はてなキーワード: 身分とは
毒親の元に生まれた男は、成長と共にDVする側に回るか、もしくは、家を出ていくの2択しかない。
一方、毒親の元に生まれた女は、家事手伝いという身分があるせいで、家からでていくことすら許されない。
それに加えて、男は毒親叩きをすると、女々しいやつだ、卑怯だなんだと叩かれる文化的因習があるため、男は沈黙せざるをえない。
こいう事情があるんじゃない?
大学を休学した俺は、『深夜特急』に影響された量産型バックパッカーとして、東南アジアとインドを放浪してた。既にiPhoneのある時期だったから(4か5だったかな?)、大した苦労もせず。
東南アジアで3ヶ月くらい過ごして、まだその頃は民主化されてなかったミャンマーを陸路で越えるのが無理と判明。バンコクのインド領事館でビザを取って、飛行機でカルカッタへ飛んだ。
バンコクで買ったコピーのロンリープラネット片手に、カルカッタの刑務所の様な宿(4畳でベッド以外何もない。共用のシャワーは水しか出ない)の前で日本語話すインド人2人組に声を掛けられた。日本語勉強中とか言ってたかな。あと「この通りで先日欧米人が殺された」とか言ってた。
2人組と一緒にカルカッタでインド映画みたり、例のごとくマリファナの話になったりで、酒飲んで夜まで過ごした。
俺はすっかり初対面のインド人と過ごすカルカッタの夜を満喫していた。
で、翌日、友達の実家のある田舎に行くから一緒に行かないか?となった訳だ。
刑務所の様な宿の前で待ち合わせて、市内を観光した後、車に相乗りして、その友達の田舎へ向かった。前日の2人組に1人(名古屋に妻がいると云うダルビッシュ似のイケメンで日本語ペラペラ)が加わってて、俺を含めた4人で向かった。
6時間くらいの道のりだったか。インド音楽を爆音でかけながら狭い車内で4人で踊り狂いながらビール瓶をラッパ飲みして、窓から投げ捨てながら突っ走った。思い出すと気狂いだけど、その時はめっちゃ楽しかった。
ダルビッシュ似の実家に着いた頃には日が暮れていた。町というか集落で、道路がめちゃくちゃボコボコだったのを覚えてる。
ダルビッシュ似の家はその集落の長みたいな感じだった。集落の他の家がただの土壁なのに対して、ダルビッシュ似の家だけはタイルでお洒落で。
結局俺はそこで2週間くらい過ごした。基本居候しながら集落でグダグダとすごしてたけど、途中で車で2時間くらいかけてブッダガヤにも行ったりしたな。バラナシは危険とかで行かなかったけど。
集落の周りは何もないひたすら原野。一度丘の様なとこに上がったけど、ほんと見渡す限り原野で所々の丘の上にヒンドゥーの祠的なのが見えたっけ。
集落では子供らと遊んだり、英語教えたりもしてたけど、すぐに飽きてきて、近くの町でバイク借りようぜ、となった訳だ。俺から言い出したのか、話に乗せられたのかは、覚えてないけれど。
で、いざ町へ行くと「今金がないから出してくれ。お前が日本帰ったら必ず振り込んで返すから」となって俺が全額出した。
その時、俺はもうそいつらと連絡先交換して、完全に友達と思ってた。
レートとかも考えずに多分40万くらい払ってたと思う。アホだけどラリってたし額もよく覚えてないけど。
で、俺はその後もデリーまで旅を続けた訳だけれど、帰国後そいつらとは音信不通。結局金は帰ってこなかったという話。
今じゃ40万なんて一月で稼げる身分になりました、とさ。懐かしいな
コメント見てたら、
yu173
これじゃない? http://tabisora.com/blog/travel/india2018-raj/ 「コルカタで「ガヤの実家に行こう」と誘ってくる男は詐欺師です」
ワロタw
この2枚目の写真のサダムって奴。こいつだわ。はじめに日本語で声かけてきた奴。約6年越しの衝撃w
写真だと分からないけど、めちゃちっこかったこいつ。150cmちょい。ムスリムだから写真撮るなとか、言ってたんだよ思い出した。
つか、他の奴らもみんなイスラムだから写真ダメとか言ってたな。
アホな俺は当時、それすらも「群像崇拝禁止ってこんなものか!」とか新鮮な気持ちになってたのは、秘密だけど。
まぁ、こっそり撮った写真は残ってるけど。もちろん詐欺師だと疑って撮った訳じゃなく。日本に帰ったら、友達にこの体験を自慢してやるぜ!ってノリで隠し撮りしてたw
1枚目のラージって奴ともなんか集落で飲んだ気がするなぁ、いろいろ楽しい思い出もあるんだよなぁ。
あいつら元気かなぁ
どうしてもやりたい仕事で、20代の私はそれを諦められなかった。
実家との折り合いが悪く、私は父の遺した養育費を全部使って東京へ引っ越した。
だけど、やっぱり月収なんて上がるわけがなくて。
どうしても、それでも、あきらめたくなくてこの仕事にしがみついてきた。
人前に出る仕事でもあるから、そんな私を「頑張ってるから、支えたい」という人が出てきて。
なんだかんだで人として好きになってしまった。
もうすぐ、同棲を始めるかもしれない。半分くらい彼の家に転がり込んで、一緒に暮らす面でいいところ悪いところを両方見て、いいかも、という気持ちになっている。
家賃は彼がほぼほぼ持ってくれるみたいだ。だから、私はやっと、生活が立ちゆかないところから這い出せるよう。
だけど、私がなんとか手に入れた家具や家電は、引っ越すときほとんど処分することになるはずだ。
これらを処分してしまった後、私が彼以外の人と暮らすことになったら、何かで耐えられなくなってしまったら、もう一度これらを買い戻すことができるだろうか。
いや、公務員の中でも身分や待遇面で日本の裁判官は特殊。高給が保証されてる代わりに、残業代はつかない。任期中にクビにならず、人事異動には黙って従う。
そういう社会経験しか積んでない人が高プロとかの労働関係の判決とかを出すんだよ。職を奪われた原告がどれだけの覚悟で裁判に臨んでるかなんて分かりっこないよ。
原告の年収1年分が裁判官のボーナス1回分とかざら。舐められてる。庶民側が勝てたら奇跡。
アメリカは弁護士経験20年くらいのベテランが裁判官を務めるが、日本は大卒から純粋培養で育てるから、中小企業の苦しさは全く想像もつかない。
エアープランツです
そもそも勝手に生息地から連れてこられて売り物にされたオイラの気持ちが分かるか?
でもよ、おまえの知識量ならあの増田よりも早く世間に知識を届けることだってできたろ
そうすれば・・・アイツも枯れることはなかったってのにチクショウ!
人間なんてもう信じない
誕生日がそもそも地球独自の風習であり、他の惑星や異世界においては「公転周期上において自分が生まれた日と一致する暦となったタイミングを祝う」という概念そのものが存在しないと解釈する。
元いた場所において次の誕生日まで残り200日であったのなら、そこから200日が経過した日にお祝いし、そこからまた元いた場所の公転周期と同じだけの日数が経過したら次の次の誕生日を行う。
上2つの方法には一つ問題がある。自転周期の違いである。1日=24時間というのは地球上においてのみ成立するものであり、単純に日数だけで計算した場合はズレが生じる。そこで元々いた場所を立った際の誕生日までの残り時間を算出し、それがちょうど使い切られたタイミングでその日1日を誕生日だと決定する。その後も時間数において誕生日を管理する。
上記の方法には誕生日が毎年変わるという欠点がある。そこで、上記の方法で算出された最初の誕生日を「地球上における誕生日」として設定し、毎年その日に誕生日を祝うことにする。その場合、母国における年齢とは別に「地球人としての年齢」が設定されることになる。これは地球上における身分を認める場合の便宜上の措置としても有効と思われる。
地方では田畑を継ぐ長男以外はゴミ扱い、四男五男ぐらいになれば生涯、家長の奴隷みたいな身分(当然未婚)なんて例はちょくちょくあった
江戸なんか男女比が3対1ぐらい。地方から農家や漁村の次男坊、三男坊以下が流入してくるわけだが、その手の連中は日本橋あたりで日雇い人足しながらたまーに吉原にでも行って、30~40代で死ぬのが通例(当然未婚)
彼らがおらんかったら、隅田川の堤やら明暦大火後の復興やら廻船問屋による物流の発展やらも、2割ぐらい効率が落ちてたろう
たかだか戦後の高度経済成長期で一般化した習慣を、世界の常識みたいにドヤ顔されてもなあ
――ただ、成人男性たる者、妻子を養ってないと格好が付かない価値観はわかるよ
誰だって(俺だって)親元離れて自分で働くまでは、親の世話になった
しかし自分だけ親に世話になった分を下の世代に返さないのは申し訳ないとは思う
だから子どもがいる世帯は俺の代わりに下の世代を養ってくれていると認識していて
私が暮らしたかつての家庭は、母子家庭の上に毒親で、なんでこんな人が自分の親なんだろうって思い続けてきた。
小学生、中学生、高校生、大学生、そして社会人になっても、その時々で、この人が早くいなくなってくれればと思い続けてきた。
当時は2DKの団地に親と兄弟の3人で暮らしており、常に喧嘩の声や襖を叩きつける音が響き渡るような修羅の家だった。
子どものことを所有物の如く自分より下に見て、勉強すれば「偉そうに」とけなし、気にくわないことがあると罵り、出てくるまで部屋の扉を叩き続けたり、服をきたまま風呂場で放水するなど、心の平安は無い家だった。汚い靴を履くなと、他に履くものがないのにも関わらずスニーカーを捨てられたりもした。もちろん買ってくれるわけもないので、とても困ったのを覚えている。家族以外に対しても、同僚の悪口を電話で延々と上司に語るような性格の暗さを持っていた。
一方でびっくりするくらいの図々しさも持っており、職場で当時仲良くしていた人が病気で亡くなったときに、その人が乗っていた車を形見だと言って乗り回していたことがあった。後に、遺族の訴えで車は取り返されることになる。
親は時代時代の決め台詞を持っており、小学校中学校は「先生に言うぞ」「友人に言うぞ」。これはお前の本性を先生や友達に言うぞ、ということで、今から考えるとなんてことはないのだけど、当時は泣いて止めた。あと「施設の人が来た」というのもあった。これは孤児院の人が、迎えにくるぞという脅しで、保育園・小学校低学年の私には効果てき面だった。高校に入ると「かっこばっか」、これは思春期特有の髪型を気にしたりする姿を揶揄する言葉だった。付き合う人ができるとまた「向こうの家族に言うぞ」というのが加わった。
一度、親が務める職場で倒れたことがあった。親に安否の電話をかけると、菓子折りを持ってきて職場に謝れと言うので、言われるがまま菓子折りをもって職場の人に渡そうとすると、頑なに断られた。その人の表情からそれは遠慮などではなく、心底嫌われているというのが透けてみえた。親がその職場で何をしてきたか、察し・・という感じであった。その日の帰りは駅でめちゃめちゃ泣いた。
私たち一家は愛人としての身分として暮らした田舎を捨て、職を求めて町に出てきた貧乏一家で、慣れない仕事と生活環境で親には親なりの不満があったのだろうが、「育ててやった」という親の言葉が私を苦しめてきた。確かに、小・中・高と学費と生活費を出してくれたのは親だ。めちゃめちゃ貧しく、毎日の弁当を持つこともままならないような生活ではあったが、その当時は確かに親に支えられてきたのだ。
子供が生まれるちょっと前、私は縁を切った。結婚する前から言動がおかしかったが、子供に与える影響のことや、なにより毒親が自分に与える精神的な負担が大きすぎたため縁を切った。結婚する時に親が吐いた台詞を10年経つ今でも忘れることができない。
「探偵雇って調べたけど、あの家、評判よくないよ。」
絶句した。まさか自分の親がそこまでするとは思っていなかった。しばらく経って、あの時のことは本当かと聞いたら、本当だ、と言っていたので、お金のないなか本当に調べたのだろう。しかし、配偶者の家は両親共に本当にできた家庭であることは名誉のために書いておく。親の思考はとてもわかりやすく、自分の利益になるかならないか、なんだと思う。親は、男を誘うのが上手かったため、その時々で男がおり、その男の前では、「親は子どもの幸せが一番なのよ」と言っていたが、全く信じてはいなかった。
親の決め台詞に「アンタは他人以下」というものがあった。私はここぞとばかりに縁を切り、携帯の番号を着信拒否設定にし、およそ7年が経った。
最近になってよく携帯が鳴るのは気づいていたが、何かのアプリの設定でプッシュ通知がとんできているのかなと思っていたが、違っていた。
ある日、親からの留守電が入っていたため、着信拒否にしていても、着信があると軽くバイブが鳴るということに気がついた。
プッシュ通知だと思っていたものが、めちゃめちゃ電話をかけてきている親の所業だということに気がついた時はちょっとしたホラーだった。
着信拒否にしていても留守電が入るということも初めて知った。留守電の内容は金の無心だった。
7年経過した親の声は本当に親の声かわからないくらいのものであったが、それは親のものだった。
団地の家賃が払えず、市営住宅に移ったと聞くが、そこでもおそらくお金に困っているのだろう。
一人で生きるのにお金がかかるのは前から分かっていたのに、なぜ団地の家賃が払えなくなるほどになるのか。
働いているときにちゃんと貯めたり、厚生年金の中で暮らす生活の術はなかったのか。
罵りまくったせいで子どもも離れ、悪口ばかり吹聴するので友人もおらず頼れる人はいない。
なぜなんだ。なぜ、そんなに雑に生きるのか私には理解できない。
70歳になり、毒親の人生はもはや矯正の効かないところまで来てしまった。
このまま孤独に死んでいくんだろうな、と思う。