はてなキーワード: 習い事とは
いろいろみても悩む・・
でも持っていない子もいる。
でも持っていない子もいる。
友達が持ってれば興味津々。
でも、友達(一人に限らず)が遊びにきてる時に
うちのコにかしてくれたことはない。
うちは下に年中がおる。
これも興味津々。
のぞいたりつい手が出たりする。
(上もだけど)
でもやっぱり貸してもらえず
ぶちぎれされてぼろくそ言われてる・・
私としては・・
単純に・・
貸すわけでも一緒にプレイするわけでもなく
うちがもってないので通信するわけでもなく
怒るのならば
旦那さんはその様子を聞いて
「それでも一緒に遊んでる事になるんじゃないの?」とのほほん
「そうだよね・・」と引き下がり
終わるのをずっとそばで何もせずに待っていたり
しびれを切らせて
「一緒にベイブレードしようよ!」と誘っても
見るに見かねて「ちょっと休憩しようよ!○○くんが持ってきてくれたおやつたべよ」と
声かけて
無言で飲み食い・・
とか
やっぱり・・なんできたの?としかー
いまどきはそういうものだろうか・・
相手の親にも何かの流れで「うちにはDSなくて~」と
話してあるのに持たせてくるし
遊んでて実際「ゲームやりたいから帰る」と会ってすぐ帰ることも
ゲームが悪いとかじゃなく
一緒に遊べる!と期待して
ゲームばかりされると・・
じっと待ってる子供がかわいそうに見えちゃう
でも旦那さんは「かわいそうじゃないよ~楽しんでるよきっと」って言うんだけど
それ理解できない・・
旦那さんいわく
私の方だし
もっといえば子供が起きてる間でも「ゲームしてぇ」って時あるし
やってないだけで
かわいそすぎてゲームを与えたくなる時あるけど
あげたらずっとやりそうで不安だし・・
ずっとやると私が楽なんで私がなにもしなくなりそうなのが不安ってゆう意味で・・
いざ「今一番欲しいものは?」って聞くと「なんとかスイッチ(ライダーの?)かブーブ(車のおもちゃ?)」
っていうし、なんかすごくDSが欲しいわけでもないのかなぁとか。
ビーゴ(ちゃれんじも)やってるからゲームあげたらそっちやらなくなりそうって
なんかイライラして「こっちもかったるわー」と子供に買い与えたくなる時もあるし・・
もしゲーム与えたらうちとしては「一日何時間」にあまり意味はないと思ってて
(眼精疲労とかドライアイとか、やからちょっと休憩しろよとは思うけど)
やることやったらどんだけやってもええとか思ってて
ただあんまり遅くまで起きてて朝起きれないなら
それはあかんやろーできないなら寝ろやってなって
じゃー休日で学校とかなければ夜までやっててええんかい言われたら
ええんちゃうの?って言いそうでこわいとか・・・
平日も子供が友だちと遊びたいと飛び出していくより
家でDSやっててくれた方がハラハラドキドキしなくてすむし・・
行き場のない子供たちが
さほど接点もないのに
そういう子達に外で出会って絡まれて
連れてくる事もなかろうにと
でもなんか親の責任放棄しそうで
なんかいいのかなぁとか。
テレビももっとつけててええよ(つーかちょっと今○○やってるから(ご飯作ってるとか風呂掃除してるとか)みててくれ)
思っても突然「もういい」て消したりするからな・・
親がこれみたいねん!って、もう今日はテレビ見ながら限界まで起きてていつの間にか寝ちゃったね☆パターンでいってくれ
ゆう時でも「もう見なーい」ゆうたり
与えたところで
思ったよりゲームにはまってくれない気もする・・
与えたら「上手くなって欲しい!」とか「続編(?)出たから欲しい!」とか
親の方があつくなりそうだし
そもそもDSもってない子と遊ぶときにDS持ってくるってどうなの
公園でやったりするけど
公園でやるなら遊具で遊びたい子の邪魔やからじぶん家でやればええやないの・・
もし「家でやらないで外で遊びな」と出されてるとしたら
約束破ってることになるし
とにかくいらいらしちゃう
「なんでDSやってちゃいけないの?」って聞かれたりするけど
(持ってきた子に)
「きたねぇ手でさわんなよ!きもちわりーなそばによんなよ!」
逆に「ゲームやめて遊んだら」ってなぜ思っちゃ不思議よ?と思うんだけど
友達トラブルが嫌で小学校入学後に習い事が増えると聞いたこともあるし
なるほどなとも思うし
実際そういううちも多いけど・・
うちは平日の習い事嫌がるしな・・
とにかく友達と遊びたいわけで・・
やっぱりまだ与えない方がいいのかなぁと思ったりの繰り返しで
悩む悩む悩む
ソフトかせとか買えとかそういう問題も出てきそうな不安もよぎるなぁ
えんどれす
単に、自分の知らないところで、男に裸を見られるのが嫌なんだと思う。
自己中だねーw
あくまで自分が隣にいれば普段着ないミニスカ履かしてもいいと思ってんだw 可愛い可愛いっておだてれば着ちゃうタイプなのかな。
バストがボリュームあるとか、身体が判りやすく女性的な女の子は下手にいやらしくならないようにファッションに気使うことって多いもんだけど。
つーか知らないところで見られるのがイヤなら一緒にサンバのスクール通ってショーに出るとかの選択肢もあるじゃんw
要は彼女さんが「オレのキライなものを好き」なのがイヤなだけでしょ。
議論になった時の覚悟はしてるよ。
むしろ、彼女がどのくらいの覚悟でやってるのかによる。
嫌われてでもやりたい、むしろその趣味を含めて私だと思って理解して欲しい、
ただ、習い事とかイベントとか、何となく楽しみでやってることのひとつなら、
こちらの意志を尊重して欲しい。
なんで「覚悟」とかいって、苦行みたいな側面見出そうとすんの? 楽しくてやってんだから、それでいいじゃん。
だいたい「楽しみでやってる」か「覚悟がある」かどうかの判定ってどうやってつけるの?
プロとしてお金稼いでるとかの判りやすい指標がなきゃ、何であっても「楽しくてやってる習い事」の範疇から出られないんじゃない?
つまり自動的に「=オレのためにやめてほしい趣味」ってことになっちゃうじゃん。ずるくない?
最初から結論ありきで、結局「話し合って、受け入れる」っていう過程なんかない。
「自分がイヤなんですううううう」っていうのを押し付けてるだけでしょ。「嫌いになっちゃうよ、いいの?」って甘えてるだけだよね。
彼女さん、ダンスも好きだけど嫌われたくない…ってなったら、その葛藤を自分ひとりで引き受けて、しかも場合によっては即答しないといけない。
大人しくて可愛くて良い子なんだろうなあ。
「その趣味をオレは受け入れられません、キミがそんなのやってるのスゴくイヤです」って、緩いけどフツーに脅迫なんですけどw
彼氏が大好きだから尽くしちゃう感じで受け入れちゃうのかなあ。自分の好きなもの曲げるのは尽くすときはいいけど、冷めたら反動凄いからなあ。
9月30日、母が死んだ。酔っぱらって衝動的に自殺したっぽい。
部屋は綺麗だった。昔からきれい好きだし。一軒目は何処で飲んだのか未だに不明。部屋にも酒は無かった。
とある出禁の店に泥酔状態で行って追い返されて、警察に保護されて深夜の2時頃に自宅に返された。その3時間後に海で見つかった。
その日の朝9時頃地元の警察から電話がかかってきた。最初は前の日に話をした地元の友達かと思った。俺の会社で働いていて色々な人から金を借りて逃げたからだ。半年ぶりに連絡がついてそしてそれを凄く怒った。金のことも怒った。本当に自分もびっくりする位怒ったのでびっくりして警察に駆け込んだのかと思って電話を出た。
海で遺体で上がりました、と警察。頭が真っ白になるってこの事だったんだ。
電話を切って結構ボーとしてた。月末で仕事もまあまあ忙しかった。
近所の公園をふらふらしながら離婚した親父とか、母の弟とかに電話した。人嫌いで親戚・友達づきあいは殆ど無かったから連絡はこれで事足りる。
ボーっとしすぎってチケットを取ったのは夕方だった。すぐに電話すればすぐに帰れたのにボーっとしてしまった。
母とはずっと疎遠だった。ヒステリックで酒乱で本当に嫌だった。
帰ったのは17の時に上京して友達が事故った20歳くらいの時、じいちゃんが死んだ22歳くらいの時、あとは半年くらい前。
近所の習い事の先生に酔っ払って「俺君を返せ!隠してるんだろ!」と。
更に飲み屋で俺の同級生に金を借りて飲んだ事も聞いた。
酔ったら俺に電話してくるのもやめて欲しかった。当たり前のように100回以上は電話が鳴った。留守電もいっぱいになった。
鍵を開けて入っていくと久しぶり過ぎてびっくりした後に大泣きして土下座して謝っていた。痩せていて、老けていた。
部屋を見てみると綺麗にはしているがカップラーメンばかり。薬も色々な種類の薬(うつ、糖尿、痔、等)を飲んでいる。
これはやばいなと思った。
ホテルの厨房で働いていたから飯はめちゃくちゃ旨い。なのに何でカップ麺ばかり食っているのかと軽く怒った。
んで東京に住むか、と誘った。でもずーっと住んでいるこの地が良いらしい。
素面の時ならいつでも電話しろと言った。素面でもこの何年かは話が通じなかった。
内容としては、
・金はあるのか?
・何でそんなに高いマンションに住んでるのか?
・やくざになったのか?
・誰を頼って東京に行ったのか?
等。
母の中では金持ち=ヤクザらしい。儲かったってヤクザなんてやらないのに。
なので一度でも俺の会社を見て欲しかった。色々とやっていてひとつひとつ見せながら説明したかった。
そこで2時間位で家を後にした。
そんな事が前にあって、飛行機に乗って帰り、警察が空港に迎えに来ていた。
母の死体が警察署にある。当然見ることになる。隣には一緒に来てくれた彼女がいるけど、ずっと緊張、というか過呼吸になりそうな感じだった。なったことはないけど。
上記に書いた時系列を説明してもらい、発見地点など地図に書いてもらった。
母と対面した時には冷たくなっていた。冷蔵してるし当たり前かと考えていた。
1分ほど見つめて、後にした。司法解剖に行くことになった。事件性の有無を調べるためだ。
でも俺はそんなものは無いと思ってるし今でもそう思っている。それは間違いない。
地元の街中の殆どの店を出禁になり、飲む所がない。1件だけあってそこによく行っていたようだ。葬式にもいきなりそこのママが来てくれた。
その後隣町の実家に帰った。ひどく部屋は綺麗だ。いつも通り。
彼女が台所を見て言った。歯磨きに俺が小学生の頃に作った焼き物の湯のみを使っていた。そこでその日初めて泣き崩れてしまった。前の日にも彼女の胸で泣いた。泣き顔は5年のうちで初めて見せた。
家中探してもやっぱり酒を飲んだ形跡はない。やっぱり何処かで飲んだんだ。未だに判明してないけど。
とても自殺した人の家とは思えないくらいに綺麗で、色々と行き届いていた。生活感もあった。
ふと思った。冷蔵庫を閉めた後に。ちゃんと色々買って自炊している。言うことを聞いている。カップ麺は一個もない。
携帯電話を見た。全く何も入ってない。俺の携帯に電話をしてみた。鳴らない。通話ができません、と。
他の携帯にかけてみた。鳴った。どうしようもない気持ちになった。
母は俺に迷惑をかけまいと俺に電話できないように設定していた。
でも10日前くらいに公衆電話から電話があった。病院からかけていると。
何で携帯からかけて来ないのか不思議だったけど、特には聞かなかった。これで謎は氷解した。
その電話の時もやはり話題は誰を頼って東京に行ったのか。前までは素面でも話が通じなかったけど、多分今回の電話は電話する理由が欲しかったんだと思う。ちゃんとそこは説明している。
それが最後の電話になった。もっと話しておけば良かったと眩暈がするくらい後悔してる。
というか、親孝行をもっとしたかった。これは一生後悔し続ける。
日本中の殆どの人が、世界中の人かもしれない。日常的に言っている「親孝行は生きているうちにしておけ」と。
何でそんなことが、そんな簡単でいつでもできることが俺には出来なかったのか。
いつかは思う存分孝行しようとしていた。というかその時期だった。
ある程度東京でも成功し、月収も1000万を超えた。なんでもできるはずなのに。なんでだろう。そればっかり考える。
ビジネスは成功して、親孝行は失敗する。親孝行のほうがはるかに簡単でいつでもできるのに。
俺の存在意義を疑う。何の為に生まれてきたのか。
小学生になる前にはママ、ママと呼んでいつもおやすみのキスを求めていた。
小学校低学年になったら取っ組み合いの喧嘩をするようになった。習い事も初めて色々な賞を取って喜んでいた。
小学校中学年は他の習い事も始めた。その習い事は世界大会でベスト3に入るまでになった。本当に誇りだっただろう。
小学校高学年は両方の習い事でグングン伸びて全国をかけめぐっていた。これは中学校も続く。ママと呼ぶのが恥ずかしくて母さんと言うようになった。
中学1年になって初めて喧嘩に勝った。蹴りがみぞおちに入って唸ってうずくまってしまった。これからは手加減しないとまずいと感じた。
中学2年は包丁を投げられて必死でかわした。この頃からお前というようになった。毎日夜遅くまで友達の家で遊んだり泊まり歩いたりが始まった。
中学3年は同上。もっとひどくなっていった。
高校1年制は不良友達のたまり場になった。6畳の部屋に10人はざらだった。彼女もできて家には殆ど帰らなかった。
高校2年制は停学3,4回目で首になった。もうこの頃はほぼ帰らなかった。母が知っている友達の所にいるといきなりやってきて窓を全力で開けて叫び始めるからだ。
溺愛されていた。でもその愛情の表現の仕方が本当に常識とかけ離れていた。俺もわかりつつも心から嫌いになっていった。
17歳の時に求人誌を取り寄せて片道の飛行機代で上京した。本当につらい毎日だった。
家の引き出しを見てみるとその頃に振り込んでもらった振込用紙が出てきた。勝手に出ていったくせに。俺に関連するものはどんなものでも綺麗にとって置いていた。
アルバム、学校の通知表、習い事の全国のおみやげ、インテリア、載った新聞の切り抜き等。
彼女も溺愛しているのは簡単にわかると言っていた。友達達も溺愛しているのは言うまでもないと。
俺の為だけに生きていた。99%。それ以上かも知れない。
生活保護を6年ほど受けていた。俺は生活保護の手紙みたいなものを受け取ったが関わりたくないので面倒見切れませんと返信した。
引き出しには通帳が入っていた。
6年間で120万程度貯めていた。実際使えるお金は6万程度なのに。光熱費とか食費とか色々あるのに。その中から月に15000円以上も貯めていた。
よく見てみると、大きい買い物はテレビだけだった。チラシも、領収書も入っていた。俺に言ってくれればそんなものすぐに、もっと大きい、もっといいものを買ってあげるのに。
もっとよく見てみると、服も、布団も、何も新しいものがない。全部見たことがあるものばかり。
何を楽しみに生きてきたのか。
涙が止まらない。
今日の朝、いらないものは全部捨てた。捨てるのを迷うものばかりだ。
全部持って帰りたい。
このまま部屋を借りるかどうか迷う。
全部このまま残したい。
今もまだ考えている。
形見と呼べるものは少ない。
遺体が発見された時も小銭入れと、部屋の鍵とタバコだけだ。今乾かしている。
取っ組み合いの喧嘩をして父親替わりもしてくれた。
全ては俺が最後まで素直になれなかったのが原因だ。
東京に来いといったが完全に命令口調でいった。
久しぶりに会ったからと肩でも揉んでやればよかった。
東京に来て生活するよりも、そのほうが嬉しかったかも知れない。
会社の人間には言ってない。下手な気を使わせたくない。俺も気を使われたくない。
1年間は何も言わないつもりだ。
うつでアル中で親の事を好きだけど素直になれなくて、でも何かしてあげたい人の為に。
もう俺みたいな一生後悔するような事は誰にもさせたくない。
今日さっきまでお通夜だった。母だけの知り合いは一人だけ。上記の唯一飲みにいける店のママだ。
そこでも喧嘩して出禁になりかけたらしい。でも素面に戻って飲む所がないと泣きついてきたらしい。
大人たちが帰って、地元の友人10人程度で飲んだ。こんなに皆が集まるのは高校生以来だ。腹を抱えて笑った。ずっと皆で笑ってた。母もそのほうが喜ぶだろう。
このまま保存できるならずっと保存したい。ずっと一緒にいたい。俺が死ぬまで一緒にいたい。
でもそんな事は叶わないから焼く。
生き返るなら全財産出しても借金してもいい。そんな気持ちになったのは初めてだ。その為に人生を賭けてもいい。
本当に母が好きだった。なのに優しい言葉をかけたのは記憶がない。
どれだけ母は俺の優しい言葉を望んだだろうか。
別れた父もお通夜も来なかった。母の弟は遠くで死ねばいいのにといった。完全に回りの鼻つまみものだった。
俺もそういう気持ちだったはずだった。なのに何でこんなに愛おしくなるんだろう。
金を稼ぎたかった。だから親は後回しにした。でも本当にいい暮らしをさせてやりたかったからなのに。
増田はいつも見ていた。でも俺が書くとは思わなかった。たまにホッテントリで見るくらいなのに。
でも何処かに吐き出したかった。今の気持ちも忘れたくなかった。だからこの場を借りる。
【追記】
本日、火葬を無事終えました。本当にありがとうございました。お骨ってあんなにもろくなるものなんですね。
・爺ちゃんが亡くなって10年近く経つんだけど、亡くなってからずっと行っていなかったお参りに今年は2回も行っている。
・今年の7月頃親友のお母さん(母の同級生でもある)に素面で電話して、出なかったので役所で働いている旦那さんにまで電話をしている。同級生と久しぶりに話したかったのか?
とか色々。
何らかの予感があったのかも知れない。
先週、数年前はあったはずの預金がほぼ底をついていた。
額にして337円。衝撃過ぎて一度で金額を暗記していた。
給料日を翌週に控えた2011年の9月21日、関東には台風が来ていたが私の心にはそれを凌駕する嵐が迫っていた。
預金337円。正確には別にある貯金用の口座に十数万円が残るが手はつけまいと、ただそのためだけに作った口座なのでそこにある分は預金とはみなしていない。
会社に入社して毎月お金を家に入れていた。給料日。忘れる事もあったが毎週コンビニでジャンプを買う。思い出してすぐにATMで引き出して数日以内には入れていた。
3万円。手取り13万の私が自由に使えるのはここから携帯電話の料金を除いた10万円弱。
高校のころにやっていたバイトの月収およそ二倍。大きな買い物もせず順調に、そしていつの間にか、貯蓄はその額を増やしていた。
しかし会社に入って一年、情けないことにコミュ障をこじらせてお局様に相当嫌われ、しかし幸運が重なり数ヶ月後の異動が決まった。
2009年6月5日、金曜日。吐き出す術を知らなかった私が誰にも話すことなく頼ったのは心療内科だった。
軽度の鬱と診断され(もしかしたらそんな病気など無かったのかもしれないが)、異動が決まり少しは環境がマシになること、趣味が充実していること、生きがいを持っていること。そんな諸々が加味されて通院は2009年の9月26日、ニヶ月ほどで終了した。
その間に家族に通院がバレ、通院の最後の方には薬の副作用で筋固縮になり仕事に支障が出かけた。しかし新しい環境での仕事はそれなりに順調だったし、ネットで見ていたような断薬症状も無かった。
昔よりはコミュ充に近づいたと思うし、失敗は回収できるんだと思えるようになった。
そこまで生きる間に私が家に入れるお金は5万円に増額した。家にお金が無いのは知っていたから。
臨時で貸した時が何度かあった。その時は、給料日に5万円を入れずに相殺して返済とする。そうやって家計を保っていた。
2009年の9月、その頃には大きな額を貸すようになっており、もう毎月のお金は入れずに貸出金から相殺し、そこにまた貸していくそんなやりとりが続いていた。
しかし貸し出す金額は徐々に増え、頻度が増す。数ヶ月に一回だった貸し出しはほぼ毎月になり、7桁を記録しようとしていた私の預金が7桁を記録したのは、いつだったかの給料日後の数日だけだった。
7桁が6桁になった事を少し悔しく思ったが困りはしなかった。マンガが買えて服が買える。何も家を買うわけでも車を買おうとしているわけでも、なかったから。
家族を助けるために。その思いで貸し続けた。
そして2011年9月21日。あれから、通院が終わってから2年。7桁弱あった私の預金は3桁になっていた。
最初はただの使いすぎだと思っていた。2年の間にクレジットカードの使い方を覚えネット通販を覚え、ちょっと良い美容室に行くようになりヘアケアスキンケアだってほんの少し値の上がったものに変えてみたりもした。
友達も増えた。だから都心に遊びに行くことだって増えた。お酒を飲む楽しさを知った。
それでもまだ慎ましい範囲だと思っていたのだが。
収入は増えても控除で減っていく。手取りはほとんど変わっていない。
それでも、何かを控えればまた貯まると、少しだけ考えた。
母から貸出金の履歴を見せてもらうまでの1日だけは。
管理はちゃんとすると言っていた母に貸出金と相殺金の管理を任せていた。小さな手帳に書かれたのは異常な頻度と金額の貸出金の履歴。
近い月にはボーナスの数日後にボーナス額のおよそ半分以上の額を貸していた。
数ヶ月に渡って月手取りの半分以上もしくは同等の額を渡していた。
そこに自分の使った分の引き落としやら何やらが加味されて、これで預金が減らないわけがない。小学生だってわかることだ。
人生ではじめて親に言葉に出来ない苛立ちを覚えた。同時に、仕事は半日で強制帰還されたので台風にははじめて感謝した。
言葉に出来ず感情をうまくコントロールできず、数日間家族と対面するのは食事だけだった。
思い返せば高校時代。進路をどうするか決めていた私を呼び出して
「将来就きたい職業があって、そのために進学するのなら何とかして大学へ行かせられる。
けど、なんとなく進学するのなら、それはできない。」
そう言われた。至極尤もすぎて言葉も出なかった。大学は勉強するために行く場所だ。
専門的な知識を仕入れてそれを将来に活かすのが大学。そう認識した言葉だった。
将来の夢も希望も何もかもを諦めていた私は、その言葉を受けて就職した。氷河期と氷河期の間、ほんの少しだけ回復の兆しが見られた2007年秋。
高校から近い、学校の中での応募枠さえ取れれば内定が取れると言われていた企業へ、普通に、就職が決まった。
一刻はひどい学歴コンプレックスに陥った。しかしそれだって両親にではなく、夢も希望も努力を捨て、しかしあの日からやりたい職業すら見つからずに改めて進学に踏み切れない自分を責める感情でしかなかった。
今日、一週間考え続けた事を母に問うた。本当に我が家にはお金が無いらしい。
そして父の収入は年々減ってきているらしい。
私は辛い心を抑えながらまるで日常の話をするが如く、もう自由にお金を貸せない事を告げた。
考える。何がいけなかったのか。父や母はこの土地に来てから仕事が減ったと言う。ここは母の実家、祖父の土地だ。
建て替えるときに一緒に住みたいかと問われた幼い私が首を縦に振った、そうやってやってきた土地だ。
身につかない習い事をしたいと言った幼い私がいた。勉強が嫌いだったので教材だって使わなかった。
中学の時いわゆる"弄り"と"いじめ"の間に晒されて学校に行きたくないとわがままを言った私がいた。
それでも学校には行かされたが、精神力だけは心がボロボロになったって耐えて自傷しないほどには鍛えられたので、一応感謝している。
引き替えに、誰も聞かないのだと、誰にもうまく苦痛を吐き出すことが出来なくなってしまったのだが。
そう考えると私がいけなかったのだろうか。
もしもいつかの過去に行けるならと聞かれれば、私はあの日に還り何が何でも幼い私に首を横に振らせると答えるだろう。
私がいけなかったのだろうか。ここ数年、いつも私は自分を責め続けている。
平凡で、家族に恵まれて、高校の成績は中の中。テストは概ね平均点。
それなりにおしゃれをして、友だちがいて、普通に恋をして普通に失恋する、密かにそろそろ人恋しいと思うだけのもてない21歳の高卒オタク女だ。
十分に幸せそうなのに、それを客観的に書いている私はこんなにも満たされない。誰でもいいから縋りたい。
思いたち、数日、SNSから姿を消してみたが、取り立てて誰かが「私がいない」と発言することは、ほとんどなかった。連絡もこなかった。
何を期待していたのだろうか。誰にも認識されず必要とされず、自分を責めながら恨みつらみばかり言うだけになった面倒な女を誰が見ていると言うのだろうか。私のいないSNSは見ていて愉快だった。楽しそうだった。
自分は自分を殺さないと思う代わりに、家族が思いつめたら、と、一週間で何度も思う。それでもそんな事は誰にも言えなかった。
病院に行こうとも思ったが、また病院には行きたくない。辛いんじゃなくて、それが甘えではないかと思う自分がいるからだ。
被害妄想だけが蓄積していく。発散するような楽しみはもう寝ることくらいしかない。
それでも寝て起きたら誰もいないと思うと、眠れない日が、たまにある。
今日を含めて16日で、私はもうひとつ年をとる。その日を転機に、私は何かを考えなければならないらしい。
これが誰か知り合いに特定されてもいい。私の家族はネットに疎い。それだけでいい。
いつかの日のために取っておいた15万円しかない貯金や給料日を迎えてわずかに潤った預金は、多分、来月にでも使われることになるのだろう。
書いた色々なことがわがままだと言われても、なんとなくこうやって書き残せたから今日はもう満足だ。
職場で英語話すことは一切要求されないけど、最新の技術やサービスのこと調べるのに英語読めないと話にならない。高校時代は英語赤点だったけど、社会人になってから必要に迫られて読んでいるうちに、読むだけならあまり困らなくなった。
ちなみに低学歴。田舎の公立小中高卒。今は高校でもっと真面目に英語の授業うけて置くべきだったと後悔してる。ただ当時の英語の授業がいいものだったのかはわからないので、授業がダメと感じたら独学で英語を勉強したい。田舎の貧乏家庭だったので塾や習い事なんてありえなかったけど、こんなに英語が必要だと知って子供の頃の自分に戻れるなら、小学生から図書館に通うなりして勉強したい。
まず言語やソフトウェアのリファレンスが英語オンリーなことが多い。日本語があっても誤訳が多かったり古いバージョンの翻訳しかなかったり、Webサービスの API の仕様書は英語しかなかったり。
流行ってるWebサービスや技術が英語圏から来る。Twitter だって 4sq だって過去グーグルラボにあった技術だってまず英語しかなかった。日本語サービスは一年後なんて珍しくないし、サービスでさえそうなんだから、技術関係の文書や仕様書は英語しかないのがざら。何かトラブルあって解決法探したら日本語での情報は皆無で英語でならあるなんてしょっちゅうだし。
ちょっと方向性は違うけど、英語だからって避けてると勿体無いネットゲームもある。当然そういう所でバグ報告や要望あげるには英語書けないといけない。知り合いには学校では全然ダメだったが UltimaOnline や EQ や MtG で英語を覚えたってやつが結構いる。チャットとはいえ英語全然ダメってところからネトゲ内の英会話に困らないくらいの英語力になる人がいるのが実践の面白いところ。
このネット使えて当たり前の時代、日本語での情報量 <<<<<<<<<<<< 英語での情報量 なので、英語避けてると全ての情報量において損する。だから直接英語に関係ない仕事でも英語全くダメというのはそれだけ損する。
大げさにいえば情報格差。最近の例でいえば、エジプト、今ならリビアの状況なんか英語圏のメディアのサイトではリアルタイム更新で情報量もすごいのに、日本だと全然報道されねーとかよくある。大震災の時でさえ英語圏のメディアの方が図とか写真とかすごくね?って事があったのは記憶に新しいと思う。
世の中には、英語わからなくても困らないゲームでも UI が英語なだけでプレイできない、インストールの途中で日本語選べるのに言語選択までが英語だから怖くてインストールしない、仕事で DropBox 使いましょうってなったのに英語だから使えないとダダこねる、英語だけのサイトに飛ばされたら何かいてるかわからないから全部危険なサイトに見えてすぐブラウザ閉じるので仕事に必要なソフトウェアを SourceForge から DL してくれない、なんていう人が本当にいる。
暗いところに閉じ込められた。もしくは、閉じ込めるよ!という脅迫(?)。
指しゃぶりが治らなかったので、指に唐辛子ぬられた。
(何したか思い出せないけど、)家を追い出された。これは一回かな。
母は私にいらだって、お皿を割った。外のコンクリートに叩きつけてた。「いただきもので、2枚しかない。あんたのせいで割れた。」片割れのお皿見るたび、罪悪感が芽生えた。
習い事イヤでイヤでしょうがなかった。訴えたけど、何年も続けさせられた。(ピアノ、習字、英語、塾。実になってないw)
あとげんこつ。げんこつがあまりにいやで、「次にげんこつくらったら、覚えた九九を忘れたことにしよう。」って思って忘れたふりした。
「○○くんは怒られたことないんだって。いい子なんだね。」って言われた。
小学生のころずっと吐き気がしてて、「気持ち悪くないときってあるのかな。」って疑問をいだいたことがあったなあ。
つらかったいやだったって思う反面、自分のどっかが悪かったのだろうって思っちゃう。
だって、ぴかぴかの一年生の時、担任の先生に「悪い子の名前は覚えられない。」って言われたんだもん。
さんすうの教材に、ひとりひとり名前書いてもらう時。
出会って日が浅いのに、悪い子って見抜かれちゃった。
私のどこが悪い子だったんだろう。わからない。
高校生のころの不安定は、小学生前くらいの不安定が原因で表に現れたものだったのかなあ。と今うっすら思っている。
家に誰もいないと思って、感情解放して叫んだ時、実は親がいて、しまったって思った。
心配されて声かけられた。だから「病院に行きたい。」って言った。
返事は忘れちゃったけど、結局つれてってもらえなかった。自分で行けばよかったのか。そんな行動力なかった。
===========
> カウンセリングで言えばいいのになんでここでも言うの?
今、吐き出したくなったから。
> 被害者意識は一人前ね
被害者かも、と自覚したのはつい最近なの。でもまだあんまりそう思ってないの。
ただやなことがあったを思い返してるの。
> 別段とんでもないことをされた訳でもない。 生きていく上では誰でもこのレベルの嫌なことは経験する。 単にワガママなだけじゃないのか?
ワガママだったのかもねえ。(しかし昔の話を親に聞くと「聞き分けの良い子だった」そうな。)
私はこのレベルの嫌なことは、嫌なことだった(と最近自覚した)ので、
もし育児したり他人と接するときにはこのレベルの嫌なことを与える側にはなりたくないと思うの。
ワガママ(or私が気に食わない事柄)=危害を加えて良いとは、私はなりたくないのです。
祈り、ありがとうー。今わりと安らかな人生です。安らかを知ったからこそ、「あの頃変だって感じた気持ちは気のせいじゃなかったんだなあ。」と思えるようになったんです。
>お母さんも余裕なかったんだろうね、とは思うよ。
だから無意識に、私が我慢しなくちゃ、母の方が辛い、私よりも辛い人がいる、って思って、
私が辛いということを私が認めなかったのでした。
母が大変だったことと私が辛いこと、切り離して考えるようになってきました。
数年前、恋人と別れた。
破局の理由は、恋人の持つ不幸を受け入れられなかったことだろうか。
とどのつまり、人生を幸せに送りたいという増田のささやかで、かつ残酷な思いが、
重い過去に引きずられた恋人を余計に苦しめたという事実だけを残したように思う。
自分の気持ちの整理と懺悔のため、自分語りのチラ裏を始めます。
親御さんは優越感に浸る手段として、息子ーーつまり彼を周囲に自慢することを選んだ。
学業成績や習い事の発表会で不備があれば、「一家の恥さらし」には
待っているはずの夕飯がなかったり、体罰が待っていたりした。
彼はそんな親元を離れるため東京の大学へ進学し、卒業後は都内に勤めた。
増田との出会いは大学時代だったが、付き合うに至ったのは卒業後。
端正な顔立ちと明るい性格は、記憶の中の彼と全くと変わりがなかった。
青春時代に秘めていた淡い気持ちをもう一度胸に、昔話やデートを重ねるうち、
付き合い始めて一年、順調な交際の中で結婚生活を妄想し始めた幸せな増田のいる一方、
彼は体調を崩し、会社を辞めた。
長い人生なんだから、しばらく心身を休めてまた働けばいい、と増田は気楽に考えていた。
ところが、日に日に体力が落ち、調子の悪い日にはベッドから起きることすら叶わなくなっていった。
彼が不安で眠れない夜には、終わりの見えない電話に付き合った。
話題が目まぐるしく変わる受話器の隣で、窓に白み始めた空を映すころ、会話はいつも途絶えた。
毎晩の電話の中で、大学時代から精神に疾病があったこと、それが親の虐待に起因していることを聞いた。
直に治るだろうから支えよう、というお気楽な増田の考えはしばらく変わらなかった。
彼の趣味そのものが仕事となったため、内定獲得に彼は文字どおり跳ねて喜んでいた。
宿直あり•変則シフト制の新しい仕事は、増田には、彼の体力的な面、
土日休みの増田とのスケジュール面で不安があり、素直に喜べなかった。
夜勤が入り始めしばらくすると、連絡は途絶えがちになった。
毎日あった連絡は、二日に一回、一週間、一ヶ月に一回となった。
夜勤での体力的な消耗と、持ち前の生真面目さで仕事に苦しんでいるんだろうと思った。
初夏の暑いある日、お馬鹿な増田は夏風邪を引く。一人暮らしで初めての40度近い発熱。
たまたま彼の休日だったから気分転換にメールを打つも、案の定、返事はなかった。
翌日、見舞いにきた同僚に感謝する一方で、突然虚しさを覚える増田がいた。
連絡が取れず心が離れつつあるところに、赤の他人からの優しさを覚えた増田からは
彼に対する情が消えていったのだ。
同時に、少し苦痛でもあった彼との電話が取れないことに不満を抱いたことに、
やはり会うこともままならなかったため、別れ話はメールで終わった。
別れたい旨を告げると、数日後、あっさり了承の知らせが返ってきた。
彼を見捨ててしまった感がある増田には、別れてからしばらく経ったいまもトゲが残っている。
彼との交際において、どのような選択をすれば後悔せずにすんだのだろうか、
仕事で大変な時期にストレスを与えてしまい、仕事に支障はなかったのか、
自分と付き合っている間、彼はつかの間の幸せを感じられたのだろうか、
恋が冷める前に、彼のいる東京で職を見つければよかったのだろうか、
増田が見捨ててしまった彼には、これから幸せな人生が待っているんだろうか。
心の片隅にある答えの出ない問いと罪悪感がいつ消えるとも知らず、
2011年の上半期は何かもう、色々すごかった。
自分の周りの人がどんどん去っていくんだよ。
友達が転勤になったりとかさ、ご不幸があったりとかさ。
好きだったけど、好きって面と向かっていえなくて、
送別会のときカードに「好きでした」と書いてプレゼントと一緒に渡したな~。
まぁ、何の連絡も貰ってないので玉砕ってことだろうがw
その他も色々嫌なことも多かったよ。震災だろ、豪雨だろ、もう何この上半期。
呪われてるんじゃないかってくらい。
ため息ばっかりついてた上半期ももうすぐ終わる。
つーか落ちまくりだったこの上半期。もうコレ以下の底はない気がする。
後は這い上がるだけじゃねーか。
押忍、頑張るぞ。
ただ、この件の奥さんに関しては「家事をすべきだとは思わない」。
理由は、明らかに精神的に参っているから。健康な状態ではないから。
その為には夫の理解と協力が必要。
とても納得し、考えを改めました。
このケースでどうするべきか、についてはおっしゃる通りだと思います。
ただ、小町のレスの多くからは、このような考慮を読み取れません。
(直感的には、同様の考慮で「トピ主が悪い」と判断しているのに、それを文章にできていないのかもしれないけど)
ついたレス(質問のみである1つめを除く)を上から順番に見ていくと
それは無理もありません
虹のママ
旦那様が夫婦生活を断っていらっしゃるとのことですが、そんな奥様が気の毒です。
家族の世話ばかりして、このまま自分は何も成し得ずに一生終わるのかと、専業主婦なら一度は思うことでしょう。でも旦那様にそれを言うのは、奥様の危険信号ではないでしょうか?もっと奥様の人生について考えて、手を差し伸べてあげて下さい。お二人で人生を楽しむべきです。
奥様にお化粧してきれいになって欲しいのでしたら、旦那様が積極的にセックスに誘ってあげてください。
ん?
butti
女として扱ってないんだったら仕方ないんじゃないですか?
それとも習い事させてあげたら?
オシャレすることの楽しさを思い出すでしょう。
まるで自分の事を読んでいるようでした。
家事って、してもしてもしきれないし、後から後から家族は何も考えず、部屋を汚し、後片付けは全部 嫁の仕事。
是非、出来るだけ手伝ってあげてください。
手伝ってくれる その気持ちが 女性はうれしいんです。気持ちが救われるんですよ。
そして セックスしたくないのであれば 抱きしめてあげてください。
『君の事を信頼しているし、いつも思っているよ』
と 伝えてあげてください。
お願いします。
「健康なのに食っちゃ寝して家事を夫に押し付けてる単なるダラけ妻」のケースでも妻を擁護できる論法でトピ主を批判しています。
以下、
理由は何ですか? youko
女性として扱っていない? mama
すれば良いじゃん・・・ 夫A
まで、ついた順に10件読みましたが
「女とみてほしいんです!」「レスはありえない」「夫としての”務め”を果たさずに家事を求めるな」「愛はあるのか」…
そんなのばっかりです。
震災以降、なんか妙に物欲がなくなったというか、あんまり物を買わなくなったし、物を大量に所持している状態にも圧迫感を感じるようになった。
それで、本とかゲームとか服とか、今まで集めてたものもすべて売り払ってしまった。本当に、最低限必要な物意外、ぜんぶ。
パソコンの中のファイルも整理した。溜めに溜めたエロ動画も一切捨てたし、百GB単位であった画像もどうせ見ないやと思って全削除。
今あるのは、仕事に必要なソフトとファイルだけ。ブクマもなくなって、Googleリーダーでの巡回サイトも減りに減った。
そうやって煩わしいものを全部捨てていけば、後に残るのは自分にとって本当に必要なものだけだと思った。
で、実際、そうだったんだろうな。
本当にすることがない。
こうなって初めて、心からしたいと思えることが自分には何もないことに気付いた。
だからと言って、何か新しく物を買いたそうとも思わない。
物を捨てたことも別に後悔しているわけじゃない。
朝起きて、ジョギングして、それから仕事のない日は終日散歩。雨の日は本当に家で椅子に座ってるだけ。
大好きな子供と一緒に居られるし
いろんな料理に挑戦することもできる。
旦那と笑顔で会話ができる。
本当は楽しいことだと思ってた。
でも専業主婦は損かもしれんね。
コツコツやりくりしても認めてはもらえないし、
旦那をないがしろにしてるわけでもないし
働きに出ようかと思ったこともあったけど
「家の事、子供の事それなりにやりくりできるなら出ても良いよ」
習い事とか考えたらやっぱり無理だった・・・。
まぁ十数年家に居たら外にでるのも怖い(これが正直本音
疲れてるのは知ってるし手伝って欲しいわけじゃないよ。
本当は分担してほしい。
思ったように育たなかった息子や娘を貶さないで欲しい。
「オマエは働いてないからちゃんとできるだろ?」
専業主婦は、損かもね・・・。
本当は家族四人仲良く楽しくいたいだけなのに
「だってヒマでしょ?」
何気ない言葉で傷つけられる。
その人を、ひとまずAとしておこう。女性だ。彼女は悪い人間ではないのだが、なにをやらせても水準に達しない人間だった。というより、現実は、この表現でもなまぬるい。
2つばかり、具体例を出す。「名前さえ書けば合格させてもらえる、と評判の、偏差値30台、三流以下の短大を、3個ばかり不合格になる」「バイトを3件連続、2日でクビ(実質1日しか働いていない。2日目に行くと、「あなたはもう来なくていい」といわれたらしい)」こういうかんじに、なにをやらせても社会に適応できないタイプの人間である。
そこまでは、しかたがないと思う。一種の障害として受け入れるしかない(邪推でしかないけど、実際、障害なんでしょう。その手の判断はもらってないらしいけど、どちらかといえば、その手の相談を親サイドが功名に避けた節が見られる)。社会のふところは狭いから是認されるまで厖大な時間がかかるだろうけど、それは乗り越えるしかない現実だと、正面から見据えるしかない。
ところが、彼女の親は、「Aがなにをやってもできない」人間であることを認められなかった。なにか才能があるのだと信じた。彼女に様々な「習い事」をさせた。Aは親に反抗するなんて思いもよらない人間だったので(思春期がまったく反抗をしめさない。この時点で、ほんとうおかしいと思う)辛抱強くすべてにトライした。
彼女自身も信じたかったんだろう。なにかひとつぐらい、できるはずだと。
けれど、Aはなにひとつ結果を残せなかった。ほんとうに、なにひとつ。あるひとつの世界での平均にとどくことすらできなかった。料理教室に通ったのに、自分の食事も作れるようになれなかった。
ここでの一番の問題は、彼女が(そして、彼女を管理する親が)「ある何かができないと感じた途端、すぐにそれを抛棄、次の『習い事』に乗り換えた」ことではないか。
つまり、彼女の親は、それさえあれば一発逆転できる、宝くじの一等賞のような才能がいつか我が子を救ってくれるという幻想から抜け出せなかった。それを追い求めすぎるあまり、我が子に、腰を据えて取り組むことを教えなかった。
料理教室の問題だって、そう。「自分の食事も作れるようになれなかった」じゃねえよ。
それを当面の目標として設定し、完遂までは、なにがなんでもしぶとく食い付いていくべきだったのではないか。どれだけ時間を掛けてもいいから、なにかを完成させた、という達成感を教えるほうが先決だったんじゃなかろうか。
努力もせずある日突然ひらける才能なんて、所詮は幻想だ。今更声を大にするまでもないリアル。が、
そうして、Aは20歳を迎える。習い事だけが、増えていく。趣味ではなく、好きでやってるのではなく、親に言われたからひとまず手を染めてみた、という「習い事」の数だけを積み重ねる。
それが、Aの自分探しだ。
しかたがない。
僕は頂点に立てなかった。
歯車として、生きている。
無価値な、代替品だ。
僕は生まれて以来習い事も嫌がり、進んで吸収したのは鉄道の名前という大変残念な歯車だ。
これに価値はない。なぜならこれはニワカでも相当に対応できるからだ。体得に時間を要さない。
僕の代りは1000万人を下らないだろう。
その程度の価値ということだ。
http://anond.hatelabo.jp/20110328153900
僕らの屍の上に経って、エベレストより高くに上り詰める資格がある。
途中でやめるような凡人は、所詮代替品。
http://anond.hatelabo.jp/20110328154153
親の引いた歯車へのレール一直線で、周りが僕含めてその程度のボンクラしかいないということさ。
底辺の引くレールは底辺への道。
http://anond.hatelabo.jp/20110328155032
お前の友人の価値観はよくわからないが、今なら「津波に飲まれて死んだ人もいるのに甘ったれた口利いてんじゃねえ」ぐらいの罵声が飛んで来ることぐらいは容易に想像がつく。
当たり前のように百万以上する車を乗り回し、結婚式には三百万もかけ、子供には習い事や私立の学校に通わせ、休日には外食に行き、毎月数万も服を買い、エアコンは付けっぱなしにし、ミネラルウォーターを飲み、携帯代に1万も払い、30インチ以上あるテレビを買って、おまけに毎月10万ぐらい自宅購入にローンを組む。これが当たり前らしい。
新聞を読んでいると気持ちが暗くなる。日本はこれから経済的に悪くなるばかりだ。それにも関わらず、高度経済成長の価値観を引きずり、多くを望むが故に不幸になってる人が多いように感じる。
当たり前のように百万以上する車を乗り回し、結婚式には三百万もかけ、子供には習い事や私立の学校に通わせ、休日には外食に行き、毎月数万も服を買い、エアコンは付けっぱなしにし、ミネラルウォーターを飲み、携帯代に1万も払い、30インチ以上あるテレビを買って、おまけに毎月10万ぐらい自宅購入にローンを組む。これが当たり前らしい。
それを維持するために、毎日夜の22時まで働く。どんなにツラくても妻子やローンがあるから辞めることができない。バブルのころよりも人員が減り、仕事のキツさは倍増したのにもかかわらず、給料は据え置き、どころか下がることすらある。これじゃ奴隷だ。こんなに頑張らなきゃ「当たり前」は手に入らない。もう、以前のように働いただけ発展が望める社会じゃないんだよ。
もし「当たり前」の基準を下げて、もっと慎ましやかに生活すれば、こんなに働かなくてもいいんじゃないか? もっと自由になれるんじゃないか? そう思い私は某大手製造業の技術者の職を捨てた。今は週に2~3日だけ働いて10万で暮らしている。
車を手放し、2万/月の家に住み、しまむらで買った服を着て、自炊して食費も1.5万/月にしている。でも、貯金もできている。空いた時間を本を読んだり、将来のために勉強に当てたりしている。自主的にやっているから楽しい。
「そんな生活で惨めになりませんか?」と言われるが、会社に勤めて多くのお金をもらうのは、結局、見栄のためなの?と逆に問いたくなる。
「結婚しなくていいんですか?」と言われるが、逆に何で結婚しなくちゃいけないの?と問いたい。
「お金がないと友達は減りませんか?」と言われるが、私が貧乏になっても、(苦笑いをすることはあるが)親しい連中は私のもとを離れては行っていない。多分、もともと贅沢を共にするような付き合いをしていなかったからだろうと思う。
私はこれでいい、と今は思える。
受験シーズンだなーとか思い出したから少し自分の大学受験のときのことを。
正直早稲田は確実に落ちると思ってて、マーチ辺りに入れたら御の字だと思ってたら合格した。
入院してたおじいちゃんに大学に合格したことを伝えたら、涙を流してくれた。
11月に脳梗塞?で倒れて、体の半分が動かなくなって声も出なくなってしまった。
声にならない声で、顔の前で4を表した手を出しながら「4年制か」と言っていた。
というのもうちのおじいちゃんは小卒。
おじいちゃんは5人兄弟の下から2番目で、小学校を卒業したら働きに出た。
小卒で働きに出るといっても、住み込みで住んでた部屋はとても汚くて、畳の上で寝たら痒くてたまらなくなるそんな部屋だった。
ちなみに軍隊ではお偉いさんのカバン持ちみたいなとこで体より頭を使っていたとか。
小卒だったけど頭は切れたおじいちゃんだった。
それから商売を始めた。
今でもこの商売を続けていて、うちの家族は生活している。
でも色んな人と話してる中で学歴を気にするようになった。
「小卒ということで悔しい思いをしたことはいっぱいあったと思う」と母親がいつだか話してくれた。
そんな悔しい経験があったからか、教育にはお金をかけてくれた。
自分の子どもは四年制大学には入れなかったけど、孫の俺らにも同じようにかけてくれた。
塾とか習い事とかは頼めば行かせてくれた。
(自営業から引退してなかったからうちの家計はある意味おじいちゃんに握られていたのね。)
そんで俺の話になるんだけど、俺は4人兄弟の末っ子ってこともあり一番可愛がってもらった。
高校受験で地域のトップ校に入れたことを言ったらおじいちゃんはちょっと誇らしそうだった姿は印象に残ってる。
そして大学受験。
そんな経緯があっての、おじいちゃんの涙。
おじいちゃんは俺が大学に入ってほどなくして息を引き取った。
勉強したくてもできなかったこと、それで悔しい思いをしていたこと。
勉強することで人を喜ばすことも出来るんだと思った。
兄弟4人、奨学金をもらうことなく4年制の大学を卒業出来そうなのはおじいちゃんのおかげです。
俺も子供に対して、したいと思ったことをさせてあげられるようになりたいと素直に思った。
駄文でスマソ