はてなキーワード: なんぼのもんじゃいとは
二次創作小説をたしなむ皆様、特に書き手の皆様は、周囲の作品を読んでいてこんな風に思ったことはないだろうか。
明らかに文章が厚くて、読みやすくて、最高な作品が他にあるというのに、そちらよりもそのぱっとしねぇ小説の方が伸びている……そんな場面に立ち会ったことはないだろうか?
恥も外面もなく言うが、私はその『ぱっとしねぇ文章を書く字書き』である。
この『ぱっとしねぇ』の部分には、物議があるだろう。面白いの尺度は、人それぞれだ。ただ、ここで言う『ぱっとしねぇ』というのは、主に次の要素が含まれる。
・全部ではないが、やや文章に読みづらさを覚えることがある。
・誤字や脱字が地味に多い。
・表記ゆれを気にしていない。
・伏線の張り方が甘い。
“やや”とか“地味に”とか曖昧な表現だ。ただ、そこがミソである。『ぱっとしねぇ字書き』(長いので以後『パ字書き』)は、完全に面白くない文章を書くわけではない。ある程度は面白い文章を書く。ただし、圧倒的に“こだわり”に欠ける。
昨年2020年、Twitter上でオタク女たちの感情について描き、人々の心を動かした作品があったが、あそこには“神字書き”という存在が登場する。その神字書きとパ字書きの間にどのような差があるかと言われたら、この“こだわり”であろうと感じる。
神字書きの文章というのは、作品全体からその人の色とこだわりを感じるのだ。読むと「あっ、〇〇さんの文章だ」と感じることが出来るし、表記にも推敲の跡が見られる。読みやすさが意識されており、文章の端々からこだわりを感じる。
「この人は本物だ。こんなものがタダで読めていいのか……?!」
そう感じることだろう。私は感じる。さてはあなた方はそれで飯を食おうとしたことがあるな?
しかしながら、パ字書きこと私の文章からはそれが感じられないのである。自己評価が低いのではない。私は私の文章が大好きである。何度も読み返しては「オホ、なんか知らんがおもろいなこれ」とニヤニヤする。しかしながら、同時に表記ゆれや誤字脱字は多いし、そこかしこの伏線は甘いし、急展開だし、作品ごとに文体やら調子がバラバラで自分の“カラー”などあったもんじゃない。
身バレをしない程度に、どのくらいで数字を稼ぐ、と言っているのか述べるならば、現行ジャンル(所謂社会現象アニメではないにしろ、アニメやグッズ展開が活発に行われているジャンル)の二番目くらいに支部投稿数の多いCPで、常に100~1000程度のブックマーク稼ぐくらいである。投稿作品は10本。
ほほーんすごいじゃねぇか、と思ってもらえるだろうか。だがこの数字、もう少し続きがある。
当推しCP小説の投稿数は4000程度、このうちブックマーク100以上の作品数は2000程度(特定されないようにある程度数字は変えてあるが、だいたいこんなもんだ)。つまるところ、おおよそ50%はブクマ100以上なのである。投稿された小説の半分以上はブクマ数100以上。意外に感じた人もいるのでないだろうか。こうしてみると、ブクマ100以上とは、あまりすごくはない。2分の1に滑り込むだけだ。まぐれ当たりもあり得る。
しかし、私がそこそこの数字を稼いでいると自負する点は、10本連続、という点だ。10回連続で2分の1に滑り込んでいる。単純に考えるなら、2分の1の10乗なので、1024分の1。これならば偶然ではない数値だ。
そんなこんなで、そこそこの数字を稼いでいると思っている。
さて、ここまでは長い前置きである。『パ字書き』こと私が、どういう存在であるかをざっくり知ってもらうための、長ったらしい説明であった。
ここからが本題で、パ字書きがどうして数字を稼いでいるか、という自分なりの考えと、パ字書きなりの苦悩についてお話したいのだ。
先程ざっくり神字書きとパ字書きの違いをお話したが、もう一つ気になるのは、神字書きとの違いではなく『パ字書き』と『そうでない字書き』の違いだろう。
『そうでない字書き』という新しい概念が出てきた。これは『パ字書きと同じくらいの文章を書いている筈なのに数字はいまいちで思い悩んでいる字書き』のことだ。長いので『ソ字書き』と言う。ネーミングセンスについては言及しないでいただきたい。
ソ字書きは思うことだろう。
「神字書きの文章がハネるのはわかる。あれは素晴らしい。でも自分とパ字書きの文章にそんなに差があるだろうか? なのに何故パ字書きの文章はハネて、自分のはハネない?」
ごもっともだ。それは悩むだろう。だって、ソ字書きの文章も、パ字書き程度には面白いのだ。そうでない場合もあるが、ここで言うソ字書きは、パ字書きと同等くらいの文章を書く人々のことだ。
統計をとったわけでもなし、根拠はないが、このソ字書き、結構多いのではないかと思う。そして思い悩むことだろう。ここで悩まない人間はそれでいい。その人たちはソ字書きではない。
そんな『パ字書き』と『ソ字書き』の差だが、ここにあるのは単純明快『自己プロデュース力』だ。
ここで一つ、これを読んでいる人(二次創作作品を投稿している人)にたずねたいのだが、皆々様は、支部やらTwitterやらへの投稿を何を楽しみに行っているのだろうか?
『純粋に二次創作が好きだから、その投稿先を求めて』これはあるだろう。みんなそこから入っている人が多いだろうと思う。
『せっかく書いたから、自分が書いた作品を多くの人に読んで欲しくて』これもあると思う。
『同じ趣味の人と交流したくて』なんと社交的なことだろう。素晴らしいと思う。
私とて同じだ。だけど、私にはもう一つ大きな動機がある。
そして、これが、おそらく私をパ字書きたらしめているのだと思う。
『自己プロデュース』が楽しい、とはどういうことかと言うと、私は商売が好きなのだ。
世間のニーズを調査して、そのニーズを満たす商品を仕入れ又は開発し、プロモーションを計画して、結果を出す。次の商品展開につなげる。ブランドイメージを築く。
こういう流れが大大大好物なのだ。大好きなのはヒマワリの種。へけけ。
正直、私が重きをおいて楽しんでいるのは『二次創作』ではなくこの『商売』だ。
小説の面白さは同じくらい。だけど、その小説、商品をどのように売り出すかによって数字は変わる。このことが、最高に私を興奮させるのだ。
支部に関して簡単な例をあげるとするならば、それは“サムネ”だ。
絵描きの皆様の方が、サムネに対する意識は高いのかもしれないが、字書きとてこのサムネは軽視できない要素だ。
支部には、絵を描けなくても利用できるテンプレの表紙というのが存在する。しかも最近はおしゃれな新しいテンプレが出てきて、それを利用している人も多いのではないだろうか。
使う人が多いということは、それだけ“埋もれる”ということだ。
自ジャンルでは、そこそこの頻度で小説が投稿される。社会現象ジャンル程ではないが、平均したら1日に2作くらいだろうか。特に週末は投稿が集中する。その全てを見る人というのは、そんなに多くない。みんな、興味を引くもの、面白そうなものを選んで読む。
ここで、表紙を差別化して目を引く、というのは大切な要素である。
さらに、統一感があればなおいい。一作目がハネた場合二作目も似た表紙であるならば「あっ前面白いの書いてた人の作品だ」と言う形で、そちらも読んでもらえる確立が上がる。
それからもう一つ。支部で言うなら、字数も大切な要素だと感じる。
これは、ある程度ジャンルにもよると思うし、自身の体感の話だが、支部で読む際に丁度いい字数と言うは『7000~15000字』くらいだと感じる。
短すぎると物足りなくて、長すぎると敬遠する。特に『ぱっとしない文章』を書く人間には、この字数がよい。私は、文章力のない人間に困難なことは二つだと思っている。『短い文章で上手くまとめること』と『長い文章を飽きさせずに読ませること』だ。それが出来るのは、神字書きの領域だ。それができる貴方ならば、私は貴方を神字書きと呼ぼう。
キャプションも大切だ。なるべく、話を端的に表現すべきだ。何せ、そんなにくどくど長い文章を並べ立てたら、それだけで飽きる。一文でそれがどういう話かアピールするべきだ。かつ、面白そうと思ってもらえる一文。その引きが重要だ。例えば『イエス・キリストと仏陀が、地上の安いアパートで二人暮らしをする話』。ほら、すごく面白そう。
最近フリートとかいうインスタ気取りの機能を搭載し、オタクのおもちゃにされがちなTwitterだ。
ここに広告を打つ。
しかし、このTwitterというコンテンツ、どちらかと言えば相性がいいのは絵描きだ。どんぶらこっこどんぶらこっこと次々ツイートが流れゆくTL。断然目を引くのは絵である。パ字書きがフォロワーを稼ぐのは結構難しい。『字書きは基本支部でのフォローで十分。Twitterはフォローしない』そういう人、多いだろう。正直、私のフォロワーも、支部の方が多い。最近ようやくTwitterのフォロワー数が追いついてきた。
ではどうしたらいいか。ここで味方につけるべきは、そう。絵描きの皆様方である。
やめてください。引かないで。別にそういう打算的な目で見てるわけではないんですって。ただ事実を語ってるのよ。
というより、ちょっとしたお願いに近い。思い悩むソ字書きがいて、貴方が絵描きで、その人の文章を面白いと思ったならば、そのソ字書きを救うのは紛れもなく、貴方である。貴方が広告塔だ。
Twitterにおいて絵描きの拡散力というのは、程度は違えど絶大である。絵描きはまた絵描きとつながっており、そこからまた拡散が生じる。私はこれを『絵師ブースト』と呼んでいる。字書きにはありがたいものだ。
また、これは今まで私がいたジャンル特有のものかもしれないが、絵描きは絵を摂取しRTするより、小説を摂取しRTする方が抵抗が少ないらしい。これも統計に基づくデータではない。周辺の絵描きへの聴き取り調査によるものだ。ある一人の絵描きの発言を借りるのならば『オタクというのは、戦闘民族なので、同類絵描きは友でありながら同じリングに上がる宿敵である』という事らしい。オタクは戦う。その点、字書きはリングが違う。だから絵描きも応援しやすい。そういう事らしい。
Twitterでそういう絵師の目に留まって、広告塔になってもらえれば数字は伸びやすくなる。あわよくばつながっていければベターだ。そんなに難しいことではない。一点、性癖を刺激する部分を意識しながら、小説を書き続ければいい。
例えば、『小×大(通称ショウダイ)』というCPの「はす向かいのトロロ」と言うタイトルの小説を書いて、支部にあげ、そのリンクをTwitterに貼るとする。ただし、ここでタイトルが「はす向かいのトロロ」だけでは、『ショウダイ』で検索したときに引っかからない。これでは、貴方をフォローしている人間の目にしか留まらず、新規の獲得は難しい。なのでタイトルに【ショウダイ】とでも入れておくか、ツイートに自然な流れでショウダイというワードを入れ、ショウダイで検索する興味のあるユーザーの目に留まる確率を増やすことも必要だ。やっている人、多いだろう。
こういうことを考えるのが、私は好きなのである。
そして、こうすることで目に見えて成果が出るのが楽しい。R-18と全年齢のブクマ数の違いを分析したり、ジャンルで人気のある文体を調べてみたり、フォロワーの多い人のツイートに刺激を受けたり。そうやって、実際にフォロワーやブクマ数の変動を見ているのが楽しいのである。
勿論上手くいかない時もある。全てを自分がコントロールできるわけではない。自身の投稿が、神字書きの投稿に被さって、完全にそっちに持っていかれたり、公式から重大発表があってツイートが爆速で流されていくこともある。
それでもそういう時は、続編を書いて前のいまいちハネなかった小説のリンクを乗せたり、後からRTしてみたり(自RTはリスクも多いので極力控えるが)、後からフォローを行って、何とか一つ自身のボーダーとしているブクマ100を達成させる。
こうして、自分のアカウントをプロデュースして運用していくのがとても楽しい。
おそらく、パ字書きとソ字書きの差は、ここにあるのだろう。
たまに「こういう事じゃなくて、純粋に文章力を磨くべき」とか「SNSのこういうところに疲れる」という声を聞く。
それも一つ、正しいと思う。そういう人は、パ字書きではなく、まっすぐ神字書きを目指す方針を取ればよい。これも数字を取る方略としてアリだ。むしろ王道だろう。パ字書きはやや邪道だ。私は蛇の道から、神字書きを目指す貴方を応援している。
だけど、皆様、アイドルプロデュース系のゲーム、お好きではないか?
相手の好きなものを分析して、攻略していく系のゲーム、お好きではないか?
それと同じ感覚だ。それと同じで『二次創作アカウントプロデュースゲーム』も楽しい。なんらおかしくはないのではないか。自分のマネージャーになって1000ブクマ目指そう!目指せ最大手!……悪くないキャッチコピーだ。
Twitterは後者の攻略ゲームに近い。周囲の絵描きや字書きの好みを分析しながら、そこに程よく合致する作品を書く。露骨に書きすぎないのがコツだ。ちょっとした“萌え”を刺激する。『ナースのイメプレ読みたいな……』と言っている人がいたら、他のイメプレにするか、ナースの方を拾って看病ものにしてみるのもいいかもしれない。そうしてターゲットを絞って狙っていく。引かないでください。別そういう打算的なことだk……何はともあれ、作戦が上手くいくとそこにはえもしれぬ達成感がある。成果もついてくる。二次創作者攻略ゲーム。楽しい。
それにそうやってパ字書きやっているうちに、作品数を重ねて神字書きになる道もあるだろう。神字書きになっても、自己プロデュースは無駄にならない。
神字書きになる前のちょっとした段階として、パ字書きを経由するのも良いのではないか? そういうススメだ。
ただし、ここでパ字書きの闇にも触れておきたい。
ここまでパ字書き悪くないぞ、という話をしてきたが、問題は、神字書きにはだいたいバレる、ということだ。
バレるというか、ちょっと面白くないように思われているのを肌で感じる時がある。
これは、神字書きにも思われることだ。
たまにまかり間違って、神字書きと投稿時期が被った時、自分の方が数字が大きいとやや気まずい。実際あったが、これは本当に気まずかった。明らか、神字書きの方が文章が上手い。しかもテーマも似通っていて、字数も同じくらい。言わば、神字書きの文章がイタリアンシェフの高級パスタだったのに対し、私のはめちゃくちゃ即物的なカップ焼きそばだった。だけど、その時、ジャンルでウケたのはカップ焼きそばだった。そういう時もある。たぶん、みんな疲れていて、そんなにゆっくり味わう時間がなかった。
その直後、私はその神字書きにリムられてしまった。やられた。せっかく攻略したのに。
上記のことだけじゃなく何か他にも性癖なりなんなり理由があったのかもしれないが、カップ焼きそばを動線の一番いいところに大量陳列して売上を稼いでいることがバレてしまったからだろうと思う。『こいつそれなりの振りしてるが、実のところ文章ぱっとしねぇな』と、気づかれてしまったらしい。パ字書きバレしてしまった。不覚。
こればかりは、自分でも自覚があるからどうしようもない。自分の文章は神字書きと比べてぱっとしない。の割に数字を稼ぐ。これは、本当に文章力がある人からしたら、非常に滑稽だろうし、面白くないだろう。私が神字書きだったら面白くない。
自己プロデュースを楽しんでいる私だが、それと同時に二次創作が好きだし、文章も好きなので、やはり「上手く書きたい」と感じる時もある。オタクは戦闘民族だ。圧倒的火力で殴りたい。こういう時、パ字書きはどうしても『自分は本物ではない』という葛藤に苛まれることがある。足りない文章力を、自己プロデュースでかさまししていることを、自分が一番よく知っているからだ。
その葛藤から逃れるためには、結局のところ、文章力を磨くしかない。それは変わりない。
しかし、数字はモチベーションになる。読者が多いことは励みになる。パ字書きであることは、私の筆の進みをサポートしてくれる。
圧倒的火力を手に入れるその日まで、私は頭を使ってリングに上がる。
こういう楽しみ方や、オタクもアリだろうと、そう思ってくれる人がいるならば、嬉しく思う。
あと、この文章を読んで、周りにパ字書きがいても嫌いにならないでね。結構、面白い文章書いてるはずだから。単純に頭使って頑張ってるだけの奴らだから。
以上、パ字書きのススメでした!
経歴や現状で言ったら弱者男性よ、毒親細実家糞田舎育ち非モテよ。賃金は平均程度だけど、奨学金返しながらでも一人で生きるには十分。そりゃしょうがない、社会に参画する気が大してないし、自分のことしか考えてないんだもの。この土日なんてずっとYouTubeかアマプラ映画見てたよ。だが、どれだけアホのようにサボっても必要最低限の結果が出せるんだもの。出社して2時間でだいたいその日の仕事が9割終わって、あとダラっと書類仕事とか点検とか脳死でできることやりながら、趣味の作曲とか料理のレシピを頭の中で考えてる。それでも社会がワイを欲してるんや。社会がワイを欲してるからしゃーなしで働いてやってるんや。
コロナでテレワーク導入とかマジでプラスにしかならんかったな。一つの画面でずっとVtuberの放送垂れ流しながら仕事してても、出社したときよりずっと成果出た。脳味噌フル回転させると処理能力余るんや。そのあまりをしょーもないものに流してやると、ちょうどよく仕事できる。さらに曲のメモも長時間の調理も人目をはばからずにできる。世界もワイに味方してる。
五体満足で栄養考えた料理もできて、健康的な生活ができる。そして費用対効果の悪いこと(顔面の悪さとか恋愛とか)に関して諦めが早い。めっちゃ恵まれてる。天才。先天的に実家が太いとか、育ちが良いとか、実家東京とか、親が良かったとか、クソほどモテるとか、なんぼのもんじゃい。後天的にワイより恵まれてる奴おるんか?ワイが欲しい物は全部手に入れたぞ。手に入れにくいものは初めっから諦めてるか興味ないかやぞ。この性格でマジで良かった。恵まれすぎてる。神だの親だの環境だの、そんなしょーもないゴミカスではなく、自分でなんとかなる自分自身に感謝。ワイがワイの救世主や。全てワイの力で、ワイの全てが手に入ってるんや。ワイはワイに恵まれてるんや。どや、羨ましいか?
羨ましいなら変わってくれよ
俺は実際バカなのに自分の「賢さ」に妙なプライドを持っていて、ときどきネットで本当にメチャクチャ賢そうな人の書いた文章なんかを読むと感情が荒れ狂う
数学能力が顕著に低くて理系を諦めた身なので、数学とか医学とかプログラミングとか、そういう話が特に効く
何も理解できねー
メインの話題を理解するのに必要な要素を理解するのに必要な要素を理解するのに必要な要素を理解するのに必要な要素、あたりから多分まったくわからん
分かろうとするための努力すらできない
そういう難しい概念について書いたwebページなんかを開いてみることがときどきあるが、もう全然、一切わからん
ツルツルのステンレスの壁に素手で登ろうとしてるような気分になって、ベッドに倒れ込んで天井を眺めることしかできなくなる
こういう、メチャ賢い世界を生きている人たちがいて、彼らと比べると俺なんてミジンコみたいなもんかあ…と思うと、かなりガックリくる
俺はまったく、本当にまったく、賢くなんてないのだということが実感として押し寄せてくる
普段だって別に俺は自分がエリートだなんて思ってないはずだし、己の能力の低さはさまざまな形で知ってるし、謙虚にいるはずなんだけど、どうしても頭のどこかでは「俺は凡人とは違う、滅茶苦茶賢いんだ!」と思い込もうとしていて、そういう密かなエリート願望みたいなものが、本当のエリートの書いた文によって打ち砕かれる際に、特有の苦しみが生じるのです
で、死ですよ
・なんちゃらコーダーみたいな、知らねえけど、人間のプログラミング力?を色?で表す?ようなところで最上級の色、虹色だか金色だか知らねえが、そういうのをとってるような人間
こういう、到底追っつけないところにいるやつらと、俺が、死の前では横一列に並ぶわけです
ロープ一本あればいい
俺にとって世界って結局自分が見てるものだけなので、俺さえ死んだら全部ガチで無意味になる
超賢くて生産的で凄いグーグラーも、道端で死んでるミミズも、俺にとって完全に同価値になる
結局そこなんですよね
人生がどこまでいっても俺視点である以上、やっぱり俺は特別なんですよ 少なくとも俺にとって
俺が死んだら全員死ぬってことにできるんですよ
俺が死んだのにみんな普通に生きてんな?ってことにはならない その状況は観測できないので、存在しないのと同じ
まあそれを言うなら俺が死ぬと同時にみんな死ぬ状況だって存在しないんだけど、この辺は気持ちの問題だよなあ
俺が死んだら世界は消えるんだぞ、バカヤロー!俺の勝ちだ!俺の勝ちだ!!
そういうふうに思いながら生きています
使い方これで合ってますかね。
読んでて少し発言したかっただけですが、このサイト使い方とかローカルルールとかよくわからないのでうまくできてなかったらごめんなさい。
あと気を悪くしたらすみません。
チラ裏レベルの話です。でもやっぱどっかで投げたかった文です。
・
まず、こういった気持ちを発信するということは、とても良いことだと思いました。
愚痴を吐き出すつもりで投稿されたのかもしれませんが、このことを話題に少しでもこのジャンルについて考える人が生まれるのならそれは良いことだと思います。
そして、この記事への反応をみると、ただただ煽るような言葉が並んでいるのが少し残念です。
・
ルッキズム等の詳しいことはわからないので一介のオタクの視点としての考えの話になりますが、大手ジャンルが特定層向けに舵を切り振り落とされる人が生まれお気持ち連鎖が起きる現象が近年多いように見受けられる気がします。
言及元記事の「キャラクターが男性のみ、女性が一切排除されサブキャラクターにも存在しない」というのは、女性向けゲームにはありがちなものだと思いました。
逆に、男性向け作品だと「キャラクターが女性のみ、男性がサブキャラクターにも存在しない」というのもありがちですよね。(ラブ……ブ!とか)
・
今回のこれはもともと"大衆向け"だったディズニーの作品を"女性向け"に落とし込んだ結果生まれた溝なんだと考えています。
おそらく、性的搾取だとかの考えはそこまで無く、女性向けとして考え売れる作品展開を考えたらこうなってしまったのではないでしょうか。(女性向け作品の概念自体が性的搾取に近いと言われたらそれはまあ…といった感じですが)
私自身、もともと好きだった作品が、Twitterで騒ぐ画像リプチー牛オタク層向けに媚びるよう舵を切り始めたとき、三日三晩枕を濡らしたことがあったので、振り落とされる側というのは辛いんだよなという感覚はあります。
表面にあらわれている多数派というのは、公式に対してイエスマンの人ばかりになりがちなんですよね。公式に振り落とされてもそのジャンルが好きなままの人にはキツい環境だろうなと思います。
・
少し話は変わりますが、先日Twitterを見ていた時に「ディズニーが好きな私が好きというパンピ層が苦手だ」というDオタのツイートが流れてきたことがありました。
ディズニーに関して詳しくはありませんが、ここまで世界的に一般にも通じるジャンルというのはそうそうないと思っています。
これはオタ非オタ関係ありませんが、ここまで広まっているものだからこそ、ジャンルという感覚が無く、ただキャラクターや作品を深く知らないで消費するというのが普通になっているように感じます。
ミリしらで許されるというか、ミリしらで楽しむことが一般的というか、そんなジャンルになっているのがディズニーなのかなと思います。サンリオとかミニオンとかもそんな感じな気がしますね。
言及元記事の筆者さんや言及元記事のように考えてるDオタの方々の感覚は、正直多数派ではないと思います。でも、この感覚はそのジャンルを好きな人にあって当然だろうなと、も思います。
・
公式として出されると、無意識のうちに「受け入れなくてはいけない」という強迫観念におそわれるのではないか?と私は常日頃から考えています。
私自身、好きだった俳優の言っていることが自分の思想とあまりに違い受け入れることができなかったとき、「好きなのに受け入れることができないなんてそれでいいのかな?」となってしまったことがありました。
言及元記事を読んでいると、筆者さんはこの感覚が強いのかなと思いました。受け入れなくてはいけないと思うからこそ辛いのかなと思いました。
こういう時は一回インターネットから離れるのも大切かなあと思います。
・
どう言うのが正解かはわかりませんが、筆者さんがいつか「ツイステなんてなんぼのもんじゃい!ディズニーの作品これいいぞ!みてくれ!」みたいな布教をしてくれればいいなと思います。
ノートルダムの鐘という作品をこの記事で知りましたし、ルッキズムや性の観点からみたディズニーについても面白いからもっと知りたいなと思いました。
表現者も現実の人間であるってことを受け入れてなくて架空のキャラクターやマスコットのように振る舞ってほしいってのはなかなかに無礼だし幼稚なエゴだ、と謗られる覚悟の上でその感情を肯定するのだったら、まあそういう人は仕方ないとは思うけど。
むしろそういう幻想を抱きがちな人の誤解を生まれる前に消し去る為に、表現者もどんどん忌憚なく政治的発言をすべき、とする方が健全ではない?
演技や創作の表現中ではないんだし、そことは分別をつけて、SNSにいるのは現実の人間の方なんだから。人間をフォローするってのはそういうことだし、そういうのを一切受け入れ難いのであれば表現者自身をフォローせずに公式アカウント等だけフォローすればいいだけのことだし。
まあ残念な気持ちになる事があるのは誰もが理解できる。でもそこは理性で乗り越えるべき部分なはずで、「良い悪いを論ずるべきでない」みたいに変にタブー視すること自体がおかしい。
まあ表現者が自発的に専門外のトピックを自粛するのならまだしも、他人が「やめてよ」と心の中で思うまではよくとも「やめてください」とは言っちゃダメなライン。それだけのこと。
個人名で発信している以上、他人はコンテンツである以前に人間なんだっていう当たり前のネットリテラシーを揺らがせてはいけない。
むしろ最近なんか会社名を背負ってるアカウントですら個人的な人間臭さをゴリゴリ押し出してくる世の中になってきてるし。
ある意味、みんなで「残念な人」になろう、怖くないよ、炎上なんぼのもんじゃい、死ななきゃかすり傷、的なノリさえ感じることがある。
相互性つったってさ、つまんねえ劇だったら観客の方から乗り込んでいってぶっ壊すような行いが許容されてるわけじゃねえじゃん
歌舞伎の大向うやプロ野球の私設応援団みたいなもん、もっと言えば子供向けのヒーローショーで応援の声を求める毎度おなじみの流れのようなものでしかない
見せる側と見る側の立場にはそれだけ差がある
見る側からのコミットメントというのは、あくまで厳格なルールのもとにコントロールされた上のものであって、ぶっちゃけ見せる側にとって期待通りの行動を期待されているだけのようにしか思えないし
スポーツに対して「観客を取っ払ってもスポーツ自体は成立する」と切って捨てるのであれば、そんなら演劇がなんぼのもんじゃいと思ってしまう
その後進展も何もないんだけど、とりあえず思い出し苛々したので追記がてらここに吐き出す。
・「うちの常識とお前の常識は違うじゃん?半分取らせてやる時点でうちとしては譲歩してるんだから、お前も譲歩したら」って同僚(50↑)にも言われたんだけど、いやいやいや!うちの常識って!せっま!法律とかもっと外の世界に意識を向けてみなよ!そもそもその場から出ようとしてる人間に内部の常識とやらが通じると思っているのか…
・「うちの会社は地元では結構顔がきくから、ここで気まずい辞め方するのはおすすめしない」みたいなニュアンスの話とか。いやいやいや!考え方せっま!!『うちの会社』がなんぼのもんじゃい!そして私は、どちらかといえばそういう人間関係を軽視するタイプなので、たいへんどうでもよろしい。小学生の女子グループじゃないんだからもう。
・「世の流れはそうかもしれないし、うちも少しずつ変わろうとしてる。けど、そう急には変われない(からお前は我慢しろ)」も謎だったな…待ったなしで変わらざるを得ないのが現代だと思うんだけど。何を悠長なことを言っているんだ。会社が変わるの待ってから辞めろってか。
救いは、同世代以下の若い世代は、こういうのをおかしいという感覚を持っていること。どうかこういう時代錯誤な考えに染まらずにいてほしい。
そして去りゆく私にできることは、あとに残る若手のためにも、当たり前のことを当たり前にやったという実績を創る事じゃないんだろうかとか考えてしまう。自分は間違ったことは言っていないつもりでも、お世話になったのもまた事実なので立つ鳥跡を濁しまくりなのがしんどすぎて、そういう風に自分をヒーロー視しないと踏み出せそうにない。いや、やるだけのことはやるつもりだけれど。
クソ田舎なので外国人をあまり見ない。先日サクラとして参加したシンポジウムで、日本人の若者が将来の夢について
はつらつと語ったいちばん最後に、外国人留学生のチーさん(仮)も夢について語るよう司会に振られていた。
チーさんは地元の地方国立大学大学院に留学してきているいわゆるエリート層のはずだが、司会に振られた最初の質問は
「志ってわかります?」だった。「漢字って難しいですよね。わかります?」はあ。「何年生ですか?何歳ですか?日本に来て何年目ですか?日本語お上手ですね。」
にこにこ満面の笑みで司会進行するアナウンサー。
大学生にする質問ってさあ、もっとなんか違うもんがあるんじゃないの。あなたの専門はなんですか?とか。
これが日本人の大学生なり大学院生だったらもっと違う質問してただろうなあ、とこれまでの日本人に対する司会の投げかけを見て思ったからより一層寒く思った。
事前に発表する人はだれかわかっているのに通訳なりつけるとかすればいいのにそれもなかったしね。
大衆の前でなぶられる外国人留学生を見て、クソ田舎の文化に対して「そういうところだぞ」と思ったのだった。
あのアナウンサーはもうちょっと事前に何を質問するとか考えたりしなかったのだろうか。
擁護するなら、「外国人」っていうだけでテンパってしまったのかな~って所だが、お前はプロじゃないのか。
レス返し
これを差別というのかなあ?
「とりあえずわかりやすい正義ワード」を使って安易に他人を攻撃していいのか?
なるほど。文意を汲んでもらえなかったみたいなのでレス返すね。
差別って、特定の集団に属する人をそれだけで特別扱いするってことだと認識してるんだけど、
この場合は日本語に不慣れな外国人ってだけで幼児扱いするのが差別だと感じたんだよね。
ここで言いたかったのは、明らかに力量不足のアナウンサーを起用して集団の前で特定の人を侮辱することが
力量不足の司会を起用して、大衆の前で個人を侮辱するのは主催側のいじめじゃん。公的な催しでそんなことしていいの?
クソ田舎の文化の中じゃ、このアナウンサーがプロとして力量不足だっていうことも、あの司会が差別だっていうことも認識されようもないのが
めちゃくちゃ恥ずかしいと地元民として思ったんだよね。ムラ社会の弊害だよ。
ていうか差別って正義ワードなのか?この日記は正義を振り回して過剰に口撃しているのか?
昨日の午前中に斎場で「行ってらっしゃい」と送り出すことができた。
数日内に私が選んだかっちょいい紺の袋に入って帰ってくる予定。絨毯にヒゲが1本ちょこんと落ちてたのでこれは保管。
斎場でもお姉さんに「しっかりした猫ちゃんですね~」と言われてちょっと笑った。
うちの猫を見た人の感想はだいたいそうだったし、私も形容を問われた場合「存在はかわいいが見た目は・・・うん、しっかりした猫」だったから。
5kg超えの猫をキャリーじゃなく箱で抱えて行き来するのは運動不足の上腕にはかなりつらくて、受付で腕がプルプルして受付票書くのにかなり苦労したのには参った。
夕方から夜中にかけて、コメントをちょこちょこ覗いて都度泣いてた。
えぐられたような痛さが和らいだ。本当にありがとう。
あの姿を見た瞬間の衝撃と、一晩で酷使した上腕二頭筋はまだ熱をもってじくじくしているけど、「いってしまった」ことに対する事実に対しての感情は落ち着いてしみじみしたものになりつつある。
一人暮らしの動物飼いの必須条件は「動物より先に死なないこと」なので、少なくともそれは果たせた。それだけは頑張った、私。
気づかぬ間にいかせてしまったけど、じゃあ、それを目前で見てたらどうだったか考えたら、ヘタレな私はもっと耐えられなかったと思う。やっぱりあいつは空気読むやつだった。大体接し方が保護者チックだったし。
とにかく良い猫だった。本当に良い猫だった。
エイズキャリアなのは引き取った後の検査で判明したことなので、「あちゃー」と思ったし怯えもしたがもう縁を結んだものなのでそんままズルズルの10年だった。ので、その辺は特に偉くないしいいやつではない、です。
奴が頑張って発症させずここまで来れた、人間換算70代で、周囲の70-80代が元気だったし「何なら、このまま猫又クラスいっとく?」とちょっと欲かいてた。甘かった。反省。
おう、ぜひそうしてくれ、いや、ください。もふもふいちゃいちゃしてイラっときた猫に蹴り飛ばされるor噛みつかれるまでセットで。
ほんそれ。実感。飼い始めた瞬間「私、なんかすごい飛んでもないことに手ぇだしてる?」とちらりと思ったけど、こういうことだったんだな。
昨日1日ほんと辛かったけど、365日×10年+α(計算できてない)の間すごい楽しかったから、その楽しさ幸せの時間の長さと比べたらその代償としては「この痛み、なんぼのもんじゃい」とも言えるのかもしれない。
踏んでない。踏まれたほうが多い。
面白くはなかったが、体は入れ物と感じた瞬間。物事こんなあっけなく終わるんだな感。
何故、カニ?と思ったら、カニいた。確カニいたよ!笑った。ありがとう。
正直すみません。でも「死んだ」「死んでしまった」よりも一番その時しっくりきたので。
こればかりは縁次第。辛かったけど「だから、もう二度と飼わない」とは現時点では思ってない。ただ40代一人暮らし、今後を考えると迂闊なことはできない。ひとまず保護ボランティアさんに支援の差し入れするつもり。
明日は、興味はあるものの飼い主馬鹿が過ぎるようで手出しできなかったフォトブックサービスにチャレンジ予定。端末いろいろ漁ったら、幸いに自撮り機能のお試しで2ショット撮ったのが残ってた。撮っててよかった。
あと獣医さんいお礼を言いに行かなけらばならない。緊急時はかけて良いといわれてはいたが、夜中0時という超非常識な時間に電話したのに周囲から犬猫の声が聞こえてて残業中の模様だった。うちの子も入院時はそうやって手厚く診てもらってたんだろう。激務だ。
最後に繰り返しになりますが、コメントを寄せてくださった皆さま、本当にありがとうございました。モニター越しの多数の声がこんなに心強くて支えられるなんて思ってもみなかった。ただただ吐き出したいだけだった。今までこういうエントリは読むだけだったけど、これからは自分も何か返していければ、と思います。
再び猫へ。お前は本当に良い猫だった。幸せだった。ありがとう。お前のちょっと良い話やアホエピソードは、ネットのどこかに書き散らせてもらうし酒の肴にもする。見守ってなくてよいから、ただただ飼い主の心の肥やしになるがよい。ありがとう。