はてなキーワード: 南京大虐殺とは
左から右に移ったのは、慰安婦や、南京大虐殺事件の真偽あたりで疑惑が抱かれてのことだと思うよ。
そもそも、自由主義(フランス革命の議席配分では左で左翼になる)に移って、さらなる弱者、例えば外国だとか、差別されている人間を求めて左の中心は移っていった。
昔は韓国や中国は非常に弱く、加えて、その人達に可哀想なことをした。謝って賠償をしないとならないというのが左だった。
だが、どうも慰安婦や、南京大虐殺あたりが嘘が一杯ではないか?という疑念で右の方向に移っていった。
まあ、といっても、優位なスタンスになれば、アホが集まる。で、森友みたいな過激右翼幼稚園が生まれ、それにこぞって政治家が賛同するみたいになった。
更に、それと何故か新「自由主義」が合流している。新自由主義は、上の奴らをとことん肥えさせれば日本が強くなるという立場。金持ちにとっては自由だがね。
新「自由主義」がリベラル=自由主義が良くないと否定する謎な状態。
そういういみで、過激右翼幼稚園の没落とともに過激右翼幼稚園のバックの、日本会議の人権否定、道徳や、上層崇拝みたいなのはかなり力を落とした。
だんだん右左なんて区分が馬鹿らしくなって、今大事なことに意識を払うようになっていくのがいいと思うね。特に、景気。景気!景気!!!
20年ぐらい前はむしろ、外国に謝罪を、第9条を全面的に守って自衛隊NO!みたいなのが思考停止して強かった。
慰安婦や、南京大虐殺事件の真偽あたりで疑惑が抱かれ、、次第にそれの化けの皮が剥がれていった。
で、逆に外国オラオラ、中韓は馬鹿にしてもいい存在みたいなのが思考停止して強くなってきた。
森友であまりにドン引きものの幼稚園を、むしろ政治家が無茶苦茶推していたと言うので一気に皮が剥がれた。
どっちのスタンスでも、社会がこういうスタンスがいいんだ!という曖昧なレッテルを掲げて優位になるとバカが寄ってくる。
バカが大量に集っても、議論の能力がないから、群れてのネットイナゴ的に、罵倒と異論を許さないようになっていく。
英語分からんお前らに超簡単に内容を言うと、「日本人は中国に謝ってない」って意見が大半を占めている。中国系ナントカ人の投稿も多いけど、アメリカ人とかシンガポール人とかも結構いる。
日本を擁護するようなコメントを残している人がほとんど見受けられない。日本人が英語苦手すぎてコメントできないだけかも知れないけど、擁護する他国の人も全然いない。「日本は悪いことしたよね。早く謝れ」って意見がほとんど。
みたいな感じ。詳しくは上のURLを読んでくれ。
お前らそれでいいの?俺は日本人でいることが恥ずかしくなったけど。Quoraって実名制のサイトだし、名無しでないと意見も言えないお前らじゃ反論できないかな?
なんというか情けないというか、気持ち悪いクソ親父だな。
#極左暴力集団 でもある #社民党 の #佐藤あずさ #八王子市議 は
なぜか「俺達がすごい」=差別とレイシムズとそして愛国と謎の結び付け。
さらに
社民党は誰の事も【排除】しない社会と言いつつ、
個別垢はブロックしている矛盾。
整合性が全く無いから国政では相手にされないのだろう pic.twitter.com/dyWyIdIsTx— 山西四郎 (@kiteruwkiteruw) 2017年10月29日
その論調で中国(南京大虐殺、支那事変)と韓国(慰安婦問題、日韓併合、秀吉の朝鮮出兵)にも言い返してやってもらえますか?— ZF ⚡ (@ZF_phantom) 2017年10月28日
まずタイトルを見て多くの護憲派、いわゆる憲法改正絶対反対、憲法9条は日本の宝と骨の髄まで考えておられる方は
なんだこのレッテル貼りはだとか、これが差別主義者のネトウヨの典型的な書き込みだと考えるだろう
2ちゃんねるやニコニコ動画といったアンダーサイトでは気に食わない相手や反論へアスペという
この書き込みもそのガラクタの一片でしか無いと思い込むだろう が、
護憲派がアスペ 正式名称アスペルガー症候群だというれっきとした2つの根拠がある
まず、憲法9条という物は簡単にいえば、武器の所持や軍の所持、国の武力行使を先制攻撃されるまで”一切の禁止”をしている条例である
しかし、自衛隊を見てほしい。どこをどう見ても上から下から見ても武器を所持している
勿論戦車だって持ってる。これを軍隊と言わずして何と言う?どうして憲法9条があるのに軍隊があるのだ?
それは朝鮮戦争が勃発し、最高司令官マッカーサーが日本に自衛が必要だと判断して軍の限定的所持を認めたからだ。
このままでは日本は共産圏に飲み込まれ、アメリカは極東に進出できない・・・!
日本だけが問題のある国だと思っていたので軍備を持たせない憲法を施行した、
これでアメリカにとって平和が訪れたと思っていたのだが、戦争が始まってしまったので自衛組織を創設させた
なのでもうこの時点で、憲法9条は"死亡した" 今更解釈がどうだとか時既にお寿司 なんちゃて。
では何故そんな死体 9条を変えても変えなくても何も変わらないのに護憲派は拘るのか?
アスペルガーの人は文字や文脈を文字通りに解釈してしまう傾向がある。というかする。
失礼します という言葉を聞けばなんでこの人は謝罪しているんだ・・・?と思ったり平気でする
そんなのが 武器の所持や軍の所持、国の武力行使を先制攻撃されるまで”一切の禁止”をする憲法9条が消えてしまう・・・
と思った時、自衛隊が存在している時点で無意味な憲法を盲信してしまうのは筋が通っているではないか。
そもそも法律通りに物事が進むなら誰かが誰かに死ねと言ったら侮辱罪、ツイッターのアニメアイコンは著作権法違反だ。
でも誰も罪の意識はない。文字通り解釈したら法律違反になるんだけどね(笑い) 刑務所パンパン!
世の中法律のように文字通りにはいかないのである、国にとって都合の悪いジャーナリストがちょっとスピード違反をしたり、
誰でもやるような細かい違反を粗探しして別件逮捕するし、大麻ドッキリの男も"物議をかもしたので"スピード逮捕された。
彼ら9条改正絶対反対派は決まって "日本は悪い事をした" ”ネトウヨは低学歴...”
確かに、60年代の学生デモでは東大紛争など、高学歴の若者が左翼思想に溺れていた印象だ。
意外に思われる方も多いかもしれないが、発達障害は知的障害やLDと違い、勉強はできる人間が残念ながら存在するのだ
テレビでたまに見る頭が逝ってる学者は大抵アスペだと思って良い。
しかし先でも述べたように、文字通り解釈したりする上、一度学んだ物は絶対に正しいと考える癖がある。
俗に言う、マジメ系である。
それで別に数学や理科では困らない。寧ろ有利だ。問題は "歴史の授業"である
そもそも歴史と言うものは数学などとは違い、人の思惑や解釈、都合の良いように変えられるものなのだ。
アメリカは戦勝国、日本は敗戦国 敗戦国は戦勝国の傀儡化する。これは必然である。
"原爆を落として無実の人々を何万人も殺した。" "民間人を火炎放射で生きたまま殺した"
なーんて歴史を知って良い気分になるか?無論違う。
そこで、今でも論争が続く南京大虐殺や、日本帝国主義が如何に悪の帝国であったという事をあったなかった関係なく
戦勝国にとって”絶対”にあったことにしないといけないのだ。正に "歴史は勝者の小説" なのである。
そんな人によって解釈が違ったり、こうだという事にしたい思惑の歴史の授業を、
"文脈を文字通りに解釈" ”間違いを許さない”アスペルガーの人が学んだらどういう思想を持つか。
後は言わなくても解りますよね?
これで大半の護憲派がアスペルガーという障害者であることが理解できたと思います。
良識のある皆さんは気の狂った9条改正反対派を少しでも減らすため、選挙に行き、安倍さんを断固支持しましょう!
KTBR!
2017/8/28日
公の場でヒトラーを称賛し、ナチスのホロコーストと南京大虐殺を否定しまた、"ナチスの科学"を崇拝したことで耳目を集めた人物の一人である高須克也医師に対し、サイモン・ウィーゼンタール・センターが追放要請を呼びかけたことについて、米国美容外科学会(AACS)が回答しました。
シカゴに本拠を置く学会の上級職員は、ウィーゼンタール・センターの副センター長・グローバルソーシャル・アクション担当ディレクタであるダビ・アウラハム・クーパーに対して、高須 ( 日本で影響力のある知名度の高いメディアセレブ ) に対する批判が殺到していること、そして本件の調査が数週間以内に完了するであろうということを認めました。
学会への書簡の中で、ラビ・クーパーは以下のように書いています。
すべての寛大さの規範を捨て去れ、反ユダヤの差別主義者、露骨なナチス愛好者を明らかにせよ。
こんにち我々の世界で最も唾棄すべきはナチスイデオロギーによる抱擁である。
さらなる情報についてはセンターの広報部 310-553-9036 までお問い合わせください。フェイスブックでセンターに参加しよう www.facebook.com/simonwiesenthalcenter あるいは @simonwiesenthalをフォローしよう。最新情報のアップデートがツイッターのフィードに直接届きます。
サイモン・ウィーゼンタール・センターは40万以上のメンバーファミリーを擁する米国の最も大きな国際的なユダヤ人人権団体の一つです。UN、ユネスコ、OSCE、欧州評議会、ラテンアメリカ議会(パラティーノ)などを含む国際機関のNGOです。
http://www.wiesenthal.com/site/apps/nlnet/content.aspx?c=lsKWLbPJLnF&b=8776547&ct=15003641¬oc=1
by napsucks
若い人は知らんのかもだがニセ科学批判の母体である「と学会」がもともとネトウヨの巣窟なのよ
http://d.hatena.ne.jp/toroop/20090601/p3
https://togetter.com/li/248884
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20131123/p1
南京大虐殺完全肯定派っていうのはと学会の中でも会長くらいで少数派
http://www.tobunken.com/diary/diary20031116000000.html
あと菊池誠の放射線医学関係のブレーンになってるbuveryも有名なネトウヨ。
http://twilog.org/buvery/search?word=%E5%8D%97%E4%BA%AC&ao=a
反米っつーか米と対等にって感じだけど。
なかったとか安倍がプッシュしてるっけ?
ただ彼等に対して「刺激しないように」は無意味。
無茶いうなw
ただのビジネスでもアホのいうことですよ
小池や石破に期待するほうが100倍ましだ
>政権交代前に「自民の負債を清算すればすごい果実が収穫できる」と言ってたのに言ってた成果が無かったんだ全部
誰も信じてなかったでしょ。
歴史修正すんなw
大勢信じてたよ
でもやるしかないでしょ。
必要がない
いや俺は増税には反対だけど、でもことごとく自民と反対の政策を取られるのも困るよ。
安倍が日米離間をしている?
詳しく
反米っつーか米と対等にって感じだけど。
そこに異論はない。ただ「周辺諸国に付け込まれる」はだいぶ主観で変わるものだという話し。
たとえば「南京大虐殺はなかった」と言って中韓を刺激するのとかね。
出来てないこと認めて成長する姿勢がないように見えたんだよなあ
今もそれが見られない
根本的な反省がないので、むしろ時間をあけるとまた同じ失敗を繰り返すと思っている。
まだ前回の経験が残っているうちにやらせてみるしかないでしょ。
誰も信じてなかったでしょ。
そこは「ダメでもともと」案件なので個人的にはそんなにショックはない。
でもやるしかないでしょ。
http://anond.hatelabo.jp/20170604204919
1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇は後鳥羽天皇を即位させ、寿永二年の宣旨で頼朝の東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝の上京を要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝は東国の支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経が上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。
義仲が京都で乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。
兵糧不足のまま進撃して首都を占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件(南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?
また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います。
(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝が西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ、自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)
「頼朝は挙兵以来、北条氏や三浦氏などの東国の武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察を担当する侍所を設けて、有力御家人の和田義盛を別当(長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。
頼朝は後白河法皇の要請を受け、範頼と義経に平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏を滅亡させた。後白河法皇は頼朝の権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿・九条兼実(藤原兼実)らを朝廷の重要政務を担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族を追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝は義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝は東国や西国の多数の武士を御家人として組織しながら、主に東国の支配を確立していった。
1190(建久元)年、頼朝は挙兵後はじめて京都に入り、右近衛大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」
当然ながら『詳説日本史』にも、侍所、政所、問注所、地頭というキーワードは出てきます。しかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています。
それに比べて、この教科書は歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから、時系列に即してこれらの言葉の意味を理解することができるはずです。
結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。
鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます。名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府の政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。
あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。
一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護・地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職が地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?
例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています。守護は「おもに東国出身の有力御家人」から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内の御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人を支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務は年貢の徴収・納入と土地の官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公の関係となって封建制度の基礎となりました。
ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されています。しかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。
私は最初にこれを読んだとき、わけが分からなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許で守護・地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。
1960年に石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたものが守護・地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護の前身となりました。
三省堂の教科書は、次項でそのことが説明されています。頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園・国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢・公事の徴収、治安維持に当たらせた」としています。
このように、三省堂の教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。
実教出版もこの新説を採用しています。こちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります。東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護の前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います。
それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護・地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用な矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。
なお、山川の参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語が掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭の前身だったと思わせるような記述です。
地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝の要請で後白河法皇は諸国の公領・荘園に地頭を設置することを認めた。当初は1国単位に荘園公領を支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家・寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務は土地管理、年貢・兵糧米の徴収、治安維持など。
ですが三省堂・実教出版・東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています。
「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語を独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。
(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭が掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。
予防線を張っておくと、私は高校で日本史Bを履修しなかったし、大学も理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。
はじめに書いたとおり、最新版の教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます。
再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)
(追記2
複数の教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます。
『詳説日本史』では、前九年合戦・後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから、教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています。
ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)
つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。
『詳説日本史』によると、戦国大名の性格は次のように説明されています。戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人や地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準で統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代を下り、別のページで豊臣秀吉の太閤検地を説明しています。太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分の田畑の所有権を法的に認められることになった」わけです。
このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版『日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ、大名の統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しか分からないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。
この視点を最もわかりやすく記述しているのが、三省堂『日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉は太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地の一元的支配の確立、荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。
ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制の体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)
村上春樹は新刊で40万人の南京大虐殺があったと書き、それを非難されると「歴史を修正しようとする者たちとは戦っていかねばならない」と反論した。
村上春樹は南京大虐殺についてどの位研究したのだろうか、少しでも研究・調査すれば“あった”と言うには躊躇するような多くの矛盾が出てくるはずである。
彼の南京大虐殺の知識というのは我々一般人と同じで、ただ聞きかじった知識であろう。その聞きかじった知識で全世界に向かって南京では40万人が虐殺されたと喧伝したのだ、なんという無責任な奴であろうか。七十に近い男が言論には責任が伴うということが未だ分かっていない。
誰か村上春樹に対して言ってやればいいのだ「貴方は本当に南京大虐殺を信じて書いたのか?もし嘘だった場合、大変なことになるぞ、どう責任を取るつもりなのだ、命を賭けても40万人大虐殺はあったと言えるのか」と。
若いころ村上春樹の本を読もうとしたが「ノルウェイの森」というタイトルを見て、薄っぺらで欺瞞的なものを感じて村上春樹を読むことをやめたが、あの時の直感は正しかったようだ。
私たち人間は無意識的に“自分の考えていることは正しい”と信じ込む癖がある。それを改めようとしたのが、ソクラテスや孔子、釈迦が言及している“無知の知”であろう。それは、つまり知識人たちはなんでも分かっていると考えているが、本当は何も分かっていない、また神の知恵に比べて我々人間の知恵など取るに足らないものだから、我々は常に謙虚であるべきだというものであろう。
我々はソクラテスたちの時代から何も進歩していない、何千年たっても人類は“無知の知”を自分たちのものにできていない。現在においても我々は“自分の考えた事は正しい”と考え安易にネットなどに書き込んでいる。
私たちがもう少し謙虚で自分たちは無知であると知る為にはどうすれば良いのか。 自分の意見・考えに対して“本当はどの位自信を持っているのか”がピタリと分かる方法がある。
それは自分の全財産の内どのくらいなら賭けられるだろうかと考えることである。
例えば財産が一千万円あるとして、その内いくら位なら実際賭けられるだろうかと考える。数万円なら賭けられる、それでは数十万はどうだ、数百万では・・・と考えていけば、いくら位までなら賭けられるという金額が出てくる。その出てきた金額が自分の考えに対する自信の程度を示している。自分の考えが絶対に正しいと考えていれば全財産どころか命だって賭けられるであろう。しかし数十万円しか賭けられないと思うならば、それはほとんど信じていないということになる。信じてもいない事をいかにも正しいかのように発言するのは詐欺師である。
責任感をあまり感じないネット上で発言するにしても、責任が伴う事柄ならば、せめて全財産の半分ぐらいは賭けられるという自信ができて初めて発言すべきであろう。このように“実際いくら位なら賭けられるだろうか”と自問自答をしてみれば、多くの場合は“私はまだ本当には信じていないのだ、無責任に発言すべきでない”と自分の無知を理解し謙虚になることができる。
皆さんも「自分の意見は正しい」と思った時には“自分は全財産の内どの位本気で賭けられるだろうか”と自問自答してみてください、そうすれば本心ではどのくらい自分の考えに自信を持っているのかがピタリと分かりますから。