はてなキーワード: 身分とは
そりゃあ身分は高いほうがいいだろ?
ちょっと前、朝日新聞WebにNEC子会社社員が懲戒解雇の不当を訴えるみたいな記事が出ていた。
https://www.asahi.com/articles/ASM6S3J88M6SULFA008.html
記事に依れば
『男性側の代理人弁護士らによると、男性は2016年からNECのグループ企業に出向し、大阪市内で郵便物の仕分けなどを担当していた。』
とある。
記事中の会社名で少しばかり検索すればわかるが、このNEC子会社はSIerだ。
SIerに務める53歳の男性正社員が郵便の仕分けを担当している。
この時点で男性正社員の業務状態は相当にイレギュラーであろうことが推察できる。
郵便物(あるいは社内連絡便)の仕分けは、一般的に外注の事務員が行う仕事だ。
職に貴賤はないけれど、少なくとも53歳の男性正社員が携わるには違和感がある。
郵便物仕分けの業務に就く前に、とっくに馘首されていてもおかしくないのに会社に残っていられる時点でおかしいのだ。
郵便の仕分けをしていた事業所が閉鎖となり、他にさせる仕事がないからビルメンテの仕事はどうか、と打診したら拒否されたので懲戒にしましたと云う話。
仕事がトイレ掃除だろうが何だろうが、給料出るだけいいじゃないか。何の業務だったら満足だったのよ、このひと。
これで訴えられたら人事も立つ瀬がないだろう。
俺は自分の仕事の相場観を確かめるため、時折転職サイトやハローワーク求人検索で同業種の求人を眺める。するとNやらFやらHやらの子会社SIerが仕事を流す『パートナー企業』と称した外注先の求人がちょくちょく目に入る。
・Word,Excel,PowerPointが一通り使える
などの条件を並べ立てた挙句、基本給が15万円ほどに数万円の固定残業費(30H迄)、その他手当は交通費のみなどという壮絶な求人情報が平然と提示されていたりする。
労働生産性の観点から見れば、この絶望的な求人に応じて雇用され、子会社SIerに派遣されて更に客先常駐する社内SE(とは名ばかりのIT用務員)の仕事に携わる労働者の方が郵便物の仕分けをしているおっさん正社員よりもはるかに優れていることは想像に難くない。
しかし、おっさん正社員に支払われていた給料は彼の人が会社から受け取るそれを凌駕していたはずだ。
記事はこう結んでいる。
『NECは「本人の意向や家庭の事情を考慮し、最大限の配慮をした。対応に問題はなかった」(広報)としている。』
もっぺん言うが、これで訴えられたら人事も立つ瀬がないだろう。
一番美しい世界は、おっさんも希望する格好で仕事場に残れて、地方のIT求人ももう少しましに、できればおっさんと同じぐらいの給料を得られるようになることだろう。
しかし現実ではおっさんが馘首され、地方の糞みたいな求人はちっとも減らない。
これはもう単なる愚痴というか、前々から思っていたことで、でも傍から見たら病人の開き直りにしか見えないだろうから、読まなくて結構なんですけど。少なからず不快になるだろうし。書いて発散するタイプなので書くだけです。
結論からですけど、「病気で働けないわりに旅行やコンサートは行けるんだね、都合の良い病気だね」 みたいなことを言って病人を追い詰める人は、本当に消えて欲しいですね。せめて黙っててほしい。
私(統合失調症、手帳二級、年金受給してます)は幸運ながら言われた事はないですが、これらの言葉はネットはじめ、病気に理解のない人からほんとうによく目に耳にします。
でもさあちょっとだけ考えてよ。
・決まった日に決まった時間に決まった場所に行かなくてはならない
・休むと周りに迷惑がかかる
……という仕事と、
・急に取りやめにしても途中で帰っても誰になんの迷惑もかからない
……という遊びじゃ、難易度が全然違うでしょ。まずそこが想像できてない人が多すぎるんですよ。
私は今、週に3度病院にデイケア(作業療法のことで、心のリハビリみたいなものです)に通いながら、心身に障らない程度にライター仕事やイラストレーター仕事をちまちまとやっていますが、それでもそこに行き着くまでには相当時間がかかりました。数年単位の入院を繰り返したり、毎日沢山薬を飲んだり。ちなみに今も、今後再入院の可能性はじゅうぶんにある、と主治医からハッキリ言われてます。
そんなふうに、健康な人の3分の1くらいの時間と労力しか仕事や治療に割けないのは、前述したように、仕事は生半可な体調やメンタルではできないからです(治療も同じです、病院の主治医や担当スタッフと話し合ったり相談して通わせてもらってる身なので)。
そもそもコンサートや旅行だって、私らメンタル病みには娯楽であると同時にリハビリであり社会復帰の訓練でもあるんですよね。1人で人混みを歩く練習。1人で満員電車に乗る練習。決まった時間に始まるライブへ、途中で体調を崩すことなく参加するっていうのも訓練ですね。仕事だって途中でダウンしたり職場までたどり着けなかったらアウトなんですから。
あと、その「働けないけど遊べる連中」、多分大半が、遊びの途中で具合悪くして無念のなかタクシーで家に帰った、みたいな苦い経験一度はしてると思いますからね。少なくとも私はそうです。皮肉混じりに「都合の良い病気」なんて言われるけど、こちとら都合が良かったことに対して毎日感謝と安堵しながら生きてますから。
……というかね、病人からたまのささやかな楽しみを奪わないでくれ。
毎日一年中部屋に閉じこもって布団被ってりゃ満足なんでしょうかね? 同じ働けないでも、楽しみがあるのと無いのとじゃ何もかも全然違いますよ。別に働けない連中を叩きたいなら叩いてくださって私は一向に構わないけど、そうやって叩かれて外に出ることをやめた病人を、間違っても「引きこもり」だなんて言わないでくださいね?
もちろん働かなくても遊べる時点で、経済的に恵まれていることは分かっています。親の脛かじりと揶揄されても、お小遣い程度の金しか稼げない私には反論の言葉がありません。でも親はいつか死にます。そうなれば障害者年金と生活保護でなんとか凌ぐしかない。短期的には恵まれているけど、長期的に見れば腰抜かすほどカッツカツですよ。そもそも厄介な病気抱え込んじまった時点で人生ハードモードなわけで。簡単に「良いご身分」なんて、ちったあ想像しろよ。イマジンだよイマジン。
……なんか死ぬほど口悪い上に悪い方向から開き直ってるし被害者意識バリ強な文章になってしまいましたが、実際これが私達の見てる世界の1面でもあるので。ほんとうに書いてストレス発散したかっただけですね。次からはチラシの裏に書きます。
(あと最後、これも前々から思ってたんだけど、「働いてる」ってそんな尊重されることか? 頑張ってるねエラいねってされるようなことか? 結局自分の生活のために働いてるんでしょ? 少なくとも私は徹頭徹尾自分のためだけに働いてる。別に社会奉仕とかじゃないじゃん? 働けない障害者叩かずに居られないほどストレス溜まってんなら会社辞めたら?となりますねまあ)
■追記(のような返事のような)
・あの犯人手帳持ちだったんですね。知らずに書いてた。同じく精神疾患持ちの友人がTwitterで都合の良い病気ですねって言われていて怒りのまま書いたんですけど、いや偶然ってあるもんですね。精神病への偏見が深まらないといいが。
・「休んで好きなことしていて申し訳ない」って思ってるってのは精神的に休めてないから、私ほどとはいかなくても開き直るのも大事だと思います。人生に休養は必要。
俺は日本史大好き人間だが、普段日本史で得た知識が即座に役立つことはめったにない。
……のだが、このニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20190617/k10011954891000.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190617/k10011954891000.html
「出挙」、日本史Bの古代で出てきたと思います。普通覚えてねーと思うけど。あと、進学校じゃないと触れないかも。
「すいこ」って読む。
農民に春に種子を貸し付けて、収穫の際に利子をつけて返済させる仕組みだ。
ここから中世には貨幣経済の進展とともに私たちのイメージしやすい貸借が一般化していく。
古代から中世にかけて、農民たちは生活が不安定ゆえに、種を借り受けなくてはならない。あるいは、身分ゆえに、半強制的に貸付を受けなくてはならない。
その分、秋には利息付けて返さなくてはならない。富む者は益々富む。
冷害などがあったらどうなるか。借金が膨らむばかりだ。そうして農村は天災だけでなく人的要因により疲弊したりする。
話を現代に戻そう。ブクマ諸賢は「手数料」が実質的な利息であると見抜いているし、さらには私がこのあと述べたい隷属状態に陥りやすい構造に触れているブコメもある。
「手数料」はペイミーに支払われる。この実質的な利息にまず目が行きがちだが、前述の通りもう一つ隷属の問題があるのだ。このあたり突っ込んで考えてみよう。
それは、先に支払われた分、ちゃんと働かなければならないと言うことだ。先にカネをもらうと言うことはそういうこと。
二つのパターンが想定される。まずは労働者の側が困窮に喘ぎこのシステムを頼らざるを得ないパターン。
もう一つは、ひとつめのパターンと連動して、上から半強制的にこの仕組みを利用せざるをえなくするパターン。
給与であるにもかかわらず、前払いは借金の性質を帯びる。前払いは前借りに他ならない。
一回だけと思っても、どこかで金銭的な窮地があり前払いが当たり前になってしまうかもしれない。
そうして、雇い主に対する隷属が強まる。
具体的にどうなるのかというと、無理なシフトや出勤を頼まれた時、断りにくくなることが想定できるだろう。「借り」があるからだ。
ペイミーと企業なんか連動しているに決まっている。アルバイトを前払いで支配しうる(賃金を少なく抑えて支配しうる)構造にあるのだ。
出挙は国家も私人も行なった。古代国家も、有力な田堵なんかも。人に課す税金のようなものだ。そして、その人を雁字搦めにして隷属し支配する。
立憲民主党については本当にヤバイ集団だと考えているので、このエントリーに書き残しておく。
なぜ匿名かというと、彼らが職場や自宅、あるいは俺のSNS上のアカウントに実害のある攻撃を仕掛けてくるのではないかと恐怖しているから。
もともと現在進行系の政治にあまり興味はなかった。首相が変わっても選挙があっても「ふーん」程度の感想しか持たなかったが、
高校時代の政治経済の科目は大好きで、資料集をよく読んでいた。
現在につながる政治の事象として印象深く覚えている最初の出来事は、チンパンと蔑称で呼ばれていた福田首相の退任。
「あなたとは違うんです。」という発言が大きく報道されたときには、馬鹿な政治家だと思った。
その後、当時の民主党が政権を奪取する。このとき、高校の数学教師だった親父が「かなりまずいことになりそうな予感がする」といっていたのをよく覚えている。
そしてその後、事業仕分けのテレビ・ショーが放映されその予感は現実となる。
当時、国立大学の工学部の学生になっていた俺はスパコンを使った研究に従事していた俺は、言いようのない怖気に襲われた。
俺の研究はスパコンがなければ成り立たない。計算速度が早ければ、それだけ試行回数を増やすことができ、他に先駆けて結果を出せるのだ。
それを「二位じゃだめなんですか」とあたかもエンジニアが名誉を追い求め、実利に結びつかないもとを作って遊んでいると言いたげな物言いに嫌悪感を覚えた。
そんなエンジニアをバカにした政策を進めているときに発覚したのが蓮舫のマジコン事件だった。
このとき、「ああ、この人達は完全に馬鹿だし、エンジニアを馬鹿にしているんだな」と思った。
というわけで、そのころから民主党政権は嫌いだった。鳩山政権については特に言うこともないだろう。
それでも、政権が仕事をしているんだなと思った事が一度だけある。あの、俺の友人を飲み込んでいった忌まわしい東北大震災だ。
あのとき、政府は慣れないなりに必死に対処をしていた。「枝野寝ろ」のタグをつけた140字の投稿を、当時すでにツイ廃であった俺も書き込んだ。
それも、あとで菅直人の危機管理のときにやるべき権限委譲をやらず、素人同然の浅知恵で指揮をしようとしたという事実を知って無の表情をするしかなくなったが。
本題。なぜアイツラがやばいか。
ひとえに"おしどりマコ"と"横川圭希",その周辺の集団を支持しているから。
おしどりマコのことは伝聞の形でデマを撒いていることを知っていて、昨年東京で演説をしているときに支持者に話を聞いた。
「これは科学的根拠はあるのか?」と。
すると、支持者がみるみるうちに集まってきて俺を囲んで罵声を浴びせ始めた。殴られるかと思った。あと勝手に人を菊池マコの信者に決めつけた。
俺は演説をやっていると詳しい話を聞く癖があり、主張に納得し、支持することもあれば、わかり会えないこともあるが、
これを書くのも怖くて仕方がない。彼らの一人は俺の顔を撮影しており、執拗に名前と身分を聞き出そうとしていたから。
もし俺が教えていたら、ネットに顔を晒し、職場に抗議をするくらいは平気でやるだろうと思う。
こいつらはかつて幅を利かせていた暴力的左翼と何も変わっていない。そう確信した。
万が一、彼らが政権を再び握るようなことがあれば、もっととんでもないことを平気でやるだろう。
自民党政権はベストではない。よくやっている分野もあるが、経済政策も教育政策も、統計や年金の問題も大いにあるし文句は言いたい。
だが、人を囲んで罵声を浴びせる奴らよりははるかにマシなはずだ。
そう思って、ささやかだが「立憲民主党だけはやめろ」と周囲に伝え続けている。
・あいつらは
・やめろ
怖いな。
「人権」とは「すべての人々が生命と自由を確保し,それぞれの幸福を追求する権利」
あるいは「人間が人間らしく生きる権利で,生まれながらに持つ権利」であり,
だれにとっても身近で大切なもの,日常の思いやりの心によって守られるものだと私たちは考えています。
子どもたちに対しては,「命を大切にすること」,「みんなと仲良くすること」と話しています。
国民1人1人は憲法によって侵すことのできない永久の権利として基本的人権が保証されていて、
権利の濫用(らんよう)や公共の福祉に反しない限り、十分に尊重されなければならないとされています。(11条、12条)
すべての国民は法の下で平等であって、人種・信条・性別・社会的身分などにより差別されません(14条)
集会・結社及び言論・出版・表現の自由が認められています(21条)
すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活をする権利があります(25条)
国民はその能力に応じてひとしく教育を受ける権利があり、保護者は子供に普通教育(義務教育など)を受けさせなければなりません(26条)
河野 真太郎氏の私が一橋大学の教員を辞めた理由〜国立大に翻弄された苦しい日々
これが分断統治であるということの意味は、「教養対専門」の対立は、「大学改革」を押し進めるための人為的な対立だ、ということである
これは事実に反すると思う。「教養対専門」の対立は「大学改革」を押し進めるための人為的なものではなく、新制大学発足当初からある構造的なものである。そして、大学設置基準の大綱化を奇貨として大学側が旧教養部を解体したことで、むしろその対立が緩和されたと考えられる。
例えば、平成10年の大学審議会の議事録に以下の認識が残されている。
△ 教養部再編の時に各大学が積極的になったのは、教官グループ内の差別がなくなるということがインセンティブになったから。これから、大学院専任と学部専任という仕分けができてくるとすると、教養部の時に一度解決しているのに新たな差別を持ち込むこととなり、非常に強い抵抗があると思う。
また、旧教養部の成立から解体までを詳しく分析した第3章 教養部の形成と解体 一教員の配属の視点から 吉田文は、大綱化の背景を以下のように要約している。
P.61
一般教育に関わる規定が大学設置基準から消えた背後には、一般教育そのものに対する大学内外からの批判や不要論よりもむしろ、一般教育のみを担当する教員やその所属組織の存在に対する大学教員自身の卑下と格差解消の願望の歴史があったといってよいだろう。
もちろん河野氏も「とはいえ、大綱化によって、それまで存在しなかった教養対専門の分断・対立が生まれたという話ではない。その対立はずっとあった」と述べてはいるが、ではその対立とは一体どんなものだったのか。
P.65
民主化の旗手のようにいわれて新制大学に導入された一般教育であるが、専門教育しか行ってこなかったうえに、新制度下の組織編成も専門教育を行う学部が中心であった旧制度下の大学には、一般教育の根付く場がなかったのだといってよい。新制のもとでの教育がスタートしてわずか数年のうちに一般教育の座りごこちの悪さは、どのようなタイプの大学にとっても問題となって、それぞれの方式で解決策を見出そうとした。
で、一般教育の座りごこちの悪さはどのようなものだったかというと、
P.66
こうした(引用者注:教養部を法制化して学部と格差を埋める)要望が出されるに至った背景には、教養部が劣悪な教育・環境条件におかれていたことがある。名古屋大学の場合では「学部だと・・・文科系で教授三十二万五千円、助教授が十七万円。・・・理科系になると教授百二十三万円、」助教授でさえ七十五万円になる。それが、教養部となると、教授でも文科系が十三万五千円、理科系四十四万七千円。とても学部助教授諸君の足元にもよれない。」(名古屋大学、1989、p. 250)といった状況が記されている。こうした物質的な条件格差に加えて、「ごく最近のことだ。全学教授が顔をそろえた席上で『大学ではねぇー、こんな風にやっとるんだが、教養のはどうだね』と、・・・教養部の教授たちは、さぞくちびるをかみしめたことだろう」(名古屋大学、1989, p. 251)というような、条件格差を身分格差とみなすような日常が教員間には醸成されていたようだ。
このように、大綱化のはるか前から深刻な「教養対専門」の格差と対立が存在したのである。上記の名古屋大のエピソードは1950年代後半から60年代初頭の間のものと思われるが、そのエピソードをわざわざ1989年発行の大学史に載せるぐらいだから、大綱化直前の大学内の空気を推して知るべきだろう。そして、大綱化によってカリキュラム編成の裁量拡大が大学側に与えられ、このような格差を是正するために旧教養部を解体することを大学教員側が決断したのである。
ツイッター上には大学設置基準の大綱化によって旧文部省が大学の教養教育を破壊した、という言説が蔓延っている。しかし、教養教育を破壊したのは1990年代の当の大学教員側である。「教養対専門」対立に関する河野氏の主張も含めて、これらは大綱化を巡る歴史修正主義ではないか。
「波よ聞いてくれ」が面白くて読み込んでいたら、ふと20年以上前に聞いたラジオドラマを思い出した
途中から聞いたものなのでタイトルもわからんし記憶違いだったりあやふやな部分もあるだろうがとりあえず思い出す限り書き出してみる
主な登場人物
主人公…都会にあこがれる10代の少女、普段は鶏の世話を父親に押し付けられ不満たらたら。古びたポータブルラジオから流れる流行りの音楽が唯一の楽しみ
父親…養鶏農家で守銭奴でパワハラ親父。家族のことは便利な奴隷としか思ってない
大まかなストーリー
主人公は学校以外は友達と遊びに行くのも許されず毎日鶏の世話を父親に押し付けられ父親の暴力と言いなりの母親の存在の理不尽な環境に耐えつつ、古びたラジオから流れる流行りの曲が唯一の慰めの中いつか都会での自由な生活を夢見ている毎日
そんな折都会から養鶏場へ働きにやってきた青年と出会い徐々に青年に恋心を抱くようになる
月日は流れ主人公の誕生日が目前にやってきて長い交渉の末つかみ取った父親との約束で「鶏の世話をがんばったら新しいポータブルラジオを買ってもらえる」のを楽しみにしていたが
父親が購入目前になり「自分にとって役に立たない娘の物より、自分にとって役立つものを買った方が有益である」という理由で約束を反古してその資金で新しい農機具?を購入してしまう
当然主人公は怒るが父親は聞く耳を持たず暴力にて黙らせてしまう。母親からも何のフォローもなく、またやりたくない鶏の世話を続ける毎日へと戻ってしまう
主人公の我慢の限界に達した頃に青年からプロポーズを受け、主人公は隠れて青年と都会へ駆け落ちする計画を画策し始める
しかし青年は父親に娘との結婚を願い込み養鶏場の跡継ぎになると大勢の前で宣言。結納品として2日で3個の卵を産む新品種の鶏を100羽用意する
実は青年はその村の出身であり、青年が子供のころに青年の家の農場が経営危機の際に主人公父に借金を申し込んだが相手にされず破綻。青年の父親は自殺し家族は離散して青年も村を離れることになった
その復讐のために身分を隠して農場へ入り込み、農場を乗っ取るために主人公へ好意のあるふりをして近づいただけで恋愛感情は一切ないと聞かされる
その事に主人公は青年に怒りをぶつけるが青年を改心させることはできず逆に青年に暴行されてしまう
もはや世の中のすべてに絶望した主人公はこうなったのもすべては鶏の所為だと思いつめ、自宅のすべての鶏舎に火を放ち自身もその中で焼身自殺をする
怒り狂う父親と青年、何もできない母親、田舎なので消防も間に合わずただ燃え盛る炎を見つめるしかない住人
誰も主人公を心配することなく燃え盛る鶏舎の中かすれ気味のラジオの音だけがただ流れていた(終)
すっごい後味の悪い話だがストーリが面白くて富士山のふもとのキャンプ場でただただ聞き入っていたのは今でもよく覚えてます
ググって調べようにも情報が断片的過ぎてどうにも正解にたどり着けないのですが、誰か知りませんかね