はてなキーワード: 被災者とは
3.11に震災の被災者を侮辱する動画をSNSに出してしまったガキを見てそう思う。
誰も本気で怒らないから、今のガキどもって、越えちゃいけない一線をガキの間に学んでないんだろうな。
迷惑行為や非常識なことをしたら、近所の雷親父にぶん殴られるくらいのことがないし
学校でクラスメイトを揶揄ったら、担任が飛んできて殴られることもない。
優しく諭される程度の叱責では学べないアホの躾って、痛い思いをさせる事でしか為せないのに
誰も何も言ってくれないから、バカのまま育って致命的なミスやって社会全体から袋叩きに合ったり
必要な体罰や鉄拳制裁ってあると思うが、今の一部の子供って、甘やかされて育った犬みたいにどうしようもなくなってる様に思えるわ。
「可愛い可愛い」って撫でまわしてるだけなのは、犬にとって最悪の虐待だと思うが、それと同じやね。
まともに躾けとけば、良い番犬になったはずの柴犬が、飼い主がアホすぎて手の付けられん問題児になってる様に
ちゃんと教育が入ってれば、問題を起こす前に気付けたかもしれない、ごく普通の少年に見える子供が下らない問題を起こして、世の中を騒がせる。
阪神淡路後に生まれた世代だけどあったってことは知っている。無知は言い訳にならないよ。
東北の震災は衝撃が大きすぎたけど被災者は九州にも新潟にも北海道にもいるのにいつまでも自分たちだけが被害者みたいな面してる人見ると不快。大なり小なりこの国の人間は誰しも被災した経験があるから。
増田みたいに変われる人は貴重だと思う。
スシローでぺろぺろした高校生とか、3.11の被災者を侮辱した高校生とか、毎日のように誰かが炎上してるけど、私は「バカだなーしかもなんでSNS載せちゃうんだろーバカだなー」と思ってそれでおわり。
でも夫は「ねぇ知ってる?〜なことをした高校生がいるんだけどめっちゃ炎上してる」って私に報告してくる。別に知ってるけど…って言うと「バカだよね〜もう高校や名前も晒されてるから終わりだね」って嬉しそうに言ってくる。
炎上案件があるたびにこんな感じだから、本当に嫌だ。他人の不幸を喜ぶのって本来は恥ずべきことなのにストレートに表してくるところが嫌だ。自分より明らかに下だと満足してるところも嫌だ。正義感面して叩いてるところも気持ち悪い。回転寿司元々行かないじゃん。高校生の軽口も関係ないじゃん。(この高校生が愚かだとは思うけど)
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。
でも東北に住んでいたわけではなくわかりやすい犠牲者ではないから、こちらから言い出さなければ誰も知らないし無論補償も何もなかった そもそも補填できるような不幸ではない
起きたことをすべて知れば被災者だと言うことくらいはできるかもしれないが、俺の不幸などこんなものバタフライエフェクトの結果でしかないだろう
誰も俺に同情しないし誰も俺を労うことはない
だから俺は絶対に募金はしない 今日という日は被災者にそっとこの恨みを捧げるだけの日だ 戻ってこないものに寄り添ってもらえる被災者様を呪う日だ
同情してもらえる人々に不幸あれ
311の地震があった当時、まだ子どもだった私は兄と父方の祖父母を亡くした。友達も亡くなった。
親戚や母方の祖父母の協力もあって大学まで進学でき、就職もしたが、あの地震と津波は子どもの私のアイデンティティに影響を与えた。
大学は関東に行ったが出身地について話すと(ああ、津波の…)みたいな反応があったし、これからもそういう印象を持たれ続けるんだろうなと思っていたし、311のことを忘れてほしくないからそれで良いと思っていた。
今でも思い出さない日はないし、地震や津波に対する意識が低いというか、当事者意識のない人に苛つくこともあった。自分だって被災するまで当事者意識の欠片もなかったのに良いご身分だとは思っている。
就職して半年くらいの頃に出張で関西の支社に行った。上司に連れられて関西支社の人たちと話して、軽い自己紹介の折、出身地とかを聞かれて答えると、
「ああ、地震とか津波があったとこ…」と言った人がいた。ちょっとデリカシーがないぞ、みたいなことを誰かが嗜めるように言ってくれてた気がする。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
あのとき声をかけてくれた人は自分も神戸の震災の被災者でデリカシーのない人に出くわしたときの気持ちは分からんでもないよ、と気を使ってくれていたのだ。
なのに私は自分が被災者だという自意識から抜け出せず、東北の震災は忘れてほしくないと考えてるくせに、他の被災者のことは簡単に忘れていた。
すごく恥ずかしく申し訳なくなった。
今はもう簡単に他人に東北の震災を忘れてほしくない、とは言えない。
どんなに限局的な災害でも、被災した人にとっては、たぶん東北や阪神の震災より大きな出来事なのだ。
私は規模が大きい災害に遭遇したから大変ではあったが今でも色んな人が気を使ってくれたり、たぶん限局的な災害では受けられなかった支援を受けられたところもあった。(被災したものの自分の努力と保険でなんとかするしかなかった人の話を聞いた)
忘れないということも大事だし、そのための活動も必要だけど忘れた人を責めたくない。忘れていても教訓が生きていればもうそれで良いと思っている。
はい、2022年3月3日にトルコで大地震が発生しました。この地震は、マグニチュードが7.4と非常に大きく、エーゲ海の沿岸部や首都アンカラなど広範囲に被害が及んでいます。この地震により、多数の死傷者や被災者が発生しており、現在も救助・復興活動が続いています。
はい、望月新一(もちづきしんいち)は日本の数学者であり、代数幾何学やモチーフ理論などの分野で業績を残した研究者です。代表的な業績としては、ミラー対称性予想の証明に向けた研究などが挙げられます。また、一般向けの著作や講演活動も積極的に行い、幅広い層からの支持を得ていました。望月新一氏は2018年に急逝されました。
死んでねーよ
阪神淡路大震災の時、住んでいるあたりの震度は確か2か3だった。
「起きた?」「いや寝てた」「信じらんねー」「高速倒れてるのビビったよなー」
みたいな能天気な会話をしたはずだ。
俺にはたまたま兵庫在住の親戚がいたので、震災の翌週末だったかな? お見舞いに行ったのだが、具体的に何駅だったか忘れたが、電車がギリ動いてた駅から親戚の家まで3時間とか歩いた。
歩く途中で見た瓦礫の山は流石に忘れられないし、親戚の家・家具にもそれなりの被害があって大変そうだったが、本人たちは元気だった。
あと、同学年で一人か二人、親戚がお亡くなりになったみたいな奴がいた気がする。
俺にとっての阪神淡路大震災とは、決して忘れることは無いが、その程度の思い出である。
恐らくだが、直接の家族・親戚がお亡くなりになったとか、あるいはもう働いていて関西支社・支店とか取引先がどうこうとかいうような人を除いて、大多数の愛知県民にとっての阪神淡路大震災ってこんなもんだと思う。
一方、東日本大震災はどうか。
確か震度3だったと記憶しているが、ちょうど仕事の休憩中で、取引先の営業マンと
「今のけっこう揺れましたよねー」
とか話していた。個人携帯を仕事中に見られる環境じゃなかったし、テレビもない場所だったから、まったく情報を把握していなかった。
夕方になって事務所に戻って、その時初めて「やべー地震だったんだ」と知った。
その後、主にニュースで流れたショッキングな映像の数々や原発関連のあれやこれやは、10年以上経ってもそれなりの生々しさと共に思い出される。
東北の支社が大変だけど素人が行ってどうこうできる状況じゃないから、まずは自分たちの職場で東北の分まで働こうみたいな訓示があったような。
既にTwitterとかはあったから東北在住の知り合いにカンパしたりした。いきなり連絡つかなくなって、多分お亡くなりになったのであろう知り合いもいた。
俺にとっての東日本大震災とは、決して忘れることはないが、その程度の思い出である。
今年、主に関東~東北方面の東日本大震災被災者にとって阪神淡路大震災はもう忘れられてるというか震災=東日本大震災みたいな投稿を何件か見た。
中部地方在住俺、どっちも忘れてないし被災された方はそれぞれ大変だったよなあと思うのだが、身の回りでどっちも大した被害もなく過ごしていたので、なんか微妙な感じ。
万が一にでも起きてほしくないが、南海トラフって生き残れた場合には、俺の中でも震災=南海トラフということになるのだろうか。
今日、東日本大震災の日を気仙沼で過ごした方の投稿を見てふと思い出したことがある。
LINE交換をする際にアドレス帳に誕生日を登録することがよくあったり、QRコードでLINEを交換すると自分で設定した誕生日がそのまま向こうにも登録されることから相手に自分の誕生日が伝わることが多々あったのだけれど、私が2011年3月11日に産まれたことを伝えると、皆口を揃えて「震災の日!?」と驚いたような反応をしていた。
その後驚きは好奇心に変わるようで、どんな状況で産まれてどうやって震災を乗り越えたのかを矢継ぎ早に聞いてきた。
私はその度に申し訳ない気持ちになりながら「産まれは気仙沼ちゃう、大阪や。」と答えていた。
すると相手は突然興味を失い「んだらば」とか「なんだもねえ」とか言ってこの話を終わらせた。
他の誕生日の人は「〇〇と誕生日近いっちゃ!」とか「有名人で誰と誕生日一緒?」とか言われてるのを見ていたから、中学生だったこともあって毎度少しへこんだ。
これは大人たちも同様いやむしろ私にしてみればもっと冷たく感じられて、私が誕生日を伝えたあとに大阪出身であることを伝えると、「んだばえがっだべ」のような、震災の過酷さを身をもって知っているからこそ、知らない者を部外者として扱うようなニュアンスの反応がよく返ってきていた。
どう表現したらいいか分からないがとりあえず、私の身を案じて「危ない目に遭わずに産まれることができてえがっだべ」と言ってくれている感じではなかったのだった。
さっき読んだ投稿にもあった「しあわせはこべるように」という曲は転校先の学校でも毎年歌われており、その後黙祷を捧げるのがお決まりだった。
そんな空気だから、登校しても他の友人たちと全く同じようには祝ってもらえず、なんかしんみりした誕生日を毎年過ごした。
もちろん、誕生日ではなくて私自身の問題で友人たちのように祝ってもらえなかった可能性もあるかもしれないけれど、、、
それにしても、12歳になるまでの誕生日は周囲からの邪気のない祝福も含めてクリスマスと同じくらい明るく楽しい日だったのに、12歳からの数年間は全く違うものになってしまったと感じていた。
こんな体験を重ねるうちに、私は極力誕生日を他人に伝えないようになっていった。
最初から「大阪で産まれたので震災とは関係あらへん」と言えればいいのだが、誕生日を聞かれただけなのに「大阪産まれ」であることも自分から伝えるのは嫌な奴だと思われそうでできなかった。
当時すでに、東日本大震災の被災者のことを思えばこんな感情を周囲に吐露することも憚られるだろうという分別も流石につく年頃だったので、今までずっと誰にも話さずに生きてきた。
18歳からまた大阪に戻ってきたので、しばらくそんなことも忘れていた。
今日読んだ投稿で当時のことを思い出し、「震災がなければ一緒に大人になっていたかもしれない人の存在をふと思うことがある」といった主旨の文言を見て、「あの時の大人は私との会話の中でそういった人たちを思い浮かべてたんやろなあ」とひとり合点した。
なんとなく書き留めておく。
今日、阪神淡路大震災の日を神戸で過ごした方の投稿を見てふと思い出したことがある。
メアド交換をする際にアドレス帳に誕生日を登録することがよくあったり、赤外線通信でメアドを交換すると自分で設定した誕生日がそのまま向こうにも登録されることから相手に自分の誕生日が伝わることが多々あったのだけれど、私が1995年の1月17日に産まれたことを伝えると、皆口を揃えて「震災の日!?」と驚いたような反応をしていた。
その後驚きは好奇心に変わるようで、どんな状況で産まれてどうやって震災を乗り越えたのかを矢継ぎ早に聞いてきた。
私はその度に申し訳ない気持ちになりながら「産まれは神戸じゃないんです、東京なんです。」と答えていた。
すると相手は突然興味を失い「そうなんや」とか「なんや」とか言ってこの話を終わらせた。
他の誕生日の人は「〇〇と誕生日近いやん!」とか「有名人で誰と誕生日一緒?」とか言われてるのを見ていたから、中学生だったこともあって毎度少しへこんだ。
これは大人たちも同様いやむしろ私にしてみればもっと冷たく感じられて、私が誕生日を伝えたあとに東京出身であることを伝えると、「じゃあよかったな」のような、震災の過酷さを身をもって知っているからこそ、知らない者を部外者として扱うようなニュアンスの反応がよく返ってきていた。
どう表現したらいいか分からないがとりあえず、私の身を案じて「危ない目に遭わずに産まれることができてよかったね」と言ってくれている感じではなかったのだった。
さっき読んだ投稿にもあった「しあわせはこべるように」という曲は転校先の学校でも毎年歌われており、その後黙祷を捧げるのがお決まりだった。
そんな空気だから、登校しても他の友人たちと全く同じようには祝ってもらえず、なんかしんみりした誕生日を毎年過ごした。
もちろん、誕生日ではなくて私自身の問題で友人たちのように祝ってもらえなかった可能性もあるかもしれないけれど、、、
それにしても、12歳になるまでの誕生日は周囲からの邪気のない祝福も含めてクリスマスと同じくらい明るく楽しい日だったのに、12歳からの数年間は全く違うものになってしまったと感じていた。
こんな体験を重ねるうちに、私は極力誕生日を他人に伝えないようになっていった。
最初から「東京で産まれたので震災とは関係ありません」と言えればいいのだが、誕生日を聞かれただけなのに「東京産まれ」であることも自分から伝えるのは嫌な奴だと思われそうでできなかった。
当時すでに、阪神淡路大震災の被災者のことを思えばこんな感情を周囲に吐露することも憚られるだろうという分別も流石につく年頃だったので、今までずっと誰にも話さずに生きてきた。
18歳からまた東京に戻ってきたので、しばらくそんなことも忘れていた。
今日読んだ投稿で当時のことを思い出し、「震災がなければ一緒に大人になっていたかもしれない人の存在をふと思うことがある」といった主旨の文言を見て、「あの時の大人は私との会話の中でそういった人たちを思い浮かべてたんだろうなあ」とひとり合点した。
なんとなく書き留めておく。
俺も、1993年の1月に生まれた。1歳から大学までは、千葉県の船橋あたりで生活していた。千葉県はカスだ。東京まで微妙な距離のせいで、逆にオシャレを履き違えているやつらだらけ。茨城のゴミ共もいるおかげで、余計に田舎者ムードは高まっていた。特に地元の船橋民が嫌いだった俺は、三国志大戦などをやるためにわざわざ津田沼エースまで行っていた。今思うと津田沼は津田沼でゴミみたいな街だったが、船橋よりはマシというところだろうか。あと、俺はオタなので秋葉原が微妙に遠いのが嫌だった。総務線で一本とはいえ、微妙に遠い。かといって千葉のオタショップはやはり、品揃えの面で大きく劣る。飲食店は何一つとしてとりえのない、個性のない「退屈な街」だ。この街で人生の3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。
私が住んでいた地域には大学があったのか覚えていない。競馬場はあって、薄汚いおっさんが娘の給食費を無駄にするために通ってきていた。市立船橋高校はスポーツが盛んで、イキリ散らした民度の低いカスみたいなスポーツマンたちが船橋を不快な街に育て上げていた。あと、船橋高校のゴミどもも、もっと渋幕とかに行けばいいのに頭いいような面してイキリ散らしながら歩いていた。自然豊かといいつつそれは小室とかいう飛び地の話で、友達がそのへんの団地に住んでいたのだが、子供心に「こんななにもねえ田舎に住んで何が楽しいんだか」と考えつつ、スマブラをやりに行っていた。俺も競馬場に通うおっさんたちと同じ、人生を無駄にするのが好きな人間だったと言えるだろう。
小学校の時は色んな道徳教育を受けた覚えがあるが、ある日、うちの親戚のおっさんが登壇して「阪神淡路大震災の記憶」を語っていた。俺は幼心に、いや、お前関西住んでたっけ?と思ったが、無事に講演は終わり、無意味な感想文などを書いた。のちに親戚の集まりで、おじさんは講演会の人が来れなくなったので代打で登壇したと聞かされた。「わかりゃしねえよ」とのことだったが、まあどうでもよかったのでそんなもんか、と思い今日まで忘れていた。俺と震災には深い結びつきがあったと言えるだろう。
高校生にもなると、俺は自由だった。エスカレーター式の東京の学校に入学していたので、誰も受験勉強なんかはしていなかったのである。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。そう。割れ厨である。エロゲや音楽を無料あるいは格安で手に入れてくれることは後輩の俺達にもすぐに知れ渡った。サブスクの走りみたいなものだ。ちなみに、その先輩は生徒会長だったので、なんか体育祭で頑張った的なスピーチをしていたことを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。
震災当時、俺は秋葉原にいた。試験も終わり、余裕綽々でカードショップで萌え萌えなスリーブを買い漁りに行っていたのである。その時、震災が起きた。スリーブはあたり一面に散らばり、混乱の中、店員さんに言われ、店の外に出た。駅に行くと、そこには人が沢山いた。だがしかし、電車は動いていなくて、そこで東北で大震災があった、という情報を聞いた。
震災なんてものはどうでもよかった。ただ、俺の心配は家に帰れるかどうかだった。録画していなかったのだ。その日、放送される「まどか☆マギカ」を。深夜だしリアタイ視聴余裕という慢心があったのだ。しかも、当時は確かものすごく盛り上がる10話の放送を控えていた時で、まどかを見られるかどうか、というのは俺の死活問題であった。あと、まどマギとか略すやつは当時のオタ仲間の間ではにわかの象徴だった。
さらなるハプニングが俺に起きた。ゲームのやりすぎで俺のガラケーは充電がなかったのだ。その上、萌えスリーブを買いすぎていたせいで、財布には100円の金もなかった。コンビニで充電器も買えやしない。もちろんクレカやキャッシュカードなんて持ってなかった。電車が動く気配はない。俺は、仕方無く歩いて帰ることにした。ぞろぞろと、他の帰宅難民の秋葉のオタクたちと共に。
途中で、公衆電話を見つけたので、並んで家族に無事である旨を伝えた。だが、当時オタバレを嫌っていた俺はプライドから、録画を頼むことはできなかった。まどかマギカくらいで何を、と今の世代は思うかもしれないが、当時はまだオタ差別は著しく、まどかマギカなどという萌えアニメを見ていることがカミングアウトできなかったのだ。
数駅くらい、歩いたところで俺の体力は尽きた。帰るのがダルくなったと言ってもいい。周りの人間たちから漏れ聞こえる被害状況を聞くに、心のどこかで動くと思っていた電車も、動かないことがわかってきたからだ。俺は近くのスーパーでなけなしの金でバナナを買って、フードコートの水を飲んで飢えと乾きを満たした。まどかマギカの10話が見られるかが心配で、その次にそもそも今日、どこに泊まるんだ?という思いがあった。
ということで、俺は近くの駅のポッポ屋さんに聞いて、避難所の小学校を紹介してもらった。たどり着いたのは、夕方ごろだろうか。そこには、俺と同じ帰宅難民のリーマンが何人かいた。俺が一番若くて、寝床のマットレスを運んだり、先生たちの手伝いをした。教室備え付けのテレビで、炎に燃える気仙沼を見て「関係ねえな、明日も仕事行かなきゃ」と語っていた、リーマンのおじさんの茫漠とした表情をよく覚えている。夕飯は乾パンだった。
夜。少し冷静になって。俺は件の割れ厨の先輩のことを思い出した。学校近くの公衆電話から、まどかマギカの録画を頼むために、俺は駆けた。「大丈夫だよ増田くん。MBS版はもう放送されてるからね。違法うpされたデータ回すよ」。先輩は、相変わらず元気そうだった。俺は大いに安心して、また気仙沼の火事を見に学校に戻って、ちょっとまた先生たちを手伝い、制服のブレザーをかけて、教室で眠った。
翌日、なんとか帰宅したが、普通にまどかマギカは10話以降放送延期になった。あ、あと親戚が2人ほど死んだ。例の阪神淡路のスピーチをした親類もそこには含まれていた。
そして大人になったある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東北出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。親戚や家族が死んだこと、放射線関係で差別されたこと。
その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は東京だから、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。俺も被災者だから分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。歩いて駅まで帰ったんやぞ、まどかマギカのために。と嘘をつくと、彼は気まずそうに「なんやアンタ」と呟いた。
彼は俺より少し年下だったから、もしかしたらまどかマギカのことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。劇場版から入ったにわかかもしれないし。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。
俺は今、違う場所で暮らしているけれど、今でも自分が育った千葉はゴミクズだったと信じている。そもそも秋葉原から遠くなければ、俺も簡単に帰宅してまどかマギカの録画云々なんて悩まなくてよかったし、千葉のオタショップの品揃えさえ充実していればよかったのだ。
俺も、30歳になった。平成初期に生まれた私たちは、Z世代や氷河期世代両方から馬鹿にされる「最悪の世代」だと言われている。確かに、地震は俺にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生、別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まあ今になるとまどかマギカとか大した作品じゃねえな、と冷静な評価を下すこともできる。でも、震災の時にふと過ったあの感情を、たまに思い出したり思いださなかったりするのだ。リーマンってなんで震災翌日も働くねん、という。
まああれだ。震災は一時のスリルというエンタメとしては面白かったが、アニメの放送延期からわかるように日常生活に大きな影響を与えるのは間違いない。
そして、俺は思うのだ。