はてなキーワード: カテゴライズとは
ではここで、ワイが昔書いた日記を本邦初公開するやで
客のいる売り場で怒号を飛ばしたり、無断欠勤を繰り返したり、人を選り好みし無視や陰口を繰り返したり、
人の過去の恥を嬉々として話したり、文章で知識を共有する取り組みを今更恥として非難したり、他人が意にそぐわないとすぐ不機嫌をあらわにしたり、
主語の欠けた曖昧な説明を投げておきながら受け手の理解度不足や要領の悪さとでも言いたげな態度をとったり、
というのは、この私が2年半この職場で働いて実際に見聞きした有様である。
改めて列挙してみると、ほんとうに以前の職場やそこで関わった同業他社の方々とは異なるというか、根本的にマインドが低いと言わざるを得ない。
私とてそこまで意識高い系のつもりではなかったが、この職場のあなた方が、心底軽蔑せざるを得ないほど人間を雑に扱い、
内輪に引きこもり外界を拒絶し、部族の慣習に従わない人間を排撃する、底辺を地で行き一切の自省なく、
走性のみで挙動を成している昆虫がごとき生き方を晒して何の疑問も恥も抱かない人々であるがゆえに、
私程度の人間ですら相対的に意識高い系にカテゴライズされてしまうのである。
残念ながら、所詮はこれが手に職をつけること能わずな人々が集まる肉体労働年収200万円台の世界である、ということか。
私が生ゴミなら、あなた方は何なのか?信念も自己客観性も哲学も何も持ち合わせていないあなた方が得ているのは自由ではなく無秩序であり、
「ネトウヨ」がただネットの右翼という実態を言葉にしただけのもので、他に無難な言い換えようも何もない言葉なのに対し、「パヨク」ってそれに対抗して蔑称みたいなものを生みたいという謎の劣情から生まれたレッテルなので、空虚なものにしかならない。ということが、ネトウヨには理解できない。
そういう言葉を無理に作ろうとすること自体に、「蔑称」「差別用語」を使って何かを侮辱したいというネトウヨ心理の知性のなさ、醜さそのものが現れているという、本当になんか救えない現象だよなあ。
「蔑称」を捻り出すことと批判をすることの区別がついてないから「ネトウヨ」って「カテゴライズ」をされることが、本人たちには永遠にわからない。
リベラルが愚行をしないわけではないので、それを普通に論うことばなんていくらでもあるんだけど、それを思いつかないのか、それ(論理的で、汚くない批判)に満足できない汚言症だからか、軽蔑に「対抗」しようとして、よりネトウヨと呼ばれるような存在になるネトウヨ。
ああ不毛。
バーナム効果(バーナムこうか、英: Barnum effect)とは、星座占いなど個人の性格を診断するかのような準備行動が伴うことで、誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分、もしくは自分が属する特定の特徴をもつ集団だけに当てはまる性格だと捉えてしまう心理学の現象。(Wikipedia引用)
◯◯占いとかパーソナル診断とか、その結果で当人がポジティブになれるなら都合よく信じて生きればいいという考えなのだが、
ネガティブな影響を強く受けているなら「これはバーナム効果であり、私自身を捉えた話じゃない!」と都合よく信じない強かさも必要だよなーと思いまして。
毒親/親ガチャ/発達障害/弱者男性/LGBTQ/……などなど、“生きづらさ”にどんどん名前がついていって、そのカテゴライズに自分を当てはめて100%自分を言われてるように感じるのは辛いだけだ。
例えば「毒親に育てられた人は、親の顔色気にして生きてきたから自分の感情が希薄だ」みたいな発言があったとして、これにバーナム効果を感じられないとただネガティブを抱え込むだけだ。別に感情を出すのが得意じゃない人なんて山ほどいる。大人の顔色伺う経験なく育つ事のほうが稀だ。こんなの多数に当てはまることを言っているだけだ。
そんでSNSってのは日常以上にそういった話題が目に入りやすい。何なら一度反応するとオススメとして類似話が表示されまくる。その投稿も、文字数制限や共感バズリ狙いなどで、本来必要な補足情報が削られ刺激の強いワードで固められたものかも知れないのに。
生きづらさを感じている人
境遇の近い人を見て安心を得たい、ポジティブになりたいという目的でなら触れれば良いし、
目的なくネガティブワードの底無し沼に浸り続けてるなら、これは自分の内面を言ってるんじゃないかもしれない、とバーナム効果という言葉を思い出して立ち去る強さも持ってほしい。
以下のブログにおいてホストに高額の金銭を費消する女性のことを「(実存的)貧困」とカテゴライズし、ブコメにおいて否が多めの賛否両論となっている。
「いったいホストに何千万もつぎ込む売春女のどこが貧困なんだよ(笑)」「ここです」。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/somethingorange.jp/entry/jituzonntekihinnkonn
批判の内容としては、「貧困って言葉を金銭的な貧困者から奪うな」「それは依存症だろ」「キャバや風俗のために借金する男性にそれを言ってきたか?」などなどだ。
歴史は繰り返すとしたのは、過去、自由という言葉にもそういった歴史があったからだ。
現代においては、自由は消極的自由と積極的自由に区別されている。そしてこの二つは非常に相性が悪い。
国家・権力に干渉されない権利のこと。具体的には信教や身体生命、経済活動の自由などが該当する。
自己実現できる権利のこと。したがって貧しくて自己実現できない者に対する生活保護やアファーマティブアクション、障害のために社会参画できない者のための各種施策も自由の実現の範疇に入る。
元来自由(liberal)というのは消極的な自由の意味だった(アメリカ憲法などからもそれは明白)。
何故かというと積極的自由を実現しようとすると、どうしても「理想的な人間」を規定する必要があり、国家によるお仕着せ(パターナリズム=家父長主義)をせざるを得ないからだ。
これは消極的自由を重要視する人からするととても認められるものではないため、消極的自由を信奉する人たちは積極的自由論者たちを「反動(反自由主義者)」などと攻撃した。
そこで、積極的自由論者たちは「私たちの考えるものも自由の一部なんですよ」と主張して現代に至るというわけだ。
自由主義者として有名なハイエクという学者は、これを「彼ら(積極的自由論者)は自らのイメージが悪いことを嫌って私たち(消極的自由主義者)の言葉(自由)を奪った」と表現している。
現代では消極的自由も積極的自由も、「自由」にカテゴライズされることが多い。特にアメリカなどでは「リベラル」というと後者が優勢で、ハイエクの危惧した「言葉が奪われ」た状態にあると言って良いだろう。
そこで、ハイエクなどの系譜にある人は「古典的自由主義者」や「リバタリアン(リバタリアンはハイエクの主張とかなり異なるが)」という言葉を好んで使っている。
そうなった場合、現在的な意味での貧困(経済的な貧困)への救済へのリソースは減らざるを得ないだろう。
こういった女性は「困難女性」として法や事業による救済対象となっている。話題となったColaboによる都の事業はそのモデルケースだ。
であれば風俗で借金しまくってる男性も同様に救済対象とするべきだと思うのだがこれまで無視されてきたようだ(少なくとも若い女性ほどには問題視されていない。「困難男性」などで救済の対象になっているだろうか)。何故だろうか。