はてなキーワード: プーシキンとは
進次郎風に言うなら、“プーシキン”という単語がおぼろげながら浮かんできたんです。
早速ググってみると「アレクサンドル・プーシキン」という18世紀のロシアの芸術家が出てきた。
間違いない。
絶対に違う。
だがページをめくれどもめくれども、アレクサンドル・プーシキンしか出てこない。
なんてこった。
こんな有名な奴なのかよ!
もしかしたら知らない間でどこかでこのプーシキンのことを耳にして、それを思い出したのか?
そう、例えば映画とか。
これだ!
やったぜ! これで心置きなく仕事を続けることができる。
ちなみに、イコライザーに出てくるプーシキンはロシアのマフィアのトップ。
作中では「プーシキンさん」として非常に恐れられている存在として描かれるが
最終盤まで姿を現さない。
ソローキンのみならず、20世紀以降のロシア文学は、19世紀のパロディであるといっても過言ではないと思う。
そもそも、ロシア文学においては大元のプーシキンが西欧のパロディをやっている。というよりも、プーシキンを読んでその背後にある西欧を読み取るのが正しい読み方。
プーシキンのすごいところは、パロディや翻案でありながらオリジナルを凌駕しているところ。
オネーギンなんかもジュコフスキーからの引用が多く見られる。また、本来韻文においてはヒロイックなテーマが選択されるという常識を破り、世俗的な恋愛を描くというメチャクチャ実験的な小説だったということも補足します。
つまり、ソローキンはなんら実験的なことをしているわけではなくロシア文学の定石をやってるだけで、なんら評価されるべき手法を用いているとは思えません。
彼の新しい点としては、単なる下ネタを文学に偽装して増田みたいな人にありがたがらせたということかな。
ロシア語読めればわかるけど、彼のスタイルは19世紀的で一見すると伝統的な文学に読めてしまうんですよ。
確かにその点は新しいと思うけれど、それが優れているのかはビミョーです。
ロシアの諺に、背広を裏返して着ることは新しいけれど、それはすでに衣装の体をなしていないというのがあるけど、まさにそれだと思いますね。
私は、運動嫌いでも動くことになる趣味を探した結果、美術館巡りにたどり着いて、
関西在住の身として京都国立博物館、奈良国立博物館、兵庫県立美術館、国立新美術館、神戸市立美術館、京都市立美術館、天保山ミュージアム、東洋陶磁美術館、堺市ミュシャに、
寺社仏閣の特別拝観などなど手当たり次第に見に行って、結果一日の平均歩数が1万歩を超えることができています。
さて、個人的には昨年、京都国立博物館120周年記念で行われた「特別展覧会 国宝」が、展示替えのたびに拝見させていただいたほどよかったのですが、
その開催と、展示替えに合わせて行われたニコ生が同じようによかったのです。
(多くの博物館、美術館、個人所蔵の品などを集めて行われたためか、視聴期間が会期と同じで、現在期限切れとなっています。)
その道の専門家が、目を輝かせながら担当範囲の魅力を思う存分語ろうとするものの、
時間不足で押され、先輩の圧で揉まれながらねじ込んだ結果大幅に時間が過ぎる、
映像はテレビと比べたら荒いけれど、それは実物を見ればいいわけで、現地で貸し出される音声解説をはるかに超える深い話、
なつやすみ子供科学相談のようにさらっと、今の研究ではそうなっているんですがと言い出したりするのを聴けるすごい番組だったわけです。
そして今年は、「京のかたな」が開催されます。今週末、9月29日からです。
こちらも今までになかった刀に集中した展覧会で、かなりの国宝、重文、作刀が少なく格を定められていないだけの希少で優れたな作品などがたくさん出展されます。
現在は、6月に行われた展示予定の記者発表のニコ生がアーカイブで残っていますが、
この時点でもどの時代のだれの作品がなぜ重要で、どのように技術がつながって、どの博物館から集めたのかが語られていて、
すでにわくわくしながら前売り券を二枚準備しています。
http://live.nicovideo.jp/watch/lv313659246
【出品刀剣 発表】京都国立博物館 特別展「京のかたな 匠のわざと雅のこころ」記者発表会 生中継
当時はまだ固まっていませんでしたが、現在は公式ホームページに、展示替えの時期を含めて掲載されています。
ここまでは前段、京都博物館の皆様ありがとうございますというPRですので、読み飛ばしてもらって結構です。
解説のようなことも書いていますが、全て素人目線、ただの高卒おっさんの感想を書いているだけですので、
的外れなことが書かれていた場合は突っ込みを頂けるとありがたいです。
http://live.nicovideo.jp/watch/lv296737289
みんなで巡ろう「ミュシャ」展 【niconico×国立新美術館】
ミュシャさんのお名前が、日本一有名な錬金術師兄弟の弟にも使われているアルフォンスで、それきっかけで私は見に行きました。
アルフォンス・ミュシャで検索してみてください。絶対に見たことがある絵があるはずです。
多くの方に影響を与えていて、初期はポスター、舞台衣装と多くのデザインをされた方で、
北斎漫画が動きを抽象化して書いていたように、草木を抽象化してデザインに取り入れていて、
抽象化がうまかったのは、当時のポスターも浮世絵も複数人により量産される作品だったからかもしれないと思っています。
そして、生涯最後の大作「スラブ叙事詩」が世界初チェコ国外に出ると話題になったのが今回のニコ生の展覧会ですが、
日本が最初に選ばれた理由の1割くらいは、ミュシャ作品の世界一の所蔵数が土居君雄さんが寄贈したミュシャ美術館で、
多くの作品を丁寧に保管されてきたことで文化功労章をもらったことも影響していると思います。
こちらは500円で入館できるので、JR大阪駅からでも、先日何とか復旧した関西国際空港からでも、関空快速で乗り換えなしで約40分、堺市駅に直結ですので、ぜひお立ち寄りを。
(スペースが小さいので、展示内容は時期により異なります。季節ごとくらいのペースで展示替えあり。現在は挿絵中心の展示ですが、白い象の伝説は絶版なのが惜しいほどに美しいんですがkindleで完全収録されているようです。未見)
スラブ叙事詩はヴェレトゥルジュニー宮殿にあるので、プラハ城の聖ヴィート大聖堂のステンドグラスと一緒にチェコに見に行きましょう。写真はこちら。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E5%8F%99%E4%BA%8B%E8%A9%A9
https://www.travel.co.jp/guide/article/17165/
http://live.nicovideo.jp/watch/lv296734542
みんなで巡ろう「海北友松」展 【niconico×京都国立博物館】
カッコイイ龍が見たいなら、とにかく見てください。
龍が嫌いな男の子はまずいないと思うのですが、
わざと暗くした部屋で闇夜に浮かぶように見せるなど、
どうすれば一番格好よく見せられるのかを追及した展示で、
たらふくかっこいい龍をたくさん見られます。
最高傑作の一つは建仁寺にあった本坊大方丈障壁画の雲龍図(京博所蔵)ですが、
同じかそれ以上にと学芸員の方が絶賛している「月下渓流図屏風」が日本に帰ってきたのもすごいこと。
アメリカ・ミズーリ州のネルソン・アトキンス美術館所蔵ですので、次に日本でみられるのはいつになるか。
最後の最後の展示がこの図屏風で、思わず立ち止まって10分は呆けていました。
そのあともう一度龍を見に行ったんですが。
雲竜図は大きすぎてなかなか展示できないようですが京博所蔵ですので、他の方の龍との比較など、国内の他の企画展で展示される機会があるかもしれませんし、
迫力は万分の一ですが、高精細複製画像がWebで見られます。実物大の複製でしたら、建仁寺に展示されています。
Canonさんはほかにもいくつかこの事業をされていますので、ぜひ一度ご覧下さい。
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/08.html
東京は実物見れてないのが多いのと、力尽きたので以下は気が向いたときに。
タイトルで検索すれば、プレミアムなら今でもご覧いただけますので。500円でも十分元は取れるはず。
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私は今、モスクワの大学寮にいます。ロシア大使館主催の第6回ロシア語学短期留学プログラムに参加しているからです。
日本の大学生約80名がモスクワの国立大学に派遣され、授業料免除で約1ヶ月間ロシア語を学べるありがたいプログラムなのですが、
大学側の対応や日本での担当窓口のロシア旅行社に思うところがあるので、この記事を書きました。
約6畳の部屋に3人押し込まれるので狭いです。
1つの風呂、トイレ、洗面台を5人で共有する部屋もあるので、ストレスが溜まります。
共有キッチンもありますが、電熱コンロなので火力が弱すぎて、炒め物は無理です。
鍋・食器なんで全くありませんし、電子レンジや湯沸かし器ももちろん無いです。
仕方がないので、皿、フライパン、食器、電気ケトル、炊飯器を現地調達しました。
物価が安いので3000ルーブルでなんとか揃ったのが救いです。
あと、ベッドの毛布が臭いし、部屋に人数分机がないところもあるので勉強が大変です。
ロシア旅行社様(日本側の窓口)の説明では、寮にWifi完備とありましたが、
半分本当で半分嘘です。
大学1階ロビーには登録不要で使えるWiFiがあるのですが、寮の部屋で使えるWiFiはロシアの携帯番号がないと登録できないので使えません!
私はMegafonという携帯会社のSIMカードを買ったので、なんとかなりましたが、
多くの人はわざわざ1階に降りてネットを使ってました。
日本からレンタルWiFiを持って行くという方法もありますが、
1ヶ月1万円以上かかるのでおすすめできません。(ロシアでSIMを買えば1ヶ月1000ルーブルで8GB以上使える)
ロシア旅行社様からの説明では、1日5000円計算で15万円程ドル・ユーロ等の現金を持参するのがおすすめとのことでした。
しかし、実際は外食も日本と比べて安く、博物館・劇場の料金もかなり安いので、
1日2000円も使っていません。頑張れば1日500円で生活できます。
クレジットカードはかなり通用しますし、VISAデビットのキャッシュカードなら簡単に現金を引き出せたので、現金は少なめで大丈夫です。
ロシアは遠いので仕方が無いと思いますが、寮の部屋などの現地情報をもっと詳細・正確に伝えて欲しかったです。
クラスの移動がかなりありました。
上級から初級まで6クラスあるのですが、上のクラスは本当に難しいようで上智のロシア語学科でも死にます。
まあ、実際に授業を受けてクラス分けするというのはある意味合理的ですが。
以上のように大学に来てからいろいろ大変なことはあったのですが、
なんとか生きながらえています。
金~日が休みなので、バレエやサーカスをみれて非常に楽しいです。
まだ2週間ほどですが、ロシア語力は伸びているのでかなり有意義だと思います。
ただ、寮がひどすぎますが…
日本の食材(レトルトカレー、米、緑茶、乾麺など)とマイ箸 ※必須
フライパン、鍋、まな板、ナイフ・フォーク、コップ、マグカップ、湯沸かし器 ※現地の方が安く買える
※以上の文章は個人の感想・体験を記したもので、 ロシア旅行社 様および プーシキン記念ロシア語大学 (Государственный институт русского языка имени А. С. Пушкина) の社会的評価を低下させる意図はありません。
ロシアの学生にしては快適な生活を送らせて頂けているものと思っていますし、あくまでもロシアで感じたカルチャーショックを伝えたいだけです。
なんでもいいから書くといいよと精神科の先生にいわれたので書いてみる。
いままで「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメはたくさんあった。たとえば絶賛放送中の『アルドノア・ゼロ』もそうだ。『アルドノア・ゼロ』は間違いなく今期最大のヒット作になるだろう。虚淵玄はドイツではゲーテ以来の天才詩人といわれ、フランスではデリダの精神的後継者といわれ、ロシアではプーシキンの再来といわれ、アメリカではリアルホイットマンとたたえられ、日本では村上春樹をしのぐノーベル文学賞最有力候補だと一部ではいわれている。だがわれわれはあえて『残響のテロル』に注目している。なぜなら『残響のテロル』は「すべての過去をアニメにする」神アニメだからだ。「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメというのは「すべて」というところからわかるように、それ自体自己言及的になっている。したがって「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメというのはすべてのアニメを過去にした瞬間に、それ自身も自己言及的に自己自身によって過去に追いやられてしまう。すべてのアニメを過去にした偉大な新時代のアニメがその誕生と同時にすでに死んでいるというアイロニカルな構造になっているのだ。このアイロニーから逃れられないのが「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメなのであり、従来の傑作アニメというのは生み出されたときにはすでに陳腐化しているというアイロニーから逃れることができないでいた。「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメはそれ自体の内に過去を含んでいるのだ。真に創造的な作品だから未来志向にも見えるのだが、じつは過去という底なし沼から伸びてきた腐食した手にからめ取られて引きずり込まれてしまう。そしてその暗黒の沼に自己自身を見る(その手ははるか昔に、生まれる前にすでに死んでいた自分の手だったのだ。死産した胎児の声なき叫びだ)。「すべてのアニメを過去にする」アニメはそれ自身を過去にし、過去は更なる過去へとひきずりこまれ、原初の過去へと向かい、宇宙開闢の瞬間へ向かおうとする意志を持つ。すべては過去になる。すべては過ぎ去る。そして無へと潰れる。だから傑作アニメには一種の悲哀がともなう。そこには悲観しかない。われわれはわかってはいたのだ。傑作アニメを見たとき、それはすでに未来によって乗り越えられているということが。われわれはわかってはいたのだ。結局われわれは無を愛撫していたにすぎないということが。なにもかも過ぎ去って、すでに終わっていた。時間は凍結し、空間から熱が引いていった。だがわれわれの前に『残響のテロル』が現れた! ついに現れたのだ! 『残響のテロル』にはすべての過去が含まれている。便所飯はなにを意味するだろうか。それは食事と排泄の同時性だ。われわれはまだ口と肛門を区別していない。そうだ。これは生命の誕生なのだ。きわめて創造性の高い、無垢なる、自由な、永遠の意志、無限の未来への飛翔! 二元論の生じる前のカオスのカオス、混濁した幻覚的な性感帯のおそるべき幸福な絶頂感のみがみなぎった世界。なぜテロリストはアヒル口なのか。アヒルという牧歌的存在にこそ破滅の種がやどっているからだ。戦士は戦士によっては倒されない。戦士が死ぬのは娼婦の前でだけなのだ。これは歴史が証明してきたことだ。アヒル口テロリストは歴史に巣食ってきた処女性に含まれた亀裂、多産性と引き換えに失った平和の象徴である。射精的安楽こそ世界の火種なのだ。「すべての過去をアニメにする」神アニメはすべてをアニメとして書き換えていく、外部へと環境へと働きかける力を持つ。すべてをアニメにしていく、そしてそのアニメがさらなるアニメをうみだしていく。アニメはアニメによって置き換えられ、アニメがアニメに繋がることによって、それは永遠に進んでいく。アニメの無限行進。アニメの爆発的連鎖。それはアニメ時空ともいうべきものを作り上げるだろう。それ自体でのびつづけるアニメの網だ。それはもう冷える宇宙ではないだろう。次元を超えた愛だろう。絶頂を越えた世界でわれわれは天使になるだろう。耐えなければならないその圧倒的幸福に人間のままでいることは許されないのだ。『残響のテロル』はすべてをアニメにするだろう。なぜ都庁爆破があんなに簡単にできたのか。それはアニメだからだ。そしてそれは過去のアニメ的出来事、つまり主として911の余韻があるわけだが、まさにそのことによって、アニメ的出来事が現実ととけあい(911はたしかにいままでは現実として語られがちだったのだ)、その境界はここにいたって不分明になり、アニメ時空が現実に侵食してくることになるのだ。すべてはアニメ的になるだろう。幼稚さという狂気。短絡的な世界崩壊。理性の不発。それは『魔法少女まどか☆マギカ』によって予告されていた悪夢でもあった(Gen Urobuchiは惜しいところまでいっていた。だがかれにはまだ愛が足りなかった。かれは健全すぎたのだ、良識的すぎたのだ、大人すぎたのだ、成熟しすぎていたのだ)。鋭敏な鮮烈な想像力は退化して、茫洋とした曖昧模糊とした神話を呼び寄せる。そこに召喚されたアニメ時空が境界を侵犯して現実に襲い掛かってくるだろう。すべては妄想によって形成され、妄想はすべてとなるだろう。きみはやがて逆立ちして排泄するようになるだろう。もちろんわれわれにも恋人ができるようになるだろう! われわれはひとつの体験をすることになる。それは存在のあり方を変えてしまう圧倒的な体験だ。これを見てしまったらもとのままの自分ではいられないだろう。なぜならわれわれはひとつの真理を悟ることになるのだから。二次元的妄想によって書き換えられた世界はどこに行くのだろう。すべてはギャグの様相を呈してきている。われわれはいつも嘆いている。やれやれ子供だましなアニメだな子供向けというのは子供だましということではないのであってうんぬんかんぬん。だがしかし現実のほうがアニメ的であり、アニメ時空的であり、アニメなのではないか。だれがこんな世界にしたのだ。どうして美少女は空から降ってこないのか。いやそれこそアニメではないことの証拠ではないか、いやいや、むしろ美少女が空から降ってこないのは非現実的なのだ。ああとわれわれはさらに嘆く。きみは美少女が空から降ってきたところを見たことがないのか。もちろん『残響のテロル』では美少女が空から降ってくる。ヒロインはジャンプしたと見せかけて空から降ったのだ、まさにすべての過去を、すべての飛び降りた美少女たちの意志をアニメにするために。美少女が空から降ってくるという古典的アニメ表現は『残響のテロル』にいたって、ついにアニメと現実の境界をまたいでしまった。これまでアニメ表現はアニメ表現でしかなかったが、いま彼女が飛び降りたことによってすべてはアニメ的現実になった。それはたんなる表現ではないのだ、もはや現実なのだ、アニメなのだ。これまでにうまれた数々の傑作によってすべてが過ぎ去ってしまったが、ついにすべての過去をアニメにするアニメが生まれた。アニメ的表現がついに次元の壁を越えたのだ。すべてはアニメになるだろう。太陽の死の後、人類が生き残るにはもうアニメになるしかないのだ。われわれは新しい太陽を作ることはできない、だが、新しい太陽をアニメにすることはできる。銀河という足枷からわれわれが羽ばたくにはアニメの力がどうしても必要だったのだ。人類はついにアニメを本当の意味で獲得した。と同時に、われわれはアニメになった。われわれの想像力は現在の認知のありかたをテロリストのように破壊して、すべてをアニメにするだろう。人類はいまやっと白内障から脱して、真に世界を見ることになったのだ。諸君、世界は美しいか。
オウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯の広瀬健一氏が、平成20年に大学生へ向けて書いた手紙(忠告)をまとめました。
Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET
上記事は1995年に書かれたそうですが、非常に面白かったです。特に、この宗教界からオウム真理教へのAnswerの一つとして
が挙げられていましたね。同様に
若者の宗教的志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。
と前述のエントリで書かれていますが、一般人である私たちこそ(まさに自分も学ぶべきだと)理解すべき項目は全く逆で、特定の宗教を比較した“教義や教化法の差”ではなく、それを信じてしまう人間側の“信仰生成過程の不可思議さ”でしょう。何故なら人は何かを“信じる”ことなしに、決して生きられず、常にオウムのような組織や教化法と隣合わせに生活しているからです。一度信仰を持った人にとって、その世界観は絶対であり、いくら一般的な通念に反した教義だとしても、自分の方が正しい生き方を貫いていると固辞してしまいます。
では頑な信仰は、一体どのように形成されていくのでしょうか?そして今の時代を生きる若者の宗教的志向性は、時代によって変化しているのでしょうか?
この問いの核心に迫り、私が最近読んで非常に共感した文章があります。それがオウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯、広瀬健一氏の獄中手記です。
ところで、この文章を執筆している私ですが、昭和~平成のちょうど狭間くらいに生まれました。“地下鉄サリン事件”は、平成7年(1995年)に起こり、当時から今でも語り継がれている重大な事件です。ただ、私が育って物心がちょうど付いた頃くらいから“オウム真理教”や“松本智津夫被告”という言葉がTVから流れており、事件の顛末は当事者としてあまり覚えておらず、どちらかと言うと阪神淡路大震災のTVニュースの方が記憶に残っています。しかし、私と宗教との関わりは、大学生活が始まってから急速に近づきました。端的に言えば、一般的に「カルト」と呼ばれる宗教団体と出会い(当初は、そんな様子を見せずに近づいてきた)、教えを受け、それを忠実に守る人生を送るところだったからです。途中で教えている内容に懐疑を持ち、ネットで検索して団体の性質を知り、自ら関わりを絶って忠実な信徒になることを避けられました。ただ、まさか自分がカルトにハマるとは思っておらず、今考えるとかなり勉強不足、世間知らずの人間でした。それから自分でも宗教や人間の信仰・思考に関する本を読み漁っており、つい半年程前に広瀬氏の文章に出会いました。
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
※綺麗な字ですね。ちなみにvol.6の最後に、関係するリンク先を全て記載しています。
この文章は獄中に居る広瀬氏が平成20年に執筆した文章で、総量はA4で59枚、約3万文字もあります。この手記自体はフェリス女学院大学の学生に向けてカルト予防のための講義を行うに当たり、藤田庄市という方がその資料として広瀬氏に執筆をお願いし実現したそうです。昭和63年頃、まだオウムが無名の団体だった頃。自らが、“オウム真理教のナウい教化法”にハマり、染まり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった広瀬氏。オウムと係わる中で、どんな心理状況に陥ったのか。広瀬氏は本や研究論文も参考にしながら自身の宗教的経験に言及しています。(実際に読みたい方のために、各項目できる限りAmazonや記事のリンクも記載しました。)オウムと禅の比較や、カルト組織の特徴、スピリチュアルにも言及されており、非常に貴重で興味深い内容です。最近、オセロの中島氏と占い師との共依存関係が話題になり、洗脳やマインドコントロールの話も耳にするようになりましたね。この文章は長いので、時間がある際にじっくり読んでもらい、もう一度カルトの存在、洗脳や信仰に対する認知を深めてもらいたいです。
そしてできるなら、FacebookやTwitterでこの記事をシェアしてもらえないでしょうか?大学に入ったばかりの新入生は、カルトの存在にリアリティを感じられないはず。サークルの勧誘期間中は、カルト教団の一番活動し易い時期だからこそ、この警告を全国の大学生にも読んでもらいたいのです。本当に、私の二の舞になって欲しくありません。また、原文を忠実にテキスト化していますが、他人の文章のため間違っている箇所があればぜひ指摘して下さい。(何箇所か英文もテキスト化できていません。どなたかテキストにしてもらえませんか?追記致します。)
最後に、地下鉄サリン事件を通じて亡くなった方のご冥福をお祈りすると共に、オウム真理教、並びに全国のカルト教団を通じて被害を被った方々の苦痛が、一刻も早く和らぐよう祈っています。
学生の皆様へ
「生きる意味は何か」―皆様は、この問いが心に浮かんだことはありますか。
この質問から私が始めた理由は、それが皆様の年ごろの人たちが抱きがちな問題であり、また、若者が「カルト」に係わる契機ともなるからです。
オウム真理教による事件以降も、「カルト」に対する警戒の呼びかけにもかかわらず、その被害が跡を絶たないようです。そのために、「カルト」に関する講座が貴公に開設されたのでしょう。そして、講師の方から「カルトへの入会を防止するための手紙」を皆さま宛に書くようお話がありましたので、引き受けさせていただきました。それが私の責務と思われたからです。
私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くし難い惨苦にあわせてしまいました。そのことは心から申し訳なく思い、謝罪の言葉も見つかりません。また、社会の皆さまにも多大なご迷惑をおかけ致しました。その贖罪は、私がいかなる刑に服そうとかなわないと存じております。せめて、このような悲惨な事件の再発を防止するための一助になることを願い、私の経験を述べさせていただきたく思います。
カルトに係わる契機
前述のように、「カルトへの入会を防止するための手紙」を依頼されたのですが、いわゆるカルトのメンバーとしては、私はオウム真理教の信徒の経験しかありませんので、主にオウム真理教(以下、オウムまた教団)の話になります。
カルトは多様なことがらを提示して入会の勧誘をするそうです。オウムもその唯一の目的である解脱、悟りだけでなく、ヨガによる健康法や能力開発の方向からも勧誘するよう私どもに指示していました。そのため、信徒の入信理由は様ざまでした。
しかし、信徒の入信理由の特徴は、たとえば「生きる意味」に対する問いのような、解決が極めて困難な問題に関係があったことではないでしょうか。ただし、この「生きる意味」は、仕事に対する生きがいなどの日常的なことではありません。たとえば、「生まれてきた目的」に係わるような、形而上的ともいえることです。それゆえ、この問題はこの世における解決が困難です。仕事に対して生きがいが感じられないならば、適当な仕事を探せばよいのですが、「生まれてきた目的」などはその存在自体問題になることでしょう。
ところが、オウムは「超越的世界観」を有し、この類の問題を解決する機能がありました。これは、日常を超えたオウムの世界観においては、「生きる意味」や「生まれてきた目的」の解答が与えられており、信徒がその世界観を受容すると問題が解決するということです。他方、この世界観は非現実的であるために、それを受容した信徒は一般的社会における生活に適応しにくくなり、家族や学校、会社から離れて出家していきました。さらに、教団で集団生活をしているうちに、規範意識まで非現実的な教義に沿うものになり、ついに違法行為をするまでに至りました。
このように、「生きる意味」に対する問いはカルトに係わる契機にもなるので、その心理状態への適切な対処を考える受容があると思います。そのためにまず、その具体例をお話します。
私自身は、高校三年生のとき、「生きる意味」の問題を明確に意識するようになりました。そのきっかけは、家電商店で値引処分された商品を見たことでした。商品価値がたちまち失われる光景を観て、むなしさを感じたのです。ところが、それ以来、私はこの「むなしさの風情」を通して世界を見るようになってしまったのです。事あるごとに、物事の価値が気にかかりました。結局は、宇宙論のいうように、すべては無に帰してしまうだけではないのか…との思いが浮かぶこともありました。そして私は「生きる意味」―絶対的な価値に関心を持つようになったのです。そのときは、それまでは大仰に思えた、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と述べた孔子の気持ちがわかるような気がしました。
このような心情に関しては、文献を調べますと、古今東西、類似の経験をした人が多数存在するようです。
スピノザは著書『知性改善論』の冒頭で次のように述べています。
一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。
トルストイもその一人です。当時五十歳だった彼は、外面的には申し分なく幸福な状況でしたが、価値観の崩壊から「生きる意味」の模索を始めています。そのときの心情を、彼は著書『懺悔』に記しています。
何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになってきた。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやってくるようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも「何のために?」「で、それから先は?」という同一の疑問が湧き起るのであった。
この時分に最も私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こってくるのだった。
「よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……」そして私はしどろもどろになってしまって、それからさき何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供を自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、「何のために?」こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆に幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、「だが俺にそれが何のかかわりがある?」突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。「よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。が、それがどうしたというんだ?……」これに対して私は何一つ答えることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。
自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きてきた生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きていくべき何物もないような気持ちがした。
以上の記述は、当時の私の心情に共通する点が多々あり、この種の心理状態の特徴をよく表現していると思います。特に「自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして、立つべき何者もないような気持ちがした。」という表現には共感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。
その後、私は哲学書や宗教書を渉猟したり、宗教の実践者の話を聞いたりしました。高校三年生ですと、大学受験の時期ですが、私は大学の付属高校に通っており、いわゆるエスカレーター式に学部に進学する予定でしたから、時間はふんだんに使えたのです。
哲学については、話は論理的に進行しているのですが、その根本の部分―数学でいえば公理―は哲学者個人の感性によって「真理」とみなしているように思えたので、私にはなじめませんでした。宗教についても、私に反射的に生じる反応は、「真偽をどのように確かめるのか」という抵抗でした。教義の核心が非現実的に思われ、根拠なしにはそれを受容できませんでした。
こうして、私の「生きる意味」の探求は行き詰まってしまったのです。そもそも、絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。しかし、宗教界をはじめとして、それを体得したという人が存在する限りは、自分で確かめざるを得ない心境だったのです。
結局私は、むなしさを感じなくして済む、実行可能な「生きる意味」を定めることによって、心のバランスをとるようにしました。私は理系の分野に関心があったので、将来の職業はその方面以外考えられませんでした。ですから私は、物理法則を応用して、基礎的な技術を開発する研究を目指すことにしました。理想的なのは、半導体素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事ならすぐに価値がなくなることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先のことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありませんでした。
このように、何年かの間、私は「生きる意味」の問いを棚上げして過ごしていました。しかし、のちに、その問いの影響によって宗教的経験が起き、オウムに入信することになりました。その契機については後述致します。
次に、「生きる意味」の問いが起こる原因についてですが、以下のように、この種の問いは生理的不安定に起因することもあるようです。
思春期から十代後半(ときには二十代始めに入る)まで、成長しつつある人は重大な生理的不安定(すなわちストレス)を示す。ストレスホルモンは、後の成人時代の安定期に比較して有意に増加する。青年期に典型的な大きな気分の揺れは、この不安定さに結びついている。若者は取るに足らない欲求不満があると、多幸福のある熱狂から自暴自棄的に落ち込むかもしれない
人生のこの期間に問われる典型的な問いは次のものである。“それが一体何になるのか”“人生より何か重要なことがあるのではないか”このもどかしい衝動は自己認識の危機の問いで極まる。“私は一体何か”“何が現実か”
また、心理学者のウイリアム・ジェイムズも、人生のあらゆる価値に対する欲望が失われていく「憂うつ」状態から、心休まることのない問いに駆り立てられ、人が宗教や哲学に向かうことを指摘しています(ウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相上』桝田啓三郎 訳 岩波文庫)
「生きる意味」に対する問いが純粋に知的なものならば、それは当人に健全な精神の成長をもたらすかもしれません。しかし、以上のような要因のものならば、無意味なことなので、自覚してそれに巻き込まれない必要があると思います。そのような心理に関する知識があるだけでも、ある程度の予防になるかもしれません。場合によっては、専門家に相談する必要もあるでしょう。特に、その問いにこだわりや煩わしさを感じるならば、注意すべきです。性急な解決を図りがちになり、それだけカルトに接近する危険があるからです。
それでも、「生きる意味」の問い―あるいは、ほかの問題―の解決を、宗教をはじめとするある思想に求めるならば、その選択には細心の注意を払うべきです。前述のように、その解決は「超絶的世界観」に訴えざるを得ないので、その現実生活への影響が懸念されるからです。
ある伝統宗教などはそうだと思いますが、その安全性、有益性が歴史によって検証されている場合は問題ないでしょう。しかし、以下の要素を含むものについては避けるべきと思います。
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政治だの人を見る目だのについて散々語った後で
血を沸かす年頃になりかけている。
童貞の気高い無垢と誇らかな
羞恥とを、よくよく大切にせよ。
徳に外れた享楽に耽ることに、
若年にして慣れた者は、
成人して、気難しく、血を見るを好み、
その頭脳は時ならず曇るのだ。
そうだそうだ!→ヤリチンは馬鹿に!なる!→ ちょっと待てよ?徳に外れた享楽?それって、このエロゲエロマンガの山のことじゃ・・・ウワアアアン! という3段オチのアスキーアートと組み合わせるといい燃料投下になると思ったのだが、誰かやって。
偉大な事業を完成するためには、人はつねに緊張していなければならない。サン・シモン
志を立てて以て万事の源と為す。吉田松陰
着るものは新しいうちから、名誉は若いときから大事にせよ。プーシキン
われわれは、ことばではなしに、行為を見守らなければならない。そしてまた、われわれも、ことばではなくて行為で示さなければならない。J.・ケネディ
大変な仕事だと思っても、まず、とりかかってごらんなさい。仕事に手をつけた、それで半分の仕事は終わってしまったのです。アウソニウス
汝の活動、ひとり汝の活動のみが、汝の価値を決定する。フィヒテ
規律は、宗教に似ている。ばからしいように見えても、それが人間をつくるのだ。サン・テグジュペリ
至上の処世術は、妥協することなく、適応することである。ジンメル
決心する前に、完全に見通しをつけようとする者は、決心することはできない。アミエル
他人のために尽くすことによって、自己の力を量ることができる。イプセン
取らんと欲する者はまず与えよ。老子
学生をして自重の風を養わしめるためには、これを紳士として待遇しなければならない。アーノルド
礼儀は人を神聖にする。カント
一事をよく為す者は多くをよく為す。トマス・ア・ケムピス
余り考え過ごす者は何事をも成し得ない。シラー
まず汝自身を落ち着かせよ。そうしたら他人の間にあっても落ち着くことができよう。トマス・ア・ケムピス
とてもかくても、つとめだにすればできるものと心得べし。本居宣長
神は自ら助くる者を助く。フランクリン
心は盤石の如くおし鎮め、気分は朝日の如く勇ましくせよ。黒住宗忠
始まりはすべて小さい キケロ
意志あれば道は通じる。ハドソン
死を決するの何の難きことやある。ただ死すれば足る。難きは死地にありて生を決するにある。河村瑞軒
正しく思考されたものであるかぎり、それは必ず明瞭な表現をとる。ボワロー
鶏鳴に起きざれば日暮に悔あり。楠木正成
ときとして勇気は、征服者の心さえ動かす。ヴェルギリウス
道徳的勇気が正しいと感ずれば、なしえないという個人的決意はない。ハント
一つの冷静な判断は千のやかましい会議に勝っている。なすべきことは光を与えることであって熱を与えることではない。T・W・ウィルソン
人間の一生について、また彼の運命全体について決定するのはただ瞬間のみ。ゲーテ
過ぎ行く時をとらえよ。時々刻々を善用せよ。人生は短き夏にして、人生は花なり、彼は死す。ああ、何ぞ死するの早きかな。S・ジョンソン
機会が二度君のドアをノックすると考えるな。ジャンフォール
大人物と小人物の差異は、一度意を決すれば死ぬまでやりとげるという覚悟があるかないかにある。シェリング
賢くなることを明日に延ばすな。明日の太陽は汝の頭の上に輝かないかも知れない。コングリーズ
最も堅固な決心は最も有用な知識である。ナポレオン
心強くして進め。汝のすべて往く処には汝の神も偕に在せば、懼るるなかれ戦慄くなかれ。旧約聖書
用事を弁ぜんとせば自ら行け。リチャード
およそ世に障害のない仕事はない。障害が大きければ大きいほど、その仕事も大きい。マクドナルド
力は一切のものを征服する。しかしその勝利は短命である。リンカーン
各人は天より与えられて、各自自身の思想の主人公たる権利を有す。スピノザ
思案しないで我々を働かせよ。これこそ人生を堪えるものにさせる唯一の方法である。ヴォルテール
偉人の達した高峯は一躍地上から達したのではなく、同伴者が夜眠っている間も、一歩一歩とよじ登ったのである。ブラウニング
他人を支配せんと欲する者は、まず自らの主人であらねばならぬ。マシンジャー
一つも馬鹿な事をしないで生きている人間は、彼が自分で考えているほど賢明ではない。ラ・ロシュフコー
敵に勝ったからとて勇者ということはできない。おのれに勝った時初めて真の勇者といえる。T・ブラウン
井戸を掘るなら水の湧くまで掘れ。石川理紀之助
一日延ばしは時の盗人である。上田敏
神は行動せざる者をけっして助けず。ソフォクレス
汝ら善き行いをもってその身の飾りとせよ。キリスト
初めに計画せよ。然る後に実行せよ。モルトケ
確信をもつこと、いや確信をもっているかのように行動せよ。ゴッホ
功の成るは成る日に成るにあらず。蘇老泉
心ある人は時間の損失を最も悲しむ。ダンテ
人の持つ尺度は、その異常な努力によってではなく、その日常的な行為によって測定されるべきものである。パスカル
真面目とは実行するということだ。夏目漱石
汝もし真に熱心ならば、後と言わず今ただちにこの瞬間においてなすべきことを始むべし。ゲーテ
一日作さざれば一日食わず。百丈禅師
ことばと行動は、神の力のまったく異なったモードである。ことばも行動であり、行動もことばの一種である。エマーソン
われわれがいくつかの危険に気づいているというので、動かずにじっとしていることを自己に課するならとんでもないことである。トリアッテ
人間の行動は思考の最上の通訳者だ、と私はつねに考えた。ロック
してしまえば片付くのだったら、早くやってしまったほうがいい。シェークスピア
一日善いことをしなかったら、生きている価値はない。ロバーツ
行いは必ず人に先んじ、言は必ず人に後る。大載記
君の心の庭に忍耐を植えよ。その根は苦くともその実は甘い。オースティン
この秋は雨か風かは知らねどもきょうのつとめの田草取るなり。二宮尊徳
幸運と愛とは勇者とともにあり。オヴィディウス
勇気こそ、君よ、これこそ男をも女をもいと美しく見せしむれ。テニスン
大人は虎変す。中国のことわざ
現在われわれは悪い時期を通過している。事態はよくなるまでに、おそらく現在より悪くなるだろう。しかしわれわれが忍耐し、我慢しさえすればやがてよくなることを、わたしはまったく疑わない。チャーチル
公正をもって生活すれば、ゆくとして安全ならざるところなし。エピクテトス
希望が逃げていっても、勇気を逃してはいけない!希望はしばしばわれらをあざむくが、勇気は力の息吹である。ブーテルヴェク
いやしくも悔恨しないことを欲するならば、人は何事もしないほうがよい。しかしながらまた、何事もしないところの人生も、ひとしくまた悔恨なのである。萩原朔太郎
己に克つの苦功を用ひずして、怒りを遷さず、過を再びせざるは、柔惰振わざるの士にあらずんば、かならず奸を掩ひ非を飾る者なり。大塩平八郎
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。織田信長。
昨日憎しと思ふこと心に染み、昨年の嬉しと思ふこと心につきて、はなれねば、それより根ざして、まよふとか、聞けり。松平定信
気随に成り行き候はゞ、一日一月と延び、一月は一年と遅々に及び、一生空しく打ち過ぐべし。土井利勝
道に堀があるからといって、渡るのを嫌って、そこに止まってしまったのでは、その人はいつまでたっても、進歩することは難しい。大きな溝の中に落ちたからといって、いたずらに悶えるばかりであったならば、その人は一生溝の中で終わらねばならない。藤原銀次郎
困難とは作業衣を着た好機会にすぎない。H・カイザー
諸君が困難に会い、どうしてよいか全くわからないときは、いつでも机に向かって何か書きつけるがよい。小泉八雲
今日はよく働いたと夕方になって考えることほど、私にとって大きな楽しみはなかった。大倉喜八郎
身には疾あり、胸には愁いあり、悪因縁は逐えども去らず、未来に楽しき到達点の認められるゝなく、目前に痛き刺激物あり、慾あれど銭なく、望みあれど縁遠し、よし突貫して此逆境を出んと決心したり。幸田露伴
境遇とか!われ境遇を作らん。ナポレオン
金を失うことは、小さく失うことである。名誉を失うことは大きく失うことである。しかし勇気を失うことはすべてを失うことである。チャーチル
男子、死中に活を求むべし。坐して窮すべけんや。范曄
理想はわれわれ自身のなかにある。同時に、理想の達成をはばむもろもろの障害もまた、われわれ自身のなかにある。カーライル
人もし忍辱の鎧を着て戦うときは、一人の力をもって八万四千の魔軍を挫くべし。釈迦
人は幸運の時には偉大に見えるかも知れないが、真に向上するのは不運の時である。シラー
禍福は天上より出ずるにあらず、地中より出ずるにあらず、おのれ自ら之を生ずるなり。説苑
キホ積まずば、以て千里に至るなし。荀子