はてなキーワード: 聖人とは
自分は人を傷つけるから人と接するのが嫌だ、と言った時に「皆誰かを傷つけてるんだから気にしなくていいよ」って言われた。けどそういうことじゃないんだ。
それが客観的にどうかなんて判断を求めているわけじゃない、他人の気持ちを気にしているわけでもない、私がそういう行為をするのが嫌だから、人と接したくないと言っているのに、まるでこちらが優しすぎて相手を気遣っているかのような聖人君子の解釈をなんでする。相手を気遣ってるわけじゃない、そういう行為をした自分が嫌で、そういう行為ができる自分がいやで、だからそもそも人と接すること自体が間違いだって思っているのに、まるで人は皆人と接して生きているんだよ、本当はみんなと仲良くしたいんだよね、気にしなくてもいいよ、みたいな謎の上から目線。そう言うことを言わせたいわけじゃない、そう言うことを言うってのはわかっていて、言わせたくない、私は私の優しさアピールのためにこういうことを言っているわけじゃない。
仲良くしたいわけじゃないし必要だから接しているだけ。生きていくために人と接する必要があるのはわかる。でも、人は皆人とわかり合いたいのだと思うんだ、自分が嫌な奴だと思われるのは別に他人の感情だからどうでもいいけど、そう言う行為をする自分が許せないというだけで、だから人とかかわりたくないのに。自分が傷つけるその他人に対して、自分のことをわかってくれとは言わないし思ってないし期待してない、でも、この気持ちを吐露する人には、この文章を読む人には、わかってほしいと期待してしまう自分が嫌だ。
ああ…言葉がめっちゃしみます…ありがとうございます。
>「普通」ならそんなことしなくていいのに、とその気配りがたまにむなしくなるときもありますけど…
これ、気持ちに余裕ない時にどうしてもそう考えてしまうんですよね。
相手はそこまで深く考えるより前に考えることを放棄してるから、私のこの辛さわからないんだろうなあとか…
防御壁が高く、すごい有ると思います。
元々人に興味ないとか言ってますが、たぶんその経験のつらさから
自分に興味持たないように暗示かけて生きてきたんじゃないかなーって思います。
その後の私なので、よけいに比べて聖人だと思う部分もあるのかもしれないです。
その聖人の解釈も、言われてみれば夫がそんなこといってたのを思い出しました。
たまに相手に分かるように伝えても、俺なりにやってるとかどうすればいいんだってなることもあるのですが、
徐々に分かってもらえるようパターン化していくしかないんですね。
ほんと、普通ならこんな苦労しなくていいのに…それだけは悲しくなる。
グレーゾーンの人にも色々あるので、
>周りが分かってくれないのは当たり前
と本気で思って平気な人もいるみたいなのですが、夫氏が「悲しい顔をする」なら、それは悲しいしその人なりに傷ついてきて、防御壁がどんどん高くなっているんじゃないかな?と思います。
「聖人」っていうのは、そんな自分を好きになって(理解しようとして?)そばにいることを選択してくれた人、というイメージなのかなー、と。
言われて悲しいことについて伝える時も、「あなたと一緒にいたいからこそ、自分の悲しい気持ちを学んでほしい」という流れで話すとわりと上手くいく気がします。(理解して、っていうのはハードルが高いし、理解できない自分を攻撃されてるみたいに思うらしいのですが、パターンとして学ぶ、というのは得意な人が多いそうです)
とはいえ、あまりにデリカシーがないことばかり言われると、「普通」ならそんなことしなくていいのに、とその気配りがたまにむなしくなるときもありますけど…。
夫氏は「なんの得にもならない」と言ってるそうだけど、そのつらさ実はあるあるみたいなので、診断までいかなくても知識を持つことで楽になれたらいいと思います。
何度か話したことがあるのですが、
が本当にそれです!夫自身も悲しんだ顔で「ほんとうに分からないんだよ。俺もよりによって一番だめなこと言って人を怒らせることがよくあるってこと理解してる。だからたまに何を言ったらいいか分からなくて言葉がすぐ返せないときもある」って言ってて…
だから理解しようとしても理解できないんだって感じで、傷つけようと思って言ってるわけじゃないってのも本当なんだと頭ではわかってても
私はこれだけ理解しようと歩み寄る努力してるのに、そっちはそういう努力してないでハナから「俺は理解できないんだ」ってあきらめてるじゃん!って思って悲しくなってしまって…
今までの人生もその通りで、周りが分かってくれないのは当たり前って環境だったみたいです。
だから、じゃあ分かってくれないなら最初っから歩み寄る必要ないよねみたいな…んでずっと学校とかでも特定の仲いい人はつくらず、ぼっち。
「よりによって」ってところを突いてくる感じ、すごく良くわかります…。色々本を読んだりして少しわかったのは、「相手も自分のことをわかってほしい」と思っているらしい、ということ。こっちがなんで傷ついているか本当に理解できていない、という前提に立って「あなたは思いやりがない(=私のことなんて好きじゃないんだ)」と思わないようにする…ということなんだけれど、難しいですよね。
でも、どうやらそういう人たちは「世の中がわかってくれない」と思うことが人生の中で多かったはず(「普通」の感覚が違うらしいので)なので、「わかってほしい」「どうせわかってくれない」という気持ちが強いらしい、と思ってなるべく冷静になれるように心がけています。
ああ…まさにそれだ…
夫は優しいけど、想像力が乏しいし元カノ関連では本当に傷ついたことが今もトラウマになって、たまにフラッシュバックして落ち込むこともあるし、そこに起因してるのかも。
例えば私がオシャレに詳しくなくて、でも彼氏(現旦那)には可愛いなって思ってもらいたくて、周りに自慢できるような彼女になりたくて
どういう服着てほしいとかある?どういう服が自分に似合うのかなあって言ったら、元カノ服のブランドに詳しいから聞いてみる?って言ったり
元カノの作ったカレーが美味しかったって話を聞いたから、どう作った感じなのか聞いたら、また元カノに聞いてみる?とか
私のプレゼントも元カノと相談して一緒に買いに行ったりしてたらしいし、
私と付き合ってるときも元カノと2人で遊ぶこともあれば、友達交えた3人で遊んだりしてたこともあった
そんなに元カノと仲良くしたいなら、自分と別れてより戻しなよ、自分は心狭い人間だからもう耐えられないし、分かれよって言ったら
着信履歴埋まるくらい連絡してきたから出たら、そういうのじゃない、私のことはなんていうか聖人みたいに思っててとかわけのわからないこといわれたなあ…
自分はそんな聖人みたいな人間じゃなくて、ただの人だよ。聖人でもなんでもない、悲しむし怒るし嫉妬するんだよって伝えた
長くなったけど、普通だったら気を使っていわない、しないことを平然とされてた過去がある。
その時のことは黒歴史って本人も言っててもうそういうことはないけど、全然また別の事で「いまそれ言って私がどう思うか想像しないの?」って発言されるときは
フラッシュバックしたりする…
どうやったら克服できるのかなあ、って思って
それなら自分もそういう風に相手を責められないようなことを持つことなのかなって思って=風俗で他の男とセックス経験するっていう馬鹿みたいな発想が浮かんだ
人に表面的なサービスをするとか、
人を愛せない人間が劣っていると思っているようだけれど、
「私は○○を愛している」と誰かが言っていたとして、発言者の利益=人間関係の確保と切って切り離せないわけで。
テレビ見るとそういうドキュメンタリーやフィクションが多いけれど、現実には稀だからそれを見せるのであって。
世の中は愛や感動のコンテンツを消費しすぎだと思ってる(これは書き手の個人的意見)。
「究極に人を愛する」というのは、みんな持ってる理想で、でもたぶん、ほとんどの人は達成してない。
表面的な行動ならいくらでもできる。
老人に席を譲ったり、同僚の仕事を助けたり、
病の友人に見舞いをしたり、落とし物を届けたり、
後進のためにできることをやっておく、
家族のためにサービスする、彼女にサプライズして喜んでもらう、
できるだけ楽しい思い出になるように「ニコニコ仮面」を被りお調子者を演じる。
思っていた通りの反応。
その繰り返し。
だけど、俺は人を愛せない。
俺を慕ってくれている家族や恋人、友人には本当に申し訳ないのだが、
愛する人のために命を捨ててもいいというような境地に至ったこともない。
あまりにも演技が上手くいってるおかげで優しいとか気が利くとか評価され慕われている。
けれども、それは全てただの行動だ。
そう学習し行動してるにすぎない。
もちろん、誰かが傷ついているところを見ると心が痛む。
だが、これは相手を思いやっているわけではないのだ。
誰かが傷つく可能性があるということは、いつか自分にその順番がめぐってくるかもしれない。
そういった不幸への恐怖心が俺の心を動かしている。
俺が募金をしないのは、募金を必要とするような大多数の不幸な人間のことまで考えてしまっては、
自分の心に生まれる恐怖心は膨大に膨れ上がり、日常生活を送れなくなるからだ。
だから当然アフリカの子供たちが何万人死んでいようが俺は救おうとも考えようともしない。
ただ己の範囲内でそういった人間がいると穏やかでいられないから、
他人の目からはそれは誰かを思いやった心から出た善意に見えるかもしれない。
しかし、俺からしたらストレスを減らすための自分のための行動でしかない。
どうすれば人を愛せるのか?
俺は人を愛したい。
だけど愛する心が無い。
こればかりはどうしようもない。
目が悪ければメガネをかければいい。
耳が悪ければ補聴器をつければいい。
足が悪ければ杖をつき、車いすに乗ればいい。
だが心が足りない人間はどうすればいいのか。
善意からくる行動をまねていれば、いつか答えが分かると思っていた。
誰かの喜ぶ顔を見れば、いつかこの冷めた心にも小さな芽が育つと思っていた。
だが、どれだけ待っても、芽はひとつも出ることがなかった。
元々そこに種はなかった。
俺自身、愛を信じていないのだろう。
本当に愛が素晴らしくこの世の真理であることが疑いのない事実であれば、
とっくの昔にこの地球は愛で満たされているはずだろう。
実際は今日も飢餓で死ぬ人間や殺される人間、貧困に苦しむ人間が
この地上には数えきれないほど存在する、今、この瞬間にも。
この世は地獄だ。
俺は単に、日本という社会、この時代に生まれ勉強することができ、
俺とアフリカの子どもの違いは、単に生まれた場所、境遇の違いだけだ。
俺がアフリカで彼らと同じように生まれたら、今のような生活は絶対に送っていない。
それは誰にも変えられなかったことであり、起きてしまったことだ。
愛せない人間はどうすればいいのか?
俺は必ず死ぬ。
産まれてきてよかったと一度でも思うことができれば、
自分も普通の人間と同じように趣味や仕事ややりたいことはもちろんある。
だが、それらは死への恐怖に打ち勝つだけの魅力にあふれる題材でもない。
愛だ。
人に愛してもらうのではなく、究極に人を愛する必要がある。
おそらくそれこそが死への恐怖に打ち勝つ唯一の手段であり、最も尊い行為だろう。
だが人を愛するには何が足りないのか未だに理解できない。
人を愛する人間と同じポジションに立てば何か分かると考えていた。
余計分からなくなった。
愛が素晴らしいのは分かる。
どうしても愛を手に入れたい。
親になり子を持てば分かるのだろうか?
表面上愛しているように見えて、子もそう思い信じている。
誰も知らなければいいというのは通用しない。
できる以上のことはやってきた。
何かを意図的に信じ込むことも試してみたがどうしてもできなかった。
愛はどこから与えられるのか。
愛を知る人たちが眩しい。
俺はこの先ずっと彼らに劣等感を持ちながら生きていくしかないのだろう。
俺は地獄にいる。
本ひたすら読んだらいいんじゃない?
あと、宗教はあくまで道具に過ぎない。宗教家が言っていた中身こそが全て。
17世紀のデカルト以前は全部「誰かが言ったから正しい」の世界。
だから、昔は宗教が世界のすべての知識を担っていたが、次第に科学的検証で宗教の取り扱う世界が狭まっていった。
と言っても、科学は再現性が取れるように物事を取り扱うために、物事を細かく見るため、「心」のような複雑なものは苦手としている。
なので、昔宗教の聖人たちが言っていたことがそのままいまでもつかえる。
と言っても、自分の頭で考えて比較検討しないとならないけどね。
神への信心なんていらない。
というより、神というのは、自分の外のものを抽象的に取り扱うツールみたいなものだと考えてる。
例えば、なんか知らないけど山の木を切りまくったら洪水がいっぱい起こるようになった。
今でこそ植物の根の保水効果ということが言える。でも昔は原因なんて確かめようがなかったから、「山の神が怒っている」と抽象化して取り扱った。
たとえば、今通りすがりの人を助けたとしても、それが必ず君に帰ってくるとは帰らないが、そうやって助け合いが当たり前の社会になれば、君が困った時に誰かが助けてくれるかもしれない。
これってもう永遠に終わんない気がする。
先日、ツイッターで「地雷は自分で避けてくれ。なんで苦手な人に配慮して描かないといけないんだ。苦手な人はブラウザバックの時代はどこに行った(要約)」っていう内容のツイートを見た。
それをリツイートしたリア友が「は?地雷の方が消えろ」とツイートしていた。
分からなくはない。
分からなくはないけど、うーんって感じだ。
わたしは特に地雷もない雑食だけれど、苦手な人がいるならわざわざその話題を振ろうとは思わないし、確かに地雷で苦手な人がいるのも分かってる。
分かってるけど、なんでわたしが好きなものを話すのを不特定多数の誰かに配慮しなきゃいけないんだ?嫌いなら見るなとはまさにそうだ。嫌いならわざわざ言うなよ、見るなよ。
それでも「目に入っちゃったりしたら仕方ない、ミュートしようにもミュートワードに設定するのすら嫌悪感。だから地雷が消えろ」とか言うならもうネットやるなよ。あなたが散々にこき下ろして地雷地雷言ってるコンテンツやカップリングが好きな人だっているんだよ。
「わたしの好きは誰かの嫌いで、わたしの嫌いは誰かの好き」みたいな、小さい子でも分かりそうなこと分かってない人多くないか?
あと、ファッション地雷。「地雷たくさんあって生きにくい…><」みたいなやつ。最近よく見かける。何、嫌いなものがお前のステータスなのかって感じの。これはもう意味わからない。勝手に悲劇のヒロインしててくれ。
嫌いなことばっか語んないで好きなものだけ語ろうぜ。
別に分からなくはないんだよね、所謂過激派な人の意見も。わたしだって聖人じゃあないんだから嫌なこと言われたら嫌なやつだな、いなくなれって思うことだってある、あるけどさ。
好きなものの話だけしてようよ。好きなものを話す自己紹介はよく聞くけど、嫌いなものでする自己紹介なんてそうそう聞かない。あなたの嫌いなものを聞きたいんじゃなくて好きなものを聞きたい。
というかそもそも地雷って言葉があまり好きじゃない。悪いイメージな気がしてしまう。
例えばわたしがA×Bが好きで、でもXさんはA×Bが地雷って言ってるとする。そうすると途端に自分の好きなA×Bのカップリングが誰かに嫌悪感を催させているものだと思えてしまって、喋りにくくなる。
苦手な人はブラウザバックでいいんだよ。嫌いなもんはわざわざ見にこないでくれ。わざわざ嫌いって言いに来ないでくれ。わざわざ名指しでdisらないでくれ。
「アホの子」についてブコメ等で宜しくない旨ご指摘をいただきましてありがとうございます。そして申し訳ありません。
言い訳をしますが、彼ら彼女らと私との間に、愛と信頼できる(と、こちらが一方的に思っているだけかもしれないが)人間関係がある前提で使ったのでした。読み返してみたら確かに気分の良くなる言葉ではないですね…。増田は聖人君子でもなければ天才でもないので言葉のTPOを間違える。申し訳ありません。
現在の仕事は教育関係ではありません。ごく一般の会社員。教員や教育関係に就こうとは思ったことはないです。あの仕事こそ増田なんかよりも聖人君子に近い人がなるべき仕事で、更に言えばもっと報酬と人手を割くべき仕事だと思っています。私にはとても無理。
あまり広くない世界で働いているので詳細はぼかしますが、口悪く言えば大人に対して同じようなこと「一緒に何が原因でこういう事態に陥ったのか考えましょう」という感じの仕事をしています。かなりダメ社員で成績は悪いし出世も遅いです。小さい細かい、そして金にならない仕事ばかりをやっています。その代わり長期間のお付き合いになる案件が多くて楽しくやりがいがありますが、それは会社にとっては更に宜しくない(割の悪い仕事をずーっとやっている)、というお荷物要員です。が、天職だと思っています。会社よ申し訳ない…
蛇足の手本のような追記を、元増田が思い立ったのは、この方法は、増田が開発したものでも、独自に気付きを得たものでもなく、増田の恩師から増田がしてもらったことを子供たちに返しただけなのだということを言わなくてはと思ったからです。ごく一部のブコメに天才とか良い先生だとか、大変気持ちが良く調子に乗ってしまう言葉もいただきましたが、ぜんぜん違います。重ねて申し訳ない。
そういう意味では、増田は凡人ですが、増田の恩師、K先生が天才なのかもしれません。
増田自身がまさに「アホの子」の元祖で、小5~6年の担任を持ってくれた恩師K先生との出会いがなかったら超ヤバかったのです。
増田は、小学校5年生の秋まで、掛け算九九を暗記しないまま素知らぬ顔でいました。
学校の勉強は良くできた方だったと思います。ペーパーテストなどでは基本的には98/100点などがずらっと並ぶ感じ、授業を聞いていれば大体頭に入り理解できる、先生の説明の途中で勝手に教科書の「応用問題」を解き始める感じの子供でした。そして、多動&注意欠陥の傾向が強い子供でもありました。今思えば先生からしてみたら割と厄介だったかもしれません。100点は取れないんですよ注意欠陥っ子なので。歴代の先生全てに「見直しをしなさい」「あとちょっと集中しましょう」と通知表に書かれ続けてきたタイプです。
で、小2で掛け算を習う時に「×の記号はその回数足すという意味です」と先生が言ったのを真に受けて、その回数足せばいいなら九九覚える必要なくね?と何故か曲解して思いこんだ。それから先は、分かりやすい2の段とか5の段とか以外は記憶せず「○回足す」で乗り切った。いや乗り切れるわけがないから、他の教科のテストは相変わらず95点とか98点とかだけど、算数だけ85点ぐらい。馬鹿だったわけじゃないのが災いして中途半端に平均的に点は取れていたから、当時のそれぞれの担任の先生も「増田さんは算数が苦手なのね」程度に判断されていたのだと思います。
ただ、九九を覚えていないと、3ケタ÷2ケタの割り算なんかを解くのが地獄なんですよ。あと倍数とか約数の概念が苦手というか、概念「しか」分かってなくて実践が全然できないという状態。正解できないから面白くない、面白くないから興味がわかない、という状態のまま、分数を学び、少数を学び、速度や割合を学び…、ちっとも理解できてないまま小5になっていました。完全にアホの子のできあがりです。
図形問題や証明問題のようなものや鶴亀算的な文章問題なんかは、式を作るところまでは合っている、が計算を間違う。それも理解できない間違え方をしている。割り算は勘を頼りに予想を立てた数パターンを足し算検証して合ったやつを正解としてみよう(足し算だけで最小公倍数や最大公約数をあてずっぽうで探す要領だったと思います。あんまり思い出せないし再現できる気がしない…)という超絶燃費の悪い解き方をしていたので、その時にイージーな計算ミスをしているだけなんだけど。そして間違わないときもあるので、先生からしたら何で算数だけ点数が悪いのか分かりにくかっただろうと思います。
ところが、K先生はなぜか(後に大人になってから種明かしをしてもらうのですが)、私が九九を覚えていないことを見破ったのですね。
ある日、放課後に一人で残りなさいと言われて、超絶びくびくしながら教室で待っていたら、教科書を山ほど抱えたK先生が、増田の算数嫌いを一緒に克服しよう、と言ってきました。クラスでも勉強ができる方の子供だったし、私より他に勉強を見てやった方が良い(失礼な言い草だな)子がいるのに!と、驚いて、そして腹が立ったのと同時に、凄く怖くなりました。
ばれたくなかったんです、アホだってことを。
ずーっとズルをしてきて、九九を覚えてないズルい生徒だとばれたくなかったし、分かってないのに何となくやり過ごしてただけで本当は何にも分かってないアホだってことも、絶対にばれたくないと思ったんです。K先生は生徒思いで自由なタイプの教師で私はとても好きでしたから、なおさらばれるわけにはいかなかった。なので家で計算ドリルやればいいでしょ!とか、じゃあ塾に通う!とか、お父さんに教わるからだいじょぶ!とか、忘れたけど色んな事を言って逃げようと思った。でも誤魔化されてくれずに、「ひょっとして九九を覚えてないだろう?」と当てられてしまい、号泣したんですね。恥ずかしいのと悔しいのと腹が立つのと色んな悪い感情が渦巻いたのを覚えています。凄く辛かったし恥ずかしかった。
そこから多分数回、K先生は放課後付きっきりで相手をしてくれました。まずは九九を覚えてきなさいと、絶対に役に立つんだから先生を信じてくれ、と言われました。K先生を信頼していたのでその言葉も信じることにしたんです。結果的に信じて大正解、あんなに苦労した計算がこんなに簡単に!と思いました。アホの子丸出しです。
まぁ勘で割り算解いてたわけで、7の段とか8の段とかの九九の深いところがあいまいな程度でうすらぼんやりとは覚えていたのだとは思います。母親に白状したら本屋さんで九九の表のを買ってきてくれたのでトイレと風呂に貼った、小5なのに。でも小5だから本気だせばすぐ覚えられる。
その後は、取りこぼしていた分数(九九が分からないと約分が厄介)、少数(分数が飲み込めてなかったので少数と割合の概念が全く理解できてなかった)、速度(以下同)などなど躓いていた個所を一通り先生と一緒におさらいをしたら、算数でも98点取れるようになった。100点はめったに取れません注意欠陥っ子なので。
一度、放課後に残されている私を同級生の男の子が数人からかいに来たことがありました。優等生と思われていた増田が!と面白かったんだろうと思う。ただでさえ劣等感に苛まれてべそをかきながら(実際に分からなくなるたびにべそべそ泣いていました)教わっているのにクラスメートにからかわれて死にたい気持ちでしたが、K先生が、勉強ができるようになりたいと頑張っているものを笑うな、と怒ってくれたことを鮮明に覚えています。
その後は、からかいに来た生徒たちも一緒に「K先生と算数をおさらいする会」がしばらく続いたように覚えています。最後はかなり大所帯になっていた記憶。ほとんどの生徒から慕われていたのです、K先生は。
大人になってもこのクラスの同窓会は続いています。高校卒業した年の同窓会で、ふと思い出してK先生にどうして九九が分かってないことがバレたんですか?と聞いたら、テスト用紙の隅っこにいつも消しゴムで消した計算跡があって気になっていたこと、ある日消しが甘い時があって見てみたらひたすら関係ない足し算をしている跡のように見えるが何故???というところから、観察をしてみたらひょっとして、と思ったということでした。掛け算を何度も足してたのを気付かれたくなかったし恥ずかしかったのか、証拠は隠滅していたんですね姑息なことに。筆算はそのまま解答用紙に書いてあるのになぜ別の計算が必要?そして何故消す?、というところから類推されていたらしい。本当に些細なことからだったし、それ気付かれてなかったら、下手したら高校にも行けなかったよ私…。
私自身がアホの子であり、アホであることを許して丁寧に付き合ってくれて、気持ちも分かってくれた(九九の概念を理解してたのは増田の良いところだと褒めてくれた、そしてそのあとを面倒がるのは増田のダメなところだと怒られた)K先生から教わったから、私が人を教えるときにそれを使うことができたんです。私が成したことではなくK先生の教えがあったから。
成人式の後に、K先生の家に同級生たちと一緒に押しかけ酒を飲んでいた時、私たちは酔ってゴキゲンで、先生をべた褒め(先生がいなかったら私ヤバかったとか云々)してたら、K先生は、親や教師や目上の者から恩恵を受けたと感じてくれたなら、それを俺に返そうと思わなくていいから下に渡してやりなさい、とおっしゃったんですね。で、それを実践しただけ。
K先生はとても個性的で自由で、保護者の中には批判的に見る人もいたような型破りなタイプの先生で、教わったことはこれだけではなく抱えきれないほどあります。K先生のそのクラスは良い年をした今でも同窓会をするほどのつながりが深くありますが、その中で小学校の先生になった人が二桁いる。割合で言うとクラスメートの2割弱が小学校の教師になりました。私のようなボンクラがならなくても、K先生に感銘を受けた優秀な先生が頑張っていてくれるので、学校の先生は大丈夫。
いや大丈夫じゃないよね…もっとお金と人を割いてほしい。教師になった友人たちもストレートで職に就けた子はいません。みんな1~3年程度、補助教員の仕事にありついてそこからなんとかポストを見つけて、という感じ。ホント酷いよね…。
増田が友人たちを観察している限りでは、学校の先生は「勉強を教える能力」だけじゃなくて、「クラスという集団を統率するリーダーシップ」「学校のスケジュールを考える企画力」「それをこなす運営力」「ケースワーカー」などのスキルが必要で、かれらはこれを一人か二人だけでマルチタスクでで行っています。
あくまでも口と性格と知能に若干の問題がある増田の私見ですが、今の日本はホントに馬鹿だと思います。何で教育予算増やさないでしょうね…。1クラスは40人でも良いけど(ある程度の人数がいた方がクラス内で多様性を許容しやすいと教師の友人が言っていました。少人数だと浮いた子の居場所を作りにくいそうです)、その代わり担任は3、4人居ても全然いいし(そうすれば学校内で個別指導塾的な役割も持てる)、何なら学校行事の企画運営なんかは更に専属で別の担当教師がいるべきだと思います。名古屋市だったかが小学校のクラブ活動を廃止というニュースがありましたが大英断だと思う。課外活動は地域SCなどで吸収できるとしたら理想の形なんですけどね…。
今の学校は、子供も少ないからポストも少なく教師になりたくて夢と強い意志を持って教師になったという人がほとんどだと思います。増田が報告した塾での出来事なんて、彼らにもう少し余裕があれば増田の15倍ぐらいは良い結果を出すと思う。それなのに。
それはともかくとして、増田は、社会人になって初めて下に付いた先輩から「お前はアホで手に負えないが、唯一の取り柄は教わり上手なことだ」と言われました。K先生が小5の秋の夕方の教室で、私を壊してくれなかったら教わり上手に変化することはできなかっただろうと思います。
その他、耳に心地よかったお褒めの言葉などは、心の栄養にさせていただきます、ありがとう!。一方で、疑問や批判的なご意見で、増田にとって都合よく答えられそうなものにいくつか。
そうですね、増田にとって話しやすいことだけを、それもかなりボカして書きましたので仕方ないです。ごめんなさい。実際は大変でした。
adbが分からなかった子は初めて私が「開眼」した生徒なので思い入れも記憶も多いのですが、躓いた場所に気がついた後は、塾が用意しているカリキュラムや教材をほとんど使わずに、まずはアルファベット用の罫線が引かれたノートを拡大コピーして(形状の見分けがついてない疑惑があったので思いっきり拡大コピーして使った)、アルファベットをaから順番に10回ずつ、声を出しながら書き取り練習!をしました。
何よりも、大手のフランチャイズ塾だったのにもかかわらずカリキュラムを無視した指導をしてもいい、と許容してくれた教室長の懐の深さと"寺子屋愛"に甘えられたことと、先生バイト仲間の優しさ(教えるのが大変な子を私が見る代わりに、担当生徒数を減らしてくれたり、私の受け持ちの子を共有で見てくれたりのフォローをしてくれた)があったからというのはとてもとても大きいです。
あと、当然すぎるほど当然ですが、成績を上げてあげることができなかった子供もいました。元増田にも書きましたが、私は成績が普通の子の指導は得意ではなかったです。勉強にアレルギーがある子供の方が、悪い言い方になりますが、つけ入る隙が見えやすいと感じていました。なので、主に「すごく良くできる子」と「すごくできない子」の担当をしていました。あと、すごくできない子で、一人だけ、どうやっても引き上げられない子がいました。詳細は書けないですが、これは今でも思い出すと胸が痛くなる。
■そんなの誰にだって出来るだろー
増田もそう思います。なのでホテントってビックリしています。そして前段に長々と書きましたが、増田の手柄ではなくK先生のおかげだと思っています。
■生徒のプライバシーは?傷つくんじゃねーの?
浅慮だったでしょうか…アホです。問題が起こったら消すかもしれません。ただ連絡を取り合える子供もいるので耳に入って傷ついたと知ったら直接彼らに謝ります。一応最低限はぼかしているつもりです、ホテルはもちろんフェイクです。あとブクマのご指摘にもありますがabdが区別つかない子というのはそれほど珍しいことではないので…。
■学習障害があったんじゃない?
増田は現在でも専門ではありませんし、当時はアホの大学生だったので判断はできません。増田個人に関しては前記の通り「傾向」は確実にあるだろうなーと思っています。調べてはいませんが。苦労もとても多いがそれなりに個性的で愉快な性質だなと受け入れられています。長くなりすぎるので書きませんが、それを受け入れられたのも恩師K先生のおかげだったりします。
■なんでx=数学なのに英語出てきたむかつく!が察知できたのか
前段の通り、増田こそが元祖アホの子だったからだと思います。掛け算は足し算、なら覚える必要なくない?!という思考停止とその後の悔しさと恥ずかしさがヒントになりました。思いこんだことから一歩先に進むことの大変さ。
長くなってしまっていますが、あと一つだけ、とても興味を惹かれたので。
id:sarensongjing さん、ブログ拝見しました→http://xn--9ckk0f4c7781a7r3b.com/taihen.html
mustの意味と使い方が理解できなかった、とかすごい分かります!
増田の経験ですが、英語の理解には段階があったように思います。
私の教えた子はみんなこの辺からスタートでした。まずはアルファベットが呪文じゃなくなるようにしなきゃ、だった
第二段階:意味は分かってないながらも、音読は出来るようになる
音になる=過去に耳から得ていた情報を、英語の勉強に使っていいんだよと理解してもらった。呪文から、普段自分が使っている言葉と地続きの「情報」になるだけで、かなり気持ちが楽になるようでした
第三段階:たまたま知ってた和製英語から類推して、薄ら何を言いたいのか分かるような気がしてくる(気がするだけ)
夜やってるからナイター、でnightは夜!みたいなこと。既に持っている情報を使って新しい知的好奇心が湧いてきたということでもあるかなと思っていました。ただしほとんどの子が、頻繁に間違ったことを言ってくるので可愛くてしょうがなかったです。ダジャレか!
これをしばらく単語覚えゲームとしてやってたら、自然と、接尾語の存在に気付いてくれました。言語は、それぞれ意味を持つ小さなクラスターの集合であるという「概念」が体に沁み込んできたという感じ。理解は、もちろんしていないんですが笑 こうなるともう呪文ではなくなる。
そういえば、nightをナイトと読むというのは、なかなか難しいとこではあるんですが、英語は比較的素直に音とつづりが連関しているので
無理やり読んでごらん?ニグフト!、なんか似てる言葉あるでしょ、えーとえーと………ナイト?!とか、そういう風に付き合いました。
アルファベットを音読できるようになりさえすれば、割とやりようがある。文法もシンプルですしね。
第四段階:文章はどうやら並び順が決まっているらしいと薄ら思い始める
おもしろかったのは、文法の発見よりも、接尾語の発見の方が全員早かったんですよ。単語同士の共通点を探したくなるのかもしれない。-fulとかね。fullがくっ付いたんだよー、だから○○がいっぱい!って意味になる、と言ったら目を見開いてた。
単語も、あるクラスタの集合体である、という理解ができたら比較的早く、文章もあるクラスタの集合体である=文法を発見してくれました。並び順って日本語だって決まってるジャン、と言ったらそれからはすごく教えるのが楽になった。
ここまで理解が飲み込めていないと、助動詞の大切さや意味や力が分からないだろうし、mustを覚えるのはイヤだなと思ってしまったのかもしれないですね…。
増田は、牛よりもゆるやかなスピードで付き合っていました。ある子供は、第三段階で中3の冬だった記憶があります。教室長はハラハラだったと思う…。受験校を決めなきゃいけない時期だったのですが、お母様に、担任の先生の説得をお願いしました。お母様はもっとハラハラだっただろう…、お願いだからあと1回次のテストの結果まで見てくれと。あとちょっとなんだよー!という気持ち
みにくいアヒルの子の正体は自他共に認めるとても美しい白鳥でした。
その姿の美しさと、いじめの苦しみから得た我慢強さと聖人的思考は、彼を瞬く間に湖の人気者にしました。
さて、これが面白くないのはアヒル一家の元兄弟達です。
「生意気だ、単純に生意気だ」「俺達より劣ってたのにどうしてあんなに美しくなる?許せねえ」「澄まし顔で飛ぶ姿が気に食わねえ、落ちこぼれの癖に」「愛するママからも遠回しに消えてくれと言われたアイツが何で…」
嫉妬の炎は彼らの中でメラメラと燃え上がります。
ちなみに父アヒルはこの前人間に捕まり丸焼きにされて食われました。母アヒルは歳のせいか絶賛ボケ進行中で、もう兄弟の顔も分かりません。
さて、白鳥が実は凶暴かつ強靭な生き物な事は有名ですが、アヒルも負けてません。彼らはとても頭が良くて、賢いのです。
そしてアヒルの力もわりと強い方です。人間だって簡単に怪我させます。
それと、多勢に無勢という言葉もあります。寝てる間は誰だって無防備でもあります。
数日後、湖一番の美しい白鳥……みにくいアヒルの子だった彼は、無惨なズタズタの死体で見つかりました。
美しかった身体は恐らく固く平べったいくちばしで突かれまくった様な傷跡ボロボロで、血塗れの羽根には大量のアヒルのフンが着いてました。
飛んで逃げる事も出来ただろうに、足は草に結ばれて動けなくされてました。おそらく寝ている間に結ばれたのでしょうね。
根本的に人付き合いが苦手な気がする。嫌いじゃないんだけど、得意ではない。
何か目的を持っていないと一緒にいてもつまらないと感じてしまう。DVD見るとか、カラオケとか。
仲良い人なら話すことを目的にできる。
でもそうでない人とはご飯行くとか苦痛に感じる。無理やりつなげる会話は楽しくないし、相手もそんな感じがする。
そんな人たちと一緒に過ごすくらいなら一人で自由に過ごしたいと思って、仕事の休憩中はいち早く外に出たり、前歩いてるの見かけても追いついたりしない。
でもやっぱり誰とでも仲良くしたいと思ってる。いざ誘われないと寂しい。
いっそ仲良い人だけ仲良くしよう!と貫けたら楽なんだけど、なんでそれができないんだろう。
誰といても楽しく過ごせる人なんていないってわかってるんだけど、限りなくそれに近い人は何人も見てきた。そして彼らは良い人と呼ばれる。
そんな人たちみたいになりたい。良い人だと思われたい。でも根本的な性格が全然違うってこともわかってる。
諦めたいのに諦められなくて、中途半端な感じになってる。
何かトリガーがあって、誰といても自分が楽しいと感じられるようになるか、いっそ諦めがつくか、どっちかしたい。
できれば、前者がいい。
話す前にイメージの中で相手のことを抱きしめるといい、って見て、それを実践してるけど、たしかに、こう身構える感じがなくなる。
でも一瞬だけだから、継続性がない。自分の癖になってないから。
嫌われないように良い自分を見せた結果、結局少し距離があるように思われて、それ以上仲良くなれないというのも問題だ。
でも仲良い人に対しては素の自分で居られて、楽しいんだよなぁ。
私は、自分の奥深くの方にある、人には見せたくない部分を知られたくない。
仲良い人は、細かいことを気にしない、本質的には私自身に興味を持たないような人だ。人の心を覗いたり、評価したりしないような(もしくはそう見える)人たち。
おじさんも同じような理由ですぐに打ち解けられる。
おばさんはその逆。聖人のような優しさのかたまりのおばさん以外仲良くなれた試しがない。
おばさんは属しているコミュニティにおける常識から外れた行動をすると途端にダメというレッテルを貼ってくる気がする。偏見かな。だけど将来的に自分もそうなってしまうような気がする。結局同族嫌悪なのか?
人を値踏みする時って結構ある。だからこそ、自分に似たような人に私もそう思われているかと思うと、見栄を張りたくなる。
問題はわかってるんだけど解決策がわからない…。いつも何か発言した後に反省するばかり。早いところ矯正したい。
>追記
良い人って言ってくれた人ありがとう。でも書いた思いは表では話してないから、ただの仏頂面です。
内向的なのはわかってる。MBTIのタイプ分析をお金払ってやったらISTPだった。自分の個性自体は認めてるんだけど、それでも憧れちゃうんだよなぁ…。