はてなキーワード: フィエスタとは
タイトルは釣り。俺はニワカなので彼のことを語れるほどには知らない。
でも彼の訃報がなぜか受け入れられないのでなんとなく吐き出してみる。語るのはチック・コリアのことではなく俺の心情である。
チック・コリアはアメリカ生まれのジャズピアニストだ。体重はたしか173ポンド。
2/12(金)、Facebookで公表された彼の死は世界中のジャズファンに衝撃を与えた。79歳、癌だった。
彼の経歴は華やかで、功績も語り尽くせないだろう。
若いころからスタン・ゲッツやハービー・マンなど有名なジャズマンと共演し、数々の名演を残した。
特にマイルス・デイヴィスとのバンドは音楽史に刻まれるべき出来事だろう。フュージョンの先駆けとなるサウンドを作り、フュージョンを開花させ、音楽の幅を広げた立役者の一人であり、新しい音楽が花開いた時代を牽引したバンドのひとつだと思う。
スペインやラ・フィエスタなど、ジャズや吹奏楽に興味を持ったら一度は聴いてみたくなる、一度聴いたら弾いてみたくなる楽しげな名曲もいくつも作った。
まあそんなのはどうでもいい。俺は歴史は苦手なんだ。ていうか今調べた。
俺はただ、去年の緊急事態宣言体制下でずっと彼の演奏を聴いていただけだ。
アドリブがつなぐランダムな演奏に見えて、実はしっかりした理論の上に成り立つ繊細で自由な音楽がジャズなんだな、とようやく分かってきたころ、緊急事態宣言が発令された。
色々なものがステイホームになった。ジャズの大きなライブイベント、東京ジャズもオンラインライブになった。
東京ジャズで一番心惹かれたのは、上原ひろみのカレイドスコープ。
きらめくような物悲しいような、何度も聴きたくなる演奏だった(誰か詳しい人がうまいこと解説してくれないかな)。
それから上原ひろみのライブ動画を見た。その中にはチック・コリアとの共演もあった。
(ようやくチック・コリアにたどり着いた!話が長い)
出会ってからはその動画を繰り返し見た。緊急事態宣言が解除されて家から出るまでずっと見た。
何がそんなに良かったかと言うと、楽しそうだったのだ。
他の共演者もみんな楽しそう。
まあぶっちゃけ楽しそうに演奏するジャズミュージシャンなんていくらでもいるのだが(そういうところが好き)、当時はその動画が妙に心に刺さったのだ。
一番最近見た上原ひろみが少し辛そうに見えていたので、そのギャップかもしれない。
正確に言えば、タモリのチック・コリア風ピアノを聴いたり、たまたま寄った店で見かけたリターン・トゥ・フォーエヴァーのアルバムを買ったり、全く触れなかったわけではないのだが、まあその程度だった。
モルカーのほうがヘビロテしてたくらいだ。
そして先週末、昼休みに覗いたTwitterのトレンドに並ぶ「Chick Corea」「スペイン」「Return to Forever」…
びっくりした。「あんなに楽しそうにピアノを弾く人が死ぬのか?」って思った。(我ながら意味がわからない)
ちょっと涙が出たけど悲しかったわけではないと思う。俺はニワカだし、悲しめるほど彼のことを知らないはず。
俺にとってのチック・コリアは「有名でピアノがうまくていつも楽しそうなおじさん」くらいのものだ。
久しぶりに例の動画を見た。やっぱり楽しそうにピアノを弾いていた。
こっちの動画も、あっちの動画も。全部楽しそうなチック・コリアが映っていた。
これはもう過去の出来事なんだろうか。なんだか受け入れたくないなあ。
「すばらしい音楽人生をありがとう。興味がある人たちは、自分のためにも誰かのためにも、これからも音楽活動を続けてください。世界はアーティストを求めているし、何より単純に楽しいのだから」
(追記)
上原ひろみのコメントを読んで、また動画の中の幸せそうな二人を思い出した。
寂しいなあ。
https://www.instagram.com/p/CLWq-q7pZry/?igshid=l7qd1wnit7oy
山田詠美の「姫君」という短編集を読んでいた。私は山田詠美のファンなので楽しく読んだ。巻末に、「蛇にピアス」などで知られる作家、金原ひとみが解説を寄稿しているのだが、それを読んでひっくり返った。
完全に誤読してる。解釈とかそういう問題じゃない。基本的な国語の問題だ。
短編「フィエスタ」は、「欲望」が主役だ。「欲望」という感情が擬人化され、その一人称で、自分が宿っているブスな主人公の状況を愚痴ったり嘆いたりして話が進む。「欲望」は、主人公のことを「主人」とよんでいる。
主人公の名前は瞳である。私はこれを読み始めた瞬間、「醜いだと?」と思った。ごめんなさいね。名前というのはとても大きな力を持っていて、他人事をは思えなかったのです。瞳だからではないけれど、私はこの主人公が好きだ
主人公→瞳と言う名前→自分の名前と一緒。えっ、名前なんて出てきたっけ?と本編を見直してみた。やっぱり主人公は「主人」としか呼ばれていない。でもなぜ誤読したかは分かった。
主人の瞳がせかしている。(中略)瞳はもうルーペ状態になっている。男の姿は拡大されている
金原は「の」を同格の格助詞として読んでいるのだろう。つまり、主人(である)瞳(ちゃん)。
しかし文章からも分かるように、ここは主人が男に見惚れている比喩なのだ。だから、この「の」は所属の「の」だ。主人(のものである)瞳。