はてなキーワード: カテゴライズとは
以下のブログにおいてホストに高額の金銭を費消する女性のことを「(実存的)貧困」とカテゴライズし、ブコメにおいて否が多めの賛否両論となっている。
「いったいホストに何千万もつぎ込む売春女のどこが貧困なんだよ(笑)」「ここです」。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/somethingorange.jp/entry/jituzonntekihinnkonn
批判の内容としては、「貧困って言葉を金銭的な貧困者から奪うな」「それは依存症だろ」「キャバや風俗のために借金する男性にそれを言ってきたか?」などなどだ。
歴史は繰り返すとしたのは、過去、自由という言葉にもそういった歴史があったからだ。
現代においては、自由は消極的自由と積極的自由に区別されている。そしてこの二つは非常に相性が悪い。
国家・権力に干渉されない権利のこと。具体的には信教や身体生命、経済活動の自由などが該当する。
自己実現できる権利のこと。したがって貧しくて自己実現できない者に対する生活保護やアファーマティブアクション、障害のために社会参画できない者のための各種施策も自由の実現の範疇に入る。
元来自由(liberal)というのは消極的な自由の意味だった(アメリカ憲法などからもそれは明白)。
何故かというと積極的自由を実現しようとすると、どうしても「理想的な人間」を規定する必要があり、国家によるお仕着せ(パターナリズム=家父長主義)をせざるを得ないからだ。
これは消極的自由を重要視する人からするととても認められるものではないため、消極的自由を信奉する人たちは積極的自由論者たちを「反動(反自由主義者)」などと攻撃した。
そこで、積極的自由論者たちは「私たちの考えるものも自由の一部なんですよ」と主張して現代に至るというわけだ。
自由主義者として有名なハイエクという学者は、これを「彼ら(積極的自由論者)は自らのイメージが悪いことを嫌って私たち(消極的自由主義者)の言葉(自由)を奪った」と表現している。
現代では消極的自由も積極的自由も、「自由」にカテゴライズされることが多い。特にアメリカなどでは「リベラル」というと後者が優勢で、ハイエクの危惧した「言葉が奪われ」た状態にあると言って良いだろう。
そこで、ハイエクなどの系譜にある人は「古典的自由主義者」や「リバタリアン(リバタリアンはハイエクの主張とかなり異なるが)」という言葉を好んで使っている。
そうなった場合、現在的な意味での貧困(経済的な貧困)への救済へのリソースは減らざるを得ないだろう。
こういった女性は「困難女性」として法や事業による救済対象となっている。話題となったColaboによる都の事業はそのモデルケースだ。
であれば風俗で借金しまくってる男性も同様に救済対象とするべきだと思うのだがこれまで無視されてきたようだ(少なくとも若い女性ほどには問題視されていない。「困難男性」などで救済の対象になっているだろうか)。何故だろうか。
まず大前提として、自分は某暇の人格は到底褒められるものでは無く支持出来ないという立場。
後結構前からブロックされているので個人的にムカついた私怨もある。(多分山本一郎や東野先生をフォローしてたからだと思う。後に後者はミュートからフォロ解)
よくColabo問題は暇空一派(暇アノン)の暴走であり、第二の余命事件だと指摘されている。ブクマカでも同様のコメントは多い。
そういう事にしたいのだろうし実際「お前がそう思うならそうなんだろうな」という感想で特に主張者に対し異論を挟むつもりは無いのだが
よって余命事件と安易に結びつける人間は基本的に党派性エコチェンバーか対立煽りカスなので一切無視して良い。
ブクマカならブロック推奨。問題を語るにおいてはただのノイズでしか無い。
ざっくり言えば思想的に偏った(と認定された)弁護士に対し余命というネトウヨアルファがネトウヨを扇動し大量の懲戒請求をかけた事件である。
表自風に言うのであれば「キャンセルカルチャー」「表現弾圧」の類である。
末路としては哀れネトウヨは返り討ちに遭い余命一派は訴えられて終了した。哀れっすねマジでw
多分自分達だけで無く、当のネトウヨからも黒歴史中の黒歴史扱いされてんじゃないかな?
弁護士の主張がおかしいのであれば言論で対抗すべきで、キャンセルカルチャーを人海戦術で仕掛けるのは頭のおかしい野蛮人がやる事である。
余談だが、当時の肌感で言うのであれば既に「ネトウヨ」が小馬鹿にされつつあった時代であり、余命にしても一部の極まったエコーチェンバーが騒いでいた程度の印象だったが
あの事件と在特会の体たらくが「ネトウヨは暴走し民主主義を否定する愚かな国粋主義集団」であるというイメージを決定づけた様に思う。
余命事件の場合は所詮はごく一部の弁護士が思想的に偏っているだけであり、その職務を妨害し仕事を奪う事に公益性は皆無である。
弁護士がおかしいと思うのなら、おかしいと思い支持しなければ良いだけだからだ。
それに思想信条の自由がある以上、その弁護士とやらが明らかな犯罪や倫理的にアウトな言動をしない限り、個人の自由である。
余命事件は日本国憲法の理念を踏み躙り凌辱しようとした文化的集団レイプ事件であると言えよう。
そこに正義は無い。ある意味憲法が嫌いなネトウヨらしいけどなw
しかしColabo(等の支援団体、社団法人)の場合は、余命事件とは異なる、しかし重大な違いがある。
Colaboらには多額の公金(税金)が支出されている事である。
公金が入っている以上、団体の活動にはある種の公共性・公益性が求められる為
思想信条の極端な偏り、及びそれに伴う公共性に欠けた事業や活動が行われる事は問題を超えた問題である。
公金の源泉である一般市民の公益性に反する可能性が高いからだ。
自分たちが望む政治的な活動がしたいのであれば、支持者の寄付金等の自前資金で活動するべきであり
故アベ首相のモリカケサクラ問題が未だに糾弾されているのも、政権が一個人・団体に便宜を図ったという事実は
①被支援者を政治活動(辺野古基地反対運動など)に参加させた事
③「リーガルハラスメント」「住民訴訟の濫用」等の造語により民主主義を否定した事
強い公共性が求められる公金事業で、本来であれば最優先で保護すべき被支援者を政治活動に繋げた事は
事業内容、ひいては団体の活動理念自体が一般市民の公共性・公益性に反していると認定されても仕方ない。
この点は他のブクマカや増田でも指摘されていたと思うが、本来政治色を最も薄めねばならぬ筈の支援事業で
事もあろうに被支援者(一般市民に含まれる人達)を政治活動に参加させる事は、最もあってはならぬ事である。
「あくまでも自主的に参加しただけ」という言い訳もあったが、支援者と被支援者という権力勾配の関係下において
団体の人間に「参加しよう!」と言われたら、果たして断れるだろうか?
被支援者が断って不利益を被る、と考えてしまうとは思わないだろうか?
ましてや生活困難な若年女性が、その生活を支援されている状況で断固として断る事が出来るのだろうか?
これを「全て問題無い」と言い切れる輩は、党派性エコーチェンバーか公共性の意識に極めて欠けた人間だろう。
政治活動自体は個人の自由ではあるが、その活動を支持しない人間にとっては公益性があるとは言えないだろう。
極端な話をすれば政治活動とはその理念に共感する支持者達だけが享受可能な私益であり公益性からは程遠い。
公金の支出元には、その理念を支持しない人間も当然含まれるからである。
私が与党色の強い政治活動を到底支持出来ない様に、政治的活動・思想を支持しない自由は当然尊重されるべきであり
政治色の強い活動に公金の一部が使われている(疑惑がある)事を容認しない姿勢も同様に尊重されるべきだろう。
会計の問題、疑義についても、公金が入っている以上公明正大な明朗会計が本来は為されるべきではあるのだが
残念ながらその理念に欠けている、または人的資源の問題により達成出来ない諸団体が多いのが現状ではある。
不正というよりは不適切・不適格な会計処理が存在した、というだけの話ではあると思うが
主に政治活動に使用された費用についてはそれは公金なので返金するべき、というのが自分のスタンス。
支援活動と政治活動の境目をなあなあにして不可分にしようとしている(様に見える)点については
個人的には「良かれと思って」やっている事だとは思うが、良かれと思って公共性に反した行為をやって良い訳では無いので
今一度公金、つまり一般市民の税金が使われている自覚を持って、後処理にあたるべきである。
私的な政治活動を団体の活動と繋げたいのであれば、自前の資金でやれば良いだけの話なのだから。
③はColabo及び支持者の主張だが、裁判・住民訴訟を起こす権利は、国民全員に等しく付与されているものであり
何がリーガルハラスメントなのか、住民訴訟の濫用であるかは、法の平等の下、法的に認定される必要性がある。
認定されなければあくまでも一方的な主張であり、その一方的な主張をマスコミを使ってさも事実であると喧伝した事は
法の下の平等の否定、基本的人権の否定、ひいては民主主義社会の否定であるとすら考えられる。
例えどんなに暇空が悪質な人間であろうとも、活動に疑念を感じ裁判を起こす権利、住民訴訟を行う権利は
まるで「何がリーガルハラスメントか濫用かは我々が決める」と言わんばかりの強気な態度は
公共性・公益性が求められる公金事業に関わるべきでは無いし、関わってはいけなかったのでは無いか?
という疑念を強くさせられる。
「良い事をしているのだから良い団体なので何も問題は無い」「良き事をする人達に指摘するのは悪である」
という意見を語るブクマカや増田も散見されるが、まさしく思考停止に陥ったエコーチェンバーに他ならない。
「人の善意は悪意より恐ろしい」という言葉の意味を理解出来ないものだと思われるが
善意だから多少のミスは許せ、公共性に反し被保護者含めた一般市民の公益性に反しても「良い事」だから許せ
というのは、自民党やナチスを盲目的に信用する脳みその無い家畜と何が変わらないのだろうか?
恐らくこういった趣旨の意見を書く増田やブクマカは多いだろう。
「陰謀論だ!」と断定するのは、時期尚早と言わざるを得ない。
そもそも公共性のある問題に対しての疑義を「陰謀論」として片付けるのは
ナチスがユダヤ人の主張を「ユダヤの陰謀」として弾圧したのと同義に思えてならない。
統一教会問題が、山上が最終的事件を起こすまで陰謀論として語られていた事を知らないのだろうか?
北朝鮮拉致事件が「差別主義者の陰謀論」として、有識者や議員までもが堂々と主張していた事実を知らないのだろうか?
ある事象に対する疑義が余程の荒唐無稽では無い限り、真か否かが証明されるのは裁判の判決であったり
少なくとも私には現時点ではかの暇らの疑義が全て陰謀論だと否定する根拠を持たない。(と同時に、全てが真実だと信用たる根拠も持たない)
アノンとカテゴライズし陰謀論者の烙印を押せば全ての疑念が封殺されるのは民主主義の否定に繋がる。
先人達がその血を持って築き上げた市民社会の理を否定する道理があるとするならば、陰謀論を語るものこそその道理を証明すべきだろう。
不可能だと逃げるであれば、それはただの陰謀論を語る陰謀論者でしか無く、余命事件に群がった脳みその無い家畜の群れと同等である。
ネトウヨ版キャンセルカルチャーと言える余命事件には公共性が全く無い一方
公金が支出された事業に対し「公共性(公益性)に反しているのでは無いか?」
例え発端がひょんなきっかけ(笑)であったとしても、実際の行動に公共性・公益性がある以上
それを否定するという事は即ち民主主義の否定に繋がってしまう。
勿論単なる誹謗中傷などは裁判で争って下さい敗訴したら当然の報いを受けろカスとしか言い様が無いが
(そして裁判の結果が確定するまでは 推定有罪で冤罪を発生させた草津事件の再来になってしまう)
その誹謗中傷の中に、「公共性・公益性が求められる団体への疑義」を含めるのは間違っていると考えられる。
公共性・公益性を否定されたのならば、我々の活動には公共性も公益性もあるという事を法的に証明すれば良いだけなのだ。
それをせず、前段階で御用マスコミやしばき隊という左翼版在特会みたいな連中を使って騒ぎレッテルを貼り
あるいは訴訟を匂わせ時には個人情報まで使って威圧し異論を封殺する行為は、権力・権威による一般市民への弾圧そのものであり
これこそまさに、集団による威力業務妨害で弁護士の職務を妨害し、圧力によって黙らせようとした余命事件と同じでは無いか。
マスコミや党派性エコーチェンバー集団を使い大合唱で正当性を主張した所で、単なる迷惑なノイズでしか無く
今まで同様のやり方で正当性を獲得してきたオールド左翼のやり方は極めて公共性が無く公益性に欠ける愚行であるので
悔しいながらも住民訴訟については最後までやり切る事を支持せざるを得ないし
その途上で間違ったレッテルを貼り妨害する愚行も、同様に否定していかなけれなならないのが、リベラリストの苦悩であるとも言える。
党派性エコーチェンバーの下らない反応は予想していたが、概ねテンプレート通りで何より。
右のアホも左のクズも同じなのだが、根拠もまともに示さずにジャーゴンのレッテル貼りを繰り返すばかりでは
サイレントマジョリティからの共感など到底得られそうに無いが、そもそも議論をする気も、議論をしようと試みる理性も無いのだろう。
知性はさておき品性に欠けるのは最近の自称左派の主流になって久しく、リベラリストを自認する者としては甚だ残念である。
過去のネトウヨと同レベルに陥り、失敗したネトウヨが外面を整える事を身につけた結果、相対的に自称左派はネトウヨ以下に成り下がった。
党派性に囚われたエコーチェンバーは知性と品性を貶める証左と言えよう。
アニメ漫画を叩かれてという動機が私怨だから公共性・公益性は無いというブクマカもいたが、これもまた程度の低い人治主義でしか無い。
例えばモリカケサクラ問題を追求した人間の中には安倍首相・安倍夫人に憎悪・敵意を抱いている人間は少なくなかったが
安倍を憎んでいるから不正を追求する事は即ち私怨である、とはならないだろう。
発端がどうであれ実際の行動が公共性・公益性に反する動きを追求する行為から大幅に逸脱していなければ
嫌がらせや妨害では無く(少なくとも法的には)「正しい行為」となる。
正しく無いかどうかは、議論であったり法治主義による判断の結果によって定められるべきである。
芸術性重視はともかく、「文章表現そのものの持つ可能性を追求した」なんて前提はそもそも無いぞ もちろん文章表現の芸術性も基準ではあるが
そもそも純文学は日本文学独自の概念なので海外の作品は含まれない
近代文学が発展していく中で、わかりやすく大衆化していくことを拒んだ作家たちの歴史、の先に位置する作品群を純文学と呼んでいる
ただ純文学の流れの中でSFみたいなジャンル小説の手法を取り込んでいったこともあって、じゃあそれは純文学なの?違うの?ってのも論争を呼んできた
結局は批評家の共通認識や出版レーベルによってカテゴライズされてる現状
アトムの時代ならいざ知らず、現代において「10年に1度の傑作」なんて言えるアニメが誕生することは絶対にない。
その年度において圧倒的に面白いアニメはあっても、それらを5年分5作(豊作の年も考えると10作)ほど戦わせて見てどれが一番かが決まることなんてまずないのだから。
人間が持つ物差しがそれぞれに歪んでいる以上は、創作物の良し悪しの比較なんてどんぐりの背比べにもならない。
たとえば「けいおん」と「まどマギ」と「SHIROBAKO」のどれが一番面白いかを決めろと言われたら、多くの人がそんな質問をしたバカを鼻で笑うだろう。
各年を代表するアニメ1本ずつでさえもきっとまともに決まらないのに、その10年を代表するようなアニメが絞れるはずがない。
10年おきに区切って「その10年における一番オモシロイと思ったアニメ」だって、その10年間にアニメを300本以上見ている人間に聞けば「決められるはずがないだろ……日替わりとはならなくても来月に聞かれたらまた答が変わってると思うよ」と答えるだろう。
「これは10年に1本だ!」なんて言う連中なんてせいぜい10年の間に5本程度しかアニメを見てないようなハイパーニワカだよ。
そんな奴に聞いて意味のある答えが返ってくるはずがない。
「10年経ったけど同じ系統としてカテゴライズ出来るアニメが1本も生まれなかったと言っても過言ではない」というアニメだったらいくつか存在するけどな。
これぐらい挙げれば分かると思うけど、これらの「10年に1度出てくるかどうかのアニメ」っていうのは、それが本当に刺さりまくった人からすれば「その10年における最強アニメ」になるかもだけど、多くの人にとってはただの珍しいアニメでしかないから。
本来「社会的弱者」なんだけど「社会的」が省略されているので誤解を招く。
社会的支援を必要としている、自力では十分な生活を成り立たせられない存在が社会的弱者。
女性、高齢者、障害者などは弱者属性で支援を受けやすかったけど、就労可能な年齢の男性はそれだけで支援の対象から外されてしまう問題があった。
こうした存在を浮かび上がらせるために、「男性にも社会的弱者はいますよ」ということで、わざわざ性別をつけた弱者男性と名付けた。
一方、女性の社会的地位が向上した結果、女性全体を弱者属性とみなすのは無理があるのではないかということで、弱者女性というカテゴライズが必要なのではないかというのが直近の議論。
なので、いずれにせよ主に経済や生活の面で社会的支援が必要かどうかが弱者かどうかの判断基準であり、異性にモテるかどうかは関係ない。
「適当にヴィーガン語ったら怒られた」「ヴィーガンの定義はこういうもんだから問題になりやすいんですよ」という会話としてある種当然の流れなんだから流石に問題ないでしょ
そりゃあらゆる指摘を「お前の意見は何もいらない、気持ちだけ聞いて!」と説教にカテゴライズするならそうも言えるだろうが、それはそもそもネットで公開するのが間違い
もちろん、エピソードトークを交えて「チック症やPTSDや統合失調症などある種の人にとっては、どうしても避けられないことだったりする」「社会に馴染めず苦しんでいる体験を共有する、配慮を」
みたいな書き方にすれば、アホ猿どもがそれは大変だ、気をつけなければならないね、のような偽の納得をすることは把握している
が、新たな「迷惑」の基準を見つけるだけだし、そもそも彼らが健康な人間のために「申し訳なさそうに常に迷惑をかけないように気にかけながら社会に馴染もうと努力している」という美談ありきで「できないなら仕方ない」と言ってるだけ
24時間テレビで障害者を感動ポルノにしてるレベルの知能しかない
迷惑ベースのカルト信仰信者、無能・論理的思考能力皆無の馬鹿どもは、自分自身の有害迷惑思考こそがそれこそ世界標準でいう「病気の人を差別する」「病気の改善を阻害する」「賃金を下げる」ような、「迷惑」にカテゴライズされることを理解できないらしい。
ガイウーッス
本日は日本において野菜の日、ベジタブルデーとなっております。
8月31日といえば夏休みの最終日と呼ばれてた奴ですが皆さんは宿題はちゃんと片付けていた方ですか?
私はこの通りズボラな感じで内申点を落としまくっていた感じです。
とはいえ、意味不明な家庭では先に終わらせていたら意味不明な課題を出されることもあるという家庭であってはならない理不尽を体感させられることもあるらしいです。
ですので計画的に、それっぽく、自分の実力を出し切らない程度にやってる姿を見せなきゃならないのかもしれません。
まぁでもそこまで上手くやっても色々文句付けてくるのが理不尽な奴なのでやっぱりどうしようもないかもしれません。
それはそれで“今後は関わりを避ける人”としてカテゴライズする必要があるかもしれませんね。
夏休みの終わりに焦りながら書き物しまくるのは普通にしんどいですからね。
上手くやりましょう。
ということで本日は【カテゴリ分けよいか】でいきたいと思います。
有害な男性性に背を向ける、というのはそういうことじゃない。全然違う。
自分を「男性」とカテゴライズして、自分の思う「男性性」から得られる特権を当たり前のものとして享受することを止めようということだ。さらに言えば、目の前の人を「男性」や「女性」とカテゴライズするという発想から、まず自由になろうということだよ。
だから、
「暴力でいろいろ解決する発想から放たれる」はまあ、いい。有害な男性性の典型だからな。ただし、専守防衛を旨とし自衛のための最低限の戦力を保持することは、国際法の観点からこれを違法とまではされないらしいから(※)、自衛のための最低限の戦力は保持して、殴りかかってきた相手を怯ませるくらいの力の行使は許されるとして、あとは逃げるための脚力くらいは鍛えておけ。暴力的なこの社会で暴力から身を守るには、いろいろと努力が必要だ。
「性的に消費」は、内容によるけど、表現の自由の範囲内のことなら自分が疚しくない範囲で好きにしたらいい。ただその場合も、対象が「女性だから」興奮する、とか考えてはいけない。興奮する対象であるかないかだけが重要で、対象が男性か女性かなど些末なことにこだわっていはいけない。それはフェミニズムではない。Ok?(※※)
「女性にモテたいという願い」は、いけない。とりわけ「女性に」というところがよくない。冷静に考えてほしいが、あなたは生物学的・社会的に女性であればどんな人にでもモテたいのか。生まれつきそう願っていたのか。あなただって、小学生のころは「●●ちゃんに好かれたい」とか、あるいは中学校くらいでは「アイドルの〇〇ちゃんサイコー」とか、そういう対象を個人に絞った願望をもっていたのではないか。それが「相手を人として扱う」ことの第一歩だったのだ。その基本を踏み外してはいけない。いつからか、現実の対象に絶望したあなたは「女性」という仮想のカテゴリー全般に仮託して自分の願望を語るようになってしまった。それはよろしくない。従って、「女性」というカテゴライズを行った上で、これに「モテよう」という目標は、差別的で醜悪なものとなってしまう。だが、目の前にいる「誰か」に好かれたいと願って努力することは、極めて真っ当であり、なんならその姿は美しい。たとえば尊敬する先輩の期待に応えようとしている後輩、偉人の言葉に突き動かされて地球の裏側までボランティアのために邁進する人、そんな人の姿は誰もが応援したくなるはずだ。
「女性を女性として扱う以前に、人間扱い」という心構えも、よくない。「女性を」と始まっている時点でもういけない。あなたが心がけるべきなのは、相手を「男性/女性」とカテゴライズしてしまうその発想自体だし、何なら自分自身のことも「男性/女性」とカテゴライズするのをやめたらいい。それは、「中性的に振舞え」ということではなく、あなたの自認が何であろうが、それを、あなたが何かをし何かを考え装い行動する際の足かせにしない、と考えるということだ。あなたの行動が、結果として、この社会で一般的とされる男性的な行動であるとしても女性的とされる行動であるとしても、そんなことはどうでもいいことだ。そして。あなたが自由であるように、他の人も自由である、そう考えるということだ。
「目の前のあなたは女性であるが、私はあなたを女性ではなくて人間と考えますよ」とか、そういうややこしい操作を頭の中でするのは止めてくれ。そんなことを考えているうちはあなたは全く自由ではない。それよりも、ただ「目の前のあなた」それ自体を、一人の人として見つめよう。その結果、その「目の前のあなた」がたとえば最高だと思ったら、ただ「あなた最高ですね」と言えばいい。「ねーちゃん、おっぱい大きいな」とか「エロい」とか「美人だね」とか「好きです」とか、そういうジェンダーロール的に学習したようなセリフを吐くのは一端止めよう。「男」として振舞うのは、止めよう。そういうことだ。
どうだろう。少しは理解いただけただろうか。
(1) このエントリはマジか、ネタか。あなたはどちらだと感じたか。
※念のために言っておくが、この一文はジョークだ。「個人の生き方には国際法の常識は適用されないのでは…」みたいなクソレスがつく前に言っておくけど、そんなことは100%分かった上でジョークを言ってるんだからな?
第一に、既に女性は社会的に「弱者」としてカテゴライズされているので、あらためて「弱者女性」という言葉は必要ない。それに対して男性は「強者」とカテゴライズされているから「弱者男性」という概念が意外性をもって受け止められる。
第二に、男性は「女性と子供を養うための稼ぐ能力がある」ことが普通に期待されている。女性は非正規雇用で非婚でもあっても「一つの生き方」として承認されるし、非婚女性を揶揄することはジェンダー差別という規範も確立されつつある。それに対して、男性は非正規雇用で非婚である場合は文字通り「落ちこぼれのダメ人間」と見做され、多様な生き方の一つとして承認されているとは言えない。
第三に、これが一番重要な点だが、男性が「童貞で金もない」というのは、依然として「笑える」だけの余裕があり、自虐としての「弱者男性」が成立しやすい。他方で、女性の「男性経験がなく金もない」は、想像される状況が深刻で全く笑えないので、「弱者女性」という自虐が成立しにくい。事実、独身中高年女性の貧困率は極めて高い。「バキ童ちゃんねる」の女性版が全く見当たらない、ということがそのことを象徴している。
https://yashio.hatenablog.com/entry/20230729/1690639161
usi4444
MtF女性スペース反対だけで悪魔視しリンチするLGBT運動をハイソ民はどう思っておられるのか。 LGBT 社会 差別 ジェンダー
こ れ は す ご い
ここまで全力で「私はTERF(Trans- Exclusionary Radical Feminist)です」
って主張してるのすごいね。
というすがすがしいまでの意識表明がされていて感動した。
https://b.hatena.ne.jp/usi4444/bookmark
幸せそうなツイートにいちいちやっかみコメントをして回っているのだが
こういうアカウントを見ると