はてなキーワード: 保守主義者とは
エロ本が標的にされるのは、やはり文化的・宗教的タブーだと思う。
リベラルがエロに対して表現規制やゾーニングを求めるとき、「自分たちは保守主義者とは違う!」と主張しているが、それは本人にも自覚のない嘘だと思う。
リベラルの思想的背景は、キリスト教や西洋文明であり、きわめて宗教色が濃い。
例えるならば、欧米人が"客観的に考えて"、アジアの風習を野蛮だと非難するようなものである。
どれだけ客観的に考えようとも、それは欧米人ゆえの偏見を脱することができない。
ひどいものになると、欧米人はまったく自覚なくアジアを見下している。
必要以上にアジアを恐れているから、その野蛮さが大きく見えてしまう。
そしてその場合、彼らは欧米が野蛮さを含んでいることに無頓着のまま、欧米こそが文明だと自画自賛して、アジアの野蛮さばかりを責め立てるようになる。
…いや、これは「キモオタ趣味」がリベラル的だ、とのたまうわけではないです。
まあ所謂「キモオタ趣味」って「保守的」「ネトウヨ」とレッテル貼られやすいじゃあないですか。
それ自体は別段否定し難いとこはあるとは思います。(全てがそうだと言う気は無いけれど)
例えば美少女キャラの消費の仕方が、処女信仰くさいとか女らしさの押し付けだ、とか、まあそこら辺ですね。
では何故リベラル社会でそういうウヨくさいキモオタが蔓延ると宣うのか?
さて、ここで、キーワードとなるのは「「家父長オヤジ」であります。
「頑固で多様性を認めない」「モラハラセクシスト」「男尊女卑ミソジニスト」…まあそういう存在ですね。
リベラル社会は全て「家父長オヤジ」という保守的な存在が衰退することで実現していきましたよね。ね?
…さて、旧来の時代において「キモオタ」を抑圧していた存在とは、何でしょうか…?
(いや昔はオタクなんて言葉は無かったから、「いい年して幼稚な趣味に耽溺する大人全般」か)
もうお分かりですね(笑)
「家父長オヤジ」です。
「いい年してこいてキモい趣味に耽ってんじゃねぇ大人になれアホンダラぁ!」
とでも問答無用ピシャリと言いつけてやれば、それで済んだと思うのですよ。
晴れてキモオタ卒業Graduationです。
しかし「家父長オヤジ」が衰退したリベラル社会ではそうは行きません。
「キモオタ」を抑圧する「家父長オヤジ」がいなくなったのですから、「キモオタ」は増大します。
リベラリストやフェミニストの方々がその役割を担うのはかなり難しいです。
何せ「家父長オヤジ」とはその「モラハラ」性を以て「キモオタ」を楽勝攻略できたのですが、
リベラリストやフェミニストの方々がその方法は採れません。何せ「モラハラ」性を持てないのだから、
『はああああ?お前らの言うことなんで聞かなあかんねえええんwwwおしっこじょばばばば』
で終わりで聞く耳持ちません。「キモオタ」の増大を抑えられるわけないのです。
(尚ここで「キモオタはおかんに叱られたら言うこと聞くのでは?」と思う方もいるかも知れませんが
所詮そういうおかんは家に居られない「家父長オヤジ」の権威を中継しているだけに過ぎません)
いや、別にね、「時代を大昔に戻して、家父長の権威を復活させよう!」とか極端な保守主義者みたいなことを言う気はありません。
っつーか私はリベラル社会を望んでいるのでご安心くださいパンツも穿いてます。
ただ私が言いたいのはね、
リベラリストとかの方々が主張する
そこまでは、まあパーペキで無いにしても、合ってるとは思うんですよ。
ただ、その次に口に出てくるのが
私達が生きているこの「キモオタ」が増大している現代こそが、まさに「リベラル社会」なんですよ。
リベラル社会になればなるほどキモオタは増えていく、それはどうしようもないんですよ。
どうしようもないもんはどうしようもないんですよ。
もう繰り返すけど、「キモオタ」を抑圧する「家父長オヤジ」が衰退したのだから。
「リベラル社会」でありつつ「キモオタ」を抑圧したいと言うなら、
いや、「男らしさ」「女らしさ」なんてくだらない!解放されよう!
…と主張してる方々が、一体どの程度のレベルでくだらない!と叫んでるのかは私には分からんが。
一体どの程度のレベルで「男らしさ」「女らしさ」の脱却を望んでいるのだろうか?
①「男らしさ女らしさなんてくだらない!ある程度のしょうがない男らしさ女らしさってヤツは存在するから認識しておいた方がいいね!」
②「男らしさ女らしさはパーペキにダメ!なるたけ排除していくべき!」
のどっちなのか?或いはどっち寄りなのか?
①ならまあ個人的には得心が行く。
要するに「男らしさ女らしさにこだわるなんてくだらないが、かと言って男らしさ女らしさが重要な場面はある」
…というバランス感覚良くした方がいいって話。
だが②ならええっって思っちゃうし、ついていけない。
いやだって、どんな綺麗事言っても「社会の荒波」に対処するために「男らしさ」「女らしさ」が重要な局面てあるじゃん。
そんで「男らしさ」「女らしさ」を発揮できずに落ちこぼれしまっても、綺麗事言う人らが救済の手を差し伸べてくれるわけじゃないんだし。
男らしさを発揮できなくてキモくて金のないおっさんになっても、自己責任と自助努力で這い上がらなきゃいけないんだし。
まさか俺を保守主義者とかセクシストとかレッテル貼ったりしないよね?
あくまでリベラルな価値観の上で”ある程度”は男らしさ女らしさは重要って言いたいの。
人生の局面において「男らしさ」「女らしさ」がくだらない、と思ったときはかなぐり捨てればいい。
だがいつどんないかなる時でも「男らしさ」「女らしさ」は必要ない、なんて思ってたら必要な局面で落ちこぼれる。
そして、繰り返すが、落ちこぼれても、綺麗事言う人らが救済の手を差し伸べてくれるわけじゃない。
結局今求められる現代的しぐさってのは
『男らしさ女らしさにこだわるのなんてくだらない
だが男らしさ女らしさなんて全く必要ない、なんて考えてるとバカを見る』
…じゃないのか?
ほとんどの人間は「男らしさ」「女らしさ」というフォーマットに沿わないと恋愛ができないんだと思う。
大昔の時代は「男らしさ」「女らしさ」の価値観が強固だったんじゃないですか。
「相手は男だから強さ逞しさを求めていい」「相手は女だからお淑やかさを求めていい」…的に
相手に「男女像」というもの求めてることが、まあ、許されていたんじゃないですか。(そりゃパーペキに許されたとは言わないけどさ)
「男だから~」「女だから~」と価値観を押し付けることができた。
しかし現代はどうだ?ジェンダーフリー、男女平等、反セクシズム。
…基本的に相手に「男らしさ」「女らしさ」を求めるのはアウトな価値観の時代です。政治的に正しくないです。ポリでコレじゃないです。
「相手が男だからって強さ逞しさを求めてはいけない」「相手が女だからってお淑やかさを求めてはいけない」
…これを破る者は基本的にモラハラセクシズムハラスメンターです。
要するに『相手に「男らしさ」「女らしさ」とかカンケイなく一個人として見るべし』…というのが現代における恋愛の規範と言えましょう。
が、これこそがまさに、恋愛の難易度を爆上げさせてしまった要因なのではないか、と思う。
上記の通り大昔は「男らしさ」「女らしさ」というごく単純なコードにより、ある程度は相手のことが『分かりやすかった』(そりゃパーペキに単純化されてたとは言わないけどさ)
だが「らしさ」というものが忌避される現代では、「相手を読み解くコード」が非常に複雑難解と化しているのだ。
「相手が○○だからって××と思ってはいけない」「△△と決めつけてはいけない」「■■と扱うな」
あぁ^~コードが分かりづら杉るんじゃぁ^~…トライアンエラートライアンエラーはトライアンエラーブライアンエラー
…って感じが昨今のありがちな恋愛離れ像だと思うのですよ(←すげえ単純化してんな)
結局ね、逆説的に言って大昔は「男らしさ」「女らしさ」というものの保証があったからこそ、
万人にとって恋愛はある程度単純化されていて、参入障壁が低い文化であった…と思うんですよね。
いや、上記を読んでムカムカする人がいるのは分かりますよ。おまんら「男らしさ」「女らしさ」に頼らんと恋愛もできんのかいシバくぞワレ!?と
でもね、でもね…そういう「男らしさ」「女らしさ」に頼らなくても恋愛できるあなた方は「恋愛強者」なんですよ。
でもその「恋愛強者」は、正直すっげぇ少ないと思うのですよ。残念ながら。
人間というものはほとんどが「恋愛弱者」で、「男らしさ」「女らしさ」に頼らないと恋愛できない。
しかし「男らしさ」「女らしさ」に頼ってはいけないとなったら、「恋愛離れ」に至るしかないのですよ。
悲しいけどこれ現代ナノヨネ(チュドーン スレッガーサーン!!!
いやいや、誤解せんでほしいんスけど、このエントリの主張は
「大昔の男女差別社会に戻るべきなんじゃ~~~!」とかそんな極端な保守主義者みたいなことを言いたいわけではないデスよ。
あと、「なんでそんな恋愛離れを嘆くのだ。恋愛しなくても別にいいじゃん」と意見する人もいるだろうが、それはとりあえず後のお話。
ただ、言いたいのは、「男女平等を推し進めたから恋愛する人が減ったんじゃね?」
「男女平等な恋愛ができるのは少数の恋愛強者のみ。大多数の恋愛弱者は「男らしさ」「女らしさ」に縋らざるを得ない」というだけの話。
「男女平等を推し進めよう!その上でみんな恋愛しまくろう!」なんて無理無理カタツムリ。
リベラルとかポリコレの方々が綺麗事言ってもさぁ、「処世術」の範囲内として「男らしさ」「女らしさ」が重要な所はあるよなぁ?
実際、仕事や恋愛の場面で「男らしさ」を発揮できなかった男は、キモくて金のないおっさんとして落ちぶれてるじゃん。
そんで、綺麗事言う人らが、別段落ちぶれた人らに救済の手を差し伸べてくれるわけじゃあない。
いや別に、絶対に男は男らしく女は女らしくしろ!みたいに、ガッチリガチガチの保守主義者みたいなことを言う気はない。
セクシャルマイノリティな人らの存在を否定する気もない。
ただ「柔軟に考えた方がいい」と言いたいの。
「男らしさ女らしさにこだわるのはくだらない。だがその一方で、男らしさ女らしさは全く無価値と思ってたら馬鹿を見る」…と。
人生で「男らしさ女らしさ」がくだらないと思える場面が来たら捨てればいい。
だが、杓子定規にピュアーに行住坐臥いついかなる時でも「男らしさ女らしさなんてくだらねえ!」と思ってたら馬鹿を見るんじゃね、と。
そして、繰り返すけど、綺麗事を抜かす連中の言うことを信じた末に、自らが何らかの不利益を被ったとしても、別にそいつらが救済の手を差し伸べてくれるわけじゃない。
「男女平等」とか「ジェンダーフリー」とか「性差をなくす」とか「多様性」とか…ここらへん全部「恋愛」と相性が悪いんじゃないかと。
もうちょい具体的に言うと「相手が男/女性だからって、男/女らしさを求めるのはアウト」みたいな、アレ。
何で相性が悪いかというと、大昔は「男らしさ」「女らしさ」のフォーマットが強かったんじゃないですか。
だから異性と言う相手に対して「相手は男/女なんだから、こういうヤツだと判断していいんだな」と思うことができた。
要するに「相手を読み解くまでのコード」ってヤツが、比較的少なかった。
…だが現代はどうだ?「相手が男だからって強く逞しいと思ってはいけない」「相手が女だからってお淑やかと思ってはいけない」
多すぎるんですよ、「相手を読み解くまでのコード」ってヤツが。
ってなって結局は「恋愛」ってヤツが「面倒」なものと化してしまったのではないか、と思うのですよ。
要するに大昔は「男らしさ、女らしさ」という保証があるからこそ、万人が「恋愛」というゲームへの参入障壁が低かった、のではないかと思うのですよ。
…いやいや、分かりますよ。
上記で言ってることは「無能の戯言」と断じられても致し方ないってことは。
「男らしさとか女らしさとかこだわらず行うのがこれからの恋愛だ!」とか言うんでしょう?ねえそうなんでしょ?
でもねえ、恐らく結局は「男女平等な恋愛」というものが「恋愛強者」しか不可能だと思うのですよ。
「だったら己を磨いて男女平等な恋愛ができる人間にになれ!」と仰るんですか?
でもねぇ…それってマチズモだなぁ、と思っちゃいけないのでしょうか?(あんま知られてないようだが、恋愛は体育会系マチズモとの親和性が非常に高い)
ココらへんになると藁人形論法入りますけど「そこまで努力したくねえよ!つうかおめえら男女平等とかポリコレ言う割に
恋愛弱者にひたすら努力を強いるてめえらの態度は非ポリコレじゃねぇのかぁ!?」…って気分になるのですよ…怠惰とか言われようが。
そんで、ここで「恋愛強者」を「男女平等な恋愛が可能な者」と設定するなら、
それ以外の「恋愛弱者」は以下のいずれかのメソッドを採るしかないのですよ。
②そもそも、恋愛しない
…で、①はポリコレだとかでアウトと指摘されやすいから、②に流れてる
これが昨今の「恋愛離れ」の正体だと思うのですよ。
いやいやいや、誤解せんでいただきたいのですが、
別に私は大昔を賛美するとか「男女平等はクソ!」とか保守主義者じみたことを言う気は無いですよ。
あと「別に恋愛する人が減ろうがいいじゃんッ」とか「世の中そこまで男女平等とか気を遣ってる人おらんよ!」とか仰るかも知れんが
そういうのは後の話で…
ただ言いたいのは「男女平等な恋愛というのは万人が行うの不可能なウルトラ高度技術」
「男女平等を推し進めよう!その上でみんな恋愛しまくろう!」な~んて無理くりな贅沢いいとこ取りなんじゃないの?ってお話。
A『男女平等を推し進めよう!そのせいで恋愛する人が減っても仕方ない!』か
なるほどね。
まあしかし思うんだけど、
大昔の昭和以前?の皆婚社会って「嘘の家庭」が大部分を占めていたと思うのは俺だけなんだろうかね。
「嘘の家庭は邪悪で存在すべきでない!真の家庭のみが健全で存在するべき!」としちゃったから、
世の中の結婚率がどんどん下がっちゃうのは致し方ないって言うか。
あっ別に大昔を礼賛するとか保守主義者じゃないし昔に戻れって言うわけじゃないよ?
「何結婚率とかマクロなこと持ち出してるんだよ!お前が真の家庭築く能力なけりゃ結婚できないってミクロの話だよ!」ってんならそれでいいけど。
ただ言いたいのは、「嘘の家庭は存在してはならない」って言うなら、世のほとんどの「家」はそもそも成立しないんじゃね?って話
一部のラディカルフェミニストがピルや緊急避妊薬を蛇蝎のように嫌う背景には、「生殖の為に、女は有害な行為を受容させられる」「その過程においてコンドーム装着を受け入れさせることは、男への、女による影なる支配力の行使である」という、「男」へのマウント意識があるのではないかと思う。彼らにとって、生殖は選択不可能な苦行であり、反面、男への影響力を駆使するための手段でもある。そこに、産むことも性を謳歌することも万人に与えられた権利である、という意識はない。
一方、リプロダクティブ・ヘルス・ライツの整備に反対する保守層は、女性が人生に対する主体的な選択を行うことを、「ふしだらである」として忌み嫌うかたちで、その権利を奪おうとする。しかし、性教育の不徹底と、不完全な避妊方法である"コンドーム教"の盲信は、避妊失敗の社会的責任を、男性のみに背負わせる。女を妊娠させたとき、男は責任を取らねばならない。育児・出産によって労働の機会を失う女たちを「養う」ことで、男たちは権力を得る。生殖を巡るパワーゲームを維持するという構図において、彼らの利害は一致する。結果として、リプロダクティブ・ヘルツ・ライツの話題そのものを忌避する社会が完成する。
リプロダクティブ・ヘルツ・ライツを巡る議論においてのみ、本来なら敵同士であるはずの彼らの利害が一致する。この構図は、彼らのプロレスじみた対立が、本質においては「同じ権力構造の内部でマウントを取り合っているに過ぎない」のだ、という事実の証明に他ならない。男性のありとあらゆる性の営みを監視し・支配するラディカル・フェミニズムの主張は、結果として、敗戦と高度成長によって闇に追い遣られた「影なる支配者」としての女の復権に等しい。そして、一部のミソジニーをルーツとする保守主義者は、女性の社会進出を嫌う。育児出産が女の手に占有された世界において、女が労働によって金銭的自由を得てしまえば、男たちはパワーゲームに勝てない。男の欲望を受け入れ癒し、子孫を増やし育む機械である女と、女によって欲望を充足され、労働し、財を得て、社会を富ませる機械である男。どちらが権力を握るべきか。彼らの諍いは、どこまで行っても、同じ地点に収束する。
日本における家制度は、男尊女卑の見掛けを取りながら、男を肯定し、てのひらで転がし、そして扱き使う「女たち」の、影なる支配によって成り立ってきた。そうして労働力と構成員を吸い上げてきたのが、それぞれの時代における「社会」だ。人は社会に帰属し、「世間」の強制力は空気のように蔓延する。保守的な男女観に固執する限り、彼らは、どこまで行っても、彼ら自身を苦しめる抑圧から逃れ得ない。その事実を、このところネットで頻発する「アンチ・フェミニズム」の趨勢は象徴しているように思う。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツへの問題提起は、女が生殖への主体性を手にするための運動だ。しかし、同時に、男が「自らの意思で」生殖、もっと言えば異性との利害を伴った関係性に踏み込んでゆくこ権利を得る活動でもある。二者間の合意によってパートナーシップを構築するとき、男は「働かなければ価値のない生き物」ではない。そして、純粋な利害関係に基づくパートナーシップが、男性による労働の社会的価値を損なうことはない。出産・育児と労働を天秤に掛けるとき、労働を選択する女性ばかりではないからだ。
一般に、「金のない男」が若い女と恋愛できないのは何故か。女が打算的だから、男に養われ、楽をしようと意図するから、ではない。現在の日本社会においては、生殖そのもののコストが女性側に一任され、経済的負担は男性の側に強く圧し掛かる。金のない男はその負担を負うことができない、と判断される。それは合理的帰結に過ぎない。
単独で家族を養うに十分な社会的資本を持たない彼らが、現代社会において異性と関係を結ぶためには、ハンデを飛び越えるに足る利害調整力と、自分の社会的な立場を見極める市場観察力、利害の一致する相手を見出し、交渉する主体性と行動力が必要となる。しかし、アンチフェミニズムを標榜する視点において弱者男性の問題が論じられるとき、男女関係における責任問題の現実的側面に目が向けられることはほとんどない。
彼らの世界に、「主体的に選択し、行動し、異性関係を構築する」という選択肢は存在しない。その選択肢を得た個人は、現代社会においてもはや弱者ではないからだ。保守的な男性の世界観においては、「男性としての名誉」も、トロフィーとしての女も、世間に従い、勤労し、地位を獲得することによって、主体なき「社会」によって宛がわれる。しかし、社会全体の資本が不足し、そして、かつて公共財であった女が人権を獲得してしまったこの時代、トロフィーを得るためには、生まれながらのステイタスと弛まぬ努力、そして大いなる運が必要となる。加えて、トロフィーを獲得しても、幸福になれるとは限らない。双方が主体的選択と責任意識を放棄して「規範」によってマウントを取り合う関係性、外的抑圧によって維持された家族関係において、性的抑圧は再生産され続ける。
セックスが「男女の問題」ではなく、「主体的な二者間の問題」であるとき、生殖に関与する両者は、二人の協力者である。
男性側のアクションとしての、コンドームに代表される避妊手段、女性側のアクションとしてのピルやIUDの使用、リスクヘッジとしての緊急避妊薬の存在、性病検査の徹底。生殖に参加する関係性の帰着を見据えた上で適切な手段を選択することで、初めて、両性にとっての「主体的な生殖の選択」は可能となる。この状況下においては、「全てのセックスはレイプである」という命題は否定される。その上で、生殖に前向きな人々が、意思以外の諸要因を理由に断念せざるを得ない状況を減らしてゆくこと、が、理想的な(あくまでも理想的な!)「少子化対策」と呼べる。このことは、シラク三原則が成果を挙げたことによって実証されている。
しかし、この「現実的側面に対して、現実的に議論する」こと、そのものが、世間の一部の人々には(蛇蝎のごとく!)忌避されている。フェミニストを名乗る、ミサンドリーに支配された「女たち」と、家社会、部族社会の論理に連なる男女関係を信望する保守主義者の人々、女によって自らの居場所と財産と名誉を奪われたと盲信する「男たち」。インターネットにおける緊急避妊薬を巡る議論への反応から見て取れる。彼らはひとの良心や想像力をも支配したがるのと並行して、パートナーシップを構築する二者が対話し、尊重し合うことを志向するというごくごく当たり前の幸福を、社会の構成員から取り上げるべきだ、と主張する。生殖の主体的選択が一般化したとき、救われるのは"望まぬ妊娠をさせられた女性たち""中絶を強制される女性たち"だけではない。男らしさ規範による、自尊心の欠損や経済的な搾取に苦しむ男性もまた救われることになるというのに、である。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツを巡る議論は忌避され、遠ざけられる。問題提起を行えば、「フェミニスト」からも「保守主義者」からも袋叩きにされる。この風潮は、そのまま、日本におけるフェミニズム・リベラリズムの歪みの象徴であるように思われるのである。
専業主婦とは機械とコンピュータの発達により人類の半数が労働奴隷から解放された新社会の革新的な新貴族階級の事だよ
フェミニズムとはその革新的な社会を共働きの農耕社会や狩猟採集社会に戻そうと言う保守運動だ
そのマッチョな保守主義者でしかないフェミが専業主夫と言うさらなる新階級を認めるわけがないだろ?
第一次産業と第二次産業の衰退によりサービス業が増えた上にお客様至上主義の現代でフェミの口先にのせられて夫の奴隷から解放されようと言う号令のもとに社会に出てみたらお客様の奴隷だったと言うね
専業主夫志望はフェミではなく本物のリベラリストに頼むべきだろ
要するに言いたいことは誰か俺を養え
元増田だ。
君をサヨクだとは思っていないが、ミルがどうだの自分は保守主義者だの言う前に、沖縄県民の権利を軽視したととられかねない発言でうかつだったとでも言っておくべきではないか。
リベラルどころか、分離主義者、敗北主義者と呼ばれる危険すらある不見識な発言だ。
国家は、領域、国民、暴力からなる。日本国の領土である沖縄が間接侵略によって侵される事態を「せいぜい」などと評するのは控えめにみても軽率だろう。保守主義者だと自称するならばなおさらだ。
私は自分のことをジョン・スチュワート・ミルに連なる正統的な保守主義者だと思っているので、左翼と言われるのは心外だ。撤回してほしい。残念ながら正当な保守主義者は現在の日本ではリベラルというレッテルを貼られることが多いので、それなら甘受せざるを得ないかとは思う。
で、沖縄だが、おそらく君より沖縄の歴史については詳しい。琉球王国とその前の時代から今までかなり勉強しているし、実際に沖縄で戦争を経験した人にも話を聞いたことがある。沖縄が中国に取られたら、東京にある日本政府にとっては大惨事だし、香港、チベット、ウイグルの状況を見る限り、沖縄の人にとっても悲惨な事態であろう。ずっと基地負担に耐えてきてその後中国に支配されるとか、どれだけ辛い思いをしなければならないのか。
ただ、沖縄の独立が、第二次大戦の敗戦に匹敵するほどのことか、と言われると、同意できない。南京とホロコーストくらい違う。日本の首都が他国に占領され、天皇の生命が外国の軍事司令官によって左右させられる事態は、日本の歴史上になかった。日本国の歴史のうちかなり長い期間独立国でもあった琉球が再独立するのとはわけが違う。
これは話がずれるし、理解してもらえるかわからないが、一応書く。
オイルラインどうこう、という話は、領土や統治機構の話に比べると、二次的な重要性しか持たない。たしかに、止まったら困るリスクはある。それは、紅海やマラッカ海峡やインド洋やホルムズ海峡や南シナ海や東シナ海と一緒だ。どれも日本の主権は及ばない。
もしフィリピンが現在日本の領土だったら、君は、「フィリピン落ちたら、オイルラインどうなると思う?そう、フィリピンが落ちたら、生命線である原油輸入ラインが止まるんだよ。」と言っただろう。参考までに付け加えるが、フィリピンは日本の領土ではないし、その結果原油輸入ラインが止まったことも(ここ70年は)ない。
2012年5月8日、S.P.筆、パリにて。(The Economist)
少なくともそれが、エリゼ宮殿で選挙スタッフが聞かされたことだった。
フランスの政治家というものは、私の理解では、真に政治生命を終えるということがない
(フランソワ・オランド大統領の閣僚として挙げられている名前を見てみるといい)のだが、ともかくサルコジはそのつもりらしい。
さてそれでは彼は、歴史の教科書でどのように書かれることになる政治家だっただろうか?
今週号で簡単に触れたように、サルコジ氏がこのような最後を迎えたことは極めて特異なことだった。
彼はヴァレリー・ジスカール・デスタンに次いで、史上二人目の再選を果たせなかった大統領となった。
彼がいさぎよく敗戦を認められなかったというわけではない。
彼は日曜日の夜、ややぎこちなくはあれど栄光ある演説を行い、オランド氏を「尊重」するよう求め、氏の幸運を祈った。
しかし、サルコジ氏の敗北のあと、私の脳裏をよぎったのは「もったいない」の一言だった。
フランス人は彼を大統領に選んだ理由を忘れてしまったのではないかと思えた。
今回のオランド氏を超える53%の得票率で執務に入った彼は、
ジャック・シラクによる停滞した12年のあと、大統領職に新鮮な空気と(相対的には)若さをもたらした。
彼は徹底した反保守主義者であり、それがために人気を集めた。
実のところ彼はパリの Pont de Neuilly で生まれ育ち市長ともなったのだが、
彼には見慣れない姓と移民の出自があり、アウトサイダーのような雰囲気があった。
話し方も、ほかの政治家とは違っていた。
彼は、国立行政学院で解読不可能な言語(フランス人は la langue de bois 木の言語 と呼ぶ)を教え込まれたような人ではなかった。
彼は、彼以外の上流階級な政治家が語ろうとしなかったことを語った。
フランス人はあらゆることをアメリカのせいにするのをやめなければならない、
フランス人はマイノリティを、音楽やスポーツだけではなく、正規の職業に就かせなければならない、と。
執務においてはエネルギッシュで、勤勉で、大胆な人物だった。
彼が引き起こした改革の旋風のなかでもとりわけ、大学への自治権付与、定年の引き上げ、
起業の規制緩和、地方裁判所の仕組みの合理化はしっかりしたものだった。
外交の業績を見れば、多少の過ちはあったとはいえ、彼がフランスの声を世界に届け続けたのは明らかだ。
金融危機があった以上、失業率の上昇と負債の拡大について彼だけを責めることはできない。
大統領選におけるサルコジの悲劇の原因は、彼最大の敵に帰着されるようである。
彼はあまりにも多くの方面に手をつけ、フランス人を混乱させ、振り回し、疲れさせた。
彼は自分のエネルギーを一貫性ある方向に向けることができなかったように見える。
自分のやったことに完全に納得すると、その次に正反対の立場を熱く擁護するのである。
当初減税を志向しながら、最終的には税を引き上げることになった大統領候補。
労働時間週35時間制を批判し続けながら、それを法律から取り除けなかった政治家。
富と成功へのコンプレックスからフランス人を解放しようとしながら、「富裕層の大統領」と揶揄されて終わった大統領。
フランス版コンドリーザ・ライズを誕生させると約束しながら、重要閣僚にマイノリティを一度も入れずに終わり、
最後の大統領選で極右票を稼ごうとあからさまな「移民過剰論」を展開した指導者。
こうしたすべてを通じて、サルコジ氏は自分の衝動をコントロールできていなかった。
他国の指導者(シルヴィオ・ベルルスコーニ)を侮辱した件も、
(農業フェアで通行人に捨て台詞を言うほどに)単に自分の怒りを抑えられなかった件もそうだ。
彼の政治的業績がもっと素晴らしければフランス人はこのような過ちを許したかもしれない。
だがそれほどではなかった。
彼のいきさつは、実務よりは見せ方、用意周到さよりは拙速さ、秘策よりは透明性の人の物語だったと言えるだろう。
フランスの劇作家ヤスミナ・レザは、サルコジ氏のとどまるところを知らない欲望を「失われた時間との戦い」と表現している。
ネトウヨは社会の負け組!……とかのんきなこと言ってる場合ではない - Forces of Oppression
http://kdxn.tumblr.com/post/1702441715
在特会その他のどうしようもないレイシスト集団に対して強い批判の声を上げている人たちの中には左翼/リベラルだけでなく、保守主義者も非常に多く
これに反して、どうしようもないサヨクである唾棄すべきはてなサヨクに対して、左翼側からの批判があまりに少ないので、左翼側からの批判を(自戒を込めて)ここでしておく。
在特会とかを「行動する保守」とか言ってチャンネル桜もごちゃまぜにしている人が多いけど、在特会とかのやり方は、下の動画だけでなくて、チャンネル桜の水島が何度も批判している。
【直言極言】誇りある日本人の国民運動を[桜H22/10/15]
http://www.youtube.com/watch?v=UdPpHOHdkA4
下の動画では、水島が登壇の背景に韓国の国旗があったことを、「自分たちは排外主義をしないもっと大きな心で」とか言っているから、チャンネル桜と在特会はやり方が全く違う。在特会とか排害社とかは、チャンネル桜を奇麗事保守とか言って批判してるね。
YouTube - 【草莽崛起】11.6 自由と人権アジア連帯集会&デモ ダイジェスト[桜H22/11/8]
http://www.youtube.com/watch?v=aqEYXWZIvnA
それで、サヨク界の在特会であるはてなサヨクの奇怪な主張を批判するまともなリベラル左翼は、いるのか?下の動画なんかネタとして見るものなんだが、こんな動画を真に受けるのがはてなサヨクの情弱の面々。
YouTube - 尖閣デモの妨害反日左翼鑑賞会 10.16
http://www.youtube.com/watch?v=QUD93KpSYCQ
はてなブックマーク - YouTube - 尖閣デモの妨害反日左翼鑑賞会 10.16
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.youtube.com/watch?v=QUD93KpSYCQ
こんなアホサヨ↓は、本当の左翼なら批判しろよ。「日本による釣魚台/尖閣の「実効支配」は清算されざる植民地主義」と言って、尖閣諸島は日本が侵略したとか言ってるんだが。国際法も何も知らない無知だってことは分かるが、あまりに反知性主義だよね。この思い込みのままに、デモに突進したりしてるんだよ。
ヘイトスピーチに反対する会 10.16六本木右翼デモに抗議してきましたが
http://livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-65.html
はてなブックマーク - ヘイトスピーチに反対する会 10.16六本木右翼デモに抗議してきましたが
http://b.hatena.ne.jp/entry/livingtogether.blog91.fc2.com/blog-entry-65.html
尖閣諸島は日本の領土というのは日本共産党も言ってるんだが、新左翼は日本が侵略したものとか言ってる。はてなサヨクは、六全協に反発した新左翼の連中の残滓みたいなサヨクのゴミクズ。
中共大使館包囲デモの鮮烈…3,200人抗議で北京激震 東アジア黙示録 /ウェブリブログ
http://dogma.at.webry.info/201010/article_7.html
人権団体を標榜するアムネスティ日本は、受賞発表後に何のアクションも起こしていない。中共絡みだと急に沈黙し、人権の基準を大幅に下げ続けている団体だ。
10月16日のデモは保守系で過去最大規模となったが、一方、中共に何も言えない老舗のエセ人権団体が、その役割を完全に終えたエポックメーキングな抗議活動でもあった。
日本では、ノーベル平和賞の劉暁波を釈放しろと中国に言った初めてのデモが、保守系の頑張れ日本だったというのは、日本のデモ史に痛恨の歴史を刻んだ。人権平和団体は、劉暁波を釈放しろというデモを全くしない。日本の左翼のこの体たらくを見たら、日本の左翼に反発する感情が生まれるのも当然だ。何が人権平和だ、アホ左翼がとかになってしまう。
こんな人権デモでもある頑張れ日本のデモに突進していったサヨクを絶賛するのが、はてなサヨクの面々。
最近はサヨクの低学歴化が気になる。はてなサヨクの学歴論なるものは、大学の学部を出ただけで高学歴だと思ってるアホが、学歴論なんかしてるんだから笑ってしまうよね。ネットサヨの書き込みを見ていると、低学歴の反知性主義で経済的地位も特に高くもないだろってのばかりだね。
尖閣は中国の領土に同意するとか、他にもバカなことばかり言っているはてなサヨクを本当の左翼なら批判するべきだが、左翼から批判があまりに出ないのがどうしようもない。内部での批判が行えない。はてなより、2ちゃん批判が日常茶飯事の2ちゃんねるのほうが遥かにマシ。
はてなサヨクって、はてながなくなったら居場所を失うアホばかりだよね。党派性のかたまりだよ。はてな側は、はてなサヨクに難儀してるよね。梅田望夫も、はてながこんなトンデモサヨクの巣窟になるとは思わなかっただろうなぁ。
そう言えば、労働問題などを批判して「俺はマイノリティの味方!」とか言ってたbuyobuyoなる者がいたが、ひどいはてなサヨクだったなぁ。はてなサヨクってそんなのばかりだろ。
はてなサヨクってネタとして面白い存在なんだが、ネットで真実を語るとか意気込んではてなから日本を変えるとか思ってるんだから笑える。はてなサヨクはネタとしての存在で、その役割は「サヨクってバカだな」という嫌左翼感情を植え込むためのものだね。
ネットの右傾化?それは、はてなサヨクみたいなアホサヨが嫌左翼感情を植え込んでるのが原因だよ。新左翼のデモとか内ゲバとかのアホな論理も酷いよね。