はてなキーワード: 感情移入とは
愛でるのも食うのも等しく人間の勝手なんだから後は各個人の感情に従って各個人が愛でたり食ったりする、でいいのでは?
それに、食われない馬だって走れなくなるまで無理やり走らされてる訳なのであまり生命が尊重されているとは思えないのだが
アイドル(アスリート?)として消費されるか、畜産として消費されるかの違いなので、そこに感情移入してモヤってしまう人は競馬屋さんの感動ポルノに上手くのせられてるよね
増田でたまに「女は性欲がない」って人を見るけど、ただの性欲の問題なのにそれを「好きだから」とかいう発想になるのって、「女には性欲がない」という思考から?
女向けのエロ漫画って、主人公はその気がないのにイケメンがグイグイくるってパターンが多いじゃん。
読者は性欲があるからエロ漫画を読んでるんだろうに、性欲がないキャラクターでないと感情移入できないてって、女って性欲に対して徹底的に抑圧されてんなって思ってるわ。
ヴィーガンだけど、こういうスレは普通にありがたいしうれしいものだ。
これがブタやウシとかの食用経済動物なら、おれたちみたいな一般人はなるべく感情移入しないで済むような仕組みができあがってるわけじゃん。ふつうは顔も名前も知らないし、飼育現場との生活上の接点はないし、屠畜という一番血なまぐさいところは徹底的に隠蔽されてるし、食肉として流通・陳列される段階では「生きた動物の痕跡」は徹底的に消されてる。とにかく「動物を殺して食う」ということへの罪の意識なり、後ろめたさなり、「かわいそう」という感情なりを初手から持たなくていいような仕組みになってるじゃん。
ここの理解をしている人はかなり勉強しているというか意識が高いと思う。いわゆるプロセストミートという産業構造によって、肉食という概念を我々はうまくカムフラージュされている。
今でも途上国の田舎に行けば家族で豚や鳥をさばくが、血が飛び出たり悲鳴が聞こえたり、子供たちはそういう経験をして肉を食べる。
なので「ハレ」「ケ」の概念が自然と身についている。それは必ずしも罪悪感だけではなく、生命を頂くという概念が、知識でなく経験として身に付く機会なのである。
しかし先進国の人間はその機会を得ることないため、肉は野菜や穀物と同様に見られている。そこに問題があるのである。
うまく説明できないが、ヴィーガンであるというのはそういう人類の歴史上の営みを否定したくない、たかが50年やそこらの産業によって飲み込まれたくない、
自分の頭で考えて行動したい、という人がなる傾向があると思う。動物愛護ももちろんあるが一番は、自分で食うものや行動は自分で判断して決定したい、という人が多いと思う。
競馬ファンは、ウマという動物をそれぞれの名前で呼び、その容姿・性格・能力などの個性を愛で、感情移入し、それぞれの毎回の競走や生涯の物語を熱く語る。その一方で、同じウマという動物が調教試験や能力試験で合格できなかったり、競走成績が奮わなかったりしたときにはセリにかけられて食用に屠畜される、という運命もリアリストっぽく擁護する(何なら「それが彼らにとって一番の幸せだ」ぐらいなことまで言っちゃったりする)。「華やかなステージに登壇できたウマ」は賞揚して「できなかったウマ」については関知しない、その割り切りっぷりというか、情熱と冷静の温度差に、おれは戸惑ってしまったりする。
これがブタやウシとかの食用経済動物なら、おれたちみたいな一般人はなるべく感情移入しないで済むような仕組みができあがってるわけじゃん。ふつうは顔も名前も知らないし、飼育現場との生活上の接点はないし、屠畜という一番血なまぐさいところは徹底的に隠蔽されてるし、食肉として流通・陳列される段階では「生きた動物の痕跡」は徹底的に消されてる。とにかく「動物を殺して食う」ということへの罪の意識なり、後ろめたさなり、「かわいそう」という感情なりを初手から持たなくていいような仕組みになってるじゃん。
でも競馬ファンにとってウマという動物はそうじゃないでしょ。オートレースの競走車やボートレースのエンジンやペラとはわけが違うわけでしょ。人と同じように知能があり、感情があり、性格があり、人馬一体のアスリートであり、そこにみんなは思い入れを持つんでしょ。JRAだって何だってそれぞれのウマにフォーカスして物語を紡ぎ、感情移入させまくるわけでしょ。だからこそウマを擬人化した「ウマ娘」という企画が成立して人気を博したりもするんでしょ。でもその背後で、競走馬としての能力を満たさなかったことで屠畜されるウマたちがたくさんいるし、むしろそういう運命にあるウマたちの存在によって競馬業界が成立してるという陰惨な現実(とおれには思える)は、競馬ファンの頭のなかでどう処理されてんのかな〜とおれは思うわけよ。だって走るのが遅いウマには知能や感情がない、ってわけじゃないじゃん。それは競馬ファン自身が一番よく知ってることでしょ。
たとえばこれがイルカの話だったとして、おれは「イルカは賢くて愛らしいから食べるなんてかわいそう」という人の気持ちはわかるし、「イルカは昔から食用にされてきた伝統的な水産資源だ」という人の気持ちもわかる。でも「イルカは賢くて愛らしい、人と同じような感情があり、人と心を通わせられる、自分もこれまで何度感動させられたことか」って言いながらイルカを食うやつがいたら、それはちょっとサイコパスじみてるじゃん。愛でられるに値しないイルカが食堂で「イルカ定食」として出される水族館で「イルカはやっぱり賢くてかわいいよね」ってうっとりしてるやつがいたら怖いじゃん。と思ったけど、牧場で羊を見た後にジンギスカン食えるとこって結構あるな。んで女の子がワンワン泣いてたりするな。そっかそっか。
以上この話おしまい。
意味不明な自分達のコミュニティな理屈で、意味不明な価値観で生きてて、それでいて群れる。
そんなゴミどもに自分達の文化圏に侵入してきてほしくないわけ。
マナー悪くて、他人に自分のルール押し付けて、自分達の邪魔されたら数の暴力で袋叩きにして人を土下座させるんだろ?
撮り鉄じゃん。
てかさ、馬は人じゃねーし、牡馬は雌じゃないってことすらわからなくなってるアホは競馬場にお呼びじゃないんだよね。
とか言うと、擬人化ってのはそういうもんで…とか、意味不明な自分達の共通ルール押し付けてくるんだろ?
電車の撮る角度は決まってて…とか言う撮り鉄と変わらないじゃん。
一般的に二次元の女に感情移入したり、二次元のキャラでお人形遊びしたりして興奮してるようなやつは異常者なんだよ。
競馬ファンに受け入れて欲しかったら、まずそのウマ娘とかいうキモいゲームを辞めろよ。
競馬人気を俺達が高めてやってる!とでも思ってるのか?
そもそも競馬ファンってのは競馬場に儲かって欲しくねえんだよ。
ラブライブだかなんだかで、どっかの観光地が儲かったとかそういうレベルの成功体験引きずって、
まるで消費するだけで偉いみたいな誇大妄想を抱いてるんだろ?
競馬ファンはてめーらの金なんかいらねーんだよ。元々、どうせ競馬の金は全部農水省の天下り連中に吸われるようになってんの。
JRAとその関連団体なんて全部ゴミカスなわけよ。俺達の血肉を吸い取って、トヨタ並のキャッシュを抱えてるゴミカス金満企業なんだよJRAは。
馬主は言わずもがな、調教師から騎手、厩務員まで、仲良く競馬法に違反しながら俺達の生き血を啜ってる世界なんだよ。
アイマスでもツイステでもいいけど、お前らのオタク・コミュニティが突然撮り鉄の間で人気になって、ライブに撮り鉄が押し寄せてきました!
新しいファンも増えてwin-winだね!なんか帰りの電車すごい撮ってるけど!ってなって嬉しいか?
嬉しくねーんだよ。お前らはそういう存在なんだよ。
もうすこしわかりやすく例えると、「突然宝塚劇場が撮り鉄の間でブーム!劇場に撮り鉄が押し寄せました!」
違う価値観の人間がいてもいいけど、元々いた人間の居場所に侵入してくるんじゃねえって話だよ。
俺達はWINGで汚ねえジャンパー着て独り言ぶつぶつ言って、帰りは汚ねえラーメン屋に寄って、家族には何の尊敬もされず過ごしてるかもしれないけど、
1人1人は善い人間なのかもしれないけど、オタクっていう総体はそういう目で見られてるってだけの話しなんだよ。
撮り鉄の話と一緒だろうが。
ついでに言うと、「一部のマナー悪い人だけを見ないで」とか、「競馬ファンもこういう人だけじゃない」とか、中立気取って語りだす奴が一番のタンカス野郎だ。
お前の独善を押しつけるなという独善を押しつけるな。冷静な自分をアピールしてマウンティングしてえだけだろ。
最近は、オタク共、ただただ消えてくれ。存在しないでくれ。と思う。
お前たちはイナゴだろう。
お前たちが何かを好きになることは、蝗害なのだと知ってくれ。迷惑なんだ。お前達が何かを好きになって、それを語らうのは災害なんだよ。
数の力で俺たちに暴力を振るわないでくれ。俺たちは、お前たちが怖い。
どうせゲームなんて5年もすりゃ飽きるだろ。だから、俺達の平穏な5年間を奪うだけの存在なんだお前らは。
そうではないというのであれば、まずクソマナーの撮り鉄どもに叡智を授けてみせろ。
それができなければ、せめて競馬について語るな。
何度でも言うが、お前らみたいなのに競馬を好きになられるのは迷惑だ。
本当に文章読めねえんだな
競馬ってのは、後ろ暗くて、卑賤な業界だっつってんの。俺は賭けるけどな。
お前らが盛り上げてきたつもりの、歴史だとか、キャンプだとか、観光だとか、
既に肥太ってる悪人どもに、更に金を与えるかどうかって世界なんだよ。
新規が入らない?それが一番の望みなんだよ。
競馬なんてのはこの世から無くなった方が世の中のためなんだよ。
それでも俺は馬券買うんだけどな。
そういう世界なんだよ
追追記
ごめん
WINS。
読む前にamazonレビューである程度評価が高いことを確認したけど、全部自分には合わなかった
2巻まで読んだ
地味で展開もありがち(弓道部ないから部員集めるとか屋上で練習するとか)
キャラも魅力を感じない
男主人公だけだといまいちだから女キャラもいれとこう的な安易さも嫌い
いろいろちぐはぐな行動したりする
変身がとけない=マスクしたままだから表情、目つき、口元がまったく見えないせいで、
絵とセリフから読み取る必要があるのがやっぱネックになってるように感じる
かといって他の変身とけてる元戦隊メンバーが表情豊かかというとそうでもなく、総じてギャグ漫画としていろいろ考慮が足りてない気がする
ファンタジー世界のお役人が、各地の昔話を集める名目で困りごと解決したりするタイプのやつ
説明文字が多いのと展開もありきたりでつまらないから流し読みしておわり
人間関係がダメな天才と、才能はないけど社交力はある人間が組んでいろいろやる
絵は好きだしマンガとしても読みにくくはないと思うけど、キャラとストーリーが壊滅的
感情移入できないしひたすらストレスとフラストレーションがたまるばっかの展開が続く
美大あるあるをオリキャラでマンガにするのはいいけど、エッセイでもないのにただマンガにしてもつまらないだけ
2017年時点ではすでに成功したアニメ監督とアニメーターが1話でえがかれる
一話目が主観目線で希望のない荒野を映し出したのに対して、二話目は完全に客観目線なので感情移入より社会派を目指したのかな、という冷静な目線に立ち戻ってしまう。要するに突き放した目線で見てしまう。内容もナショジオなどで取り沙汰されたクマリの儀式を模したもので、作中の価値観は極めて現代的な「自由」を標榜したもの。
人身御供などの題材は普通、洗脳下における人物の感情の無情さ、無機質さ、怖さが必ず絡んでくる。あるいは逆に、そうまでして守りたい信心というあらゆる意味で多角的に文化を捉えなければならないものでもある。今回はそうした重みのある題材を軽々しく作品にしてしまった。こうしたものの取り扱いには現地の倫理観という優先すべき事項も存在するわけで、外人であるほぼ西洋化した日本人の感覚で語ることは、本来あまり歓迎すべきことではないように思える。タンクトップの女も民族衣装的ではなく、歴史を正視するノイズになっている。
一方(原作未読だが)二話以降は感情の伴わない神が送り出した物体と少女との不思議な交流がメインとなるわけで、感情が伴わないものと感情豊かなもの、死なないものと確実に死にゆくものの対比が描かれる。そう考えると歴史的に行われる人身御供や巫女の儀式は全くメインではなく、視聴者が感じる旅情感と作品のメインモチーフである「人であることとは」という現時点の問いかけに全力で振り切っていると言い換えたほうが適切なのかもしれない。それならなぜ重たい背景を持つクマリをあからさまに題材にしたのかという疑問点は残るが。
いいか?
お前の子供がイジメられて自殺するより何十倍もイジメる側につく可能性のが高いんだ。
そしたら最低主犯格が2人(1on1ならイジメにならん)、取り巻きが数人、見て見ぬふりをする傍観者が数十人いる。
お前自身が一番よくわかっているだろうが、この世にイジメを一度も目にすることなく大人になったやつはいない。
学年があがる、クラスが変わる、学校が変わる、部活に入る、等々、所属する集団のメンバーが変わるたびに、いじめリスクと向き合うことになる。
イジメの被害者になるか、加害者になるか、それとも傍観者となるか。
多くの人は傍観者になる。
被害者からすれば死にたくなるほどつらい時にイジメを止めてくれなかった傍観者は実質的に加害者と同じだ。
つまり、三択のようにみえて実際は被害者か加害者かの二択を選ばなければならない。
自分がこうだから、それと違う他者はおかしい、と結論付けるのはあまりに粗暴では?
お気持ちヤクザが腹立つっていう話は分かるけど、物語に自分を埋没させて楽しむ人もいるよ。それまで「頭おかしい」みたいな風に言うのはちょっとどうかと思うなあ。
多分だけど、増田はネタバレされても問題ないタイプなんじゃなかろうか。ネタバレされても、そこに至るまでの物語の構造とか伏線を見つけながら読めるからOKみたいな。
どっぷり感情移入して読むタイプは、ネタバレNGな人が多いと聞く。
自分も前者なんだけど、感情移入して読むタイプの人は、すごく細かく感情の機微を感じ取っていたり、物語を自由に楽しんでることが多くて羨ましくも思うよ。
まあね
映画だろうがアニメだろうが、みたくない描写をみせるのは本意では無い
なんだけど、やっぱり昨今のキャラに過剰な感情移入している人達や、それに過敏になって過保護になるSNS界隈が面倒だなと思ったんだ
愚痴ってごめんな
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/shonenjumpplus.com/episode/3269632237321956822
maro218ベタだけどこれでいいんだよ!こちとら現実で手一杯で、好きなキャラが死んだりするマンガ読むのしんどいんだよ!!こんなのがいいんだよ!!!
何が駄目なのかさっぱりわからない。例えばガンダムのキャラが死んだら惜しい人間を亡くしたと悲しむのはわかる。だけどしんどかったり、それが嫌だという感情が理解できない。キャラクターの死は物語の一つに過ぎない。だからキャラクターの死自体にそこまで感情移入できない。本当に推しキャラという概念を理解していないせいかもしれないが、それほどまでに特別なものなの?
もしも20年近く愛読していた作品が完結したら、それはそれで哀愁を感じると思う。だけどその中の1キャラの生死に過敏になることってあるんだろうか。
もともとスポーツを見るのは好きなので、楽しく働いている。
取材対象の中にはオリンピアンや東京2020を目指してる選手もいて、ここ1年はそういう人たちに会うたびに延期についての思いを聞いてきた。
「絶対開催してほしい」とか楽観的なことを口にする人はひとりもいなくて、みんな揃って「五輪があると思ってやるしかない」と言う。
我々もオリンピックの有無で仕事のスケジュールが大幅に変わるので、気持ちは同じ。
「あると思ってやるしかない」。
中止になるかもしれない。でも、きっと開催されると祈りながら、できることをやっていくしかない。
何百回も呪文のように聞いて、言って、自分の中に刷り込んできた。覚悟はしているつもりだった。
「あると思ってやるしかない」。だから、あるかないか、ということは考えない。「あると思って」やるのだから。
覚悟を決めているようでいて、その実、”中止”という想定されるべき未来を直視できていなかったのだと思う。
だからと言って、不確実な1年後へのモチベーションを維持するには、そう考えるしかなかったのも事実だ。
それに、どこかで期待もしていた。
そのうち指定感染症の等級も下げられて、楽観的なムードができて、オリンピックはぬるっと開催されるはずだと。
観客数は絞られるかもしれない。無観客もあり得る。
だけど、大きな反対はされずに、選手たちの勇姿はむしろ静かに歓迎されるんじゃないかと。
思い描いてしまっていた未来は遠い。大阪の感染者数は、過去最高を更新してもなお増える一方だ。
指定感染症の等級を下げよと言う声もあまり聞こえなくなってきた。
慣れきった群衆と巨大な恐怖とが、水と油のように混ざり合うことなく取り残されている。
裏腹に、オリンピックは日に日に近づいている。聖火リレーは全国を回り、代表選手が続々と決まっている。
”最悪”を覚悟したつもりで、大量のドーピングを使ってなんとか乗り切ってきたスポーツ界は、間違いなく、着実に期待を高めてしまっている。
今から中止に、本当になりうるんだろうか。もし、本当に中止になってしまったら。
私の心は間違いなく折れる。これまでずっと頑張ってきたあの仕事たちの意味はなんだったのか。
仕方ないね、じゃあ次、と切り替えるには、あまりに選手たちに感情移入しすぎてしまった。
現部署でそのまま働き続けられる気もしない。
まあ、私個人は異動してしまえばいいだけの話だし、異動できなくて仕事に身が入らないままでも、たぶんクビにはならない。
でも外野の私ですらこれなのに、アスリートたちはどうなるんだろう。
東京を目指すことで成長できたという選手がいた。東京があったから続けられたという選手がいた。
ほとんどのアスリートが不安を抱えているセカンドキャリアも、メダルを獲れば一気に幅が広がる。
他国開催とは懸ける思いも、人生に与える影響も、桁違いの一世一代の大会。
それが一夜にして手からこぼれ落ちたら。
そうなんですよね
現実世界だと主にスポーツとかでサイヤ人だけが優遇されてしまってズルいみたいになる
でも、漫画だとみんな楽しんでる…
そういうところが個人的に引っ掛かるわけだけど、逆に等身大過ぎる主人公というのも魅力に欠けるのは事実で…
ラーゼフォンもイケメン無双過ぎて、無残に負けるチャラいロン毛の方がちょっと可哀想にも思えてきたり…
ただ、ロジックで考えても能力がなければ主人公はオチまで到達できないわけで、
恵まれた出自だとしても、どう逆境を設定して、どう知恵と努力で乗り越えるか、
みたいなのを用意しないと完全に読者が感情移入できなくなってしまうわけで、そのバランスの問題なんだろうけど、
ふと思いとどまって考えてしまうと、
あの漫画の主人公ってチート過ぎるよなあ、と思ってしまうという
…
あ、自分はスポーツ観戦とか野球とかサッカーの観戦にあまり興味がなくて、
あと、今住んでる部屋の隣人がテレビでのスポーツ観戦が五月蝿くて、ちょっと迷惑してるのだけど、
観ないことはないけど、流し見しかしないんだよなあ、スポーツ観戦は
理由として、自分より優れている人たちが頑張ってるのに、クソだの何だのヤジ飛ばすようなのがまず嫌だし、
自分より優れている人たちは、自分より優れた人にしかできないレイヤーで活躍しててくれればいいのであって、
逆にそんなに超能力合戦を観たいのなら、毎日病院の集中治療室がそうかもしれないし、
言いたかないが、プログラミングだって場所によっては超能力バトルみたいなもんなわけで、
で、スポーツ観戦で五月蝿い人たちが、外科治療とかプログラミングとか受験を観て盛り上がるのか?
盛り上がらないと思うんだよなあ
つまり、結局は能力差別がどーのこーの言ってる人たちが超能力合戦、異能力バトルを楽しんでいるわけで、
それは自分たちがその楽しさを理解できると思ってるから成立してるだけの話で、
単に、面白さが理解できない能力バトル=差別、みたいになってるのかもしれないし、
自分は、自分より優れた人たちはその人たちで勝手にやってくれ、としか思えない人間なので、
やっぱりスポーツ観戦とかが楽しめないんだと思う
監督視点で考えると面白くなるのかも知れないけど、監督だってゲームみたいに誰でもなれるわけではない、
私はキャプテンアメリカが大好きだった。
筋骨隆々で、パワーで敵をなぎ倒す姿が大好きだった。
キャプテンアメリカのクッキーを焼いたり、キャプテンアメリカのクッションを購入するほど好きだった。
見直すことでMCUへの愛情が増す一方、キャプテンアメリカへの嫌悪感が増していった。
揺れながらトニーのわがままにうんざりしていた。この時の私はキャプテンアメリカを盲目的に信じていた。
キャプテンはヒーローとしての責任を果たそうとしているのに、邪魔をするトニーと考えていた。
だが、今はどうだろう。冷静に考えて欲しい。
街一つを簡単に破壊する力を持った人達が、野放しになっていたら危機感を覚えないだろうか。
アベンジャーズがヒーローとして戦わなければ、さらに悲惨なことになったのは事実だ。
だが、戦場がソコヴィアという遠い地だったために危機感を感じなかっただけではないか。
その時に何も制約を持っていないヒーローたちが現れて、人類を守るという行為を理由に日本を破壊して回ったらどう思うだろうか。
ここまで考え、アベンジャーズのために、人類のために、ヒーローを国連に管理してもらい、
みんなが納得できるように活動できるようにしようとしたのがトニーなのだ。
キャプテンアメリカはどうだっただろうか。
管理されたくないと仲間を連れてアベンジャーズを抜けただけである。
人類に危険視されているのに、空港で飛行機を破壊、ワンダに関しては一般人の車を次から次へと落として破壊していたではないか。
ここまでは考え方の違いなので、まだフォローする余地があると思う。
だが、最終的にキャプテンアメリカが何をしたか覚えているだろうか。
トニーの父親を殺したバッキーと、トニーの父親が作った盾で、被害者であるトニーを叩きのめしたではないか。
さらに最新作のファルコン&ウィンターソルジャーでも、キャプテンアメリカの人間性を象徴するエピソードがあった。
シビルウォーでは、キャプテンアメリカは追われる立場にあり、盾を国に没収されていた。
その盾をキャプテンアメリカに盗んで渡してくれたのは、シャロン・カーターである。
キャプテンアメリカのために、シャロンは国から盾を盗み、渡したのである。
キャプテンアメリカは感動し、シャロンにキスをするという印象的なシーンがある。
ファルコン&ウィンターソルジャーでは、シャロンのその後が明かされる。
幸せに暮らしていると思っていた。指パッチンで消えた人類の半分を助けたヒーローと両想いになっているシャロンなのだから。
だが、現実は違った。キャプテンアメリカのために国から盾を盗んだ罪が消えずに逃亡生活をしていたのだ。
この時キャプテンアメリカは何をしているのだろう。
インフィニティストーンを返却した後、自分勝手な理由でペギーカーターと楽しい人生を送っていたのだ。
100歩譲ってペギーと暮らすのは許そう。
だが、過去に戻ったキャプテンアメリカがシャロンを助けることはできたのではないか。
このとき私の中でキャプテンアメリカへの憎しみが最高潮に達した。
今までは気づかないようにしていたキャプテンアメリカへの憎しみが心の中から溢れ出てきた。
今まで違和感を感じていたが、何とか抑え込んでいたキャプテンアメリカへ負の感情がとめどなくあふれ出てきていた。
私はキャプテンアメリカが憎い。
うーん、コンパイルさんのザナックとかは違う気がなんとなくするんだけど
https://morikatron.ai/2020/05/gameai_history_02/
ディープラーニングではなくて、逆に薄いニューラルネットワークだったりするんだろうか
いずれにしても、プレイヤーの能力に合わせて敵の攻撃が変わるのは本当で、
if文より、何らかのプレイヤーの能力を評価する評価関数とか、
そういうモデル化がキモなのは今の時代と何ら変わらない気がするんだよなあ
株や為替の自動取引の場合は、そのモデルが市場を短期的にでもそこそこ正しく予測できているか、
何らかの物理学的事象と仮定して短期的にでも予測できるならそれはちょっと予言にも近くなるはずで、
そのモデル化は今なら学習させることで可能かもしれない(当然、予想外の事態には弱いだろうけど
でも、ゲームの場合はユーザーが面白いか面白くないかが評価軸なので、
多分だけど、現在になってもスゴい技術がスゴく面白いに直結するとは思えないんだよなあ
スゴい技術に見えたり、感情移入さえするんだけど、中を見てみたら単純なカラクリだった、
みたいなことがあってもおかしくないというか、作る側としても労力考えるとその方が望ましいぐらいで
いかに手を抜いて面白いものを作るかみたいな視点で考えるとだけど
例えば、アキネーターなんて、自分で実装しようと思えばかなり単純なアルゴリズムというか、
仕組みであることに気が付くと思うんだけど、物事を深く考えない人は当然として、
でも、なんとなく初めてやってみたぐらいの段階だったら、脳内を当てられた気もして、
これって面白いなあ、と思ったと思うんだよなあ
いや、自分より頭がいい人たちは一発で見抜いて、くだらんと思ったかもしれないけど、
仮にそうだとしても、本当にくだらないならここまでウケなかったと思うんだよね
例の無人駅車いす突撃問題、反感が多いのはバリアフリーとか迷惑とかのレベルじゃなく、もっと根本的な感情的な部分で現場の駅員に肩入れしてる人が多いからだと思う。
あの記事では現場で汗かいて対応した駅員までJRとまとめて敵とみなすような、無断で写真までアップして害意すら感じられる内容だったけど、あれが「組織としてのJRはダメだけど、現場の駅員の方々にはお世話になりました、ありがとう!」と現場駅員には敬意が感じられる書き方だったら、反応はだいぶ違って好意的だったと思う。
読んでる人々の多くは障碍者でもなく社会活動家でもなく、末端の労働者だもん。
反論されにくい「女性」「障碍者」という弱者属性を持ちながら、一方では結婚して子供もいて家族旅行する時間の余裕と経済力もあり社会的な地位も持ってて、多くの末端労働者より恵まれた強者の立場にある彼女が末端労働者に害意を示していたら、そりゃ「自分がこうやって現場で責められる立場に置かれたら」と防御反応的に身構えて反発を感じてしまうわ。
感情にまかせて現場駅員まで敵として扱わず、せめて後から書いた記事くらいは「現場の労働者は敵じゃないよ、敵はその上にいるJRという巨大組織だけだよ」と装っておけばよかったのに。
問題提起するための記事を書くネタにするのが目的で、あえて対応できない状態を狙って事前相談せずに小さな無人駅に行ったんでしょ?