はてなキーワード: 尊厳とは
世の中マイノリティだ個人の尊厳だとうるさくなってきたのに、なんで人はまだ「男が女が」とまるで2人しかいないかのように議論するんだ・・・
どっちにもいろんな奴がいるだろ。それを「東大に入ったのは君たちの力じゃないよ」とか言い出すからおかしくなるんだよ(関係ない)
世間話の流れで歳若い女性部下にタイトルのようなことを言われたのだけれど。
俺は外にいる時、常に周囲を警戒している。
店に入るときはなるべく壁際の席を確保して近づいてくる相手は確認できるようにするし、電車の中での立ち位置はできる限り吟味するようにしているし、車を運転している時だけじゃなくて、歩いている時だって進路変更する前は後方確認してる。
盛り場や繁華街には行かないし、夜遅くには出歩かないし、残業で遅くなったら最寄駅からダッシュで帰ってる。
だからってトラブルに巻き込まれるときは巻き込まれるのだろうけど。
何事もなく過ごせているのはたまたまだとしても、できる限りの安全確保はしているつもり。
で、君はどうなん?
耳にイヤホン突っ込んで、スマホ見ながら歩いて、何かあった時にすぐに走って逃げ出せないような格好して。
人前で身だしなみ整え始めるし、改札前で立ち止まって定期探して通行の邪魔するし、友達といるときは歩道いっぱいに広がってでっかい声で人の悪口言いながらのたのた歩いて前から来る人も後ろから追い越そうとする人も邪魔するし、営業車、レーンの真ん中に止めて電話に出るし。
電車のドア脇で常に人の乗り降り邪魔するし、背負ったバッグでシートの端に座った人の頭を圧迫するし、雨の日は傘で人の足濡らすし。
それで巻き込まれてもいないトラブルについて、女性だからと被害者ヅラされると、イラっとくる。
いくら法律が整備されようが治安が良くなろうが、自分の身は自分で守る気概が必要でしょ。
守る気概っていうか、トラブルを避けるためのマナーっていうか礼儀っていうか。
別に媚び売れとか胡麻擦れとか気配りとかサービスとか、そういうこと言ってるんじゃないんだよ。
周囲への配慮?的な。
そう、最低限の他人の尊厳を尊重する礼儀みたいなの、あるじゃん。
別に相手がハゲてたりデブだったりする赤の他人の通りすがりのおじさんだからって、足踏んで一言もなく済ませていいわけじゃないんだよ。
普段さんざん爺を負け組とか能力がないとか集団で馬鹿にして爺の尊厳を踏みにじってるんだから
負け組を見下す偉大なる正社員の既婚者様方は爺からナイフを取り上げる程度できるだろ
おナイフでお刺されになった程度ではお死ににならないでしょう
格差はあっていいと思う。
努力や能力で上を目指して成功した人が他より質のいい生活を謳歌できるという仕組み自体は意欲やモチベーションに繋がるから格差自体は存在していい。
問題は最下層の立場が自由と尊厳、機会や選択肢を大幅に制約され、命に関わる状態に追い込まれても経済的な理由で助けを求めることすら困難という立ち位置にいまだに置かれていること。個人的にはベーシックインカム支持派でいずれ本格的に導入される日が来ると思っているが、近頃の行政なんかを見ていると意図的に少子化を目指しているのではと感じてしまうことが多い。自分たち以外はどうでもいいから私利私欲に走っているのか、単純に自分たちの地位を鼻にかけて国民については見下して無関心なのではないかと思ってしまうようなニュースが多くて(税金/賃金とか)。AIが仕事を奪った時、無能でもしがみついていた地位が崩れることでも危惧してるのかな? 格差はあっていい、ただ下級層が奴隷みたいな立ち位置に追い込まれるような仕組みは無くして改善しないといけない。
私は統失の女で、私自身が結婚式をしたくないのと、幸い旦那の知人にも結婚式を挙げてない人がいたから同意の上で行わずに済んだ。
自分に結婚式に呼べる友達がいないけど旦那は友達が多いから、友達の多寡を相手方にどう見られるか考えるだけで嫌。ただでさえノリ気じゃないのに、結婚式をするまでに何度も打ち合わせや話し合いをしなければいけないということを、考えるだけで無理。
それと、彼は自分の心身に我慢させて前職を続けることより働きやすさを選んだのだから、やりたくないことをやりきる余力がないんじゃないかな。
それでもあなたはやりたいというならやりようはあるんじゃないかな。
たとえば先に入籍だけして彼が「結婚式をやってもいい」と思えるくらいまで待つとか(結婚して2年くらいして、結婚後の自分という状態に慣れてから、すべての段取りを旦那がつけてくれるなら結婚式してもいいくらいに私は思えた。できればやりたくないけど)。
それと彼側の金銭負担はできる限り感じさせないように気を遣うといいかもね。
体調都合で前職を辞めて、鬱寛解状態での再就職ってことは、次の仕事を続けれることができるか本人目線では心配かもしれないし。運良く続けれても、会社都合で途中で雇用を切られる心配もあるし。
それと精神の薬の副作用で男性は勃起不全・射精障害になる人は多いらしいし(知人男性がそうだった)、男性にとっての勃起できない・射精できないは尊厳に関わるくらいショックなことみたい。だから夜の営みが少なくても、途中で失敗しても、責めないであげてほしい。
外敵から身を守る必要のない現代において生命維持の面で(健康はさておき)筋トレの必要性は薄れている。
そんななか自分はなぜ筋トレをするのか、理由を考えてたらこんな問いが生まれた。
自信と自尊心って何が違うんだろうか。
あったほうがいいって言うけど、かといって在り方次第では嫌悪されるのはよくあること。嫌悪されるのは他者から見て能力が伴っていない時か?
自尊心・・・自分の尊厳を意識・主張して他人の干渉を受けないで品位を保とうとする態度。(広辞苑)
英訳するとself-esteem でありprideとは全く違う印象を受けるなぁ。
言葉を代えると自信は条件付きで自尊心は無条件と区別できるかな。(恋と愛の議論でもよくみかける...)
ファッションが自尊心を高めるというと疑問に思うけど筋肉が自尊心を高めると言われたら前者ほど違和感がないのは自分だけか...?
大元の問いに戻ると自信がつくのも筋トレをしている理由の一つな気がする。
ファッションでもいいけど先天的な体格に左右されるし、評価する他者が必要だし、コスパも悪い。
筋肉は健康にもいいし、物理的な力は数値化できるからね。どういう風につければ美しいかは要勉強だな。
次は自信はなぜあったほうがいいのか考えてみるか。
http://lty.hatenablog.com/entry/2018/09/23/083000
こういうブログが書かれたんよ。
ここで批判されてるのと同じ人な。
要約すると、
「表現規制派は『エロはダメ』『キモいものは迫害していい』『俺/私が不愉快だから規制しろ』とは言ってない。もっと深いことを言ってる」
こういうことらしい。
本文読んだ?
バカだろ。同じじゃん、言ってること。長くしてるだけ。
メンドクサイけど、阿呆がなんか言ったつもりになるのも癪だから一応潰しとくね。
・「暴力としての性的表現が作中で肯定的に描かれていたり、被害者側がそれを受け入れていたりする表現は、現実社会(読者、視聴者の現実認識)に悪影響を及ぼす」
証明してくれ。
・「ゆえに暴力性や加害性を含んだ性的表現は慎重に扱う必要があり、少なくともそれが肯定的に描かれているものはゾーニング/レーティングすべきだ」
あとゾーニングもレーティングも、真綿で首を締めるような表現規制だからな。
理由は?君の不快感?もし違うというなら説明アンド証明してくれ。
・「人または擬人として描かれたキャラクターが、人間性や尊厳を欠いた性的オブジェクトや加虐オブジェクトとして描写されていると気持ち悪くなる/不愉快だ」
誰も不愉快にならな表現などないし、誰もオブジェクトとして描写しない表現もないぞ?
要は君の好みだろ。
・ 「特に自分が含まれる属性(性別等)がそのように扱われる作品について、それが社会全体に受け入れられているのは不安だ/恐怖を感じる」
その恐怖が他人の表現の自由に優越し、人権を奪えるに足るものだとする根拠は?
「○○のための場所じゃない」「不必要なまでに○○だ」の基準は何?
君の好みの問題だろ。
そして君のその不快感が他人の表現の自由に優越し、人権を奪えるに足るものだとする根拠は?
そのお気持ちが他人の表現の自由に優越し、人権を奪えるに足るものだとする根拠は?
やなこった。
なんで当たり屋に配慮しなきゃならんの?君らは他人に配慮してるの?
取り急ぎ、自分の好きな表現を「規制しろ」「隠せ」と言われて傷ついてる俺らに配慮してくれ。
当然できるんだよな?
あー、めんどくさ。
結局、「エロはダメ」「キモイから迫害する(隠せ)」しかいってねーじゃん。
なんの根拠も証明もない。ただ己の不快感だけを相手に押し付けて人権奪おうとしてるだけじゃん。
これ、なんか反論になってんのか?
その途中の説明や議論を直視せずすっ飛ばしてるのはどっちだよ。
少なくとも、Twitterで一部のオタクからフェミニストとして認識されてるような人ら(フェミを自称してる人は僅か)は、そこんとこちゃんと何度も説明してるよ。
理由なし、根拠なし、人権意識なし、相手への敬意なし、聞き入れるメリット無し。おまけに筋も通らぬダブスタ三昧。
次なんか言ってくる前に、もう一回以下の3点を考えろ。3点だけだ。簡単だろ?
・もし感情だとするなら、それが他人の人権に優越するに足る理由があるのか?根拠があるのか?
スポーツ仲裁裁判所(CAS)は1日、五輪の陸上女子800メートルで金メダルを獲得したキャスター・セメンヤ(28、南アフリカ)の、男性ホルモンの値の高い女子選手の出場資格を制限する新規定撤回を求める訴えを退けた。
第1に、(おそらく)スポーツの世界で男女を分けることは差別ではないということ。
男女平等が重要な価値とされている現代で、なぜスポーツだけは男女が競わないのか。いうまでもなく男女の間に無視できない生まれながらの体力の差があるからです。上半身の強さに関して女性と男性の差は標準偏差が3です。つまり街で1000人の男性を無作為抽出した場合、998人は平均的な女性よりも強い上半身を持っています。平均的な男性の上半身の筋力は女性よりも80%多く、足の筋肉量の差は50%です。男性は女性よりも脂肪が少なく、骨密度が高く、持久力や痛みに耐えるために重要な赤血球も多い。女性は男性よりも骨盤の幅が広いため、脚の付け根から膝までの角度が男性よりも大きくなります。そのため走ったりジャンプしたりする場合に使われるエネルギーが地面に垂直に伝わらず、前進、上昇のためのエネルギー効率が悪くなります。男女差は上半身を使った競技、瞬発力を要する競技で大きく、それ以外ではより小さい傾向があります。具体的にいうと格闘技、投擲系で極めて大きく、跳躍系で大きく、走る競技でより小さく(なお走る競技は20メートル以上なら瞬発力のみではダメです)、もっとも小さな競技は長距離の競泳です(ある程度の脂肪が浮力の点で、丸みのある身体が抵抗の点で、広い骨盤が接水面積の点で、多少のアドバンテージになっているのでしょう。)。ハンマー投げの世界記録の男女差はハンマーの重量を考慮すると51%差がありますが、走り幅跳びでは19%、ほとんどのランニング種目で11%、水泳800メートル自由形では6%です。世界のトップ女性アスリートでも、記録はおおむね日本の中学男子のトップクラスと同レベルです。吉田沙保里も男子高校生と対戦したらあっという間にフォール負けでしょう。「そもそもスポーツで男女をわけること自体が差別である」という意見もあるのかも知れませんが、もしも男女でわけなければ、およそ半分の人は、女性として生まれた瞬間にアスリートになる道を事実上絶たれることになります。
第2に、テストステロンには明確な男女差があり、かつテストステロンの値がスポーツのパフォーマンスに影響を与えるということ。
95%が睾丸で作られるテストステロンのレベルは連続スペクトルにならず、女性が分泌するテストステロンは血液1デシベルリットルあたり75ナノグラム以下で、男性は240から1200ナノグラム(つまり男性の下限値は女性の上限値よりも200%以上も高い)、例外的に副腎等から高レベルのテストステロンを分泌している女性トップアスリートでもそのレベルは一般男性の下限に達しない程度であるとされています。また、スポーツのパフォーマンスの複雑さゆえにテストステロンがアスリートに与える影響を正確に説明できる科学者はいないものの、テストステロン値が影響を与えること自体はおそらく確実です。テストステロンレベルを下げて身体を女性に変えるホルモン療法を始めたアスリートのパフォーマンスが短期間で急激に落ちることが確認されています。テストステロンの人為的な投与は、典型的なドーピングの一種です。
第3に、第1、第2とやや矛盾するが、男女の差は実は相対的なものであるということ。
受精の際に性染色体がXYとなるかXXとなるか。XYなら男性、XXなら女性だが、これは遺伝的な性であって、性別はそれだけでは決まりません。胎齢4~5週で性腺が卵巣になるか精巣になるか。Y染色体があってもSRY遺伝子がなければ、あっても働かなければ卵巣が作られるし、Y染色体がなくても遺伝情報の特殊性で精巣が作られる場合がある。胎齢6~7週でミュラー管が卵管や子宮、膣になるか、ウォルフ管が精管、精嚢、前立腺になるか。精巣が作られてもミュラー管抑制因子がなければ子宮や膣が作られるし、テストステロンの分泌がなければウォルフ管が精管や精嚢に発展しない。外性器が陰核や陰唇、陰茎や陰嚢のどちらになるか。胎齢8週間まではどちらにも分化できるが、テストステロンが働かなければ陰茎や陰嚢は作られない。脳の性中枢がどちらになるか。胎生90日頃までテストステロンが少ないと視床下部は女性と認識する。それ以前の過程が女性でもテストステロンが過剰であれば男性と認識する。すべての過程で「男並みに」テストステロンが分泌されていてもアンドロゲン不応症ならそれが性分化のために働かない。さらに生まれてから男の子として育てられるのか、女の子として育てられるのか。親の教育方針や環境の問題ですね。男性と女性は確かに違うけど、偶然に左右されつつ、これだけ複雑な過程を経て分化していく。「女子と男子は違う」「テストステロン値は連続にならない」のは事実だけど、それだけで男女の差が説明できるものではないし、そもそも男女の差はそれ自体が相対的なものに過ぎないとも言える。だから「トランスジェンダー」と呼ばれる人がいるわけです。
第4に、これまた第1、第2の点を混ぜっ返すことになるが、生まれもった素質によりある種の公平さが失われるというのであれば、スポーツは多かれ少なかれそういうものであるということ。
女子であっても身長が180㎝以上に伸びなければリベロになる場合を除き世界的なバレーボール選手としての未来はほぼなくなります。陸上トラック競技も五輪や世陸の決勝のスタートラインをみれば、ほとんどの種目で人種的な特質が程度の差こそあれ影響しているのは否定できません。モンゴロイドがトラック種目で金メダルを取るのは不可能とまでは言えないけれども相当に難しいでしょう。将来にわたってピグミー出身のNBA選手は生まれそうにない。さらに障がいがあればほとんどの競技で障がいのない人とは競えません。
以上すべてを踏まえて、今度のCASの決定をどうとらえるか。そもそもIAAFは正面切って「セメンヤ選手を標的にした」とは公言しないが、「400メートルから1マイルまでの距離」というターゲットからは、800メートルで「絶対女王」に君臨し、最近は1500メートルにも進出してきた彼女を想定していることは誰の目にも明らかなので、彼女を例に考えてみます。
一部の報道が正しければ、セメンヤ選手は、遺伝子はXXで、膣があるが、卵巣と子宮を持たずに精巣を持ち、通常の女性の3倍-平均的な男性の下限レベル-のテストステロンを分泌し、パートナーは女性です。彼女の持って生まれた一般の女性と異なる「男性に近い」特質が、競技者としてのアドバンテージになっていることはほぼ確実で、勝利をめざして彼女と競う他の競技者が不公平感を覚えるのは、理解できます。かつて彼女と競うことに不満を漏らした選手は世間から強い批判を受けましたが、例えばセメンヤ選手が、陸上800mの選手ではなく、ボクシングやMMAの選手だったらどうでしょう。同じ体重であっても圧倒的な体格を持つ女性が、典型的な女性選手を滅多打ちにしてノックアウトする凄惨なシーンが展開されればどうでしょう。強い選手だと喝采するどころか、感情的にはなかなか受け入れられない部分があると思います。
しかしながら、上記のとおり、生まれもった素質によりある種の公平さが失われるというのであれば、スポーツは多かれ少なかれそういうものです。とすると、いずれの性に分類するかの前に-セメンヤ選手はもしも男子の競技に参加すれば五輪の参加標準に遠く及びません。日本の高校生に混じってインターハイの決勝に残れるかどうか微妙、というレベルです-セメンヤ選手のみが生来の体質ゆえに希望する競技に参加できないというのは避けなければなりません。
スポーツは勝負事です。勝利を、記録の向上をめざさないスポーツは、スポーツの重要部分を欠いています。だがスポーツには公平さという価値があります。勝ちさえすればよい、記録がよければよいといわんばかりに、競争における公平な条件を無視する人も、優れたアスリートではありません。そしてスポーツは社会的な存在です。勝負と記録にこだわり、競技における公平さを追及するあまり、プライバシーの尊重や人種差別の禁止、個人の尊厳といった社会で認められた価値を軽視し、限られた人にのみ開かれ、あるいは一部の人の人権を傷つけるのも、正しいスポーツのあり方ではない。
ジャッキー・ロビンソンが人種の壁を打ち破る前のMLBのように、かつてスポーツには有色人種を閉め出した時代がありました。特定の種目について女子ゆえに参加を禁止された時代がありました。でも現在はこういう扱いはありえません。「黒人と競わされるなんて不公平だ」「女はこの競技をするな」などという発言は許されない。セメンヤ選手のような事例をどう受け入れていくのか、競技団体のみの判断ではなく、社会が彼女のような人をどう受け入れていくのかという問題として考えなければならない。
いろいろ考えるべきことは尽きないし、悩ましい問題で、今後考えが変わらないとも断言できないのですが、私はやはりセメンヤ選手は「女」として競技に参加すべきと思います。それは人は持って生まれた資質に規定されつつ自認する「性」で自己実現を図るべき権利があり、その権利を尊重することは、個人の尊厳としてこの社会においてもっとも重要な原理だからです。IAAFの決定、CASの裁定には賛成できません。
codingalone 良いまとめをありがとうございます。過渡期って感じあるよね
ありがとうございます。陸上中距離大好き、女子陸上も大好きのヘテロ男性です。自分も10年前なら鼻で笑っていたかも知れません。今でも悩んでいます。
追記2
「これは世界に喚起を促すための闘いで、競技やスポーツの枠を超えたもの。人間の尊厳と誇りの問題で、世界に喚起を促すためにやるべきこと」
がら女を殴る男がいた。SMでは厳しい打撃
と蕩けるほど甘いご褒美のセットを繰り返していくことで打撃をご褒美と錯覚してゆく。痛みを与える側にも
うける側にも純粋な憎しみはない。女には殴られる事で満た
よび出す前からプレイは始まる。お互いに言葉にできないなにかを満たしあ
うためにプレイする。
なぐられて育てられた女には家族との絆と殴りが同じものと錯覚していたのかもしれない。殴り殴
られるまでのプロセス食べ物を与えもてなした女を殴る、食べ物を与えられて腹が満たされた後女は殴られる、という儀式なのかもしれない。無抵抗な人を殴る背徳感。殴りを受け入れるサンドバックのような人間を殴る虚無感。肉のサンドバッグを
ごつい拳で殴る事で得られる反作用ー揺さぶられる肉、揺らぐ体幹、呻き、時には涙、時には体液ー、そして殴りを受け入れる女の存在が男の心を満たしたのかもしれない。言語化できない黒い衝動ー不幸な過去、不安な未来、噛み合わない社会、安らげない現在、逃れられない孤独ーを満たそうとする欲望が渇望する
きびしく強い衝撃と刺激と純粋な痛み。真正面から怒りをぶつけ合う喧嘩に似た衝動は発散した後に虚無感を覚える。賢者タイムが訪れる。衝動に人格を支配された後に残るものは理性と
げんじつ。衝動に支配された自分が本物なのか支配されていない自分が本物なのか湧いてくる自問。常軌を逸しているのかといえばそうではない。にんげ
んはそもそも常軌を逸する事で既成概念を打ち破り進化してきたのだ。極めて人間らしい精神であり行動であるといえる。そして笑わない顔で娘を殴る母親がいた。血の絆がある子供への憎しみを持った"しつけ"として殴るのは残酷なことに楽しみは無い。しつけの背景には自身の価値観の肯定と維持そしてそれに抗う子供への支配
よくがある。
うんだ子供が自身の分身であることは同時に自身の一部でもある。自身の一部が思い通りに動かないのだ。驚き悲しみ怒りが沸くだろう。もともと子供は自分の臓器から成り立っているのだ。生殺与奪権は生みの親にあると考えてしまえば思い通りに育たない子供が失われてしまっても構わないと考えるだろう。自らが自らの炎症箇所を切り取るようなむしろ自身を正当化する手術のような価値観なのかもしれない。だがしかし、親も子もへその緒が切断された時点で他人なのだ。他人と他人が生きていくにはお互いに尊厳が最低限必要だ。
まともな道も価値観も存在するようで存在しない。あくまで過去を振り返って受け入れられるかい
なかでしかない。偏った執
ちゃく心から生まれる暴力に喜びはない。暴力を受ける側にも当然ながら無い。(リョナは別)生きる意味を見出せず、他人の欲望に身を投げることで曖昧に生きてきた女ですら愛を知り生への執着を持つほど変化することができたのだ。欠乏を感じ女を殴り喜びを得ていた男も生きている限りはやがてち
ゃんと変わるだろう。彼は幸せになれるのだろうか。そこは長くはない人生のひと時を共に過ごした彼の行く末を信じてあんし
んしていいと思う。
た概念の"普通"は良くも悪くも概念でしかなく、その定義は存在するようで存在しない。つまりは
ね、知ってる人も知らない人もみんなそれぞれ欲しいものを求めて生きる。死を選ぶことも含めて。そんな人たちが同じ空の下で同じ時空を過ごしているのだ。寂しいね。でも寂しさは平等なんだ。世の中に平等な事が在ると思うと嬉しいよね
。
お前の楽しんでる趣味の世界とやらには、そういうおチンポ脳の低俗な男しかいない
絶望した
命よりも尊厳の方が重いんだなって実感した
妻とうまくいってなかった
ひどいことを言われて、かなり前に処方されたリーゼ5mgを2シート食べた
そこから記憶があやふやで、コンビニで梱包用の紐を買って人気のないところを探して一駅分くらい歩いたらしい。ビデオ撮ってた。
首に巻いて柵に括り付けた。割と念入りに角度とか確認した。座った状態から降りたら吊れるようにしてた。
やっぱり怖くて、何度かためらった。
人気のないところだと思ってたけど、駅のホーム?喫煙所?から見えるところだったらしく助けてくれた人がいた。
次の記録は救急車でセルフィー撮ってた。隊員さんは優しかった。怒られなかった。
首すじに傷がついてた。
弟が泣いてた
母は冷静だったように思う。
助けてくれた人ありがとう。カッコいい。
でも俺にとってよかったのかはまだ分からない。
不思議と死の恐怖はない。尊厳が回復するまではまたやるかもしれない。命を守るのよりも尊厳を守る方が大切なんだぞ。
高2の時に保健でもっと生殖寄りの勉強させられたんだけど少子化対策だからって高校生にそういうの拒否権なしで勉強させるのってどうなの?
国は生徒を将来の労働力生産機だと思ってるの?女性の権利を尊重とかそういうこと言ってるけどそういう授業をさせているという時点で女のこと生殖器としか見てないの感じたし気分悪かった
産むのが前提で授業に組み込んでるのに吐き気したし周りの男は性的な目でしか自分を見てないのかって男性不信にもなった
筋肉もつかない、体力もない、月一に排卵する女ってほんとに生殖のためにしか生きてないのかな
身体がそういうための造りだもんね、生物学的に人間の尊厳をもって生きれるように作られてなかったなって思っても仕方ないよね
なによりもほかの女子が子供できるのが幸せとか子供ほしいとか言ってんのが気持ち悪いし、教師も子供作るのが当たり前みたいに「いつかみんなが子供持つときに~」とかいう話し方ばっかりだったのが最悪だった