
黒船は、取れるリスクの幅が大きいからこそ難しい航路を選べるし、
そこで失敗したとしても、それ自体が業界や人類全体の資産になるのだと思います。
黒船は水平線のはるか向こうで、船長はそれらが見えないため気楽です。
ちゃんと沈没してくれれば、最終的にはまともな船しか残らないので助かるのですが、
まともさに関する競争が働きにくいところがあるらしく、
リスク満載のはずの沈没船を安泰とさせている事によるコストは、
最終的には企業全体・社会・国家・人類といったものが負っていると思われます。
普通の人というのは、
家に帰ってから基本的には勉強せず(資格や仕事で必要な場合は別)、
仕事で決められた範囲のツール・技術・問題領域で満足できる人の事です。
これは不真面目とか怠慢とかそんなわけではありません。
例えば、マクドナルド店員が、
自宅でもビーフパテを練ってハンバーガーの焼き色を研究したりレシピを何冊も書いたり、
毎日毎日ポテトやハンバーガーをキーワードにググったりブログを読んだり、
枕元には常に藤田田の著作を数冊積んでいて、本棚には完全なコレクションがあったり、
1日に5度は銀座1号店の方角へお祈りを捧げたりしたら、
やはり変だと思うのです。
「才能のある人」とは、そういう事をごく自然に、
それこそ食事や睡眠のように日々やっている人です。
さらに言えば、これはマクドナルド店員を例に出すと変に思えるのであって、
ギタリストやピアニストや作家や写真家やデザイナーといった専門家であれば
不自然でも何でもない最低限のたしなみです。
20人~50人に1人という割合も、それがプロのギタリストであれば納得できる数字です。
本来そのぐらい特殊な専門領域を広く一般に開放してしまっているという問題が、
こういうの見るにつけ思うが、みんなほんと親に恵まれてるよな。
うちの親は知識なんて皆無だし、子供の頃は家に漫画・雑誌以外の本が1冊も無いような家だったし、
現在は会社潰れて借金まみれだし、俺だけ何故か例外で弟達は親と同等か遥か下のレベルだ。
母はガンでいつどうなるか分からないし、他の家族は母がいなくなったらまともに生きていけるのかすら疑問だ。
俺にとって家族とは、そもそもまともな会話が成り立つ人達でない。みんなが親のエピソードとして語るような、
何か大事なことを教わったということもない。
別に人格は普通だし、恨んでるということもないが、ただ何も無い。今となっては。
恵まれた人達は極めて無邪気に「家族を頼ればいいじゃん」と言ってくる。
いちいちイラついても仕方が無いとはいえ、反論せずにいられないこともある。
男女格差の話のときにいつも思うんだけど、企業側から見た男女別のリスク計算とか出してみたら面白そう。離職や休職による会社への損害やデメリットを計算してみるとかさ。寿退社、出産退社によって、それまで会社が人材育成のためにつぎ込んできた投資がパーになるわけよ。どう考えても女性を雇う方がリスクが高いわけよ。だから女性は雇わない、だから派遣を雇う、って流れになってるのも確か。面接とかで「私は結婚してもこの仕事を続けたいと思います」とか言って就職して、結婚したらさっさとやめていく女性のなんと多いことよ。そんなことばっかりやってるから、企業側も女性を信用できなくなるし、待遇も悪くなっていく。もちろん、結婚しようが出産しようが仕事を続けたいと思ってる女性もたくさんいるだろう。育児にやさしくない社会というのも確かだろう。でも、女性の足を引っ張ってるのはけっきょく、適当に仕事してやめてきた女性。女性の敵は女性、とはよく言ったものだと思うよ。
男性や企業に改善を求めることは多々あれど、女性のそういった態度に対しての批判ってあんまりないんだよね。なんでもかんでも男性社会のせいにする前に、そうやって気軽に会社に入ったり出たりしてきた女性の先輩方の残していった負の遺産にも目を向けるべきだと思うんだ。
ネットでこれらの主張が飛び交っていない日はないだろう。
まあ無理もない話だ。
他国の王族を侮辱したり、自社の利益のために自国を貶めるような
放送を流す私企業に対して「見なければいい」で済ますことはできない。
明らかに悪いことをしている個人や企業が罰せられない、
と言う状況は負の感情を生む。社会にとって負の遺産として積もり続ける。
このやりどころのない怒り、不公平感、無力感は、
それを許している法や政治、ひいては社会に対する不信につながっていく。
そのどうにもならない『こんなの絶対おかしいだろ!?』という叫びが
結果的に「フジテレビ潰れろ!」「放送免許を取り消せ!」という声になっている。
それを痛いほど理解した上で。
一歩引いて考えてみる。
「免許剥奪」の選択は現実味がない(むしろ倒産の方がよっぽど現実味がある)。
冷静に考えてみて、免許剥奪になるほどの放送内容というのはなかなか想像が難しい。
結局のところ、放送免許の剥奪というのは大なた過ぎて誰もふるえないのだ。
なので、いつも「現状維持(罰せられない)」という事態に陥っているのではないか。
もちろん、瞬間最大風速的には私自身もフジテレビに対して「滅びろ!」と思うし、
テレビ局はNHKと民放1局ぐらいで十分じゃないのか、とか思うこともある。
(故意かどうかは別にして)いつか問題を起こすことはあるだろう。
絶対に壊れない人工物がないのと同じで、人も企業も不祥事を必ず起こす。
大切なのは過ちに対して適切な懲罰を与え、当人に更正のチャンスを与えることだ。
では、どの程度の懲罰が適切なのだろうか。
「1週間の間、番組自体は放送して良いが(収益源となる)CMの放送は禁止する」というような処置だ。
これであればニュースや地震速報などの情報インフラとして公の放送としての役割を維持しつつ、
売り上げの減少という形でテレビ局に適切な教訓(レッスン)を与えることができる。
そして私たちは、テレビ局がきちんと律されていること、を自分たちの目で確認できる。
分かりやすいことは大切だ。
BPOが書面で注意や勧告をテレビ局に伝えたところで、多くの国民はそれを知ることはないし、
それがテレビ局にとって、同じ過ちを繰り返さないにしようという反省を促す力があるのか不明だからだ。
提供した料理で食中毒が発生すれば、その店は短期間営業ができなくなるが、
評判は下がるだろし、一部の常連客を失うかも知れない。
けれど更正するチャンスは与えられている。
番組スポンサーの商品への不買は結果的にはCM停止と近い効果があると思う。
けれど、私たちは苛立ちたいわけでもないし、デモや不買運動をしたいわけでもない。
同じ結果を生むなら、社会的なルールとしてスマートに解決されればいい。
衣食住どれをとってもルールがあり、完璧ではないにしてもそれなりに機能している。
放送事業者はどうしてこうも罰せられず更正の機会を与えられないのだろうか。
テレビ業界の人々は叱られずに育った温室栽培のお坊ちゃまのように、幼稚で頼りない。
それは国民にとってもちろん不幸だが、彼らにとっても良いことだとは思えない。
私たちはCMがないことで、テレビ局の不祥事が罰せられていることを知り、
溜飲を下げ、少し穏やかな気持ちで、そのテレビ局の更正を見守る。
http://anond.hatelabo.jp/20110812223148
トピックでは「未成年は訴訟を起こせないから法定代理人にやってもらわないといけない」と書いていましたが、
実は未成年でも法律行為を行うことができる場合が例外的にあるんです。
婚姻、相続、認知など身分行為に関わることは人事訴訟という形で未成年でも単独で調停、訴訟を起こせます。
何であえて未成年では裁判できず母親も代理人としてやってくれないから困っていると書いたかと言うと、
母親が認知と養育費は要らないといっても、子供は要求するということをわかってもらいたかったからです。
本来は「認知と養育費を求める権利」は子供の権利であって、母親がどうこうする権利なんて全くないんです。
民法の家族法にも認知を求めることのできる権利主体は「子供(またはその直系卑属)」と明記されており、「母親」とはどこにも書かれていない。
ただ子供には判断能力がないから母親が代わりにやってるだけです。
日本では昭和40年代に14歳の娘の認知と養育費を母親が要求する裁判を起こして、
「意思能力のある子供の権利を左右する法律行為を法定代理人である母親が行ってよいか」という点が議論になり、
結果、子供の利益を考慮して母親が法定代理人として(子供の同意なしに?)訴えを起こしてもよい、という判決が出ました。
そして以降の裁判でもそれが踏襲されて、いつの間にか認知と養育費については母親が父親と取り決めるものだという認識が広まり、
本来子供の利益を守ることを目的とした(?)判決が、「認知しない」約束であっても子供抜きで両親間で勝手に取り決めていいんだという誤解を生んでしまったのだと思います。
でも本来はそれは間違っている。
本来は母親は子供の同意を得た上で認知と養育費については父親と決めなければいけないが、
胎児や幼児に認知や養育費の意味なんてわかるわけもないはずで、
いくら女に「認知と養育費は払わない」と言って彼女が納得したところで、
成長して物がわかるようになった子供はきっと納得しないだろう、ということです。
あと、認知してもらったら恩恵を被るだけとは限らず、不利益だって背負わせられる。
遺産相続できるが、負の遺産、つまり借金だって相続しなければいけません。
父親が借金を残して死んだら、子供が代わりに返済しないといけません。
また介護の義務も生じる。
父親が借金を肩代わりさせようとか自分の老後の面倒をみさせようとかいう目的で認知をすることもあり得るので、
子供が成人になって以降は、認知する際には子供の同意が必要なんです。
その父親がすごい借金持ちで要介護者だったら、子供は「認知しないでくれ」と言うでしょうからね。
父親の認知の要不要は母親の意思とは全く関係ない。子供の意思による。
で、私たちの場合、調停で決着がついたので裁判までは行かずに済みました。
正直「任意認知させてしまった」ことは失策だったとも思います。
「この男は自分の子供を認知せず要求されても逃げて無理やり認知させられた最低の卑怯者です」というメッセージがそこに書かれるわけだから、
本当はそうしたかった。でも現実的に裁判をするエネルギーはもうありませんでしたので諦めました。
でも拒否すると言うことは自分の子供だと認めるという意思表示に他ならないので、そこで強制認知が成立します。
しかし、いつでも成立するとは限りません。
女性が複数の男性とセックスしていた場合、これは男性に鑑定を拒否されたら強制認知は成立しません。
あの客が父親だといっても職業上他の男性とセックスしていることは明らかだから、鑑定で立証できなければ強制認知させることはできません。
ここでおわかりでしょうか、なぜ売春という職業が法外に高給取りなのか、社会的に蔑まれるのか。
「妊娠した時に責任をとらせる強制力を持たないという多大なデメリットに対する補填だから」
「孕んだ子供を高い確率で不幸にするから、不幸から免れさせるためには殺さなければいけない(中絶)から」なのです。
私の場合は最終的にはDNA鑑定で立証できましたが、拒否されていたときは、母が父親以外の男性と関係を持っていないことを証明する証拠を集めるのに苦労していました。
父親と関係を持っていることの証拠よりも「他の男性と関係を持っていないことを示す証拠」が重要なんですね。
ちなみにDNA鑑定の費用は30万円ぐらいかかりますが、敗訴(私は裁判はしていないので正確には申し立てられた方ですけど)した側が全額負担ですよ。
養育費は私は出生時点からさかのぼって払ってもらえると思っていましたが、
遡及できるのは「合意があった時から」で、私が調停を申し立ててから、大学入学以降の費用しか認めてもらえませんでした。
ここに「子供の権利だから子供が要求すれば認められる」理論には限界があって、
私みたいに物がわかって自分で裁判起こして認知と養育費の支払いを求めて認められたところで、
払ってもらえる金額は「自力で裁判を起こせるような大人になって以降」の微々たる金額しかない、
成人になってから裁判を起こしても養育費は払ってもらえない(せいぜい大学の学費ぐらい)わけだから、
将来的に介護負担とかさせられること考えたら、多分認知調停・訴訟を起こすのは割に合わないと考える人が大半でしょう。
結局実務的には母親が認知させないと意味がないという制度になっています。
行動を起こした時期が遅れれば遅れるほど、もらえるものは少なくなります。
続きます。
追記
ブクマコメント:ICレコーダで相手との会話を収録することの違法性について。
収録すること自体は違法でも何でもありません。
実際民事訴訟では証拠として同意なしに録音したテープがよく採用されています。
その前に父親も「調停を起こしたら殺してやる」と私を脅してきましたから、
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
団塊世代が残した負の遺産(うんこ)を、若者が押しつけられて片付ける。残されたうんこを綺麗に片付ける費用は、若者が支払う。今の日本の社会は、ほぼ全てがこの図式だ。
原子力発電所を作って、その電気を使って財を蓄え、たっぷり退職金と年金をもらった団塊世代。彼らは今、核廃棄物の後始末、原発の廃炉にかかる社会的コスト、それら全てを今の若者とこれから産まれる子どもに押しつけようとしている。自分たちが原発を作り、その利益も自分たちが享受してきたのに、いま彼らは東京電力の若い社員に「給料減らせ、ボーナスもらうな」と言い放つ。
これが団塊世代。彼らは原発のツケを全て若者に押しつけていることを全く反省していないし、するもつもりもない。そして何故か若者も、現在の原発利権社会を作り上げてきた団塊世代ではなく、東京電力の若い社員に怒りを向ける。
おそらく後世に長く語り継がれることになるだろう。
それは間違いない。
まだまだ予断を許さない状況ではあるが、いずれ落ち着いたら詳細な調査が行われるだろう。
今現在も含め、発生から収束に至るまでの膨大な情報が生ずるに違いない。
5年後、10年後には、あたりはすっかり見違える様になっているだろう。
建物は残っているだろうか?残せるだろうか?
いや、是非とも負の遺産として残していただきたい。残すべきだ。
そうして、多くの人が訪れるだろう。
そうすれば、チェルノブイリを超えて多くの人が訪れる事が可能なのだ。
しかし、それは難しいかもしれない。そのまま残すのは不可能かもしれない。
いや正確には「買う」か。社会人10年とはいえオーダーはしない。当然自分でちくちく縫わない。既製品。
社会人経験はあれども仕事がら年に数回着る程度なので、どんなのにしようか絶賛迷い中である。
黒:就活時の負の遺産(今さらだけど)。保険(喪服)代わりにとってある。幸いなことに保険としての出番はなし。スカートもあったけど実家のタンスの肥やし。
グレー:夏物で1つ。スカート付き買ったはずだけどスカートがどっかいっちゃった。
茶:夏物で1つ。スカート。
アイボリー:初給料で買った3シーズン使えそうなもの。これが一番細身な作りで、太ってきた最近ではパンツもスカートもきつい。
書き出してみるとよくもまあこれだけで過ごしてきたなあと思う。
ファッション好きでない自分にはいっそのこと女性は制服のある会社や、スーツ着用の男性のほうが便利だなあという気もする(当社は男性でも自由な服であるが、適当な服がないという理由でスーツで来る社員もいる)
1タレント議員が「仕分けShow」の司会者であり続けるんだったら「目をつけられたら負け」って構図は崩れにくいだろうね。
ただしそれは司会者が社会的な支持を受けている限りにおいての話で、
その司会者が一旦何か大ミスをやらかしたりクリーンなイメージを失ったら「仕分け」というShow自体が消えるんじゃないかと。
ただ、「仕分けshow」が健全な民主主義プロセスの観点から言ったら異常なのは確か。
アレが正当化されて制度として定着しちゃったら三権分立の原則も崩壊する。
結局は「人気のある個人」を頂点とした独裁ピラミッドができてしまう。
そもそも「仕分けshow」のような政府の政策だの予算の配分だのってのは国会が予算編成とその承認プロセスでやっているべきものでしょ。
だからアレはある意味国会議員による議会軽視、極論すれば政府否定活動に他ならないと思うんだ。
まあ、「仕分けshow」の為には過去に「悪の枢軸・自民党」の残したとされる「負の遺産(笑)」が必要だから、民主党が長く与党であればある程自分の足元をすくいかねない諸刃の剣だし。
おまけに「自民党が過去に始めたxxxxという事業を仕分けます(ビシッ」とかやって、「いや、それは過去に民主党(又はその前段の旧社会党とか)がやった事だから!」って言われた時にレンホーたんは民主党議員を辞めるか議員辞めるかしないとならないわけでwww
自民党の「自分の責任」って、90年代初頭から10年以上、根回しやらも含めればトータルで20年近くかけて地元とアメリカを説得して、普天間を取り戻す段取りまでこぎ着けてたんだけど?
そういう経緯や当事者達の苦労も知ろうともせずに「自分ならもっと良い結果を出せる」と言いふらして、ろくな対案も構想も無いまま僅か半年で当初の計画を全て台無しにしようとしているのが鳩山なんだよ。
はっきり言って、普天間問題は「あとは粛々と執行するだけ」だったんだよ。そうすれば4年後には普天間は確実に返還されていたはずだった。それを俺たちの手柄だと横取りする事も出来たはずだった。自民党が残した、負の遺産ならぬ「正の遺産」だったんだよ。それを普天間継続使用という、最悪の負債にしてようとしてるのが鳩山だ。一度継続が決定したら、再移設はそれこそ早くて20年はかかる。