もしも、主人公と同じ高校生の頃の自分が天気の子を見てたらそういう感想になったのは、多分間違いない。
その頃の自分は、皆が協力すれば皆が幸せになるし、そうして協力によって生み出された利益は自分にも返ってくるから自分も幸せになると思っていた。
ゲーム理論の一番簡単な部分を、上っ面だけで理解してそういう風な事をホンキで考えてた。
でも実社会でそれなりの時間を過ごして、功利主義を通用させられる状況の限界を知った。
自分が誰かのために犠牲になったとして、それが一時の不利益でしかなく最終的にはプラスに転じると言えるのは不利益の規模によるということだ。
友人のためにコーヒー代を貸す(おごる)ぐらいなら、すぐにそれは返ってくる。
でもそれがある程度の現金だとか、身分だとか、ハンコだとか、そういった物になっていくにつれて、巡り巡っても返ってこなくなる可能性が高くなる。
そして、そういった行為に対して返ってくる感謝ですらも、ある程度の上限はあるのだと。
特に、犠牲によって成された善行が人の記憶から消える速度は早いのだ。
自分が犠牲になって他人のために何かを為しても、捧げた自分自身に対して戻ってくるものは少なく、そして他人が同じように犠牲になってくれる保証もない。
そもそも、どこかで大きな犠牲を誰かが払うことになるロシアンルーレットじみた社会は、結果としてその構成員全員に強い不快感情を及ぼすことになる。
犠牲になるのなんて、ある程度まででいい。
全世界の人間と一人の人間の命が交換になるような状況であったとしても、本人や知人がその選択を選ぶ必要なんて無い。
世界規模のロシアンルーレットを回すしか生き延びる手段がなくなった世界なんて、滅ぶほうが正解なんだ。
今ならそう考える。
あの結末は「子供の理論」として作中では描かれている節もあるが、同時にすべてを自分たちで背負いこもうとするのも「子供の理論」であるという自己矛盾が意図的に仕込まれている。
じゃあ大人はどういった答えを選ぶべきなのかと言えば、それはラストシーンで語られているのだから私がわざわざ口にするわけもないわけで。
結局は、どんな結末なんすか?
世界なんてさ、どうせもともと狂ってるんだから
世界はあっという間に変わってしまった
囚人のジレンマは1回だけなら抜け駆けが合理的になるけど 連続囚人のジレンマだと協力が合理的になる的な 災害時にも整然と列に並ぶ国民性には そういう行動経済学を無意識に感じ...
昔の子供への教育は「かして」「いいよ」が当たり前だったけれど、今はそうでもないよね。 「今使っているから、終わったらかすね」というしつけもありになってきた。 時代の変化に...
増田が犠牲になればCO2排出量減るよ
子供の理論例を体現しなくても元増田読んだだけで普通わかる
近くの薬局でレトルトカレーでも買い出しに行くかな?あそこ高校生のたまり場だから イヤなんだが、キャッシュレス決済できるのは魅力なんだよなぁ
少年向けスーパーヒーロー番組でヒーローは犠牲になっていたか? どっちかというと他人=ヒーローに犠牲を押し付けていたような