はてなキーワード: 現代思想とは
なるべく多くの人に見てもらって情報、反応、反論等欲しかったので煽り気味に書いてるところはある。そこが気に障ったのならすまん。
まあ私の文章に煽りや売り言葉に買い言葉がないとは言わないのでそこはお互い様ということで。仲良くマサカリ投げあいましょう。
あくまで自分の見方を紹介しているだけで理系のやることが全て正しいとも思ってない。ただ理系では日本が一流研究をしていると誇る分野が数多くある一方で、文系の多くの分野で全体としては日本の学会は二流という嘆きが聞かれるのも確かだ(もちろんどんな分野にも日本人の一流研究者はいるだろうが)。
これ[要出典]ってタグ貼るべきところ? 私は最初の増田(anond:20180217012945)で(1つだけだけど)実例挙げたし、体験談ベースの話でよければ私の見た限りでは日本の外国研究ってけっこうレベル高いと思うんだけど。外国語に訳されても遜色ないモノグラフがたくさん出てる。
理系では著書でオリジナルな発見や研究成果を発表する奴はまずいない。いるとしたらほぼトンデモだと思って間違いない。文系増田が挙げてる怪しい医学博士とか。
文系では違うのか。正直文系のガチの研究書は見たことがない。三浦瑠麗の著書も調べてみたが、タイトルや値段を見る限り一般向けだろう。大学書籍部や図書館を探せばあったんだろうか。ただ(博士論文の出版等は除いて)著書で最新の研究を発表するというやり方は、どの部分に新規性があるのかの表明や議論の双方向性等に問題がないのだろうか?新規の研究成果なら第三者の査読を経て論文にするのが正統なように思えるが。数学の証明のように検証可能性が極めて高ければホームページで発表とかでもいいんだろうけど。
そこからか。何のために研究雑誌にBook Review欄があると思ってるんだ……(和文だろうが欧文だろうがたいていのメジャーな学術雑誌にはBook Review欄はあるし、場合によっては書評に査読がつくよ)。ていうか普通、序章とか第1章とかで先行研究の整理をするし(一般向けも混在するレーベルだと編集に嫌がられることもあるらしいけど)、そこで自分のオリジナリティについても言及するよな。
あくまで一例だけど、先日出た研究書の目次はこんな感じ→http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0871-6.html(適当なUniversity PressのHPを開いて適当な新刊をチョイスしただけなので、内容については何も言わないし、言えない。なぜなら私は読んでないからだ。あくまで「ちゃんと章立てに先行研究って入ってるでしょ」というサンプルとして受け取ってほしい。目次で明示されてないだけでちゃんと先行研究の整理をしている本もあるので気をつけて。それはそれとして面白そうな研究だと思うんで余裕があったら読んでみたい)。
駄目な研究は本として出版したってロクに引用されずにアカデミアから消えていくだろうし(もちろんあまりにマニアックすぎて引用するひとがいないという悲しい状況も有り得るのだがそういう場合は学術雑誌の書評でちゃんと良い研究ですよって言われてるからな。おべっか書評がないとは言わないけど、むっちゃ辛辣な書評も見かける)、まともな研究書なら議論の典拠は明示してあるんだから議論の双方向性に問題はないでしょ。
三浦瑠麗の著書、内容(https://www.iwanami.co.jp/book/b261983.html)を見る限りでは研究書ということでいいと思うけど。文系は割と凝ったタイトルつけるひと多いからタイトルだけで研究書じゃないと即断することはできないし(『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』も『〈日本人〉の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』も立派な研究書です)、値段についても、うちの分野の研究書の半額くらいの値段で売れて羨ましい限りと思うけど、それが研究書であることを否定する材料にはならない(ていうか一般書だとしたら3000円以上ってクソ高では)。国際政治学の一般理論みたいに需要がある分野ならそれなりに廉価でも採算取れるよね。研究書は別に専業研究者だけが読むものではないので、政治学者以外の教養人にも売れそうだと判断したらこのお値段になるのは別に不思議じゃない(逆にマイナー分野では……お察し下さい。売れない→高い→売れない→高いの悪循環でございます。学術成果刊行助成でなんとか刊行できてる研究がたくさんあるんだよなぁ)。気が向いたら図書館で実物見てみるわ。
何度も言うけど、中身は知らない。ひょっとしたらダメダメな内容かもしれない。でもそれは、査読通ったちゃんとした学術論文でも中身がショボかったりオリジナリティが希薄だったりすることがありうるのと同じで、ダメダメだから研究業績にカウントされないということにはならない。たとえそれがサラミ論文であったとしても、英語で書かれた査読つき論文だったらそれは業績としてカウントされるべきだよね。公募で採用されたり学術界で優れた研究者として認知されるためには内容が優れてないといけないし、こんなサラミ論文しか書いてないやつがなんで○○大の講師なんだ! という批判はされていいと思うけど、それはあくまで内容を見た上での話であって、形式だけを見て業績じゃないと言うことはできないはず。今回の元増田の批判が内容を見た上での話なら『シビリアンの戦争』を未読の私は何も言ってないし言う資格がないけど、理系増田も読んでなくて、ここではあくまで形式の話をしてるんだよね。形式の話をするなら彼女は学術業績としてカウントされるべき本を書いていますとしか言いようがない。
一般論からすると著書はオリジナルな研究業績であり得るが、逆も然りで著書は必ずしもオリジナル研究業績とはみなされないというべきなのでは。門外漢は著書数もオリジナル業績数とみなせという主張は言い過ぎだろう。
「著書はオリジナルな研究業績(でありうる)」「研究書は立派なオリジナルの研究成果」と私は書いてるよね? それで前段へのアンサーになってると思うし(そのうしろでちゃんと「一般向けの本」と「研究書」を分けて記述してるよな)、そもそも私は最初の増田(anond:20180217012945)で「新書2冊はおいといて」って書いてるので、“すべての著書”がオリジナルの研究業績なんて端から主張してないってことは読めばわかってもらえると思ってたんだけど(オリジナルな研究を書籍化したものを「研究書」と呼ぶわけだから、“すべての研究書”はもちろんオリジナルな研究業績です。一方で著書のすべてが研究書というわけではないので、“すべての著書”が研究業績というわけではありません。こう書けばわかるかな?)。
後段、著書はオリジナルの学術業績とはみなされないという理系のローカルルール持ち出して他人を業績が少ないと批判する方が言い過ぎでは。いやもちろん他分野の常識に詳しくあらねばならない必然性はないけど、他人を「業績が少ない」と批判する以上は他分野の「業績」の基準も知っておくべき、って、そんな無茶な主張? 文学でも歴史学でも政治学でも社会学でも教育学でも文化人類学でも哲学でも法学でも、おおよそメジャーな文系の研究分野ではだいたい研究書はオリジナルな研究業績としてカウントされるんだから(これは英語圏でも変わらないと思うよ。少なくとも私の専門分野や隣接分野では英語だろうがフランス語だろうがドイツ語だろうが韓国語だろうが研究書はオリジナルな研究業績です)、文系からするとその常識が通用しない方が非常識ですよ。理系のローカルルールを勝手に学術界の一般ルールに敷衍するのやめてもらえます?
院生だろうが単著で論文を発表するのがふつうの分野の人間からすると、理系では指導教授が論文の著者に名前を連ねるのか、変わった慣行だなぁ、って思うけど、それは理系の慣行なんだなとして受け止めてるし、この研究者は自分の学生の論文に名前を連ねて論文数稼ぎしてる! なんて主張しないよ(もちろんギフトオーサーシップは批判されるべきだけど、理系では自分が指導してる学生の論文の共著者になるのはギフトオーサーシップではないんだよね? このへん詳しくないので間違ってたらごめん)。分野が違うと業績のカウントの仕方も違うんだなぁ、って受け取っておけばいいじゃない。
その上で現在日本語の地位が低い分野や日本語でやる意義がまるでない分野まで、日本語で最新の論文を書いてもよい、あるいは日本語の地位を高めていこうなんていう理由がよくわからない。例えば挙げてくれた西洋古代史の最新論文を日本語で書くことに何の意味がある?日本全然関係ないのに?解説書や教科書は別だ。日本語で多くの人が学べることには意味がある。でも論文なのだとしたら欧米の研究者が読まなければ学問の進歩に乗らないんだからただの自己満足だろう。アマチュアの研究者だとしたらそれでもいいんだが、大学の研究者はプロだろう。国から研究費貰って英語が中心の分野で日本語しか書かないのは国民が納得しないだろうから税金泥棒としか言えない。
将来英語が中心じゃなくなることもありうるだろうという論を挙げているがそれは詭弁だ。理系だってラテン語から現代語への変化やドイツ語、フランス語の凋落を経ているが、最新の論文を主流の言語で書かない理由はない。(欧米の科学力を中国が圧倒的に上回ることは考えにくいが)将来中国語になるんだとしたらそれもいいだろう。もし仮に日本がその学問分野で覇権国家になるプランがあってそのためのリソースを投じているっていうなら別だけど、そうじゃないなら英語に圧倒的に負けてる分野はさっさと降伏して英語ベースにしたほうが世界中の学者のためになるし日本人が世界に認められる学問的成果をあげるためにも効率的だと思うんだけど。国際政治学についていえば英語圏の研究が中心だという知識は増田にもあって、反米主義だったり日本の世界覇権を夢見ていたりといった特殊な思想的背景があるわけでもない研究者が英語論文を書かないのだとしたら、怠慢あるいは研究の先進性の不足の誹りを免れないであろう。
これ最初にも書いたけど、主要国のアカデミアでは文系の研究の多くの部分を自分の国の言語でやってます。たとえそれが自分たちとは縁遠い地域のことだとしてもね。日本語と英語以外の言語で書かれた日本学の論文なんて日本人研究者はあまり読まないんじゃないかと思うけど、たとえばポーランド人はポーランド語で日本学の論文書いてるし(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006355425。ちなみに、このポーランド人みたいに、日本人の外国研究者がその国の言葉で日本での研究状況を紹介するっていうのは既にあちこちでやられてます)、それは日本のアカデミアで読まれていないとしても日本学の発展に寄与しポーランドのアカデミアを豊かにしていて、仮にポーランドで極めてオリジナリティが高い研究が出てきたら日本人の日本学者も何らかの方法でそれを読まないといけないだろうと思うわけですよ(別に自分で読む必要はない。他人に読んでもらえばいいんだから。翻訳ってそういうことだよね)。ポーランドのアカデミアは当然ポーランド固有の問題意識を持っているし、その土壌から日本にはない新鮮な日本観が生まれてくるかもしれない、という点で、色々な国のアカデミアがそれなりに独自の発達を遂げていることは重要だと思うけれども。
当たり前だけど西洋古代史の論文が日本語で書いてあっても最新の研究動向は反映されているわけ。書いてるひとは西洋諸言語読めるわけだしね。向こうがそれを読めない、または読もうとしないからといって先進性がないわけではない。読まれる/読まれないという尺度と研究が先進的である/先進的でないという尺度は別だよね? 混同すべきじゃない。そこにはちゃんと研究蓄積というものが存在しているんだよ。明治期以来、主要文系分野では日本語の分厚い研究蓄積がある。もちろんそこには西洋の猿真似だったり「横のものを縦にした」だけの研究もたくさんあるかもしれないけど、それらは日本のアカデミアを間違いなく豊かで質の高いものにしてきたと思う。
で、哲学の本場はドイツとかフランスとかイギリスとかだと思うけど(イメージが貧困すぎたらごめん。正直哲学のことはよくわからないんだ……)、日本人哲学者が優れた哲学書を発表すればそれはちゃんと英訳されてオックスフォード大学出版会から出版されていたりするのね(https://en.wikipedia.org/wiki/Kojin_Karatani)。これは日本語圏で外国人に読まれない研究を積み上げていても、良いものを書けば「日本の研究者面白いことやってんじゃん。翻訳して読んでみようぜ」ってなる実例なんじゃないかと。
根本的な話をするなら、「国際政治学」という分野の標準言語が英語である必然性はどこにもないわけだよね。それは英語圏で優れた研究が積み上げられてきた帰結であって、英語圏の人が自分たちの言語で研究成果を積み上げた結果それが参照されるべき言語になっているだけの話。要するに彼らは先行者利益を得ているわけ。現代思想の分野でフランス語が大手を振って歩いているのも、フーコーやその他の人たちがフランス語で優れた成果を書いてきて、それが受け入れられてきたから英語や日本語にフランス語の文献が訳されまくっているという現状がある。日本語がこの高みを目指してはいけない理由はないよね。
私はここまで書いてきたような理由で日本語で論文を書くのも重要な営為だと思う(加えて、執筆言語が自国語であることは東アジアや欧米の主要国の文系アカデミアとしての標準に則っているので、ことさら日本のアカデミアだけが批判される謂れはないよな、とも思う)。ただ理系増田がそれにどうしても同意できないなら、それを説得する言葉を私は持たないなぁ、とも思う。私の論拠はだいたい言い尽くしたので、執筆言語の問題についてこれ以上理系増田に答えようとは思わない。なんと言って終わらせればいいかわからないけど、とりあえず、お互い研究頑張りましょう。
大学・大学院で哲学・現代思想やって立派な左翼になり、ゴー宣にハマってた過去は黒歴史となった。
が、最近井上達夫との対談本を読んだら、小林よしのりの言い分も分からんではないな、と思った。
彼の主張は問題ごとに多岐にわたるが、一貫しているのは「論者は色々批判はするが、結局どうすりゃいいのか詰めて考えない。」ということだ。
例えば歴史認識の問題で言えば、「現代の感性で過去をいろいろ裁くのは結構だが、『その時代に問題に直面したときに現実にどういう選択をするのか』という観点から裁くべきではないか」ということになる。
そうなると落としどころとしては井上達夫とそう変わらない結論になったりするのが面白かった。
小林よしのりもそんな悪くない。
その人の人生経験とかで何が刺さるか変わってくるからな社会科学は。
だから一概には言えんが、やっぱマルクスが入り口として良い。最近は入門書が山ほどあるし(池上彰、ハーヴェイ、不破)、何より単純に面白い。
そっからケインズとか読んでも良いし、現代思想に進んでも良いし、キリスト教に行っても良い(マルクス主義はキリスト教の異端なので)。
哲学ならサルトル、ニーチェ辺りがやっぱ分かりやすい。マルクスと合わせて読むとジブリ映画の意味が良く分かる。
でもやっぱ行き詰まるので、結局ここでもキリスト教を勉強せざるを得なくなるが。
法律学は暇な理系大学生がなぜか勉強してたりするんだけどお勧めしない。
目次が見つけられなかったので(どこかにあるのかもしれない)、載せます。いい本です。
個人的には、発達支援・特別支援教育に関わっている人にぜひ読んでもらいたい。
別にラカンを知らなくてもいい。読めると思う。わからないところは読み飛ばしてもいい。
発達障害にまとわりつく固定観念をきちんと精査して、その上でどうやって一緒にいるかを考え直すきっかけになる一冊です。
その上で興味があれば、著者の方々の論文や、「現代思想」「表象11」などを手にとってみるといいかもしれないです。
『発達障害の時代とラカン派精神分析――<開かれ>としての自閉をめぐって』目次
はじめに
第Ⅰ部 歴史を振り返る
第1章 「発達障害」の問題圏――歴史的・精神分析的考察(上尾真道)
第Ⅱ部 発達障害を「聞く」――ラカン派精神分析臨床の視点から
第2章 発達障害における「生」と「死」の問い――発達障害児と母親との間で何が分有されているのか(牧瀬英幹)
第3章 学校×発達障害×精神分析――発達障害と「自我の目覚め」(丸山明)
第4章 ベルギーのラカン派による施設での臨床について(池田真典)
第6章 言語(ランガージュ)に棲まうものと知――デビリテから発達障害へ(河野一紀)
第7章 とぎれとぎれに結びつく――発達障害から関係性を考える(渋谷亮)
第8章 可能的なものの技法――「自閉」のリトルネロに向けて(小倉拓也)
おわりに
参考文献
事項索引
政治ばかり興味持ってる人間と毒親の親和性が高いということにも気づいた
アニメばかり興味持ってる人間と機能不全家族育ちの親和性が高いということにも気づいた
24時間毎日毎日ニュースをチェックしては辛気臭いニュースの感想をネチネチ言ってる父親のことが大嫌いだった
本当に馬鹿だった
遊び人や体育会系やマイルドヤンキーを批判する人間は間違いなく毒親の素質がある
あれらにはディズニーピクサーほど心理描写もないしX-MENなどアメコミのように疎外感持ってる人物描写もほとんどない
それからついでに現代思想だとか社会学だとかニューアカデミズムだとかそういうのも許せない
あんな本に比べたらONE PIECEやハリー・ポッターの方がはるかにためになるね(苦笑)
今最高にハマってるのはヒップホップのblue herbとnujabesとDJクラッシュとケンドリックラマーとフライングロータス
・非文学部卒
・かといって訳書をバリバリ読んでおのれの哲学を作り上げるわけでもない
・したがって、自然科学に興味があるもののなんとなく「在野臭」を感じるものにしか手を出せない
・その結果twitterでは意味不明な戯れ言しか垂れ流せない
・twitterでは意味不明な思考実験とラフスケッチに終始する
・twitterでは自然科学あるいは「現代思想」に対する違和感の表明と謎の決意表明(ストイックなことがやりたいらしい)に終始する
・ブログでも本の要約(学部生レベル。大体訳書の要約ってなんだよ)に終始する
・地方在住
・低収入
・そのくせして妙な保守主義
・こんな人生、あまりにむなしいのでアニメをネタにコミュニケーションをとろうとする
・とはいえ、単なるアニメ好きと認識されるのもなぜか悔しいらしく、「小さな哲学者がアニメに関心を示してやってますよ」てきなスタンスをにじませる
・こんな悲惨な人生も大学院に入れば実存的にもスキル的にも救われるのに、先ほど述べたコンプのせいで入れない。学力的にも入れないんだろうけど
趣味は読書、いいと思いますよ。自分も趣味は読書ですし、学生時代は一日一冊本を読むことを日課にしてたこともありました。趣味は読書でいいと思いますが、一つ助言させてもらうと、どういう基準で読む書籍を選んでいるのかが重要なのではいでしょうか。
同じ「趣味は読書」という人を10人集めて今まで読んだ本を持ってきてもらったら、10人それぞれでまったく違う本が並ぶはずで、そこに個性が現れるわけです。文芸なのか、ノンフィクションなのか。文芸なら恋愛もの、SF、社会派、歴史小説、etc... ノンフィクションなら現代思想、建築、数学、写真集、etc...。同じジャンルの本ばかり読んでいるわけでは無いでしょうが、どういう基準で本を選んでるのかを掘り下げれば趣味欄に「読書」だけでなく、より詳しい、相手に強い印象を与える内容を書けるのでは?
現状とは同じじゃないよ。
低収入家庭の優秀な子弟の教育は社会の利益だから免除は上から決める。ここまでは現状と同じ。
こうすることで、進学時に「奨学金」を受ける学生が身を立てることのモチベーション・インセンティブとする。学生が身を立てる見通しのない学問を選ばなくなる効果を期待している。
学問の尊さは金では計れない?うん、そうだね。でもそれはお金持ちの家の子が考えればいいから。
貧乏人だからこそ奨学金借りてるんだろ?日本学生支援機構とかから。だったらちゃんと身を立てることのできる学問を選べよ。分際を弁えて。
奨学金て名前がついてるけど実は単なる学資ローンなんだから借りた金は返せ。返せないなら借りるなよ。自己破産して痛い目見とけ。
そんだけ。
奨学金出す側も金貸しとして信用評価をちゃんとやれよって話。貧乏人のくせに現代思想とかに手を出す学生に金なんか貸すなよ。返ってこねえんだから。本人のためにもならねえし。貸しちまったんならおとなしく焦げ付かせてブラックリストにでもなんでものせとけ。
もうひとつあるぞ
どうやって食ってくの?昼はTA、夜は最低賃金労働者?ま、そこまでの覚悟があるならいいんじゃない?その代わり、現代の貧困とかは論じて欲しくないね。自分から進んで貧困に身を落としている以上、そんなものを語る資格はない。
主婦になる?君が女性なら現代の日本では主婦になるって選択肢もたしかにまだある。生活のために結婚するって売春婦と大差ない考え方の気もするけどね?そういう人生の送り方がチミのゲンダイシソーやらセーシンブンセキやらの観念と矛盾しないならね?ただ、君の文章から察するに思い込みや過剰な自己防御が伺える。相応の美貌がなければ、主婦としての商品価値は乏しいと思う。もし容姿に自信が持てないなら他の面で補えるよう頑張ってくれたまえ。可能かはしらんが。
大学卒業したら普通に働く?普通のレベルにもよるが、ゲンダイシソーやらセーシンブンセキでどんな能力が得られるんだよ?お前がゲンダイシソーごっこで遊んでいる間、他の学科の同級生は論理の積み重ねに飛躍や矛盾がないか検証する方法や、実際の法律知識、経理の処理方法、科学的実験の考え方と実践、目的と手段を分離して解決方法を考案する訓練、等々等々、現代社会でずっと競争力の高いスキルを磨いている。お前がつけるのはお前の同級生たちのおこぼれだぜ。就活ではコネ?コミュ力?うん、それ大事だよ。でもお前の同級生たちもそれを身につける機会がある。ゲンダイシソーやってなくても。推敲前の落書きを晒して指導を乞うと自分から言っておきながらちょっと思い通りにいかなかっただけで真っ赤になってるような性格なんだぞ、お前。どこにフツウのレベルを置くかは自分で決めればいいが、大学の同級生より少なくとも1ランク2ランク下くらいになるのは覚悟しとけ。今時は東大出てもホームレスってのもいるみたいだしな。
それともキミ、チョーお金持ち?親の遺産がたっぷりあって贅沢をしなければ100年くらい食ってけるとか不動産収入で金が余ってしかたないとかってんだったら文句はないな。結構結構。俺だって古代や中世の奇妙な思想に興味がある。現代の奇妙な思想にだって少しはおもしろい面もあるのだろう。