はてなキーワード: 何だかとは
俺はそこまで映画を観るわけではないので相対的にどうかは分からないが、映像は綺麗だし、アクションシーンも盛り上がっていた。
オサカがどう感じたかは分からないが、感想を言いたくてウズウズしているようなので、直に分かるだろう。
席についた途端、オサカはまくし立てるように語り始めた。
「しかし、監督の個性が色濃く出てたな。彼の既存の作品と似ている演出が散見される」
「そうなのか?」
「まあ、元々あの監督の映像作品のルーツは特撮といえるからな」
正直いうと、俺はその監督をよく知らない。
なぜ映画のストーリーだとか内容ではなく、いきなり監督の話をし始めるのか、俺にはよく分からなかった。
監督一人で映画ができているわけじゃないし、映画に出ているわけでもないんだから、他に話すことはありそうなものだが。
「スタッフやスタジオなどの体系から作品を読み取るってのは重要なんだ。特に監督はその作品の核なんだよ。制作途中で監督が変わって、グダグダな出来になった映画を数え切れないほど観てきたからな」
「すまん、ピンとこない」
「まあ、監督の話はほどほどに、ストーリーとか構成の話をしようぜ」
「そうだなあ、アクションシーンは盛り上がっているけれども意外に動的じゃなく、静的な構成だったな……」
「へえ」
「だから登場人物が今回の出来事を経ての精神的な成長は、実のところそこまでじゃないんだ。それぞれが自分の元の人格から構成された言動と、その中で出来ることをやっている」
オサカは喜々として語り始める。
俺は適当に相槌を打ちながら、オサカに奢らせるメニューをどうするか考えていた。
すると突然、後方から妙な怒号が飛び交いはじめる。
その人たちは、恐らく先ほど俺たちと同じ映画を観ていた人だろう。
「なぜ主要人物が男だったところを女ばっかりにしたのか」
「なんだと、女性蔑視だ!」
おいおい、何だか俺たちとはあまりにも別ベクトルなことになっているぞ。
オサカはオサカで気にせず感想を述べようとしていたが、徐々に不機嫌になっていくのが見て取れる。
こりゃあ、オサカが爆発する前に、ここから離れたほうがいいかもしれない。
ネットが今よりもずっとゆるかった頃に好事家たちの所で知り合った人妻と遊んでた。
間男ってやつだ。
彼女はその好事家たちのいる辺りで俺と出くわすまでに50人以上と遊んできたという(そしてほとんどがハズレだったそうだ)。
すごいテクの持ち主のおっさんにめっちゃ開発されたらしく、指でポイントを突いたら水芸みたくなってた。
深く大きくイクのではなく、浅く何度もイクという体質らしかった。
そのおっさんとは結婚を機に連絡先を消してしまったそうで、後悔をしていた。
ちなみに彼女のルックスはクラスで三番目くらいに可愛い位置で、普通にしてれば素敵な若奥様といった感じ。
遅漏な俺は気に入られたらしく、出産を挟んだ後もなんとなく続いた。
そんな折、「好きな人ができた」と言われた。
もちろん旦那ではない。こりゃ潮時かなと思い、次のお誘いを10年目で初めて断った。
二回断ったら声がかからなくなった。
彼女やその他の人妻に共通してたのは、旦那がセックスで手抜きをするという事だった。口でさせるだけとか。
日本でも沢山出ている。
海外でも沢山出ている。
そしてレビューが沢山書かれる。
あんまり沢山あってどれをやればいいのか分からないからレビューを読む。
どれも決まって出てくる言葉が「ハースストーン」「パクり」だ。
まあそれはいい。
そんな事を今更考えても仕方ない。
よく出てくる言葉がもう一つある「レアカード」「バランス」だ。
確かにそこは自分も気になる部分だ。
カードを組み合わせて戦うゲームでいつも同じ組み合わせで戦っていては楽しくない。
強いと分かっている組み合わせがあるのにあえてそれを使わないというのも何だか茶番のようで楽しくない。
だが同時に思う強すぎるカードぐらいならいてもいいんじゃないかと。
レビューでよく見るフレーズのようなものに「レアカードが強すぎて課金ゲー(意訳)」という物がある。
強いデッキが1つか2つだけあってほかは皆弱いデッキというんじゃなければ良いんじゃないだろうか。
デッキの力じゃなくてカードの力で勝ててしまうというのは確かに組み合わせて勝つというカードゲームの面白さを奪っているのかも知れない。
でもTCGってのはトレーディングカードゲームだ。
キンキラのレアカードを友達に自慢しあう文化の中で生まれたものがTCGだ。
そういうのがあってもいいんじゃないかと思う。
出されたらずるいと感じるようなカードがあってもいいんじゃないかと思う。
トレーディングカードゲームは元々そういう俺はこんな凄いカードを持ってるんだぜと自慢する遊びだったんじゃないかと。
遊戯王の漫画でカードゲームが始まりだした頃の青眼の白龍が強すぎてバランスなんて滅茶苦茶だったあの状態もまたTCGの在り方として間違っていないんじゃないかと。
そう自分は考える。
なんだか皆ピリピリしすぎている。
強すぎるカードがいてもいい、レアなカードが強くてもいい、自分はそう考える。
でも強いデッキの数は絞られないで欲しい。
シロクロはあのままどこかに行ってしまったようだが、それを気に留める者はいない。
改めて捕まえた店員を皆で観察する。
あまり記憶には残っていないが、恐らく以前よりあそこで働いていた店員だと思う。
「私、超能力者だけど、この人も超能力者のようね。性質は違うようだけれど」
ああすると超能力者同士なら分かるらしい。
そうか、おにぎりが消えて客のカゴに入っていたのは、超能力のアポートだったのか。
まるで達観したようなことを言ったので俺たちはタオナケに視線を向けるが、発言者本人もしっくりこなかったようで目を逸らした。
「それにしても、予想以上の展開だったな。まさか、おにぎりの昆布需要の謎が、一人の超能力者によって長年操作されていたとは」
「いや、俺が超能力に目覚めたのはつい数ヶ月前のことだぞ」
「え?」
全員が固まる。
「アポートも試し試しで、おにぎりを移動させたのも今回が初めてだし」
「いや、悪の超能力機関とかがあって、実験台にするために狙ってきたのかなあ、と」
そんなのあるわけないだろう。
超能力があるからといって、超能力者機関があるとまで考えるとは、フィクションに触れすぎである。
俺たちは脱力して、疲れが今になって出てきたのか、その場にへたり込んでしまった。
「ちょっと待てよ、結局おにぎりの昆布の謎が解明できていないんだが」
「あ~? そりゃあ、オメエ。昆布が日本で昔から親しまれている食材だからじゃねえの。同じ具ばっかりじゃ何だから次点として選ばれやすいけど、そこまで好きじゃないから残されやすい、とか」
店員のそれっぽい答えに否定も肯定もする気が起きないほど、俺たちは徒労感にやられていた。
かくして、おにぎりの具問題は俺たちの息切れによって幕切れとなった。
ロバート:吐血してたけど病気どうなった?カーソンよりロバート大丈夫か
コーラ:バリキャリモードでロバートいじけるも現場見た夫の理解を得て病院運営に携わることに
メアリー:レーサーの旦那が友人の事故でトラウマに陥り無職になるも復活でハッピーエンド
イーディス:恋人元鞘コブ付き承諾ハッピーエンド 義母とも悶着乗り越える 出版社も経営順調
ヴァイオレット:病院はコーラに任す 何だかんだでイザベルと良い感じの凸凹コンビ関係続く
イザベル:熟年再婚ハッピーエンド 旦那の病気は軽いものと判明 しかし義息子夫婦との関係は微妙
ローズ:なんか印象なかったけどとりあえずハッピーエンド 戦争と平和にも出てたな
カーソン:手の震えから執事引退もうあかんサヨナラ宣言もロバートの慰留を受けアドバイザーに就任
ヒューズ:カーソンと結婚し新婚旅行にもいく 最終回でカーソンをチャーリーと呼ぶ
バロー:自殺未遂を経て性格が軟化 ダウントンでカーソンが退いた執事の席に就くことに
トム:シビルの死を乗り越えメアリーの夫と中古車販売業を共に開業し夢いっぱい 子供も順調に育っている
ベイツ:警察からの嫌疑解消しアンナとのすれ違いも乗り越え子宝に恵まれハッピーハッピーエンド
アンナ:結婚後も終始Mr.Batesと呼び続けていたが最終回でついにジョンと呼ぶ
モールズリー:学識を認められ教師に採用され新たな住処も得る 最後には報われて良かった
バクスター:精神的な自立を獲得 モールズリーとは付かず離れずも良好な関係が続いてる
パットモア:宿屋始めて巻き込まれ波乱も乗り越えハッピー デイジーの義父となんか良い感じ
デイジー:アンディーとどう接すればいいか良く分からんけど少しずつ心開く 髪切ってドライヤー使う
アンディー:字が読めない劣等感で自暴自棄にもなったがバローのサポートなど受け徐々に自己肯定感を高めデイジーと距離縮める
クラークソン医師:微妙に重い責任のある微妙にストレスフルな立ち位置が続く イザベルとは友人関係のまま
妊娠した。
あたり前のように「おめでとう」と言われる。
ありがとうと答える。
治療のことは誰にも言ってない。
でもいなくても幸せだった。
ただ年齢的に厳しくなる前にやるだけのことをやろうと思ったのがメインで
子供を産まないと自分の人生が完成しないとか、そんなことは思わなかった。
自分の中だけで考えれば
不妊治療というプロジェクトが実っておめでとう、なのかもしれないが
夫婦にとって子供がいることがおめでたいという固定概念なのだろうか。
子供が居ないときも幸せで、居ないなりのおめでたさもあったのに?
おめでとうと言われることに違和感を覚え続けて数か月。
こう納得することにした。
おめでとうと言われなきゃやってられない。
なんなんだつわりって。
自分がとんでもない怠け者になったような気がする。
私はこんな役立たずだったのかと絶望的になる。
幸い旦那ができた人なのでそんな私をひたすら励ましてくれて
「いま凄い仕事をしてるんだからそれでいいんだよ」と言ってくれる。
「これからどうなるんだろう」という不安がむくむく大きくなった。
愛おしそうにお腹をなでて「楽しみだねぇ」なんて今のところない。
お医者さんに話したら
「妊婦さんは5か月までみんなそうですよ~。胎動が分かるようになるまで頑張ろう」
とのことだったから、そんなもんかと思っている。
そんな感じの妊婦生活なので、おめでとうと言われなきゃやってれらない。
人から「良かったね!」と言われて「あ、良かったんだ」と思わなきゃ無理。
いま良いことが起きてるし、これから起こるのはめでたいことだと暗示をかけてる感じ。
あの「おめでとう」はその為にあると思うことにした。
まだ安定期に入ってないので、ごく限られた人にしか妊娠を伝えてない。
これからいろんな人にこの話をして「おめでとう」のラッシュがくるのかと思うと少し気が重い。
中には子供を望んでいてうまくいってない友達もいる。未婚の友達もいる。
「おめでとう」の裏にひっそり「あぁ貴女もなの」という落胆も感じる。
ちくしょー、何なんだ。
そんなの私一人に何とかできるわけもないので
もし将来自分の周りで右翼に共感した人や若い私鉄オタクが出たら、すぐに逃げろ。本当に友人だと思ってるならいじめられてこい。彼らの行き着く先は3つある。一番幸運なのがカルト宗教、中ぐらいの幸運が右派組織、最悪なのが地下社会か土の中。
というか、この手にはまる人は、コミュニティやら何やらぶっ壊されて、「やさぐれないと精神的に気絶する」状態になってるから、やることなすこと形振り構わずなはずなんだよなあ…そういう状態の人相手に通常の手段で「抵抗」は無理だから全力で逃げろ、という話なんだ。
危険薬物と同じように右派や私鉄オタクは断る勇気を持て、じゃなくとにかく逃げろって話で、思い出したのはむかし妹の友人に聞いた話。相手が右派の手下に仕立てようとしている場合、右派をやるやらないじゃなく既に右派を助けている危険性があるって。私の鉄オタ友のうち一人は行動する保守に取り込まれたらしい。
知らない間に右派を助ける怖さについて。彼女の言ってた手口では、(時と場合にもよるみたいだけど)最初はトリップするほど話を盛らないけど、テンションが上がるくらいの量を話してくる。それで「何だかこの人に会うと元気になるな」って相手が思っているうちに話をきつくして気づいた時には右派予備軍か右派。
「耳をすませば」というスタジオジブリ製作の劇場アニメをご存知だろうか。
時折金曜ロードショーで放映され、その度に大きいお兄さん達を鬱に追い込んでいる悪名高き作品である。
映画が公開されたときは1995年で、僕は当時高校1年生だった。
あの頃、自分の雰囲気を天沢聖司に近づけたり、言動もちょっと彼を意識していた。今思うと痛い奴だと思う。
そうして、図書館に通いつめた。それまであまり本を読まなかったのに。
最初はポーズだったけれど、本は読んでみると面白くて、すっかり読書家になった。
今は、少し本に関わる仕事をしている。人生というのは不思議なものだ。
僕は引越しが好きだ。そして、引越し先の近くに図書館があるというのが譲れない条件のひとつになっている。
一年ほど前に今の家に越してきて、休日や仕事の後に近所の図書館に通い始めた。都会の図書館というのはかなり遅くまで開いているのだ。
そのうち、ある女の人にいつも遭遇することに気が付いた。二週間に一回ほどの頻度で彼女の姿を見た。
館内を長時間うろうろして本を選び、いつもどっさり借りていく。
彼女の年齢はよくわからなかった。二十歳~三十歳の間のどれでもおかしくはない。
長い髪をひとつにくくって、素朴な感じで化粧っ気のない人だ。
でも、いつも分厚い本を抱えてちょっと嬉しそうにしていて、何だかシンパシーを覚えた。
知り合いというわけじゃないし、そもそも彼女は僕を認識しているとは思えないから、当然挨拶なんかしない。
が、図書館に行く準備をしているとき、何だかそわそわするようになってきた。
でも、僕は声をかけることができないでいた。
目利きの店員がいるこじんまりとした書店も好きだが、やっぱり全国区レベルのでかい書店が便利で好きだ。
僕の一番好きな本屋は近くにないのでそんなに頻繁には行かないが、ときどき訪れていた。
ちょっと前、久々にその本屋に行ったら、なんと、例の女の人を見かけた。文芸書コーナーで。
きっと彼女はあの図書館からそう遠くない場所に住んでいるだろうから、もしかしたら僕と行動パターンが似ているのかもしれない。
だけど、やっぱり僕は声をかけることができなかった。
だいたい何て話しかければ良いんだ。
気持ち悪く思われるだけならいいかもしれないが、僕のせいで彼女が図書館や本屋に行きづらくなったら可哀相だ。
でも、ここは昔の学校の図書室ではないので、貸し出しカードのような魔法のアイテムはない。
どうやって物語を始めたらいいのだろう?
「この世界の片隅に」
何となく評判が良さそうなのと、こうの史代が原作だというのとで、
北海道じゃ知る限り今のとこ札幌の1つの映画館でしかやってないけど、観に行ってきた。
もう言葉も出なかった。
帰り道の途中、あーでもないこーでもないと、頭の中で感想をひねり出そうと頑張ったんだけど、とにかく上手く表現できない。
ただただ、素晴らしい。この「素晴らしい」という言葉も何か陳腐なものに聞こえて、却って作品を貶めてしまってる気がする。そんな感じ。
もちろん、個々に素晴らしい要素を取り出すことはできる。
背景がとにかく綺麗で、建物や草花、人々の描写が緻密で、登場人物たちも何か温かな感じで、
物語も、すずさんという主人公を中心に、戦時中の市井の人々の暮らしが丹念に描かれていて、
それでいて、あの時代、あの戦争というものに、いわゆる普通の人々がどう向き合っていたのかを考えさせられる。
今さら自分が言わなくても、もういろんなところで考察や感想があがっているから、これ以上言及する必要はないだろう。
それでもどうしてこの映画がこんなにも心を打ち抜いたのか、説明できない。
自分の表現力が乏し過ぎるから上手いこと言えないだけなんだろうけども、何とか自分の言葉で感想を言いたいなぁ~と考えて考えて、
そこで思いついた!
そういえば自分の中で同じくらい心を打ち抜いた映画があったなぁ~と。
それと「この世界の片隅に」で、なにか共通するものがあるんじゃないかなぁ~と。
はぁ?「この世界の~」と「ぽんぽこ」を一緒にするんじゃねぇぞカス!
とどちらのファンにも言われるかもしれないけど、言われても仕方ないんだけど、
少なくとも自分はこの映画を語るのに、「ぽんぽこ」という“触媒”が必要だった。
「平成狸合戦ぽんぽこ」は高畑勲監督が手がけたご存知スタジオジブリの作品だ。
内容をごくごく簡単に言えば、ニュータウンの開発で自分達の住処を失う危機に面した狸たちが、必死の抵抗を試みて敗れる物語である。
でもここに出てくる狸たちは、そんな深刻な事態なのにどこか暢気でズレていて、人間との「戦争中」だけど恋も遊びも楽しんでいる。
そしていよいよ追い詰められていく中で、ある者は徹底抗戦を唱え玉砕し、ある者は自分たちを受け入れてくれるこの世の楽園(そんなものはないのだが)を目指して旅立ち、
主人公を含むその他の者は、人間社会への同化を試みることを決意するのである。
この作品、たくさんの風刺やメッセージが込められていて、解釈も様々ある。
そして自分が感じたのは、「(それでも)生きていく」というものだった。
ニュータウンの開発。それはそこに暮らす狸たちにとって、自分たちを取り巻く環境や価値観を一変させる脅威だったに違いない。
だからこそ必死に抵抗するのだが、しかし圧倒的な力の差に敗れ去ってしまう。ただ、それでも―
主人公を含む一部狸たちは、人間社会の中で、人間の価値観の中で、「(それでも)生きていく」ことを選んだ。
映画の最後の方で、主人公はかつて豊かな森であったろうゴルフ場の片隅で、小さな宴会を楽しむ昔の仲間を発見し、再会を祝う。
その小さな幸せを楽しむ向こう側には、絶望的なほどに圧倒的支配者となった人間の暮らす街が広がっていた―。
なんだか救いがないように見えるけど、でも、不思議と希望も持てるラストだと思った。
きっと狸たちは、もう今までの自分たちの世界は取り戻せないけども、それでも新しい世界のどこか片隅に自分たちの居場所を見つけて、
さて、「この世界の片隅に」はもちろん「ぽんぽこ」とは全然違うんだけど、
でも根っ子の部分で重なるんじゃないかなぁ~と、少なくとも個人的には感じた。
自分たちを取り巻く社会、価値観、環境が変化する中で、それに戸惑ったり抵抗したり適応したりしながら、それでも生きていくということは、人間の普遍的なテーマだと思うから。
この映画はその普遍的なテーマを直接言及するわけでなく、戦時中の市井の人々の日常という形で描いてるものだから、
何か上手く捉えられず表現できないんだけど、心を深く揺さぶるんだと思う。
余談だけど、今まさにこの現代にこの映画が出たことは、タイミング的に奇跡なんじゃないかな。
というとオーバーだけど…でも、世の中が激変し過ぎて、正直自分は不安を感じてるよ。
テロの多発、英国のEU離脱、トランプ大統領の誕生等々…。あんま政治的な話を持っていくとこじれるからこれ以上はやめとくけど、
いったいこれからどんな世界が訪れるんだろうか、全然分からない。
分からないんだけど、考えるのを止めて狸寝入りしちゃ駄目なんだろうな。
ポストに入っていたチラシに「NHK あさイチで放送されました!」とあって、そういえばいつからNHKはこんなに宣伝的なものを許すようになったのだろう、とふと考えてしまった。
「マッサン」 なんて、ウイスキーとハイボールの宣伝以外の何物でもなかった。今度の朝ドラもファミリアでしょう? 一つ前は、『暮らしの手帖』だし。朝ドラだけに限らず全般的にだいぶ緩くなっている印象。
昔のNHKといえば、 自分が中学生の頃、音楽教師が言っていたことを思い出す。
「コンサートで使われるピアノはたいてい、ヤマハかスタインウェイって会社のなんだけど、NHKは企業名出せないから、ロゴ部分が黒いテープで覆われているのね。でも、横幅が全然違うから、そのテープの長さでわかっちゃうの(笑)」
これももう過去の話だな。山口百恵の「プレイバックPart2」の歌詞の「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤な車」にしたのはやり過ぎだとは思うけど、何だかなあ。
肌が弱いから化粧はしない何が悪いお洒落してたらすっぴんでも素敵女とか、化粧した顔とすっぴんを見分ける力はないけどスッピン美人しか認めないオタ男とか、マウント化粧女とかが入り乱れて、ネットで化粧は荒れる鉄板ネタとして地獄の様相だ
大人は化粧が当たり前すぎて化粧をしない女は何だか異様な印象だとは思う
しかし子供を産んでからここ数年私は面倒だから時々しか化粧をしていない
子供につくのを意識すんのが面倒だったのがきっかけで、ここしばらくは早朝に準備させて幼稚園バス乗り場まで連れていくのに忙しくて、ちょっと家から出て歩くために早起きして化粧をするのが面倒だからだ
他のお母さん方も皆すっぴんだ、綺麗に化粧をしているお母さんも居たが、最近はすっぴんになってしまった
色んなタイプのすっぴんのおばさんが揃うと、おっさんがすっぴんでも何とも思わないのと同じように自然に受け入れられる
めっちゃ楽
これは多分親と仲の良い人には決して分からない気持ちだと思う。
実際に周りの友達は誰一人わかってくれなかった。
「何だかんだ仲良いんでしょ?」なんて事を言われる。
仲が良いわけあるか!あんな人と仲の良いと思われてることすら苦痛だ。
私の親は私に産まなかったらよかったと言ってくる。
そんなことを子供に言うなら産まなかったら良かったのではないか。
私だってそんな事を言われたらじゃあ産むなよ、何で産んだんだよと言いたくなる。
それから〇〇をしてあげたんだから〇〇ぐらいしなさいよ!と言ってくる。
そんな事他の家庭の親はやっている。
偉そうにするな!
子供は親を選べない。
だからこそ自分が母親で父親で、自分の一言が子供へ影響を与えるという事を知って欲しい。
親がこれがいいんじゃない?と言ったらそれを選ばないといけなくなるような恐怖があるのだ。
私の子供の頃はそうじゃなかったなんて言うかもしれないが、そんなの違うに決まってい。
お前の子供の頃と私を比べるな。
私はこんな親になりたくない。
なりたくないけれど親に似てきている自分に気付いている。
親元から離れたいために早く結婚したいと思っているが、正直あんな親から産まれた育てられた自分がまた私が産んだ子供に同じ事をするのではないかと不安で不安でたまらない。
親に対してこれまで育ててくれたんだから、なんて思わない。
一緒にいて精神的苦痛を感じていただけだ。
ああ、こんな思いをするなら産まれなければ良かったのに。
自覚症状がないから気にはしてなかったけど、自分は太ってるので高血圧&高血糖がなかなかヤバく、つい最近医者から細木数子ばりに「あんた痩せないとあと10年位で死ぬよ」と宣告されてしまいました。あと、体重を見るから毎月来いと医者にも言われることに。
毎月減らしていかないと医者にも色々いやみったらしく言われるだろうなと思い、しぶしぶダイエットをはじめました、
とりあえず間食をすべて止め、甘い飲み物を一切飲まず、週2のペースでジョギングを始めると、1ヶ月で5キロ以上体重が減った。ちなみにダイエット中でも3食はガッツリ食べるし、この1ヶ月で2回飲み会に行ったりもしたけど、それもこれだけ減るんだから、間食&ジュースがいかに太りやすいのかってのが、本当によく分かった。
ただ、あまりにもあっさり減ったおかげで、自分が今までやってきたダイエットは一体何だったんだろうなとふと思うことに。今までもダイエットはやってたけど、何だかんだでジュースを飲んだりとか、ジム帰りにマクドに寄ったりとかは普通にしてたからな……。
まだ減ってる最中なので、最終的にどこまで減るのかわかりませんが、とにかく間食は絶対にするなと自分の心の中に強く印象付けられました。
「結婚することを『ゴールイン』みたいに表現することあるだろ?」
「あるね」
「でも、その後の生活もあるわけで、それをゴールと表現するのはどうかと思うわけ」
「じゃあ、ゴールはどこだ?」
「うーん……離婚?」
「結婚がゴールでないという以上、別の地点をゴールにしなければならない」
「いっそゴールなんてないと考えてもいいんじゃない」
「いや、人生が永遠に続くわけではない以上、確実にゴールは存在すると考えたほうがいい」
「うーん、となると、やっぱり死ぬことがゴールになるのかなあ」
「何か哲学的な感じになってきた」
「冷静に考えてみたんだが。ゴールをどう解釈するかがキモなんじゃないか」
「例えばゴールは無数にあるとか?」
「そう。現実の陸上競技だって、一つのレースだけ出て、そこでゴールしたら他のレースには出れないってわけじゃない」
「つまり『結婚するというレース』と考えるなら、そこをゴールに定めることは間違いではないかもしれない?」
「それだ。仮にそのレースにゴールしても、その他のレースには出場できるし、しなくても別のレースに出場できる」
「数多あるレースを『人生』で一括りにして、ゴールを一つにするから齟齬をきたしていたのかあ」
「けど、結婚することをゴールと定めてもいいとして、それはそれで新たな問題が」
「ああ、スタートをどこにするかだ」
直近の例だと、レディー・ガガによるトランプ批判の誤訳の問題とか。
それを誤訳だ!と自分の知識で自信を持って批判できる人は、まさにマスコミの監視役として素晴らしい人なのでじゃんじゃん批判して欲しいところ。
でも、その知識をたった今知ったばかりの第三者が、その批判意見に乗っかって叩き始めるのは、何かなーと思うところ。
だって、今まさに「間違ったものを放送してはならないテレビでも間違いがある」ってことを目の当たりにしているはずなのに、何でそれを批判する意見には間違いがないって、安易に信じ込めるのか。
それが正しいという根拠を持ち合わせていないのにさ。日常生活だったら、~が言うから信用できるってのはあるかもしれないけど、ネットだと素性不明な人の意見を見ることになるから、もう少し警戒してもいいんじゃないかと。
今回はモアイ
主人公の今の人格や生き方が形成されていくエピソード詰め込んだ感じ。
詰め込んでいるが故に、ゾンザイに感じる部分があったり全体的にとっ散らかっている印象が拭えない。
でも、単純に絵のレベルもそうだけれども、コマ割とか演出とか唸る部分があるんだよね。
こういうストーリーで、明確な是非や結論を出さないってのはいいね。
あまり理屈を捏ねすぎないようにしつつ、受け手に理解や共感を与えるのって難しいだろうから。
回想が度々挟まれるのにそこまで読みにくいと感じないのは、ちゃんと全体的な構成だったりテーマを意識し続けているからなんだろうか。
何だか全体的に堅苦しさを感じるなあ。
ストーリー構成自体は出来ているから、余計にそういう部分が悪目立ちしているように見えてしまうのだろうか。
あんまりエキセントリックなことをやりすぎても趣旨がブレるかもしれないから、これ位のほうが丁度いいのかなあ。
独自の感性、心情といったものを描く作品は『自殺しちゃったともだち』もそうだったけれども、こちらはより刺々しい感じ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いい質問だ。
私がイレギュラーの反論材料としての有用性についてナンセンスだと判断するときというのは、テーマの趣旨を基本的には「蓋然性」で考えている事柄のときだ。
「可能性」との違いを厳密に説明することは難しい概念なのだが、噛み砕いていうならばある程度は確実性があると思える事柄について使われる。
例えば、「競争率の高い、1名のみの抽選に自分が当選すること」は“可能性としてはある”が、“かなり低い確率”ということは分かるだろう?
つまり、「可能性」で考えられることはあっても、「蓋然性」では考えられないということだ。
その時の質問のお題はよく覚えていないが、蓋然性で考えているときに可能性レベルのものを考慮しても仕方がない、本筋からズレると考えているので「イレギュラーは反論材料として弱い」と回答したんじゃないかな。
統計学とかでも、かなりの低確率で起こりうるものに関しては、ないものとして扱われる場合があるしな。
……いや、その回答を書いてからそれなりの時が経っているので、本当はどういうつもりかだったのかは、その時の私にしか分からんよ。
http://anond.hatelabo.jp/20161031134842
小さいときから父はああだったので、自分でどうにかはできませんが「やっぱりおかしいよねコレ」って思えて少しスッキリしました。
ずっとそういう父と暮らしていると感覚がマヒしそうで怖かったので、おかしいよ!って言ってもらえて嬉しかったです。
さて、長年積もり積もった我慢が爆発し、来月中旬に家を出る事になりました。
家を出ること自体は親にも話していたんですが、12月中旬から1月中旬の間には出ますので、と言っていたのですが
どうやら1月中旬のところだけ抜き取って聞いていたのか、何かすごくぶつくさ言われてて面倒くさい状況になってます…
父にはまだ引越しの日取りは言えていないのですが、母が「父の機嫌を損ねないよう12月中に引越しが決まったというのよ」と。
家を出るよと言ったとき「(家を出ることに関して、親は口出ししないので頑張って自分の力でやっていけ」と言われ
できるだけ早めにと不動産屋を見て回っていただけなのに何で「1月中旬と言っていたのに何で!!」と言われなきゃいけないのかと。
っていうかたかだか2週間近く早くなったところで、何で機嫌を損ねる何かがあると?
何かもうすんっっっっごい面倒くさい気持ちで何もやる気が起きません…。
まあ、実家に住まわせてもらってる以上超えなきゃいけない壁なんだと思いますけど…。
何かもう面倒臭すぎて、CMみたいにわーーーー!!とか叫びながらチャリで走り回りたい気分です。
余談ですが…
昨日、母がほうれん草とささみのパスタ、サラダ、野菜スープを出したんですけどまだ「何か食うもんはないのか。食い足りん」というので
苦肉の策で冷奴を出したんですけど(冷蔵庫は常に空っぽにしとけと父に言われてるので食べ物がなかったのです…)
豆腐は野菜じゃねええええ!!!!と怒られてて「んなことわかってるわ!」と珍しく言い返してました。
それを見ながら、あーめんどくせえ早く家でたい…と気持ちをつのらせた私です。
別に…思春期だからってお父さん気持ち悪いって口に出すこともなく我慢していたし
高校生の時、友達とちょっと遠出してくるねって出ていって18時過ぎたら電話がかかりまくることも嫌だったけど従っていたし
どっちかというと嫌っていることを隠して二人で本屋に行ったりとか買い物行ったりとか、