はてなキーワード: 国歌とは
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b1436
冷戦時代の墓から出てきたイマジンは、IOCからのリクエスト。
日本にはイマジンのカウンターとなるコンテンツを用意できなかった。それは最初、メッセージ性としては弱いテクノジャンルであるPerfumeを用意する予定だったから。AKBもアレですけど、Perfumeも客層考えるとサブカルの皮被ったアレですよ。キツい。芯がある歌を歌える人選じゃないんですよね。そして歌はドローンのイマジンが政治的な意味をもっていたように、歌はテクノロジーの添え物じゃない。開会式での歌は、自国の外交的スタンスの意思表示になるんです。国歌だってそうでしょう。サブカルには申し訳ないけど、優等生的でつまらなくても外交的にはMISIAの方がマシ。なおかつ、ここでAKBではなくPerfume出すと中田ヤスタカと秋元康の喧嘩にしか見えないじゃん。二者とも国際的にウケてるってどういう意味でウケてるんだよ。各国の個人的好みならともかく、公的な意味を持った外交の舞台なら両方無理だよ。ただ、秋元才加は今のAKBとかと客層が違い、秋元康サイドも国際舞台ぐらいわかって妥協できるってことがわかったんで、AKBと聞いただけで排除に頑張った椎名林檎が子供だったし、椎名林檎含めたサブカルサイドの人材に多様性も公共心もなかったと思う。
そして、IOCに対して日本がイマジン以上に、今の紛争や差別が絶えない国際社会に合ってるリリックのある歌を用意できなかったのが残念でならない。音楽監督が林檎さんに遠慮してるのか、そもそも小山田氏の件もありこんなことになってしまうぐらいには友達のノリで仕事回してただけで考えがないのかわからないけど。それでも本当に日本としてイマジンがよかったら日本人としてイマジンを和訳でもして日本語で歌えばよかった。日本語で歌えば外国から借りてきた言葉や思想っぽくなくなるから。英語の歌詞はドローンで出すんだし。イマジンをどうしても入れるなら、それも無理なら妥協して日の丸運んでる救急隊員を多めにして自衛隊にコロナ終戦をイメージさせるイマジンから君が代って流れ?これで今の時代的には古くて言葉が強いイマジンを多少は打ち消して、今の時代はコロナに打ち勝って長寿を願う君が代で行くという印象になるから。ドローン飛ばすと戦闘機想起になるんですけど今の時代の戦争ってそうじゃないでしょ。でも、テクノ界隈、メッセージ性のある歌詞のある楽曲の選択や制作、めちゃくちゃ弱そう。ダンスの添え物的な音楽作るのは強いけど、MIKIKOさんみたいなダンスに強い人いなくなった時点で音楽監督以下のテクノ界隈チームの強みが相当削がれた感はある。同じアホなら踊らにゃソンソンとならずに、森山未來と江戸消防記念会を出したのはよかったと思います。
あと開会式の台本はあっても、画だけあって、全体の一貫したシナリオがない。
各国や日本で傷ついた人が立ち上って共にスポーツができる目標に向かって手を繋いで歩み、スポーツができる平和を噛み締めるストーリーがない。
ネオ東京で日本すごい的なの、どうでもいいですよ。各国のおかげで日本が繁栄している謙虚さがなくて。ネオな『東京』だけじゃなくて、世界を包括するテーマが必要だった。
復興五輪がダメなら、もっと広く世界の人への歓迎と世界の傷ついた人に対する慈しみでよかった。日本すごい的な表現を自分でするんじゃなくて、ささやかな気配りで各国に言わせないと恥ずかしい。で、とりあえず鳩を飛ばせば平和でしょ、という安易さ。
パクリパクリ騒いでるけど、パクリは予算ない中でのプロジェクトマネジメントの延長でしかなくて、元の案も根底の外交やオリンピック憲章的な思想がなくて良くないよ。見た目派手なテクノロジーとダンサー入れておけってスタンスのMIKIKO案から、開会式当日までグダグダが続いててダメなんでしょ。
国際問題や問題に向き合うスタンスみたいなことからサブカルが逃げた結果がこれなんだよ。
本当にああいう派手だけど中身がないMIKIKO案みたいな案をひっくり返すの、他のプロジェクトでも面倒ですよ。ああいう派手だけど中身のない仕事の後始末って一番したくないものなんですよ。派手さに気を取られてわかってないサブカルみたいな人がうるさいから。だから、小林賢太郎は元々の経験不足や知名度、業界政治力の割にはよくやった。あれ以上のこと当時の彼にはできなかったと思う。
これは、椎名林檎たちミュージシャンの自己表現の仕事ではなく、電通的なクライアント絶対主義でもなく、スポンサーの言うことを聞くけどスポンサーに文句言いつつも自分の作家性は通す映画や舞台監督の仕事だった。
・国歌は無観客だから独唱だったのだろうか。歌唱力ありありで変な溜めがあったりして、斉唱なら揃わずにグダってたと思う。
・前撮りの映像が多く、イメージビデオみたいだなと思った。選手たちは競技場で延々映像スクリーンを見てたのだろうか。
・黙祷にパフォーマンスはいらないと思う。復興五輪なら震災犠牲者も加えてほしかった。イスラエル選手に言及したの唐突過ぎん?
・一番盛り上がったのが「俺たちのドラクエ・FF!」って、制作側はどう思ってんだろ。
・各国の衣装や楽しそうな入場は見ていて嬉しい。
・ドローンは良かった。このタイミングで開催国として使用できたのはラッキーだと思う。ここはテレビよりも生で見た方が凄かったんじゃなかろうか。
・スピーチは長くないんだろうけど3時間行進してからの2連続はやっぱり長い。
・ピクトグラムはテレビだからまだ見られる(それでも仮装大賞だったが)が、競技場の人たちはどういう気持ちで見ていたのだろう。
・寸劇はさすがに見てて辛かった。
・結局は最終走者は有名人か〜
・地中が映って選手メタファーの種から芽が生えてくる→なんで種?それで表現するなら選手という花から種が散布される感じだろ?
・コロナっぽい練習風景→取って付けたようなコロナアピール。突貫工事としてはマシな方か。でもつまんね。
・四季っぽいなにか→せっかく作ったので無理やり入れました感。いらんわ。まあ発注したから金払わん訳にもいかんししゃーないっていう公共事業の常か?
・抽選会の思い出映像→普通。文句はないが褒める気もない。まあ意味不よりマシか。
・歴代選手と自衛隊による国旗運び→伝統だからしゃーないんだが、いっちにーいっちにーはダサすぎ。練度の低さ全世界放映すんな。
・国歌→まあ・・・日本の文化レベルじゃアレが限界だろ。頑張ったな。
・謎のIOCのオッサンやスポンサーの映像→いらねー。まあ舞台のセットし直しがあるからしゃーないか。でも言ってることと実態があってなさすぎ。
・大工タップダンス→ザ・ゴミ。仕事してるふりして踊ってるだけの人たちはなんかのメタファーか?国辱レベル。
・提灯軍団→提灯持ちの入場だ~~~~~。なんかのメタファーか?
・東京五輪のときの木→過去の栄光にすがりついてカーゴカルトするの辞めろっつってんだろ。
・ゲーム音楽入場→日本の文化なんてゲームぐらいしかねーんだと割り切れて大正解。そうだよ。こんな島国に求められてんのなんてそれぐらい。客の求めてるもんだしときゃ良いんだ素直に。
・各国選手入場→政治大好きちゃんじゃないからチャイニーズタイペイ~~とかはどうでもいいですわ。マッチョな旗手とか居たのが面白かったな~~ぐらい。正直道短いんだけどさ、これぐらいの方が今どの国がメインか分かりやすいしいいんじゃねーかなとは思った。
・積み木ゴッコ→キモいマスゲームだな~~~とは思ったけどロゴのコンセプトを伝える努力をしたのは良かった。パクリロゴだったら出来てなかったと思うと感慨深いね。
・ドローン→ええんとちゃう?最後世界地図になるってのも後付っぽいけどオリンピックらしさがあってよかったんじゃない。
・色んな人の宣誓→言ってる内容と実態が全く噛み合ってない棒読みはなんかのメタファーか?とりあえず言っておけばいいって感じのメタファーか?宣誓の内容を聞く限りは開催するに値する状態じゃなかったようにしか思えないぞ。
・お歌のコーナー→まあ、無難。つうかバッハがクソすぎて脳がもう判断力失ってる。
・ピクトグラムコーナー→こういうのってわざわざ「俺凄いでしょ~~~」って言い出したら負けだと思う。
実家に住んでた頃。うちは風呂場とリビングの仕切りが薄くて、リビングの話し声が丸聞こえな家だった。
あるとき風呂に入ってると、父親と母親が何かを朗読してるのが聞こえてきた。
安倍政権批判の記事かニュースを声に出してんてるみたいだった。(当時は安倍総理だった)
風呂から出て「さっきの朗読なに?」って聞いたけど「なんでもないよ!」って答えるんだけどなんでもない感じでもない。
それからも何度かそういうことがあった。
読んでた雑誌はどうも「通販生活」でなんか左寄りの思想のコラムとかが多いらしい。
俺は消極的に自民党支持だけど親父と母親は左翼。リベラルとかサヨクじゃなくてオールドタイプの左翼。
俺が子供のころは「天皇は殺すべき」「自衛隊は人殺しの集団」「国歌なんか歌うな」とか言ってた。
さすがに最近になって空気読んだのかそういうこと言わなくなったけど。
両親と話すときははてなの自民党寄りの感じのことばかり言ってたので、心配して俺の自民党の洗脳を解こうとしていたのでは?と今になって思う。
最初に断っておく。
いや、私はオリンピック開催には否定的なのだが、言いたいのはそこじゃない。
ここでは「オリンピックに道義的な問題があるとき、アスリート批判は間違っているのか?」について話す。
どうやら池江選手に「五輪出場を辞退して欲しい」とか「五輪開催に反対して欲しい」というリプライが届いて戸惑ったらしい。
おーけーおーけー。そりゃ確かに戸惑うだろう。
簡単に「じゃあ五輪辞退します!」とはできない。それだけ選手は多くのものを背負っているからだ。
この話題に対して俺らのアルピニスト 野口健が次のような投稿をした。
池江さんご本人に「五輪辞退を求める」といった趣旨の投稿をした人たちは下衆の極みである。五輪開催の有無について意見があれば決定権のあるIOCや、また開催国、開催都市である国や東京都に向けるべき。最もやってはいけないのはアスリートにその刃を向けること。 https://t.co/9K6XDiHOSx— 野口健 (@kennoguchi0821) May 7, 2021
『下 衆 の 極 み』
凄まじい表現だ。普通は血の通う人間に向かってこんな言葉をチョイスしない。
アルピニストの強い怒りが感じられる御ツイートだが、ちょっと待って欲しい。
本当に五輪開催の有無についてアスリートに意見を求めてはいけないのだろうか?
というかアスリートは五輪開催について社会的責任を負うのではないだろうか?
少し考えていこう。
今回の報道を受けて思い出したのは昨年のW&Sオープンを辞退した大阪なおみ選手。
彼女は人種差別に抗議するために試合を辞退し、これを受けた大会側が正式に人種差別に抗議することで一件落着となった。
当時も散々議論になった大阪選手のこの行動について強調しておきたいことが2つある。
ひとつは、これは大阪選手だけでなくバスケや野球など多くのスポーツで同時多発的に起きたムーブメントであること。
そしてもうひとつは、別に大会主催者が人種差別を行ったわけではないということだ。
つまり大阪選手を含むアスリートたちは「大会が人種差別への抗議声明を出さないのは道義に反する」と考え行動を起こしたのだ。
もう少し視野を広げてスポーツの外も見てみると、このような話はたくさん出てくることがわかる。
例えば今年の3月に、グラミー賞元会長の女性蔑視発言と人種差別的な審査基準を理由に、3組のアーティストがグラミー賞ノミネートを辞退した。
(元会長の女性蔑視発言ときいて何かを思い出さずにはいられない)
主催者側に道義的な問題があるとき、参加者がその問題について黙っていていいのだろうか?
少なくとも海外のアスリートやアーティストは「No」だと答えるだろう。
沈黙したまま大会に参加するのは道義的問題を肯定していると考えるからだ。
森前会長が辞めたことで、女性差別という問題は(建前上の)解決となった。
寒々しい解決ではあるが解決は解決。これで五輪に参加するアスリートは差別加担者の誹りを免れることができた。
ならこれで万事OKだろうか?もちろんそうではない。
いま問題になっているのは五輪開催による感染拡大、つまり大会主催者側の人命軽視の姿勢だ
この感染拡大問題はアスリートにとってより直接的な道義的責任が発生する。
なぜなら人々はあなたたちアスリートを応援するために密になり、感染が拡大し、人が死ぬからだ。
アスリートはそのことをわかっているはずだ。わかっていて、しかし見てみぬふりをしながら大会に参加する。
そして、人が死ぬ。
もちろんそうはならないかもしれない。
五輪開催時にはコロナはすっかり収まっていて、みんなで肩組んで国歌を歌いながら応援するかもしれない。
だがそんな馬鹿げた楽観論で行動するようならアスリート失格だと言わざるを得ない。
いまはすっかり寒々しい響きになってしまったが、五輪は「アスリートファースト」である。
アスリートのための大会なのに、アスリートに五輪開催について意見を求めるのが"下衆の極み"なのだろうか?
まだ幼い高校野球の青年ならいざ知らず、いい大人が自分の行動によって与える社会的影響について無知でいていいはずがない。
そしてあなたたちアスリートには、海外のアスリートがそう示したように、大会主催者を動かすだけの影響力がある。
その責任と影響力を認識しておきながら「自分たちはただ競技に集中するだけです」という態度は許されて、
アスリートにその影響力を行使して欲しいと願うことは"下衆の極み"なのだろうか?
もうすぐ90歳になる私の祖母はいま東京に住んでいる。その東京にいま五輪という名の変異株フェスがやってこようとしている。
それをなんとかして阻止したい。その気持ちが私には痛いほどわかる。
ここまで読んでくれてありがとう。以下は読まないでもいいよ。
オリンピックのむかつきポイントは多すぎて何から言っていいかわからないが、
ひとつには「オリンピックを聖域にしていること」が挙げられると思う。
私たちはこれまでどれほど「オリンピックだから」と我慢を強いられてきたのだろうか。
「オリンピックだから」の一言で我々は楽しみを奪われ、ただ働きさせられ、汚職と利権に沈黙させられ、そしていま命までもが軽んじられている。
オリンピックを聖域にした結果がこれだ。
そして野口健の「最もやってはいけないのはアスリートにその刃を向けること」という発言も、その聖域の延長にあると私は考える。
はっきりいって、これがオリンピックでなかったら多くの選手が声を上げていたはずだ。
しかしオリンピックだから、オリンピックが特別でしかたのないことだから、アスリートは人命軽視にすら抗議しない。
それどころかオリンピック選手までもを聖域化して、それを批判する行為を"下衆の極み"だと断ずる。
アスリートがなぜそんな特権的地位にあるのか私は理解に苦しむ。
頑張っているから?頑張っていれば批判されない特権を得るのか?
ちがう。
アスリートは経験的に、頑張ってさえいれば自分が批判されにくいことを知っているのだ。
どうせ日本人は馬鹿だから始まってしまえば感動して自分たちを称賛するだろうとわかっているのだ。
だが、少なくとも私は、もしも五輪開催によって私の大切な人の命が失われたら、全てのアスリートを軽蔑しスポーツを強く憎むだろう。
上記の文章で最後に「全てのアスリートを軽蔑しスポーツを強く憎む」と書いたせいか、
スポーツマンvsスポーツ苦手マンといった構図のコメントがついてしまった。
私個人の話をするならスポーツは好きだ。素朴に体を動かすことを楽しいと感じる。
ではなく、私が言いたいのは「見る人に元気を与える」という名目の元で行われている産業スポーツ。
それらスポーツに関わる者は本当に批判してはならない聖域なのだろうか?ということだ。
個人がスポーツ好きだろうが嫌いだろうがそんなことはどうでもいい。
次の国歌これにしとく?
ン年前、会社員のころうつ病で休職したら精神病院に連れていかれてテスト(WAIS-Ⅲ)受けさせられた。結果自閉症と診断された。
少なくとも自分が高校時代(2007.4~2010.3)のころから親や周囲の人から自閉症だなんだと周囲から言われ続けてきた。
しかし自分が自閉症だとは到底思えない。エビデンスも知能検査だけである。
3時間程度の知能検査を受けただけで自閉症認定され劣った人間の枠に入れられることは、正直憤懣やるかたない。
自閉症向けの支援施設に何度か無理やり連行されたこともあるが、はっきり言って自尊心がへし折られて泣きたくなった。
自分は五体満足であり、成育歴をみても「自閉症だよね」というエピソードには乏しい。
自分はアスペだということは周りには隠している。そんなことを周囲に吹聴しても何の得にもならないからだ。
たまに診断書が必要となってもらってくるのだが、診断書に踊る「自閉症」の3文字を見るたびに陰鬱な気分になる。
多分誤診で本当は自閉症ではないとは思いたい…
一方SNS(特にTwitter)を覗くと「私は自閉症です」みたいに自称している人を大勢見かける。何が目的なのかはわからない。
自閉症というのは負の属性であり、少なくとも差異化ゲームの道具やブランディングツールではない。
自閉症はコミュニケーションの問題が生じやすい(と一般的には言われている)ことから、特にSNSのようなコミュニケーションツールでは忌避される属性のはずである。
自閉症の症状を個性だと歪曲する人も散見されるが、障害を個性というのはおためごかし以外の何物でもない。
自閉症で成功した人も中にはいる。そういうのは自閉症だから成功したのではなく、それ以外の特技があったから成功したのである。
「日本人の○○さんはすごい、だから日本人の自分もすごい」と何ら変わらない論法だ。
ほかにもいろいろあるけどまあこんな感じ
消しゴムを忘れた児童を3.5時間立たせた神戸市北区の25歳教員がニュースになっている。
はてブの中で「年寄りかと思ったら25かよ」などの意見があるが、個人的な感覚としては、「この時代がいよいよ来たな…」という感じだ。
これから変な教師は若い世代の中からもどんどん出てくる(昔にも居たは居たが、それより規格外のやつだ)。でもそれは教育のせいではない。政府と、それを容認してる“民意”のせいだ。なぜなら、この人1人で済む話ではなく、またこの数ヶ月や1年の「成果」でモンスターみたいな教師が出てくる訳では無いと肌感で思っているからだ。
前提として、この教師がやったことは体罰だし罪と罰のバランスが取れていないし、コメントを見てもうわぁ…と思う。でも、じゃあブコメにあるようにこの人1人を辞めさせたら解決かというとそういう問題じゃなく、点では無く面でというか、塊で発生してるのではないだろうかと前々から思っていたからだ。
まずは小学校の採用倍率。今年は過去最低の2.7倍。2.7倍だ。約5人中2人受かる。かなり低い。初任給は20万円程度で、手取りが17万くらい。これで定額働かせ放題だ。中年になれば世の中のサラリーマンの平均より高いというが、やることは1年目から変わらないし、若い世代のほど課外の活動はあり、親にナメられ削られる。生徒は20人〜40人(今はこんないないのかな?)を、1,2年で中身が総とっかえされながら気を配り親とも付き合っていく。小学校でも受験の相談とか最近あるだろうから、高学年だったら進路相談もありそうだ。バイトみたいな月収でこれをやりたい、と考えるだろうか。志がある人はもちろんこの条件でも受けるだろうが、そうではない学歴も能力も徳も備わった、いわゆる「親の皆さんがこれで良しと認める」ような人が、職業選択の候補の一つとして教員を選ぶのは、難しいかもしれない。(ちなみに大学で取る授業数は教員免許を取るには通常にプラスしてかなりの単位を取る必要がある。余分に授業を受けたり実技をしたり教育実習に行く余裕を捻出するのはかなり大変だ)
2つ目に実体験から。自分は29歳で教員免許もち。教育実習は高校に行った。偏差値70前後の公立高校。規模もそこそこあるために、自分の代で12人くらいの教育実習生を受け入れてた。そこそこ良い公立なので、実習生たちも有名大学ぞろい。そんな中で、偏りがあるのだが、同じ社会系教科で来てるのは6人いた。その中で教員志望は2人。しかし、超個人的な意見だが、「一般企業無理そうだな〜」というコミュ力が無く性格の微妙な2人が、よりによって教員志望だった。他の4人は自分も含め内定貰い済みで、他の人の内定先は官公庁、外資、大手製造などだった。
残る教員志望の2人は①某T大院、授業が早口独りよがりで下手。コールアンドレスポンスというか、人と絡もうとする意思が見受けられない人。コミュ力12/100くらいしかない。
②某K大、真面目キャラに見えるが負けず嫌いでプライドが高く、幼い。何か言うとすぐ上から目線で返してくる高圧的な人。自分が「かしこい」と思っているタイプ。日常会話でもマウント取ってくるので次第に周囲から話しかけられなくなっていた。授業も下手。
といった具合。数学や家庭科や古文など、他の教科で教員志望の子はちゃんとしてたので、教科的な性格もあるかもしれないし、2例だけで全体を語るのは全く的外れだし、2人も将来立派な教師になる可能性がないこともないが、その時点で「こんな先生いたら良いのにな」という好青年・明るくぐいぐいくる女子・授業がうまいやつは先生にはならなかった。何でか聞くと「内定もらったから・そっちのが安定してそうだし」と。この安定とは何か。教員は鬱パワハラ身体を壊す危険性があり、国歌を拒めば罰せられる可能性のある「安定した職業ではない」ものなのだ。(国歌は左右の話ではなく、思想的な強要を受けるという意味。思想に、理不尽な強要を受けるのヤバい)
マイナス面ばかり語ってしまったが、だから何かというと、教員の給料を上げ、勤務制度を整え、有料人材がもっともっと憧れて入る、競争率が高い職業になるように政府は教育にお金をかけて欲しい。大袈裟かもしれないが、国の未来は教育で作られる。尊敬する先生に会えることは子供に大きな影響を与えるだろうし、余裕が無ければ子供は育めない。親の皆さんは先生は値踏みするものではなく、自分が相対していない間子供を育てる相方だと思って協力しながら接してあげて欲しい。世間の皆さんは揚げ足を取る対象ではなく、頑張れ!いいぞ!疲れたら休め!と応援する気持ちで見てあげてほしい。そしてそんな相方に足る人材・応援したくなる人材が教員を志望してくれる世の中になるように、国の教育へのなりふりをしっかり監視してほしい。
言及を最後にしたが、小学校での児童に対する性的ないたずら・暴行事件は、皆さんが認識している以上にある。教師の質を上げることは本当に、人間を守ることにつながる。それは学歴だのではなく、志と人としての倫理観が高い、成熟した心を持つ学生を教師に向かわせる社会的な環境だ。
今も教育現場で頑張っているみなさんにはエールを送りたい。その中には自分が大学で一緒に大量の単位取得を頑張っていた友人たちもいる。教育は綺麗事だけ言えば、20年後の未来を作る崇高な職業であると思う。今日もおつかれさまです!